2022/8/23, Tue.

[ロバート・ヘッド宛]
1967年10月18日


 […]反戦の詩についてだが、わたしはうんと昔、反戦が広く支持されたり、はやりには思われていない時に、それを表明していた。第二次世界大戦の時で、共鳴してくれる者は誰もいない状況だった。インテリやアーティストから見れば、いい戦争と悪い戦争があるようだ。わたしからすれば、悪い戦争しかない。わたしは今も戦争反対で、ほかのとんでもなくいろんなことにも反対だが、ちょっと別の状況のこともよく覚えていて、それは詩人やインテリたちが季節のようにどれほど目まぐるしく変わるのかということで、わたしの信念や立場の拠り所は自分自身の中にしか、自分がどういう人間なのかというところにしかなくて、今抗議している者たちの長い行列を見ても、わたしは彼らの勇気がどこか俗っぽさ半分の勇気でしかなく、通じ合える仲間うちだけでもて(end145)はやされることをやっているということがよくわかり、そんなことは誰でも簡単にできることなのだ。第二次世界大戦下、わたし [﹅3] が檻の中に放り込まれた時、そんなやつらはいったいどこにいたというのだ? あの頃は誰もがひたすらおとなしかった。わたしは人のふりをしている獣を信頼しないよ、ヘッド、それに大衆も大嫌いだ。わたしは自分のビールを飲み、タイプライターを叩き、そして待つ。
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、145~146)




 いちど目を覚ましたのは午前五時になる直前だった。れいによって明かりを落とさないうちに意識を落としてしまったかたち。立ち上がって扉のほうまで行き消灯し、デスク上のライトの台座にもゆびでふれて部屋を暗くすると(とはいっても五時だからすでにカーテンの端からほそく漏れる白さがいくらかあったが)布団にたおれこんでからだのうえにも布をかけ、就眠した。(……)が実家に来たみたいなゆめをみた。いくらかことばも交わしたようす。(……)はこちらとおなじ地元出身という設定になっていて、街道沿いにあって姉だかが住んでいる実家に行くとかなんとか。もろもろの詳細はわすれてしまった。つぎに覚めたのは九時一二分で、ここでもう正式な覚醒を得て、深呼吸したり腹をよく揉んだり、胎児のポーズを取ったりChromebookをひらいてウェブを見ながら腰や背中を座布団にぐりぐり押しつけたり、からだのこごりを取って活動にむかわせながら臥位に過ごし、九時五二分に起き上がった。紺色のカーテンをひらくと空は白曇り。そうして洗顔、放尿(やたら黄色の濃い小便だった)、飲水、蒸しタオル。屈伸もさっそくやっておいた。それでもうこのタイミングで一回瞑想してしまうのがいいかなとこのあいだはおもったが、きょうはそうする気にならずまたゴロゴロしながら日記を読みたかったので、寝床にもどってそのようにした。2021/8/23, Mon.と2014/2/3, Mon.。一年前は帰路の記述がながめ。白猫に遭遇していつくしみをおぼえながらたわむれたあと、「ひるがえって人間というものの鬱陶しさがおもわれ、猫にくらべれば人間など、誰も彼も例外なくあさましい存在だとおもった。意味とちからを絶えず交換しあい互いをつかれさせ不快にすることなしには生きていくこともできない無能者のあつまりだ。うんざりである」と嫌悪を表明している。つづけて、「来世は大気か樹木になりたい」と締めているのには笑った。レヴィナスいうところの始原的なものに還帰したいらしい。ひかりだの空だの雲だの風だの雨だの木々だの、じぶんの性向はずっとそちらばかりに向いている。書見はプルーストを終えてミシェル・ド・セルトー/山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』(ちくま学芸文庫、二〇二一年/国文社、一九八七年)にはいっている。二〇一四年のほうはなぜかわからないがブログに二月三日の記事はなく、とうじ投稿しなかったようだ。こんなクソみたいな駄文を公開してもクソなだけだという自己嫌悪におそわれたのだろうか。とうじはじぶんなりに文章の質にたいするこだわりがあって、それを満たしていなかったのかもしれない。どうせたいした文章でなく、ぜんぜん書けてなどおらず、その前後と変わりなどしないのに。いまは質の面でじぶんの文に満足できないということはまるでなくなった、というか質などどうでもよろしい。ただ、書きたかったことを十分に書けないというべつのかたちの不満が支配的で、ほぼつねにある。


     *


 寝床から起き上がると洗濯をはじめた。ニトリのビニール袋に入れてある肌着とかきのうのワイシャツなどと、昨晩洗面台のところで洗面器のなかに漬けておいたタオル。ワイシャツは洗濯ネットに入れる。注水がすすむあいだ屈伸して、脚を伸ばすさいに前かがみに両手を伸ばしてぶらんとしたような姿勢で前屈めいてみたが、どうかんがえても足先にすら手が届かない。注水が終わると洗剤を入れて蓋を閉じ、椅子にうつって瞑想。一一時一五分だった。下半身がすでにほぐれているので安定感がある。からだや肌の各所の感覚をひろって、肉体がじわじわと平滑化しまとまっていくのを感じつづける。背後の左側では洗濯機がぐわーっ、……ぐわーっ、……とながめのストロークでしばらくまわったあと、ぐわっ、ぐわっ、ぐわっ、ぐわっとみじかい一定のリズムを反復し、その律動がこちらの心臓や血流にもちょっと干渉して影響をあたえるかのようだ。先日もおもったことだが、主体としてのにんげんに課せられた絶対的単一性という条件のことをかんがえた。瞑想というとスピリチュアリズムがそこに侵入して、大地とか宇宙と一体化するとか、この世界の生命のながれにつつまれたような感じになるとか、そういった感覚を語る言説がいろいろあるわけだけれど、こちらの実感では瞑想をして浮き彫りになってくるのはむしろこのじぶんがどこまで行ってもこのじぶんでしかなく、このじぶんであることしかできないという、つつましやかな「一」としての存在感覚である。それは消えない。どうあがいてもじぶんがじぶんであらざるをえず、仮にいまのじぶんがまったくべつのにんげんであったとしても、それはそのときまったくべつの様態として、しかしおなじく「このじぶん」であるということ、つまりわたしはわたしとしての意識や視点や位置しか持てず、他者になれないということ、存在条件としてひとに課せられたこの絶対的単一性が、にんげんにとって原初のトラウマのようなものなのではないか。それはおそらく精神分析理論が言っていることでもあるはずである。そういうことをかんがえたときにキリスト教が説く原罪の観念がわずかばかり理解できたような気がしたのだけれど、それは罪というよりはむしろ罰、いわば原罰だろう。ひとは存在論的に原初の罰を課せられていると、一抹そんなふうに感じないこともない。どうあがいても「一」であらざるをえない存在が総体的に観念化された世界のすべてとつうじるというのが神秘体験であり、古代ギリシアいらい哲学者も神についてそうした構造をかんがえ、また宗教者はおそらくときにはその身にこの神秘を体感してきたのだろう。道元が生死をはなれて仏になると言っているのもそういうことなのかもしれない。葉に乗った一粒の朝露に世界のすべてが映りこんでいる、というような発想はなにかの和歌だかにもあったはずだ。またいっぽうで、全体と対照されるのが一というよりはゼロ、すなわち無であることもありうる。まったくの無でありゼロであるじぶんが、それがゆえにすべてのものを吸収したり、包含したり、無からはじまってなににでもなることができる、というような理屈だ。キーツが書簡で詩人の資質として語っているいわゆるネガティヴ・ケイパビリティも、論理構造としてはこのかんがえかたに属するだろう。いずれにしてもそこには極と極とがつうじあって反転するという構造があるけれど、じぶんはこのじぶんが全体と接続するという言説を信用していない(とはいえ、まさしくこういう境涯をひたすら主題化しうたったはずのホイットマンなんかにはだいぶ惹かれるのだけれど)。信用していないというか、じっさい神秘的な体験としてそういうことはあるにはあるのだろうけれど、それはたんなる神秘体験にすぎず、じぶんはそれをいまだ体験していないし、とくに体験したいともおもっていない。こちらがむしろおもい、感じるのは、ひとはどうあがいても単一のこのわたしであることしかできず、そこからゼロにもなれないし、二にもなれない、可能だとしてもせいぜいが〇. 七とか一. 二くらいにしかなれないだろうということである。そういう半端さで良いではないかと。わたしがわたしであるということの一見健全で堅固な主体性よりも、わたしはどこまでいってもわたしであることしかできないというひとつの傷もしくは瑕の実感こそが、なにかしらの出発点になるのではないのか。デカルトは主体と存在のこの契機に目を向けるべきだった。けれど、これはじつのところ、デカルトが説いたのとおなじことを言っているような気もする。
 そうこうしているうちに洗濯機は再注水をなんどかおこなっていて、永遠にはなたれつづける小便みたいな太い水音を立てたり、脱水の段にはいって内部の空気を低くうならせながらまわったりしているが、三〇分がめちゃくちゃながいなとおもった。三〇分というのはこんなに長かったかと。標準コースで洗い出したので、稼働時間は三〇分程度だったはずなのだ。体感としてはもうそれはとっくに越えているだろうと感じていたのだけれど、このくらいかなと目をあけると、一一時五四分に達していた。だからほぼ四〇分だったわけで、標準コースは三〇分ではなかったのか? 洗濯はもうあと一、二分で終わるところだった。それを待ち、洗われたものをハンガーにとりつけて窓のそとへ。陽射しが出てあたたかくながれていた。風もそこそこにあり、洗濯物は一方向ではなくてかわるがわる左右になびく。そうして食事へ。洗濯機のうえにまな板を置いてキャベツを切っているあいだ、FISHMANSの”Slow Days”で佐藤伸治が「人生は大げさなものじゃない」とうたっているのをおもいだした。まさしく生はおおげさなものではなく、ささやかなものだけれど、ただ同時に、ひどくおびただしいものだともおもった。ささやかで、おびただしいもの。磯崎憲一郎があれはたしか『眼と太陽』のなかで、カフェのテラス席でべつのテーブルに座った女性客の会話が聞こえ、シスターらしいそのうちのいっぽうがあいてに人生訓めいたものを説いている、みたいな場面だった気がするのだが、その女性のことばとして、わたしたちのひとりひとりが人生の一秒一秒を無数にかさねていまこの瞬間までいたっているのだから、みたいなことを書きつけていた。それはいかにも陳腐なことばである。しかし、陳腐なのはそのことばであって、そのことばがとらえようとしている事態そのもののほうではない。そして、いかにも陳腐なそのことばがあらわすことのありようを、わずかばかりでも体感してしまったにんげんにとって、生はひとつの、あるいは複数の、際限も途方もないおびただしさとなり、歴史は時間の狂気となる。
 食い物は野菜しかないわけである。キャベツは半玉がまだけっこうのこっている。大根とタマネギもそれぞれそれなりにあるが、逆にいえばそれしかない。それらを切ったりスライスしたりして大皿に乗せ、飴色のタマネギドレッシングをかけて食す。あと(……)くんからもらったボトル型の味噌(「料亭の味」)がもうわずかだったのでつかってしまおうとおもい、逆さにして冷蔵庫に入れてあったやつを取り出して椀に中身を押し出したのだが、空気のちからだけではすべて出すことはできず、あきらかに内部にまだ微妙な残余がある。キャップをはずそうにも素手では無理そうだったのでカッターを持ち出し、下端に差しこみながらうーんとやっているうちにキャップ側面に一箇所、浅い切れこみめいたものがあるのに気づいたので、ここを端緒にすればどうにかなるかとそのへんをがんばって切り、そうして横にいくらか剝がして引っ張るかたちで取り除いた。そのころには湯が湧いていたので、それをボトル内に少量そそいで振っては椀へ、ということをくりかえし、味噌がほぼなくなるとのこりの湯をくわえて机へ。そうして野菜を食ったり汁物を飲んだりしているあいだはウェブ記事を読んだ。食後は音読もいくらか。
 それでもう一時を過ぎていたはず。皿を洗うまえにながしのまえで背伸びしたりしていると、そとで車が停まり階段をあがってくる音がしたので、Amazonの荷物が来たかなとおもっているとベルがなったのでそうである。インターフォンで出て、短髪に金色を入れた兄ちゃんがAmazonからだというのを確認し、扉をあけて礼を言いつつ受け取った。おとといの夜に注文したBRITAの浄水カートリッジ四個セットである。あとあしたブランショの『文学空間』が来ることになっている。
 そのあとはきょうのことを書き出しつつもとちゅうでとめたり、シャワーを浴びたり、ひさしぶりに東京新聞にアクセスしてニュースをちょっと見たり、歯磨きをしたり。ここまで綴ると四時四四分。食い物がないので調達にいかなければならないが、トイレのルック泡洗剤と制汗剤シートも買いたい。それなのでスーパーまで行かず、近間のサンドラッグで済ませようかともおもっている。きのうの往路の電車内や勤務の序盤ではへその上端あたりがちょっとかたくなって緊張し、たぶんそれに対応しているらしく喉にもものが詰まっているような感じがあって、きょうもたしょうそれはのこっている。あと日記に取り掛かるまえ、三時一五分から二〇分ほどまた瞑想した。食後だからかちょっと眠気がにじんだが。洗濯物は四時二〇分ごろに確認してみたところ、まあひかりがあって風もながれるので乾きはとうぜんわるくない。スポンジも洗いものを済ませたあとに、泡と水気を吐き出させたうえで窓外の日なたに出し、除菌のために洗剤を垂らしてちょっと押し、泡をまとわせておいた。


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 そのあとはいったん休んだのだったかな。わすれたが、七時くらいまで、ほぼ一六日の記事を書くことについやされた。そこからまた休んで買い出しに出たのは八時過ぎくらいだったはずだが、寝床で横になって休んでいるあいだはウェブ記事を読んでいた。あと夕食後にも机で。東京新聞をひさしぶりにのぞくと旧統一教会関連でいろいろあったので、それら。要は自民党日本会議まわり、右派と統一教会の根本的イデオロギー性を棚上げした「野合」についてだが、なかなかおもしろい。買い物に行くまえ、七時四〇分くらいから二〇分ほどだったのではないかとおもうが、また瞑想をした。喉の奥になにかがちいさく詰まっているような、食道の先端で開口部の縁が剝がれてめくれているような、そんな感覚がつづいていたのでそれをよく見てみようとおもったのだ。そうして座っているとうっすら嘔吐につうじてきそうなその感覚がときにあきらかになったり弱くなったりし、たしかに胃のほうから来ているようでもあるのだが、最終的にこれが起因しているのは胸の違和感らしいぞと見定められた。みぞおちから右側、右胸のけっこううえ、鎖骨ちかくまでの範囲にうすぼんやりとしたひっかかりかきしみのようなものが感じられたので、瞑想を解いたあとに胸をさすっているとこれが有効なわけである。腹だけではなくて胸、肋骨などもよくやわらげておかなければならないようだ。揉んでもいいのだけれど骨が何本もとおっているから揉みにくいし、さすったほうが広範囲をあたためることができてやりやすい。そういうわけでいくらかさすっておいてから着替えて買い出しへ。Tシャツに黒ズボン。近間だしすぐだとおもって靴下は履かなかった。それで部屋とアパートを抜けると裸足が靴のなかでちょっとぺこぺことした感触になる。空は雲がかりで星をみつけられない。いつもは公園の手前側の角で曲がるのだけれど、このときは縁をとおりすぎていき、そうするとどうやら敷地端の草が処理されたらしく、茂みが薄く低くなったようだった。すこしまえまではなかを見るのにもうすこし遮蔽があったはずだ。公園にひとはいないかとおもいきや、こちらから見て正面反対側の端にあるベンチにだれかひとり腰掛けているようだった。角まで来ると右折し、おもてへ。道中もときどき胸をさすりながら行く。車道に出ると来ないタイミングをはかってわたり、中洲のようになっているストアの敷地は駐車場端に群れたネコジャラシなどの下草が、もう緑はかんぜんになくして老いた秋の色に脱色しながら、溶けるように裾成すようにくたりとしなだれてひろがっており、そこに陽があたればきっといかにも金色の小海めいてうつくしく透きとおるだろう。その草の端から駐車場に踏み入り、停まっている車のまえをとおって入り口へ。こちらのうしろからべつの渡りをとおって来ていた女性、黒いリュックサックを背負って帽子をかぶり、したはやや使い古した風合いのある薄青いジーンズのひとのほうが足がはやく、さきに入店していた。手を消毒して籠を持ち、まわる。目的はルック泡洗剤の詰替と制汗剤ペーパーなのだが、その他食い物も買おうとおもっていた。制汗剤ペーパーは壁際に男性用の区画があったのでギャツビーのものをてきとうに取り、泡洗剤を確保したのち、食品のほうに行って五個入りのクリームパンとか冷凍のパスタとか。あとヨーグルトも買っておくことに。勤務後の夜にちょっとだけでもなにか食いたいというときにヨーグルトはいいのではないかとおもったので。その他アイスふたつ、あと豆腐も。そうして会計へ。こちらが入店したときには数人の列ができていたが、このときは若い男性がひとりレジで携帯をつかって支払っているところで、すぐに番が来て、お願いしますと籠を台上に置いたがその声がずいぶん鈍くちいさなものになった。袋はいるかと女性が聞くのに、ここではああいや、だいじょうぶですともうすこし声をたかめてこたえる。そうして金を払い、整理台にうつってリュックサックとビニール袋に品物を分けて詰める。つめたいものをビニール袋のほうにまとめた。
 帰路はおなじルートをたどる。公園まで来ると人影があり、道沿いの縁、草のあちらでなにか水を撒くような音がして、老人らしきひとがいるのはさきほどとおくのベンチに座っていたひとと同一なのかさだかでないが、このひとが世話をしているのだろうか。あるいているうちにそのひともこちらとおなじ方向に移動し、水場でバケツに水をそそいでいるようだった。
 帰宅後は食事。サラダをこしらえて買ってきた冷凍のパスタ・ボロネーゼ。食事中は(……)さんの日記などを読んだはず。それで九時半くらい。この日は午後一一時から翌朝五時までちかくで水道管の点検をするとかで、水が濁るかもしれないという知らせが事前にはいっていた。それでさっさと皿はかたづけてしまおうと洗い、シャワーは昼に浴びたからよいとして、食後はまた胸や腹をさすりながらウェブ記事を読み、一六日の記事はまだ完成していなかったんだったかな。わすれたのだが、一六日の記事に載せた音源を、ブログにあげていいかとLINEでやりとりをはじめたのが一一時二〇分ごろになっている。一一時直前になって水が濁るまえにクソを垂れようとトイレに行ったのはおぼえている。そのくらいまでで書き終わり、投稿する段でふたりに許可をもとめたというながれだったか。いまは個人情報につながるような固有名詞はすべて検閲しているとかつたえて、しばらくやりとりしてOKとなったので投稿。そのまま一七日、一八日も投稿すると零時半くらいにはなっていたはず。
 そのあとは一六日に載せたあの演奏をなぜかなんどもリピート再生しながらウェブをまわったのち、寝床にうつってブランショの『文学空間』を読みはじめた。届くのはあしただとおもっていたのだが、買い出しのために部屋を出たとき、扉横の壁にとりつけられてある物入れケースみたいなやつに黒いビニール袋がはいっているのに気がついたのだ(水道料金請求書の封筒もそこにはいっていた)。朝の一〇時ごろにいちど階段をあがる音が聞こえて、Amazonが来たのかなとおもっているとこちらの部屋のまえあたりになにかを置いて去っていったので置き配したらしいとおもいつつ、昼に金髪の兄ちゃんが浄水カートリッジを届けてきたのであれはちがったのかなとおもっていたのだが、たぶんあのときやはり届いていたのだろう。気力がなかったのでまださいしょの数ページしか読めていないが、まあおもしろくはある。言っていることはやや晦渋というか抽象的でもあり、代替物である「書物」と対比されたときなにかしら超越的な領分にあるらしい「作品」概念のありようがいまいちつかみきれていないが。しかしまだ五ページ程度だ。訳注に引かれているヴァレリーのことばを読むに、ヴァレリーも読まなければなあとおもう。その後はだらだらして四時に就寝。


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  • 「ことば」: 6 - 10
  • 「読みかえし1」: 289 - 298
  • 日記読み: 2021/8/23, Mon. / 2014/2/3, Mon.

新聞からアフガニスタンの報。タリバン指導部は市民の安全を守らなければならないと下位に言い渡して融和姿勢を演出しているのだけれど、やはり実態はそれとは遠く、読売新聞の通信員が、空港周辺でタリバン戦闘員があつまった市民にお前らの乗る飛行機はないと言って追い散らしたりしている現場を目撃したと。北部では、つくった飯がまずいと言って調理人の女性に火をつけて殺したという事件も報告されているようだし、米国への協力者ではなかったひとの家にもそれを疑って問答無用で押し入ったり、そのほかにもいろいろの暴力行為が報告されているようすで、場所によっては女学校の閉鎖や女性の外出禁止もおこなわれていると。報道官は、イラン国営テレビの放送で、下位の人間が暴力行為におよんでいることを認めつつも、我々も人間だから過ちを犯すのはしかたがない、とひらきなおったといい、イスラーム法に照らしてそれは良いのか? とおもうのだけれど、いずれにせよ指導部も末端まで統制できていないし、おそらくはそもそも統制するつもりがないのだろう。カブール陥落とタリバンの実権掌握によって、米国がアフガニスタン政府に供与していたヘリとか弾薬とかもろもろの武装タリバンの手に渡ったという由々しき事態もつたえられており、そこからアル・カーイダにながれたり、あるいは中国に技術が流出したりするおそれもあって、米国は安全保障上のおおきなリスクに直面することになったと。

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帰路のことを先に。退勤したのは一一時直前だった。徒歩を取る。非常に蒸し暑い。からだから水も抜けていたので、ひさしぶりに路上でものを飲む気になった。それで駅から裏にはいってまもなく、一世帯用アパートとでもいうような直方体の無愛想な外観の家のまえの自販機でWelch'sの葡萄ジュースを買い、片手はバッグで埋まっているのでキャップは腕時計とともに胸のポケットに入れ、冷たい液体をちびちびからだに取りこんで息をつきながらあるく。すぐに飲み終えて、空いたペットボトルを文化センターそばのべつの自販機のゴミ箱に捨てた。月がもう満月らしくまるまると太ってよく照っており、空には雲が蜘蛛の巣めいてほつれながら複雑にかかっているものの光量は抜群で、ひかりが隠れる間もあまりなく、雲のかたちも隙間の水色もあらわに見える。一日休みをはさんで回復したためか、遅くなったけれどからだの疲労感はそこまででなく、ただとにかく暑くはあった。風も裏道のあいだはほとんどない。ひろい空き地に接したところまで来れば空がひらけて満月の威容が行き渡っているのがふたたびあきらかで、ひかりはさざなみめいて遠くひろがり月から離れた東のほうまで雲の模様が浮き上がっているが、その映りはぼやけてあまりさだかならず、もこもことした白灰色の薄綿といった様相、しかしその立体感のなさで埋まって天頂も裾も大した段差がないのが、かえって空のひろさを昼間よりもまざまざと見せるようで、ずいぶんひろいなと見上げながら過ぎた。

白猫がいたので道のまんなかでしゃがみこみ、しばらくのあいだ、寝転がった猫の腹や背や脚の付け根あたりなどを無心でやさしく撫でつづけるだけの主体となった。撫でられているあいだ猫はときおり両手両足をぐぐっと上下に伸ばして細長い姿態となったり、寝返りを打ったり、またその尻尾はゆるく曲がった先が地面についたままちょっと揺れたり、不規則に、ゆっくりとした動きで、母体からは独立した生命を持ってそれじたいで動いている蛇のように持ち上がりながらやわらかにうねったりする。猫に触れているときほどいつくしみというものをかんじることはないな、とおもった。ことばを発することなくしずかなのがとても良い。去って先をすすんだあと、ひるがえって人間というものの鬱陶しさがおもわれ、猫にくらべれば人間など、誰も彼も例外なくあさましい存在だとおもった。意味とちからを絶えず交換しあい互いをつかれさせ不快にすることなしには生きていくこともできない無能者のあつまりだ。うんざりである。来世は大気か樹木になりたい。

しばらくさすりたわむれてから立ち、たびたびふりかえりながらすすみはじめると、これははじめて見るものだがべつの黒い猫が一匹、脇の家から出てきて道をわたり、夜闇になかばまぎれながら一軒の車のそばにたたずんだ。白猫はすこしあるいてついてきていたので、このまますすめばたがいに気づいてなんらかの交感が生じるのではないか、と期待したものの、白いすがたはとちゅうの道端で止まってしまい、ちょっともどってさそうようにしてみてもそれいじょうすすんでこないようすだったので、あきらめてその場を立ち去った。

さいきんはまた夜でも暑い。裏通りにいるあいだは空気のながれもほとんどなかったようだが、街道に出れば、吹くというほどでなくともやわらかにひろく拡散するながれが正面からはろばろと寄せてきてそれなりに涼しい。とはいえ肌は全身汗にべたついており、ワイシャツと肌着の裏の布に触れられていないすきまで汗の玉が脇腹や背をくすぐったくころがっていくのがかんじられる。夜蟬のうめきはもはやなく、あたりの音響は秋めいており、見上げれば南の空をわたる月は、酸で溶けた衣服のようにぎざぎざの線をした雲の網の、牙のならんだ獣をおもわせてあぎと、とでも言いたくなるその間隙で、ひかりをいっぱいにひろげながら充実している。

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(……)書見は、プルーストを読み終わってつぎになにを読もうかなとまよっていたのだが、ミシェル・ド・セルトー/山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』(ちくま学芸文庫、二〇二一年/国文社、一九八七年)を読みだした。いちおう学問的範疇としては社会学のくくりにはいるのだろうか。セルトーじしんは歴史学や宗教学や神学などいろいろやっているようだし、この書も領域横断的なもののようだが。支配的な文化生産者(非常に大雑把には「エリート」や企業、学問共同体など)が押しつけシステム化する文化的・社会的体制に否応なしに巻きこまれ、とらわれてしまう無名の消費者たち(「大衆」)が、そこから逃れるのでもなく(そんなことは不可能である)、かといって完全に同化するのでもなく、無数の細部の組み換えや手持ちのさまざまな要素の組み合わせ(いわゆる「ブリコラージュ」)や、意味の再解釈や個人的なルールの開発などによっていかにして押しつけられた文化をひそかにじぶんのものとし(それは非 - 正統的な意味での生産者、いわば「モグリ」になるということではないか)、システムのなかでかくれながらうまくやっていくか(隠蔽者・寄生者・密猟者・(ことによると部分的には)収奪者として?)、そのささやかながら非常に多様な日常的実践の形態を記述し、かつそこからアンチ文化が生み出されていく(かもしれない?)その(転覆の?)動態を政治的意義の点から追って見定める、というようなはなしだとおもう。だからテーマとしては、政治的方面および権力論から見るに、フーコーの研究と重なり合う部分が大きいものなのではないか(とはいえセルトーじしんは、さいしょに置かれてある研究概略のなかで、フーコーの『監獄の誕生』の多大な意義をみとめながらも、それでもなお彼の研究は装置と規律生産の側にのみフォーカスしたものだった、というようなことを言っていた――だから、言ってみればこの本は、フーコーが『監獄の誕生』では記述しなかった側の視点からそれを補完するようなものなのかもしれない――つまり、権力機構とその作用のなかにとらわれ、規律を注入されて主体形成しながらかつがつ生きていくしかない、無名でふつうの無数の個人の側から――しかしまた、セルトーは、この研究の主題はそうした主体のあり方そのものではなく(だから彼らの実存や生なのではなく)、あくまで彼らが戦術的に駆使する日常的実践の「形態」なのだ、とも強調していた)。ときおり、学問的・科学的文章の領分をあきらかに逸脱したとおもわれる文学的表現が出現して、それがなかなか素敵な書きぶり(訳しぶり)になっている。


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 政府は1994年、霊感商法被害が社会問題化して多数の訴訟が起こされていた旧統一教会を、反社会的な団体と判断すべきだと問われ、「政府として、一般的に、特定の宗教団体が反社会的であるかどうかについて判断する立場にない」とする答弁書閣議決定している。今もこの方針を継続中というわけだ。
 日本は戦前戦中、当時の治安維持法などに基づき、反体制の団体や活動家らを取り締まり、宗教団体も弾圧を受けた。そのため、戦後は憲法で信教の自由が保障され、宗教を保護する宗教法人法が制定された。同法に基づく解散命令を受けたのは、オウム真理教や明覚寺といった悪質な刑事事件を起こした団体に限られ、その運用は抑制的だ。
 宗教学者島薗進氏は「ここまで多くの被害者を生んできた旧統一教会の問題に向き合う上でも、反社会的な問題を繰り返し起こす団体の宗教法人認証の取り消しができるような宗教法人法の改正を検討すべきではないか」と話し、こう続ける。「ただ、認証しない理由を明確な基準とするのは容易でない課題だ」

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 1994年以降、カナダやフランスなどで新興宗教太陽寺院教団」の信者らによる集団自殺が相次いだ。こうした事件に危機感を強めたフランスの国民議会は95年に報告書をまとめ、カルト(セクト)と判断するために「法外な金銭的要求」「反社会的な教義」「子どもの強制的入信」など10基準を示した。これに基づいて危険視する170以上の団体名も挙げ、旧統一教会も含まれた。
 2001年には「セクト規制法」が成立。特徴は、マインドコントロールなどで支配された状態の人に重大な損害となる行為を規制した点だ。違法な医療、詐欺、家族を遺棄するといった「セクト的逸脱行為」について、手を染めた個人だけでなく所属する法人も処罰対象に。こうした両罰規定の拡大に加え、法人やその代表が処罰対象になれば、解散命令を出すことも可能にした。

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 セクト規制法に詳しい山形大の中島宏教授(憲法学)は「フランスはセクトの定義を基に危険とされる団体名をリスト化して規制しようとしたものの、団体を名指しすることには、信教の自由を考慮して国内外から批判もあった。そのため違法行為に着目して規制するようになった」とした上で、問題視された法人の解散命令が出たケースはまだないとする。「日本が学ぶべきは、法規制とあわせたセクトを巡る情報提供や注意喚起、未成年者保護、宗教が絡む問題に対処するための公務員研修などだ」と語る。


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 蜜月の象徴的な場面があった。2000年代前半に全国で吹き荒れた「ジェンダーフリー・バッシング」だ。ジェンダー概念や性教育などが標的とされた。
 鹿児島県議会でも03年7月、「ジェンダー・フリー教育を行わないよう求める陳情」が採択された。
 提出団体の代表は歴史教科書批判の右派団体の事務局長で、陳情の紹介者は自民党の県議だった。
 この県議は当時、取材に1冊の冊子を示して「この内容に沿って県議会で質問した」と明かした。
 「これがジェンダー・フリーの正体だ」と題された冊子の発行元は、日本会議シンクタンク的存在である日本政策研究センター
 冒頭に「暴力革命は不可能になった代わりに、共産主義者は別の方法で必ず日本解体を目指す(略)ジェンダー・フリーによる性別秩序の解体という事態とは、まさしくこの『暴力革命』を代替する『別の手段』の一つなのです」と記されていた。

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 旧統一教会も当時、バッシングに狂奔していた。関連団体「国際勝共連合勝共連合)」の同年の運動方針「内外情勢の展望」には「共産主義者は青少年の堕落を誘うべく過激な性教育論を学校に持ち込んで(略)」とあった。
 右派は復古的な家父長制の尊重、同教会は教義に沿った「純潔教育」が主張の根底にあったが、その論理の展開は酷似していた。
 当時、国会でバッシングの急先鋒せんぽうだった山谷えり子氏(現・自民党参院議員)も旧統一教会の関連新聞「世界日報」の紙面に再三登場する一方、事務所のニュースレターには日本会議系団体が推奨する性教育批判の論文を紹介しており、双方に「配慮」していた。

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 日本会議は右派団体の連合体だが、天皇主義の宗教団体「生長の家」の元信者らが中枢を担ってきた。生長の家は1983年以降に自民党と距離を置くようになったが、元信者らの現役時代には「靖国神社の国家護持」を掲げ、「自虐史観の克服」を訴えていた。
 一方、韓国が本拠である旧統一教会は、戦前の日本のアジア侵略に対し「日本の国家的悔い改めが必要」「日本という国の存在が人類全体にとってプラスなのか?マイナスなのか?」(関連団体「全国大学連合原理研究会」の青少年問題研究報告書2005)という立場だ。
 にもかかわらず、両者の協調は長い。日本会議は97年に設立されたが、その準備過程ともいえる70年代後半の元号法制化運動では、熊本県生長の家政治連合(生政連)と勝共連合などが協力し、法制化推進のための県民会議を結成している。
 生政連が支援母体で、総務庁長官を務めた自民党議員、玉置和郎氏は勝共連合の顧問でもあった。
 この協調関係は右派系文化人らの動きからも明らかだ。日本会議と関係する大学教授らは同教会系の団体「世界戦略総合研究所」でしばしば講演していた。彼らは同教会の関連団体「世界平和教授アカデミー」の機関誌にも執筆している。

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 では、日本の右派や民族派はこぞって、こうした旧統一教会側との関係を持っていたのだろうか。必ずしもそうではない。
 勝共連合設立に向け、旧統一教会創立者文鮮明氏と笹川良一氏、白井為雄氏(児玉誉士夫氏の代理)、畑時夫氏ら右翼の実力者らは67年、山梨県本栖湖畔で会合を開いたが、赤尾敏氏(大日本愛国党総裁)らは呼ばれなかった。
 赤尾氏はその後、週刊誌で「あんなの(勝共連合)反動的ブルジョア反共運動だ。(略)現体制の擁護じゃないか」と批判した。
 さらに右翼陣営の一部を激怒させる事件が起きた。世界日報元編集長の副島嘉和氏と元幹部の井上博明氏が月刊「文芸春秋」84年7月号に執筆した旧統一教会内部告発である。副島氏らは編集方針の違いから解任され、同教会からも脱会していた。
 記事の中で、副島氏らは旧統一教会には文鮮明氏と家族を前に主要国の元首たちがひざまずく儀式があり、天皇陛下の役を日本の旧統一教会会長が担っていると暴露した。この記事が出版される直前、副島氏は何者かに刃物で襲われ、重体に陥っている。
 事件後、民族派団体「一水会」の代表だった鈴木邦男氏は「『彼らは反共だから味方ではないか』と言っていた右翼の人々も、これを読んだら、とてもそんなことはいえないはずだ。実際、『許せない』『こんな反日集団は敵だ』と激高していた人が多くいた。僕としても前から、その性格は漠然と知っていたが(略)愕然がくぜんとする思いだった」と週刊誌に寄稿している。

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 だが、そうした批判が後に日本会議を設立する人びとに響くことはなかった。
 それはなぜなのか。
 ある右翼関係者は「日本会議を切り回す生長の家の元信者と原理研は『戦友』だから」と説明した。
 60年代末に学園闘争が盛んだった時代、長崎大などで民族派学生運動を担っていた元信者らと旧統一教会の学生(原理研)らは全共闘系の学生らとの衝突で、ともに闘った間柄だった。その「血盟」が続いているという解釈だ。
 一方、一水会の現代表である木村三浩氏は「勝共はカネも動員力もある。そして『反左翼』でとりあえず共闘する。同床異夢でも、安倍政権を支えることで一致していた」と話す。いわば、打算による野合だ。
 加えて「勝共の初代会長は立正佼成会出身の人物。『日本の統一教会と韓国のそれとは違う』と説明した可能性がある」と語る。

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 しかし、教会側にも利用する意図がある。相手が議員の場合、官憲からの組織防衛とともに、政策面への影響も狙ってきた。旧統一教会の月刊誌「世界家庭」(2017年3月号)には関連団体の総会長が活動方針の一つとして「議員教育の推進」を掲げている。
 「こちら特報部」が指摘したように、少なくとも自民党改憲たたき台案(18年)は、その前年に勝共連合が公開した改憲案と内容がほぼ一致している。
 日本人信者を食い物にした資金が、旧統一教会から北朝鮮の現体制に流れていた構図がある。旧統一教会の教典「原理講論」では、朝鮮半島における日本帝国主義の「虐殺」「殺戮さつりく」が説かれている。反共で一致するにせよ、旧統一教会との協調を日本会議などはどう正当化するのか。


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 「岸元首相は、本連合設立当初から勝共運動に理解を示し、陰に陽に支援、助言を行ってきた」
 勝共連合の機関紙「思想新聞」の1987年8月16日付1面には、同月7日に亡くなった信介氏の評伝が掲載され、先の一文がつづられた。広辞苑によると、「陰に陽に」とは「あるときは内密に、あるときは公然と」の意。親密ぶりがうかがえる。評伝はこう続く。「スパイ防止法制定運動の先頭に立ってきた…」
 この法律は、防衛と外交の機密情報を外国勢力に漏らせば厳罰を下す内容だ。信介氏は並々ならぬ思いを持っていたようだ。
 57年に首相として訪米した際、米側から秘密保護に関する新法制定の要請を受けて「いずれ立法措置を」と応じていた。晩年の84年に「スパイ防止のための法律制定促進議員・有識者懇談会」が発足すると、会長に就いた。

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 日本のトップだった信介氏、韓国発祥の教団の流れをくむ勝共連合スパイ防止法を求めたのはなぜか。
 「根本的にはCIA(米中央情報局)」と話し始めたのは、御年89歳の政治評論家、森田実さんだ。「アメリカの政策は今も昔も変わらない。反共で韓国と日本の手を結ばせ、アジアを分断しながら戦いを挑ませる手法だ」
 信介氏は「米共和党に最も近い人物」といい、旧ソ連と向き合う上で「日本の関連法制では整備が不十分という米側の意向をくもうとした」。勝共連合の方は「権力や金のために日本に食い込むには米側に取り入るのが一番早かった」。

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 晋太郎氏の死から15年たった2006年、晋三氏は首相に就いた。思想新聞はここぞとばかりに「スパイ防止法制定急げ」「法の再上程を」と必要性を訴える見出しを付けた。
 安倍晋三政権は07年、海上自衛隊の情報流出疑惑を機に、「軍事情報包括保護協定(GSOMIA)」を米国と結んだ。米国と協定を交わした国が秘密軍事情報を共有する際、米国と同レベルの秘密保護が求められる。
 短命の第1次政権後、晋三氏は12年末に返り咲いた。翌13年7月の参院選で衆参ねじれ国会が解消したのを受け、力に任せた政権運営を展開。衆参両院で採決を強行して成立させたのが「特定秘密保護法」だ。
 防衛や外交の機密情報の漏洩ろうえいを厳罰化する同法は当時、スパイ防止法との類似点が指摘された。知る権利を侵す危うさをはらむが、思想新聞は「安保体制が大きく前進した」と持ち上げた。その一方、諜報ちょうほう活動をより強く取り締まる内容を盛り込んだスパイ防止法を制定するよう促した。