2022/8/19, Fri.

 (……)もしわたしが自分自身の墓碑銘を書くとしたら(そのつもりでいるが)、時には予定していたよりも早くなることもあるので、きっとそうなると思うが、今もこう書こうと決めている。名声も不朽もとこしえに我がものならず。実際の話、わたしはそんなものは欲してはいない。要するに、そんなものは身の毛もよだつようで少女向けでゾッとさせられるばかりで麻薬でぶっ飛んでいていったい何なんだ???しくじり、自分のちんぽこをあの長くて真っ黒な夜明けに意図的にぶち込みたがっている男は、心底自分のことを勘違いしているか、指の爪の中が汚れきっているに違いない。
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、94; ジョン・ウィリアム・コリントン宛、1963年3月19日)




 覚醒すると深呼吸。しかしさいきんははじめから比較的からだがほぐれていることがおおく、身体的ほぐれ度が底上げされたような感じがあり、ちょっと息を吐けばもうすぐに意識はさだまるし、そんなに深く吐き切る必要もない。したがってすぐにふつうの呼吸にもどし、伸ばしていた足を膝を立てたかたちに変更し、その姿勢で静止してからだがじわじわやわらいでくるのを待った。窓外の保育園には子どもらがあつまってきて門をあけるときの電子音やおとな子どもの声が交わされているところで、その頻度や室内の空気の体感からして八時くらいかなと推しはかった。天気は晴れているらしい。そうしてしばらくとまっていちど時間をみると八時五六分、そこからすぐには起き上がらずに腹を揉んだり頭蓋を揉んだりこめかみや眼窩を揉んだり首を揉んだりとからだの各所をゆびで調節してながれをよくする。けっこうかんたんなはなしで、ゆびさきをすこしずつ移動させながらかるく押していって反発とか圧迫をえたりとか、わだかまりとかとどこおりがあるところをこまかく弱くなんども刺激して詰まっているものを取ったり溶かしたりするような感じ。頭蓋とか一晩寝るとマジで凝りしかない。そうして九時二三分に離床した。カーテンをあけるとやはり青空。洗面所に行って顔を洗い、用を足し、出ると口をゆすいでうがい。つめたい水を飲むと立って背伸びをした。このときにわかに保育園の子どもたちの声が高まって、それはそとに出てきたようだったのだが、保育士の女性がみんなにお伝えしておくことがありますと声をかけ、きょうあたらしいお友達が来ることになっていて(たしか「(……)ちゃん」といっていた気がする)、一一時に来てくれるということなのでみんななかよくしてあげてくださいね、みたいなことを、ちょっと高めのほがらかでやわらかい声音で述べていた。その声はやはり幼児たちにことばをかける保育士としての声というような感じで、ちょっと舞台上で発されているような、そういうほがらかさのトーンだったのだけれど、かのじょの発言が終わりきらないうちに子どものひとりが威勢よく、せんせー! せんせえ! と声をあげており、はなしが終わってからなんとかかんとかですか? と質問したその声の調子も、質問ということばのつかいかたの型をなぞっているような、質問というのはこういういいかたでやるのだということを練習しているかのような、そんなふうに聞こえた。つまり、無邪気ではあるかもしれないが、しぜんではなく、言語用法習得後のしぜんさのてまえにまだある感じ。保育士が保育士としてとうぜん役柄を演じているとともに、保育される子どものほうもときに保育士にたいする子どもとしての役柄を、意識無意識にかかわらず演じることがあるのだろう。そのようにしてきっと意識が発展していく。
 蒸しタオルで額付近をあたためると寝床へ。ウェブをみたあとに一年前の日記の読みかえし。起きた時点からさっそく、「天気はひさしぶりに晴れで、臥位のあたまをちょっと窓に寄せればガラスの端に白く濃縮された球である太陽がすがたをあらわし、そのひかりをひとみにとりいれながらまぶたをとじたりひらいたりしているその視界では、窓外のネットにやどったゴーヤの葉たちのすきまにそそがれている晴天の青がずいぶん濃く映り、葉の緑もあかるく透けかねないまでにやわらいでいるそのうえにほかの葉の影が黒っぽいもう一種の緑としてくみあわされてつくりかけでまだまだ未完成のまま放棄されてしまったジグソーパズルのようになっていたり、角度によっては葉のおもて面に白光が塗られてきらめいているのが頻々ととおりぬける微風によってふるふるおどらされている」という風景をみたらしく、一年前のこいつマジでまいにちなかなかやってんな、とおもう。その他アフガニスタン情勢やプルーストのはなしなど。きょうは二〇一四年のほうはなんだかめんどうくさくてサボった。読んだりウェブをみたりしていたあいだ、胎児のポーズをときどき取ったり、一〇時台後半にいたって起き上がったときも脚を揉んだり合蹠をいちどやったりしておいた。そうしてふたたび水を飲み、椅子のうえで瞑想へ。きょうは脚をよく揉んでおいたのでしびれることがなく、からだもぜんたいてきにほぐれていたのでながく座ることができた。たしか一〇時五四分からはじめて、終わりは一一時三二分。瞑想をやっていてあらためておもうのはじぶんの身体こそがひとつの場なのだということで、自己は外界の空間やさまざまなばしょに属しているそのまえに、どんなばしょにいようともまずおのれの身体に属している。しかしこれは自己=精神や意識と身体とを分割してかんがえる伝統的な二分論で、その点をもし難ありとするならば、自己は身体としてある、あるいは自己は身体であるといってしまったほうがよいのかもしれないが、またいっぽうで発生論的にはまずもって自己が形成されるまえに身体こそが世界の無償性によってやしなわれているのだから、自己が世界をさしおいてまずじぶんの身体に属しているというのは当たらないのかもしれない。そうした考慮はありつつも椅子のうえでじっと座ってからだの感覚を見、感じ、意識しているときにおもわれるのは、この身体こそがひとつの場なのだという感覚である。空間というにはいたらない。身体が自己の場であるといったときの身体とは、延長をもった物体的なそれでもあるのだけれど、感覚的複合体としてあるというか、どちらかといえば観念的な気味がつよいようにおもわれるからである。場所、というのも空間的なかたむきに寄るのであまりぴったりしない。感覚によって形成された観念としてのひとつの場である。ティク・ナット・ハンが、われわれはじぶんじしんをこそどんなときでも安心できるホームすなわち家もしくは住みかにしなければなりません、呼吸を意識することでどんなときでもそのホームに帰ることができる、みたいなことをいっていたのは、堅苦しく言うとうえのようなことではないのか。身体という器に本質としての自己や意識や精神がやどっているというかんがえは、心身二分論にもとづいた一般的な認識で、そうかんがえると身体が場であるというのはこの伝統にしたがったあまりめずらしくないかんがえかたのようにみえる。いっぽう、逆のいいかたをすることもできる。つまり、自己こそがむしろ場であり、そこに身体がやどっている、というような感覚もまた瞑想中にあるものだ。むしろこちらのほうがほんとうなのかもしれない。自己と身体が場としての地位を融通しあうことができるということは、そのあいだに分裂がなく、比較的統合と一体化がたかまっているということではないのか。いずれにしても瞑想時の身体や意識のありようは、ひとつの場として比喩化されうるというのがこちらの実感だ。そこにおいては思念や記憶や虚構的イメージや内言語、皮膚の表面や内側における肉体的な感覚、外界で発生するもろもろのうごきによる知覚刺激など、ひとつひとつの微細な感覚がすべてふくまれており、そのあいだに階層や序列は生まれず、絶えず混在しながら平等に生起し、存在している。知覚刺激は受容体であるじぶんの身体や脳において起こっているのだが、自己をひとつの場として比喩的にとらえたときには、その場はじぶんの身体だけではなく、周辺の外界をもふくみこむひろがりをもっているようにかんじられる。聴覚などの感覚的受容能力がおよぶかぎりでの空間的領域が、場としての自己の範囲である。いぜん『HUNTER×HUNTER』の念能力である「円」にたぐえて言ったのはそういうようなイメージだ。身体という場こそが自己であるという体感からはじまったはずの瞑想は、幾分かの時を経るにつれて構造が逆転し、自己こそが身体をも包含する場であるという感覚にいつのまにかすりかわっている。そして、禅僧などがよく言っているように、身体の輪郭はたしかにだんだんと希薄化してくるような感じもある。じっととまっているとだんだん身体内のノイズがすこしずつ除去されていってなめらかになるのだけれど、それがつづいているうちにからだの各部の感覚がかくれていくかのようなのだ。たしかに、じぶんの身体の輪郭がそのまわりの空間に埋没していくような、そんなイメージをおぼえないでもない。南直哉はたしか、坐禅が深まると、じぶんが波とかゆらぎのようなものとして感じられ、合わせている両の親指の先の感覚しかなくなる、ということを言っていた。たしかにきわまればそんな感じにはなるのかもしれない。しかしそれが主客合一なのかどうかは不明である。ここではまだ身体が消えるということでしかない。主体としての自己はのこっているのかもしれない。じぶんが波のようになって身体的感覚がおおかた消失したとして、そこで世界との境界線を無化し一体になったかのようにかんじるその自己はいったいどこにあるのか? というのは永遠の問いである。そんな俯瞰的位置など真には存在しないだろうという不信がこちらのならいなのだが、それに特段の根拠はない。いずれにしてもはなしをもどすと、自己もしくは身体は場であるといったときのその場にもうひとつ比喩をあてはめるならば、理想的には、と言ってよいのかわからないが、それはまた大気にもなるのだろう。身体が、ひいては身体としてあった自己が気体化するというのが、瞑想における体感の、ひとつのゆく先であるようにおもわれる。場=大気としての自己=身体などと書きあらわすと、いかにも文学的、もしくはフランス現代思想的な気配が出てくるもので、それは非明晰主義につながりかねない言語使用でもあるのでばあいによってはあまり褒められたものではない。しかしこれはあくまで主観的感覚をイメージ化したものにすぎない。


     *


 瞑想後、食事に。キャベツを切って皿に乗せたりしながら、じぶんにとって小説って、事物、なにかのものが具体的に書かれていればもうそれだけでおもしろいのかもしれない、というか、じぶんが小説にいちばんもとめていることってそこに尽きるのかもしれないなとおもった。これはむかしからおりにふれて風景が詳細に書いてあればもうそれだけで満足、といっているのとおなじことで、その「風景」が「もの」に変わっただけである。もしそうだとすると、しかしそういう欲求にこたえてくれるような文章は、かえってジャンルとしての小説にかぎらない。エッセイでも日記でもおなじことはできるだろうし、もろもろのノンフィクション的書物でもやりようはあるというかそういう瞬間はあるだろう。というところからじぶんの欲望は要するにすべてをものとしてとらえてそれを記述したいということなのではないかとか、しかしもの化および言語化というのは固定することだから、いっぽうであきらかに生成と流動性に適合してそれをもとめてもいるじぶんの性質はどうなるのかとか、思考がめぐったが、まとまっていないので詳述は省く。サラダはキャベツにセロリ、リーフレタスとここまではたしょう階調がちがっても緑ばかりで皿の上が単調なのだけれど、トマトを乗せると一気にはなやいだ感が出て、色彩の面ではやっぱりパプリカがほしいなとおもっていたけれど、トマトの赤さはいろどりとしてそれだけでもかなりつよい。さいごに大根の白をくわえるとけっこうバランスがよい感じになる。そしてハムも。
 この日は休み明けさいしょの勤務で、四時半の電車で行くようだった。出勤までにはワイシャツとハンカチにアイロンをかけたり、きのうのことおよびきょうのことを書いたり。きのうのことは夜に買い出しに出た道中のことを書きたいとおもっていたのだが無事果たすことができ、この日のことも瞑想中にめぐった思念まで記すことができた。なかなかよろしい。それで三時過ぎだったので、もう湯を浴びてもろもろ支度をしなければならない。湯を浴びたのがさきだったかストレッチがさきだったかわすれたが、からだもやしなっている。ストレッチのみならずこの日はたびたび屈伸もして、膝を曲げて脚をたたんでしゃがみこんだ姿勢で何回か上下に微動すると脚を伸ばして前かがみになり膝のまわりや裏、太ももの側面やうしろがわをゆびでちょっと揉む、ということをくりかえすのだけれど、屈伸をおりにふれてよくやっておくとからだはよい。
 そうして出発したのは四時一五分ごろ。薄紫のワイシャツに紺色のスラックス。さいきんは手持ちカバンがめんどうくさくなったのでもうリュックサックを背負い、また靴も革靴ではなくふだん私服のときにも履いている茶色いやつで行っている。もう何年も履いていて古いやつだがボロボロというほどではなく、というかまだまあ行ける状態ではあって、かたちもフォーマルとカジュアルのあいだみたいな感じなのでワイシャツとスラックスをあいてにしても変ではない。部屋を抜け、道に出て南の公園方に左折すると路上にながれる風が、湯を浴びてもうけっこう経ったとはいえ水気をかんぜんにうしなったわけではない髪の毛をなでて顔からあさく浮かばせ、やわらかさをあたえていく。公園のまえまで来ると縁に立っている木からセミの声が一気にふくらんで降ってくる。まだ意外とはげしさをのこしている、摩擦のおおい声たちだ。そこで右折して駅のある西方へ。空には雲がおおく群れてほつれのなかに水色もみえるが、西南方面はひろくつながって雑味のまじった乳白色、右手、北側はのがれて露出した青がおおい。わたってまたはいる路地には工事現場の警備員みたいなひとがおり、太ったからだのうしろすがたはややもじゃもじゃした茶の髪の毛が肩口まで乗っていて、距離を置くと女性か男性かつかないようだが男性だったようだ。スマートフォンを見てサボっているような風情だったがこちらの接近に気づくとふりむいて、すみませんなんとかかんとかとか言った。そこはれいの切れかかっている電灯が定期的にチャバネゴキブリの背みたいな濃褐色をみせている地点なので、たぶんその電灯をこれから工事するということだったのではないか。すすむ道沿い、ひだりの塀のきわにはネコジャラシやら緑の雑草たちが生えており、なかにある種のブロッコリーみたいな、ひときわ濃い緑でまるで採って茹でれば食えそうないろのやつもながく伸びてまわりから抜け出している。小公園では幼児を連れた男女が子どもらをあそばせていた。しゃがみこんで土を掘るかなにかしていたようで、ちかくには補助輪つきのちいさな自転車もある。そこを過ぎると左にはあたらしめの住宅、右にはむかしからありそうな家がならび、左の一軒のまえに車椅子に乗ったひとがいて、もうひとり女性があらわれて家のとびらをあけていた。おもてに出るまえでマスクを口元にもどし、横断歩道がすでに青になっていたのでめずらしく足をはやめる。わたるとほそくまっすぐな一本道で駅へ。はいっててまえのホームから向かいへと階段通路をわたるあいだのぞく空をみやれば、南はやはり白さばかり西にまわっても余計にひろくわだかまった雲が、しかし西は陽のありかだからひろがりのなかに突かれた穴や下端の裾をうっすらあぶられて、縁に気のせいみたく赤みを混ぜている。線路の伸びるさき、これから向かう北側は比較的すっきりと水色している。
 ベンチにつき、セミの声を聞きつつ瞑目に待って、電車が来ると立ち上がっていちばん端に乗りこむ。扉際で少々。(……)につくと降りて、乗り換えに余裕があるのでひとつさきの口まであるき、そこから階段をのぼった。階段上のエレベーター前には、ベビーカーに乗せられた女児が耳目を引くはげしさで泣きさわぎ、恐竜めいた声もそうだがからだをまとめていっぱい振り乱すみたいな調子でいやだいやだというきもちをしめしていた。なにがいやだったのかはわからない。ホームをうつるまえに小便へ。そうして二番線の(……)行きに乗る。先頭。ここにはいつもおなじカップルがいて、こちらもそのカップルの座っているおなじ列の反対側につくことがおおい。カップルはしかしよく見ていないがそのどちらかが発車前に降りて別れるようだ。きょうはさらに向かい側にもこちらは高校生か中学生らしき男子女子があって、男子がわりと主導的に、たぶんライトノベルかなにかについてはなして(手に本を持っていた)、ひかえめそうな女子がそれにほほえんだりして応じるという感じで、なかなかよさそうな関係にみえた。携帯とイヤフォンをとりだしてFISHMANSで耳を埋める。からだはよほどほぐれているが緊張がないわけではない。出るまえにハムを一枚だけ食ってヤクを一錠ブーストしたが、なんというかほぼ平常ではあるものの、喉の違和感とかあがってきそうな感じとかがないわけではない。それらをしかし平静に見つつ、ある程度の位置をこえてちょっと不安にさしかかるとうごいたり唾を飲んだりして対応する、という感じ。そうしているうちに電車内の環境に慣れてくるのだろう、またヤクの作用でねむくもなってきて、すこしまどろむような感じになる。じきに(……)着。ここでは西空から太陽がもれていた。線路まわりの草や丘の緑が琥珀の色味をちょっと注入されて、ホームを行けば前方の足もとにはひときわひかりをあつめてつよくかがやいた四角があり、それはホームきわにあって滑り止めめいたラインを何本か引かれた板状部分だったのだが、発光体となっているあいだはかがやきのいろそのものなのでラインも表面の質感も呑まれてみえず、その稠密な白さは過ぎたあとも視界に残影をもたらした。
 帰路をさきに。駅にはいって改札をとおるとうしろから知ってるひと、先生、とかいう声が聞こえて、ふりむいてみれば(……)がいたので(……)、と声をかけた。こちらの知らない友人もひとり。しかしこのやりとりはいったんはぶき、電車内にうつると、先頭車両で席について、きょうは音楽を聞かず耳を素のままにして瞑目に休む。瞑想じみてからだの感覚に意識を向け、肉をやわらげて疲労を溶かそうとするのだけれど、そうしてみると自室とくらべて電車内は圧倒的にからだを見づらい。駆動音や走行音、風切り音やアナウンスなど、音がとにかくおおいからである。聴覚と触覚と知覚域がちがうにもかかわらず、皮膚感覚がそれらに呑みこまれてかくれてしまうような感じで、細部がちっともつかめない。
 そうして(……)へ。ホームからのぼり、(……)線のほうへ。ここでも先頭、というか最後尾の扉際に立つ。発車まで数分。手すりをもって目を閉じ静止のなかにそれを待ち、出てもそのまま。しばらくして(……)に着くので降車。停まった電車のむこう、おおきくひろいマンションの面はきょうも通路や階段の明かりを整然といくつも直列させており、上下左右つらなったその無数の照明のそろいときたら一種の威容の感すらある。ひとがはけていったあとのベンチについて、携帯で(……)さんのブログが更新されているのをチェックだけしながら持ってきたペットボトルの水を飲んだ。そうしてそとへ。駅を出て細道にはいると行く手にあかるい星がひとつあり、もうひとつ赤の点が、これは飛行機のたぐいらしく明滅して空に埋まっては浮かぶことをくりかえしている。前方からは大学生らしい女性四人がそれぞれ自転車をともなって道幅いっぱい横にならんであるいてくる。ちかづくにつれて端のひとりがまえに出て内側にはいったので、その脇を過ぎ、横断歩道にかかると左側はスーパーだが、店舗前の駐輪スペースでいま買い物を終えたばかりの女性がひとり自転車に乗るところだった。ちいさな肩がけのバッグをともない、薄手の上着をはおったよそ行きのかっこうで、おそらくはしごとがえりなのだろうが時刻はすでに一一時過ぎだからなかなか難儀だ。通りをわたると裏道へ。正面は東、夜空はおおかた晴れて星のともりもみられるが、注視しなければのがしてしまうくらいの淡い雲の帯が、虹の去ったあとにのこった影のようにして弓なりに引かれてもいる。道脇のアパートからはよくわからない音とかテレビの音声とかがもれだしてきて、前方にあかるい緑色のよそおいで電話をしながらあらわれたひともいたが、とちゅうで横道に折れていく。背後から照らし出されたじぶんの影が歩をすすめるにつれてまえの路上にだんだんながく伸びていき、同時に希薄化していっていずれ溶けこんでしまうのはどこの土地でもだいたいおなじだろう。街灯の配置によってはうっすらとした影が左右にいくつも浮かんでかさなりながら分身する。出口ちかくの白サルスベリは満開といってよいふくらみかただった。よく立てられたきめのこまかい巨大な泡をなすりつけられたような風情で樹端をくっきりとおおっている。横道に当たるともとの知れぬ煙草のにおいが香り、わたって路地をすすめば突き当たりの公園ではおそらく地にたおれたセミがつかの間生き返って地面をころがったらしく、キキッ、キ、という声とともに翅がばたばたいう音が聞こえた。


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 この日の勤務(……)。


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  • 「ことば」: 11 - 15
  • 「読みかえし1」: 268 - 272
  • 日記読み: 2021/8/19, Thu.

きょうは一〇時に正式に覚醒することができてよろしい。そこからこめかみを揉んだり、膝とか踵をつかって脚をほぐしたりして一〇時四〇分に離床。天気はひさしぶりに晴れで、臥位のあたまをちょっと窓に寄せればガラスの端に白く濃縮された球である太陽がすがたをあらわし、そのひかりをひとみにとりいれながらまぶたをとじたりひらいたりしているその視界では、窓外のネットにやどったゴーヤの葉たちのすきまにそそがれている晴天の青がずいぶん濃く映り、葉の緑もあかるく透けかねないまでにやわらいでいるそのうえにほかの葉の影が黒っぽいもう一種の緑としてくみあわされてつくりかけでまだまだ未完成のまま放棄されてしまったジグソーパズルのようになっていたり、角度によっては葉のおもて面に白光が塗られてきらめいているのが頻々ととおりぬける微風によってふるふるおどらされている。

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新聞からは主に国際面。アフガニスタンの報を追う。昨晩の夕刊にも出ていたが、タリバンの報道官が会見して政権樹立方針を述べたと。女性の権利などはイスラーム法の範囲でみとめるとのこと。挙国一致政権というか、アフガニスタン中央政府の役人や対立する民族の人間などもふくめた政府をつくるといったり、米国への協力者に報復はせず前政府の人間や治安部隊員にも「恩赦」をあたえるといっていちおう融和姿勢を提示しているもよう。ガニ大統領は国外へ脱出したわけだが、第一副大統領だったひとがとどまって暫定大統領に就任したと表明しているらしく、だからこのひとが前政府側の代表として交渉にあたることになるのだろう。タリバンは融和や寛容をしめして国民にのこってほしいわけだが、カブールの空港にはいまも脱出をのぞむ多数の市民が押しかけているらしく、米国がそのうち六四〇人だか乗せてカタールに送ったときのうの夕刊にはあった。今次のアフガン騒動でバイデンの支持率は急落したともいわれており、四六パーセントだったかそのくらいになって、一月の政権発足以来最低と。Wall Street Journalとか国内メディアからも、撤退を正式に決定したのはたしかに前トランプ政権だが、期限を延長することは可能だった、二〇〇一年九月一一日から二〇年の節目という象徴的な意味合いを優先してそれに間に合わせるために拙速な対応になってしまった、という批判が聞かれているらしい。さいしょバイデンは、九月一一日までに撤退を完了すると宣言し、その後さらにはやめて八月末まで、と、けっこうつよい調子で断言していた記憶があるのだが、なぜはやめたのだろう。

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(……)プルーストはもう「スワンの恋」も終盤。スワンはオデットに愛されることをもはやあきらめ(サン=トゥーヴェルト夫人の夜会でヴァントゥイユのソナタをふたたび耳にしたことでそういう心境にいたったという点はいぜん読んだときには認識していなかったところだ)、彼女の過去の「悪徳」もあかるみにではじめて(スワンの訊問にたいして彼女じしんの口から明言されて)、スワンはおりにふれて回帰してくる苦しみのなかにとらわれている。スワンにとって、オデット本人のことやオデットの過去の行状とかを連想させたりおもいださせたりするような固有名詞(人名や地名)はおおきな苦しみのもととなっているのだけれど、この、あるひとつのなまえに莫大な意味が付与されてさまざまなイメージを喚起したり心情的作用をおよぼしたりするというのはこの作品にあってたぶん通底的な主要テーマのひとつで、すでに第一部「コンブレー」でも話者じしんが「ゲルマント」という名のひびきにオレンジ色のイメージを見ていたり、そこになにかきらびやかで神話的なようなイメージを付与していて、それがゆえにゲルマント公爵夫人当人を見かけたときに彼女がふつうの人間のように見えて、イメージと現実との格差に幻滅し落胆する、という展開があった。で、このあとに来る第三部「土地の名、――名 [﹅] 」というのもタイトルにしめされているようにそういうはなしだったはず。たしかここでバルベックとかヴェネツィアとかにたいするあこがれなどがかたられるのではなかったか。また、固有名詞を支えにした観念の実体化というか、たんなる記号にすぎないはずのことばがものすごく現実性をもって身体的に多大な影響をあたえるみたいなこういう現象はじぶんの体験にてらしあわせてもわりとよく理解できて、というのは、パニック障害がひどかった時期に嘔吐恐怖をもっていたのだけれど、そのころは文章を読んでいて「吐」という文字が出てくるとそれだけで不安を惹起されていたからだ。「はく」とかひらがなで書かれてあってもだめだったはず。ほんらいなら「吐く」という動詞にしても、その意味は前後のほかのことばのくみあわせ、つまり文脈でもって決まるはずで、唾を吐くとか悪口を吐くとか電車から乗客たちが吐き出されるとかそういったいろいろな文脈があるわけだけれど、それらにまったくかかわりなく、「吐」というこの一文字があるともうそれが自動的に一瞬で嘔吐の意味に直結されてしまい、その意味やイメージがじっさいの文脈においてかたられている意味やその他の連想的バリエーションをはるかに超過してあたまを占領し、恐怖を生じさせる、というかんじのことがそこでは起こっていたはず。


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 (……)さんのブログ、八月一四日。

 ところで、期待という言葉を目にするたびにこちらが思い出すのは、たしか「(……)」にも書き記したと思うが、夏のおとずれを期待するときのあの期待、そこにかすかに性的なニュアンスがともなうことになるあの期待で、ときどき思う、あれこそがもっとも雑味のない性欲なのではないか、と。夏とはいわゆる出会いの季節であるというような安っぽい物語的等式に由来するものではない、その対象が女性ではなく人間ではなくもっといえば生物ですらなく、ひとつの気候であり光であり気温であり湿度である、そのような性欲。あれもいずれはこの身体から去ってしまうことになるのだろうか。