2022/7/10, Sun.

 (……)「旺盛な詩人の手にかかれば多数と単独は区別なく入れ替え可能になる」とボードレールは書いていた。

自らの孤独に棲まうことができない者は、ひしめく群集のなかで独りになることもできな(end342)い。詩人は彼自身にも他人にもなることができるという類い稀な特権を享受している……肉体を求めてさまようあれらの霊魂のように、彼はどんな者の人格にも好きに入りこむことができる。ただ彼にとってのみ、すべてが空席なのだ。

 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、342~343; 第十二章「パリ――舗道の植物採集家たち」)





 (……)さんのブログより。七月七日。

 二項対立はつねに非対称的に他者を排除していて、何らかの二項対立が背後にある決断をすることはつねに他者を傷つけることになっているのではないか、という意識を持つと、何もできなくなってしまうかもしれません。しばしばそういうものとして、つまり行動不能に陥らせるものであるかのようにデリダレヴィナスの思想を捉える人がいます。
 ここは僕の解釈になりますが、彼らの思想は、「そもそも人間は何も言われなくたってまず行動しますよね」というのを暗黙の前提にしているのだと捉えた方がよいと思います。人間は生きていく以上、広い意味で暴力的であらざるをえないし、純粋に非暴力的に生きることは不可能であるということは、言わずもがなの前提なのです。だからこそ、ここが誤解を招くところだと思うのですが、この言わずもがなの前提の上で、そこにいかに他者の倫理を織り込んでいくかということが問題になっているのです。
 しかもその織り込みにも限度がある。何かひとつイベントを企画するとして、誰もが満足して何も批判されないようなものなんてたぶんできないでしょう。時間的にも物資的にも制約があって、有限なわけですから。にもかかわらず、できるだけのことは考えるし、もし批判があったらそれはそれで対応する。
 ですからもうひとつのポイントは、この立場から言うと、人が何かを決断したり行ったりしているとき、こういう他者への配慮が足りないという批判を起こすことはつねに可能だということです。その意味で言うと、言葉は悪いですが、ひとつの決断をデリダ的・レヴィナス的観点から「潰そう」とすることはいつでも任意に可能なんです。
 逆に言うと、人が何らかの決断をせざるをえないということは「赦す」しかないのです。決断の許諾とそれが排除しているものへの批判は、仕事をし、社会を動かしていかざるをえないという現実性においてバランスを考えるしかない。そしてそのバランスをどうするかに原理的な解決法はないのです。ケース・バイ・ケースで考えるしかない。
 人は決断せざるをえません。先のツイートのケースでは、「大人は責任をもって決断するのだ」ということがある種の強さのように言われていました。それを言うなら、未練込みでの決断という倫理性を帯びた決断をできる者こそが本当の「大人」だということになるでしょう。
(千葉雅也『現代思想入門』)

     *

 (……)(……)さんはいまどきの中国ではかなりめずらしい四人姉妹。急ピッチで進行する少子高齢化にアップアップしている中国であるが、子どもは三人までという産児制限はいまだに存在しているので、両親は政府に罰金を払う必要があったらしい。(……)


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 九時半ごろに覚醒した。たしょうの汗の感覚。いま、寝るときには窓を閉ざしており、エアコンも消す。あけているとそとの車のおとがはいってきて起きてしまうとおもわれるからだ。輸送関係のものなのかそれとも工事関連車両とかなのか、おおきなトラックかなにかが通っているとおもわれる音はいちにちのうちでなんどか聞かれて、それはけっこうさわがしい。じぶんの部屋の窓は西で、建物は角にある。窓から見て右側が縦に走った車道になっており、とくにメインの道路ともおもえないのだが車のとおりはけっこうある。窓のすぐした、アパートのまえを横に走る路地を車がとおることはあまりない。一方通行で右の車道からははいれないようになっており、左方から抜けるしかゆるされておらず、このへんの路地に車ではいるのは付近の住民しかいないからだろう。
 臥位のまま深呼吸をしてからだをセットアップする。部屋の西南の角、すなわち横になったあたまのすぐうしろあたりには換気口なのか、そとにつうじているらしい穴があり、横になっているあいだにそこから微風がはいってくるとともに窓のそとでは風が駆けるひびきがあったので、きょうは風のつよい日だと聞きつつ、いまはちょっと涼しいからいいけれど、冬になるとここから空気がはいってくるんじゃ寒いなとおもったところ、円型カバーの中央にあるつまみを回すことでカメラのシャッターのように閉ざすことができた。深呼吸をしつつこめかみや頭蓋や腹、背面や腰のあたりを揉んだり、首を左右に伸ばしたり。ここ数日起床時に深呼吸を欠かさずやるようになっており、日中も息を吐きながら打鍵したりと呼吸を深くしているので、からだの感覚は格段に軽く、よくほぐれていてやる気も出る。
 床を離れたのは一〇時一三分。洗面所に行って洗顔し、いつもどおり椅子について水を飲んだ。消毒スプレーとティッシュでパソコンを拭き、電源をつけてウェブもちょっと見る。それから布団のうえにもどって書見。枕はつかわずに二つ折りにした座布団にあたまを乗せており、さらに腰のしたあたりにもういちまいを置いて背面をたすけている。それなしで直接敷布団に背を下ろすと、薄っぺらい安物なので感触が硬く、なんだか背中が痛くなりそうな気がするからだ。昨晩にブコウスキー書簡集を読み終えて、(……)図書館で借りてきたのはあと『ベアト・ブレヒビュール詩集』だが、きょうはそれではなくて、ウォルト・ホイットマン/杉木喬・鍋島能弘 [のりひろ] ・酒本雅之訳『草の葉 上』を読みはじめた。毎週月曜日にやっている(……)くんらとの通話で読むことになったため。ひとつにはエマソンの英文をその場で音読しながら意味を確認していき、もうひとつにはホイットマンの詩をおのおのえらんで訳すということになった。(……) 一八五五年に出された初版の序文がまずさいしょにあるのだが、これがひじょうに雄々しく壮大でロマン的な、なかなかすばらしい文章であり、書抜きたいとおもう段落がつぎつぎに出てくる。詩人とはこういう存在であるとか、とりわけアメリカのあたらしい詩人はこういうものだ、とかを語っているのだが、熱がこもっており、ひびくところがあって、こちらも情熱をかきたてられるようなきもちになる。
 序文を読み終え、さいしょの詩のひとつふたつくらいまで読んで切りとした。序文が終わって詩篇がはじまるそのまえに置かれている宣言みたいな署名もかっこうよい。詩篇ははじめに「「自分自身」をわたしは歌う」というやつがあるのだけれど、これもすでにかっこうよくて、じぶんはこれを訳そうかなという気になっている。
 一一時四〇分くらいで立ち上がり、また水を飲んだりトイレに行って腹のなかから糞をひり出して捨てたり、ウェブをちょっと見たりすると、正午直前から瞑想。ここでもはじめにしばらく、たぶん五分くらいかとおもうが深呼吸をつづけ、深呼吸というか苦しくない範囲で吐けるところまで息を吐き切るということなのだけれど、そうしてからだをやわらげたあとに静止にはいった。まいにち日記を書き、記録したいことを記録し、なおかつそこからさらにべつの文をつくる生活にしなければなとあらためておもう。作品といえるたぐいのものをつくらなければ。だんだんとそちらの方向にむかっている感じはあるが。
 一二時半まえで切ったのはエアコンをつけていなかったので肌が暑く、汗の感覚がわずらわしくて集中がつづかなかったためである。冷房を入れ、食事にすることに。キャベツ・キュウリ・トマトを切って大皿に配置し、マヨネーズとドレッシングをかけ、キャベツのうえにはベーコンを乗せた。ほか、冷凍のハンバーグとメンチカツというわけで、昨夜とおなじ、豆腐が抜けただけである。バリエーションがない。じぶんは食事にかんしては相当に保守的というか、食事にかぎらないかもしれないが、というかよくかんがえたらまいにち読んで書いてなのだから生の根幹がそもそもそうだが、食べ物もまいにちおなじで嫌にならないタイプのようだ。しかしそろそろ煮込みうどんが食いたいが。フライパンと鍋を調達してこなければならないのだがめんどうくさい。調理をはじめるとなるとほかにも準備は入り用で、まず調理台としてつかえる折りたたみ式簡易テーブルのたぐいが必要だし、生ゴミの保存をするためのポリバケツかなにかも支度して、生ゴミの管理システムも構築しなければならない。いま出る生ゴミはほぼキャベツの芯だけで、その他トマトのヘタとかキュウリの両端をわずかに切り落とした部分とかそういうのもあるが、そのくらいのこまかなゴミはラップにつつんで燃えるゴミのゴミ箱に入れている。キャベツの芯はおおきめなので、これももともとそれにつつんで冷蔵してあったラップをもちい、芯だけになったものをつつんでひきつづき冷蔵庫に入れておき、ゴミの日の前夜に燃えるゴミと合流させて出しておく、という方法を取っている。朝八時までに起きられないので夜に出しているが、生ゴミのにおいにつられてカラスとかが来ないか心配ではある。ラップで密閉しているのでだいじょうぶだとおもいたいが。
 きょうも洗濯をしてしまうことに。きのう着た肌着とタオルくらいしかないので、しょうじきそれだけで水をたくさんつかって洗濯するのはもったいないのだが、なんか濡れたり汚れたりしているものをニトリのビニール袋に入れたまま放置しておくのがちょっとなんかなあという感じがあって、もう洗ってしまうことにした。手洗いしたほうが水はすくなく済むだろうが、それはそれでたいへんなので洗濯機にたよってしまう。じぶんは意外と洗濯好きなのかもしれない。母親が、まいにち洗濯したいよ、なんでもどんどん洗いたいと言って、じぶんのことをアライグマだとたとえていたが、その血を引いているのかもしれない。食事のあいまに洗濯機を稼働させはじめ、食後は流しに食器類を置いておき、洗濯が終わるまでさきほど読んだ『草の葉』から書抜くべき箇所をノートに記していた。そうして終わるとすぐ干す。昨晩シャワーを浴びたときにつかったバスタオルは洗っておらず、それもすでにそとに出しておいた。湯を浴びたあとフェイスタオルでからだをよく拭き、ある程度水気を取ってからバスタオルをつかうので、あまり濡れず、一枚につき二回ずつつかえるだろうとおもっている。いま二枚しかないので、そうしないともちづらいという事情もある。そのほかフェイスタオル二枚とパンツは集合ハンガーにつけ、あと真っ黒な肌着のシャツだけ。したがって物干し棒に吊るされたハンガーは三つのみである。バスタオルを吊るすと即座に風によって横にながされ、下方がおおきくもちあげられて、ハンガーの掛け手はピンチで棒をはさんだそのなかに閉じこめられているので逃れることはできず、すべったりはしないが、ハンガーが斜めになっているその角度に風のちからのおおきさをみる。ばあいによっちゃ洗濯ばさみが取れてハンガーは飛ばないとしても洗濯物じたいが飛んでしまわないかとおもうのだが、いままでそうなったことはない。座布団も二枚出しておいた。けっこう汗を吸っているとおもうので。ほんとうはこれもカバーを洗ったほうがよいんだろうが。
 そのあと流しで洗い物。皿やまな板などをかたづけたあと、(……)くんが置いていってくれた金束子で円筒型の白い物受けや網状カバーや、シンクの内側をこすり洗った。ステンレスをこするあのシャバシャバいうおとと、そのときに立つ金臭さを間近で受け取っていると、背とか首のあたりがゾクゾクする。円筒形の物受けは二部分に分かれており、上部三分の二くらいは側面に、いわばブラインド的に細長い穴がいくつもならんであいていてそこから水が逃れるようになっている。排水溝にはめたときはこちらがうえになる。下部は逆側からも口があいてくり抜かれたようになっており、このくぼみはなんのためにあるのかよくわからないのだがここには穴がなくて水をそそげるので、シンクをこすったあとに流すさいなどに活用できる。先日もいくらかこすったが、ブラインド的な穴の部分にけっこう汚れが溜まっているので今回それをさらにきれいにした。洗剤(「キュキュット」)を垂らし、金束子をつっこんでグリグリやったり上下左右にうごかしたりする。わりときれいになった。洗い物をするたびにシンク内もついでにこうして掃除する習慣にすればきれいに保てる。
 そのあと、さきほどスマートフォンにインストールしておいたLINEを設定することに。LINEはいまWINDOWSのほうのPCでつかっており、それでちょうどよい距離感なのだが、ひとつ困るのは、通話をしているさいちゅうにLINEに貼られたURLなどひらくと重くなって支障が出るということで、だからChromebookにもLINEを入れようとはまえまえからおもっていたのだ。ところがChromebookにインストールすると電話番号の登録が必要とかで、それはPC版からはできないようだったので、意気が削がれてずっと放置していたのだが、ここでようやく着手した。こまかいことは忘れたがなんだったかな、まずスマートフォンのほうで番号をつかって登録したのだったか。ここでトーク内容を復元しますか? という段があって、Google Driveにバックアップしていないとアカウントを引き継いでもトーク内容が消えてしまうという。それでPC版のほうでやろうとしたところが、PC版にその機能はない。それでしかたないので復元せずにすすめたところ、スマートフォン版LINEは友だちやグループの登録がなされているだけで過去の発言などはなにもないまっさらな状態ではじまったのだが、PC版にいままでの履歴はのこっているので問題ない。それでChromebookのほうもログインしてみると、スマートフォン版LINEのほうに、おなじアカウントにふたつのデバイスでログインしたのでこちらは削除しますみたいな表示が出て、どうもLINEはひとつのアカウントにつきスマートフォン一台だけと決められているらしい。Chromebookのほうのアプリはスマートフォン版のLINEだということだ。それでChromebookのほうにうつったのだけれど、今年がはじまったときに(……)さんにスマートフォンに変えましたという連絡をおくったさい、LINEをもしスマホに入れることがあったら登録しといてくれといわれていたことをおもいだして、(……)さんのアカウントを検索しようとしたところが、それは年齢確認をしないとできないという。Chromebookから年齢確認をしようとしてもエラーになってしまってできない。それでまたスマートフォンのほうで登録し直し、そこからauのサイトにつないでという手間をかけ、年齢確認がなされたあと、またChromebookのほうにアカウントをもどしてスマホ版は用済みとし、そうしてアカウント検索をしたがけっきょく出てこなかったので、まあいいかと落とした。そういったことに時間をついやしてしまい、区切りがついたときにはもう二時半ごろになっていた。
 ところでいま(午後八時)検索してみたら、ChromebookではGoogle Playストアから落とすLINEアプリではなくて、ブラウザ拡張版をつかえるという情報が出てきて、これだとスマホのアプリが失効することもないというので、さいしょからそちらにしておけばよかったのだ。そんなのがあるとはおもわなかった。それでいまセットアップしておいたが、こちらならWINDOWSのPC版LINEの履歴もそのまま引き継がれたし、WINDOWSChromebookで同時にひらくこともできるのでよい。スマートフォンに入れたLINEは不要ではあるのだけれど、なんだかんだ外出先でつかったりするかもしれないのでそのままにしておく。というかあれだ、PC版LINEで投稿しようとすると、本人確認が必要ですといわれて、スマートフォンのほうで認証するようなので、入れたままにしておかないと駄目だ。この点ではかえってめんどうくさいことになってしまった。あと、スマホ版のLINEにはどうやらログアウト機能がないらしい。あたまがおかしい。デジタルデトックスをゆるせ。しかしそもそももともとスマホ用につくられたアプリなわけで、そちらがメインでありPC版はサブというあつかいだから、使用頻度の低いであろうサブのほうは使うときにいちいちログインしないといけないよ、ということになっているのだろう。そのログイン・ログアウトできるということがじぶんにとっては重要なのだ。スマートフォン版やChromebookに入れたほうでは通知を切っておいた。これで実質ログアウトとおなじことだろう。Chromebookのブラウザ拡張版はPC版とおなじなのでログインしなければならず、よろしい。
 そのあとはきょうは音読をしたり日記を書いたりするのではなくて、書抜きをおこなった。レベッカ・ソルニットの『ウォークス』。BGMにさいしょAmazon Musicのホームのページに出てきたWoodlouseとかいうやつをながしてみて、Woodlouseというのは検索してみるとダンゴムシのことらしいのだが、この音楽にかんしてはなにも情報が出てこないので、なんかアマチュアがつくって配布しているようなやつなのだろうか。打ち込みのたぐいなのだがとくにおもしろくはなかった。ただ自動再生機能でそのあとながされたやつはちょっとよくて、これはLumpfinder『Wrong』というアルバムであり、これもなんの情報も出てこなかったのだけれど、こういう音楽をなんというのかいまだによくわかっていないのだがエレクトロニカというのか、それ系の、ちょっとザラザラしたりヒリヒリするようなおとをつかいつつも甘めなメロディや幻想的なテクスチャーも確保されているやつで、なんの情報もないにしてはけっこう好きだった。そのあとは山中千尋の『After Hours』。よい。正統派。いかにも古き良き、という感じの、オーソドックスにスウィンギーな種類の演奏だが、たんじゅんにのれてきもちがよい。山本千尋のピアノも、正統派で弾いているけれど通り一遍の退屈さにおちいってはおらず、ちからと熱を帯びながらけっこうガシガシいくときがあって、とくに一六分をながめにつらねるときとかあざやかだし、とにかくのれる。ところどころにちょっとだけ色が違う音使いをしてみたりとか、バースチェンジのさいごの良いタイミングで複音でメロディをかなでたりとか、こまかな技も利いている。ただそういう細部がどうこうというよりも、全体的に調子良くのってながれている感覚があり、どんどん行くときの感じとかはサックスでいえばJohnny Griffinにちかいようなリズムを感じた。あの種の、フレーズをこまかく伸ばしながらたたみかけていく感じというか。くわえて、ピアノソロを聞くにライブ感をおぼえた、というのは、ジャズは主に即興だからスタジオでやっていてもライブ的といえばそうなのかもしれないが、へんなはなしピアノソロが終わったあとに、あたまのなかでしぜんと拍手が聞こえてきて、なんかライブっぽい雰囲気あるなとおもったのだった。ソロ全体をとおして充実しているいきおいと、おりおりのあざやかさと、あとピアノのおとがすこし大きめになっている録音がそれに寄与したのかもしれない。ギターはAvi Rothbardというひとで(このアルバムはピアノとギターとベースのトリオである)、discogsをみてみるとWayne Escofferyとやったりしているのだが、この『After Hours』だとそんなにキレていないというか、バッキングもソロも問題はないのだけれど、すくなくともさいしょの三曲くらいではすごく耳を惹かれる部分はなく、トーンが固くて単音を切りながら弾くときにだいぶ詰まった音になるのとか、ときおりリズムがわずかによれたように聞こえるのとか、録音のせいもあってかこまかいフレーズが聞こえづらいこととかがあってどうも地味に感じられた。四曲目の"You'd Be So Nice To Come Home To"で担当している一発目のソロはよく思え、それ以降はけっこう良い感じに聞こえてきたが。ただ、どこかでピアノとギターがわりとかぶさって弾くような演奏があったのだけれど、そうするとピアノのほうがあきらかに音がおおきくてギターが聞こえづらくやや埋もれてしまうようで、これはたぶん、あくまで山中千尋を売るという、山中千尋が主役なのだというプロデュースの意図ではないか。その後、『After Hours 2』のほうもながして、こちらもおなじ編成で(ベースは脇義典だけだったのが、『2』では中村恭士 [やすし] も参加している)主にスタンダードをとりあげたアルバムで、これもよいし山中千尋は1よりもさらにガシガシ弾いている場面がおおいのだけれど、ただなんかここではかえってちょっと弾きすぎにおもえるときがあり、1のようなライブ感もおぼえず、めちゃくちゃのれてきもちがよいとはならなかった。Johnny Griffinを連想したのはもしかするとこちらのアルバムだったかもしれない。しかしよいアルバムであることはまちがいない。くりかえし聞けるものではある。ほんとうは書抜きの片手間に聞くだけでは駄目なのだが。
 五時ごろに洗濯物をしまって整理。いまさらだがきょうの天気は晴れで、陽も相応にとおっており、書抜きをはじめるまえに炭酸が飲みたくなって部屋を抜け、自販機でクラフトコーラと三ツ矢サイダーを買ったときがあったのだが、通りや自販機脇のゴミ捨てスペースには乱れのない日なたが生まれていて漬けられるよう、片手でひさしをつくって見上げれば太陽は向かいの保育園の建物上空で雲と少々たわむれながらも純白にかがやいて瞳を襲ってきた。五時ごろにはしかし陽射しはそこまでの威力はなくなっており、西陽の暖色も明確に見えなかった。とはいえ空は青く、曇天が敷かれたわけではなく、ただ保育園のビルのうえには練ったプラチナを塗ったみたいな、ちょっとつやをはらんだ灰白銀の雲が炎のように融体的に群れていた。
 からだがこごったので五時過ぎでいったん寝床に休んだのだが、すぐにまた起き上がってストレッチをし、そのあとも書抜きをつづけた。『ウォークス』は七箇所筆写。これでまいにちの記事冒頭にかかげる引用がだいぶ稼げた。あとは図書館で借りている本もさっさとやらなければならない。七時くらいからきょうの日記を書き出したおぼえがあるが、ここまで来るといまもう九時を過ぎていてどうしろというのか? きのうの記事もあるのだぞ。とりあえず飯を食うか。


―――


 飯を食べながら(……)さんのブログ。最新の七月九日。安倍晋三の死亡にたいする中国の市井の反応について。末世の感がつよい。

 シャワーを浴びる。あがったところでTwitterをのぞく。ROM専アカウントでは中国関係者も数人フォローしているのだが、安倍晋三死亡のニュースを受けて微博やモーメンツのいたるところでお祝いコメントが見られたり、ミルクティー店やレストランで大々的に安倍晋三の死を祝う横断幕を掲示して値引きだの一杯飲んだらもう一杯無料のサービスを宣伝していたりするさまが紹介されており、なかなかの地獄絵図といった感じ。こちらが所属しているのはあくまでも中国の日本語学習者コミュニティなのでこうしたドン引き案件に出会すこともないわけだが、たとえば習近平が暗殺されたとして、その場合ヤフコメだの5ちゃんねるだのTwitterネトウヨ界隈だのはやはり似たような反応を示すだろうことが予想されるわけだが、しかしさすがに飲食店だのカフェだのがわざわざ横断幕を掲げてまで記念日サービスをすることはないと思うし、そういうことが仮にあったとしたら相当炎上するだろうなと思う(……)


 あと、「作業の途中、(……)さんから微信。モーメンツに彼女とデートしている写真を投稿していたので、いつものように投稿内容とは無関係に「髪の毛を自慢するな!アホ!」という荒らしコメントを残しておいたのだが」というところでクソ笑ってしまった。なぜかはまってしまい、三〇秒くらいクスクスと声をもらしながら笑いつづけていた。


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 一首: 「陰鬱な山高帽の夢のなか永遠 [とわ] につづくよ鬼ごっこだけが」


―――


 四首:

 終末の山手線に罠をかけあなたの寝顔をさらい出したい

 伸びきったうどんのようにちぎれてくこの時代とは心中しません

 窓のない部屋でシャワーを浴びるうち忘れちまうよ宇宙のことを

 麗しの交通標識君はまだ故郷の海をまもっているか


―――


 夕食を取るまえに音楽を聞こうとおもい、アンプにつないでいたイヤフォンをヘッドフォンにつけかえて数曲聞いた。一九六一年六月二五日のBill Evans Trioの"All of You (take 1)"に"Alice In Wonderland (take 1)"、それに山中千尋の『After Hours』から"There Will Never Be Another You"と"All The Things You Are"。"All of You"を聞いてあらためておもったのはやはりLaFaroがおかしいということで、こんなふうにうごけるのか、と。EvansとMotianだけならいちおう尋常のピアノトリオの範疇で聞けるとおもうのだけれど、LaFaroがそこにはいるとわりと意味のわからないことになる。とくにフォービートに移行するよりまえがすごくて、一拍ずつ弾かなくてよいからそれだけ自由度が高く、ここでのLaFaroには、こういう形式のなかでEvansがこんなにかっちり弾いているのにたいしてこんなふうにうごけるのかと、どうしても理解からはみ出たものを感じてしまう(Evansがかっちり弾いているからこそそうできるのではあるのだろうが)。LaFaroと似たようなことはもちろん現代のベーシストだったらおおくのひとができるはずである。けれど、そういう自由度の高いほかの演奏を聞いていても、LaFaroほどにすごい、LaFaroほどに意味のわからないことをやっていると感じたことはいちどもない。それがなぜなのかわからない。フォービートに移行してからも序盤はなりきらず、フォービートをやるふりをしているみたいなところがあり、あいまにアルペジオみたいな縦方向の反復フレーズを入れたりもして、これはかれの得意技で"Gloria's Step"なんかでもやっていたとおもうが、LaFaroのあの太いトーンでやられると迫力があり、すでにフォービートにうつったリズムのなかでこれをやるってどういうことなの? とおもう。そのあとじきに一拍一音でやりだして、ベースソロまでは尋常にやっていたが。この曲だとMotianのドラムソロもほかにあまりない、かなり特異なことをやっている気がするのだけれど、その内実はわからない。
 "Alice In Wonderland (take 1)"はこのVillage Vanguardの音源のなかでももしかするともっとも拡散的な演奏なのではないかとまえからおもっている。この日のBill Evans Trioの演奏から受ける印象として、たがいの演奏や存在をうかがっているという気配がまったくなく、三者がそれぞれの方向を向いて自分勝手に好きにやったことがなぜか偶然一致してしまっているように聞こえる、ということを過去になんども記してきた。"Alice In Wonderland (take 1)"はそういうイメージがもっともあらわれるトラックかもしれず、交錯の複雑さと、それにもかかわらず同時に風通しのよさがきわだっているとおもう。イメージで語ることをつづけるならば、今回聞いてみて、たがいのほうを見ていない、向いていないことはまちがいないが、それぞれがひとりきりでじぶんの演奏とのみ向き合っているというのはすこし違うなとおもった。そこに発せられるほか二者の音とその存在を、絶えず感じ、その影響力を受け取っている気配がある(とうぜんのことだが)。ただそれでいて、あえてたがいをうかがい、ことさら和そうとしているようには感じられず、三人とも基本的にはやはり、もっぱらじぶんのほうを向いているように聞こえる。じぶんじしんだけとともに孤独であろうとするのだが、しかし他者の存在がおのずと聞こえてきてしまうのでそれを無視することができず、どうしても孤独になりきることができないというような。そういう三者がそれぞれそこにいるという共存が、結果として不可思議にもこのうえのない調和に結実してしまっている、というイメージ。たがいを見ないかれらが見ているのはそこに生起し、生起しつづける音楽と演奏のほうであり、共存のための基盤としてあるのはもちろん"Alice In Wonderland"という曲、その構成やコード進行である。ジャズというジャンルはだいたいのところ即興によるソロを旨とするものだから、ある意味で楽曲は口実でしかないというところはほかの音楽よりもあるはずで、たとえばスタンダードの進行だけ取ってきてべつのメロディとタイトルにしてしまったりもするわけだ。ビバップなんかはその度合いがかなり大きく、その点で純化された形態なのだろうが、五〇年代六〇年代やそれ以降のジャズも、テーマの提示が終わったあとは、楽曲はおおかれすくなかれ構造と進行に還元され、ある程度まで抽象化されざるをえないだろうとおもう。六一年のBill Evans Trioはその抽象化の度合いがかなりつよいように感じる。度合いというより質、抽象化のしかたの問題なのかもしれないが、それは単純にリハーモナイズするとか、リズムを複雑にするとか、モードをやるだのフレーズをアウトさせるだのといったことではない。このトリオの音使いや色合いは、表面上は、六〇年代のオーソドックスなものの範疇におさまっている。スタンダード曲もスタンダードらしい響きと彩りだし、アウトもなく、アヴァンギャルドには遠く、その後の新主流派特有のあの感じもない。"Alice In Wonderland"は"Alice In Wonderland"という曲の響きを失わず、いじくりまわされることなく、それでいて、その枠組みのなかで、ほかになく高度なことがおこなわれている。全体として出てきているものの天空的な明晰さと、混沌にちかいとすらおもえる複雑さの感触が、まったくおなじひとつのものとして存在してしまっているのが、このトリオのおそろしさである。それは、三人でそろって曲に向かい合っているのではなく、おのおの他者の存在を感じつつもできるかぎりじぶんひとりで曲と向き合い、それぞれの解釈と曲にたいする関係を提出し、それがたまさか接し合い組み合って成り立っているのがこの音楽だからではないか。音楽をかなでるということは、ほんとうはすべてそういうことなのかもしれないが、それがこのうえなく徹底された結果がこれなのではないか。どこでだか典拠を知らないが、サン=テグジュペリは、「愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである」と言ったらしい。Bill Evans Trioの三人はたがいを見つめ合ってはおらず、おなじ方向を見つめてもいない。かれらはてんでにそれぞれの方角を見据えているのだが、その演奏は、地球に沿って線分をひたすら延長していった結果、どこかでそれらの合流する一点が見つかってしまうように、まじわっている。それが愛ではなくて、ともにあることの原理であろう。
 山中千尋についてはもう面倒くさくなったのできもちよく聞いたというくらいで割愛し、飯を食ったあとは前日の日記を書いた。零時半過ぎに投稿。文を書きながらサイダーを飲んでいた。一一時ごろだったとおもうが、燃えるゴミの始末もした。前回出したときにゴミ箱に指定の袋をセットしたつもりでいたのだが、見てみればそんなことはなくゴミ箱に直接ティッシュとか燃えるゴミがはいっていたので、ロール型になっている薄黄色の一〇リットルの袋を収納スペースから取って一枚ちぎり、それにゴミをうつした。冷蔵庫のなかにラップで密閉して保存しておいたキャベツの芯などの生ゴミも、べつの袋に入れて防護を厚くしてから入れ、ティッシュなどのなかに埋めておき、そうして袋を縛る。ゴミ箱の底に散らばっていたこまかな塵のたぐいもちょっと拭いておき、袋を持ってそとへ。建物脇のゴミ捨て場にあるネットのなかに入れておく。ついでにクラフトコーラを一本買った。夜空を見上げてみると雲に覆われたなか、西南のほうにうす白く浮かんだちいさな一角があり、あそこに月があるなとわかるがすがたは見えず、かろうじてのそのあかるみも数秒のうちに隠れがちである。とはいえ見えはしないそのひかりのおかげだろう、空をひろく占める灰白の色はあきらかで、ところどころに膜がうすくなって青の深みが透けているのが、かえってそちらの色のほうが靄であるかのような調子だ。
 一時ごろシャワーを浴びたあとは夜更かし。