2022/8/14, Sun.

 (……)くだらない! 優れた芸術が知的なのは、人をどやしたてて命を吹き込むからで、そうでなければただのたわごとでしかなく、どうすればたわごとを書いてシカゴの『ポエトリー』に載せてもらえるのだろう?(……)
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、56; ジョン・ウェブ宛、1961年1月後半)




 昨夜はまたしても寝床で休んでいるうちに眠ってしまっていた。一一時くらいの時刻をみたおぼえはあるのだが。いちど覚めたときが三時一五分とかだった気がする。そこで明かりを落として就寝。朝は七時ごろから覚めはじめて、八時すぎに意識をさだかにした。鼻で深呼吸。目覚めたさいしょにやはりうごかず深呼吸をしばらくやっておいて、呼吸につかう筋肉をほぐしておいたほうがその後も楽な気がする。その他腹を揉んだり、胸をさすったり、もろもろからだをやわらげる。きのうの帰りにしゃっくりが出て吐きそうになったわけだが、そのときひっくひっくいうたびに背中も痛んだ。胃と背中というのはたぶん連動している。それで腹から胸にかけてかるく揉みながらちょっとずつ場所を移動させていくと、左の肋骨のいちばんしたの二、三本のあたりを揉むと背中がちょっと痛むことがわかったので、そのあたりを指先でかるく押してよくほぐしておいた。横になって背中のほうもたしょう。昨晩意識をうしなうまえ、一〇時半前に母親からSMSが来ていたので、それにも返信。また電車内で吐きそうになったことを報告しておき、気分と体調しだいで明日ちょっと顔を出すかもしれないと言っておく。兄はきょうの夜だかあしただかに行くらしい。
 そうして八時四三分に離床。屈伸したり背伸びをしたりしてから洗面所へ。顔を洗い、用を足す。出ると水を飲みつつLINEをチェック。きょうはもともと(……)および(……)とカラオケに行ったりする予定があって、きのうのことがあったから電車から降りたときにはとりやめようかなとおもい、だれもいなくなった(……)駅のホームでベンチに座って息をつきながら兄のSMSにこたえたときも、明日いこうはもう部屋にいるわと言ったのだったが、まあ吐きそうになるのは特定の場面だけだし、歌うたいたいしきょうはやっぱり行こうかなという気になっている。しかし明日、新宿まで出るというのはやはりかなり疲れそうだし、電車に乗る時間もながくて消耗しそうだし、そちらは休ませてもらおうかとかんがえている。そのかわりに実家に行くか否か、という感じ。まだつたえていないが。きょうは(……)に二時過ぎくらいに行けばよいようだ。
 蒸しタオルで額や目をあたためると寝床に帰り、ウェブをちょっと見たあと日記の読みかえし。昨年分はけっこういろいろ目にとまる部分がある。母親の繰り言についていらだっている記述は昨年当時はブログには公開しておらず(……)の記号によって検閲されている。いつまでも実家住まいでもろもろ依存しているくせに文句を言ったり、かのじょの心理や精神をさかしらに分析してみせるさまを衆目にさらすのはよくないかなという判断がはたらいたのだとおもう。しかしもう一年経ったしまあいいかとおもってしたに引いておいた。こちらの母親というにんげんはやはり息子であるこちらじしんとはかなりちがう、言ってみればもっとも身近にいる他者であり、その他者度がけっこう高いので、おりおり興味深さをおぼえて考察の対象になった。そんなふうにおらが親を観察対象である実験動物のように書いてみせるのもあまりよくない気がするが、とりわけじぶんは男性であちらは女性なわけだし、しかし母親について分析した記述をならべてみたらけっこうおもしろいんじゃないかともおもう。とはいえそこで書かれていることはたぶんだいたいいつもおなじだったとおもうが。だから母親が毎度反復する繰り言を受けてこちらもそのたびだいたい似たようなことを繰り返し書いていたのかもしれず、そうだとしたら繰り言がこちらの書きもののなかへべつのかたちに転化しながら転移したということになる。あとプルーストの感想もまたあって、去年のこちらはプルーストを読みながら毎日感想を書いているし、記事最下部にはその日読んだ範囲から気になった箇所の引用もならべていてなかなかよくやっているなとおもうが、感想部分を読んでみても小説の内容の要約がなかなかうまいなあとじぶんながらおもってしまう。けっこうよい紹介文になっているのではないか。メモ的引用のなかでは、〈418: 「あることがほんとうだからというのではなく、口にするのがたのしく、また自分でしゃべっていながら、その声がどこか自分以外からくるようにきこえるので、自分のいっている内容がはっきりつかめなくても、それを口にしていると、おのずから感じられるあの軽い感動(……)」〉という一節が、さすがだなとおもった。
 その後2014/1/30, Thu.も。「昨日の日記を書いたが、途中で絶望的に書けていないことに気づいた。書きたいことをまったく書けていなかった。言葉は一向に生まれ出てこず、ようやく出てきたものもはまるべきところにはまらず空転しつづけた。どうしようもないと思いながら午後二時まで書いた。午前中は晴れ空だったが正午には曇り、今や雨が降りはじめていた」という嘆きがある。段落のさいごに天気の経過を足してみるあたりにもういまのじぶんとつうじる性向があらわれている。書いているときの思考のながれがおなじなのだ。いついつまでなになにしたと置いたあとに、ここまでの天気のうごきはどうだったかなとおもいかえしてみせるという。そういえばまだ書いていなかったが、きょうは曇り日である。とおもっていたのだがいま右のカーテンのほうをみるとレースの向こう、保育園の建物の上方のなにかちいさなものがひかりを受けて白さを溜めているのがみえるし、右側にちょっと身をかがめて窓の上部に上目遣いをおくってみると、雲がありながらも青さがたしかに透けてみえる。カーテンの足もと、床ちかくの窓枠のあたりでも布がわずかにあかるみを帯びて靄めいた明暗のとりあわせをみせている。だんだんとそこから、ひかりのすじがほそくひらきはじめている。
 つぎのぶぶんは、この時期のじぶんにしてはわりと書けているというか、リズムにぎこちなさがないようにおもわれた。この日は全体的にそうで、もしかするとこのあたりでひとつなにかをつかんだのかもしれない。

 雨が去ったあとの穏やかな午後五時の空を眺めていると明確に日が伸びたように思われた。雨降りのあとだというのにマフラーをつけなくても冷えず、ただやけに白く濁る息が追い風にあおられて一瞬で広がり消えていった。それと同じような色の蒸気が車がしばしとまって立ち去ったあとのアスファルトからのぼっていた。乾ききらず残って散乱した水のかけらに太陽の最後の光を分けもった雲が映りこみ、路上が黄昏の色に染まった。濡れたアスファルトにトラックのヘッドライトが吸いつき、湿り気を帯びた光がその上を撫でるように渡っていった。
 昨日と同種の疲労感が家を出たその瞬間からあった。今すぐに部屋に戻ってベッドに倒れて眠りこみたかった。身体は動き精神も表面上は平静だが、内側からじわりじわりとにじみ出る不安が体内を侵食し、やがて筋肉の凝ったような身体の緊張と息苦しさに変わった。西天で残光に染まった雲の色や外気の涼やかさに一時は陶酔めいた感覚を覚えもしたけれど、波のように間欠的に高まる不安に薬を追加した。特有の重い安定感に浸りながらの労働となったが、わけもなく苛立ちや焦燥を感じもした。それは帰宅してからもいくぶんかはつづいた。苛立ちと焦燥が逆方向に転じて無気力に変わり、夕食後は本を読む気にもならず茶を飲みながら父が風呂から出るのを待った。日付が変わる前から日記を書き出して一時間半もかかった。

 そのあと(……)さんのブログもちょっと読み、一〇時をまわって二度目の離床。屈伸したり開脚したり、また水を飲んだり。一〇時二四分からちょっとだけ瞑想、というか大部分深呼吸したが。一五分ほどで切り、食事へ。キャベツを細切りにして大皿に乗せ、セロリをきょうはのこっていた葉のほうをシャクシャク切ってキャベツを覆うくらいにふんだんにばら撒く。その他トマトとダイコンとハム。しょうがドレッシング。あとはこのあいだコンビニで買った冷凍の唐揚げが二粒のこっていたのでそれを加熱して食す。食事中は(……)さんのブログを読んだ。八月七日の冒頭に、「11時半のアラームで一度目が覚めたが活動開始にいたらず。上階の物音にいちいちイライラしながらうとうとし続ける。椅子を引く音であったりミシミシいう足音だったり床をコンコン叩く音だったりが、ここ数日こちらの起床する時間帯にはほぼ毎日のようにくりかえされている。ババアの笑い声もときおりその中に混じる。物音はこちらが活動開始後ほどなく消える。つまり、午後になるころには静かになる。で、次にまたうるさくなるのはだいたい夜遅い時間、たとえば今日であれば21時以降である。つまり、爆弾魔は昼ごろに出かけて夜遅くまで帰ってこないという生活を続けているわけだが、そこにともなうババアが謎だ。母親か妻か恋人か知らんが、実在する人物なのだろうか、それともスマホかパソコンかテレビから聞こえる音声にすぎないのだろうか。マジでわからん。そもそも物音の主が本当に爆弾魔なのかどうかすらあやしくなってきた。以前はこんなにもうるさくなかったのだ。爆弾魔はすでに退去しており、別人が入居したという可能性だって十分に考えられる。」とあるのが、ちょっと不条理小説めいていて笑う。あとそういえばこれはきのう読んだ部分だけれど、『1984年に生まれて』(郝景芳/櫻庭ゆみ子・訳)の記述が、こちらが精神的にやばかったときに言っていたことと似ているんじゃないかとしてひかれていた。たしかに類似もあるにはある。しかし詳しいことはいまは時間がないし書くのがめんどうくさいので、のちに余裕があったら。

「先生、ちょっと前までよりずっと良くなったと思います。最近は自分の問題が何なのか少しわかってきています」
 私は言葉を切ってしばらく待ったが、医者は何の反応も示さない。そこで私は続けた。「自分自身の観点がない、というのがパニックの元なんです。私の通ってた学校には宣教師がいたんですけど、いつかそのアメリカ人と話したことがあって、その人が言うには、毎日頭の中でいろいろな考えが浮かぶ、それはすべて何もないところからひねり出されたもんじゃないかと思うかもしれないけど、それは違う。脳内にひっきりなしに考えが閃くのは、すべて神様がお送りになったからなんだ。神は我々の霊魂の創造主だ、だから我々は神に感謝しなければならないのだ云々とね。当時私は全然納得できなくて、誰かに考えを流し込まれるのは嫌だったし、言われるままに信奉するのはごめんだった。だからこの宣教師の言うことは頭から聞き入れなかったんです。でも今思い出してみると、彼に反論することができないんです。頭の中の考えは本当に自分のものなのか。誰かが注ぎ込んだものではないのか。おそらく神ではないだろうけれど、数千数万もの人々の声が注ぎ込まれているんじゃないのかって。歴史、金銭、書物、ロック歌手、愚痴や陰口、それからあと何か、うまく言えないんですけれど。こういったものがもしかすると魂の創造主じゃないかと。これ以外に一言でもいいから自分の言葉というものがあるのだろうかって」
(…)
(…)「この問題がすべてのことに影響してるんです。肝心なことは、もし一切が外界のことならば、もしいかなる考えも自分自身のものではないというのなら、私に自由なんていうものがあるのか、ということです。自由を見つけたいなどというのは、ぜいたくな望みなのか、ということなんです。この恐怖は薬では解決できないものです」

 食後はすぐに皿を洗い、(……)さんの八月七日の記事をさいごまで読み、そうしてきょうのことをさっそく書きはじめた。深呼吸をおおくやっておくとさすがにからだがあたたまっていてすぐやる気になる。ここまで綴ると一二時半直前。シャワーを浴びる。


―――――


 いま八月二一日日曜日の午後四時半である。ようやっとこの日のつづきにとりかかることができる。道中はわすれたので一気に(……)に飛ぼう。ちなみに一気に未来の時間にうつる物語技法をflash-forwardというらしく、要はflashbackの逆だが、英文記事を読んでいるとたまにflash-forward to ~~ という前置きが出てくる。(……)駅に着いてホームから階段を下り、下り立ったところで二度左折して改札に向かって、そとに出るとそのあたりを見回してみたが(……)や(……)のすがたがなかったので携帯を確認。もうすぐ着くとメールがはいっていたので立ち尽くして待っていると、じきにあらわれたので手をあげてむかえ、あいさつ。カラオケはそこだと、駅前から車道をわたって間近のビルがしめされて、さっそく向かうことに。まねきねこである。階段をのぼって二階。はいり、先客を待って受付。だれもカードを持っていなかったので(……)がつくってくれた。かのじょが仕切りをもうけたカウンターのむこうの店員とやりとりをしているあいだ、こちらと(……)はちょっと下がってなにかてきとうにはなしをしていたけれど内容はわすれた。じきにスマートフォンを活用した登録手続きが終わり、ワンオーダー制二時間で入室。部屋へ。飲み物はミネラルウォーターにした。(……)もそう。(……)はチキンだったかポテトだったか、軽い食い物をたのんでいた。水がほしいというのである程度まで飲んだところでのこりをあげた。水というのはペットボトルの「いろはす」である。自販機で一〇〇円で買えるのが三〇〇円とかしたのだからよほどぼったくっている。いったいなににそんなに仲介費がかかるというのか? 資本主義社会における営利企業の道義的責任をかんがえるべきだ。きょうカラオケ行こうぜと言ったのはこちらで、アパートに来ていらいとうぜんながらおおっぴらに歌をうたうことができないので、歌いたい欲が高まっていたのだ。実家の部屋ではけっこう大声で歌っていたが、それもさいごのほうはわりとはばかっていた。自由に歌がうたえる環境というのは貴重ですばらしいものだ。そういう環境に身を置ければよいのだが。それで歌をうたうのはひさしぶりだったので、やはりぜんぜん声が出なかった。OasisとかFISHMANSとかてきとうにいろいろ歌ったが、いぜんはふつうに出ていたはずの音域でもちょっと高くなると出ず、つづかない。というかいわゆるミックスボイスの出し方を喉がわすれていて、筋肉がうまい具合に組み変わらず高いほうにいっても低音部とおなじやりかたで無理やり出すという、いわゆる張り上げになってしまうのだった。(……)はあまりうたわず。たぶんアニメ方面の女性ボーカルの曲を一オクターブ下でちょっと歌ったり、なぜか終盤ちかくで急に”Highway Star”をうたったりしていたが。(……)はふつうに歌い、”(……)”の英語版を歌うために英語曲を練習しているとかで、Avril Lavigneのなんとかいうやつを歌ったりしていた。それを聞いておもったことを、一六日に(……)がいろいろ指摘したりアドバイスしたりしていたようだ。
 あまり声が出なかったのでやや欲求不満ではあるが、歌をうたうのはきもちよくすばらしいことであり、自由とは好きな歌を好きにうたえるということにほかならないので、たまにひとりカラオケ行くのもよいかもしれないなとおもう。アコギの練習もできるだろうし。スタジオはいっているとやはり金がかかってしまうので、はいるならカラオケだろうな。とにかく部屋だとジャカジャカコードストロークできないわけで、アコギでストロークできなきゃはなしにならん。それでカラオケを終えると会計して退出。階段をおりたところで精算。ひとり一六〇〇円。ここで金をわたすときに小銭がひとつ財布からこぼれおちて、そこにあった店舗前のなんだかよくわからない、ものがごたごた置かれてシートがなかばかかったあたりに転がっていって、しかし急がず精算を済ませてから反対側にまわってはいりこみ、地面をさがしたところ、五円玉が落ちていた。じぶんとしては百円を落としたような気がしており、また(……)も、百円じゃなかったの? と言っていたのだけれど、そのあたりを引き続きさがしてみてもほかに金は見つからないので、百円だったとしてもよい、五円はもらったし、この店にくれてやる、と言い放っておさめた。
 それであるいて(……)家へ。道中、先日(……)と通話したときのはなしを聞いたり。(……)が世界遺産検定の二級だかを取得したというのはLINEですでに情報をみかけており、予想外でおもしろかったのだが、(……)いわくそれを取ろうとかれがおもったのは、地理と歴史を勉強したいというきもちはまえからあって、世界遺産なら両方のことがらをふくんでいるからやってみようという気になったということらしかった。勉強はテキストがあるので基本それを暗記するだけだという。二級といってどのくらいの感じなのか、ぜんぜんわからない。検定は一級までではなくてそのうえもあるらしいが。(……)
 (……)家に着いてからは背負ってきたアコギをケースから取り出してさっそくてきとうに弾いてあそんだのだが、じきに"(……)"の英語版を録音することに。いぜん、(……)がつくった歌詞をいっしょに確認して修正したりメロディをはめたりし、まあこんなもんかなというかたちにしてあり、てきとうなときにこちらがざっと歌ったのを携帯で録り、発音やリズムの参考にしてもらうというはなしになっていたのだが、パニック障害が再発したりなんだりでやっておらず、きょう録ることに。そのまえに(……)にも確認してもらう。それでかれがたしょう修正案を出したり、ここはどういうリズムかと聞かれるので口ずさんだり。あとはまたギターをいじったり、横になってゴロゴロくつろいだり胎児のポーズをとったりしていた。それでOKとなって歌を録ったのはたぶんもう八時くらいだったのではないか。一番ごとに録ることに。(……)の携帯でメトロノームを出してもらいながらすこし練習して、どんどん録っていく。べつに(……)が英語のいいかたとリズムを理解し下敷きにするためだけの音源なのでうまく歌う必要もなく、練習時は気楽にさらさら歌っているのだが、じゃあやろうと言ってかのじょが携帯をかまえるとそれだけのことなのにわずかに緊張するのがじぶんでわかり、からだがかたくなるので歌もリズムがあまりながれなくなったりする。それでも一番ごとに区切っていったんストップを押しつつまずさいごまで録り、二番だけ別案があるのでそれも録った。ぜんぜんたいしたしごとではないが終えると(……)がありがとうございました、と拍手しながらクランクアップです! とか言うので、それに乗っかって、いやー、いいしごとだったね! いい現場だった! などとおふざけを言って笑った。録ったものをながして確認。ぜんぜんうまくはないが、目的にたいしてはじゅうぶんだろう。
 それで夕食。ピザを注文することに。(……)くんが、かれはこの日THE IDOLM@STERかなにかのライブに行っていて不在だったのだが(一〇時ごろ帰ってきた)、注文するようにと代金を置いていってくれたというのでチラシを見てそれで(……)が注文。チラシで押されていて安くなるとかいう品で、いろいろチーズがはいったやつとイタリアン的なやつを合わせたやつ。またいっぽうでゴーヤチャンプルーをつくると。豆腐がないのでチャンプルーではなく、たんにゴーヤとか豚肉を炒めた料理になってしまうと言っていたが。こちらはなにか手伝うことがあればやろうとおもって申し出たのだけれど、そのときかんぜんにあおむけで寝転がってゴロゴロしており、しかも台所にいた(……)を店長! と呼んで(というのはいぜんかのじょが唐揚げをつくってくれたときにもおなじおふざけをしたのを踏まえているのだが)、なんかしごとないっすか? なんでもやりますよ、言ってください、こいつも(と(……)を巻きこみ)新人なんで、なんでもやりますよ、とロールプレイでふざけたので、いやこのバイトかんぜんにやる気ないでしょ、寝てるし、しごと舐めくさってるでしょ、と笑われてしまった。休憩中だったのだ。それで料理じたいは手伝わなかったが、テーブルを準備したりできたものを運ぶくらいのことはやった。食後は皿洗いも。(……)は注文したピザが三十分くらいで来ると聞いていたのでそれと料理とどっちがさきにできるかと勝負をしていたらしいのだが、ピザはなかなか来ず、ずいぶん時間がかかって余裕の勝利をおさめ、そのうちに連絡があって聞けば配達員がマンションのばしょをわからず迷っているという。スーパー(……)の向かいだということを(……)がつたえ、それで到着。おじさんだった、いかにも道に迷いそうなおじさんだった、という。それでピザはすこし冷めてあつあつというわけには行かなかったのだがなんでもよろしい。炒めものもうまかった。ところでこのときゴーヤ炒めを盛ったこちらの皿は縁にbuttercupという筆記体で書かれた英字とともに黄色い花の絵がちいさく描いてあるものだったのだが、buttercupってなんだっけ、ヒナギクだっけ? ととなりにいた(……)に聞くともなく聞いてみると、あ、そうだったかもしれない、とかのじょは応じ、ものを食べたあとにスマートフォンで検索しはじめた。しかし出てこないという。なんかロボットみたいな、へんな機械みたいなやつが出てくると。そんなはずあるまいとおもって携帯をのぞいてみると、グーグルの検索欄に入力されていたのはbuttercupではなくbettercapだったので、まちがっているとつたえながら笑い、これおもしろいな、いいね、これは(……)くんに報告しなきゃと言った。かのじょは携帯で文章を打つと打ち間違いが多発して、LINEに投稿するメッセージなどほぼ毎回なんらかの誤字とか脱字がふくまれているくらいなのだけれど、主に(……)くんと(……)がそれをとりあげてからかうことがおおく、(……)くんは気に入った言い間違いとかを記録してときどき笑っているくらいなので、これはなかなか質がいい、ぜひとも報告しなければとおもったのだった。それでこの日はわすれていたが、翌日LINEで(……)にわすれず報告してくれとたのんでおいた。それにたいして(……)は、「げげげ」と投稿していた。ところでbuttercupはけっきょくヒナギクではなく、キンポウゲだった(ヒナギクdaisy)。buttercupをなんか聞いたことがあるなという記憶の典拠としてあたまにあったのはマリ・ゲヴェルスの『フランドルの四季暦』で、そこになんかそういう語が書かれていた気がしたのだが(ヒナギクのはなしもされていて、いくつも呼び名をあげられていたはず)、Evernoteの書抜きをいま見返してみたかぎりではキンポウゲのはなしは見つからなかった。ヒナギクのくだりはあったので引いておく。

 四方八方から呼ぶ声が上がり、けなげなヒナギクは冬の眠りに別れを告げ、芝生に、土手の斜面に、あるいは敷石と敷石の隙間にも姿を見せます。
 蕾のときは真珠に似ています。だから早くも中世には、北でも南でも、フランス全土の吟遊詩人が、この花をマルグリットと命名したわけですが、それはマルグリットの元になるマルガリタが、ラテン語で真珠を意味するからです。
 でも、名前を一つだけにしておくには可憐すぎるヒナギクに、人々はパクレットという呼び名も贈ったのでした。開花の時期が復活祭[パク]と重なるからです。そんな由来があったからこそ、リエージュとその在では、初聖体の日を迎え、白の晴着で野道を行く少女たちに、「パケット」と呼(end56)びかける習慣が残っているのです。
 ほどなくして、日差しも暖かさを増してくると、黄金色の花芯を囲む花びらが、どれも薔薇色に染まっていきます。この微笑ましい色の変化から方々で伝説が生まれました。聖母マリア様がヒナギクを御覧になり、にっこり微笑まれたので、ヒナギクは嬉しさのあまり赤面した、というのです。フランドルの人がヒナギクのことを聖母の愛し子と呼ぶ所以です。
 ラテン語は花に植物学上の名をつける学術語ですが、その謹厳なラテン語も相手の可憐さに心を動かされたのでしょう、ヒナギクにこう呼びかけました。「ベッリス・ペレンニス」。永遠の美女、という意味になります。イギリスの人々はさらに愛情のこもった名前を思いつきました。デージーの語源は日と眼を意味する二つの単語ですから、これを訳せば「日の眼」となります。メアリー・ウェッブが花に語りかけた詩の中で「睫毛が長い日の眼」と歌っているのも、この語源を踏まえてのことです。ドイツに行くと、草原に散らばる、白い小さな群れのようなその姿から、ヒナギクは「鵞鳥の花」と呼ばれますが、これも言い得て妙ですね。それに、ヒナギクと同系統のフランスギクに目を向けて、そのギリシア語起源にさかのぼれば、ドイツ語の呼び名は正しいことがわかります。学名に含まれる「レウカンテムム」の一語は、端折って言えば「白いもの」を意味す(end57)るのですから。
 (マリ・ゲヴェルス/宮林寛訳『フランドルの四季暦』(河出書房新社、二〇一五年)、56~58; 「三月、そして春分」)

 
 ついでにとうじのこちらの評文もあったのでこれも引いておく。この本を読んだのは二〇一七年の九月二八日から一〇月五日のあいだらしい。

 マリ・ゲヴェルス/宮林寛訳『フランドルの四季暦』。明晰さと細やかさを併せ持った観察力による、緻密な自然描写に溢れた宝箱のような散文作品。季節とともに変容していく外界の差異=ニュアンスを、計測装置のような精密さでその隅々まで余さず感得しては、瑞々しいイメージの数々で豊穣に飾り立てずにはいられない幻視家の精神がここにある。

 様々な事物や現象の特質に対する書き手の敏感さは、ほとんどどの頁にも発露されていると言って良いくらいだと思うが、「ぬかるみには数えきれないほどの種類があります」(59頁)と述べられるのには、とりわけ目を惹かれる。大方の人間にとってぬかるみとは、水分を含んでどろどろとした軟質に特徴づけられる単なる土の一形態であり、そのうちにさらに複数の「種類」を見分けようとする者は、ほとんどいないだろうと推測されるからである。ここでは道路のぬかるみ、畑のぬかるみ、そして畑に通じる道にできるぬかるみと、三種類が紹介されるのだが、一番多く言葉を費やされ、個人的にも最も魅力的に描かれていると感じるのは最後のもので、「これこそ春のぬかるみ」だと言われるそれは、「滑らかで、美しい艶のある赤褐色のクリーム」と喩えられ、「写本の彩色文字を思わせる水たまりに囲まれ」、「なかなかに豪華な」ものだと評価されている。
 その次の断章では、「十七の娘」である「あなた」に語りかける二人称の形で、ぬかるみのなかを歩く時の感覚が記述される。ぬかるみに踏み入ってから水が靴に滲み込んでいき、ついには両足とも沈みきってしまうまでの過程が、諸々の段階に区分されて綿密に描出されるのだが、瞬間から瞬間へと次々に変容していく土/水と足/靴の状況を実に丹念に追って行く書き手の観察力は、例えばぬかるみが「縁を越えて」木靴に滲み込んでくる時の方向を、「踵の側から」とわざわざ指定してみせる細かな目配りを忘れない。ここには、上の「分類」とは異なって通時的な「分割」の形ではあるが、やはり物事のニュアンスに対する鋭敏な感受力が見て取られるだろう。差異への敏感さとはすなわち、分節への情熱のことである。


 (……)くんが帰ってきたときはライブあとの熱がのこっていたようでめずらしく目がギラギラしているような感じで、テンションがやや高かった。前日から豊洲のホテルにはいっていたようだ。こちらは一〇時台後半だったか一一時ごろだったかわすれたが、そのへんの電車で帰ることに。(……)くんに録ったボーカル音源を聞いてもらうと、「美声だな」と評された。カラオケでよく歌ったあとだったので、わりとふくよかにはなったようだ。帰路のことは特段ないので割愛しよう。


―――――

  • 日記読み: 2021/8/14, Sat. / 2014/1/30, Thu.

麻婆豆腐をこしらえているあいだ、いっしょに台所にいる母親は、山梨に行っている父親について、あんなに蜂の箱をたくさんつくらなくてもいいのに、ひとつかふたつくらいだったらいいけど、できなくなったらどうするんだろ、蜂箱をもってきたひとをうらむよ、わるいけど、もうはたらかないのかなあ、七〇くらいからやるんだったらまだいいかもしれないけど、まだなんでもできるんだからさあ、という調子で、まさしく繰り言というにふさわしいいつもの愚痴を垂れていた。ほぼ毎日、このおなじ内容の愚痴を口に出しているとおもう。それを耳にするこちらはずっと黙っているだけだが内心ではけっこう苛立っていて、いい加減に黙れと怒鳴りたい欲求をかんじるくらいには苛立ちをおぼえながらも、麻婆豆腐の下ごしらえとして豆腐をゆでたり、左右に開脚して脚の筋を伸ばしたりしてやりすごしていた。母親はガスコンロのひとつでゴーヤのワタをつかったお好み焼きみたいな料理をまた焼いていたのだが、トイレに行くからちょっと見ててといって彼女がその場をはなれたときは、これで鬱陶しいことばを聞かなくてすむと安堵し、助かった、とほっとしたものだ。じっさいそこで一区切りついて、そのあと帰ってきても母親はもう愚痴を吐くことはなかったのでありがたかった。なぜじぶんがここまで母親の愚痴に苛立つのかというのはかならずしも詳細に明確ではないのだけれど、ひとつにはその純粋な反復性があることはまちがいがない。ほんとうに、毎回毎回おなじことば、おなじ内容なのだ。じぶんにあてられたものではないにしても、そういうかたちで日常的に文句を聞かされていれば、それはストレスになる。もうひとつにはその不毛さにたいする軽蔑という情もあるだろうし、あとは父親の自由とか意思とかたのしみとかをおもんぱかって尊重してやれないその態度に狭量さを見て苛立つということもあるだろう。この最後の点は父親個人の気持ちなどをかんがえて味方をしているというよりは、ひとにたいするより一般的な振舞い方の方針にかかわるものだとおもわれ、つまりそういうふうに個人の自由を尊重せずに横からぐちぐち文句を言うような態度一般が気に食わない、ということだとおもう。だからそれはいわば道徳的な問題でもあり、政治的・イデオロギー的な問題でもある。ただ母親の立場からしてみれば、勝手にいろいろやられても、年をとってそれができなくなったり父親が先に死んだりしたあとに(父親のほうがじぶんより先に死ぬということをなぜか母親はわりと確信しているように見えるのだが)、けっきょくじぶんが後処理をしなければならなくなる、というあたまがあるのだとおもう。ツケがじぶんにまわってくる、と。母親はここ数年来、そういうかんがえに取り憑かれていて、死ぬまえにできるだけかたづけをしておかないとあとにのこされたものがたいへんだということばを非常にしばしば口にしている。それはひとつにはうえのように父親にまつわってじぶんが負わなければならなくなる後処理をみこんでいるのだろうけれど、それだけではなく、母親はわれわれがいま住んでいるこの家についてもおなじことを言って、もっとかたづけたいけどなかなかかたづけられないとたびたび表明しているから、じぶんが負うわけではない後処理についてもそのなかにふくまれているようだ。それはおそらくあとにのこされるだろう子であるこちらや兄に面倒をのこしたくないという殊勝なおもいもいくらか寄与しているのかもしれないが、なんとなくそれだけではないようなかんじもあって、なんというか母親にとっては、生前整理をしないということ、かたづけをしないまま逝ってあとにしごとがのこされるということそれじたいが、あとに誰が処理をするかとか子どもがたいへんだとかいうこととはなかば分離したかたちで、それそのものとして避けるべきこととしてオブセッションと化している、というような印象も受ける。

しかし、こちらとしては、年を取ってできなくなったらどうするんだろ、という母親の疑問にたいしては、それ言ったらそもそもなにもできなくなるじゃん、というごく素朴な反問を単純におぼえてしまうのだが。ここにある母親の思考構造は、いずれ死ぬのだからなにをやっても無意味であるというニヒリズムのそれと共通している。内実はまったくおなじなわけではなくて多少差があるが、未来を先取りしてそれをもとに現在の事象を否定的に解釈するといういわば自己去勢の構造じたいはおなじものだろう。

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プルーストは413からいま456まで。「スワンの恋」のつづき。フォルシュヴィル伯爵も出てきて、スワンもヴェルデュラン夫妻から煙たがられるようになり、いよいよそろそろオデットとの関係に苦しみはじめるところだ。ヴェルデュラン夫妻とそのサロンにあつまる連中というのは、スワンが行き慣れていた貴族などがあつまる上流社交界の趣味や価値観からすると(スワンじしんはそこに慣れ親しんだことともちまえの皮肉ぶりでその上流社交界じたいも本質的にはたいしたものではないといくらか軽侮の念をもっているのだが)一段もしくは数段下がるというか、やや卑俗に映るような振舞いとか価値観の持ち主たちで、だから医師コタールがくだらない冗談を吐きまくってみんなが笑っているなかでスワンひとりはそれに乗れずお愛想としてのほほえみを漏らすほかないし、大学教授ブリショの軍隊式口調をまじえた長広舌は衒学的で粗野だとかんじられるし、ヴェルデュラン夫人をはじめとしてひとびとがじぶんより上層の公爵夫人などを「やりきれない連中」とけなし、まだあんなひとたちのところに行ってはなしあいてをしてあげるひとがいるなんて信じられない、などとこきおろすときにも、スワンはじっさいにその公爵夫人(というかレ・ローム大公夫人で、これは要するにのちのゲルマント公爵夫人である)と親しい知り合いなので、あの方は聡明で魅力のある方ですよと擁護せざるをえず、ヴェルデュラン夫人をカンカンに怒らせ、一座をしらけさせてしまう。そういう、ひとびとのスノッブぶりとか虚栄心とか、スワンの繊細さとか、それがどう受け止められるかとかのようすはおもしろく、また、読みながら、ああ……そうね……なるほど……みたいなかんじにならないでもない。そういうエレガントで理知的なスワンがオデットに恋したばかりに(その恋情もボッティチェルリの作品を重要な要素として介しているという点でだいぶ特殊なようにおもわれるが)つまらん連中の卑俗なサロンに出入りしなければならず、それどころか出入りすることに幸福をかんじていたりとか、オデットをいわば「啓蒙」するのではなく彼女の趣味にあわせて俗っぽい芝居を見に行ったりすることにやはり幸福をおぼえたりとか、まさしく恋に狂ったような心情におちいったりとか、そのいっぽうでじぶんのこころを冷静に分析するところもあったりとか、しかしそれは部分的なものにとどまって醒めるにはいたらなかったりむしろ恋情をうしないたくがないために都合の良い理屈をでっちあげたりとか、そういった恋愛者の心理や行動の解剖はまあやはりおもしろい。結末を先取りしてしまうと、たしかこの部のさいごでスワンは最終的にオデットとの関係に苦しめられることもなくなり悟ったような心境にいたって、「あんなつまらない女にこんなにのめりこむなんて、まったく俺も馬鹿な時間のつかいかたをしたもんだ!」みたいなことを吐いていた記憶があるが(そう言いながらもスワンはけっきょくオデットと結婚するわけだが)。

あと、プルーストは一般的・理論的(やはりあくまで文学者としてのそれなので、似非理論的とでもいうようなかんじだが)な考察とか説明をしたあとに、それは~~とおなじことである、あたかも~~のようなものである、とかいって、比喩をつけたして説明のたすけにすることがおおいのだけれど、そこで提示される比喩イメージはふつうの作家とくらべると相当に具体的というか微に入るようなもので、その記述がそれじたいかなりながくて何行にも渡ったりすることがままあるので、それ比喩として適切なのか? 説明としてむしろわかりにくくなってないか? とつっこんでしまうところがあっておもしろい。ただ彼は書簡のなかで、「個別的なものの頂点においてこそ普遍的なものが花開く」ということばを書いているので(正確な典拠は省くが、これはロラン・バルトコレージュ・ド・フランス講義録の三冊目、『小説の準備』のなかに引いていた)、その言にしたがったプルーストらしい作法だといえるのかもしれないが。

プルーストは368から370あたりにかけてオデットの自宅が描写されているのだが、そこには日本や中国や東洋の文物がふんだんに散りばめられている。まずもって家のまえの庭には菊が生えているし、サロンにも「当時としてはまだめずらしかった大輪の菊の花」がならべられてある。サロンにむかうまでにとおる階段通路の左右には「東邦の織物や、トルコの数珠や、絹の細紐でつるした日本の大きな提灯」がさがっているし、サロン内のようすにもどると、「支那のかざり鉢に植えた大きな棕櫚とか、写真やリボンかざりや扇などを貼りつけた屛風」もあり、まねきいれたスワンにオデットが提供するのは「日本絹のクッション」だし、果ては「部屋係の従僕が、ほとんどすべて支那の陶器にはめこんだランプをつぎつぎに数多くはこんできて」、室内をいろどりだす。「当時としてはまだめずらしかった」とプルーストじしんもしるしているように(この時点の時代設定はたぶん一八八〇年代後半から一八九〇年あたりが主となっているとおもうのだが)、そのころフランスにおいて日本趣味の流行があったらしく、たぶん当時のこういう「シック」な連中(もしくは「シック」を気取りたい連中)は東洋的文物を積極的にとりいれて宅に配置したのだろう。そのあたりのいわゆるジャポニスムにも興味が惹かれるが、それはプルーストの小説への興味というより、もっと一般的なフランスの文化史や社会風俗にかんしての興味である。ところでこのさいしょのオデット訪問のさいにスワンはシガレット・ケースをわすれてしまい、帰ってまもなくオデットからそれを知らせる手紙が来るのだけれど、(この訪問を描くながい一段落のしめくくりとして)そこに記されているのは、「どうしてあなたのお心もこれといっしょにお忘れにならなかったのでしょうね。お心ならば、こうしてお返しすることはなかったでしょうに。」(372)という文句で、これを読んだときに、まるで平安朝の和歌のような口ぶりではないか? じっさい、なにか有名な和歌でこんな内容のものがなかったか? とおもったのだった。日本の和歌俳句も一九世紀末かすくなくとも二〇世紀初頭にはたぶんフランスにすでにはいっていたとおもうのだけれど(たしかフランス人と結婚したかでむこうにわたって和歌アンソロジーみたいなものをつくった日本人女性がいたような記憶があり、これもロラン・バルトの『小説の準備』のなかで読んだ情報である)、プルーストがそこまで読んでいたかというとさすがにそこまでは読んでいなかったのではないか。だからおそらく、日本趣味にあふれた邸内のようすを記述する段落を閉じるこの一節が(こちらの印象では)和歌っぽいとして、それは偶然だとおもうのだが。

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新聞。国際面。タリバンはひきつづき攻勢をつよめて各地を奪取しており、夕刊では全三四州のうち一七州都をとったとあった。米国には、アフガニスタン政府軍がここまで対応できないとはおもわなかった、という誤算があるらしい。兵力じたいは政府軍が三〇万でタリバンが一〇万ほどだからふつうに政府軍が勝てそうなものだが、駐留米軍トップが、特殊訓練を受けた七万五〇〇〇の精鋭を要衝にわりふって拠点をまもるべきであるとアドバイスしたのをガニ大統領がきかず、あさくひろく各地に散らばらせて展開する方針をとった結果、各地でタリバンから奇襲を受けたりしてまともにたたかわないままに敗走を喫することがおおい現状らしい。カブールはいちおうまだいますぐどうという状況ではないという声があるようだが、じっさいのところ、カブールが落ちる落ちない、タリバンが政権を奪取するしないにかかわらず、現時点までですでに、政治的影響力とかたたかいでえられるものとかの観点からしタリバンの勝利でアフガニスタンおよび米国側の敗北と評価して良いことは新聞を読んでいるだけの素人の目からしてもあきらかではないか? ホワイトハウスにも、危機感とあきらめのいりまじった雰囲気がただよっている、と記事にはしるされてあった。二〇〇一年以来の二〇年を経て米国とアフガニスタンがえた結果がこれなのだ。米国がアフガニスタンにもたらした結果、と言っても良いはず。

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アイロンかけをしていたときに南窓のむこうに見えた空は端的な白一色のむらのない塗りつぶしで、きのうおとといは灰色がいくらかひきちぎったフェルトみたいにひっかかっていたのだけれど、雨降りのきょうはすべて一色でおおわれているために個別の雲すら存在しない白だった。山はその空に上方をやや侵食されている。このときだったかテレビのニュースでは各地で大雨のために道路が冠水したり川が激しくなったりしているという報がつたえられ、岐阜県飛騨川と長野県南木曽(「なぎそ」と読むことをはじめて知った)の木曽川と、あと佐賀県武雄市江の川というのがあげられていたとおもったが、記憶に自信がなかったのでいま検索したら江の川は佐賀ではなくて島根県だった。佐賀県武雄市が映ったのもまちがいはない。ところで江の川というのは「えのかわ」と読むのだろうとおもったところが「ごうのがわ」という読みで、「江の川」という文字が画面に何個か映りながらもアナウンサーが「ごうのがわ」と発音するのでその文字と声のあいだに連関をつけられず、ごうのがわってのはどういう字なんだ? どこに書いてあるんだ? とすこしのあいだ目を走らせてさがしてしまう、ということが起こった。

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風呂で止まって安らいでいるときになんとなくおもったというかおもいだしたのだけれど、こちらがパニック障害になって瞑想を知ったころ(パニック障害のさいしょの発作にみまわれたのは大学二年当時の秋だから二〇〇九年の、たぶん一〇月だった気がするのだが(まだ大学祭をむかえてはいなかったはずで、大学祭はたしか一一月のさいしょにあったとおもうので)、その後たぶん二〇一〇年中には瞑想をすこしばかりやるようになっていたはず――復学して大学三年生になった二〇一一年に、英文を輪読する(……)さんの授業でいっしょになった(……)なんとかいうスペインかどこかのハーフのすらっと背の高くて顔立ちも西洋人寄りだった女性がいて(たしかサルサダンスだかフラメンコだかを熱心にやっているというはなしだった)、そのひとにパニック障害のことをはなしたときに、瞑想とかやってみたらとかえされて、瞑想はときどきやってんだわ、とこたえた記憶があるので、二〇一一年中にやっていたのはまちがいない)、「マインドフルネス」ということばは、だいたい「マインドフルネス心理療法」というかたちで、あくまで精神医学方面の治療法のひとつとして提示されることがもっぱらだったな、と。だからあまり一般には知られていなかったはず。じぶんはたぶん休学中の二〇一〇年のあいだだったかとおもうが、図書館で関連書をひとつふたつ借りて読んだようなおぼえもある(とはいえいっぽうで、Steve Jobsがそういう瞑想を習慣にとりいれているというはなしもすでにそこそこ流通していたような気もするが)。そこから一〇年でずいぶん人口に膾炙してたんなるリフレッシュ法とかストレス低減のセラピー的なものとして大衆化したなあとおもったのだった。

そういうことをかんがえたときにはまだRonald Purser, "The mindfulness conspiracy"(2019/6/14)(https://www.theguardian.com/lifeandstyle/2019/jun/14/the-mindfulness-conspiracy-capitalist-spirituality
をひらいてはおらず、ウェブ記事のURLをメモしてあるノートのなかでつぎに読むあたりの記事のなかに偶然これがあって読むことにしたのだが、まさしくうえでいったマインドフルネスの大衆化・商品化が、指導者や推進者の意図はどうあれ資本主義システムと結果的に共謀することになってしまっている、という論旨の記事で、いわく、マインドフルネスがおしえる現在の瞬間を無判断的に観察してあるがままにしておくという技法や、個人の不幸や苦しみは最終的にはそのひとのこころのなかの迷妄とかに帰せられるものでそこを解決すれば幸福になれるとかいう言い分とかは、すべての問題を内面性に還元してしまうもので(非常にひらたくいえば、すべてが「心の持ちよう」の問題になってしまうということだろう)、(仏教の知恵が本来もっていたはずの道徳的・倫理的側面を欠いており)個人の苦しみを生み出している外的な諸要因、つまるところ社会構造とそのなかでの権力の布置・配分・占有とかへの批判的視点を涵養しない、したがって根本的な問題の解決や解消や変革へと個々人を導くことがないまま、中途半端に現状に満足してストレス低減策になぐさめられながらそこそこうまくやっていく主体、いわばmindful capitalistを生産するばかりである、みたいなはなしで、なんかめちゃくちゃオーソドックスな左派的もしくはマルクス主義的論説だなという印象をえたのだけれど、たぶん西洋社会でのこの方面にかんする実態をわりとただしく記述しているんじゃないか、という気はした。まだとちゅうまでしか読んでいないが。そもそも、TIMES誌が特集したマインドフルネス特集のときの記事の一文句として、〈“The ability to focus for a few minutes on a single raisin isn’t silly if the skills it requires are the keys to surviving and succeeding in the 21st century,” the author explained.〉と引かれたりしているのだけれど、survivingはともかくとしてもsucceeding in the 21st centuryってなんやねん、マインドフルネスがそこから出てきた仏教のおしえやブッダはそんなことちっともかんがえていないどころかそういう発想からひとを自由にするということをこそ実践していたのではないのか、とおもった。それはともかくとしても、Jon Kabbat Zinというひとが西欧におけるいってみれば近代的もしくは現代的マインドフルネスの方法論の創始者とみなされているらしいのだけれど、いまマインドフルネスを実践しているひとびとのなかにはたとえば企業の幹部連とか役職者とかもけっこうおおいようで(Steve Jobsもやっていたわけだし)、彼らにマインドフルネスを指導しても、彼らの会社が従業員たちにどういう負担を強いているかとか、システム的にどういった問題があるかとかそういう方面には目をひらかせることにはならず(そういう方向に観察と反省をめぐらせるような指導のしかたはせず)、ただじぶんがバリバリはたらくにあたっての負担やストレスを緩和してより強力な企業活動を推進していくための単なる一ツールになってしまっている、というわけで、それはたぶんわりとそうなのだろう。それは幹部連まで行かずともふつうの労働者についても言えることで、現状を(根本的に)改善しないままそれなりに乗り切るための手助けにしかなっていないというわけだが(こちらじしんも、バリバリはたらかずにだらだら生きている人種ではあるけれど、日々をすこしばかり楽にするツールとして瞑想をつかっている側面があるのは否定できないところだ)、こういう分析はアドルノがジャズについてしていたものとたぶんだいたいおなじなのだとおもう。アドルノじしんの文章を読んだことがないし聞きかじりでしかないからよく知らないのだけれど、アドルノはジャズについて、労働者たちを踊らせることでつかの間慰撫してフォーディズム的生産体制のなかによりうまく適合させるための低俗な音楽でしかない、みたいなことを言っているらしく、踊るとか言っているのだとしたらアドルノがジャズとしていっているのはたぶんスウィングあたりのジャズのことのはずで、せいぜいビバップのはじまりくらいで、ハードバップまではたぶんふくんでいなかったのではないかとおもうのだが。だから時代的にいうとおそらくせいぜい一九四〇年代前半くらいまでのもので、一九五〇年以降のジャズはふくまれていないのではないかとおもうのだが。

個人的には、物事にたいして判断や評価をしないというのは、あるとしてもつかの間のことにすぎず、そのように生きていくのは最終的には人間には不可能だとおもうし、マインドフルネスというか瞑想的方法論において身につくのはたんなる相対化・対象化の姿勢、つまりじぶんのこの考えや認識は事実ではなくて判断である、とか、判断が判断である、感情が感情である、思考が思考である、ということをより明確に認識できるようになる、というくらいのことではないかとおもう。相対化というのは、確実なものはなにもないという全的ニヒリズムとしばしば同一視されるいわゆる相対主義や、相対化・対象化したその物事を否定するということとおなじではなく、ただそれが絶対なわけではないということを知る、というだけのことにすぎない。だからいってみれば、思考や認識にワンクッション分だけバッファーを置く、というくらいのことでしかないはず。それによって結果的により良い、より精錬された判断をできる、かもしれない、というのが、仏教の教義としてはそういうことは言っていないかもしれないが、マインドフルネスなるものの実際的効用(もしそれがあるとすれば)ではないかとおもうのだが(あとは、瞑想をしているとなぜかわからないがからだの感覚がまとまって心身がおちつき楽になるという、作用機序がよくわからない生理学的効果があって、それがまさしくストレス低減策・リフレッシュ法ということだろう)。あと、こちらの体感では、瞑想習慣をおこなうことで観察力がやしなわれるのはじぶんの内面にたいしてばかりではなくて、外界の物事にたいしてもひとしく観察力がみがかれるはずだとおもうし、その点についてはむしろより積極的に、そうでなければならないとおもうのだが。

それにしても、GuardianのこのThe long readのシリーズってじっさいけっこうながくて読むのもわりとたいへんなのだけれど、テーマは多様でおもしろそうなものがおおいし、思想方面もカバーしているし、これだけの量と質をもった記事を(Audio版をのぞいて)一週間に二つくらいはコンスタントにアップしているのだから、Guardianってマジでやばいメディアだな、と、マジで世界でいちばんすごいメディアだなとおもう。さいきんのを見てみても、Paul Gilroyについて詳細に紹介した記事とか、いまだに武装闘争をつづけているアイルランド共和軍の残党についてとか、中国がビデオゲーム界隈にどういう監視の手をひろげつつあるかとか、イラク戦争にまつわる米国の神話とか、英国のインド統治についてアマルティア・センがかたっているらしき記事とか、ポーランドハンガリーが近年なんであんなに反動的になっているのかとか、そういう話題が見られる。

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418: 「あることがほんとうだからというのではなく、口にするのがたのしく、また自分でしゃべっていながら、その声がどこか自分以外からくるようにきこえるので、自分のいっている内容がはっきりつかめなくても、それを口にしていると、おのずから感じられるあの軽い感動(……)」