2022/8/27, Sat.

ラファイエット・ヤング宛]
1970年10月25日


 […]このタイプライターから逃げ出すためにわたしは酒を飲んだりギャンブルをしたりしなければならない。ちゃんと動いてくれるこの老いぼれマシーンを愛していないということではない。いつ向き合えばいいのかを知り、いつ離れればいいのかを知ること、それがうまく付き合うコツだ。わたしはプロの [﹅3] 作家になりたいわけではまったくなく、自分が書きたいことを書きたいだけだ。そうじゃなかったら、すべてはやっても無駄なだけ。気高いことを言っているようには思われたくない。気高いことでも何でもなくて、どちらかと言えば、ポパイ・ザ・セーラーマンの世界だ。しかしポパイはいつ動けばいいのかわかっていた。「規律」について話し始める前のヘミングウェイもそうだった。パウンドもそれぞれが自分の「仕事」をすることについて語っていて、それはくそみたいなたわごとだったが、わたしは自分が工場や屠畜場で働き、公園のベンチでも眠り、仕事規律というのは汚らわしい言葉だと知っているので、彼ら二人よりもついていた。彼らが何を言いたいのかわたしにはわかるが、わたしに言わせれば、それはまるで違うゲームの話なのだ。ちょうどいい女のようだ。その女を相手に一日三回、週に七日、おまんこをやり続けると、それ(end179)ほどよくはなくなってしまう。どんなことでもきちんと調整されなければならない。もちろん、わたしには忘れられない女が一人いる、彼女とはそんなふうにことが運んだ。もちろん、わたしたちはワインを飲んでいて、ひもじい思いをしていて、死ぬことや家賃のこと、鋼鉄のように冷たい世間を思い悩む以外やることは何もなく、だからわたしたちはうまくいったのだ。(ジェーン。) しかし今やわたしはこんなにも年老いて醜く、女性たちが現れることはもはや滅多になく、だから相手にできるのは馬とビールだけ。そして待っている。死ぬのを待っている。タイプライターを叩きながら待っている。二十歳なら生意気でいかした野郎に簡単になれる。わたしはいつでも自分なりに精神薄弱だったのでそうはなれなかった。今のわたしは以前よりも強くも弱くもなったが、喉元にカミソリの刃を押し付けていて、決心するのかしないのか瀬戸際の状態だ。しかもわたしは人生をそれほど愛していないときている。たいていいつでも汚いゲームにしかすぎなかったからだ。生まれたところで死ぬ手配がついている。わたしたちはボウリングのピンでしかないのだ、我が友よ。[…]
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、179~180; ラファイエット・ヤング宛、1970年10月25日)




 いま一二時半前で食事中。冷凍のハンバーグをおかずにしながら「サトウのごはん」をもきゅもきゅ食っているが、そうしながら過去日記の読みかえし。きのうとちゅうまで読んだ2014/2/6, Thu. - 2/10, Mon.のつづき。「二月九日は十時半からはじまった。雪降りが過ぎたあとの気持よく晴れた空だが、近所の屋根の上に、ぱっと見たかぎりでもさらに十センチ以上の雪屋根が覆いかぶさっていた。これほど降った冬は物心がついて以来記憶になかった」とのこと。体重を量っており、このころは五四~五五キロ程度の重さ。それ以降基本的にはずっとそのくらいで、ゆいいつもっと重くなったのは鬱症状でオランザピンを飲んだ二〇一八年中のことで、あのときは六〇キロを越えていたはず。そのために腹回りもすこしだけ厚くなり、回復してからスラックスを履くときつくてはいらないという、それまでの人生で経験したことがなかった貴重な体験をした。いまはまた五五キロくらいにもどっているか、むしろそれよりさらに軽くなっている可能性もある。スラックスはいまかなりゆるくて(もともとぴったり合うくらいでベルトいらずだったのだが、太ってはいらなくなったときにすこしひろげたので)、腹から前側の布地のあいだにはけっこうなすきまが生じるし、履いているあいだたびたびズボンをちょっと引き上げつつワイシャツと肌着をととのえなおすようなことになっている。
 近所の(……)さんに会っての感慨。このひとももう亡くなったはず。おばさんはまだ生きているんだったか、かのじょのほうも亡くなったんだったか?

 道の両側にうず高くかたまりが積みあげられ、褪せた色の草も今は見えず、常緑樹も白い衣をまとい、いつもの景色が一変していた。近所のTさんのおじさんに出会った。こんにちは、と声をかけると、挨拶を返しつつも誰だか訝っているような顔があったので、それだけで通りすぎてしまおうかとも思った瞬間、こちらの顔に得心する様子が認められ、Fです、と重ねると、ああ、と吐息をもらし、手にもっていたバケツを置いて、どうもこのたびは、とお辞儀をしてみせるその動作のひとつひとつがゆっくりで、口調もいくらかもごもごとしており、もしかしたらいくらか頭の働きが弱くなっている、端的にぼけているのかもしれないという印象を持ったのは、昨日、近隣のなかで世話役を頼むことになったYさんが来て話し合っていたときに、Tのおじさんについて、今となってはそのような含みもあったのではないかと思えるような発言が聞かれていたからで、小学生の時分など通りかかるごとにいくらか話したりしてかわいがってくれた人物が、そのように老いに侵食されているのを見るのは切ないものがあった。祖母は亡くなった。自分は二十四になった。誰も老いて死んでゆく。

 大雪が降ったあとなのにわざわざ(……)まであるいて図書館に出かけている。道中の裏路地の、雪が降ったがゆえにかえってひとがたくさん出て活気ある雰囲気はよくおぼえているし、駅通路でころびそうになったその瞬間も、このとき履いていた靴もよくおもいだせる。

 (……)街道はまだ雪かきが進んでおらず、歩道の少なくない部分が埋まっていてときには車道に出ないと歩けないし、露出しているところも申し訳程度の細い道で、しかも随所に雪解け水がたまっており、出掛けにYさんがびしょびしょになってもいい靴じゃないとだめだよ、と言っていた意味がわかったが、裏通りのほうが歩きやすいだろうと踏んで曲がってみると案の定で、立ち並ぶ民家のあいだを抜ける裏道は近隣住民の勤勉さによって通りの真ん中にしっかりと道がひらかれているし、残っている雪も、表通りで歩行の邪魔をしている、靴が埋まるような柔らかいものとはちがって、時折り通る車にうまい具合に踏み固められており、中途半端に融けているよりもむしろ歩きやすかった。老いも若きもスコップを持ち出して声をかけあい、互いに嘆き、なぐさめ、十数年ぶりの大雪に畏敬を示している、そのなかを歩いた。駅についてしまえばこちらのものだと思っていたら、階段を下りて数歩目で踏み出した左足を濡れて滑りの増した床にとられ、傾いていく身体から思わず伸びた左手が地につくと同時に右前方に滑っていった足がとまって完全な転倒には至らず手首も痛めなかったとはいえ、頓狂な声をあげて醜態をさらしてしまったその原因は靴で、数ヶ月前からこちらの足を包んでいるのはかつて兄が懸賞で当てたものを未使用のまま譲りうけたいくらか厚めの革靴で、見た目には冬らしいもののそれなりに年季の入った代物であるから端のほうはもうだいぶすり減っていてこのような日に履くとリスクを高める呪われた装備なのだがしかし他に履く靴もなかった。

 図書館の新着CDにはWayne Shorter『Without A Net』。Wayne Shorterの二〇〇〇年以降くらいの作品も聞かなきゃ、とおもった。Danilo PerezとJohn PattitucciとBrian Bladeとでやっているあのカルテットも、かなりすごい演奏をしていたおぼえがあるので。このときはGary Karrなんて借りている。「新着図書で気になったのはデイヴィッド・リンゼイアルクトゥールスへの旅』(文遊社はほかにイヴリン・ウォーアンナ・カヴァンも気になる)、丸山健二『千日の瑠璃 下』(ひどく厚い)、いとうせいこう『未刊行小説集』、加藤哲郎『日本の社会主義』(岩波現代全書)、ル・クレジオ『隔離の島』、中里介山大菩薩峠 都新聞版 第一巻』、中村昇『ベルクソン=時間と空間の哲学』(講談社選書メチエ)など」とのこと。
 図書館を出たあとの段落では、とうじはまだ(……)だった向かいのビルの喫茶店にふれつつ、以下のようになぜか読点を排したくだくだしい書き方で述べている。S.Hというのは中学の同級生である(……)のことで、やつともさいごに会ったのはたぶん鬱で死ぬよりまえだったのではないか。だから二〇一七年くらいだとおもわれ、そうだとするともう五年くらいは会っていない。神奈川のほうの、なんだったかよくわからない、社団法人みたいな、なんかそんな組織ではたらくことになったと聞いたおぼえがあるが、いまどうしているのかはまるで知らない。ここでふれられている会合は二〇一三年中のことだろう。「なんとなく誰かに会いたい気がして」連絡したと言っているから、このころはまだ人寂しさのような情をおぼえることがあり、したがって承認欲求もそこそこふつうにもっていた。Twitterをやってまるでどうでもよろしいことをつぶやいたりもしていたものだ。いまは承認欲求はともかく、人寂しさをおぼえることは自覚的にはまずない。アパートに来るとなったときも、いままで生まれてからずっとなんだかんだ家族とともに暮らしていてひとつ家のなかにほかにだれかがいるということが常態だったわけで、じぶんひとりだけになると曲がりなりにもことばを交わすあいてもいなくなるし寂しさや孤独をちょっとはおぼえるのではないかとおもっていたが、それはほんとうにまったくなかった。ひとりであることにかんぜんに自足している。まあいちおう職場には行くし通話もするからはなすあいてがいないわけではないが。しかし孤独というのはやはり自由と安息の条件ですよ。ひとり暮らしをはじめていちばんよい時間だとおもうのは、夜にスーパーに買い出しに行ったあと、夜道をひとりでしずかにゆっくりと風を浴びながらあるいて帰るその時間で、なんども書いているが、あそこにこそ諸縁を放下した自由と解放の時がある。行きではない。やはり帰り道なのだ。ハンナ・アーレントが言っていたことはまったくよくわかる。つまり孤独というのはじぶんじしんとともにあることだと。

 (……)ここには一度だけ入ったことがあって、その日は九月か十月か忘れたが秋ごろの月頭、もしかしたらまさに一日だったかもしれず、アイスココア一杯で何時間か粘りながら谷川俊太郎『東京バラード、それから』を読んでいると雨が激しく降りはじめ、雷も鳴っていたのを覚えているが、なんとなく誰かに会いたい気がしてS.Hに連絡すると了承されて午後七時頃から駅前の大衆居酒屋に入った我々は薄暗い店内で安いがまずくはない刺し身などを食べながら芸術家・批評家・学者(研究者)という三区分の話などをしたものだったがまだ自分が考えていることを人に話すということに興味があったし日記にも少なからず思考を書いていたあのころとはちがって最近ではもう思考を書くことにはほとんど興味がわかず自分が何を考えているのか書いてもあまりおもしろくないしそれだったらそこらへんの一本の木のほうがはるかにおもしろいわけでそれは思考を書くのに適切な書き方が見つかっていないということでもあってそれが見つかればおもしろく書けるようになるのかもしれないがひとまず最近の自分の嗜好は思考よりも明らかに感覚に向かっていて自分が何を考えているかよりも自分が何を感じているかのほうがより深遠なものを含むように思われることもあり言語にならない世界の具体性を具体性のまま執拗に追求していく力がほしいという思いは古井由吉を読む前から持ってはいたものの古井由吉を読んだあとではさらに加速されるのも道理で古井由吉およびムージルのラインは自分が文章を書きつづけるにあたってひとつの軸となるのではないかという予感を新たにした(……)

 帰路。「白壁がくすんだ市営の集合住宅の前を左に曲がるとふたたび表に出るが、この市営住宅には小中の同級生であるOが住んでおり、往路に裏道に入るときにこのOが近隣の女性と立ち話をしている横を通った。小学校二年生から四年生くらいのときはわりとよく遊んでいて家に行ったことも何度かあったとはいえこちらのことはもう忘れているだろうと思いつつ、通り過ぎたあとに振りかえるとOも同じタイミングでこちらを振りかえっていて目が合った」と。このOは「(……)」という名字の男子で、漢字はたぶん「(……)」だったかな。(……)の字がはいっていて三文字だったことはまちがいない。したのなまえはわすれたけれど、名字から取って「(……)」というあだ名で呼ばれていた。
 「時刻は午後三時半だった。いまだ何ものにもおかされず静かにたたずんでいる雪原が西陽に照らされると、その表面が青い影で点々と色づき、きめの細かい肌のようなかすかなおうとつが浮き彫りになった。林道に射しこむ木洩れ陽が風とともに路上をなでると、雪融けの水に光が宿って濡れたアスファルトは黄金色にきらめいた」という。なにもおもしろいところのない紋切型の文だが、この程度の描写ですら、もうちょっとよく感じてしまう。
 帰ると弔問客。

 帰宅して空腹をなぐさめていると弔問客が来訪した。Mさんだった。彼女は近所なので昔から顔を合わせる機会が多く、まだいくらか会話も成立したが、つづけて来たTさんのほうになると面識はほとんどなく、向こうも申し訳程度にこちらの存在にふれるのみなので端的に手持ち無沙汰で、いかなる場でもただ黙って座っていることができるという持ち前のスキルを発揮しつつ彼女の手の動きをずっと見ていた。わずか数秒でも手がじっと止まっているということはなく、膝をなでてみたり、カーディガンのすそを直したり、ハンカチをもてあそんだり、それを目元に持っていったり、頬をなでてみたり、髪をいじったり、もちろん会話に合わせてひらひらと動かしてみたりと実にさまざまな動きをしているものだった。ついでにソファに前傾姿勢で座った父の手も見てみると、組んでひとところに置かれてはいたが、揉み手をするようにいくらかさすっていた。

 Mさんというのにおもいあたるなまえが出てこなかったのだが、これはたぶん(……)さんのことではないか。かのじょはその後ノイローゼをわずらい、二〇一八年の三月に橋から飛び降りて自死することになる。Tさんのほうはだれだかわからない。「昨日は葬儀が終わってから日記を書きだそうと思っていたが、メモをとっていると書きたい欲求が高まってきて、今日の夜には書くかもしれないと思われた」とのこと。それでじっさい綴りだしている。


     *


 またしても明かりを落とさないままあいまいに寝てしまい、いちど覚めたのが五時か六時前くらいだったとおもう。消灯し、ふたたび寝ついて午前九時へと移動した。息を吐きつつ腹などを揉み、胎児のポーズもおこなう。胎児のポーズを取るのがやはり全身がほぐれるのでよい。くわえてストレッチのやりかたとしても、ことさらに息を吐きながらやるのではなくて、やはりポーズ付きの瞑想めいて呼吸はしぜんにまかせつつじっとしているほうが良い気がする。そうするとじわじわ芯からほぐれてくるような感じがあってきもちがよい。息を吐くと筋肉がよく収縮するから伸びるは伸びるのだけれど、ゆるむという感じはかえってうすい。パニック障害のことをかんがえるとからだの緊張をとるのが大事なはずで、となれば芯からゆるませることのできる方法のほうが合っているのではないか。
 九時三九分に起床していつものルーティン。パソコンをつけっぱなしにしていたのでここでもうNotionのきょうの記事を作成した。蒸しタオルまでやると寝床にもどり、Chromebookでウェブを閲覧。あいまになんどかまた胎児のポーズを取る。このあたりでは天気はまだ空に薄水色が透けるとはいえ曇りに寄っていたが、正午くらいから陽のいろが見えはじめた。一一時三二分から椅子のうえで瞑想し、便意がきざしたのでもうすこしつづけたいところだったが切ると、一一時五五分だった。便所に行ってクソを垂れ、食事へ。れいによってキャベツとセロリとリーフレタスとトマトとベーコンのサラダ。そして冷凍のハンバーグにサトウのごはん。食事中に過去の日記の読みかえしをした。
 食器を洗うと洗濯。陽が出ていたので、窓辺に吊るされてあるもののうち集合ハンガーだけ出しておき、そのほかはたたむ。そうしてあたらしく洗い出して、椅子につくとしばらく音読。そのうちに洗濯が終わったので、出していた集合ハンガーを入れてタオルなどたたみ、いま洗ったものをかわりにつけて干しはじめたが、とちゅうでまた便意がきざしたので便所に行ってクソを垂れた。べつに下痢ではないが腸のはたらきがよいらしい。窓をあければ空気は暑く、風もつよくて物干し棒にハンガーをかければその瞬間から圧力が手につたわって感じられるし、吊るしたものは左右によくふれる。正面、土曜日できょうはしずかな保育園の上空には練ったような雲がひかりの具合で縁にわずか灰色を乗せながら見下ろし顔で浮かんでいた。時刻はもう二時だった。もろもろ体操というかからだをうごかして血のめぐりをよくし、それから湯を浴びる。出るとまた扉のかげで全裸のまま背伸びして、バスタオルであたまを拭くと服を身につける。バスタオルはハンガーにつけて、そとにはもうスペースがないので出さないがひかりを受けているレースカーテンに寄せてカーテンレールにかけておいた。ドライヤーで髪を乾かし、それからきょうのことをここまで記せば三時八分。


     *


 布団のうえでストレッチ。胎児のポーズと合蹠やっているときはマジで半分寝てるわ。意識レベルが落ちたときに生じる夢未満のイメージ展開されるし。きもちがよい。プランクなどもやっておく。まいにちこうしてどんどん瞑想じみたストレッチのたぐいをやってからだをほぐし、鍛えていったほうがいいなとおもった。かなりすっきりするし。そのあと歯をみがきながら二〇一四年の日記のつづき、二月一〇日の部分まですべて読み終えた。湯灌のもようが以下。このときあつまった祖母世代の親戚連中はもうほぼみんな死んでいる。まだ生きているのは(……)さんと、あとたぶん(……)さんも生きているとおもうが。(……)さんは祖父の末妹でいま七五か七七かそのくらいだろうか。ジムにもかよっていて若々しく、ぴんと背すじが伸びた姿勢など凛としている婦人で、(……)に住んでおり、こちらのことは幼少のころからよくかわいがってくれて、なにかにつけては小遣いをくれたり茶をくれたりした。いまだに彼岸などには墓参りに来るので、母親はていねいすぎると言ってそのあいてをするのにちょっと辟易気味だが、近年こちらも同席してはなすことがいくらかあった。(……)さんは祖母のおとうとで(……)に住んでおり、たぶんもう九〇くらいなのではないか。いちおう生きているがあたまがもうゆるいという情報を何年かまえに聞いたので、ホームにはいったり、こちらの知らないうちに死んでいたりしてもおかしくはない。

 湯灌師は親子ほど歳の離れた男性と若い女性の二人で、男性のほうは目が細く、悔やみの言葉を述べるときや儀式の説明をするときはその目がさらに細くなって目尻もいくらか垂れて、いかにも死者を悼んでいるような表情を容易につくれる顔立ちだった。女性のほうは落ちついた物腰であまり喋らず、黙々と仕事をこなしていた。湯灌というものは簡略式としては体をふくだけのことが多いようだが、見ていると大きな黒塗りの風呂桶が持ちこまれ、そこに張った板の上に遺体を横たえて、タオルで覆って身体が見えないようにしながら洗っていった。親戚連中は大きな風呂桶に驚き、あんなのは見たことがないね、などと言って一時騒然とし、それに触発されて母もいくらかおろおろと動揺していたが、式自体はつつがなく進んだ。
 まず木桶に水を半分入れてからそこに湯を足してぬるま湯にする逆さ水というものをつくり、それを我々が順番に遺体にかけていった。かける際は左手で柄杓を持って足元から上体へとかけていき、「もどる」ということが葬儀ではタブーとされているので胸元で水をかけきってしまわなければならないのだが、Y.Hさんはいくらか鈍くさい人で説明を聞いていなかったのか戻そうととしてしまい、湯灌師に止められてもまだよくわからなかったようで、父は苦笑していた。
 それから湯灌師の二人がシャワーで洗いはじめた。玄関外にとめた車から二つのホースが伸びており、ひとつはシャワーから湯を出すためのもの、もうひとつは風呂桶から使われた水を回収しているものだという。「やっぱり亡くなった方を洗うのに使った水ですからね、嫌な人もいるでしょう、そこらへんに捨てちゃ問題になりますから、全部回収して会社に戻ってから捨てるんですよ」。女性は身体のほうを担当し、男性は洗髪を行った。それに使う洗剤も専用のものらしかった。「眠っているみたいだね」とか「首がまだやわらかそうだ」などという言葉があがった。そうして洗浄が終わってからまた順番に、タオルで顔をふいていった。ふくといってももちろんこすることはできず、全体を少しずつ押さえるのだった。水をかけるときにしてもこのときにしても、女性はみな何かの言葉を祖母にかけたが、三人いた男性のなかでは唯一父だけがやわらかな声で話しかけていた。自分は声を出さなかった。看取るときも黙って粛々と見守った。

 いま四時過ぎで、食い物は野菜はまだわりとあるし、きょうは用事もないからこもろうとおもえばこもっていられる土曜日である。直近で書いておきたいと欲求をかんじることがらがとくにないので(まあきのうの往路の天気などはちょっと書いておきたい気もするが)、日記を二〇日から順番にすすめるつもりだ。だいたいやっつけでやるつもりだけれど、それできょうじゅうにどこまで行けるか、というところ。いいかげんそろそろ現在時に追いつけてほかのことをやりたいのだが。


     *


 いま七時五三分。四時過ぎ以降はときどき席を立ってまたからだを伸ばしたりなんだりしながらひたすら日記に取り組んでおり、さきほど二三日火曜日の分まで投稿し終えた。意外とがんばってすでに書いてあることがらもあり、実質おおくつづったのは二〇日土曜日の会議のことと、二二日の通話中のはなしくらい。二四日の水曜日はあと勤務中のことだけで、これもたいしておぼえていないからそんなに書かないつもりだし、二五日は休みで図書館に出かけたことくらい、きのうはまだけっこう記憶があらただから書けば書くことはおおいが、がんばればきょうじゅうにかたづけられる気がしてきた。無理せず、あしたにまわしてもよいとおもうが。腹が減っている。洗濯物は五時ごろに取りこんで、直情の熱射という感じでなくすでにひりつきをおさえた晩夏の陽射しだったとおもうが、さすがにひかりもあり風もありでよく乾いていたので、その場ですぐにたたんでしまった。記事を投稿する段、Oasisが『Familiar To Millions』でやっている"Stand By Me"がなぜかやたら聞きたくなったのでながしつつ作業をした。ポップスもポップス、ドポップスみたいな、ストレートにすぎるキャッチーさだが、あまりにもさわやかできもちよくなってしまう。とりあえずそろそろ飯を食おう。


     *


 いま一一時五分。サラダとハンバーグとパック米という昼間となにも変わらないメニューでもって夕食を取ると、それからまた日記をすすめ、二四日二五日をさっと書いて仕舞えていま投稿した。これで実質あと書いていないのはきのうのことだけなわけで、なかなかよろしい。二時半くらいから取り組みはじめて、ときおりからだをうごかしたり飯をはさんだりと中断はあったものの、きょうはいままでずっと日記に邁進していたわけで、けっこうな勤勉さだと言ってよいだろう。二〇日の分から一気に六日間もかたづけた。やはり瞑想と、瞑想的ストレッチでもってからだをととのえ、血をめぐらせて緊張をほどき、弛緩ではなくゆるめて気負いをなくすのが先決ですわ。からだがととのえばそのからだがやるべきことなど勝手にやりだす。いまはさすがにいくらか疲れたのでそろそろ布団にころがって休みたいが、できればきのうのこともきょうじゅうに全部でなくても書いておきたい。夕食時のサラダは豆腐を入れた。七×六で四二のちいさなピースを手のひらからキャベツのうえにすべらせて乗せると、長方形のそれらはキャベツの褥におうじてほんのちょっとだけ湾曲するような感じになり、イソギンチャクの触手みたいな、海のなかで水流に揺れるある種の海藻みたいななびきかた。その他リーフレタスやセロリはつかわず、トマトを周囲からかこんで立てかけるように置き、タマネギの皮を剝いてつかいはじめた。


     *


 その後はさすがに主に寝床でだらだら過ごしてしまい、二六日分にはとりくめず。三時四〇分ごろ就寝。


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  • 「ことば」: 11 - 15
  • 「英語」: 783 - 794
  • 日記読み: 2021/8/27, Fri. / 2014/2/6, Thu. - 2/10, Mon.

帰宅後に休んでから夕食を取るときに夕刊を取って一面をおもてに出すと、アフガニスタンはカブールの空港付近でテロがあって、米兵をふくむ七〇人以上が死亡とのおおきな報があった。きのうの新聞で、米政府が空港付近でテロが起こる可能性が高いと、かなりたしかな筋からの情報として発表しちかづかないよう警告したという記事があったが、そのとおりの事態になってしまった。実行犯はISISの人間で声明も出ている。米兵およびタリバンの検問(米国は検問にかんしてタリバンに協力してもらっている)をくぐりぬけて自爆し、その後銃撃もあったという。とうぜんタリバンとISISの内通がうたがわれるわけだが、タリバン側は自組織の人間にも被害が出ており共謀はしていないと否定、ISISのほうも声明で、タリバン兵をふくめて殺した、と述べている。また、もともとISISはアル・カーイダから離反した組織だから折り合いが悪く、近年ではタリバンの戦闘員をひきぬいたりもしていて関係は悪化していたようだから、共謀はなさそう、とのことだ。ISISはここ数年アフガニスタンで何度か自爆テロを起こしており、まだ勢力はある程度健在で、米軍の撤退が決まってタリバンが実権を掌握したタイミングで存在感を示そうとことにおよんだのかもしれない、と。四月に正式に米軍撤退を宣言してのちタリバンの電撃的進攻をゆるして政府もうばわれ、あげく自国民や協力者の退避中に自爆テロを起こされたとあってバイデン政権はとうぜん批判されており、米国の信用や影響力の失墜はまぬがれないところだろう。

     *

いま二八日の午前二時半で、うえでDeep Purpleと書いたからひさしぶりにDeep Purple『Made In Japan』などながしたのだけれど、"Child In Time"を聞きつつ、ハードロックとかヘヴィメタルっていうのはやっぱり基本的にダサい音楽なんだよな、とおもった。非常にマッチョで、言ってみれば天へ天へとただひたすらに高い建物をもとめた塔型近代建築みたいな音楽というか、どれだけ高い声でシャウトできるかとか、どれだけ速くギターを弾けるか、どれだけ長くツーバスでドコドコしていられるか、すくなくともひとつの側面ではそういうのを競いあう大仰なバカどもの音楽なのだ(能力合戦的な部分だけがこれらの音楽のダサさのよってきたるところではないだろうが)。それはダサい。ダサいが、そのダサさを離れたところでハードロックもヘヴィメタルもけっして成立しえないし、そのダサさと接したところでしかハードロックやヘヴィメタルの格好良さは生じえない。単に「ロック」と呼ばれる音楽とのちがいがそこにあるような気がする。ロックはまだしもダサさを逃れうる。しかしハードロックやヘヴィメタルは、ダサさとの拮抗のなかにしか存在しない。