2022/8/21, Sun.

 […]わたしは石に刻む、いつまでも残るからではなく、ただ目の前にあって妻のように口答えしたりしないから。わたしは石に刻む、未来の二、三人の善人たちがわたしを掘り起こして笑うだろうから。それで十分だ。わたしの世紀はこうしたことをわたしにあてがってはくれなかった。
 自分の地獄で四十六年間生きて(あるいは、生きたにもかかわらず)、手に入れたものはといえば、光り輝くちっぽけでくだらない栄光に包まれたゴキブリの唾液に濡れた黙想+わたしの左足の大きな指の下(多分)であげる掠れた笑い声で、それゆえにわたしは自殺と粉骨砕身の中間地点にとどまり続けられているのだと強く思う。
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、138; マイケル・フォレスト宛、1966年後半)




 覚めて携帯をみると七時五四分。昨晩は労働後の疲れをさっさと癒やすため、ものも食わず湯も浴びずに零時四二分に消灯した。ちょうど七時間程度。腹がまったく空だったわりにおもいのほかながく寝たなという印象。寝床ですこし息を吐き、また腹をすみずみまでよく揉んでおく。その他腰とか頭蓋とかも。そうして八時二一分に離床。カーテンをあけるとまったき曇天である。雨はいまは降っていないがさくばんは降っていたし、空は真っ白でひかりの質もなく、いつまた降り出してもおかしくないようなよどみに空気はいろづいている。したの道にも湿り気がのこっているようにみえる。布団から立つと洗面所に行って顔を洗ったり用を足したり。口をゆすいでうがい、水を飲み蒸しタオルといつものながれである。きょうはやらなかったが、起きてすぐこのタイミングでもう一回瞑想してしまったほうがよいのかもしれないというあたまになってきている。もともと実家にいたときはそうだったのだ。水場に行ってもどってくるとそこで瞑想して、活動を開始していた。いちどやっておき、寝床にもどって脚をメンテナンスしながら日記の読みかえしをして、その後はやくも二回目、としたほうがよいような気がする。
 布団のうえであおむけになおって日記の読みかえし。2021/8/21, Sat.と2014/2/2, Sun.。後者には、電車内での緊張や不安にかんして以下のような記述。ちょっとわざとらしい調子があるものの、二〇一四年の記述にしてはきちんとしている。こういう幻聴めいた現象はむかしはそこそこあったけれど、いまはもうそれに気づくということはほとんどない。入眠時幻聴すら感じなくなった。瞑想時とか、ストレッチしながらなかばまどろんでいるときとかも意識レベルが下がっているだろうが、幻聴というよりも意識をなかばたもったままみる夢のようなイメージのかたちであらわれる。それはなにか物語的な一場面だったり、やりとりだったり、ひとつの瞬間的な視覚像だったり、いろいろだが、おおかたいまのじぶんとはまるで関係のない虚構的なもののようで、ロマンティックな想像力でいってみれば平行世界のじぶんや存在がつかの間召喚されたかのようなおもむきがないでもないが、いずれにしても明確な記憶としてあとにのこることはなく、まどろみの度合いがかるくなってはっといまのじぶんの存在がもどってくると同時にほぼかんぜんに消失する。

 車中では明確な息苦しさを感じた。深くゆっくりと呼吸をしても酸素がまわっている気がしない、久方ぶりの予期不安の感覚だった。薬を追加した。Virginia Woolf, Kew Gardensを聞き終えて、Bill Evans Trio『Portrait In Jazz』に音楽を変えた。今は音楽が必要だった、それもあまり激しくなく、なおかつ外界の音をきちんと遮断してくれる音楽が。電車内に物理的に閉じこめられているという認識は不安をあおるものではあるが、そもそも不安がなければ閉鎖感覚を意識することはない。どちらが先かという問題は微妙だが重要ではなく、一方が生じれば相乗的に他方も加速していく。そこから逃れるためにさらに音楽に閉じこもることは自らをより狭い領域に追いつめているようにも見えるが、しかし実際にはここで逆転が起こる。物理的な空間を離れた精神は音楽という媒質を獲得し、そのなかに溶けこみ、ほとんど一体化し、無限の広がりにたゆたうことになる。周囲の世界が感覚されることはほとんどなく、残るのは意識と音楽が溶けあった海のような空間のみだが、ここにおいて危険なのは、夾雑物がないぶん剝き出しのものとして精神世界が表出してくることだ。この日は眼を閉じてからしばらくのあいだ、重く海底に沈んでいるような感覚のなかで、黒一面の背景に白字で「家庭内暴力」などのネガティブな言葉がスクロールしていく映像が浮かんだり、「人間は水をとらずにいるとどのように衰弱していくのか」などと問う声がくり返し聞こえもした。しかし行程のなかばを過ぎたあたりから浮上しはじめ、水中を静かに漂うような軽い安定のあと、水面に浮きあがって目を覚ますと不安は消えていた。ちょうど(……)の一駅前だった。

 したのような帰路の描写もある。表現としておもしろかったりきわだったりする部分はないけれど、一文にリズムができており、無理をしてぎこちないというところがない。一四年の一月末からやはりなにかひとつつかんだようだ。ここの描写はまた、いまのじぶんの文章と本質的には変わらないなとおもった。もうここで原型ができている。とりあげている対象もいまだに変わり映えがないけれど、それを措いてもことばのリズムみたいなものがここから本質的には変わっていない。これをそのまま延長させ発展させたのがいまのじぶんの描写だとおもう。要は、これをよりながく、こまかく書けばいまの文になる。

 ビルの窓に写った空の色が洩れ出して空気は水中めいた薄青さに包まれ、地平線の彼方には薄紫色の膜が広がっていた。高架歩廊を歩いて駅前広場に出たとき、赤々と燃える落日が連なる建物の上空に見え、立ち止まってしばらく眺めた。人々は太陽に眼を向けることなく、向けたとしても歩みを止めることなく一瞬後には前を向き、右に左に歩き去っていった。図書館を出たときから気まぐれでイヤフォンを外していた。連絡通路に充満した人声が意味のなさないざわめきとなって身を取り囲み、その上を滑っていく駅員のアナウンスが唯一明瞭な声として聞こえた。帰りの車内ではほとんど眠って一瞬で地元に着いた。夜に移り変わる直前の藍色の空にひどく細い月が浮かんでいた。

 ふたたび寝床をはなれると屈伸などをよくやってから瞑想。一〇時から。しかしやはり足がしびれて一五分しかすわれず。屈伸をすればよいというものではないらしい。あと、さくばんなにも食わずに寝たので、腹がやたら減っていたということもあった。なにしろ午後三時くらいに豆腐を食ったきりだから、一九時間くらい水しかからだに入れていなかったことになる。そうして食事へ。きょうも大皿にサラダをこしらえる。セロリははやくもなくなってしまったので、キャベツにリーフレタスにトマトに、タマネギと大根をあたらしくあけた。タマネギの皮とうすく切り落とした両端はラップにつつんで冷凍庫に凍らせておく。あしたは燃えるゴミの回収日である。リケンのうま塩ドレッシングをかけてハムを二枚乗せる。その他冷凍のハンバーグとチーズナン。また、きのう職場でもらってきた菓子も食後につまんだ。Butter Butlerのガレットなど。食事中やその後は(……)さんのブログを閲覧。八月一七日付に二年前から引かれているしたのはなしが大事なことで、「本当に相手の考え方を根っこから変えたいのであれば、正論を大きな声で言うだけでは絶対に無理だ」ということに尽きる。

ニュースをチェック。Twitterで「Amazonプライム解約運動」というのがハッシュタグつきでおこりつつあるようだ。キャンセル・カルチャーはこうして日本でもすっかり一般化しつつある。先行している欧米の事例など見ていると、それだけでげんなりした気分になるが。エクストリーム化したポリコレ+キャンセル・カルチャーの合わせ技が、全体主義的な言論統制状態を結果的に後追いすることになるんではないかという危惧をどうしても拭えない。こういうことをインターネットの目立つ界隈で口にすれば、一部のキーワードに脊髄反射する有象無象らによって、こちらはたちどころにネット右翼として認定されるにちがいないという見込みがたやすく得られることも含めて、やはりげんなりする話だ。
インターネット上の言論といえば、匿名性に由来する難点ばかりが槍玉にあげられてきたし、それはそれで絶対に間違いのないことなんだろうが、同時に、実名性、というかこの場合は同一性といったほうがいいかもしれないが、それによる問題というのも多々あるんではないかという気がする。Twitterなど特に顕著だけれども、たとえ本名と自分の顔写真を使っておらずとも同一のアカウントで長らくつぶやきを続けていれば、当然そこには同一性が生じるわけであるし、同一性というのは首尾一貫性としばしば愚かしくも短絡される。結果、アカウント歴の長いユーザーであればあるほど——あるいは、フォロワー数(=目撃者)の多いアカウントほど、そしてまた、クラスタに対する所属意識の強いアカウントほど——「翻意」や「転向」の余地が失われてしまうという問題が生じる。
そんなことはない、誤りを拡散したり過ちを犯したりしたのであればその点を撤回し謝罪すればいいだけではないか、と反論する向きもあるだろうが、保守だろうとリベラルだろうとそう容易に「撤回」も「謝罪」もしないのは公然の事実だ。都知事選の真っ最中に宇都宮の餃子がうんぬんという宇都宮健児をにおわせるツイートをした枝野幸男が、その恥知らずなふるまいを撤回し謝罪したか? こちらの知るかぎり、本人に確認したところ単なる偶然でしかないことがわかったみたいなことを党関係者がツイートしていただけだ。法を無下にして子供騙しのような理屈で堂々と居直るそのようなふるまいこそが、叩くべき政敵がかくも長いあいだとりつづけてきた唾棄すべきふるまいそのものではなかったか? 同じようなツイートをしていた佐々木中も当然同罪だ。あの件で界隈の底が知れてしまった。大文字の法を原理原則としてそれにもとづく批判をくりだしていたはずが、みずからその法を裏切りかつ居直っている。これによって彼らの批判の多くが、法という原理原則に基づきなされたものではなく、対象ありきであることが露呈してしまった。
だからといって両者を公然とクソ味噌に言うつもりもいない。問題はことあるごとに「撤回」と「謝罪」をもとめる抗議活動を続けている当事者さえもが、その「撤回」と「謝罪」に抵抗を感じてしまう言論空間の性質にある。SNSというエコーチェンバー強化装置+フォロワーという監視装置によって両面張りされた首尾一貫性の魔力をたちきるためには、こういってしまってはいかにも軽々しいが、もっとカジュアルに「撤回」と「謝罪」、ひいては「転向」できる環境を整えるのがいちばんなのではないか。SNSによる社会の「分断」がさわがれはじめてひさしいが、そのような「分断」のコアにあるのが、「撤回」と「謝罪」、ひいては「転向」を許さない空気にあるような気がこちらにはどうしてもする。キャンセル・カルチャーによって四方八方から叩かれまくった人間が心の底から反省するとはどうしても思えない。失言をした人間が公的には「撤回」することもあるだろうし「謝罪」することもあるだろうが、本心からそうすることは稀なのではないか? それどころかむしろ、多くの場合、私的にますます鬱憤をつのらせることになるだけでは? それは本当に反省していないからだ、本当に反省するくらい徹底的に叩きまくればいいだけだという反論もたやすく予想されるが、そういう考えは結局、「転向」をうながす作業であるところの「説得」をあまりにないがしろにしているものと思われてならない。
これはここ数年ずっと思っていたことなのだが、ヘイトスピーチに対するカウンターカルチャー発生以降、「説得」がどうにもないがしろにされてしまっているんではないか。もちろん反ヘイト活動における「怒りの表明」の重要度を低く見積もるつもりはないが、「怒りの表明」を言い分にして、おそろしくわずらしく困難で、時間もかかるし効率も悪いが、かといって「議論」を対立の解決とするという大義を背負っている以上決して諦めてはいけないはずの「説得」が、ほとんどかえりみられなくなってしまっているんではないか。
そういうことを考えるのはやはりこちらが長いあいだ(……)で調停者としてふるまってきたからだろう。レイシストといえばレイシストだらけだった職場だ。というかポリティカル・アンコレクトなものをいっさいがっさいあつめて寄せ鍋にしたような環境だった。こちらの目と鼻の先でひどい言葉が毎日のように交わされてもいたが、おそらく「怒りの表明」に過度にのめりこんでしまっているひとは、そうしたこちらの話を聞けば、「どうしてその場で叱らなかったんだ!」とこちらを責め立てるだろうし、場合によっては「そんな職場どうして辞めなかったんだ!」というかもしれない。後者については、底辺労働者にはまず職場環境を厳選するようなゆとりがないという地べたの想像力を持ってもらえばと思うのだが(もっとも、大卒でありまだ三十代であるじぶんのことを底辺だと思うほどこちらの社会認識は甘っちょろくないので、そこは断っておく)、前者については、本当に相手の考え方を根っこから変えたいのであれば、正論を大きな声で言うだけでは絶対に無理だという当然の認識をまず持ってもらいたい。ものすごくわかりやすい例をいえば、(……)さんみたいな人間にいったいどうやれば正論が通じるのだということだ。(……)さんだけではない、(……)さんも(……)さんも(……)さんも(……)さんも(……)さんもがっつりレイシストだ((……)さんと(……)さんのふたりはまとめサイトの流言飛語を真実として受け取ってしまったタイプのいわゆるネトウヨだったので、ほかとはちょっと毛色が違うが)。たとえば、アルバイトとして採用されて出勤したその初日、目の前で彼らが差別発言を口にしたとき、「あなたそれは間違っている! 撤回しなさい!」と言ってだれが耳を傾けるのだ? という話だ。確信をもって言うが、仮にそう言ったとしても、「じゃあ、どう間違っているっていうの?」という反論は絶対に来ない。来るのは「大卒の若造がなにを偉そうな口利いとんねん殺すぞ」だ。正論うんぬんの話ではない。議論うんぬんの話でもない。論理が通じる通じないの話ですらない。じぶんの話に耳を傾けてもらいたいのであれば、まずそれを先方が良しとする関係性の構築からはじめなければならないのだ。こちらが念頭においているのはそういうレベルの話だ。それが地べただ。
こちらは四年かけて、少なくとも(……)さんと(……)さんにはある程度相対的な視点を持ってもらうことに成功したと思っている。もちろん、界隈のもとめる水準にはまったく満たない。それはたとえば、中国人観光客が毎回客室をひどく汚していくのを彼らの国民性に還元しようとするふたりにたいして、バブルのときの日本人も現在の中国人と同様に海外からマナーの最悪な観光客として認識されていた、それをまずいと思った政府が啓蒙活動がおこなった結果いわゆるマナーを守る日本人ができあがったのだという歴史的事実を了解させたという程度のものでしかないのかもしれない。だが、その了解をきっかけに、少なくとも相対的なものの見方というのが、こう言ってはなんだが中卒でろくに教養もないふたりにしかと埋め込まれたのをこちらは知っている。中韓に対するバッシングにかすかな留保がついたり、同じバッシングをそれまで向けることのなかった日本政府にも適用するようになるという、微妙な変化が生じたことにこちらは気づいている。それまでまったく興味もなかっただろう政治的トピックについて、あれは何が問題なのだとふたりのほうからこちらにたずねてくることも、最後の一年間にはたびたびあった。たったそれだけのことに四年もかかった!
もう何年前になるかわからないが、國分功一郎レイシストTwitterで相互フォローになっているとして界隈から叩かれまくったことがあった。と思ってあらためてググってみたが、ここにまとめがあった(https://togetter.com/li/729842)。Twitterで「ゴキブリチョン」がうんぬんかんぬんと書いている中宮崇なる人物と相互フォローになっているという理由で、ボロクソに言われているわけだが、この騒動のとき、こちらはやはり(……)の面々のことを考えざるをえなかった。というか國分功一郎という人物の日頃の発言であったり著作物に触れたことのある人間であれば、彼がある意味ではほとんどオールドファッションといってもいいほどの左翼であり、仮にレイシストと相互フォローになっているのであれば、それ相応の理由があるにちがいないとまずは考えるのが筋だと思うのだが、しかし残念なことに、現代の想像力はだいたい対象を過小評価する方向にばかり先鋭化してしまっている。國分功一郎は「俺の身近に問題行動を起こしている人物がいるとして、俺がそいつに働きかけないということがあるだろうか。地元で起こった政治問題にまで、全力で取り組んでいる。」「いいか、問題行動を起こしている人物を遠ざけたり、そいつと縁を切ったり、そいつを罵倒したりすることは、問題を解決することとは全く無関係だ。そんなものは当人の自己満足にすぎない。自分は正義の側に立っているという満足にすぎない。」「この前も講演会で言った。政治問題について意見が違うからといってそいつと絶交するのはやめようと。俺は言論の世界にいるが、「あいつと対談したあいつとは話しない」とかそういうくだらないことをやっているやつがいる。本当にくだらない。そうやって潔癖症で保身してれば満足なのだろう。」と言っているが、界隈はその発言に満足できず非難をくりかえす。そして國分功一郎はあらためて公式に事情を説明し、その説明はこちらからすれば行間からさまざまな事情のおしはかることのできるものであるのだが、それでもなお界隈は中宮崇ヘイトスピーチをやめさせろ! しか言わない。こういうのを見ると、このひとたちはマジで「他者」と接したことがないのではないか? あるいは同質性集団である運動(体)に肩入れしすぎるあまりそういう「他者」と接する機会をほとんど失ってしまっているんではないか? という気がしてならない。もし中宮崇ヘイトスピーチをやめさせたいのであれば、いや、やめさせるのではなく心の底から彼を「転向」させたいのであれば、まずは彼と個人的に転移関係を構築する必要があるし(國分功一郎は実際、中宮崇の発言の数々を「症状」だと語っている)、その上で長期にわたる段階的な対話が必要になることは明白だろうに、それをよしとせず、いますぐ白黒はっきりするようにせまった上で、黒であれば手を切れ! といってしまう、その短絡に心底うんざりする。
ウイグル人の置かれた窮地に注目が集まる昨今、たとえば中国政府から給料をもらって働いているこちらのような人間を指弾する向きもおそらくあるだろう。それに対してはたとえば、官(公)における対立を補償するものとして民(私)における交流があるのだという常套句で対応することができるだろう。あるいは、日本語学習を介して日本文化を学習することで、学生らに母国を相対化する契機を与えるという、いわば遅効性の種まきに尽力しているのだという論理も成り立つ(文学の授業を隠蓑にしてこっそり自由の尊さを吹聴する!)。少なくとも先の批判を口にする人間のうち左派は、このような論理にある程度納得してくれるんではないかと思うのだが(というか左派はそもそもそういう批判をせず、むしろそのような批判をする右派に対抗するかたちで先ほどこちらが述べたことと似たような論旨を口にすると思うのだが)、この構図というのは、こちらと(……)の面々、あるいは、國分功一郎中宮崇の構図と同じではないだろうか?
怒りの表明は重要だ。たとえば転移関係の構築できた(……)さんや(……)さん相手にこちらが沖縄のひとびとが置かれている窮状について語ったとする。その言葉をすべて鵜呑みにすることはないとはいえ、「あの(……)くんが言っていたこと」だからとなんとなくふたりのあたまの片隅に残っていたところ、当の沖縄人や支持者たちの「怒りの表明」がテレビや新聞でフォーカスされているのを見て、よりシリアスにその問題を受け止めるようになるということはおおいに考えられるだろう。地べたの説得と「怒りの表明」としての運動は、本来、このようにして相乗的に機能すべきであるはずなのに、度を超えた「怒りの表明」によって説得の現場である地べたが根こそぎ荒らされてしまっている——こちらの違和感とは要するにこういうふうに総括することができる。そもそも民主主義的な意味での「議論」とは、おまえは敵か味方かと相手にせまることではない。隠れキリシタンにたいするものであれシベリア抑留者にたいするものであれ、踏み絵とは常に弾圧者の身振りであった。

 食後は音読。「読みかえし」ノートはバーバラ・ジョンソンを越えて二〇一三年の四月ごろだったかに読んでいた詩のあたりに。長田弘と征矢泰子。したのやつは、「無残なことばをつつしむ仕事」というのがよいとおもった。

282

 愛しあわなければ、
 わたしたちは死ぬしかない。
 白い紙にそう刻んだのは、
 詩人のW・H・オーデンだった。
 だが、間違いだった、と詩人は言った。
 本当は、こう書くべきだった。
 わたしたちはたがいに愛しあい、
 そして死ぬしかない、と。
 わたしたちは、みな、
 死すべき存在なのだから。
 それでも不正確だ、と詩人は言った。
 不正確というより不誠実だ、と。
 たぶん、そうだと思う。
 わたしたちは、そのように
 愛について、また、死について、
 糺すように、書くべきでない。
 晩秋深夜、W・H・オーデンを読む。
 詩人の仕事とは、何だろう?
 無残なことばをつつしむ仕事、
 沈黙を、ことばでゆびさす仕事だ。
 人生は受容であって、戦いではない。
 戦うだとか、最前線だとか、
 戦争のことばで、語ることはよそう。
 たとえ愚かにしか、生きられなくても、
 愚かな賢者のように、生きようと思わない。
 We must love one another or die.
 わたしたちは、
 愚か者として生きるべきである。
 賢い愚か者として生きるべきである。
 明窓半月、本を置いて眠る。
 (長田弘『世界はうつくしいと』(みすず書房、二〇〇九年)、62~64; 「We must love one another or die」)


 征矢泰子というひとはセンチメンタルのきわみみたいなかんじなのだが、ここまで行くとずいぶんきれいでなんかちょっと突き抜けてるぞ、みたいな感触がある。ふたつめの引用がおさめられていた詩集からは、たしかぜんぶひらがなで書いていたのではないかとおもうし。ここには掲げないが286番の書抜きでは、「やわらかくなまめいてかいじゅうする/さくばくとくりかえすひびのさばくに」とか、「むひょうじょうなめにひをもやし」とか、「懐柔」「索漠」といったかたい語でもおかまいなしにひらがなでつかっている。「むひょうじょう」も、これをひらがなでやっちゃうか、とおもった。まあぜんぶひらがなというみずから課した統一ルールがあればそれにしたがわざるをえないから、苦ではないのかもしれないが。285の一節では、「なみだ」を「むしんでだいたんでむぼうでまあたらしいものよ」といっている一行がよいとおもった。

284

 からっぽの金魚鉢が
 あんなにさみしいのは
 たった今までその中で
 泳いでいた金魚のせいです
 からっぽの花びんがかなしいのは
 もちろん今朝すてた花のせいです
 なにかが失くなるとすぐ
 さみしくなってしまう
 たわいないからっぽ
 だからわたしはほしいのです
 底ぬけのからっぽが
 埋めようもなく
 失くしようもない
 たとえばすき透ったあぶくのような
 たとえばすみ渡った空のような
 わたしをやわらかくときほぐし
 わたしをそこらじゅうにばらまいてくれる
 からっぽを探しているのです
 くりかえす日々の中でわたしは
 からっぽのサイダーびんのような
 わたしを置く場所がないのです
 (『征矢泰子詩集』(思潮社、現代詩文庫175、二〇〇三年)、24; 「からっぽ」; 詩集〈砂時計〉(一九七六年)から)


285

 なみだよなみだ
 わたしのもっているもののなかでたったひとつ
 かぎりなくすきとおったものよ
 なみだよなみだ
 わたしのもっているもののなかでただそれだけ
 とめどなくあふれつづけるものよ
 そしてなにより
 としつきのなかでふとり
 てあかにまみれておもくなっただけそれだけ
 つつましくだしおしみおくびょうにおしかくす
 ならいせいとなったわたしのなかで
 むしんでだいたんでむぼうでまあたらしいものよ
 おまえはぬらせ
 わたしのこころを
 としつきにちゅうじつなからだのなかで
 としつきにおいつけないこころを
 せめてあたたかく
 おまえはぬらせ
 なみだよなみだすきとおったものよ
 (『征矢泰子詩集』(思潮社、現代詩文庫175、二〇〇三年)、29; 「なみだ」; 詩集〈綱引き〉(一九七七年)から)

 音読中はBGMを耳に入れる気分になったのでAmazon Musicにログインしてみたところ、さいしょのページにK-POP NOWというプレイリストがあらわれる。それでK-POP流行ってるっぽいし、塾の女子生徒や女性でもはまってるひとおおいし、どんなかんじなのかちょっと聞いてみるかとそれをながした。まあおおかたとくに音楽的にはおもしろみをかんじはしないのだけれど、そのなかでも、#4 Kep1er “Up!”、#5 NMIXX “Kiss”、#7 NewJeans “Attention”、#15 SEVENTEEN “_WORLD”あたりがたしょう耳を惹いた。ながれてくる楽曲はだいたいのところエレクトロ風味の混ざったキャッチーなさわやか明朗ポップスか、リズムを重めに強調してすばやい口調でこまかく歌うややオラオラ風味のパワータイプか、そうでなければAOR的メロウな半浮遊音楽みたいなところに大別できる気がするのだけれど、#4のやつは分類するなら二つ目で、なんかファンキーなベースはいっているし歌唱もこまかくリズミカルにはめていてキレがあるのではとおもった。しかしこのグループの曲はあとでもうひとつ出てきたが、そちらはとくにおもしろくはなかった。#5は一つ目のやつで、いかにもさわやかでメロウ風味もちょっとだけはいりながらメロディメロディきわまりなく、こういうのがEDMというやつなのかいまだにわかっていないのだけれど、たんなるわかりやすい王道的キャッチーだとしてもここまでやればまあ売れるでしょうという感じ。音楽的にいちばんこちらの好みに合っていたのは#7かな。これはメロウ路線ではあるのだけれど、現代ジャズのうちポップ方面にやや寄っている歌手とかがやりそうなテンション入りのコードワークになっていて、このグループだけはほかの曲も聞いてみてもよいかもしれない。SEVENTEENというのはゆうめいな男性グループだったはずで、そういえばBTSも一曲あったのでそれも聞いてみたが、ふたつともあわせてじつにストレートにメロウなコーラスグループで高品質だし、そりゃまあ売れるでしょうと。あと、TOMORROW X TOGETHER & iann dior, “Valley of Lies”というのが耳にしたなかでは唯一アコギのストロークをふくんでいて、ほど良いかんじにちからの抜けたフォークポップスというおもむきでこれもわるくはなかった。Jack Johnsonとかってこういう感じなのか? あと、Stray Kids “Mixtape : Time Out”というこれはもろに九〇年代のメロコアGreen DayとかBustedとかそのへんそのもので、あまりにもそのものなので笑ってしまうくらいだ。若々しい少年の生意気さと溌剌としたみずみずしいさわやかさがとりそろえられているのがいかにもそのもの。それにしてもぜんたいに、もうアメリカの音楽とほんとうになにも変わらないよねという印象。
 それで意外とながく、一時台まで音読してしまい、そののちだったかあいまだったかわすれたが食器類は洗って水切りケースにおさめておいた。洗濯もしようとおもってニトリのビニール袋に突っこんである汚れ物を洗濯機にうつしたのだけれど、よくかんがえたらきょうは天気もよくないし、部屋内に干すつもりなのでいつ洗おうがたいして変わらんのだから、湯を浴びてからそのときつかうタオルなどもまとめて洗えばよいとおもったのだった。それでシャワーを浴びる。クソを垂れてさほど時間が経っていないので、浴室の空気には大便のにおいがうっすらと混ざりのこっている。ルック泡洗剤がそろそろ切れるので詰替え用をきょうできたら買ってきたいが、そうする気になるかどうか。湯を浴びてあたまやからだを洗い、ながれだすものを止めると扉をあけ、浴槽内にとどまったままフェイスタオルでからだとあたまを拭う。それからちょっとのあいだその場に立ち尽くして目を閉じ、肌のうえをのこった水のしずくがいくつもながれおちていく感触などを感じつつ静止した。そうして室を出るとタオルを洗濯機にくわえて注水をはじめさせ、あいまに扉の影で背伸びをし、注水が止まると全裸のまま液体洗剤をキャップではかって投入し、蓋を閉じれば洗濯がスタートする。それからバスタオルをつかうが、皮膚のほうはもうほぼ乾いているので、実質あたまを拭くだけである。それなのでバスタオルはほとんど濡れず、まだつかえるだろうということでハンガーにかけて窓辺に吊るしておく。肌着とハーフパンツを身につけるとドライヤーで髪を乾かして、椅子のうえできょう二度目の瞑想をおこなった。しかしなんだかねむくてあまりつづかず。やはり一五分程度だったのではないか。食後だからか? だがそのまま寝床にながれてストレッチをはじめた。合蹠とか胎児のポーズとかをやっているあいだもやはりけっこうねむい。だがいろいろやっているうちに血がめぐるから意識がだんだん晴れてくる。そうしてじきに洗濯が終わったのでいま吊るしていたタオルとかをかたづけ、そのあとにあたらしいものをとりつけて、集合ハンガーとハーフパンツだけそとに出しておいたが、しかしいまここを書いている三時五〇分現在、窓のほうをみるとカーテンにちょっとあかるみが添えられていて、めくれば空は一面雲に埋められてはいるけれど、そこをもれてくる太陽のちいさなきらめきも見えて宙にうっすら光線がかかってもいたので、意外と行けるかもしれないとおもって肌着も追加で出しておいた。
 椅子に帰るときょうのことを記述。とちゅうでまた立って屈伸とか背伸びとかしたり。K-POPについての箇所を書いたあと、NewJeansのデビューEPをながしてみたが、やはりわるくない。洒落たR&Bという感じ(といって、じぶんはR&Bというジャンルをぜんぜん聞いてこなかったので、こういうのをR&Bと言ってよいのかよくわからないのだが)。しかしさきほどのプレイリストのならびのなかではあきらかに地味な部類にあたるはずで、こういうの売れんの? とおもうが。このグループはまだデビューしたばかりで、このEPも今月出たばかりらしい。ググってみると、K-POPのつぎのアイコンになるかも、とか、音楽番組で一位になったとかいう記事が出てくる。そういうもんなのか。あとK-POPって要はほぼアイドルなはずだから、音楽だけではなく、容姿やパフォーマンスやキャラクターをふくめたヴィジュアル面やメディアへの露出で決まるのだろう。プロデューサーは界隈の有力者らしく、ELLEも記事つくっているから、業界やメディア側としてもおおいに売り出しにかかっているようだ。
 いますこしまえに腹が減ったのでなんか食うとともにひさしぶりにクラフトコーラでも飲むかとおもい、きのう買った「いろはす」のペットボトルをもって部屋を抜けた。それで”Bad Junky Blues”を口笛で吹いて階段にひびかせながら建物を出て、アパート横の自販機に百円玉を入れてクラフトコーラを買い、もどりがてら郵便受けをチェックすると、れいの中国共産党をこの世から消滅させたがっている団体のチラシである「真相」というのがまたはいっていて、いやこれ二、三日前にもはいってたでしょ、そんなにいれてどうすんねんとおもった。もどると豆腐とかチーズドッグとかハンバーグを食い、コーラを飲みつつここまで記述。四時九分。やっときょうのことにまず切りがついた。あとは一四日と一六日を書けばまあだいたいどうにかなるかなというところまでは行くのだけれど、しかしきょうじゅうにかたをつけられるのは一四日がせいぜいかなともおもっている。(……)くんの訳文添削もしなければならないし。添削といっても見たところだいたい訳せていて、ややぎこちなかったりしても日本語として通じる文にはなっているし、おおきく直す瑕疵もさほどなさそうなので、じぶんだったらこう訳すというこちらの訳文をつくり、ポイントを解説、みたいなやりかたにしようかなとおもっている。
 あとそういえばnoteをのぞいたところ(……)というひとがあらたにフォローしていたのだけれど、このひとは二年くらい前だかやはりnoteに日記を載せていた時期にコメントをくれたひとだ。今回はこちらはだれひとりフォローしていないのに、また見つけられてしまうとは。あとnote内をちょっとうろついていると、BASEで日記を販売しているというアカウントも見かけて、金策としてこの日記を売るというのもありなのかもなあとおもった。たいして金にはならんだろうが。(……)くんなんかはけっこうまえからむしろそうしたらいいじゃないっすか、となんどか言っていたとおもう。去年だったかおととしだったかには、この日記はひとにも金にもなににもつながらず、外的な利益をまったくえることがないがそんなことは不問で膨大な労力をついやしてつづけられる無償のおこないとしてあらねばならない、それを体現し例証したい、みたいなことを書いたおぼえがあるけれど(それと同時にそういうこだわりも捨てたほうがよいのだろうし、いざ生きていくために金がいるとなったら背に腹は変えられんと転換せざるをえないかもしれないとも書いたおぼえがあるが)、そういうこだわりもまあべつにわりとどうでもよろしいかなというきもちになってきた。つづけられればなんでもよろしいと。だいいち、仮にこの日記を売ってわずかばかりの金を得たところで、じぶんがなんのためでもなくこれを書きつづけていることなど読むひとの目にはあきらかではないか? ちょっといま家計計上をめんどうくさがってサボっていて、またパニック障害のせいで六月七月の月収は三万四万程度だし、引っ越ししてばかりで余分な出費もいろいろあったから、ひと月の平均的な収支が正確にどういう感じになるのかというのがまだわかっていないのだけれど、まあ塾のバイトで八万稼いだとしてもうすこしだけでも金がなければ持続可能な生活はむずかしいだろう。しかしおれは週三日労働をくずすつもりはない。月水金というかたちで一日はたらいたら一日休まなければとてもでないがやっていけない。心身的にもついていけないし、あいだに休日がはいらなければ日記も追いつかない(というか休日がはいってすら追いつかない)。なので塾のバイトを週三日にくわえて、いよいよブログもしくはnoteで、似非オンライン家庭教師をやるみたいな、いっしょに文学とか哲学読むだけで金をくれるようなひとを募ろうかなとだんだんおもってはいたのだが、呼びかけてもそういうひとがそうそういるともおもえないし(こちらのnoteのフォロワー、いま五人だぞ)、それだったらふつうにこの日記を文章として売ったほうがはやいのかなという気もした。


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 いま午後九時三六分。さきほどようやっと八月一四日の記事を書き終え、ブログおよびnoteに投稿し、一五日もつづけてインターネットに放流した。ルック泡洗剤の詰替用を近間のサンドラッグに買いに行きたいとおもっていたがもうめんどうくさい。あと、六時から三〇分ほどBill Evans Trioを聞いて、Evansの孤高をまたかんじてしまったのでそのへんも綴りたいのだけれど、きょうはもう無理そうな気がする。(……)くんの和訳の添削もしなければならないし、またあしたひさしぶりに午前の通話に参加するからそう夜更かしするわけにもいかないし。コーラを飲んだのでカフェインの作用でからだが昂進したり緊張したりしているのが如実にかんじられ、額の奥はかたくなってうっすらと頭痛めいているし、アパート内で上階とか階段とかでひとが物音を立てるのが聞こえても過敏になっていて、いつもは気にしないくらいの音にうるせえなとちょっとおもったり、じぶんの反応がわずかに不安めいたものをふくんだものになっているのが受け止められる。


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 この日のことはあと忘却。うえでふれるのをわすれていたとおもうが、二〇一四年の日記の本文外には、「ぶれてはいけない。今はまだこのまま、丁寧に書いていくべきときだ。自分の文章を崩してはいけない。描写を鍛えていこう。この一年、少なくとも三ヶ月ほど前からはそうしてきた。黙々とやる。誰に評価されなくとも、書けるということだけで満足するべきだ」というみずからへの言い聞かせがあった。「誰に評価されなくとも、書けるということだけで満足するべきだ」というさいごの一文は、ヴァージニア・ウルフが日記のなかに書きつけていたことばだったはず。しかしこういうことをわざわざじぶんに言い聞かせてみせるというのはとうぜん、それ相応の承認欲求があるはずで、一四年ごろのじぶんはだから、じぶんが価値あるとおもってまいにちがんばっていることが世の大勢から、それどころかおそらく文学とかそういうのが好きな方面のひとびとからすら完膚なきまでにずれまくっていてとても評価されるもとではないということに、たしょうのルサンチマンめいた情をいだいていただろう。そういう排他的な、読み書きの時間いがいは無駄であるというような、直情的な使命感めいた情熱というのは二〇一五年くらいまでつづいていたおぼえがあるが、そのあたりからだんだんゆるくなった。職場の飲み会なんかもそれまでは時間の無駄だとおもいながらもいちおう出てはやく帰って本を読みたいとおもっていたり、あるいはそもそも出なかったりしていたが、日記のいとなみが時を経て書けることが増えてくると、職場での人間関係とか飲み会とかの場にもそれはそれでおもしろい、興味深い、書く対象になるものがあると見えてきて、だんだんそういう時間もそれはそれでわるくないとおもうようになった。その後瞑想実践なんかも深まって、生きていて退屈をかんじることがまずなくなり、生活内の時空における有益/無駄の二分法がかなり希薄化したので、ぜったいにまいにち読み書きしなければ、これだけがじぶんのやるべきことで、それいがいは無益だというような盲目的なこだわりは消滅した。それは身のほどを知り、なにがしかのかたちで去勢を受け、他者に目を向けるようになったということでもある。


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  • 「ことば」: 11 - 15
  • 「読みかえし1」: 273 - 287
  • 日記読み: 2021/8/21, Sat. / 2014/2/2, Sun.

(……)新聞はアフガニスタン情勢。タリバンは米国への協力者など、標的となる人物のブラックリストを作成していたらしい。国連の報告でそれがあきらかになったとか。だから、融和姿勢は見せかけで、各国の人員や外交官やいなくなったあとに標的を粛清しはじめるというシナリオもありうると。じっさいすでに現場では政府側の人間が処刑されたりという報告もあるようだし、この日の新聞にもまた、ドイツの放送局に属していたアフガニスタン国籍の記者の家族が殺されたとあった。標的はもちろんこの記者本人で、タリバンの戦闘員が一軒一軒まわってさがしていたという。そんななか、一九日は英保護領から独立して一〇二年目の独立記念日で、タリバンはカブールにはいって以降アフガニスタン国旗を撤去してタリバンの白い旗におきかえていたらしいのだけれど、首都カブールでは一九日の午後から国旗をかかげた抗議デモが起こり、東部でも同様のうごきがあって記念式典もおこなわれたらしい。とうぜん、それによってタリバンに殺される可能性はじゅうぶんにある。いっぽう、トルコからEUにかけての諸国は難民の流入を警戒している。英国はいちはやくボリス・ジョンソンが二万人の難民受け入れを表明し、英国はアフガニスタンを良い国にしようと努力し協力してきたすべてのひとにたいして恩義があると述べたというが、ほかの国はおおむね拒否か消極的な態度のようで、フランスのマクロンは難民の波から自国を守らなければならないと言い、ドイツのメルケルは二〇一五年のシリア難民のときの再来は避けざるをえないだろうから周辺国への支援を強化しなければならない、と言うにとどまり、トルコのエルドアンドナルド・トランプばりに難民を排除すると断言してイランとの国境地帯二〇〇キロにわたって壁を建設中で、すでに半分くらいは完成しているらしい。