2022/7/13, Wed.

 (……)歩くことは祈りにも、性的な結びつきにも、土地と交わることにも、瞑想にもなりうる。そしてデモや蜂起においては言葉を発することとなり、都市をゆく市民の足取りは多くの歴史を記してきた。こうした歩行は政治的・文化的な信念の身体による表明であり、公における表現の形式としてもっとも普遍的なもののひとつだ。これを、共通の動きによって共通の到達点を目指す、行軍 [マーチング] と呼ぶこともあり得たかもしれない。しかし兵士たちの密接行進の足取りは、彼らが絶対的な権威のもとで交換可能な単位となっていることを示すものだ。わたしたちの行進参加者はそんな風に個々のアイデンティティを手放すことはない。むしろわたしたちが示すのは互いに違う存在であることをやめずに共通の地盤に立つ可能性であり、人びとが公の存在となることにほかならない。身体の運動が発話の一形式となるとき、言葉と実践の区別、表象と行為の差は曖昧なものとなる。つまり行進はそれ自体が閾となる可能性を孕み、表象と象徴の圏域へ、そしてときに歴史の圏域へ向かういまひとつの歩行の形式となることができるのだ。
 自分の街を象徴と実践の両方のテリトリーとして熟知している市民。徒歩で集合することができ、その街を歩くことに慣れ親しんでいる者。反乱を起こすことができるのは彼らだけだ。合衆国憲法の修正第一条に、民主主義の要諦として報道・言論・宗教の自由と並んで「市民が平穏に集会する」ことが記されていることを記憶する者は少ない。そのほかの権利は容易に認(end366)識できるとしても、都市計画や自動車依存などがもたらす集会の機会の喪失を把握することは難しく、市民権の問題として捉えられることはほとんどない。しかし公共空間が除かれてしまえば、究極的には公なるものも同じ途をたどる。個人は市民ではなくなり、同じ市民たちと共通の経験や行動をすることができなくなる。市民という地位は他人と何かを共有する感覚に基いているのであり、これは民主主義が他者への信頼の上に築かれることと同じ理路による。公共空間はわたしたちが他者と分かちあう空間であり、分け隔ての存在しない領域なのだ。(……)
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、366~367; 第十三章「市民たちの街角――さわぎ、行進、革命」)



  • 「ことば」: 1 - 9
  • 「英語」: 488 - 494, 495 - 500


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二首:

 なにもせずここにただいる目を閉じてことばが来るまできみが来るまで

 離れても戻ってくるのだいにしえのことば遊びが火傷の朝に


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 この日、すなわちきのうはマジでだらけた。日記もめずらしくまったく書かなかったはず。どういうわけかやる気が出なかったのだ。からだの感覚がそこまでひどく濁っていたわけでもないのだが。高田瑞穂『新釈 現代文』はそこそこ読んだ。67からはじめて130くらいまで。しかしその他はまあ洗濯をしたり、ごろごろしながらウェブを見たり、飯を食ったりシャワーを浴びたりで、終日部屋こもりきりだったし、これといった行動も印象もない。こんなことではいけないが、そういう日もある。やる気を出すというのはむずかしい。出そうとおもって出せるものではないし、出ろと命じて出るものでもない。あとそういえば音楽を聞いたのだった。Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』の一枚目、"Gloria's Step"から"All of You"まで。"Alice In Wonderland"は三日前にもきいたわけだがやはりすごくて、どうしたってまったく一体化しているようにはきこえないのだよな。ピアノとベースとドラムがそれぞれの内的統一性をもちながらながれていき、その三本の線が決して溶け合うことなく、ときにふれあったり組み合ったりしながらただおなじばしょにあるだけ、というふうにしかきこえない。トリオなのではなく、ソロが三つながれているような。独立性がつよい。なのだけれど、とうぜんそれは集団的インプロヴィゼーションのように枠組みを排してみんなで一斉におもいおもいにやってそこに偶然生まれるものを引き寄せるというような、もっとばらばらに聞こえるような自由さとはちがう。楽曲とコード進行という枠はたしかにさだめられているので。ただ、大枠があるそのなかで、じっさいにやっていることはその後のフリー的な演奏とけっこうちかいような気がするのだよな。その統一と交雑と混沌の共存感覚がいちばん不思議なところで、このトリオに固有のものだ。共存というか、それらがおなじひとつのものとしてありながら、三者が一体化するのではなくて、独立的に調和している。