2022/12/2, Fri.

 ああ、しかし今はもう遅くなりました! ぼくはあなたの仕事のためぼくの夜々を犠牲にします。詳しくお返事ください。全部一度にでなくともいいのです、でないとぼくは思いつきの氾濫で押し流されるでしょう。そして毎日二通の手紙はいけません、最愛のひと! そして規則正しく昼食をとること! そして心安らかに! 泣かないで! 絶望しないで! ぼくを愚者とみなし、その愚かさは辛うじて宙に浮き続けていると考えなさい! それでは真剣に「おやすみなさい!」そしてキスを、愛ゆえに途方にくれたまま。
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、241; 一九一三年一月二二日から二三日)




 いま午後七時過ぎ。きょうもこれまで籠もりきりでだらだら過ごしているので、特段のことはない。相当だらだらしているが、そのあいだ脚をマッサージしてもいるし、おかげでからだの安定性はだいぶもどってきた印象だ。離床がきょうも一二時半と遅くなってしまったので瞑想はさぼり、さきほど五時半から六時一〇分までながく座った。心身の調律だとか、存在そのものとしての質を高めるだとか、自己観察だとか、瞑想やその意義についてはいろいろな説明のしかたができるわけだが、端的なはなし、やはりなにかをすることからはなれ、解放された時間としての意義がいちばん大切なのではないかとあらためておもった。にんげんはつねにかならずなにかをすることの枠組みのなかにあって暮らしているが、つかの間であれその領域とはちがった時間を一日のなかに確保することが必要なのではないかと。だらだら怠惰に過ごしていることだって、勤勉さのほうから見たらなにもしていないようにおもえるかもしれないが、いまだなにかをすることの枠組みのなかにあることには変わりがないわけである。それとはべつの時間性をつくること。おそらくどのような瞑想実践でもほぼ共通して「いまここ」、現在の時空や自己の存在を意識するということが強調して語られるとおもうが、平たいはなし、なにかをする枠組みのなかにある限り、生と時間と生活はあまりにも抵抗なく、粗雑に過ぎ去っていってしまう。われわれが時間が過ぎ去ることを感じるとき、それはおそらくつねに事後的な認識で、つまり時間が過ぎることは、「時間が過ぎた」というかたちでしか得ることができないのではないか。いままさに時間が過ぎているということをまざまざと感じ、認識することも不可能ではないのかもしれないが、たいていの場合、時間の経過とはすでに時間が過ぎたというありかたでこの身にふりかかってくるとおもわれる。なにかをすることの枠組みのなかにあって意識が現在に滞留することがないからこそ、時間は過ぎる。つまり、きょうもまた一日が終わりに向かっているなあとか、いつの間にかこんな時間になってしまったとか、日常的にはそういう感慨のかたちで、時間が過ぎたということが事後的に意識に浮かびあがってくる。生活のながれのなかでなにかのきっかけがあって、それまでそのながれのなかに埋没していた意識が現在の瞬間を向くことがあり(それはたとえば時計をみて現在時刻を確認するといった程度のささやかなことでもありうる)、そのさい、いぜんに現在時が意識に浮かびあがってきた同様の瞬間との距離が漠然としたかたちではかられて、そうして時間が過ぎたという感覚が生まれる。ひるがえって瞑想のときにはなにかをすることの枠組みから心身が離れているとすると、ではそこで時間がいままさに過ぎていくさまが認識され、まざまざと感じられるかというと、それは微妙なところで、自己と外界がおのおの生成変容しつづけているということはあきらかに感じられるし、それを時間が過ぎるということと同一視しても良いのだろうけれど、しかし「いま時間が過ぎている」というありかたとしてそれが感じられるわけではない。そこではかえって、時間は過ぎないといったほうが当たっているような気すらしてくる。なにかをすることの枠組みの内にあるのではないべつの時間性とはそういうことではないか。過ぎるものとしての時間ではない領分、滞在するものとしての時間というか。そういうものがあまりにもなさすぎるとにんげんにとってはなにか良くないことになるような気がする。あるいは、そういうものがなくてもふつうに生きてはいけるだろうが、あったほうがいくらかは良いことになるような。特に具体的な根拠はないのだが、個人的には、なにかをすることの時間性のなかに入り浸りきっているとやはり閉塞的だったり、窮屈だったり、疲労したり(怠惰にだらだらしていても疲労するのだ!)、不自由だったり、拘束されたり支配されているという感じが出てきて、その拘束性から一時であってものがれたくなる。生のながれのなかに生のながれ自体から自由な領域をつくらなければ息が詰まってしまう、ということで、もちろんいつもその領域にいることなどできはしないが、それがすこしでもあるとないとでは解放感がちがってくるだろう。電車のなかで緊張にまみれて発作の脅威に切迫されているときに、駅について扉がひらくそのわずかなあいだが一息のすくいになるようなものだ。なにかをすることの枠組みのなかにあって時間というものは、この現代では数値化された計測物として客観性という仕組みのもとに扱われることがひじょうにおおいが、そこからはなれた時間性はそれとはべつのものだから、ほんらい数値に還元されるようなものではない。だからほんとうは瞑想した時間をはかることにもあまり意味はない。ある程度の傾向をじぶんで把握するための役には立つかもしれないが、逆に言えば役に立つだけで意味は持たず、もしくは役に立つという程度の意味しか持たない。瞑想がそういうものだとすると、肝要な点はいうまでもなく、なにかをすることの枠組みではない時間性のなかに寸時であってもはいれたかということであって、どれくらいながく座ったかということではないのだ。そのような客観的に計測されるものとされている長さ/短さが、準 - 無効化されるような時間領域をこそむしろとらえていかなければならないということになるだろう。
 もうひとつ、なにかをすることの枠組みにおける特徴としておおきく挙げられるのは目的意識である。行為や行動はつねになにかにつながることを期待され、その期待と一致するにせよしないにせよ、じっさいになにかにつながっている。瞑想においても目的意識は避けがたいものである。それはほんらい余計物なのだが、しかし瞑想をやろうとかやってみたいとかいうときに、「瞑想」というものにたいする事前のイメージや知識や認識はだれしもかならずもっているだろう。特にいまの世情だったら疲労回復とか能力開発とか、良いものとしてしきりに喧伝されているし、その効力を得たいとおもうからこそだれも興味を持ち、そしてはじめてもみるわけである。ひるがえってたとえば仏教においても、また道元のむかしにあっても事情はあまり変わりはしなかっただろう。いまよりももっと宗教的修行としての色合いはつよく、そこについやされた精神的・身体的エネルギーの量は生半可ではなかっただろうが、それでも瞑想だの坐禅だのが、ほんとうにまったくなににもならないわけではなく、それをすることがなにかであるからこそ、そうした教義や実践が生まれ、追究されたはずである。なににもならないということが逆説的にそのままでなにかなのだ、というような論理もそこにはふくまれよう。道元自身はじっさい、たとえば「修証一等」ということばでもって、修行(坐禅)と証すなわち悟りはひとつの等しいものであるということを述べていたようだし、「習禅」といってすなわちなにかのために、目的をもってやる坐禅は外道であると激しく論難してもいたようだが、しかし道元のそういうことばを聞いて坐禅修行にはげんだとうじの仏僧たちや、また今日曹洞宗に入門しようというひとびとも、修行にはいろうというからにはそこでなにかしらの変化がじぶんにもたらされることを期待してもいただろう。それはしぜんなことだし、こちらじしんをかんがえても、瞑想をするかというときは、それによって心身がまとまってなんかいい感じになるということが、効能としてもちろんあたまにあるわけである。じっさいきょう静止していた四〇分も起きながらねむっているみたいな感じでかなりここちは良かった。ただ重要なのは、瞑想をやるまえにイメージや方針としてもっていたり、あらかじめ予想していたり期待していたりするその「瞑想」観念と、じっさいに瞑想をしている時間はまったく別物なのだということを理解し、それをこそ感じるということではないか。言い換えれば、瞑想をやるまえに心身をととのえて楽になりたいなという欲求や期待や目的意識のようなものがあるとしても、いざ座ってじっとしているあいだにはそれらを(おおかた)わすれて、事前の観念が(準 - )無効化されるような、そういうありかたが本義なのではないかということだ。瞑想中にそういう観念が散発的に回帰してくることはふつうのことだろうし、なんら問題ではないが、ただその時間がそれに支配されてはならない。そうなるとけっきょく、なにかをすることの枠組みのなかにとどまったかたちにしかならないだろう。
 ことは期待や目的意識にとどまるものではなく、瞑想という時間性は、なにかひとつの(あるいは複数の)ことによって支配されてはならないのだとおもう。それがときおりあらわれたり、つかの間かたまったりするのは良いだろうが、かたまりきってはならない。ここがポイントではないか。なにかにかたまりきっていない状態、というのが瞑想実践の特徴であるようにおもわれる。まず身体的に見てみると、ただ座ってうごかず、なにもせずにじっとしているわけだから、それはなにかの行為や行動未満の状態、いまだその段階にいたっていない未然状態なのだ。そして、行為や行動というものは、基本的にはひとつの(そしてときには複数の)方向を(すなわち意味を)帯びている(帯びることを余儀なくされている)。その方向とはとうぜん、その行為をつうじて目的へと向かう方向である。瞑想とは身体的にまだなんの方向も生まれていない状態にとどまりつづける時間のことである(呼吸法式とかのばあいはまたべつだろうが)。行為未然、もしくは未然としての行為と言っても良いかもしれないが、しかしだからといってそれがうごきでないわけではなく、そこにうごきがないわけではない。静止状態もまたひとつのうごきである。座っているあいだ、からだは微妙で微細な調節的なうごきをひたすら自動的につづけているし、ときには半 - 意志的なちょっとしたうごきも生まれないわけではない。それらを殺す必要はない。精神の面をかんがえてみても、さまざまなうごきはつねに生じており、むしろ身体よりも精神のほうが、ある方向にかたまりきらないというのがむずかしいように感じられる。じっさいいまこうしてつらつら書いていることも、瞑想をしているあいだに浮かんできた思念がもとになっているわけで、だからそのあいだはかんぜんにではないにしても、方向性をもった思考が生まれてかたちを取っている。思念はつねに尽きないからときに思考のかたちにかたまってしまうこともあるし、そのほかにも瞑想中の意識は、観察であったり、想起であったり、感受であったり、想像や創造であったり、いろいろなありかたを取って持続する。そしてときどきのじぶんの方針によって、観察に傾注したり、感受の範囲をよりひらいてみたりとやるわけだけれど、これもなにかをすることの枠組みのなかにはいっているとするならば、やはり意識の面でもそこから離れるのが望ましいかなとおもった。ことは目的意識の件とおなじで、そういう要素やさまざまなうごきが瞑想中に生じて、つかの間かたちを成すのは問題ないだろうが、ただし時間がそれにかたまりきってしまい、支配されるのはよくないだろうということだ。身体と同様、ある方向性、ある精神的行為の未然の段階にとどまり、一時ある方向にはいったとしても、じきにそこから抜けるようなありかたが望ましい。そして、意識がそうしたさまざまな要素や様相のあいだを渡って変容しつづける、その流動性、融体性をこそ感じ、追いかけること。だからさきほどの瞑想のときには身体観察もことさらしなかったし、意識をなにかに集束させるということもあまりなかった。意識の志向性をいいあらわす語彙としては、集束・集中および拡散の対比関係があり、前者がいわゆるサマタ、後者がいわゆるヴィパッサナーに対応しているという理解をいままでなんども記してきた。しかし今回それらとはべつのありかたとして、「包含」の意識性というものをかんがえたほうが良いかもしれないなとおもった。第三項というよりは、拡散性と置き換えられるものか、あるいはそれを発展させたものととらえるべきかもしれないが。瞑想中の意識のありかたとしては、総合的(全的?)包含というのが良いのではないか、というか精神面において、なにかをすることの枠組みから逃れたべつのありかたというのはそういうものではないかと。ことさらどこかに集束させるでもなく、また観察や想起や感受に耽りきるでもなく、とはいえそれらのうごきを排除するわけでもなく、その潜在的な豊かさをすべてつつみこんで流動的に展開させるようなありかた。それがなにかをすることの枠組みからはなれた精神の自由としての瞑想ではないか。身体における行為未然の自動的なうごきの微細群と似たようなものが、精神においてももろもろの流動的展開としてある。そして意識はそれらをいちいちこまかく拾い上げるというよりは(おのずからある程度まではそうなるが)、そこに起こるすべてをつつみこむようなひろびろとした場として敷かれる。ここまでながく書いてきたことはけっきょく、いぜんよく言っていた、座ってなにもせずじっとしていればそれで成立、というあのことばへの回帰に過ぎないのだろう。その内実をあらためてかんがえて記述してみるとこうなる。
 瞑想というのがそういうものだとして、しかしこの認識をわすれずにたもつのがやはり困難なことで、座ってなにもせずじっとしていればOK、とあるときおもったとしても、日々やっているなかでやっぱりなんかちがうなとなったりするし、また、なにかをすることの枠組みによる支配というのが人間の実存や社会においてきわめてきわめて強固だから、ふたたび瞑想をなにかにしようとしたり、また瞑想中になにかをしようとしていたりということに、いつの間にかなっているのだ。そういう迷い、迂回、放浪、さまよい、それらをすべてふくみこみながら、ともかく毎日つづけることが大切なのだろう。書くこととおなじだ。
 瞑想後は手の爪が伸びていたので処理した。Last Autumn’s Dreamという、スウェーデンだったか北欧方面のメロディアスハードロックみたいなバンドがあって、昼頃にキャベツを切っているあいだだったかそれを唐突におもいだしたので、爪切りのさいにBGMとして『Winter In Paradise』をながした。このアルバムは3rdで、過去にはかなりよくくりかえしながしたと言ってよい。気に入りだったし、ときどき歌ってもいたから、歌詞とかメロディもけっこうおぼえている。キャッチーかつ叙情的な美メロハードロックみたいな感じ。Fair Warningのふたりいたギターのうち、どちらもなまえをわすれたけれど、Jon Ulrich Roth(ではなくてUli Jon Rothだった)のなんだっけスカイギターだっけ、フレットがめちゃくちゃ高いほうまであるあれみたいなギターをつかっていたほうではないほうのひとがFair Warningを抜けたあとに参加したバンドだったはず。3rdとそのつぎの『Saturn Skyline』を持っていて、4thのほうもそこそこ聞いたが、やはり3rdのほうを圧倒的にくりかえした。爪をやすり終えるとそのままちょっと音楽を聞きつつ静止する気になって、ちょうど四曲目の"It's Alright"がながれていたのを聞き、ついでにBill Evans Trioもひさしぶりに聞くかとおもって『Portrait In Jazz』から冒頭二曲、つまり"Come Rain or Come Shine"と"Autumn Leaves"のステレオのほう。音楽を聞くというのも瞑想にならって、きょうはあまり集中してそこにあるものをすべて聞き取ろうみたいな意識ではない。ただじっとしてながれるのを大雑把に全体として受けとめるだけ。そのなかで注視されるものが生まれれば生まれる、という。一曲目ではひととおりソロを弾いてテーマにもどったあたりのEvansの、ちょっと休符を溜めてからのブロックコードの質感、そのぐわっとした堅固さにおどろいた。マジで岩みたいな頑健さと表面の摩擦感がある。"Autumn Leaves"のほうでは、間奏の掛け合い的なやりとりは意外とととのいきっているわけではなく、むしろEvansとLaFaroのフレーズの入りと出に微妙なゆらぎがあったりして、ぼけっとしているとそこを取り逃してしまいそうなスリリングさがちょっとだけあり、聞いているこちらのからだもわずかに緊張するが、間奏を終えてEvansがとたんに走り出すピアノソロはあらためてすごく、するするするすると、水だけが持つ(曲名との調和でいえば風のイメージにしたほうが良いのかもしれないが)天衣無縫の闊達さをソロの全域にわたってみなぎらせており、音群に本質としてのなめらかさを付与することに成功しきっている。そのあと六一年Village Vanguardの"All of You (take 1)"も聞いたが、『Portrait In Jazz』の時点からするとやはり相当に複雑化しているよな、と。つうじょうの一体性を複雑化することで解体の方向におしすすめ、ほつれのようなひらきをそこここに生んで風をとおしながらもなにかべつの原理でつながっている、という印象を得た。三位一体とはいうけれど一体感にもいろいろあるわけで、たとえば三者おなじかたちなのがそのまま合わさってひとつになるのもあるだろうし、また三者が構成要素として組み合わさってあるひとつのまとまったかたちを生んでいる場合もあるだろうが、Evans Trioの場合はベン図みたいなイメージで、独立した三つのちがうものが重なり合っているという、あくまで「かさなり」の感覚がつよい。ここまで書いて一〇時。こんなに一気に書いたのはひさしぶり。それでもいましがたやはりからだに緊張が生じはじめて嫌な感じにちょっとなったが。手とか目とか肩とか、いろいろなところから来ているのだろうが、けっきょくはそれによって胸郭と背面の奥がこごってきて、胃のほうになにか来たり、喉に詰まるような感じを生み出すのだろうとおもう。


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  • 「ことば」: 31, 9, 24
  • 「読みかえし2」: 535 - 536