2022/7/22, Fri.

 女性は、巡礼やウォーキング・クラブやパレードや行進の際、あるいはもろもろの革命において熱心な参画者となってきた。その理由のひとつには、あらかじめ方針のある活動ならば女性の存在に性的な関心が向けられにくいということがある。また、公共の場にいる女性の安全のためには、複数の同伴者をともなっていることが最善の保証となってきたためもある。パブリックな争点を中心におく革命においては私的なものごとは棚上げになるので、女性はそこで大きな自由を手に入れることができるのだ(そしてエマ・ゴールドマンのように、自由への闘いの前線のひとつとしてセクシュアリティを捉えていた革命家もあった)。一方で、歩くことはそれ自体が巨大な精神的、文化的、政治的な反響を抱えたものだ。瞑想や祈りなどの宗教的(end412)探求において歩くことが占めるものは大きい。また逍遥するアリストテレスからニューヨークやパリの放浪詩人に至るまで、歩くことは思惟と創作の方法となってきた。作家や芸術家や政治思想家そのほかの人びとに、歩くことは仕事を触発する出会いと体験をもたらし、同時にその構想を育てる空間ともなってきた。仮に偉大な知性を備えた男性たちの大半が世界を思い通りに移動することができなかったとしたら、そこから何が産み出されることになったのかは知る由もない。思い描くことができるだろうか、屋内にひきこもったアリストテレスやフルスカートを身につけたジョン・ミューアを。女性が日中出歩くことができるようになった時代においても、彼女たちにとって夜は――メランコリーと詩に満ちた酔うような街の夜の祝祭は――禁じられた領域だった、彼女たちが「夜の女」にならない限りにおいては。歩くことが文化的に重要な行為で、世界における存在様式として不可欠であるとするならば、足の赴くままに好きなだけ歩き出てゆくということができなかった者は、単に運動や余暇の愉しみを奪われているのみだけではなく、その人間性の重大な部分を否定されてきたといえるだろう。
 ジェーン・オースティンからシルヴィア・プラスまで女性たちが芸術で扱ってきたのは、それ以外のもっと幅の狭い主題だった。なかにはひろい世界に飛び出していった者もあった。思い浮かぶのはピース・ピルグリム(中世の世界へ)、ジョルジュ・サンド(男性の装いへ)、エマ・ゴールドマン、ジョセフィン・バトラー、グウェン・モファットといった面々だ。しかし、沈黙を強いられた者はそれよりはるかに多い。有名なヴァージニア・ウルフの『自分だけの部屋』は字義通りに女性が家に仕事場をもつことの訴えと捉えられることも多いが、実のところ(end413)は経済や教育に加えて公共空間への自由なアクセスも芸術創造の条件だと指摘している。ウルフは、シェイクスピアに劣らぬ才能をもつ妹ジュデス・シェイクスピアという人物が仮に存在したとして、はたして「彼女は酒場で夕食をとることが、あるいは夜中に街をうろつくことができただろうか」と問いかける。
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、412~414; 第十四章「夜歩く――女、性、公共空間」)




 きょうは昨晩早朝まで夜更かししてしまったので起きるのはだいぶ遅くなり、最終的な起床は一時近くだった。正午を越えたのはけっこうひさしぶりではないか。いつもどおり洗面所で顔を洗い、マグカップに水をついで飲み、それからきょうは電子レンジであたためた蒸しタオルをさっそく額から目にかけて乗せておいた。それから寝床にもどったが、怠惰がつづき、本を読むのではなくてパソコンでウェブをうろついたはず。かたわら足を揉みつつ一時間ほどだらだらし、二時前に床をはなれた。ひかりのある夏日である。洗濯をしてもよいのだが出遅れてすでに時間が遅い。どこかのタイミングで座布団二枚だけは出して陽にあてておいた。窓辺にはきのう洗った衣服類がかけられており、午後九時過ぎ現在まだかたづけていない。起きたときには昨晩つかった食器などの洗い物も流しに放置したままだったはずだ。それはたしか洗面所に行ったついでに洗い、二時ごろにはしたがって食事につかうことができた。キャベツと大根とトマトの生サラダ、ドレッシングはすりおろしオニオンで、そのほか冷凍のハンバーグと唐揚げを加熱し、米もレンジであたためる。昨夜の夕食とキュウリがトマトになったいがいなにも変わっていない。ロラゼパムも一粒服用。食後はなかなかやるべきことにとりかからずまたウェブをまわってしばらく過ごし、四時前にそろそろと切りをつけて瞑想にはいった。出先や電車内ではないにもかかわらず、喉のなかに異物がひっかかっているような感覚があった。緊張の感覚はなかったが、それはやはりなにかしらからだが乱れているということなのだろう。薬でおさえられてはいるがからだ自体が底に緊張をふくんでいるような状態とおもわれ、おおかたはなはだしい夜更かしのせいである。一五分程度でみじかく切った。三時五七分から四時一二分までだったはず。そうして立って洗い物をすませると、Notionに記事をつくったり。きのうの日記はひとこと足しただけではやばやと終わったのでさっさと投稿した。それからこれも夜更かしのせいだろうがからだがまだこごっていてぜんたいに鈍く、活動しづらい調子だったので、すでに座布団を取りこんであった布団のうえにころがり、Chromebook青空文庫中島敦「李陵」を読んだ。さいごまで読んで六時過ぎ。おもしろかった。李陵を中心としながら司馬遷と蘇武のふたりの生もふれられており、それぞれこころざしをつらぬいたりつらぬけなかったりという感じで、ふつうにエンターテインメント的な物語のおもしろみがあり、容易に漫画になりそう。文体は先日もふれたようにかっちりリズムがととのっていて堂々としており、たぶんいまの歴史小説のそれにくらべるとだいぶ固いのだとおもうが、歴史上の偉人の人物去就帰趨を対比的にストーリーに乗せて描くという点で、ストレートな、オーソドックスな歴史小説歴史小説と呼ばれるジャンルがいつごろからはじまったのか、またそれいぜんの軍記物とか、古典文学上の歴史物語とそれとの境はなんなのか、ぜんぜん知らないしわからないが、すくなくとも近代小説が日本にはいってきた明治以降、たとえば森鴎外がそういうのをやっているわけで、『渋江抽斎』とかあのへんの作が何年なのか知らんが一九〇〇年代一〇年代くらいだとすると、「李陵」は四二年の一〇月に脱稿され、中島敦が死んだのちの四三年七月に発表されたというから、森鴎外から三〇年くらいは経っている。いまの歴史小説や時代小説もぜんぜん読んだことがないけれど、作法としてはたぶんそのつらなりのなかの古典的一作と言ってよいのだとおもう。ところで四二年脱稿ということは戦争中に書きすすめられていたということである。本文中、司馬遷匈奴に破れて捕虜となった李陵を擁護したことで男根を切除される宮刑を受けたさい、「蚕室」と呼ばれる暖かく保った暗室のなかで、「日本の君臣道とは根柢から異なった彼の国のこととて、当然、彼はまず、武帝を怨んだ」という記述がある。中島敦の政治的立場は知らないが、この部分には当時の時勢や大日本帝国の政体への配慮が見えるような気がする。物語としても、捕虜となったあと単于を殺して漢にもどる機会をうかがいながらも果たせず単于の息子と交流したり故地にしがらみを得てしまい、そのうち誤報によって妻子を処刑されたことで漢にたいする忠義を捨てて匈奴に帰順することになった李陵と、使者として送られ服属を強いられながらも屈せず、僻地に追放されて極寒と貧困のなかで長年耐え忍び、ついに一九年ののちに漢に帰ることになる蘇武とが対比されている。語りが蘇武の視点に添うことはなく、もっぱら蘇武の生きざまと忠信を目の当たりにした李陵がみずからの選択をうたがい思い悩むさまが描かれるのだが(そうした物語の本筋からすると司馬遷は副次的な位置に置かれており、なぜこのはなしのなかにふくまれたのかも一抹疑問をえないでもないが、宮刑を受けてひとが変わったようになりながらも、畢生の念願であった『史記』完成のためにひたすら邁進するさまは、それはそれでひとつの強力な生にはなっており、李陵を中心とした線だけだとおそらくながれが武の面のみに絞られて単調化しかねないし、そこからはなれて視点を一時変えるという点だけをとっても、やはりふくめるべきだったのだろう。あとは、中島敦じしんがたんじゅんに司馬遷を書きたかったということもあるのかもしれない。語り手が書き手としての顔を出している部分は、ほぼ司馬遷を描くパートにかぎられていたとおもう。「後代の我々が史記しきの作者として知っている司馬遷は大きな名前だが、当時の太史令司馬遷は眇たる一文筆の吏にすぎない」とか、司馬遷の父、司馬談 [たん] の「臨終の光景は息子・遷の筆によって詳しく史記の最後の章に描かれている」とか、そんな調子である。内容としても司馬遷が『史記』を記すその書きぶりについて触れた部分は、歴史や史上の人物を書くというのはどういうことか、どうあるべきかというような議論をはらんでいる。司馬遷自身は孔子にならって「述而不作 [のべてつくらず] 」という方針を取ろうとするのだが、おのずから筆が「熱に浮かされた」ようになり、「作ル」になることをおそれて記述を削るがそうすると人物が「ハツラツたる呼吸を止める」とか、「ともすれば、項羽が彼に、あるいは彼が項羽にのり移りかねないのである」とかいうところである。『史記』を書き綴る司馬遷のようすは、とうぜんながら、(その『史記』を典拠のひとつとしながら)歴史上の人物としての司馬遷(や李陵)を書き記す中島敦と容易にかさねてかんがえられかねないわけである。中島敦じしんが司馬遷とおのれをかさねていたのか、みずからが書く司馬遷のなかにおのれを投影し、あるいはかれを書くおのれのなかに司馬遷を投影していたのかは知ったことではないし知れることでもないが、『史記』の作法を語るくだりはすぐさま、この「李陵」という作品はどうなのかという問いをうながし、自己言及や自己批評としてはたらき読まれる余地をもっているだろう)、超人的な忠義をつくしたすえに漢に帰るかたちで報いを受ける蘇武は、懊悩する李陵とならべたときに君臣のまことに殉じようとした理想的な英雄として立ちあらわれる。となれば、一九四二年当時の大日本帝国においてこの蘇武の人物像が、天皇への篤い忠義を体現しおしえる崇高な教戒として機能することはあきらかだろう。右翼的イデオロギーの持ち主は、その当時もいまでも、蘇武のありかたに感動し、かれを称讃するはずである。「どう考えても漢の朝から厚遇されていたとは称しがたいのである。それを知ってのうえで、今目の前に蘇武の純粋な痛哭 [つうこく] を見ているうちに、以前にはただ蘇武の強烈な意地とのみ見えたものの底に、実は、譬えようもなく清洌な純粋な漢の国土への愛情(それは義とか節とかいう外から押しつけられたものではなく、抑えようとして抑えられぬ、こんこんと常に湧出る最も親身な自然な愛情)が湛えられていることを、李陵ははじめて発見した」とか、「ふたたび漢に戻れようと戻れまいと蘇武の偉大さに変わりはなく、したがって陵の心の笞 [しもと] たるに変わりはないに違いないが、しかし、天はやっぱり見ていたのだという考えが李陵をいたく打った。見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。彼は粛然として懼れた。今でも、己の過去をけっして非なりとは思わないけれども、なおここに蘇武という男があって、無理ではなかったはずの己の過去をも恥ずかしく思わせることを堂々とやってのけ、しかも、その跡が今や天下に顕彰されることになったという事実は、なんとしても李陵にはこたえた」とかいう記述は、そういう受け止めを後押しするとおもわれる。「譬えようもなく清洌な純粋な漢の国土への愛情(それは義とか節とかいう外から押しつけられたものではなく、抑えようとして抑えられぬ、こんこんと常に湧出る最も親身な自然な愛情)」なんていう一節は、自民党なんか大好きそうではないか。感動的な物語ではあるのだが、そういうことをかんがえるとあまり感動もできない。物語というものがおおくそうであるように、というか偉人譚や英雄譚がほぼおしなべてそうであるように、「男」(の生きざま、と呼ばれるようなもの)を強調した、だいぶマッチョなはなしでもあるし。
 まあそれはそれとして『史記』とか『漢書』とかも読んでみたい。どうでもよい記憶の余談だが、数年前に塾にいた(……)くんという中学生が、漢文とか中国の歴史が好きだと言って『十八史略』かなんかを読んでいた記憶がある。勉強がそこまでできるというわけではなかったのだが、そちらの方面にはつよい興味があったようなのだ。原文も載っていたはず。なんか新書サイズの、赤い線のはいった本だったはずとおもっていま検索してみたところ、これは明治書院から出ている「新書漢文大系」というシリーズだ。おれも読みたい。あともうひとつ「李陵」を読んでいておもいだしたのは高尾長良『影媛』という作品で、数年前に文藝賞だったかなんだかわすれたが取ったやつだったはずで読んだのだが、これも『日本書紀』のほんのちょっとした一節をふくらませまくって悲恋譚にしたみたいな歴史物で、文体がとにかくそれらしく凝っていたし、ヒロインの女性が鳥に乗り移るような巫女的能力を持っていたりとか、川のなかにはいった男女が「こおろこおろ」と棒をまわして水をかきまぜるやや官能的な場面があったりとか(この「こおろこおろ」という擬音は、『古事記』の冒頭でイザナギイザナミが、おなじように矛で海水をかきまわしてオノゴロ島を生み出したときにつかわれていたものの参照である)、けっこうおもしろかったし、当時は文章の真価をつかめていなかった気もするので、もういちど読んでみてもよいかもしれない。
 あとわりとどうでもよいといえばよいが、この「李陵」での中島敦は、形容修飾をふたつならべるさいに一般のように「、」をつかうのではなく、「・」でつないでいる箇所がいくつかあった。「調子のよいときの武帝は誠に高邁闊達な・理解ある文教の保護者だったし」とか、「数年の間、司馬遷は充実した・幸福といっていい日々を送った」とか、「中に火を熾して暖かに保った・密閉した暗室を作り」とかだ。記憶がただしければ、「二」の、司馬遷のパートからつかわれはじめたとおもう。「、」をつかうとどちらかといえば順接的な、順序をもうけてながれる感じが生まれるのにたいし、「・」はより並列的な、並行的な感覚になるとおもうが、これを小説のなかでこういうかたちでふつうにつかっているのははじめて見たかもしれない。個人的にもむかし、ほんのわずかないっときだけだが、おもいついた形容修飾を取捨せずにぜんぶ書きつけるようにしようとかおもってやったことがあったはず。ただ、うえのような例なら並列として機能しているように感じられるが、「歓びも昂奮もない・ただ仕事の完成への意志だけに鞭打たれて」とか、「二十歳を越したばかりの・粗野ではあるが勇気のある真面目な青年である」とかになると、点の前後の二項がちょっとながくて、いやこのくらいだとふつうもう読点にするよな、と奇妙さをおぼえる。
 六時二二分だったかそのへんからまた瞑想した。ちょうど二五分ほど。その後、ブコウスキー書簡集を書き抜き。九時前くらいまでやったのでけっこう写すことができた。しかしまだたくさんある。BGMにしたのはManuel Linhares『Suspenso』。なまえはどこかで目にしたことがあった。ポルトガルのジャズ方面のSSW。Antonio Loureiroがプロデュースだといい、このひとはたしかKurt Rosenwinkelとやっていたはず。ブラジルにミナス・ジェライス州という地域があって、そこの音楽もミナスと呼ばれているようで、たとえばMilton Nascimentoとかが代表らしいのだが、Antonio Loureiroもそのへんの新世代らしい。『Suspenso』はよかった。一曲目を聞いたときになんか似たものを耳にしたことがあるおぼえがあったのだが、たぶんFabian Almazanの『Rhizome』のなかにはいっていた歌ものあたりの感触だとおもう。メンツを調べてみるとぜんぜん知らないなまえばかりだが、David Binneyが一曲のみ客演していて、あとアレンジのGuillermo Kleinはギリギリなまえはみたことがある。
 その後九時くらいからきょうのことをここまで記してもう一一時をまわった。書き抜きのとちゅうにはなんどか立ち上がって屈伸したり、体操めいたうごきをしたりした。からだのすじを伸ばしたりほぐしたりするときに、ヨガ的に止まるのもよいのだが、体操風にちょっとうごかすかたちでやったほうがよいかもなとおもった。おもったというかさいきんわりとそうしている。やはりちょっとだけでも、筋肉を、伸ばすだけではなくてうごかす時間をつくったほうがよいだろうというわけで、スクワットとかもやった。からだが貧弱なので回数はぜんぜんできないが、筋トレのように気張らずまいにちときどきちょっとやって身をあたためるくらいの習慣にしたい。


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 それから遅い夕食を取り、その後は特別目立ったことはない。ものを食っているとちゅうですこし胃や喉が反発するような感じになってきて、薬を飲んだ。ハンバーグや唐揚げと米はのこしてあした食べようといちどラップをかけたのだけれど、さいごに一口とおもって食べると肉の味にやはりうまいなとおもったので、警戒しながらもけっきょく平らげてしまった。湯浴みのさいに髭を剃って顔がさっぱりした。三時前くらいに寝床にうつり、ポール・ド・マンをすこし読もうとこころみるも眠気が湧いていくらもしないうちにあきらめ、就寝。三時一八分だった。寝るまえにモニターをあまり見ずに済んだのがよい。コンピューターばかりみているとたしかに睡眠の質が下がる気がする。