2022/8/17, Wed.

 あなたがわかっているただひとつのことは、ジョン、わたしがわかっていることだ。芸術は芸術で、どう名づけるのかは二の次だ。わたしたちは文学界の政治家ではない。ブラック・マウンテン、ニュー・クリティック、『Folder /フォルダー』、ウェスト・コースト、イースト・コースト、Aと一緒のG、Xと一緒のL、誰がどこの誰と寝ているのかわたしたちは知らないし、どうでもいいことだ。どうしてこうしたマスかき野郎たちは輪になるのか? どうしてやつらは文句ばかり言うのか? とんでもない数の無能やゲス野郎どもが自分たち以外のあらゆる発言を掃討しようとしている。それは極めて自然なことだ。サバイバル、生き(end82)残るため。しかしいったい誰がゲス野郎として、そのことを自慢したいやつは別として、生き残りたいというのか? ご存知のとおり、わたし自身も編集を少しはやり、とんでもないプレッシャーがあることもわかっている。あなたがわたしを出版してくれたら、それならわたしもあなたを出版しよう。わたしはJ・B一味の友だちだ(ここでわたしはマックリーシュのJ・Bのことを言っているのではない)。誰もが『トレース』を恐れている。[ジェイムズ・ボイヤー・]メイの詩はこの国の雑誌の半分か三分の二に掲載される、彼の詩がいいからという理由ではなく、彼が『トレース』の編集長だからだ。これは間違っている。確かに。そして詩の世界にはほかにも知らないうちにヘドロのように忍び込んでくるいろんな間違ったことがある。芸術は芸術で、芸術は自らのハンマーとなるべきだ。
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、82~83; ジョン・ウェブ宛、1962年9月14日)




 昨夜はながく外出してきた疲れのために一〇時ごろに帰ってきてからはまるでつかいものにならず、寝床で休むほかなかったのだが、そうしているうちにれいによって意識を消失。その後ちょっと起きたりねむったり、四時ごろだったかまた起きて、明けるまでだらだらウェブを見たりまどろんだりしつつも、さすがに睡眠がみじかくてねむいからと正式にねむりにはいって、最終的に一一時の起床。洗面所に行って洗顔したり用を足したり。きょうは時間が遅くなったから寝床にはもどらず、歯を磨きながらウェブを見たり、ブログにあがっているじぶんの日記をちょっと読みかえしたりしてしまった。あいまは脚や胸をさすったりもしている。肋骨をさすったり揉んだりしてやわらげると、呼吸が楽になる。そうして一一時五四分から椅子のうえにあぐらをかいて瞑想。さいきんは意識して息を吐くことがおおかったが、きょう座ってみると呼吸を操作しているのかしていないのかじぶんでもよくわからないような微妙な感覚で息が持続され、それがしぜんさということではないのか。胸と腹をやわらげておけばはじまりからして息がしやすくて、ことさらに吐いて呼吸筋をほぐす必要もない。そうしてひさしぶりに静止して身体の各所に微細に生まれる感覚を受け取ることに傾注していると、それはやはりここちがよい。皮膚やその内がじわじわ熱をもったようになってきて、エアコンはドライで入れてあったのだけれどけっこう暑い。呼吸を統制するやりかたとしぜんにまかせる式のやりかたにはそれぞれ一長一短あって、吐く息を意識してながくつづけるようにするとあきらかに血のめぐりはよくなって、そうすればあたまも晴れるしからだも活動的になるからはたらきやすくはなるのだが、血がめぐるということはそれだけからだに負担が増えるということでもあり、行き過ぎるとかえって疲れたりもするし、またそこでえられるものはしずかな、ここちよいおちつきとはちょっと違う。からだのほぐれかたとしても、こちらは伸縮面でやわらかくなるといった感じで、肉が伸びるときのほぐれかたである。なにもしない式のそれをやっても血のめぐりはよくなるし、からだがぜんたいとして有機的にまとまる感覚にはなるが、それで活動性がたかまるかというのはその日のコンディションにもよる気がする。ただうまく行けばこれはなにしろここちよく、安楽で、細胞間の風通しがよくなるような、肉が芯からゆるむような感じのほぐれかたになる。さいきんは活動性をもとめて呼吸に注視しがちだったのだが、また拡散的な瞑想のほうを探究しようかなという気になった。道元がかんがえ実践していた坐禅ならびに仏陀ヴィパッサナー瞑想は後者のほうだと理解している。呼吸を積極的に操作して身体をコントロールするやりかたはおそらくヨガにちかい。それできょうは呼吸は気にせずじっととまって身体を感じつづけるようなやりかたをとっていたのだけれど、そこでおもったことに、呼吸でもって身体に対応するというのがひとつには瞑想実践なのだろうと。身体は精神や意識、もしくは自己にたいして過剰なものとしてある。あるいは逆に精神や自己のほうが身体にたいして過剰だとも言えるし、むしろそちらの言い方をこそしていくべきなのかもしれないが、いずれにしても身体と自己はたがいにとって異物である。そのあいだにはつねに齟齬があってふたつが一致することはほぼないのだけれど、その一致を、もしくはそこまで行けないとしてもすくなくとも調和をめざすのが、瞑想やヨガを筆頭に、たぶんもろもろの身体的実践術に共通の理念だとおもう。身体と自己とのあいだの距離を媒介し、それらを調和的につなげるための手段もしくは要素として呼吸がある。ヨガ方面ではそれを操作することで統合的なバランスをみずから生み出し実現しようとし、非能動性瞑想ではしぜんにまかせることのなかに自動作用を呼びこみ、自己が身体に吸収されるかのような統一のありさまをめざす。前者は高度な主体の自律をめざし、後者は身体への奉仕(まさしく身体としてあるじぶんじしんにたいする献身)をこころみるが、どちらにしてもなんらかの調和的統一がその目標だろう。そうしたことは余談なのだがきょう座っているあいだにじぶんが得た感じというのは、呼吸というのはそういう意味で、身体にたいするたえまない反応や対応なのだということだった。すべての呼気と吸気がみずからにたいする齟齬としてある身体への、瞬間ごとの応対である。ことさらに操作をしなくても、というかむしろ自己による操作を介在させないからこそ、ひとつひとつの息がからだに反応していることが感じとられるのだが、反対に身体もまた呼吸に反応することはいうまでもない。その呼吸から身体へと送られる作用のほうを重視したのがヨガだと理解してよいとおもうが、いずれにしてもふたつのあいだには循環的な相互フィードバックが形成される。きわめて陳腐な文学的クリシェをもちいれば、だから、瞑想とは呼吸と身体のあいだの対話の場を持続することだということになる。きょうのじぶんのやりかたは主体性を介在させないものだったので、どちらかといえば身体が主であり、そこにすでに異物として存在している身体に呼吸が刻々応答するというかたむきがつよかった。それを応対というよりは、応待と書いてみたい。その応待が歓待にいたることがあれば、おそらくそれがなんらかの意味での高度な達成なのだろう。道元坐禅は安楽の法だといっているのはそういう境地なのかもしれない。
 きょうの瞑想はそういうわけでなかなかここちがよかったが、しかし時間としては二〇分にも満たなかった。やはり脚がしびれてくるので。起きていちどめの瞑想は、まだからだがあたたまっていないので、どうしても脚がだんだんしびれてくる。事前によほど脚をさすったりしてほぐしておかないとそうなるだろう。したがって瞑想を切ると一二時一三分で、脚のしびれがとけるのを待ったあと、屈伸したり背伸びしたりした。瞑想にはいるまえ、日記を読みかえしているあいだに、もう洗濯してしまおうとおもって一一時半ごろはじめていた。その洗濯がもう終わっていたので、まずきのう始末せず吊るしたままになっていたものたちをはずして布団のうえにかさね、さきにいま洗ったものをハンガーにとりつけて窓のそとに干した。空は文句なしの曇天でいろにつめたさも感じられ、あやしいむきも感知されないでもないが、空気はとうぜんながらあたたかく、ひとまず出してみることに。数もすくない。そうして布団のうえのタオルやらなにやらをたたみ、食事にうつるまえに洗濯機のまえでまた両腕をまっすぐうえにかかげて背中や脇腹や腕を伸ばしていると、レースのカーテンには薄明るさがいまやどり、湯のなかでかたまった卵白のように下方にうっすら白みをかさね、なかばの位置にはいま干したばかりの、きのうまとったカラフルなチェックシャツがいろとすがたを透かしており、そうつよくもない風にふれられた半端なひとがたは、袖や腕や腹にあたる位置などでそれぞれ微妙にタイミングをずらしながらうごかされ、植物と同様、風にひたすら身をゆだねきることのできるものの無抵抗で、もしにんげんが同じうごきをしていたらそこになんの意図も読み取れないかあるいはなんの意味かつかむことのできない不思議さとなるだろう、そんな身じろぎを見せていた。しかし風の通りが一時やんでかたむきがなくなれば、ほぼ真横から見る角度になるのでシャツはカーテンのストライプの間に同化したごとく白さに溶けこみ、一見みとめられない希薄さとなり、ながれが生まれるとまた角度をつくって弱々しい色彩を透かす。
 食事はれいによってキャベツを細切りにし、セロリもなくなったし豆腐をサラダにくわえることに。ほか、レタスに大根。チョレギドレッシングをかけてハムを三枚乗せる。レタスも葉の感触がしんなりしてきているのでさっさとつかったほうがよいだろう。冷蔵庫のなかにあるものもすくなくなった。豆腐にかけていた鰹節もこのあいだ切れてしまったし。サラダのほかは冷凍のメンチカツにシュウマイとパック米を食ったが、この米ももうない。
 食後は皿を洗ったりペットボトルに浄水ポットから水を足したり。シャワーのまえだったかあとだったかおぼえていないが、ギターをちょっといじりもした。弾く音とユニゾンで口ずさみながらてきとうに二〇分ほど。きのう(……)くんとブルースとかで遊んでいるときもけっこうアドリブしながらメロディを口に出していたが、意外と行ける。うたいながら弾いたほうが、ながれがつくりやすいような気もする。シャワーを浴びるまえに窓のほうをみるとやはりどうも空気のいろがあやしいなあという印象だった。しかしとりこみはせずに浴室にはいって湯を浴び、出て服をまとい髪をかわかすとようやくNotionを用意するなど。日記は一三日以降がしあがっていないのだけれど、その一三日も翌一四日もきのうの一六日も外出してひとと会ったわけで、どうせきょうあしたで終わりはしないのだから焦ったところで無意味であるとかえってあきらめの腹が据わって、さいきんあんまり音読していないし口をうごかそうかなという気になった。それで三時から各ノートに記録してある他人の文をいろいろ読む。一時間くらい読んでしまった。あいまにまた立ってからだをうごかしたり、あと読んでいるときには腹を揉んだりしている。おなかをよく揉みほぐすとなんか体調よくなるような気がしてきた。やはり胃なのだろう。四時にいたると日記をやりたいところだがきょうは起きたあとに寝床で脚を刺激しなかったので太ももがなまっていてどうもやりづらく、それで布団に逃げて休息。ハイパートレーニング3を読んだり。四時半すぎでおきあがるとそのまましぜんとストレッチに移行した。ストレッチもうえに書いたのとおなじはなしで、意識して息を吐きながらやればよく伸びるのだけれど、きょうはやはり姿勢つきの瞑想としてやるような気になって、だからポーズをとりながら目を閉じてじっとしていると、からだがじわじわとほぐれていくいっぽうでちょっとねむいというか、なかばまどろむような感じになり、昼寝の甘美さにちょっとちかいここちよさを味わった。そうして五時にいたるときょうのことを書き出して、ここまで記せばもう日も暮れてカーテンのむこうもうつらない七時直前だ。きょうはあとどうすっかなあという感じだが、カフカ全集の書抜きもやらないとやばいので、それもいくらかはやりたい。あとは日記をすすめることだがそんなにやる気は出ていない。さらに(……)くんのつくった訳文の添削もしなければならないのだけれど、それにたいしてもあまりやる気は向いていない。しかしあしたが休みの最終日なので、あとまわしにせずきょうのうちにやっておいたほうがよいのだが。


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 その後の夜は主にカフカの書簡の書抜きについやされた。日記はけっきょくうえの記述を綴ったのみで、一三日以降は加筆できず。カフカ全集の書抜きはノートにメモしてある箇所は終わり、あとは手帳にメモしてあるほうのページだがこれがかなりおおい。いちど返却して、再度借り直して写すことになるかもしれない。書簡の文言をうつしているときの印象では、一九一三年にはいってからのカフカはほんとうに、じぶんはあなたとともにいられるような存在ではないのだ、あなたはじぶんと生活するとしたらそれに耐えられないだろう、あなたはこちらの本性をただしく見極めていない、ということをひたすら説得しようとしているような感じだ。それは、だからほんらいだったらわれわれは関係を断ってわかれるべきなのだという主張とほぼ同義のようにおもえるのだけれど、恋人にたいしてわたしたちは別れるべきですという内容の手紙をひたすらに送りつづけながらその手紙によって関係を保っている、これをそういう状況だとかんがえると、じつに奇妙な関係のありかただ。カフカは、あなたはじぶんのような人間(というかほとんど人間ですらないかのような、「不実な幽鬼」(281)のような存在)といっしょにいることはできないということはたびたび断言しつつも、じぶんはあなたとともにいたいということははっきり言っていないような気がする。おそらくそういうわけでもなく、似たようなことや、それを意味する文言はおりおり言っていたのだとおもうが、じぶんの欲求を明快なかたちで述べることはほぼないのではないか。あなたとわたしがともにいることはできない、のあとに、だがわたしはそれでもあなたとともにいたい、と「それでもなお」の論理がつながる瞬間はなかった気がする。もっともこの日書き抜いた記述のなかにも、「ぼくがいつかフェリーツェ、――というのはいつかはいつもということですから――あなたのすぐそばにいて、話すことと聴くことが一つのもの、つまり沈黙になったらいいのですが」(308)というロマンティックな共存の願いがありはするけれど、概してカフカはフェリーツェとの関係においてじぶんがどうしたいということは言明しない印象だ。じぶんについては卑下と否定ばかりを述べ、フェリーツェにかんしてはかのじょを賛美するのでなければ、その心情やじぶんにたいするかんがえを分析したり推測してばかりおり、あなたは~~でしょう、~~なのです、という二人称の文でしめされるその分析は、ときに確信をもった断言の気味を帯びる。まるでじぶんについてよりもフェリーツェについてのほうがよくわかり、たしかに知っているとでもいうかのようだ。いずれにしてもカフカの受動性というか非主体性というかそういうようすは、かれが書簡においてなんどか言明していた文言、じぶんは完全にあなたに所有されているということばと対応している。それは神をあおぎみる敬虔な信仰者の態度をおもわせるものであり、そこにカフカの宗教性を見出してきた読み手も、おそらくいままであまたいただろう。「所有」という語をもちいてそういう内容を述べた箇所がどこだったかいま正確にあとづけることはできないが、類似の言明としてはまさしくこの巻(カフカ全集第一〇巻)におさめられたさいごの書簡のさいごの文がそれを宣言している。「そしてただ一つあなたの記憶に留めて頂くようお願いしたいのは、どれだけ沈黙の時が流れ過ぎようと、あなたが心から [﹅3] 呼びかけるなら、それがどんなに微かであろうと [﹅14] 、今日もそしていつまでも、ぼくはあなたのものなのです」(356)。くわえて逆に、「ぼくが本当に怖れているのは――おそらくこれ以上口にするのも耳にするのも厭なことはないでしょう――ぼくが決してあなたを所有することはできないだろうということです」(320)という認識の表明もある。
 夜半前くらいからはけっこうだらだらしてしまったのだが、あしたが木曜日で燃えるゴミの回収日だったので、その始末だけはした。冷凍庫にラップにつつみこんで保存してあった生ゴミ(野菜の屑)もビニール袋に詰まったティッシュの底におさめて、午前一時ごろにそとに出しておいた。アパートを出てすぐ左の敷地、自販機や自転車が置いてあるところに出しておくのだが、ネットのなかにはこちらのよりもおおきい袋がひとつすでにあったので、その横に添えてネットをかぶせておいた。シャワーを浴びることはまたできず。日中にいちど浴びているし、夜が深くなると疲れがまさってあしたでいいかと横着してしまう。それで二時二五分に消灯、就寝。比較的はやめに寝られたのはよいことだ。


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  • 「ことば」: 11 - 14
  • 「英語」: 692 - 700, 701 - 715
  • 「読みかえし1」: 243 - 253