2022/8/12, Fri.

 […]純粋な芸術形式、詩の創作だけが重要だという孤立主義者の立場をわたしはしばしば取ってきました。わたしの作品の登場人物が何者なのか、あるいはわたしがどれほどたくさんの回数、留置所の中に、もしくは病棟や壁の中や酒宴の場に放り込まれたのか、孤独な人たちが集まるポエトリー・リーディングをどれほどたくさんの回数わたしはうまく躱したのか、それは重要なことではありません。人の魂そのもの、あるいはそれが欠けているということが、白い紙の上に何を刻めるかによって明らかになることでしょう。そしてもしもわたしが感傷的な韻が踏まれる紫煙がたちこめる部屋の中でよりも、サンタ・アニタの競馬場の最後の直線コースで、あるいはバナナの木の下で酔っ払うことでより多くの詩に出会えるのだとしたら、それはまさにわたしにかかっていることで、どちらの環境の方が適切だったのか、印刷所の請求書を恐れ、予約購読や大事に貯め込んだ寄付を大げさにありがたがろうとしているどこかの間抜けな二流の編集者ではなく、時間だけが判断してくれることでしょう。(……)
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、39; ジェイムズ・ボイヤー・メイ宛、1959年12月29日)




 覚めると九時をまわったあたり。きょうは休日ではないので、保育園の子どもたちの声がにぎやかだ。鼻から呼吸しながらからだの各所を、さくばん揉むよりさするほうがよいとかいう情報をみたのできょうはそうしてみたが、これはこれでわるくない。腰をさするために横を向いたときにカーテンの端から漏れる白さや紺色の布に透ける微細点をみたが、きのうの見え方とくらべるにあきらかに曇り日のものだ。九時四七分にいたって幕をひらいてみてもじっさいそうで、きのうは風がひじょうにつよかったし夜にいたってもびゅんびゅん盛りつづけて、なにかがぐわっと駆け下りるような、空中のあちこちをたたいてまわるような、そんな音響がたびたび立ってひろがっていたが、きょうも起きたときからそうであり、午後五時現在のいままで止んでいない。
 洗面所に行ったり水を飲んだりとそのへんはいつもどおりである。寝床にもどるときょうは日記の読みかえしではなく、昨夜読みだした熊野純彦源氏物語=反復と模倣』(作品社、二〇二〇年)を読むことにした。そうして読了。寝るまえの時点ですでに85ページまで読んでいて、あっという間に読み終えてしまったが、一一〇ページほどの小著のうえ各ページ一三行しかないので不思議ではない。カフカ全集にくらべてページのすすむのがはやいことはやいこと。おさめられているのは「反復と模倣――源氏物語・回帰する時間の悲劇によせて――」と「源氏物語・小考――和辻、小林、宣長――」の二篇で、著者はカントの三批判書を翻訳するあいだ、そのかたわらで個人的なたのしみの読書として、もっぱら日本の古典文学を読んでいたらしく、「収められているふたつの文章はそうした時間のすきまから生まれたもので、翻訳仕事のいってみれば思わぬ余滴である」(113)と「あとがき」に述べている。カントやらハイデガーやらレーヴィットやらカッシーラーやらを訳すいっぽうで日本古典を読み、さらにあのばかでかい『本居宣長』をものしたりマルクスについての書をつくったりしているのだからどういうあたましてんねんとおもうが、ウェブ上のどこかのインタビューでは、もう定年だししごとをしりぞいたら研究のための本なんてぜったいに読むかとおもっています、『源氏物語』とか、日本の古典を読みたい、と言っていたおぼえがある。この記事だった(https://www.bookscan.co.jp/interviewarticle/261/all(https://www.bookscan.co.jp/interviewarticle/261/all%EF%BC%89%E3%80%82))。

熊野純彦氏: 私は研究者としての店じまいした後に楽しみを残しています。大学の教師が終わりとなったら、専門の本なんて読みません。非常に愛着のある哲学書の古典はありますが、義務として読むような研究書なんて読んでたまるかと思います。
 『源氏物語』とプルーストの原文を繰り返し読みたいとか、色々計画しています。源氏は古典集成の簡単なものを1回読んで非常に感動しまして、プルーストは翻訳で読んで、部分的にフランス語のテキストで読んだけど、繰り返し原文で読みたいと思っています。それから、うんと若い時、ロシア文学全集を古本屋で買ったことがあって、それは老後に読むために手をつけていません。ただ、私は今年55歳で、保険の組合からパンフレットが来て、そこに「楽しい老後を過ごすためには趣味を作りましょう」なんてばかなことが書いてあるのですが、「ただし目を使う趣味はだめです」と書いてある。いずれ目はだめになりますから、目を使う以外の趣味を作りましょうと。だから、計画がガラガラと崩れてしまう。
 老後の趣味として、本当の意味での読書を予定していたんですけど、もともと目は悪いのでどうなるかわかりません。私は自分の仕事ではおそらく今後もデジタル化した本を一切使わないと思っていますが、目が悪くなった時に、いくらでも文字が拡大できるから、良いツールかなとも思い始めました。

 それでこの源氏物語についての本はしょうじきそんなにおもしろくはなかったというか、刺激的には感じなかった。まずさいしょ、「時間には色があるのだろうか。時間そのものが、たとえば悲しみの色あいに染められているといったことはありうるのだろうか」(10)とはじまっており、ずいぶんセンチメンタルな語りだしをするもんだなとおもったし、13ページでは紫式部の、「ふればかく憂さのみまさる世を知らで荒れたる庭につもる初雪」という和歌にことよせて、作者当人のすがたをいくらか、想像的にえがいている。「世にながらえるほどに憂愁は身に降りつもる。世界をうっすらと白く覆ってゆく、今年はじめての雪のひとひらが頬に吹きつけ、式部は夢のように儚いもの想いからふと醒めて、庭をながめた。手入れもままならない前栽が目にはいる。伸びすぎてしまった草木を目にすると、歓びとは縁のうすかったみずからの生の軌跡が思いかえされる。雪はそれでも白く、冷たく、美しい。この雪は積もるのだろうか。じぶんの不運と憂愁のように降りつもるのだろうか。地上に舞いおちた雪は、荒れた庭を覆い、美醜のべつなくこの世のすべてを蔽ってゆくのかもしれない。それでも覆われず、隠しきれない憂いとともに、わたしはいつまで生きてゆくのだろう」というさまで、このひとこんなこともやるんだな、とおもった。「伸びすぎてしまった(……)」の文から記述は紫式部の内面にしみ入りはじめており、いわゆる自由間接話法的な書き方でもってかのじょの物思いを仮構し、さいごにいたって「わたし」という一人称すらもちいており、基本的にじぶんは評論などのなかでこんなことをやられたら、無造作に作者の内面に立ち入ろうとするその無遠慮と、またいかにもなくさみに辟易するとおもうのだけれど、熊野純彦の文章はなにか独特のしずけさをもっているためか、こういうやり口があえてよいとはおもわないけれど、ことさら嫌うほどの違和感もおぼえなかった。ところであまり「刺激的には感じなかった」というのはこうした細部においてのことではなくて、論述の全体にたいする感想なのだけれど、この「反復と模倣」という一篇が論や主張として言っていることは明快で、要するに『源氏物語』は同型でくりかえされる悲劇の物語なのだということであり、悲劇は反復と模倣によっていっそう悲劇となるのだ、ということだとおもわれる。それどころか、反復と模倣こそがそれじたいでまた悲劇なのだ、という認識すらそこにはこめられているかもしれない。たとえば「一 導入」にあるつぎの一段にはそのような見方が書きこまれているようにおもえる。

 世界にはいずれにせよ「憂さのみ」降りつもり、憂愁が世を覆ってゆく。世界を愁いのうちに降りこめるのは、とはいえ宿世から遁れることのかなわない、ひとのいとなみである。閉ざされた生の空間のなかで、ひとはだれもそのひとひとりだけの生を生きることができない。生のかたちは、それが開始されるまえにあらかじめかたどられている。ひとはそれとは知らずに他者の生の軌跡をたどり、べつの生のすがたを模倣してしまう。この生はそこでは、すでにあった生の回帰であり、過ぎ去った生の反復にほかならない。かくして悲劇はくりかえし上演され、哀しみが立ちもどる。世にあることは、かくていずれにしても「憂さのみまさる」ありようへと囲いこまれてゆくほかないのである。
 (14~15)

 それと照応するようにして、「六 後史」の末尾、一篇の終わりでは、「なにかとべつのなにかをかさねて夢みることは、ひどく罪ぶかい。ひとは、とはいえ、そのように生きるほかはないかもしれないのである」(93)とも語られている。
 この小文が論として持つ内容やメッセージのたぐいはほぼそれに尽きていて、ときに本居宣長や『無名草子』における源氏への言及などにふれながらも、あとの部分はほとんどすべて、『源氏物語』において回帰し反復される男女の悲劇を、それじたいは丁寧かつ丹念というべき手つきでもってあとづける記述である。つまり、語り直しなのだ。だから、このテクストにたいする熊野じしんの明確かつ特有の解釈や、『レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』で披露されていた精細な分析がふくまれているわけではない。悲劇の反復構造は物語においてめずらしいことではないだろうし、『源氏物語』にかんしても、おそらくすでにあまたの研究者によって指摘されていることのはずだ。うえに引いたような認識にしても、きれいな文ではあるものの、ありふれた一般論の域を出ていないようにおもえる。この篇をあまり「刺激的には感じなかった」といったのはそういう意味だけれど、しかしとはいえ、この文章は「論」として書かれたというよりは、一種のエッセイにちかいものとしてあるのかもしれない。さらにいえば、じぶんとしては、ある種『源氏物語』の紹介文であるかのような、読み手をこの物語を読むことへといざなうような文章であるかのようにも感じられた。だとすると、ずいぶんと手間のかかった紹介文である。なにしろ九〇ページほどある全篇のうち、そのほとんどは物語の内容、回帰する男女の悲劇のいきさつを、原文のことばに適切につきながら語り直したものなのだから。そのすえに読者が理解し、あるいは感じとったり感じ入ったりするかもしれないのは、悲劇の反復性と反復の悲劇性というこの一事でしかない。ただそのひとつことの実感をこそ読み手にあたえるために、何十ページもかけて物語のながれを詳細にあとづけてみせているようにうつる。そのような無償の愚直さめいたものには、好感をいだくのがこちらの性分だ。ここでじぶんも無造作に筆者の感慨にながれてしまうけれど、だから、この一篇は熊野純彦が『源氏物語』を読んで感じ、味わったその悲劇性、時間が帯びた「悲しみの色あい」(10)を、物語の語り直しによる構造の抽出というやりかたでもってえがきとろうとした文章ではないか。うえのインタビューでもいっていたけれど、日本の古典を読むのは「趣味の読書」、しごとや研究ではなく個人的なたのしみとしての読書だという言も、そういう印象をつよめる。論というよりはエッセイにちかいのかもしれないと言ったのはそういうことだ。
 熊野純彦の丁寧な語り直しを読めば、やはりこちらも、『源氏物語』もはやく読みたいなあという気にはなるわけで、そういう意味での受け取りというのはあった。とはいえここではなしはより一般的に、あるテクストや作品について書くこと、要は批評といわれるような書きものやいとなみについての漠然とした思念にながれるもので、それはのちに読んでしたに付してある佐々木敦の文がとりあげているはなしでもあるが、要は原作の内容もしくはことばに忠実についた丹念な語り直しだけでは、そんなにおもしろくはならないわけである。いや、それはそれでおもしろくなるばあいもあるかもしれない。語り直すということはもちろん編集と要約を要請するから、その配置や再構成に筆者のセンスや力量や特有の見方があらわれたりして、それが興味深さやおもしろさになることもあるだろう。また、うえにふれたように、語り直しだけでも読者を原作にみちびき、むかわせる魅力をもつということもある。そこでは紹介文の魅力と原作の魅力が二重化するようなことが起こっているだろう。とはいえやはり、それとはまたべつの、さいしょに「刺激的」といったようなおもしろさ、じぶんにはなかった見方やかんがえかた、こんなふうに読めるんだ、みえるんだ、これはじぶんにはわからなかった、というような興奮を読者に得させるためには、やはり解釈とか、筆者がおもい、かんがえたことを述べる段が必要なのだろうと。あまりにもあたりまえにすぎることを言っているとおもわれるかもしれないけれど、要するにやはりいくらかは作品から離れないと、批評としてのおもしろみは生まれづらいのだろうと。蓮實重彦はそのあたりじつに稀有なもので、あれは作品からほぼ離れないにもかかわらず、超絶技巧的な手つきでもってもともとあった材料のむすびつきをこまかく組み替えて、絵画をまったくべつの様相に変換してしまうようなやり口なのだろう。ほかにもときおりの独断とか文体とか、べつのおもしろみもふくまれているとはおもうが、ただことの必然として、かれもやはり作品を越えた魅力的な一般論には行きづらい。むしろその拡張を禁欲するというところに蓮實重彦がかたくまもった読むことの倫理がある。なぜなら、作品から離れて解釈に向かうことによってこそ、だれもがかえっておもしろさをみずから捨て去り退屈きわまりない通有性に堕してしまう、という現象をかれは見て取ったからだ。ただだからといって、『夏目漱石論』でやられていたようなことが、じぶんにとってほんとうにおもしろいのかというと、どうなのだろう? という疑問符をあたまのなかにおぼえてしまう。いずれにしてもテクストからまったく離れないということはもちろん不可能である。ほぼまったく離れていないような二次テクストがあったとしても、それでどうなるの? という気もする。だったらもとの作品でいいじゃん、ということだからだ。じぶんとしてはテクストから離れているのにそうおもっていないような記述、つまり読み手の印象や推測でしか言えないようなことをあたかもテクスト内に観察できる事実であるかのように書かれてあると、だいたいにおいていらだちをおぼえるのだが、それもときと場合によるかもしれない。だれもが印象をいだくのだからそれじたいはまったく問題ではないし、印象を書くことにもなにひとつ問題はなく、おもしろかったりすばらしかったりする印象記述というのはいくらでもありうる。ただそれがじぶんではなくてテクストに属しているかのような誤解が自覚なしに開陳されているのをみると、そこに僭称の不遜さをみるのだ。とはいえこれはつねに微妙なはなしでもあって、なにかの作品にふれて見たり感じたり読み取ったり考えたりしたことが、作品に属しているのかじぶんに属しているのかを、ほんとうに正確に決定することなどできないのではないか? という問いを立てることは可能だし、読むことをかんがえるものはおおくそういう疑問をいだくだろう。むしろここまで書いてきた文の脈絡でいうと、作品について書くばあい、その作品につくことは必要だけれど、なにかしらのかたちで書き手の印象や感覚のようなものがどこかにふくまれていなければ、むしろおもしろい批評文にはならないのではないか、という気がしてきたのだ。作品から離れるというときに、その離れ方の度合いと手法にも千差万別の距離があるのだろう。生じざるをえないその無数の距離群をどのように隠したり、逆に浮き彫りにしたり、配置して編み上げたりするか、それこそがむしろ批評のおもしろさを決めるとかんがえるべきなのかもしれない。作品においてたしかな基盤となる要素として、それが言語で書かれたテクストだったら、いちおうそこに書きつけられていることばそのものというのがありはする。ただ、それが、象徴とか比喩とかあからさまな深層を除いたとしても、そのことばの意味の射程、ということになってくると、立ちどころにあいまいなぶれがちいさく生まれてくるようにおもえる。要するに字義性を字義性として確定することは厳密にかんがえるならば不可能なのではないか? ということで、まさしくそうだというのがポール・ド・マンの洞察だったのだろうけれど、かれが見定めたテクストの二律背反は措いて、たとえそれが字義性の領分にとどまったとしても、意味に立ち入りだしたとたんにもっとひじょうに微妙なゆらぎが生まれざるをえないのではないかというのがここでおもっていることだ。字義はじつは固定ではなく、ゆらぎなのではないかと。そして、その微妙なゆらぎがなければおそらく読むということは成り立ちえず、そのゆらぎこそがひとが作品とふれあう接触点なのだろう。だから、とてもつまらない結論にいたってしまうが、仏教でいう不即不離がやっぱりおもしろい批評の条件なのかなあというわけで、それら無数の接触点の積み重なりと、そこで生じたことを正確に、あるいは正直につかまえられている文というのが、なにかについて書かれたときにおもしろい文なのかもしれない。
 いまもう七時で書き出してから二時間経っており、はなしがながくなってしまって、しまったという感じだが、その後はずっと家にとどまっているのでたいしたこともない。瞑想は二五分くらいして、きょうはからだをさすったことであらかじめそこそこちからが抜けているような気がした。ただだからといって血がめぐっていてやる気が出ているかというとまたべつである。食事はきのうコンビニで買ったおにぎりと、米と、冷凍の焼き鳥。食後はシャワーを浴び、洗濯も。上述のように曇り日だし風が荒れていたので、部屋のなかに干した。ギターをいじったりしているうちに二時を越え、しかしなんだかからだが書きものに向かわず、とりあえず音読してみるかとやったものの決まりきらず、それどころかなにもしていないのになぜかねむいようなつかれているような感じがあったので(じっさいきのうは夜更かしをしたし睡眠も短めなのでねむくてもおかしくはないが)、それにしたがって寝床に避難した。はじめのうちはあまりものを読む気にもならず、目を閉じて休んだり、胸とか腹をさすってみたりしていたのだが、ともかくもやはり太ももを刺激して血をながすにしくはないだろうとそのうち定まって、したにひいてあるウェブ記事を読みつつ踵で脚を刺激した。揉むとよくないときのうネットにいわれたからぐりぐりやらず、というかさいきんはべつにもともとそんなにぐりぐりやっていないが、ゆっくりさするというかこするような感じ。そうしているとやはりあたまがはっきりしてくるしからだもあたたまり、まとまって気力が湧いてくるからすごい。中島隆博らの鼎談はいろいろおもしろかった。おおくメモしておくことに。佐々木敦の文は小林秀雄蓮實重彦が、前者が要は批評家の私について印象批評を見事なかたちに昇華したのにたいして、後者はそれを唾棄して作品や言語そのものに献身しようとするけれど、じつはそこに本質的なちがいはないのではないか、というようなはなしで、この二者がじつはおなじことをいっているのではないかというのは、いぜん(……)さんもブログに書いていた。そして、たぶんわりとそうなのだとおもう。方向性がちがうだけで、やっていることと姿勢はおなじというか。アメリカのニュー・クリティシズムは作品内容にたいする価値判断を排し、形式を正確にとらえ評価し審美するという姿勢をつらぬき、内容面におけるそれこそ印象とか人間的な意味を不問としたのだけれど、そのもっぱら形式にむかっていく排除的な倫理的姿勢がまさしく人間的な意味そのものだよね、みたいなことだろう。ニュー・クリティシズムの文章そのものを読んだことがないので、よく知らんのだが。佐々木敦はもろもろ語ったり問うたり考察したりしたあと、やはりうえのこちらとおなじような結論にいたっている。まあそうなってしまうというか、よくいわれる語だけれど、さかいとかあわいとかいうことになってしまうよねと。いちおうじぶんが書いているこの日記というのは、とりわけそのなかの風景とか外界の記述は、ぜんぶそうなのだとおもうのだが。ただそこで、さかいとかあわいとかにひょっと直接行けるかというとたぶんそうではなく、その不即不離点をとらえるためにこそついてみたり離れてみたり、いろいろ迂遠にやらなければならないということなのではないか。そうだとするとじぶんの外界記述はちょっと、無造作にひょっと書きすぎているかもしれない。というかじぶんの風景記述って、批評文でいうならかなり、というかほぼぜんぶ、印象批評だよね? とおもうのだが。しかしじぶんはことさら批評をやりたいわけでもないし、批評家になりたいわけでもない。じぶんがふれ、じぶんにふれた生と世界を記録したいというだけで、だから印象一辺倒で書いて主観性の極致を目指したってべつにわるくはないはずだ。じっさい、そういうところもあるはずだし。ただ、じぶんは印象を書くときにけっこう、その印象がどこから来たのか、どの点でそう感じたのかということも書くとおもう。根拠をもとめてしまうというか、具体的な正確さを志向するというのか。上部構造と下部構造をセットにしないと気がすまないみたいな。そういうところはあるのではないか。わからんが。
 それで五時ごろになって起き上がり、とりあえずきょうのことを書こうとおもって書き出したらこんなことになってしまっており、いま七時半前である。雨が降っている。食い物がないからスーパーに行かなければならないし、まだ七日以降の日記もけっこう書けていない。くわえてあしたから三日間連続でひとと会う用事があって、休暇のさいごの二日間、一六日と一七日はそれについやすことになるだろうし、その他(……)くんの授業の予習とか添削とかのしごともある。こう見てみると一週間のお盆休みなんていったってその実ふつうにいそがしく、あー休みだしゆったりしよう、みたいな感じではない。ゴロゴロはわりとしているが。しかし外出したりひとと会ったりすれば書くことが膨張するから、むしろふだんの時期より労力が増えるとすらいえるかもしれない。休みじゃねえじゃん。


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 その後スーパーに買い出しには行ったが、その往復路のことはおぼえていない。雨は降っていたし、台風がちかづいていて風もけっこうあったはず。

 
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  • 「ことば」: 1 - 10
  • 「英語」: 676 - 691


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宇野 中島先生が指摘されたのは、渡辺浩先生の『明治革命・性・文明』(東京大学出版会)に収録されている「アレクシ・ド・トクヴィルと三つの革命」という論考ですね。これは、私のような西洋政治思想史でトクヴィルを研究してきた人間にとって、げんこつでガツンと一発食らったような気持ちにさせられる論考でした。
 今までの多くの西洋政治思想史の理論家は、デモクラシーは基本的には西洋のものであって、それ以外の非西洋地域がそれをどう受け止め、どう実現してくるかという問題の立て方をしてきたわけです。
 しかし、それに対して渡辺先生は異議申立てをしている。すなわち、アジアにおける明治維新辛亥革命をあのフランス革命と並べてみて、フラットに比較しているんですね。
 さらに渡辺先生は唐宋変革論にも重きを置いています。唐代の貴族制的な社会が、宋の時代に科挙によって合理化が進み、社会においてある種の平等化が進んだのではないかという議論です。もしデモクラシーを社会の基層的なレベルにおける貴族制の破壊と平等化の進展と見るならば、中国でこそ最も早くデモクラシーが実現したともいえる。

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宇野 そして渡辺先生はトクヴィルを俎上にあげます。そういう中国の民主主義の歴史をトクヴィルはどう捉えたのか。トクヴィルは、単に政治体制としてのデモクラシーだけじゃなくて、社会の状態としてのデモクラシーという側面も視野に入れています。
 そこで出てくるのが「民主的専制」という言葉です。民主制になったら専制には戻らないのかというと、そんなことはない。社会の基層的な平等化を前提にした専制的な政治が生まれる可能性があることをトクヴィルは議論しているわけですが、渡辺先生によれば、トクヴィルの民主的専制の発想の起源は中国にあるといいます。中国の宋王朝は、社会の基層的なデモクラシーを前提に、なおかつ皇帝専制を実現した。
 したがって政治的な集権化と社会の基層的な平等化は必ずしも矛盾しないというモデルを示したのは中国であり、トクヴィルは中国からこれを学んで民主的専制の概念をつくり出したんだと渡辺先生は論じているわけです。

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梶谷 渡辺先生の論稿を私も読ませていただきました。まず抱いた印象として、10年ほど前に話題になった與那覇潤さんの『中国化する日本』(文藝春秋社)に図式が似ているなと思いました。與那覇さんは、民主主義という言葉は直接使っていないと思いますが、明治以降の日本の近代化は実は中国化として理解できる、という議論を展開しています。つまり、旧弊としてある封建的な身分制が打破されていくのが近代化であるとするならば、それは宋代の中国に実現されていた、と。そういう與那覇さんの本のロジックは、渡辺先生やトクヴィルの視点とある意味で非常に似ています。
 ただ、近代というものを「封建制への対抗」としてとらえるのであれば、そういう議論も成り立つと思うんですが、それだけだと近代化のもう一つの重要な要素である資本主義をどうとらえるか、という視点が抜けてしまっています。
 つまり、資本主義、特に産業資本主義の勃興ということを考えると、中国的な社会、つまり中間団体がない社会では、これはなかなか起こりにくいわけです。

中島 中間団体がないと流動性が高くなり、人々が信用にもとづいて行動することが難しくなりますね。それでは安定した雇用や取引関係が成立しません。

梶谷 ひるがえって日本を見ると、近代以降もあたかもイエのように企業を運営していきますよね。つまり、江戸時代のイエ制度がベースになって日本の資本主義は発展してきました。このことが示すように、封建的な要素がある程度残っている社会のほうが、産業社会、産業資本主義の途上にとってはむしろプラスに働いた側面があるわけです。

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梶谷 2021年12月に、中国は「中国的民主」に関する白書を発表しました(中華人民共和国国務院新聞弁公室『「中国的民主」白皮書』)。この白書にはとにかく「人民」という言葉が頻出します。たとえばこんな具合です(一、中国共産党は人民を導き、完全な人民民主主義を実現する)。

「中国のような大きな国では、14億を超える人々の意思を真に表現し実現させることは容易ではなく、強力で統一されたリーダーシップが必要だ。中国共産党は、常に人民を中心に置き、人民の主体としての地位を堅持し、真に人民のための、人民による政治を行ってきた。また、党が人民を導いて国家を効果的に統治し、人民民主主義の理念、指針、政策が国の政治・社会生活のあらゆる面で実行されるように、全体を統括し、各党を調整する指導的中核としての役割を十分に発揮してきた。」

 こんなふうに、「人民」、そしてそれを導く党という存在をとにかく前面に持ってくる。それに対して西側の民主主義は、「人民」に対置されるものとして「市民」という概念が非常に重要な位置を占めています。古代ギリシャのポリスで、市民がアゴラに集まって議論するというのが典型的な「市民」のイメージですね。人民主権を強調するルソーの社会契約論にしても、もとは個々の「市民」が独立した考えを持っていることが前提になっているわけです。
 一方で、中国の文脈で用いられる「人民」は必ずしもそうではありません。「人民」は初めから一つの群れ、かたまりとしてあるもので、このことはコロナ禍以降、特に強調されてきたように思います。かつての毛沢東時代もやはり「人民」という言葉が強調されました。しかも「人民」の中身は、常に政治的な要因で揺れ動いていきます。
 たとえば抗日戦争のころは、対日協力者が「人民の敵」であると言い、その後国共内戦期になると、国民党に協力した者は「人民の敵」であると言った。そして1950年代の社会主義建設時代に入ってくると、社会主義路線に反対する者は全て「人民の敵」になります。要するに、知共産党指導部にとって都合の悪い者は全て「人民の敵」になるわけです。
 中国的な民主を語る場合、「人民主権」ということが強調されます。しかし主権は「人民」にあるけれども、「人民」の範囲を確定する権利は、共産党の指導部が独占的に握っている。そういう形で専制政治と「人民主権」が共存しているわけです。これは現在の中国的な民主の精神の中にも受け継がれているのではないかと思っています。

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中島 なるほど。ここで宇野先生に伺ってみたいんですけれども、デモクラシーといった場合に、トクヴィル型の考え方とルソー型の考え方は相当異なるように思います。いま梶谷先生がおっしゃった中国の「人民主権」は、ルソー的なものだと私は理解しているんです。
 たとえば今の中国には、党と国はイコールだとする「党国体制」という考え方があります。それは党が人民を完全に代表しているからです。私はここにルソー的な一般意志の現代的な実現を見ているんですけれども、宇野先生はどのようにお考えになるでしょうか。

宇野 先ほど梶谷先生が指摘されたように、西洋的なデモクラシーと中国的なデモクラシーを比較する場合、中間団体の有無というのが大きな鍵になると思います。そのことが、いま中島先生がおっしゃったトクヴィル型とルソー型の民主主義モデルと深く関わっているんじゃないでしょうか。
 ルソー型の民主主義のイメージは、いったん社会をバラバラの個人に解体し、個人の社会契約に基づいて人民主権で主権を構成するというもので、そこに一般意志を想定するわけですね。
 それに対してトクヴィル型は、個人と国家の間に様々な中間団体があってこそ民主主義は機能する。その意味で、たしかに中国的な民主主義は、ルソーの一般意志モデルの変形として考えることができます。
 西洋や日本の場合、封建制の社会から中間団体が出てきて、この中間団体を近代的に読み替えていく中で社会的に機能させていくという方向を取りました。たとえば中間団体があってこそ代議制も機能するようになるし、中央集権的な国家を何らかの形で抑制する権力分立論にもつながっていきます。
 したがって中国モデルの場合、中間団体が弱いために、代議制がなかなか機能しないのではないのか、あるいは、党権力を抑制するような権力分立論や法の支配という論理が弱いのではないのかという議論が生まれてくると思います。

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梶谷 私自身も中間団体の存在は非常に重要だと思っています。一方で、GAFAや中国のアリババ、テンセントは、中間団体が存在しなくてもプラットフォームでつなげば何とかなるという資本主義のモデルを示しているように感じます。
 これまで制度派経済学などでは、長期的な取引関係をベースにした信頼関係が近代的な経済発展に非常に重要であったという議論がされてきました。それに対して中国社会では、企業間の長期的な関係性がなかなか形成されないわけですね。そもそも持続的に生産しているような企業が非常に少ない。財界のような業界団体も希薄です。だから中国では近代的な資本主義が発展しないのだ、という議論を、戦前の日本における中国専門家は盛んにしていたわけです。
 中国で中間団体の代わりに機能していたのが「包工制」と呼ばれるインフォーマルな労働慣行です。これは企業が「包工頭」と呼ばれる仲介業者に労働者の募集や管理を丸投げするものです。また、企業同士の取引でも、「この相手だったら取引しても大丈夫ですよ」という情報を仲介してくれる存在が重要になります。その場合、仲介してもらう取引先はしょっちゅう変わるので、必ずしも長期的な関係になるわけではありません。
 これは零細な業者が何とか商売をやっていくためには便利なシステムですが、産業資本主義を担う規模の大きな企業や、日本の系列取引のような安定した企業間関係はなかなか形成されないと議論されてきました。恐らく、それを多分ひっくり返したところに発展したのが、現在のプラットフォームを中心とした経済のあり方だろうと思います。
 アリババなどのIT企業によって提供される取引仲介のプラットフォームは、仲介業者が非常に肥大化したような側面を持っています。従来であれば口コミの情報を利用することで成立した取引が、ビッグデータを利用して、より安心できる商売の相手を知らせてくれるわけですね。一方で、現代の資本主義では最先端の技術を取り込んで、その場に合った商品やサービスを素早く出していくということのほうが重要視されるようになっています。そうすると、企業が長期的な関係を築くより、プラットフォームにつながることによって短期的に最適な取引相手を見つけるやり方のほうが現代の資本主義にはマッチしているわけです。この面で中国は日本よりずっと先を行っています。

中島 與那覇さんの言葉を借りれば、資本主義自体が中国化していく現実に、いま我々は直面しているわけですよね。プラットフォーマー型の資本主義になっていくと、中間団体が形成されないことは逆に強みになる。アリババやテンセントが広がっていく背景には、中国社会の中にある他人に対する不信の問題があります。不信が非常に根深いので、逆にプラットフォーマーのような請負をする企業に不信の代償を払わせる。それによってプラットフォーマーが成長していく。こういう構造があるわけです。
 しかも、プラットフォーマー型資本主義は中国だけのものじゃないわけですよね。GAFAに代表される、アメリカを中心とした資本主義もまさにプラットフォーマー型のものになってきている。そういうなかでデモクラシーをどうするかが問われているのだと思います。
 GAFAのようなプラットフォーマー型の資本主義がデモクラシーに対してもたらす破壊力、そして、それに抵抗する民主主義の力を、宇野先生はどのようにお考えになっていますか。

宇野 ヨーロッパではグローバルなプラットフォーム企業を国際的に規制しようという方向に行っていますが、世界的に見ればグローバルなプラットフォーム企業のほうが強くなり、伝統的な中間集団はどんどんどんどん弱体化し、解体している状況はますます進んでいくでしょう。
 ここで、あくまで中間集団を立て直さないと民主主義はちゃんと機能しないと考えるのであれば、個人とプラットフォーム企業だけがITを通じて直結するだけではなく、政党のように人と人とを結びつけていく民主主義の回路を立て直していかなきゃいけないという議論になります。
 しかし個人と中央、個人とプラットフォーム企業だけが直結して、中間集団などなくてもやっていけるんだという議論でいくと、ますます中間集団を解体し、中抜きにしていくことによって進化していこうという方向が強まるでしょう。
 ですから、民主主義を立て直すというときに、中間集団はあったほうがいいというモデルにこだわるか、それとも、それを抜きにした個人・中心直結モデルで加速化して改革していくべきか、そのどちらに行くのかということが、クリティカルな問題として問われているわけです。

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梶谷 まず、国家とプラットフォーム企業が結びつくというモデルに関して言うと、中国ではこれが非常にうまくいっているように見えていたものの、最近は両社の矛盾や対立が露呈してきています。
 特に2020年の11月頃から、アリババなどのIT企業全般に逆風が吹くようになります。アリペイやセサミクレジットを開発したアント・フィナンシャルが新規IPOを行おうとして拒否されたところから始まり、その後、アリババ集団は独占禁止法の適用により多額の罰金を課されました。
 また、2021年の夏ぐらいから中国政府は、格差の拡大を抑えようと「共同富裕」ということを盛んに言うようになりました。その方法として、第一次分配、第二次分配、第三次分配ということを提唱しています。第一次分配は土地や資本などの生産手段の分配、第二次分配は財政を通じた分配、第三次分配が民間からの寄付による分配です。中国政府は共同富裕のためには第三次分配をしなければいけないと突然言い出し、貧困対策に用いるための多額の寄付を、半ば強制的にアリババやテンセントに約束させました。
 今年に入り緩和する動きも出てきてはいますが、なぜ急に中国政府による締め付けが厳しくなったのか。おそらくプラットフォーム企業を野放しにしておくと、その富と権力が巨大なものになりすぎて危険だ、また、拡大する格差に対する人民の不満を抑えることができない、ということに指導層が気が付き始めたのだと思います。
 ですから、実は中国でもヨーロッパとは違う形で、プラットフォーム企業に対する風当たりは強くなっている。ただ、ヨーロッパのGDPRやアメリカの反トラスト法のように法をつくって縛りをかけるのではなくて、指導者の匙加減で富を吐き出させる、というのが中国らしいやり方です。先ほど話したことにつながると思いますが、共産党はいわば「われわれに従わなければ人民の敵に認定しますよ」と脅しをかけているわけです。だから、非常に法外な額の寄付であっても、企業は受け入れざるを得ないのが現状だと思います。
 それをふまえると、現状はプラットフィーム企業に対する規制に関しても、西洋モデルと中国モデルの二つが出てきているというのが私の認識です。

宇野 中国の党国家権力とプラットフォーム企業がそう常にハッピーな組合わせであるとは限らないというのは、大変面白いですね。
 先ほどの第三次分配は、ヨーロッパやアメリカでも自発的な形ではあるわけですね。大企業や高所得者がチャリティーのためにお金を寄付する。アメリカの場合は、社会保障は多くなくても、ビル・ゲイツみたいな人が財団をつくり、社会的な目的でお金を使うことによって、社会的な支出を実質的に増やすという文化があります。それが中国版になると、鶴の一声で強制的に寄付させる形になると。
 一方で日本はむしろ逆に、ITやプラットフォーム企業を通じて個人が中間集団抜きにしていろいろつながったりを、新しいことを始めたりできる仕組みをつくっていくことが求められている気がします。つまり、日本的な中間集団が社会の変革の抵抗勢力になってしまっている部分があるわけです。
 ただ、どちらか一方に突き進むのではなくて、旧来型の中間集団モデルとIT系の中抜きモデルを適切にハイブリッドさせることが重要なのではないでしょうか。その中で、変革へのダイナミズムと、法の支配や権力の分立といった権力チェックのメカニズムを両立させていかねばいけない。そういうハイブリッドの仕方がそれぞれの地域で違ってくるんじゃないでしょうか。

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宇野 ミラノヴィッチの本 [ブランコ・ミラノヴィッチ『資本主義だけ残った』] は私も面白いと思いました。リベラル能力資本主義では、能力の名の下に実は家庭的なバックグラウンドによる格差がどんどん大きくなって、もはや個人の努力ではどうにもならない形で固定化していく。政治的資本主義では、国家がグローバルプラットフォーム企業を従え、圧倒的な権力を持って資本主義を引っ張っていく。
 しかし、いくら資本主義だけが残ったといっても、この二つしかモデルがないとすると、どちらも正直言ってあまり魅力がありません。しかも、どちらもあまり民主主義にとっては好都合ではない。格差を固定化し拡大していくと、民主主義を支える平等性が損なわれてしまうからです。国家がグローバルプラットフォーム企業と癒着して圧倒的な力を持ってしまえば、権力に対する抑制や権力分立が利かなくなってくる。
 ですから、もし資本主義のモデルがこの二つしかないとすると、どちらも民主主義にとって未来はあまり明るくはないという結論になろうかと思います。
 そうなると、我々にとっての課題ははっきりしていて、一つはプラットフォーム企業をどうにかしなきゃいけないというのは間違いない。富を稼ぎ過ぎて格差をつくっていることもさることながら、あの組織の最大の問題は、組織の内部が非常に寡頭制的なんですよね。

中島 フラットな企業イメージと実質は真逆ですよね。

宇野 ええ。プラットフォーム企業は、いろんな技術や情報を人々に分け与えるという意味では確かに平等化に貢献している。しかし、それを支えているプラットフォーム組織自身は、極めて少数の人が決定している。しかも、その決定プロセスが外からよく見えないという極めて寡頭制的な構造を持っています。そういう組織が世界で大きな力を動かすのは本来望ましくないでしょう。
 ですから、プラットフォーム企業をたたき潰せとは言いませんが、少なくともあのオリガーキー的な、寡頭制的なメカニズムは是正していかなければいけません。

中島 よくわかります。

宇野 二つ目に、所有権の問題があります。所有権を絶対化していくと、それはそれで人類がもうもたないということも明らかになりつつある。ですから、ある種のコモンズという発想はとても重要です。財政による再分配のように、所有権を分割するだけでなく、誰もが利用できる、誰もが無料で使えるコモンズを充実させることも、社会の平等化を促すわけですから、所有権絶対からコモンズの時代へという流れも、今後の未来の必然的な方向性だと思います。
 こうした二点を踏まえると、熟さない言葉ですけれども、「ソーシャル・リベラリズム」ということが重要になってくるんじゃないでしょうか。自由主義ではあるけれど、新自由主義的なリベラルに対抗するようなソーシャルな次元を取り戻す。巨大プラットフォーム企業のオリガーキーを打破することと、所有権からコモンズへという動きを併せてソーシャル・リベラリズム的な方向を強めていかないと、民主主義は持たないかもしれません。

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中島 梶谷先生は、ソーシャルな面を強めていくことに関してどうお考えですか。

梶谷 そうあるべきという点では完全に同意するんですが、研究対象である中国や生活の基盤を置いている日本を見ると、資本主義をソーシャルなものによって縛りをかけていくという動きとは逆のことがむしろ起きているような気がします。
 中国に関しては、習近平政権がポストコロナの成長戦略として、生産要素の市場化や効率化を強く打ち出しています。ここでいう生産要素とは、従来の資本、労働、土地に加えて技術とデータが入った「五大生産要素」なんですね。これらについてプラットフォーマーによる独占や地方政府の非効率的な分配を打破して、全国的に効率的な市場メカニズムを作るという方針が示されています。
 ただ、これは先程触れた「第一次分配」については格差の拡大をどんどん進めます、と言っているようなものです。中島先生の指摘と重ねるなら、もともと社会に埋め込まれていた生産要素を、これからは市場ベースに乗せて効率的に配分していくと共産党が宣言をしているわけですから、格差や社会矛盾が拡大するのは必然だろうと思っています。こうした動きを見ると、中国の方向性という点では、資本主義の野放図な発展を抑えるという見通しには非常に悲観的にならざるを得ないですね。
 日本に関していうと、宇野先生が指摘されたように、行政のデジタル化の遅れであるとか非効率的なコロナ対応に対する批判の声が強まっているので、こちらも当面はDX(デジタル・トランスフォメーション)に代表される経済の供給面での効率化を促進する方向に進む気がします。ですから、日本の状況も非常に悲観的にならざるを得ないと思っています。


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In late 18th-Century Europe, a new fashion led to an international scandal. In fact, an entire social class was accused of appearing in public naked.

The culprit was Dhaka muslin, a precious fabric imported from the city of the same name in what is now Bangladesh, then in Bengal. It was not like the muslin of today. Made via an elaborate, 16-step process with a rare cotton that only grew along the banks of the holy Meghna river, the cloth was considered one of the great treasures of the age. It had a truly global patronage, stretching back thousands of years – deemed worthy of clothing statues of goddesses in ancient Greece, countless emperors from distant lands, and generations of local Mughal royalty.

There were many different types, but the finest were honoured with evocative names conjured up by imperial poets, such as "baft-hawa", literally "woven air". These high-end muslins were said to be as light and soft as the wind. According to one traveller, they were so fluid you could pull a bolt – a length of 300ft, or 91m – through the centre of a ring. Another wrote that you could fit a piece of 60ft, or 18m, into a pocket snuff box.

Dhaka muslin was also more than a little transparent.

While traditionally, these premium fabrics were used to make saris and jamas – tunic-like garments worn by men – in the UK they transformed the style of the aristocracy, extinguishing the highly structured dresses of the Georgian era. Five-foot horizontal waistlines that could barely fit through doorways were out, and delicate, straight-up-and-down "chemise gowns" were in. Not only were these endowed with a racy gauzy quality, they were in the style of what was previously considered underwear.

In one popular satirical print by Isaac Cruikshank, a clique of women appear together in long, brightly coloured muslin dresses, through which you can clearly see their bottoms, nipples and pubic hair. Underneath reads the description, "Parisian Ladies in their Winter Dress for 1800".