2022/7/14, Thu.

 こうした相互にからみあう宗教的祝祭と広場での大規模な集会、および大人数による行進は、フランス革命が勃発から二百周年を迎えた年にふたたび出現した。この変革の年の幕を開けたのは、北京の天安門広場で学生の民主化運動を文字通り粉砕する政府軍の戦車だった。しかしヨーロッパの共産党政権はおしなべて暴力による制圧への欲求も自信も失っていた。ガンジーが非暴力主義をひろめる以前に比べれば暴力というもの自体もはるかに扱いが難しくなり、人権思想はますます堅固に確立され、世界の出来事はメディアによって可視化されるようになった。西洋においてはアメリカの公民権運動がその実効性を証明したように、平和主義と非暴力直接行動という戦術が市民的な抵抗運動の共通言語となった。ホブスボウムが指摘するように、街の一角における暴動は大通りにおける行進にほとんどとって代わられたのだ。ひろく東欧でも、反乱の担い手となった者たちは非暴力を彼らのイデオロギーの一部としていることをはっきりと示していた。ポーランドの革命では非暴力の変革がその期待通りに進展した。政治的な外圧と内部交渉をともないつつもゆっくりと進行し、一九八九年六月四日の自由選挙でその頂点を迎えたのだ。そしてミハイル・ゴルバチョフによるソヴィエト連邦解体という英断は、その恩恵をあらゆる革命にもたらした。その一方で歴史を街路でつくり上げたハンガリー東ドイツチェコスロヴァキアでは、さまざまな古都が蝟集する大衆を見事に遇してみせた。
 ティモシー・ガートン・アッシュのルポルタージュによれば、ハンガリーの革命の端緒となったのは一九五六年の動乱の失敗によって処刑されたナジ・イムレの、三十一年後の改葬式だった。その六月十六日には二十万人が集って行進したが、これはそれまでならばただちに実力で介入されていたような出来事だった。反体制派は自らの声と歴史を手に取り戻した昂揚から勢いを増し、十月二十三日には新生のハンガリー共和国〔第三共和国〕が成立するに至った。そして東ドイツがこれに続く。東ドイツでは弾圧が先行し、帰宅中の学生や労働者が東ベルリンで発生した衝突の付近にいたという理由で逮捕されていた。つまり日常的な歩行の自由も犯罪扱いになっていた(夜間の外出禁止や集会の禁止と並び、動乱時や抑圧的な体制下でよく用いられる)。一方でライプツィヒの聖ニコライ教会は以前から月曜の夕方に「平和への祈り」を行なっており、あわせて恒例となっていたカール・マルクス広場での集会の人数は徐々に増えていた。十月二日には一万五千人から二万人が広場に集まり、自発的なデモとしては一九五三年以来最大の規模となった。十月三十日には五十万人近くが行進した。「それ以降、主導権は人びとにあり、党は後手に回った」とアッシュは書いている。十一月四日に百万人が旗や横断幕やプラカードを掲げて東ドイツのアレクサンダー広場に集まり、十一月九日にベルリンの壁は崩壊した。当時現地にいた友人によれば、人びとが集っていたところに「壁が開放された」という誤報が流れ、群集の規模に圧倒された国境警備隊が手を出せずにいる間にそれが現実になったという。十分な数の群集がそこに集まってはたらきかけたことで達成された出来事だったのだ。これもまた、人びとが自らの両脚で刻んだ歴史だった。
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、374~375; 第十三章「市民たちの街角――さわぎ、行進、革命」)





 八時台だかにいちど覚めて、時間を確認してからまた休み、つぎに目覚めてからだをちょっと起こし、机の端にある携帯に手を伸ばして見ると九時五〇分だったので、ここを正式な覚醒とした。まだカーテンをあけず、寝床で息を吐いたり腹やあたまを揉んだり。一〇時一七分に起床した。濃紺色のカーテンをひらくときょうも曇り。気温は低めで涼しいが、洗濯物を乾かすためにドライでエアコンを入れておいた。洗面所に行って顔を洗うとともに用を足し、ついでにきのう流しに放置してしまった洗い物もかたづけて、水を飲むと布団へ。高田瑞穂『新釈 現代文』を読了。解説の石原千秋も言っていたが、ものすごく健康に「近代」を信じている時代の書物という印象。そこには、日本(人)はいまだ日本(人)としての「近代」を確立しておらずそれが今日のわれわれにとっての急務の問題であるという認識もふくまれている。文学の読み方について述べた補論(重版時に付された)にしても、その後の構造主義やいわゆるポストモダンの影すらなく、あきらかにサルトル実存主義の段階にある。なにしろ初版は一九五九年で、また著者は明治末に生まれて大正期にそだった人間である。べつに大正時代に青少年期を送ったからといってみんながみんなそうなるはずもないが、しかし当時の知識青年らに、こんなふうにまっすぐに「近代」を信じさせてしまえたというのは、大正デモクラシーというのはやはりすごいものだったのだろう、たかだか一三年くらいしかないわけだが大正時代というのはかなり特殊な一時期だったのだろうとおもった。そのすごさと特殊さをあまりよく理解していない。
 一一時四〇分ごろ寝床から起き上がって、便所に行ってクソを垂れた。それから瞑想。一一時四七分から。さいしょにちょっと息を吐いてから静止。よい感じである。とはいえきょうは労働があるためか、なんだか起きたときから腹のあたりに緊張がわだかまっているのが感じられ、からだにはそわそわするようないやな感覚がふくまれている。静止をつづけているとからだが落ち着いてたしょうしずかになるが。曇天がつづいていることも寄与しているのかもしれない。あと単純に部屋にこもっていてそとに出ず、モニターを見てばかりいてからだをうごかしていないこともあるだろう。あとふつうに早寝しないから。れいによって脚がしびれてきたので二〇分しか座れなかった。起きたあとに一回、一日の後半に一回で、一日二回は静止する時間を取りたいな。
 食事。キャベツを切り、大根とニンジンをスライスし、ハーフベーコンを乗せて刻みタマネギドレッシングをかける。そのほかパック入りの自家製ナンだけ。ニッポンハムの「もちもちした食感のナーンドッグ」というやつ。これはけっこううまかった。ひとのブログをみながら食べ終えるとロラゼパムを服用しておき、きょうの日記をちょっとだけ書いてから洗い物。席にもどるとさらにここまで書き足して一時をまわったところ。二時四〇分くらいには出なければならない。


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  • 「ことば」: 1 - 9


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 外出前にもういちど瞑想をした。わりとよい感じ。あとロラゼパムを飲むとじっさいやはりからだがおちつくというのはある。腹の感覚とか。それでもしかして、さきほどまでざわつきがあったけれど、意外ときょうは一錠だけで行けるか? とおもいもしたが、いっぽうでやはりもう出るまえにもう一錠飲んでおくべきかなどと迷いもする。ともあれ瞑想は切ってみるとまだ二時以前で、それからワイシャツにアイロン掛け。アイロンというかハンディスチーマーだが、とりつけられている容器に水がもうほぼないようだったのでボタンを押しながらそれを引き抜いて外し、壁際の段ボールのうえの椀のなかに入れてあった注水用の小容器とともに流しへ持っていって、水を補充。そうして台座に置いてコンセントを挿し、スイッチを入れて加熱。スチームボタンがしばらく青く点滅するが、じきにそれがずっと青いままになる。寝床のうえで座布団二枚を台として薄紫のワイシャツをかけた。アイロン台を買わなくともこれでどうにかなりそう。そうして着替え。その他身支度。布団は敷きっぱなしもあれだろうとおもって、たいして効果があるともおもえないが下半身のほう半分くらいを床からもちあげてたたんでおいた。スラックスは黒のもの。月曜日に出勤したときに(……)先生からめちゃくちゃ痩せたと言われ、だいじょうぶですか、会うたびに痩せてる気がするとなんどもいわれたのだが、じっさい、スラックスを履いてみても腰まわりは楽勝で、腹のまえの部分を引っ張ってみればけっこうな隙間が生まれる。ゆび三本は入るのではないか。それでさいきん、たびたびスラックスにワイシャツを入れ直すことがあったのだ。隙間があるので腰からすこししたに落ちてしまうのだ。そういうところをみるとたしかに痩せたらしい。もともと五五キロ強くらいしかないにんげんで、いままで生きてきて六〇キロを超えたのが二〇一八年中に鬱的様態だった時期にオランザピンを飲んで太ったときだけで、だいたいつねに五五から五八のあいだくらいを行き来してきたので、そこからさらに痩せているとなると相当軽いが。しかし腹がちぢまったからといって体重が落ちているとはかぎらない。深呼吸をよくしているから引き締まったのでもあるだろう。
 出るまえにちょっとだけ時間があまったので、また椅子のうえに座って静止した。一〇分程度のみ。そうして出発。降っているので傘をもつ。部屋とアパートを出て傘を差し、左、すなわち南へ。雨降りだが空気はそう暗くもない。パラパラと降りかかるような雨だが粒はそこまでこまかくもなく、といってボタボタいうほどの重みやおおきさもないけれど、ななめに落ちて半端な小気味よさで傘をたたいてくる。道を行くうちにそれも増減しつつ、増のほうにすこしずつかたむくようだった。路地を抜ける角にはちいさな区画で野菜がちょっと育てられている。草のあいまに薄紫色の花がひとつ顔を出していびつなヒトデめいたかたちで口をみせていたのはナスの花ではないか。わたって裏道にはいり、自転車とすれちがって行くあいだ、風はながれるも涼しさにならず、降りもちょっと密になったようだが重りはせず、薔薇の芽に降りかかる春雨をおもわせるような、やわらかくあたたかいような雨だった。
 (……)駅につくと軒の下で傘をたたんでバサバサやり、改札を抜ける。階段をあがって向かいのホームへ移るが、そのあいだやはり緊張がからだに生じはじめたなというのを感じる。ちいさなものではあるが、やはり腹とか喉とかに検知されるのだ。うつるとそのへんのベンチの一席にすわって片腕を脇に乗せ、瞑目。降りはだんだんとつよまるようで、厚みを増したサー……という音響がふたつのホームのあいだにひらいた線路の宙を満たしてあたりに響き、目を閉じてそれを聞いているとここちがよい。電車が来ると立って乗車。扉際へ。発車とともにやはり緊張がちょっと高じて喉をつくようになり、動悸もすこしはやまったが、瞑想をよくしてきてからだがなめらかになっているからその威力は高くない。とはいえいつもどおり無理せずもう一錠飲むことにしようと決め、着くと降り、階段をのぼって人波を縫ってフロアを通り、乗り換えはいちばん端の車両へ。席もいちばん端の区画があいていたのでそこにはいったが、座るとすぐに財布を取り出してヤクを一錠取って口に入れ、持ってきていた水で胃に落とした。そうして携帯とイヤフォンを出し、つないでAmazon MusicFISHMANS。『空中キャンプ』。ながれるとほぼ同時に発車。目を閉じてじっとする。目を閉じてじっとしているととうぜん身体の感覚が見えやすくなるから、緊張の波が如実で、そのうごきと向かい合わねばならず、それがややもたげてくるとすこし苦しかったりけっこうビビったりするのだけれど、かといって目を開けている気にもならない。そのほうがもしかしたらよいのかもしれないが、しかしこれは経験上なんともいえない。どちらにせよ緊張が高まるときは高まるだろう。とはいえこの日はからだがなめらかだし、薬も追加したので向き合いは楽なほうで、静止を解かなければならない瞬間はほぼなかった。苦しさが一定を越えるとやはり停まっていられず、片手を顔のまえあたりにあげるうごきをとってしまう。それで唾液を飲みこんで感覚をリセットし、ついでにいつもマスクにふれて位置をなおしてしまう。あとこの日顕著な特徴だったのは、二錠飲んだにもかかわらずそこまで眠くなったりからだが重くなったりしなかったということだ。とくに後者にかんしてはあきらかだった。前回までの重たるさがぜんぜんなかった。だからといって薬が効いていないわけではない。薬剤の作用にからだが慣れてきたのか、それともこれも瞑想でなめらかになっていたおかげなのか。この時間の一号車はひとはすくなく、後半にはこちらのまわりにだれもいなくなり、いちばんちかくて右方の七人がけにひとりふたりみたいな感じになったので他人のプレッシャーという意味ではかなり楽だった。しかしそこは本質ではない。じぶんのなかに生じ、揺動する緊張や不安やもろもろの感覚とどのように対峙し、それを受け止めるかということが問題なのであって、その揺動を解消しようとせずにただ受け止めることでちいさくすることと、その揺動を絶えずつつみこんでいられるようなおおきな器としての心身をつくっていくことが肝要である。緊張やら不安やら不快があっても、それがじぶんの輪郭を超えずにおさまっていたり、そういう確信が持てれば支障はないわけだ。そしてじっさい、今回の再発以前のこちらはそういう確信が持てていた。心身のキャパシティをまたひろくしていかなければならない。それにはやっぱりなにもせずうごかないこと、森田療法とか瞑想的な姿勢がいちばんのような気がする。


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 それで(……)に着き、改札を抜けるとSUICAの残高がもう五〇〇円くらいしかなかったのでチャージしなければならない。いまするか、仕事が終わったあと帰りに(……)でするか? と迷いつつもいましてしまうことに決めて券売機のほうへ。そとから制服姿の駅の職員が四人だか男女ではいってきて過ぎていく。機械にカードを挿入して五〇〇〇円をチャージ。それから職場へ。(……)
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 それで一〇時過ぎに退勤。駅に入り、ホームにのぼって、来た電車の先頭車両へ。帰路の電車内はだいたい瞑目。ときおり目をあけるが。(……)に着くと乗り換え。(……)線のほうに行くと一〇時五〇分発で、まだ五分ほどあり、小便がしたかったのでトイレに行くことにして引き返した。室にはいって放尿。あとから来た者がおおっぴらに放屁していた。手を洗って出て、また(……)線のほうに向かうともう発車間近で、急ぐかどうかまよいつつ急がず階段をおりると発車するところで、駆ければ間に合ったのだろうがまよいつつもまあいいやと見送り、つぎは一〇時五九分だった。そのくらいなら問題ない。ベンチに腰掛け、水をちょっと飲むなど。来た電車に乗ると座って瞑目し、発車と到着を待って(……)に降り立った。
 雨はまだぱらぱら降っている。駅前の細道を行っていると背後から自転車が来て、追い抜かしていったのをみれば女性であり、身を水平に近くかたむけながら片手には傘を持って頭上をまもり、もう片手のほうにはハンドルにかけていたのかもしれないがちいさな紙の手提げを二つ持ったその状態ですーっと走っていくので、いや無理があるでしょ、けっこうあぶないでしょ、とおもった。通りを渡って裏道へ。雨はさほどのつよさではない。先日はこの道をとおりながら、アパートのほうがむしろ各部屋の扉の前の通路とか、またゴミ置き場や駐輪スペースなど灯をともしていて、戸建てのほうが家のまえに明かりもなく窓にひかりも見えず暗いようだなとおもったが、きょうは道に暗さはおぼえず、というのも空が白っぽい灰色に閉ざされていながらも色が薄くあかるくて、屋根のかたちがはっきりうつり、傘のむこうに閉塞感がない。見えはしないが満月の時期だろうかとおもった。路上に水たまりはすくなく、ときおりちいさくひらいたそれが黒い鏡となって街灯をとりこみ、逆さ映しの霊体めいた白光のゆらぎや黒い水のうえを雨粒が跳ねて不規則に点を打っていくさま、生まれているはずの波紋はみえずただ点だけがつぎつぎ所狭しとあらわれるそれは不可視のちいさな存在があつまっておどりあそんでいるようだった。公園前に行き当たって左へ。しっとりと湿ったアスファルトは微光を敷いてこまかなゆがみや凹凸をあらわにする。道のうつくしさは雨の日のすがたで決まる、などと、心中それらしいことをつぶやいてしまった。
 帰宅後は休んで飯を食い、書抜きなどしたいとおもったがやはり疲労で無理だと悟り、シャワーと歯磨きはかろうじてすませて二時を越えて寝床にうつり、寝ようとおもっているうちに明かりを消さずに眠っていた。