2022/8/26, Fri.

 (……)朝飯前のことだが、うるさいことばかり言うやつの役回りをわたしにはさせないでほしい。そんなものとはかけ離れた存在だ。わたしは言いたいことを言ってい(end165)るだけで、いつだってそうしている。白癬に冒された自分の心を自由に転がすだけだ。どんな時でも自分の心を自由に転がせようということは、うんと昔、ニューオリンズの路地裏で5セントのキャンディバーをしゃぶって暮らしていた時に心に決めた。これは「馬鹿者」になるということではない。あるいはもしかしてそうなのかもしれない。いずれにしても、午前二時にここでこうしてビールをぐい飲みしながら、タイプライター・デスクの上に置かれた死んだ両親から誕生日の贈り物としてもらった二つに引き裂かれたデスク・ランプに挟まれ、座り込んで気が変になるようにと与えられたタイプライターを打ち、スリフティのドラッグストアで19ドルで買ったラジオから流れるひどいピアノ・ミュージックを聞いていると、わたしは喋っていて、今夜また仕事を辞めたばかりで、ここに帰って来て同封した詩のひどい行を三、四行削除しようとしていて、気がつくともう十一本も(ビールのボトルを)飲んでしまっていて、ははは、何を喋っていたのかな?
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、165~166; パロマピカソ宛、1969年後半)




 覚めて携帯をみると九時過ぎ。曇り日の薄暗さである。布団をからだの左脇にどけて、鼻から息を吐き出しつつ腹を揉んだり胸をさすったり。脚もさすったり、あたまを左右にころがして首を伸ばしたりもする。そうしてからだをセットアップして、九時三七分に起き上がった。カーテンをひらき、洗顔や用足しへ。口をゆすいでうがいもし、濡らしたタオルを電子レンジに入れるといつもどおり水を一杯飲む。冷蔵庫で保存しているので水は冷たく、起き抜けのからだではそういきおいよく飲めないが、きょうは寝床にいるあいだに息をよく吐いていたので、水の冷たさにからだがさほど刺激されないのがわかる。そうして蒸しタオルを額に乗せてからふたたび布団へ。日記の読みかえしはサボってしまい、ウェブを閲覧しながらからだをあたためていって、一〇時半過ぎに床をはなれた。屈伸などしてから椅子のうえで瞑想。一〇時四五分にはじめて一一時一二分まで座っていた。まあまあ。窓外では保育園の子どもたちがにぎやかにしており、いくつもの声がもつれた毛糸のかたまりのようにひとつに混ざり合っており、そこから一語だけでも浮かび上がって聞き取れるときはあまりない。じきに絶叫や悲鳴が生じる。ひゃーっという甲高い音や、もうすこし鈍いうめきで泣きだした子がひとりいて、そうするとかたまりぜんたいの調子もいくらか変わってやや分離してくる。瞑想を終えるとまた屈伸したり開脚したり、布団のうえでちょっとストレッチしたりとからだをととのえた。朝起きてからものを食わないうちに深呼吸しながらなるべくからだをあたためてしまうのがよいような気がする。
 食事へ。水切りケースやながしのまわりに置いておいたプラスチックゴミを始末。きのうスーパーでキャベツを買うのに薄手のビニール袋をもらってきたので、まえの袋はもう縛ってしまい、鋏で切ったりつぶしたりしたやつをあたらしいほうに入れる。そうして洗濯機のうえにまな板を置いてキャベツやトマトを切ったり。きょうはセロリはまだつかわず、そのほかリーフレタスと大根とハム。そうして冷凍のハンバーグと唐揚げを加熱し、サトウのごはんもあたためて米を食う。この食事中に日記の読みかえしをした。一年前には特段のことはない。二〇一四年は二月六日から一〇日までひとつづきになった一記事で、祖母が死んだときである。二月七日が命日。日記をいちにちごとに投稿しなかったことについては、「茶を飲みながらゆっくりと過ごし、近所のYさんをむかえて葬儀について話し合い、三時半にYさんとYちゃんが帰宅したあとは特別にやるべきこともなくなり、ようやく自由に過ごせる時間を得たものの、どういうわけか日記を書こうという気にならなかった。ノートに記録はつけているが、このぶんではもしかしたら祖母の葬儀が終わるまでは書き出すことができないかもしれない、むしろそのほうがいいだろう、と直感が告げたのでその通りにするつもりだった」とふれられている。なんだかんだ肉親が死んで動揺し、なかなか心身の整理がつかなかったのだろう。記事の冒頭には、「入浴をすませて十一時半も過ぎると一日の疲労が腰のあたりに重く沈んでいたが、日記を書かないうちは眠る気になりそうもなかった。日の終わりに文章をつづることでもってその日一日を完結させているような気がした。日記を書き終わるまではその日は終わっていない、だから翌日まで日記を書かないと、前日を持ち越しているような気がするし、書き終わったときには今日もまた無事に一日を終わらせることができたという安堵を得るのだった」とあり、これは二月五日の夜のことを言っているわけである。六日の昼にそろそろやばいようだと知らせが来て、以下のように書いている。

 母からメールが入っているのに気づいた。今夜あたり危ないと病院から連絡があったとのことで、こちらも電話をしてみると、母の声は意外と悠長で、今すぐかけつけるというような焦りはなく、夕刻、医者に薬を取りにいったあとで病院に寄ってみると言う。だからバイトも休まなくていいよ。しかしそんな余裕があるのか? まだ大丈夫だと思うよ、今夜って話だから、と母は根拠なく繰り返したが、こうしている今も危ないのではないか――いつどうなるかわからないと言われながらも一年以上命をつないできたが、そのあいだ着実に祖母は弱っていった。倒れた当初はいくらかまだ言葉も発したものの、やがて声が出なくなり、口を動かすこともなくなり、単なるうなり声すら消え、ついにはこちらを見ているその瞳に認識の色は認められなくなった。その一年と半年を通じて、少しずつ祖母を看取ってきたのだ。今となっては焦りも動揺もなかった。来るべきものが来るのだと感じた。もし自分が中学生の相手をしているあいだに起こることが起こっても、しかたがないと覚悟を決めた。とはいえ、やはりその瞬間はそばで見守っていてやりたいものだった。

 それで勤務後の夜から病院へ。病室にはいってさいしょに見た祖母のようすは以下のような感じ。

 車をおりて空を見上げると月も星も見えない暗夜だった。林の闇にまぎれてうごめく黒い影はどうやら狸らしかった。祖母は一目でもうだめだとわかった。顔はぱんぱんにむくみ、左目は閉じ、右目もほとんどあいておらず、わずかに見える瞳も焦点があっておらず動くこともない。まなじりに赤くにじんだ血のせいで目は余計に細くつりあがって見え、狐の面を連想させた。透明な緑色の酸素マスクでつないでいる呼吸は荒く、たんがからむとのどの奥でごぼごぼとくぐもった水音が鳴り、どこか獣の息づかいめいて聞こえた。看護士が壁に設けられた汚物吸入器に管をつないで口や鼻から挿入すると、容器のなかに赤くにごった液体がたまった。痛ましい色だった。

 それで一時帰ったりもしながら七日の夜まで病院に詰め、午後六時過ぎに看取っているが、この間もちろん、祖母が死んでいくこのすがたを書きのこさなくてはというきもちはいだいており、とうじのじぶんとしては気張っていろいろ記憶しようとしたはずだ。喉のうごきをよく観察しているらしい。「祖母ののどを見つめた。息を吐くとのどが引っこみ、吸うとふくらんで、その動きに合わせて酸素マスクもくもってはまた晴れていく。表情はもはや動かず、目も閉じて、今や生命の証左はわずかに収縮と膨張をくり返すのどの動き以外になくなった」、「K.Hさんがやって来たころには、祖母の呼吸は前夜の荒さをひそめたかわりに弱々しくなっていた。しばらくは静かな息がつづくが、たんがからむとぜいぜいとあえいで、一度大きくのどを動かしてどうにか飲みこむとまた落ち着いていく、そんなことをくり返していた」、「四時半過ぎに戻ると、祖母はもうかなり危なくなっていた。呼吸はさらにゆっくりと弱々しくなり、透明な酸素マスクがくもらないほどだった」、「次第にのどの動きが小さくなってきた。首の側面の血管がひくひくと動いており、それが何回か脈打つごとに息継ぎのようにいびきめいた息が入り、その間隔がどんどん長く、そして吐息は小さく短くなっていき、ついに呼吸が止まると、しばらくして脈打っていた血管の動きもなくなった。午後六時十分だった。医師が来て、聴診器を胸に当て、ペンライトで瞳孔を調べて、十八時十三分です、と告げた」と、ときどきの推移を追っている。じっさい、病室でうごかずベッドに寝た瀕死者をまえにして、わずかに生命と呼吸をたもって脈動するそこくらいしか目に見えるうごきがなかったのだろう。プルーストを読んだりもしている。記事には記されていないが、さいご、息がかんぜんにとまるすこしまえに、いちど首の血管のうごきがなくなって呼吸も止まったときがあり、いよいよかとおもってたしか(……)さんがおばあちゃん、と悲痛な声をあげたのだが、まもなくいびきみたいな音をちょっと立てながら呼吸が復活し、みなで笑ったという一幕があったことをおぼえている。
 二月七日の夜から大雪になって、八日は家のまわりの雪かきをしている。その日の分まで読んで切りとし、食器を洗うとクソを垂れた。便器に腰掛けて腸のなかのものを肛門からひり出しつつ、床のうえにまた髪の毛が散らばっているのを見て、まいど気づいたときに二、三分でいいから掃除すればよいのだよなとおもい、ケツを拭いて水をながすとペーパーとルック泡洗剤でもってまず洗面台を拭いた。台の縁には髭剃り用のカミソリと石鹸が置いてあるのだが、この石鹸は置き台といっしょに実家から持ってきて設置はしたものの、べつにつかう機会がないから開封すらせず紙につつんだまま放置していたもので、それをとりあげてみるとシャワーのときに水が当たるから置き台のなかには液体が溜まっているし、石鹸の裏側も紙が溶けてでろでろになっていた。さっさと開封しておけばよかったのだが、それをようやく剝がして始末。しかしつかう機会がないことに変わりはない。ボディソープもあるし、ながしのほうにハンドソープもあるし。それからおなじようにトイレットペーパーと泡洗剤で床もいくらか拭いて髪の毛や埃をとりのぞいておいた。そうして席にもどると腹を揉んで消化をうながしつつ音読。一時一〇分くらいからきょうのことを書きはじめて、いま一時四七分。二時半には出なければならないのにまだシャワーも浴びなければいけないし、なかなか猶予がとぼしい。洗濯はあした。


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 この日の往路は水色のみえない曇り空でありながら陽光がそれをものともせずに透けてきて、すこし粘っこいように熱がこもってなかなか暑かった。公園にはあそぶ子どもらのすがた。風、というか空気のうごきはたいしてなかった気がする。(……)駅のホームをわたるさいに階段通路から南の空をみやると、真っ白はそうなのだがその裏に陽もつつまれているので、しかしかといってつやが生じるほどのあかるさはないので、鈍いままあかるい粘土のようなおもむきがあって、なにかあまりみない質感だった。ホームではベンチについて目を閉ざし、駅前の木々から吐かれるセミの残声とあるかなしかの風の行き過ぎを身に受ける。
 電車に乗ってまず(……)に移動。この日は乗り換えのための時間がみじかいので手近の階段口からひとびとに混じって一段とばしであがっていき、(……)線のホームへ。下りていき、先頭車両にはいるといつもよりひとがおおいような気がした。いちばん端の座席も両端はすべて埋まっていたので、車両の隅っこに立って携帯とイヤフォンをとりだし、発車直後にFISHMANSを耳にいれはじめた。片手で手すりを持って立位のまま静止するが、やはり腹のなかに圧迫感があり、また喉には痰がやたら出てきてわずらわしい。出るまえにヤクを一錠足してきたためか緊張はそこまで感じないが肉体じたいはそれを受けた反応のありようをしめしており、鼓動もいくらか高めな時間がつづいて、ただそれが糖衣でくるまれたようにからだにつよくは響いてこず、明確な不安感に結実することはない。とはいえつねにその可能性におびやかされているとはいえて、路程のなかほどくらいまではおちつかなかったし、ちょっとやばげな瞬間もときに生じた。じきにからだがだんだんしずまってくる。ヤクの作用が浸透していったということでもあるだろうし、あとはやはり目を閉じてじっとしているとほぐれてくるところがあるのだろう。この日と前日の体験からして、やっぱり瞑想とか、呼吸式ではない瞑想的ストレッチをやってからだをよくほぐし、肉体の緊張感を溶かしておくのが大事なのだろうとおもった。じっさい瞑想をある程度いじょうすると内臓というか体内もこごりがなくなってかるくなることはある。内臓じたいが緊張するということがあるのだろう。
 (……)に着くと職場へ。(……)
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 退勤は九時二〇分くらい。帰路のことは特段記憶がのこっていないので割愛する。帰宅後、飯は食ったが、また休んでいるうちに意識を失っていたはず。
 

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  • 「ことば」: 6 - 10
  • 「読みかえし1」: 299 - 309, 310 - 315
  • 日記読み: 2021/8/26, Thu. / 2014/2/6, Thu. - 2/10, Mon.


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Samantha Lock and Léonie Chao-Fong, “Russia-Ukraine war latest: what we know on day 184 of the invasion”(2022/8/26, Fri.)(https://www.theguardian.com/world/2022/aug/26/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-184-of-the-invasion(https://www.theguardian.com/world/2022/aug/26/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-184-of-the-invasion))

Shelling temporarily disconnected the Zaporizhzhia nuclear plant from Ukraine’s grid. Fires caused by shelling cut the last remaining power line to the plant on Thursday, temporarily disconnecting it from Ukraine’s national grid for the first time in nearly 40 years of operation, the country’s nuclear power firm, Energoatom, said.