(……)たとえば今日ぼくがオフィスでどんな仕事をしたか、あなたがご覧になったら、頭を振るでしょう。ぼくは種々雑多な古いがらくたを机の上に置いています――しばらく前ほど多くはありませんが。というのも、その間仕事がかなりうまくいった一週があったのです――しかし今日ぼくはまず、昨日着手した内閣あての、実はどうでもいいような報告を仕上げなければなりませんでした。ぼくには不可能でした。なにも思い浮ばず、しかも今日オフィスでは大きなコピーの仕事があって、それにぼくのタイピストも回さなくてはならなかったので、ぼく自身タイプのそばに坐り、両手を膝の上に置くことしか能のないことを感じました。タイプライターすらこんな時には書く能力を失い、そう思って見つめると、古いとっくに時代遅れになった発明のようにみえ、古い鉄でしかありません。ぼくは約八頁書き、明日はこの八頁を役に立たないものとして破り棄て、およそ二〇頁の予定の報告をあらたに始めねばなるまいという結構な見込み(end251)が生まれました。ホメロスの英雄たちの弁舌のように、ぼくの口から口述が流れ出すのはごくごく稀なことで、それが突然永遠に休止するかもしれないというのが、それこそ稀少さのもつ危険です。たしかに生きてはいます、そして樹液は不活潑ながら流れてはいます。しかし考えてもください、ぼくはオフィス仕事の他ほとんどなにもせず、工場をなおざりにしているので、ぼくは父を見る勇気も、いわんや話しかける勇気もないのです。では最愛のひと、ぼくの結構な暮し方を少しばかりほめてください。
(マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、251~252; 一九一三年一月三〇日から三一日)
八時ごろに覚醒。とうぜんながら空気は冷たい。布団のなかで横を向き(しかしさいしょから横向きだったような気もする)、深呼吸をしばらくしてからだの前後の収縮とふくらみを感じつつ血をめぐらせる。いっぽうで手をさすったり、ゆびを伸ばしたりも。手指をストレッチするとじつにてきめんに肩のあたりがうごめき、かるくなって効いているのがわかる。その他もろもろやりつつもなかなか起き上がれず、九時ごろになってようやく身を起こし、机上のアンプのうえ、端っこに置かれてあるエアコンのリモコンに手を伸ばして暖房をつけた。カーテンもあけるが、レースもあけて窓をさらしてしまうと寒いので、きょうは外側の紺色のいちまいだけ。天気はことさら寒々とした曇りである。あたたかい空気がいくらか部屋に回ったところで布団のしたから脚を出して膝でふくらはぎを揉むというよりもさすりはじめると、それで一気にあたまの濁りがうすくなってはっきりする感じがあった。窓外では園児たちがきょうもにぎやか。Chromebookでウェブをみつつ脚をほぐし、九時半過ぎで離床へ。発ったばかりの寝床にリセッシュを振りまき、便意がつのっていたので寝間着のうえにダウンベストを羽織ると、水も飲まないうちから便所に行って便器に腰掛け、クソを垂れた。ながして手を洗い、そのまま顔も洗って、ルック泡洗剤を便器の内に吹きつけておく。便器内も黒カビが繁殖していてやばいのだけれど、ぜんぜん掃除する気になれない。カビキラーすら買ってきていない。出ると水を飲む。手をプラプラ振るのが心身もリラックスするようでやはりいいなときのう気づいたので、ジャージに着替えたあと、煮込みうどんの鍋に最弱で火を入れながら立ち尽くして目を閉じて手首を振った。目を閉じつづけていると基本にんげんはリラックスしてくるから、瞑目状態でかるくできる運動は都合がよい。一〇時前になると椀にうどんをよそり、パソコンはスリープだったが動作が遅くなっている気がするので、通話をするにはと再起動させて、そのうちに一〇時にいたってしまったがたしょう過ぎるのは問題ない。LINEからZOOMのURLをひらいてうどんを食いつつログイン。まだ(……)さんのみ。けっきょくこの日はのこりのふたりはあらわれずにかれとふたりでやったが。うどんを食いつつ一〇時半ごろまで雑談をつづけてからUlyssesをいくらかすすめた。しかし通話中のことはれいによってあとにまわしたい。はなしの内容は、散歩のこと、日記のこと、図書館のこと、ジョイスのアイルランドへのこだわり(?)と、ひるがえって国籍性の無化のようなことについて、あと(……)くんと(……)さんの新居が決まったというはなしや、大学時代のことなど。ひとつおもしろかったのは、(……)さんもさいきん日記を手書きで書いているというので、どんなこと書いてますかとたずねて、その場で文章を読んでもらったのだけれど、日記を書いた当人がわざわざ他人にそれを聞かせるために目の前で(画面越しだが)音読すると、ちょっとしたことでもやたらおもしろく感じられる。こいつはおもしろいとおもって、ぼくもなんか読みましょうかとブログの最新記事である二七日をみて、(……)さんもひらいていると言ったので、このあとのほうの地雷系のところとか音読したらたぶんおもしろいんだよなと言ってちょっとだけ読んだが、いや、ながいんだよな! ぼくのばあい、読んで聞かせるにはながすぎるんだよな! と破顔し、「その他「地雷系」というワードについて。というのもわれわれのとなりのテーブルに一時やってきたふたりの女性が去ったあと、(……)が地雷系女子みたいなファッションだったと言ったからで、このワードの正確な意味をこちらはいまいち理解していなかったのではなしがひろがったかたち」まで口に出して読んだけれど、この「かたち」という文末でなぜか爆笑してしまった。文章で書くとべつになにもおもしろくないのだけれど、じぶんでわざわざ他人に聞かせるために音読すると、なんかこの「かたち」で文を終えているその響きだけで笑えてしまった。いや、まあもう読みませんけどね、とおさめる。
通話は正午前で終了。それからまた手首をぷらぷらやることに。さくばんと同様音楽を聞きながらやった。音楽を聞くついでにやっていれば一〇分二〇分くらいはすぐに経つ。きのうもながしたが、Bill Evans Trio『Portrait In Jazz』。さいしょから#6 “Peri’s Scope”まで。さくばんの印象とあわせてもうここに書いてしまうが、二テイクはいっている”Autumn Leaves”は、ステレオ版のほうがEvansのソロの一本とおった統一性はうえで、モノラル版のほうがやや波があるように感じられる。ステレオ版のあれはとにかくすごい。モノラル版もじゅうぶんすごく、おりおりでかがやきをはなっている。ただステレオのほうほど一貫したながれの緊密さを感じないのは、録音の関係でEvansの音の聞こえ方がステレオとはちがって、そちらより明晰に聞こえなかったり、音量の大小があったりするのも影響しているかもしれない。とはいえまた、ピアノソロ前になされる三者での掛け合い部分も、ステレオ版は三人の呼吸のあいだのすきまがスリリング程度におさまっているが、モノラルではそれよりもわずかにゆるんでいるようにも聞こえる。それで、モノラルのほうがほんのわずか緊密さでは下回るかなというこの印象は、冒頭にLaFaroがステレオとはちがって大胆なアプローチをしたそのときにもう決まっていたのではないか、などともおもった。ステレオのほうはテーマ部分で、おさえてリズミカルにやっているのだけれど、モノラルではぐわーんと伸びたり、高音部にあがっていって連打したりして、まあわりと暴挙的なやり口になっている。聞くほうの印象もそれである程度さだめられてしまうということがあるかもしれないいっぽうで、演者たちのほうも、Evansがそれに引きずられたとまで言えるかどうか不明だが、しかしあのLaFaroのうごきでこのテイクの方向性がある程度さだまってしまったということがあるんじゃないか。それがその後の波につながったのではないかと。
あと#5 ”When I Fall In Love”がやっぱりこれもとてもすごくて絶品で、ひじょうにスローにメロディをぽつぽつ弾いているところと、後半でこまかくつらねるところの様相の差、振り幅がやばいし、その速弾きも通り一遍の譜割りになっておらず、じつに有機的なペースをもって小節をまたがって自由を歌っており、楽譜的な硬直した区分けをはるかに飛び越えて生命的な緩急でうねりながら駆けるその一音一音がかがやくごとくにすばらしくはっきりと粒立っていて、龍の背骨みたいな感じ。
それからここまで書いて一時二〇分。手を振ると手のひらやゆびや手首もほぐれるし、また肩とか背面が全体的にもこまかくうごくからあたたかくなるし、文は書きやすい。なにしろリラックスできるのがよい。しかしきょうは労働なのでこのあとは無理せず、(……)大の過去問を読んだりしながらだらだらしたい。
*
いま帰宅後の午前二時二〇分。きょうの時間でいうと二六時にあたる。疲労。くたくたという感じ。四時にアパートを出て、帰ってきたのが一一時半くらいだから、ドア・トゥ・ドア(といういいかたは(……)くんがよくしていて知った)で七時間半。爆発的に疲れている。たかだか七時間半でこれだし、しかもいまは週一なのだが、世のひとびとのおおくは毎日これいじょうはたらいているわけで、心身がどうしてそれに耐えられるのか、どういうわけで生きていけるのか、骨と血管と筋肉がそんなに頑健なのか、労働をするといつも疑問におもう。かれらかのじょらがこちらとほとんどべつの生物種のようにおもえる。帰り道でこちらを追い抜かしていく勤め人などみると連日はたらいているはずなのに、こちらよりもよほど意気軒昂そうで足取りがはやく、勤務を終えてきた夜とはおもえないほどずんずんすすんでいく。信じがたい。じぶんはじつは体力がかなりとぼしいほうだったのではないか? じぶんが世の平均的な勤め人とおなじ労働をしたら、すぐにからだをこわして死ぬか、鬱症状におちいって自殺する自信がある。しかしこうして曲がりなりにも日記にことばを落とす気になっているいじょう、活動力は先週や先々週よりもあがってはいると言ってよい。それはやはり主には手を振ったり伸ばしたりすることでうまくリラックスでき、比較的からだがほぐれているからなのだろう。とはいえもうシャワーを浴びる気力すらない。そのくせ文は書いているが。文を書いているというよりも、どうでもいいことをくっちゃべっているような感じだが。シャワーではなく風呂だったらはいる気になった。だがシャワーは浴びる気にならない。風呂はすばらしい。風呂ほどすばらしいものはこの世にすくない。風呂にはいる習慣がひろく行き渡っていないという点だけでもって、どんなに誇りをもっていようとヨーロッパは後進地域である。偉大なるローマの沐浴習慣と公衆浴場を受け継がなかったヨーロッパの民は野蛮人である。啓蒙の思想家たちもマルクスもレーニンもローマからみれば数千年分退歩している。進歩主義とは名ばかりの近代人のドグマである。風呂のない住居は例外なくすべて野蛮であり、そこに住んでいるものたちはおしなべて野蛮人である。したがってこちらもそうだ。とにかく風呂だ! まいにち風呂にはいれる生活がしたい。疲労している。疲労とは生にもっともちかしくしたしい同行者である。
きょうは行きの電車内でまたブーストすることになった。だが心身はわるくはない。着々とよくなってきている感はある。けっきょくはヤクをブーストすることになったとはいえ、緊張もそこまでつよくはなかったというか、身に響く緊張の感覚がいぜんよりもやや遠いというか、緊張からくる嘔吐感めいたものを感じつつも、すごくあわてるほどではなく、冷静にそれを受け止めて薬を飲もうと判断する度量がからだにあった。からだが緊張感をうまくつつんでいるような感じ。心身が比較的リラックスしていたことの証左である。そうは言い条けっきょく薬は飲んだのだが、まあそれでよいのだ。いま無理をすることはない。なるべくヤクにたよりたくないとおもってしまいがちだが、そもそもロラゼパムは過去一〇年来のつきあいになるわけで(そこまでではないか?)、いまさら依存もクソもない。過去のパニック障害の圏域にあったときには数年間ずっと飲み続けていたのだから、今回だって二、三年くらい飲むことになったとしても不思議ではない。苦しければ無理せずたよればよい、といまはそういう時期だろう。
帰るころには雨が降っていてなかなかはげしく、最寄り駅に降り立った時点でつめたく降られて(いつもいちばん端に乗って屋根のないところで降りるため)、駅を抜ければあゆみの遅さに定評のあるこちらでもさすがにきょうは走ったが、アパートまでとなると相当濡れてしまい、風邪を引いたり体調をくずしたりしてもおかしくなかったので、これはしかたがない、スーパーに寄って傘を買うことにした。ちょうどパック米もなくなっていたし。しかし出来合いの米をいちいち買うのも金がかかるから、米を食いたければ炊飯器を入手するべきだろう。それかライスのない食生活を生きるか。スーパーでは傘とパック米だけでなく、みているとなんだかんだ買い込んでしまう。キャベツももうほぼなくなっていたからちょうどよかった。日付がわりもちかいころのスーパーというのはよい。なにしろひとがすくない。悠々とまわり、じっくり見られる。そのおかげでいままであまり注目しなかったところなどにも目が行き、こんな品あったのかと発見するくらいだ。レジの店員ははじめて見るひとだった。
帰宅後はプラスチックゴミを出しておかないといけなかったが(朝には起きられないので)、とにかく寒いので、ともあれエアコンを入れてスーツを脱ぎ、ジャージとダウンジャケットにきがえて、手を振って肩や首のうしろをあたためる。それからプラゴミのビニール袋を四つかかえて扉を抜け、脇の物入れにしばらないままかけておいた傘を取って階段を下りる。差しながら濡れたネットのなかにゴミを入れてもどる。休息中になにをしたかというと短歌をひさしぶりにこしらえた。断片的なおもいつきのフレーズを日記にメモしてあり、いつかかたちにする気になるだろうとわざわざまいにちコピペでうつしているのだが、そこから四つしあげた。
薄青い赤をふくんだ夕空のかなしみだけが窓を慕って
消えやすい罪をたばねた恍惚の姿勢で今日も裁かれるのだ
雨粒のひとつひとつを数えたい死後を喪う秘術のように
夕立ちの排水溝で夏は死に海に来るのは逆さ船だけ
短歌というのもなかなかおもしろいというか、定型は偉大で、音数が決まっている、ということは結構や組み合わせのありかたがある程度までおのずから決まってしまうので、それでかえって意味の拡散をやりやすいような気味がある。意味の統一と拡散と、そのあいだの微妙な距離をはかるよい練習になる。このまま鍛錬していって、いつかマラルメとかツァラの詩みたいな短歌をつくりたいような気がしないでもない。
*
- すこしはやめに出ようかなとおもっていたのだが、けっきょく四時をまわったくらいに。まあいつも乗っている電車にたいしては余裕のある出発ではある。コートを着ると肩がおもくなるしとおもってベストにジャケットだけで出たのだが、これはもはや冬に踏み入った一二月の寒さをなめていた。しかも帰りは雨に降られることにもなったし。とはいえ、はたらいて声を出したりうごいてきた帰りのほうがむしろからだはあたたかいのだ。アパートを出て道に下りてまもなく、寒風が身を責めるので、リュックサックに入れてきたストールを取り出し、鞄は道端の電柱の足もとに置いておいて、その場で首に布を巻いた。からだの前面、左右に垂れるように一周巻き、首のまえでむすんだあと、結び目の位置を首の真後ろ、反対側にずらすというかたち。これいがいの巻き方を知らない。巻いてもはじめはさすがに寒かったが、しかし身の芯がふるえるほどではない。あるいているうちにたしょうあたたまっても来た。空は灰色で宙にあかるみはなく、もういくらか暗い公園内をとおりがかりに見やれば、地面のうえをちいさな光がうごきまわっていて、なにかおもちゃで遊んでいるのかとおもったところが、それは犬の首輪かなにかにつけられたライトのたぐいで、元気に躍動しているその犬のそばにも、散歩中の組がふたつばかりあった。曲がって細道を抜け、車道を越えて左折。いつものルートである南の車道沿いに向かう。ドラッグストアのまえでは黒っぽい仕事着を着た女性店員がトイレットペーパーかなにかの製品を、店前のワゴンにあたらしく補充しており、買い物を終えて帰っていく客のすがたもある。角にあるコンビニの駐車場をななめに横切って歩道へ。ここのローソンの駐車場はせまくはないが、中間部の空白がひろくて停めるスペースはひろさのわりにすくない印象だ。いまは三台ほどしか停まっていなかった。歩道にかかって西向きになると、ライトをひからせた車が次々まえからやってきて、方角はちがうがそれに合わせて湧いたように風がからだの右から吹きつける。薄影をもらす街路樹の脇をてくてく行きつつ、見上げれば街灯が一面灰色の空をむこうにだんだん肌色を増してきている。
- 踏切を越えて空き地にかかれば例のごとくなかを、のぞくと言うよりも望見気味に視線を伸ばしてしまいがちだが、暗みだしている大気の底で緑もあまりあざやかならない草の群がりのちょっとむこうに、ススキ様の穂が、香炉にたまった線香の灰の薄白さで風に少々ゆらめいており、手前で壁のようになっている草ぐさも右側の低めのものはいくらかゆれるが、すすんで左側はもっと丈高く、背を伸ばすというよりは盛り上がるように厚く茂っていて、黄色が点々とみえるあれはくっつき虫のたぐいじゃないかとおもうのだけれど、その一帯はうごきを見せずに重くおちついている。フェンス脇を行くと病院のまえで南北方向に道路がはさまる。そこを渡って右折すれば敷地の裏側に行ける。病院の庭は先般夜に踏み入ったが、清らか風に白いひかりのイルミネーションが多々ほどこされており、立ち木に螺旋状で線を巻いてある種の山道の模型のようになっていたり、ロータリーの縁に鹿だったかなにか動物を模した像もつくられていて、色からして氷像をおもわせないでもない。前から来た犬の散歩の婦人はその院庭内にはいっていった。裏の角に来ると左に折れてまた西向きに歩をすすめていく。病院の建物の裏側にも低い木や草があしらわれているが、イチョウなどもう散りきっただろうとおもったところがさにあらず、こずえの端四分の一くらいに黄色い葉をのこしている一本があり、さすがに葉っぱにもう生気もうすく、幼児用玩具のうごかぬ蝶が針金なんかで吊られてあつまったごとくだ。病院、あいだの公園、文化施設と敷地はつづくそのあいだ、裏道の歩道は歩行者用の通路と自転車用のレーンで分かれている。出張ブックポストがなかにある施設の裏手あたりまで来たところで、やってきた自転車が、知らずレーンをあるいていた老夫婦のすぐうしろに差し迫って、ベルを鳴らすなり声をかけるなりすればいいのになにも言わずにただ至近にとどまって、あいてが気づいて道を空けてくれるのを待っており、こちらはそれを左の歩行者位置から傍観している。じきに夫婦は気づいてどき、そのあと奥さんがここは自転車用レーンだったのだということを言い、受けて旦那はすぐに通路をうつっていた。
- まもなく車にさわぐ(……)通りに出る。手指を伸ばしながら横断歩道を待って、渡って商店街めいた通りへ。駅に向かう東西の通りのなかではここが真ん中で、ひとつ南は(……)通り、これがいちばん太くて車道もひろく、道路の両側には高いビルもおおくてときおりオフィスがかってもいる。いまじぶんが行っているこの通りのなまえを知らないが、ここはもうすこし道幅がせまくて、車が来ない隙に南北を渡るのも容易だ。沿うてならぶ建物も、企業よりは店屋のたぐいがおおくて商業めいた印象だ。左右の歩道の街灯には電飾が蛇のようにぐるぐる巻きつけられてすばやく点滅し、またたびたびそのおなじ柱から下がって星型のひかり飾りも宙でうごめいているが、いろどりとしてはややわびしいようにおもえるし、また電飾のうごきかたが、かたちと色にいくつか種類はあるものの、拡大と縮小をすばやくくりかえしながら震えるようなタイプで、なんというかブワッブワッブワッみたいな効果音がしてきそうなのであまり興趣をそそられない。(……)の建物前面、二階以上の位置は区切られた四角いガラスが張られてならび、四時半にかかるこのころにはきれいに鏡写しとなった空の色がはやくも青みをはらんできていた。いつもは通りのどこかで右側に渡り、端まで行くとロータリーまえを右に回って短い横断歩道を渡り、そこで階段をのぼって駅舎にはいるか、あるいは脇を抜けて駅舎下の公衆便所に寄るかするのだが、たまには高架歩廊にのぼるかという気になったので、きょうは左側の歩道をさいごまで行って、そこにエスカレーターがあるのにわざわざ通り過ぎ、ロータリー沿いにちょっと行って曲がったところの階段をのぼる。すると踏み立つのは(……)のすぐまえで、駅のほうへと歩廊をすすむそのあいだ、背後からなにかを広告する女性の声が、威勢がよいわけではなくそんなに張っているとも聞こえないのだが、肉声で意外にもよく通ってとどいてくる。よくは聞かなかったがことばもかたちをなしていた。振り返ると、パチンコ屋の宣伝らしく、(……)の入り口前で、クリスマスカラーというわけなのか真っ赤な上着をはおったすがたが広告板をもっている。この寒いそとでああやって立ち尽くして声をあげるのもたいへんなしごと、喉とからだがなかなか疲れるだろうなとおもった。
- 人波ゆたかな駅舎のコンコースにはいると、しぜんいつも身内に緊張が生じるか否か、その程度をはかる意識になるが、この日もやはり、さいきんのなかではよほどわずかとはいえ、からだがかたくなるのが見て取れる。それでも気分はかるいほうだ。改札を抜けつつ、果たしてきょうはどうか、薬を飲まずに行けるかどうかと、案ずるというよりは、じぶんのからだをつかった実験におもむく研究者にちかいようなこころもちで、このさきの電車内での時間をおもったりもする。そうひどいことにはならないだろうと、確信とまでは言えなくとも、けっこうたしからしい予測感覚があるのだ。それで(……)ホームに降りていちばんまえに行くと、まだひとがすくなかったので座席についた。発車までは余裕がある。しばらく手指を伸ばしたり、首や肩をまわしたり。それから携帯とイヤフォンをつないでまたしてもceroの『POLY LIFE MULTI SOUL』を耳にながした。瞑目のうちに待つが、きょうはあまり目をつぶっていられず、ときどき開けて時間を確認したりしてしまう。そのうちに隣にひとが座ったのが感知されて、ここでやはり緊張の度が一段階変わった感があった。他人の存在が近距離にあるとそれだけで心身にたいする圧力になるのだ。あと、このとき隣に座ったひとの香水がけっこうきつくて、それできもちがわるくなりはしないだろうなというおそれもあった。一定いじょうの知覚刺激がなんであれ緊張や不安にむすびつきかねないという、これはプルーストが『失われた時を求めて』の最序盤で、幼時の語り手について、習慣からはずれたものの強襲はそれがよろこびであれわたしにとっては泣き出してしまうほどの不安をもたらした、みたいなことを書いていたのと似ている。目をあけると隣の男は黒いカジュアルの装いで、真向かいに白いパーカーかなにかのもうひとりがおり、よく見なかったがかれが外国人で、対面でやりとりしているらしかったので、隣のかれも連れ合いで外国人なのだろうとおもい、そうなれば香水がきつかったことも腑に落ちる(日本人よりも白人(だったとおもうのだが)のほうが香水をつよくつけていることになぜ納得するのか不明だが)。たぶん(……)で降りるんだろう、(……)住まいのアメリカ人だろうとおもったが、予想通りのちほど(……)で降りていた。じきに発車。緊張はある。一駅間はどうにかなったが、そこを越えるとどうも乱れてきて、がんばって耐えられないこともなさそうではあったけれど、ここで消耗することもあるまいと無理を捨てて、おとなしくヤクをブーストしておちつくことにした。帰宅後うえにも書いたけれど、緊張感や嘔吐感は比較的弱く、身の輪郭によってつつまれているような感じがあったので、かたくなって喉の圧迫をおぼえつつも焦燥はさほどなくおちついて、リュックサックから財布をとりだし、ロラゼパムを一錠パッケージから押し出して口に入れ、財布をしまうとこんどは水のペットボトルを取り出して、マスクをずらすとともに(この時点ではまだ髭を剃っておらず、顔はきれいではなかった)水を飲んだ。そのさいには飲み込みづらさがあったが。そうしてまた瞑目にもどる。目を閉じてじっとしているのもむずかしいところで、自宅のようになんの不安要素もない環境でやればからだがほぐれて安楽になるが、そもそもじぶんが不安対象としている電車内なんかでやっていると、よくも悪くも瞑想というのはそのときのじぶんの状態が明確に出てきてそれと直面せざるを得なくなるわけだから、かえって不安が増幅されるようなときもあり、うまく行けばそれを越えてじっとしているうちにリラックスしてくるのだけれど、この日はそこまでいたらないうちに緊張のほうがもたげてきたのだった。じゃあ目を開けていればいいかというと、それでおちつくときもあるし、不安が最高潮に達するときなどはむしろおのずと目を閉じていられなくなることが多いのだけれど、だからといって開眼状態がより緊張を呼びづらいかというと微妙なところだ。しょうじきあまり変わらない。
*
- 勤務。(……)
- (……)
- (……)
- (……)
- (……)
- (……)
- (……)
- (……)
- (……)
- 退勤後の経緯はもう書いたし、勤務中のことを書きすぎて疲れたので、通話時のことはもう省略する。(……)さんが手書きで書いているというじぶんの日記をちょっと読んでくれたのだけれど、きのうの内容が、「一一時起床。アラン・シュピオを訳す。その後、ポール・ヴァレリー全集を裁断」とかいうはじまりだったので、その時点でちょっと待って、と止めて、二文目からもうインテリゲンツィアなんだけど、と爆笑した一幕はあった。
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- 「ことば」: 31