2022/12/6, Tue.

 (……)だれか他の人をちらりと思い浮べることなしに、全く自分のことで絶望したことがありますか? 輾転反側するほど絶望し、最後の審判が過ぎるまでも横たわっていることが? あなたの敬虔さはどんなものですか? あなたはシナゴーグに行きますが、最近は行かなかったでしょう。なにがあなたを支えているのですか、ユダヤ教または神の考えですか? あなたは――これが肝要なことです――絶えまない関連を、自分と、安堵させるほど遠い、あるいは無限の高み乃至深みとの間に感じていますか? それをいつも感じる人は、野良犬のように走り回って、哀願しながら、しかし沈黙したまま見回すような必要はなく、墓が温かい寝袋であり、生が冷めたい冬の夜ででもあるかのように、墓にもぐりこみたい欲求を抱く必要もなく、オフィスの階段を昇っていくとき、同時に自分が上から、おぼつかない光のなかでゆらめきながら、運動の速さで回転しつつ、焦慮のため首を振り、階段全体を転げ落ちる姿を見る思いをする必要もありません。
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、262; 一九一三年二月九日から一〇日〔おそらく一九一三年二月七日から八日の夜〕)



  • 「読みかえし2」より。このゲオルゲの詩の古井訳はじつにかっこうがよい。

552

 さてこそ君らは薄暮を往き、同行 [とも] は夕映の微笑。君ら、沈み行く時代よ。すべてが黙契(end153)の内に同意された上は、君らは心乱さず、避けられぬ苦を負う。

 おのれを挙げて捧げる者は享けることも寡く、ただ薔薇色の額を、ひたむき押して遠方を目指す。さてこそ君らは薄暮を往き、同行は夕映の微笑。沈み行く時代よ。

 それでも時にひときわ和らいだ音色が、ひときわ馴れた寄り添いが、感応のように償いのように、そして暗示を銜む沈黙が君らをつつんで流れると、何かの希望がひそかに萌すかに感じられ、

 慄える腕を胸に押しあてて君らは、往く夕 [ゆうべ] を繫ぎ止めようと、束の間でも夕が足をためらわせはしないかと待つが、しかし君らの同行の夕映の夢見たものは、明日なのだ。


 シュテファン・ゲオルゲは一八六八年生、その一九〇〇年に出された詩集『人生の絨緞』の内に収められ、「苦の兄弟たち」と題される。中世の苦行者たちの共同体が想われているはずだ。沈黙の巡礼の光景である。薄暮の町を脇目も振らず、残照へ向かって通り(end154)抜けていく。
 苦行の巡礼者たちは、「沈み行く時代」と呼びかけられている。
 三節目の、「音色」と訳したところは独語でも英語でもトーンであり、色調つまり視覚的なものでもあり得る。さらに、「寄り添う」という動詞の不定詞が同格として重ねられているところでは、肌つまり触覚にも訴える。夕映の、風の、声音でもあり色合いでもあり、愛撫のようなものだ。「物の匂ひ」とでもいうところか。ただし、「約束」の幻覚である。ほとんど一瞬のものと取れる。
 夕映が約束の色に染まり、巡礼者たちは思わず恋着の息を詰めるが、しかし夕映はまた来る明朝 [あした] を夢に見たのにすぎない、というのが「挙句」になる。佗しい「挙句」ではないか。巡礼者たちは明日へ向けて進んでいるのではないのだ。
 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、153~155; 「15 夕映の微笑」)

  • したの記述中、二段落目のはじめ、「不運を聖化する自惚れを持ちかねてうたた荒涼、性悪の嘴に突 [つつ] かれる手前の骨の、その仇を取ってやろうにも佗しくて、彼らは憎しみの差すのをひたすら願う、恨みではなくて」という部分もひどくリズムがよい。

553

 そのギィニョンの姿はと言えば骸骨の侏儒で、羽飾りのついたフェルト帽をかぶりブーツをはき、腋には毛のかわりに虫がうごめく、とあるので中世伝来の死神 Mort 像に近いが、Mort の丈が矮小だという話は聞いたことがない。この意地悪者に頭に来た詩人たち――詩人と呼んでももうよいか――は剣を抜いて挑みかかるが、剣は嫌な空音 [からおと] を立てて、月の光を切って骸骨をすりぬける。
 不運を聖化する自惚れを持ちかねてうたた荒涼、性悪の嘴に突 [つつ] かれる手前の骨の、その仇を取ってやろうにも佗しくて、彼らは憎しみの差すのをひたすら願う、恨みではなくて、とある。あとは世俗に愚弄される詩人たちのありさまが、惨憺に惨憺を畳みかけ、putain 淫売、baladin 道化、dédain 侮蔑、badin 悪巫山戯と、歯切れよく乾いた諧謔を響かせて、街灯へ奔って首をくくる結末まで連ねられるが、後を追うのはやめにする。なにさま、ゲオルゲの「苦行者」たちと、雰囲気が離れすぎた。
 一八九八年にマラルメは五十六歳で亡くなり、一九〇〇年にゲオルゲは三十二の歳で、この詩の収められた詩集『人生の絨緞』を世に出している。そのような年まわりだが、ゲオルゲ諧謔の詩人ではない。時代の下ったその分だけ、詩人として前代にまさるギィ(end159)ニョンをさまざま見たと思われるが、詩人の孤立をむしろ聖化 sacrer する――マラルメの「ル ギィニョン」はこれを自惚れ orgueil と呼んだが――その立場を取った。マラルメの詩の中では前代のしょせん幸せなる苦行者たちの、末期の剣の保証人のごとくに、アイロニーをこめて振り返られる天使も、ゲオルゲの詩の中ではまともに現われる。詩人たちの同盟の証しとして、至福の告知者として現われ、時には少年のごとく処女のごとく、ほとんど辱らうかに見える。「聖戦」に倒れた詩人を訪ねもする。
 大時代に復したと言うべきか。たしかにマラルメは、すくなくともこの詩においては、ボードレールの後を継ぐ、大都市あるいは大都市化の詩人であり、ゲオルゲはかならずしも、大都市の詩人とは言えない。しかし大時代というものを、個人を超えたスタイルのまだよほど堅固な、たとえばまともな悲劇が都市で上演され人を感動させることのまだ可能と想われていた時代のことだとすれば、そして鮮やかな諧謔の前提が世のスタイルの健在にあるとすれば、マラルメのほうが一世代ほどの差ながらゲオルゲよりも大時代の世に在った、と逆もまた言えそうである。
 とにかく、この二詩人をかりに師弟とすれば、師も弟子も、言語と表象を切り詰め、連想の経緯を新らたにし、おそらく固有の音律により、さらに切り詰めて構築するということでは等しく、その徹底のあまり、往々にして一篇の内ではその意味が、その意識も感情(end160)も、摑みきれないという難儀さを共有する。過激さではマラルメのほうがまさり、ゲオルゲの詩の幾多は完璧な抒情詩、抒情の極みとして、享受されてしまうこともある。しかし意味へ開くということになれば、ゲオルゲの詩のほうが、そこに与えられた詩句そのものの外まで開くことを拒む、開けば恣意へ拡散するというところがある。
 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、159~161; 「15 夕映の微笑」; マラルメ「不運 Le Guignon」について)

  • あと、「暗示を銜む」とか、「慄える腕」とか、「ほとんど辱らうかに見える」とか、ほかにあまりない漢字のつかいかたも興味深い。「銜む」の字はふつう「くわえる」としてつかわれるが、ここではたぶん「はらむ」だろうか? 「慄える」は「ふるえる」だろう。これはわかりやすい。しかし、「辱」を「辱らう」とするのはめずらしい。おそらく「はじらう」だとおもう。ほか、「年まわり」とか「なにさま」とか、こういった語もなかなかみないし、じぶんでもつかったことがない。
  • 「ドゥイノの悲歌」の訳し下しもさすがというほかない。

554

 誰が、私が叫んだとしてもその声を、天使たちの諸天から聞くだろうか。かりに天使の一人が私をその胸にいきなり抱き取ったとしたら、私はその超えた存在の力を受けて息絶えることになるだろう。美しきものは恐ろしきものの発端にほかならず、ここまではまだわれわれにも堪えられる。われわれが美しきものを称讃するのは、美がわれわれを、滅ぼしもせずに打ち棄ててかえりみぬ、その限りのことなのだ。あらゆる天使は恐ろしい。
 それゆえ私は思い留まり、声にならぬ嗚咽をふくむ呼びかけを呑みくだす。ああ、誰をわれわれはもとめることができようか。天使をもとめることも、人間をもとめることも、ならない。しかも敏い動物たちはすでに、われわれが意味づけられた世界にしっかりとは居ついていないことに、気がついている。どこぞの斜面の木立が変らず留まり、日々に出かければわれわれはそれに出会う。昨日の街路が変わらずにあり、そして年来の習慣が、われわれの傍が気に入って、伸び切った忠実さを見せて順 [したが] ってくる。そのようにして習慣は留まって過ぎ去らずにいた。
 そして、ああ、夜が来る。宇宙を孕んだ風がわれわれを顔から侵蝕するその時が。いずれこれの訪れぬ者があるだろうか。待ちかねた夜、穏やかに幻想を解 [ほど] く夜、苦しい夜が行く手に控えている。愛しあう者たちにとってはよほどしのぎやすいだろうか。彼らはそれ(end163)ぞれ分け定められたものを重ねあわせて覆いあっているにすぎない。
 お前はまだ悟らないのか。腕を開いて内なる空虚を放ちやり、お前の呼吸する宇宙に、付け加えよ。おそらく鳥たちはよりやすらかになった翼に、大気のひろがったのを感じ取るだろう。
 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、163~164; 「16 ドゥイノ・エレギー訳文 1」)

  • 「天使をもとめることも、人間をもとめることも、ならない」の「ならない」とか。ここは神品芳夫訳ではたしか、「天使もだめ、人間もだめ」とかなっていたはず。「そして年来の習慣が、われわれの傍が気に入って、伸び切った忠実さを見せて順 [したが] ってくる」の「伸び切った忠実さ」もよい。そして、「宇宙を孕んだ風がわれわれを顔から侵蝕するその時が」。神品芳夫のほうは、「われわれの顔を削ぐ」としていたはず。そちらの訳と読み比べるのも興あることだ。というわけで下掲。

 だれが、わたしが叫んでも、天使の序列から
 わたしの声を聞いてくれようか。もしも
 天使のひとりがわたしを胸に突然抱くとしたら、
 その強烈な存在のため、わたしは滅びてしまう。なぜなら美は
 われわれが辛うじて堪えうる恐しいものの発端にすぎないから。
 そしてわれわれが美をこのように賛美するのは、
 美がわれわれを破壊するのを何とも思っていないからだ。どの天使も恐ろしい。
  そこでわたしは自分を抑え、暗いすすり泣きとともに、
 誘いの声を呑み込んでしまう。ああ われわれは一体、
 だれを頼りにすることができるのか。天使はだめ、人間もだめ。
 というのは、勘の鋭い動物たちはもう、(end102)
 われわれ人間が、解明の進んだ世界にあっても
 確かな存在として居ついていないことに気づいている。
 われわれに残されているのは、おそらく、毎日再会するようにと
 斜面に立つ一本の樹木。あるいは昨日通った
 街路や、甘やかされて離れないちょっとしたくせ [﹅2] 。
 そんなくせ [﹅2] は居心地がよいと、そのまま留まり、出て行かないのだ。
  おお そして夜、世界空間を孕んだ風が
 われわれの顔を削ぐ夜、――切望されては、
 ゆっくりと幻滅を与える夜、ひとつひとつの心の前に立ちはだかる夜は、
 だれにも残されているだろう。恋人たちには夜はもっと耐え得るものか。
 ああ 彼らはたがいにそれぞれの運命をかくし合っているだけだ。
  きみはまだ知らないのか。きみの両腕から空虚を
 われわれの呼吸する空間に投げ入れよ。そうすればおそらく、
 鳥たちは一層心のこもった飛翔により、大気の拡大したのを感じるはずだ。

 (神品芳夫訳『リルケ詩集』(土曜美術社出版販売/新・世界現代史文庫10、二〇〇九年)、102~103; 『ドゥイノの悲歌』 Duineser Elegien より; 「第一の悲歌」、第一連)

  • きょうの覚醒は一〇時。さくばんは午前三時ごろに寝床にうつって、エアコンてデスクライトをつけたままいつか死んでいた。それでいちど目を覚ましたときに両方消したのだが、その時点ですでに夜が明けていたはず。二度目の覚醒をだんだんと得て布団のしたで手をさすったり腰をもぞもぞやったりしているあいだ、子どもたちの声があまり聞こえず、それでいて門のあく音が散見されたので、まだあつまってくるまえのはやい時間なのかなと漠然とおもっていたところが、身を起こして携帯をみると一〇時ちょうどだった。さすがにきのうは疲労したということだ。しかしからだはわるくなく、うまいほぐしかたがつかめてきた気がする。要はやはりちからをいれずにゆっくりかるくうごかすことをしばらくつづけるということ。それで一一時まで臥位にとどまって膝で脚を刺激したりしながら一年前の日記を二日分読んだ。一二月五日と六日。前者には以下のように。

きのうの記事にもちょっと書いたのだけれど、書きたいこととか印象にのこったことのみを記す断片性に移行したほうがよいのでは? という気にまたなっていて、ようするにもっと楽に書けるようなかたちにしたほうがよいだろうと。油断するとなるべくすべて書かなきゃみたいな、一日をことばと記述で埋めてあまりすきまがないようにするみたいな、順番に記憶をさぐっていってどの場面からもなにかしら書くことをひろいあげるみたいな、そういうことになってしまいがちなのでよくない。よくないわけではないが、それはやはりたいへんなので、平常としてはもっとたらたら楽勝にできるモードがいいだろうと。いぜんもなんどか、そんなにこまかく書かないでいい、一日一行でもいいわとか、とにかく楽につづけられるようにしようとかかんがえて、日記じたいにもそう書きつけ、そのようにしようとしたことがあったのだけれど、なぜかいつのまにか記録の全覆性へと回帰してしまっている。さいきんはそう追いつかないこともおおいから、「~~については忘れた」みたいなことをたびたび書きつけているけれど、そもそもそのことわりの文言じたいが、ほんとうはその場面も書くべきだ、そこにあったことをほんらいは書かなければならなかったという認識を前提化しているいいかたで、やや特殊であり、世のたいはんの日記はおそらくそんなことばはふくまずに、そもそもおおきく印象にのこったことのみを断片的に書きつけるものになっているはずである。じぶんもそういうふうにしたほうが楽でいいだろうと。順序もこだわらず、印象事をおもいだした順に書くやりかたがやはりよいだろう。とはいえ、毎回おもうのだけれど、こういうことを書いてもそのうちにまた気分が変わってがんばって記録するようになることがほぼ必定で、だからこういう自己言及的な表明というのはまもるべき原則の整理やじぶんにたいするいいきかせというよりも、実質的にはそのときの気分がこうだったということの記録にしかなっていない。

  • これを読んだからというわけでもないが、といいつつじっさいはそうなのかもしれないが、のちほど瞑想のあたりとか、あとキャベツを切っているときとかに、また箇条書き方式で書いてみようかなという気になったので、きょうはそうしている。去年は箇条書きでやっており、いつ段落+断章方式に変えたんだったかわすれた。しょうじき箇条書きでも段落でもあまり変わりはしないのだけれど、しかしひるがえせばすこしは変わるということで、そのすこしが大事なのだ。じっさい、一字下げのはいった段落式だと、どうしても前後の段落のつながりというような意識が生まれてしまい、要するに時系列順に書くということの桎梏からよりのがれにくい気味がある。箇条書きは段落はじめの一字下げを黒点に変えただけにすぎないが、一字下がっているのと、ひだりうえに突出した黒点の横に各行のあたまがまっすぐそろっているのとでは、やはりたしかに意識の面にちがうものがある。そういうわけで段落方式をやめて、箇条書きで、また時系列の順序にこだわらずに、おもいだしたことから書いたり、ちょっとしたことをすぐにさっと書いたり、そういうやりかたでやってみようという気になった。そもそも時系列順というのはにんげんのあたまにあまり適していないとおもう。ひとが記憶や認識や自己理解などを自動的に時系列に沿って整理して生きているのはそのとおりだが、それはかなり大雑把なレベルでのことであって、こちらのようにいちにちのあたまから終わりまでを時間の秩序にそくして追いかけるというような意識のつかいかたはかなり特殊なものであり、ということは必定、負担がかかる。なぜかというとじぶんがおもうに、意識というのはその本性からして遊動的なものだからである。意識や記憶を意図的に時空の秩序にあわせて遡り追いかけるというのは、その遊動性をいわば矯めるおこないになるわけで、しかもこまかくやればそれだけとうぜん負荷がかかるに決まっている。なので、時系列に沿っていちにちを全覆的に記すというあたまを放擲し(まあ現状でも実質そうなっているのだが、箇条書き方式でそれをさらに促進させ)、うえの引用にもあるように、もっと断片的に書いたり、突出的に書いたり、混淆的に書いたりできる余地を確保しておきたいと。箇条書き+アスタリスクで断章分けという謎のかたちにしてみようかな。アスタリスクは(……)さんがやっていたのを真似したものだが、いちどでどこまで書いたというのがわかるというのは、じっさいちょっとそれはそれでわるくない。
  • キャベツを切りながらもうひとつおもったのは、これも(……)さんも、ブログを検閲版として公開するようになってあたまの自動筆記機能が回復したと記していたけれど、われわれのようにまいにちの生活を密着的に詳細に綴ることを性でありならいとした人種は(そんな人種はほぼいないわけだが)、その文章の形式が、文を書いていないときの思考のありかたにも反映されるということだ。箇条書き方式はいちにちの統辞性よりも断片性のほうにつくやりかたであって、要はほかからいくらかなりとも突出した印象事をひろいやすいかたちなのだ。それでやるという意識になって、するとおのずから、あたまのなかのひとりごともそういうふうになったのがキャベツを切っているあいだに感じ取られた(心身の安定性と活動性が復活してきているので、それでひとりごとが加速されたということもあるだろうが)。要は過去の日記の記述を踏まえてこういうことをつらつらかんがえたということで、それはそれでよいのだが、ただここでひとつ危惧されるのが、突出的な印象事、つまり脳内で言語がそれにおおくついやされたことがらというのは、まあ感覚的なものもあるだろうけれど、しぜん、思念的なことがらがおおいだろうということで、こちらはそんなに思弁ばかりを書きたいわけではないのだ。思弁や考察もよいが、それよりもなにをしたかなにがあったかというこまごまとした生活の具体を書いてこそ日記だというそのおもいを捨てきれないので。日記というのは主に西洋の文脈だとむしろ逆に、そのひとの個人的な、私的なおもいとか感情とか、あたまのなかのことを紙に落とす向きが歴史上つよかったようなのだけれど、こちらのばあいそうではなく、ほんとうは行為を、アクションを書きたい由。しかもどうでもいいような、ささやかでこまごまとしたそれを。だから箇条書き方式でそれがひろわれなくなってしまうと嫌だなというきもちはある。が、能書きはそのくらいにして、ともかくこのかたちでまたいくらかやってみたい。
  • 去年の一二月五日はTo The Lighthouseを一節訳してもいる。まあけっこうがんばっているとおもう。
  • 夜にはTo The Lighthouseの翻訳。あしたがWoolf会で担当だったので。第一部第六章のさいごの段落、"Who shall blame him"からのところ。そんなにながくはない段落だったのだけれど、なんだかんだむずかしくてそれなりに時間はかかった。ただ、わりとうまく訳せたかな、という感触ではある。原文といっしょにしたに引く。個人的にうまく行ったつもりなのは、ながい二文目とそのあとに反復されるWho shall blame him? を、「その彼を」というつなぎかたでつづけたことと、lovelyに「可憐」、unfamiliarに「腑に落ちてこない」という訳語をあてたあたりか。finally putting以下の分詞構文を「垂れ――」というふうに完結させずにダッシュにつなげたのも、これだろう、というかんじ。


Who shall blame him, if, so standing for a moment he dwells upon fame, upon search parties, upon cairns raised by grateful followers over his bones? Finally, who shall blame the leader of the doomed expedition, if, having adventured to the uttermost, and used his strength wholly to the last ounce and fallen asleep not much caring if he wakes or not, he now perceives by some pricking in his toes that he lives, and does not on the whole object to live, but requires sympathy, and whisky, and some one to tell the story of his suffering to at once? Who shall blame him? Who will not secretly rejoice when the hero puts his armour off, and halts by the window and gazes at his wife and son, who, very distant at first, gradually come closer and closer, till lips and book and head are clearly before him, though still lovely and unfamiliar from the intensity of his isolation and the waste of ages and the perishing of the stars, and finally putting his pipe in his pocket and bending his magnificent head before her—who will blame him if he does homage to the beauty of the world?


 誰が非難できるだろう、自分がいまこうして立ちつくしながら、名声や、捜索隊や、果ては骨をうずめたその上に弟子たちが感謝の念とともにつくりあげてくれる石塚のことまで思いめぐらせたとしても? 結局のところ、挫折をさだめられた探検隊の長を、誰が非難できるというのか? 行き着ける果てまで冒険をすすめ、最後の一滴まで完全に力を振りしぼったあげく、もはやふたたび目覚めることも望まずに眠りに落ちた彼が、爪先にちくりと痛みをおぼえて自分はまだ生きているのだと悟り、どうにか生き抜くことをあきらめずに、思いやりと、ウイスキーと、苦難の物語を聞いてくれる相手をいますぐにもとめたとしても、その彼を、いったい誰が非難できるのか? 英雄が鎧を脱いで窓辺にたたずみ、妻や息子を見つめるようすは、誰の心にもひそやかなよろこびを生むだろう。ふたりの姿は最初は遠くへだたっているが、だんだんと近づいてきて、ついには唇の動きや本や頭までもが目の前にはっきりと映るようになる。とはいえ、彼が経験した孤独の激しさや、荒涼とした時の流れや、星々の衰亡とくらべれば、その光景はあまりに可憐で、まだなかなか腑に落ちてこないのだけれど、それでも最後にはパイプをポケットにしまい、堂々と立派な頭を妻のまえに垂れ――そんなふうに彼がこの世の美に敬意を払ったとして、いったい誰がそれを非難するだろうか?

  • 読みかえしてみて、うえの原文中、and does not on the whole object to liveのところだけ、これでなんで「どうにか生き抜くことをあきらめずに」になるのかじぶんでわからず、does notのあとに省略されてる動詞なんやねんとおもったのだが、じきに気づいたことに、これはdoes notのあとに動詞のくりかえしが省略されているわけではなく、does not object to liveなのだ。こんなところにon the wholeを入れるんじゃねえ。しかしそうだとしても、objectは基本object to 名詞で「~に反対する」でつかわれるはずで、objectに不定詞の用法が一般的にあるのか? というのもよくわからないのだが、このtoが前置詞ならliveはたぶんlifeになるのでは? とおもうので、これはやはりおそらく不定詞なんだろう。といって直訳しても、「総じて生きることに反対はしない」とよくわからないことになる。このobjectは「抵抗」というようなニュアンスがよいのではないか。英雄的冒険をおしすすめてついに力尽き、もう生をあきらめて死ぬことを受け入れたところが、生のほうに呼び戻されてしまったので、ならばあえてそれに抵抗はしない、というような感じな気がする。だから、「どうにか生き抜くことをあきらめずに」としたのはちょっとずれるような気もする。たぶんこれはじぶんではうまく訳せずに岩波文庫をそのまま参照したのではないかとおもうが。とおもっていま該当箇所をみてみたところ(66ページ)、「それならばやはり何とかして生き続けようと心に決めて」となっていたので、御輿哲也は一年越しでこちらが見出した理解にちかく訳している。「それならばやはり」の文言にうえの線の理解が感じ取れるわけだ。そしていままた気づいたけれど、「どうにか生き抜くことをあきらめずに」とこちらが訳したのは、on the wholeをliveのほうに、生のほうに寄せてかんがえたのだろう。生の全体をさいごまで生き抜く、というふうに。
  • 翌一二月六日はTo The Lighthouseを読む通話で、いまもそうだが通話時の内容はどこで個人情報とかそのひとが書かれたくないことにひっかかるかわからないので、だいたい検閲しており、一年前もそうなのだけれど、この日はうんこにまつわる以下の記述がそのなかにふくまれていて、爆笑してしまい、これはどうしても他人の目にふれさせてお伝えしたいとおもったので(……)くんにはわるいが公開する。クソおもしろかった。とくにさいごのくだりはやばい。こんなかたちで排便の事実を記録されることになったにんげん歴史上いないでしょ。(……)くんにかんしては、公開したらいつか名誉毀損で訴えられるかもという笑えるふるまいをけっこういろいろ書いている。

(……)ところで(……)さんが役所でのやりとりを終えた直後、なぜか彼の接続が切れてしまい、しかも再接続してもはいれないという訴えがLINE上につたえられたのだけれど、そのとき(……)くんはじつはトイレにいながらスマートフォンで通話していて、うんこをしているさいちゅうで、したがってすぐに入室許可をできない状況だった。排便中の事実が急に明かされたので笑ったのだが(とはいえ(……)くんは過去にも何度も通話中にうんこをしにいき、わざわざそのことを知らせてきたのだった)、さらにLINE上に、いまうんこしてるから許可できない、うんこが出ないと、(……)くんがはいってこれない、とかいう文言を投稿しはじめたのでまさしくクソ笑い、これ修論がんばってるさいちゅうの(……)さんが見たら、とさらに笑った。そのさいに(……)くんは、いまうんこをしているとか、いまケツを拭いてますとかわざわざいいつつ、そのあとでふと、あーまたこれ日記に書かれちゃいますね、うんこしてたって、ともらしたので、それはべつにかんがえてなかったと笑いながら受け、いまそう言われたことで書くことになっちゃった、書く契機が生まれちゃいましたよ、なにもいわなきゃふつうにながしてたのに、とかえすと、(……)くんも笑った。

  • あとは勤務からの帰路。「坂道を下りているあいだにとつぜん葉を打つ音がひびきだし、にわかに雨が降ってきたのかとおもったがそうではなくて、風にはがされた葉が茂みを落ちていくさいにほかの葉にあたって立てる音が雨音とまちがえられたようだった」。すばらしい。

帰路も寒さは変わらないか、夕方よりもむしろ空気がつめたくなっているはずだが、行きよりもかえってからだがあたたかく、身のうちがふるえることもない。多少とも喋ったりうごいたりしてあたたまったか、出るまえに食べたものの消化がすすんで熱を生んだか、そういったわけだろう。行きのホームでも雨がほんのかすかに散っていて、はたらいているあいだにもすこし降ったようだったが、このころにはやんでいて濡らされずにすんだ。坂道を下りているあいだにとつぜん葉を打つ音がひびきだし、にわかに雨が降ってきたのかとおもったがそうではなくて、風にはがされた葉が茂みを落ちていくさいにほかの葉にあたって立てる音が雨音とまちがえられたようだった。

  • いま二時半で、きょうのことを書き出したのは一時半か一時四〇分ごろだったとおもう。食事はキャベツと白菜と豆腐のいつものやつに、しじみの味噌汁、そしてランチパックのハムカツ。しじみの味噌汁はきのうではなくて一回前にスーパーに行ったときに買ったもので、おおきめの袋内に一二食分、味噌と具の小袋がそれぞれはいっているタイプのやつ。サラダと味噌汁まで食い、サラダの大皿に大根おろしをおろして口のなかに胃のなかに入れこんだあと、そこでもういちど食器を洗い、そのあいまにランチパックをあたためたのだけれど、パンをもって席にもどってつくと、あれいま薬をもう飲んだんだったかなというのがおもいだせなかった。けっこう食事中に飲んでしまうことがおおいのだ。それでわからなかったが、飲もうとおもっただけでまだ飲んでいなかったような気がしたので、一錠飲んでおいた。からだの感じからしてたぶん二錠分にはなっていないはず。
  • きょうは起床後まずまたBill Evans Trioを聞きながら手を振ったので、音楽のことも書いておきたいが、いまもうつかれてきたしあたまも過熱している感があるのでいったんここまでにしようかな。瞑想もしたが一〇分あまりでみじかく切ってしまった。からだがほぐれて安定してきており、そのせいで起きたときから活動に意欲的になっていて、はやっているようなところがあったので。ここまで一気にこれだけの文をすらすら書いているところからもそれがうかがわれるだろう。しかしあたまが過熱し加速しすぎるのもそれはそれでもちろんよくない。また二〇一八年のときのように擬似発狂状態にいたってしまっては元も子もない。あたまのはたらきがスムーズになってひとりごとが明晰になったり盛んになったりすると、とうぜんながらそれはまたひとつの負担になるわけで、じっさいあまりペラペラ脳内でしゃべりまくっているときとかは、これがあんまり加速しすぎるとまた狂うなという不安も底に感知される。文を書いていてもあんまりがーっと書くようにのめりこみすぎては、必然からだがリラックスからは遠くなり、緊張のほうにちかづくわけで、おりおり息を入れたほうがよい。背もたれのよりかかって後頭部をあてながら左右にころがすのがあたまをおちつかせるにはよい気がする。首や背のほうも刺激できるし。
  • あときょうの天気は雨は止んだが白曇りで、昼過ぎにレースのカーテンに薄陽が見えたときもあって、洗濯するべきか? とまよったが、その場ですぐ天気予報をみてみると、あしたが最高気温一五度できょうよりも高く、いちおう晴れもするようだったので、ならあしたでいいかとおさめた。


     *

  • 一年前の日記では(……)くんから紹介されてSam Wilkesの名を知っており(Sam Gendelはすでに知っていた)、”Sam Wilkes Radio Hour”というかれがやっていたプログラムもおしえられている。これは去年のぞいてみるとけっこうおもしろかったので、またみてみたい。もうひとつ、藤原さくらというシンガーソングライターもおしえられていて、Wikipediaを引きながら称賛しているに、「影響を受けたギタリストは、ジャンゴ・ラインハルトチェット・アトキンス、トミー・エマニュエル、沖仁ラリー・コリエルパコ・デ・ルシアらを挙げている」と。あらためてこのならびはすごいなとおもった。ジャンゴとかチェット・アトキンスとかもちゃんと聞いてみたい。じっさい連中はマジでクソうまいし。このひともとうじ一曲、YouTubeでちょっと聞いて、低めの声でブラックな香りのする洒落た音楽だったおぼえがあるので、また聞いてみたい。
  • 日記を書いたあとはたたみあげてあった布団をもどし、寝床に避難して、ウェブをちょっとのぞいたり、斎藤兆史 [よしふみ] 『英語達人列伝 あっぱれ、日本人の英語』(中公新書1533、二〇〇〇年)を読んだ。新書でかるい本なのですらすら読めるし、ページをメモしておいて正式に書きぬこうというほどの記述もいまのところないが、目にとまるところはあってそこそこおもしろい。第二章は岡倉天心で、こいつもクソエリートだから発足したばかりの東京大学(東京開成学校を改組)在学中に、ユゴーの『レ・ミゼラブル』なんか(英訳で)読んでいたという。また、かれはもともと政治学と経済学を主にまなんでおり、とうしょは卒業論文に『国家論』を書いたというが、悶着があってそれを急遽『美術論』に変えた。以下がそのエピソード。

 これには、彼の家庭内のちょっとした事件が関わっている。東京大学在学中の一八七九(明治一二)年、一七歳の天心は一三歳の若妻基子 [もとこ] を娶っていた。そして運命的な夫婦喧嘩が起こった。岡倉一雄の『父天心』によれば、天心自身が「ママさんの焼餅が祟つた」と述懐したというから、天心の女性関係が何らかの誤解を引き起こしたのだろう。妊娠中でヒステリー気味であった基子(end34)は、あろうことか、提出直前の『国家論』を焼き捨ててしまったのだ。
 (斎藤兆史 [よしふみ] 『英語達人列伝 あっぱれ、日本人の英語』(中公新書1533、二〇〇〇年)、34~35)

  • ということだが、経緯そのものというより、一三歳の女性が結婚して妊娠しているという事実のほうにおどろかされる。一七歳の坊っちゃんと若干一三歳の少女が結婚してセックスして子を産まねばならないとは、おそろしい時代だ。むかし、たしか『十四歳の母』とかいうテレビドラマがあったとおもうが(うら若き志田未来がその十四歳で子を産む少女の役を演じ、Mr. Childrenの「ダーリン、ダーーーリーーン」というあの”しるし”が主題歌となっていなかったか?)、それを地で行っている時代だ。ガンディーも自伝で、インドの早婚伝統はわれわれの民族にとっておおきな不幸のひとつだとわたしは信ずるものであるみたいなことを書いていたおぼえがある。ついでながら引いておくが、物言いはちょっとちがっていた。

 わたしが十三歳という年で結婚したことを、ここに書いておかねばならぬことは、辛いことである。今日、わたしが面倒をみている同じ年ごろの若者たちを眺め、そして私自身の結婚のことに思い及ぶと、自分を哀れに思い、わたしと同じ目にあわないですんだ彼らを喜ばずにはいられない。このように非常識な早婚をよしとする道徳的論拠は、どこにも見つけられない。
 ヒンドゥ教徒にとって、結婚は、けっして簡単なことではなかった。花嫁や花婿の両親は、そのために落ちぶれてしまうことがしばしば起きた。彼らは資産を傾け、そして時間を浪費した。衣装や装飾品を整えたり、結婚披露宴の費用の捻出などの結婚準備のために、何ヵ月もかけた。各自が、ごちそうの皿数やその取り合わせで、他家をしのぐものを準備しようとした。そして、結婚式となると、いい声であろうがなかろうが、女たちは声がかれるまで、また病気になるまで歌い、隣近所の平穏を乱すのである。隣近所のほうでも、乱痴気騒ぎや祝宴の残り物の汚物を黙って大目にみている。というのは、やがて彼らもまた、同じようなことをするときが来ることを知っているからである。
 (マハトマ・ガンジー/蠟山芳郎訳『ガンジー自伝』(中公文庫、一九八三年/改版二〇〇四年)、35; 第一部; 「3 結婚」)

  • 第三章は斎藤秀三郎。生涯海外に出ることがなかったくせに、「『ロミオとジュリエット』を演じる英国人の役者に向かって、「てめえたちの英語はなっちゃいねえ」と英語で一喝した」(56)というから威勢がよすぎて笑う。ちなみに、「妹のお冬は、北村透谷の恋人として日本文壇史にも登場する。ついでに言っておくと、小沢征爾の師匠である指揮者・チェロ奏者・斎藤秀雄は、彼の息子である」(56)とのこと。父親は仙台藩の運上方をつとめており、「理数系の学問にすぐれ、自ら彼にアルファベットの手ほどきを与えたという」(56)し、「地元のキリスト教会の長老的な存在でもあった」(57)というからずいぶん開明的だ。幕末か明治にキリスト教信仰が解禁されたのはいつなんだっけ? そして息子秀三郎は、数え年わずか六歳で仙台藩の英学校・辛味館にはいって英語をならいはじめ、一八七四年だから八歳のときに新設の宮城外国語学校(宮城英語学校)にはいったというから、こいつも幼少期からの英学エリートである。
  • 「斎藤の場合、その才能もさることながら、勉強量が尋常ではなかった。工部大学校在学中、彼は図書館にあった英書を読みつくし、『大英百科字典』(全三五巻の第一〇版ブリタニカ百科事典のことだと思われる)を二度読んだという。彼は一八八三(明治一六)年に同校を退学しているから、たったの三年で図書館を読破したことになる」(60)というわけで、新渡戸稲造もそうなのだけれど、こういうやつらの図書館ぜんぶ読み尽くすぞ野心はいったいなんなのか? ところで、著者である斎藤兆史は、「僕はそもそも本持ちではないので、蔵書の三分の一くらいは読んでいるが(立派な学者ならぬ、そこそこの愛書家といったところか)、最初から最後までちゃんと読んだ英書だけを集めたら、せいぜい四〇〇~五〇〇冊、家庭用の本箱で三つ分ぐらいにしかならないだろう。それも過去二五年くらいかかって読んだ本だ。斎藤秀三郎は、おそらくその数倍の英書を三年間で読んだのである」(61)と述べているが、これはこれで参考になるデータだ。母国語ではない本とはいえ、四〇〇~五〇〇というのは意外とすくないな、と、プロの学者でもそんなもんなのかと、一抹希望がみえてくる(なんの希望なのかよくわからないが)。しかし日本語ではないからなあ。こちらがそのレベルに行くまではまだまだ遠い。
  • 音楽の件だけれど、起きてすぐ、手をぷらぷらやりながら聞いたのはまたBill Evans Trioの『Portrait In Jazz』である。#6の”Peri’s Scope”からさいごまで。#7の”What Is This Thing Called Love?”でのEvansのプレイはこのアルバムのなかでもいちばん(かれにしては)がつがつしているように聞こえて例外的だし、この時期のEvansじたいあまりこういうことはやらない気がする(六八年くらいのライブ盤とか、晩年のライブ盤とかだと弾きまくっているイメージだが)。この曲でのソロはじつによくころがって駆け回るたぐいの速弾きがふんだんに盛り込まれつつ(さいごのほうに二回くりかえされる大技的な上下など、かなりめずらしい印象で、聞くときの気分によってはくどく感じられるくらいだ)、いっぽうですこしようすをうかがうような間があったり、またフレーズの開始地点がよくあるところよりちょっと遅かったりと、めずらしいペースづくりをしているように感じられ、そのせいか、ピアノソロ中に原曲構成のなかのいまはどの部分なんだっけというのが見失われるような感覚もないではない。くるくると回転的なフレーズは”Peri’s Scope”でももっとみじかいながらつかわれているし、いろんなところでやっているとおもうが、Evansはちまたのイメージにはそぐわず躍動的で、場面によってはよく跳ねる。跳ねるといってその跳ね方はファンキー系の、たとえばWynton Kellyみたいなやつとはもちろんちがうわけだけれど、ともかく見事にくるっとかつっと跳ねはする。そしてなにしろ一音の立ちがつねに明晰だから、その演舞は締まったきらめきを帯びるようできもちがよい。ブロックコードを強打するときもいきおいがあり、それは”Blue In Green”の両テイクの後半なんかを聞けばわかる。この曲はまあバラードの範疇といってよいとおもうが、『Portrait In Jazz』の演奏はふたつとも、後半でたんなる精妙なバラードにとどまらない活動を(LaFaroもあわせて)しめしており、それもやはりつうじょうよくいわれるようなノリの感覚ではないが、乗れる。beautifulならぬbeatifulという造語をつくってはどうか。あと、”Blue In Green”もそうだし、”Spring Is Here”もそうだし、”When I Fall In Love”にもあったとおもうが、コードを打ったあとの靄がかったような、美妙で混淆的な残響のあの感じときたらすばらしいことこのうえなく、これはEvansのコードワークの賜物でもあるのだろうけれど、Monkなんかにも(”Ruby, My Dear”とか)そういうときはあって、ピアノという楽器はこれがずるいよなとおもう。感動する。#9の”Someday My Prince Will Come”は三拍子だけれど、ピアノソロのはじまってすぐのあたりは三拍子的な感覚ではないよなと、つらなりのなかで一音を強打してアクセントをひびかせるそのタイミングがワルツのリズムとはずれた一帯がしばらくあって、こういうのしぜんにやるのはどういう感覚なんだろうとおもう。ただしこの曲のソロはわずかに煮え切らないような印象がのこらないでもない。とくに、ソロ後半にうつるまえに複音をなんどか鳴らす場面があるのだけれど、そのへんはなんだか呼吸がはまりきっていないような。”Blue In Green”はステレオでは右にかなり寄っていたLaFaroがモノラル版だとまんなかにかさなって、するとベースの音質が、エレキギターでフロントピックアップにしてトーンもちょっとしぼったみたいな、かなりふくよかにこもった音になっているのだけれど、その響きが洞穴の底に重く溜まった霧のようでなかなかよく、ロングトーンをはじいているだけでもよいのだけれど、うごきはじめてからも、ただバッキングしてるだけなのに(けっこううごきはするが)なんかすごくよいなというところにLaFaroのちからがあらわれているようにおもった。
  • ここまで書くと五時一〇分で、きょうは出かけず籠もって日記をできるだけかたづけようかなとおもっている。二八日は(……)さんのことだけ書いて終いとし、そうすればあと記憶があらたなのはきのうのことだけなので、きのうを書ければもうOKだろう。きょうのこの書きぶりからすると、ようやくまたコンスタントに現在時に追いつけるという見込みが出てきた、のかもしれない。


     *

  • うえまで書いたあと、また音楽を聞きながら手を振った。こんどはヘッドフォンで。イヤフォンよりあたまが重くなるからやりにくいかなとおもったがべつにそういうこともない。ながしたのはBill Evans Trioの『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』の一枚目で、Bill Evansはあきらかにキャリアすべてを追うべき演者なので、日々音楽を聞くにあたっては、Evansをいちまい、べつのをいちまいで並行して行こうかなとおもうものの、どうせそういう方針を立てても長続きはしない。”Introduction”から”All of You (take 1)”まで。そんなに集中して聞いたわけではない。手も振ってるし、そっちに意識が行ったり、ぼんやりべつのことをかんがえたりする時間もある。そのなかでおりおり耳に寄ってくるものがある。”Alice In Wonderland (take 1)”のピアノソロの終わりちかくではEvansが右側でコードプレイをしているけれど、これがすばらしく、意志をもってうごく星屑もしくは彗星群のようなながれかた。そして”All of You (take 1)”。すばらしい。あまりにも。ここにあるすべての音がすばらしい。メロディとかコードとか音楽というより、音として聞こえる。もしくは、眼裏の目のまえでうごきまわる物質のようすをみているように。音楽は純粋に形態的になることの可能な芸術である。音楽にはかたちがあり、関係があり、あいだの空隙があり、かさなりあいがあり、組み合わせがあり、手触りがあり色があり肌理とニュアンスとながれがある。音楽にはすべてがあるが、ただ意味だけは、ゆいいつ意味だけは根源的にそなえもっていない。だから意味だけはわれわれが付与してやらなければならない。音楽は意味を持たずに理由もなく生まれてくる。その点でわれわれの存在と同様なのかもしれないが、われわれがおおむねそれなりの年月を生きるのにたいして、音楽は生まれてはつぎの瞬間に消え、また生まれてくる。瞬間として生まれ、瞬間として消える。それを無限にくりかえしながら持続するが、存続はしない。複製技術がこの世に存在しなかったならば。音楽は本来的に非 - 複製的な芸術であり、無情で無常な生成の申し子である。音楽はあえていえば自然にもっともちかい芸術である。かたちと肌理とながれの準 - 無限である。
  • あとそういえば、「湖を孤独の比喩にしたくない雨待ち顔の風来坊よ」というのをつくったんだった。寝転がっているときに。


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  • いま一一時二二分。湯を浴びたあと。gmailをのぞき、いらないメールを削除するついでに過去のものもさかのぼって、受信トイレのさいごまで行ったのだけれど(いぜんにもなんどかさかのぼって不要メールを削除しており、今回そうかからず整理し終えることができた)、もっとも古いメールとしてのこったのは(……)さんからのもので、日付は二〇一三年三月二五日、きのう付けのブログを拝見しましたという用件で、これはもうぜんぜん正確におぼえていないが、その前日のブログにじぶんとはなすことに興味があるひとはメールをくれみたいなことを書いたもので、それに(……)さんがひっかかっておくってきてくれたのだ。ここが関係のはじまり。そしてとうじそのブログをみつけてまもなかった(……)さんとも、(……)さんをとおしてこの一年後に新宿ではじめてあいまみえることになる。だからもともと(……)さんと面識があった(……)さんがこちらとかれの仲立ちをしてくれたようなものなので、感謝である。こちらが正式に読み書きをはじめたのはこの二〇一三年の一月からで、(……)さんのブログもそのころ発見して真似をしだしたのだが、いっぽうで(……)さんのブログもいつからか見つけてのぞいていて、おたがいに読んでるなという気配があると同時にまた、このひと(……)さんのブログ(とうじは「きのう生まれたわけじゃない」)読んでるな、われわれはどうもおなじブログを読んでるようだぞという気配をやはりおたがいに察知していて、なんとなく双方意識していたところに、こちらがそういうふうに書いたのでメールをくれたという感じだろう。ちなみにメールに書いてあったが、とうじの(……)さんのブログ名は「パッサパサになる」。ちょっと笑う。たしかにそうだった。しかしさすがに(……)さんが、じぶんが熱心に読みまくっているブログの書き手と知り合いだというのを聞いたときにはびっくりしたはず。どうおもったのだろう? ぜんぜんおぼえていないが。
  • うえのBill Evans Trioのところを書くと六時くらいで、屈伸したんだったかなにかの拍子にしゃがんださいに(豆腐の空パックをかたづけたのだったかもしれない)、洗濯機の台の足場部分(四隅の角)とか、そのしたとかがやたら汚れているのが目について、キッチンペーパーと抗菌化スプレーでちょっと掃除し、そうするとついでにほんのすこしだけでも埃を掃くかという気になって、扉前の靴場(こういうアパートの部屋の靴を履き替えるあそこってなんて言えばいいの?)の角に立てかけてある塵取りと箒のセットをひさしぶりに手に取り、そのへんを掃いた。箒をうごかせば埃がとたんに毛にまとわりつきながら結晶化して、塵取りのなかにはほそながい、土から生まれでたばかりのミミズみたいな灰色の紐状物質がたくさんあつまる。ゴミ箱に捨てる。それから寝床に逃げて(……)さんのブログを最新まで読んだ。七時で食事。メニューはほぼ変わらない。主食として米を、きのうスーパーで買った焼き鳥パックをおかずに食った。セブンイレブンの冷凍食品にも炭火焼鳥があって(たぶんコンビニ各社同類品を出しているとおもうが)、あれはうまくて実家にいたころけっこう食い、コンビニの食品というのもずいぶんうまいもんだからこれでどうにかなっちゃうよなあとおもったものだが、その亜種みたいなやつで、きのうの帰りにひとけのとぼしいスーパーをゆっくりうろついて見分しているときに、こんなもんあるのかというのを発見したのだった。しかしいざ食ってみるとイレブンのものよりはるかに劣る。タレの味が薄い。
  • パウル・ツェランの書抜き。BGMはTodd Rundgren『Nearly Human』。Sam Wilkes Radio Hourにアクセスして過去のエピソードをみると紹介されていたので。三箇所うつす。
  • 湯浴みは髭も剃った。ようやく顔がすっきりした。あときょうは、なぜかいままでいちどもそうしてこなかったのだが、浴槽内の元栓をはめて、シャワーの湯が順次溜まっていくようにした。ゆっくりからだをさすったり洗ったりあたまをこすったりしていてもそこまで水位があがりはしないが、それでもあぐら状態で股間がつかるくらいまでには行って、そうすると風呂としてはとても不十分だけれどまだましである。背骨がやばくなったりしたのは、まいにち風呂にはいって芯からあたたまる習慣がなくなったというのもでかいのではないかという気がする。じぶんは長風呂なほうだったし。なにしろ湯のなかで瞑想してたし。風呂はいりてー。風呂にはいりたいが銭湯には行きたくない。ひとりで思う存分はいりたい。なにせほんとうの意味でひとりになれるのは、夜道をゆっくりあるいているときか、音楽を聞いているときか、風呂にはいっているときだけだ。週にいちど、風呂にはいるためだけに実家にかえろうかな。
  • あと束子で手のひらや甲、ならびに足の裏や側面も、こするまではいかず、そろそろと皮膚のうえを通過させるくらいの弱さで刺激しておいた。手をさすってやわらかくしていても、束子をあてれば敏感な圧感反応が点状にある。実家では手足のみならず全身こすっていたが、これをまいにちやっていると反応が弱くなってきて、そうするといわゆる自律神経がよりととのったということなのだ。手と足だけでもまたやってもよいかもしれない。


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  • いま午前一時二八分。うえを書いたあと、一一月二八日分を書き、投稿。とちゅうでやはり背がこごってつかれたので寝床に逃げもしたが。胎児のポーズで左右にゆっくりゆれるとよい。そうするとわかるのだけれど、やはり背面の右側と左側で非対称性があって、右にふれてからもどるときには合わせた膝をかかえこむようにしている両手の組みのうち左手がからだを左方にもどすちからをあたえるから、左腕でうしろに引くようなうごきがちょっと生まれ、そうすると左の肩甲骨付近にもちからがはいってそこの肉がほぐれることになる。これが右の肩甲骨だとほぼなにも抵抗をかんじないのだけれど、左側は筋肉が固着しているような拘束があるような、そういうノイズもしくは肉のひっかかりが感じ取れて、やっているうちにそれがじょじょにかるくなっていくのだ。もしかしたらこのあたりの背骨が側弯しているのかもしれない、ともおもう。どうも背骨、もしくはからだの中心線であるはずのものが、右にすこしだけずれてとおっているような感じがあるんだよな。かんぜんに主観的な感覚から来ているイメージで、いまのところ事実的な根拠はないが。ただこちらのからだ、とりわけ背面が左右でバランスがずれているのはたしかで、このあいだも書いたとおり、左手首の曲げにくさもそれにつながっているのだとおもう。手首が原因のほうなのか結果のほうなのかは不明だが。
  • 日記は一一月三〇日まで投稿した。投稿作業もめんどうくさいので、とりあえずそこまで。二九日三〇日を投稿するまえにはさすがにこの時間だからちょっともうねむくなっており、きのうのことを書くのはあしただなと判断され、かといってじゃあなにをするか、もう寝床にうつってまた本を読んで寝るか、とまよいつつもとりあえず立ち上がって、ながしのまえあたりでしばらく手をぷらぷら振った。手首を振るまえに手のひらから甲、そしてできれば腕まで、よくさすってあらかじめやわらかくあたためておくのが大事だということを本日洞察した。あまりさすらないままで振っても効果はあるが、ていねいにさすってほぐしておくと格段にちがう。それで目を閉じてプラプラやっているうちに肩から首のあたりに血がめぐって、おどろくほどかるくなっているのが、振るのをやめたあとに首をまわしたり肩をまわしたりするとよくわかるのだが(抵抗がかなり消えて、中身が空洞化したような感触になる)、それでちょっとやる気が出たので二日分投稿をして、くわえていまここを書いている。零時くらいから腹は減っていて、夜食があたまによぎらないでもなかったが、しかし腹が減っていても食いたいというきもちはない。からだがわきまえを知っている感じ。
  • 手首を振ったあと、席にもどるまえに、洗濯機のうえに置かれてあった水切りケースからもろもろ出して冷蔵庫のうえとかに置いておき、ケースの水も捨てて、またプラスチックゴミも鋏で切って始末しておいた。やる気がある。もう日付も変わったし、あしたぶんのNotionの記事もはやくも作成しておこうとおもう。


     *

  • もう日付も変わったしということで、この日の夜ちゅうに、去年の一二月七日の日記も読みかえしてしまった。『ボヴァリー夫人』についての分析。わりとどうでもよい箇所といえばそうだが、なんかちょっとおもしろかった。こういう語り手の位置づけとか語りのやりかたとかに注目するようになったのは、たぶん(……)さんがブログでそういう分析や感想を書いていたそれを読んだ影響なのだろう。『ボヴァリー夫人』は冒頭の「僕ら」にしても、ここで触れられていることにしても、またその他、蓮實重彦もとりあげていた帽子とかケーキの描写のとつぜんの詳細さにしても、語りの透明さや統一性がかんぜんには成立しきっておらず、いびつな部分をいくらかかかえた段階の小説なのだとおもうが、そこにかえってその後のリアリズム的作家たちとはちがったありかたの線がみられるということなのだろう。またいっぽうで、もちろん原文を読めないしこれはよく知らんけど、自由間接話法の走りとかいうはなしもあったり、あと話者が役人の演説を一字一句引用するかたわらロドルフがエンマを口説くさまをはさみ、交代交代で事態の進行を描くみたいな場面もあって、語りの技法としてはたぶんいろいろなものがふくまれていて、いまにつながるような技術がこの小説あたりからつかわれはじめているのだとおもう。

(……)その後、フローベール/山田𣝣訳『ボヴァリー夫人』を読んだ。きのうあたりからまた生の姿勢がゆるくなっており、とにかく楽にやればいいやとちからの抜けたかるいかんじになっているのでよい。書見もそれでなにかを発見しようとか気負わずにただゆるりと読んだ。冒頭の「僕ら」の件は書くのがめんどうくさいのでまたいずれ。ただ、話者の一人称複数は物語がはじまってからとおからず消えるわけだけれど、いま読んだなかで58に「われわれ」といういいかたがあった。「ふつうならこうした呼びかけは作家の筆をとおしてはじめてわれわれの胸に迫ってくるものなのだから」というぶぶん。とはいえこの箇所の「われわれ」は総体的な「ひと」とか「人間」とおなじ位置づけのはずなので、おなじ一人称複数でも最序盤の「僕ら」とはちがい、変質しているだろう。逆にいえば、この時点ではもはや話者は「僕ら」と語っていたころのそれとはちがう存在になっているとみなせるのかもしれない。「われわれ」の一語がその証拠になると。とはいえ、「僕ら」と語る話者がいっぽうで「われわれ」という人間の総称をつかっても不自然ではない。それによくかんがえれば、「僕ら」が指す範囲は中学校の同級生やクラスメイトという領域に限定されているけれど、「われわれ」はもっとひろく人間一般をさししめす語なのだから、それら種類のちがう一人称複数が共存することはふつうに可能だ。ところで語りのもちいる人称代名詞については61でもうひとつ、「おまえ」という二人称があらわれるのが注目される。「そしてまた忘れもしない、舞妓らの腕にもたれて四阿のかげに陶然と長煙管をくゆらすサルタンたちよ、異教徒たちよ、反り身のトルコ刀よ、トルコ帽よ、おまえらもそこにいた。なかでも忘れがたいのはおまえたち、世の人の焦がれてやまぬ国々を描く鈍色の風景画よ。おまえらはしばしば、檳榔樹を、樅の木を、右には虎の群れ、左には一頭の獅子を、地平はるかに韃靼の尖塔、前景にローマの廃墟を、はてはうずくまる駱駝の群れを、ことごとく一望のもとに見せてくれた」という一節がそれである。ここは尼僧院の寄宿舎ですごすエンマが修道女たちに見つからないよう寝室でひそかに「胸をおどらせながら」読む絵入本のなかにどんな挿絵がはいっているかという列挙の一段である。このぶぶんの直前まではふつうに三人称で、~~な絵があった、とか、~~は~~していた、といういいかたになっているのだけれど、ここでなぜか急にこのように芝居がかった二人称が導入されている。ところでうえの引用のなかの「異教徒」という語には訳註がついていて、「ペルシャ語源の原語 djiaours はふつう giaours と綴り、正確には「トルコ人から見ての異教徒、とくにキリスト教徒」の意。しかしエンマの頭の中では逆に「キリスト教徒から見た異教徒」、ここではとくに「回教徒」の意味で考えられているのであろう」(575)という説明があるけれど、ここの記述はエンマの回想をなぞっているわけではなく、語りとその対象であるエンマは截然とわかたれていると読めるし、この「おまえ」の瞬間だけエンマの声を召喚してきたとも見えないので(すくなくともエンマがこんな大仰ないいかたをするとはおもえないから、直接話法ではありえない)、ここで画中の事物や「風景画」そのものにたいして「おまえ」と呼びかけているのは、あきらかに話者当人である。したがって、訳註にある「エンマの頭の中では」という理解はおそらく誤りで、djiaoursを「キリスト教徒から見た異教徒」の意でかんがえているのは、エンマではなく話者自身(もしくはばあいによっては作者フローベール)だろう。「忘れもしない」「忘れがたい」といういいかたもそのことを傍証しているようにおもわれる。というのも、このオリエンタルな風景をエンマが「忘れがたい」とおもっているとして、そのかつて熱中した本の挿絵を「忘れがたい」とおもいだしているエンマがどの時点のエンマなのか、直接的にむすびつけられる記述が見当たらないからだ。いいかえれば、シャルルと結婚した直後のエンマのようすを語る物語の前線地点(現在時)において、エンマが寄宿学校時代のことや、そこで見た絵入本のことを回想しているという具体的な言及が存在しないということである(いちおう過去への参照はあるのだが、具体的な「回想」や「想起」として描写されているわけではない)。だから、エンマの来し方を語るこの第一部第六章の記述は、彼女の記憶をえがいているのではなく、エンマがシャルルとの結婚生活におぼえた不満や物足りなさを説明するのに必要な情報として、話者が自主的にかたってみせた遡行場面だということになる(当時のエンマの性質やその趣味をいくらか皮肉げに批評するようなことばが混ざっていることも、その証となるだろう)。したがってトルコの情景を「忘れがたい」「忘れもしない」と強調的に評価しているのは話者当人であるはずなのだが、そうかんがえると、奇妙な印象をあたえられることになる。なぜ話者が、とりわけてこの東洋風の情景のみをえらんで「忘れがたい」といい、あまつさえ演出的に「おまえたち」と呼びかけてさえいるのか、その理由がわからないからである。推測できる可能性はせいぜい三つである。(1)ここの記述はじっさいエンマの内面への言及を意図したものだったのだがそれがうまく実現されていない、もしくはこちらに見落としがあってエンマへの直接的なむすびつきが周辺のどこかに記されている。(2)作者フローベールのたんなる好み。(3)この小説が書かれた当時、こういうある種の東洋趣味がフランス社会一般に一定程度行き渡っていて、トルコへの芝居がかった言及はその世間的価値観を参照している。

     *

この日読んだなかでは、エンマとシャルルの結婚式に来る客たちがどういうかっこうをしているかというのをこまかく描写した段落と、そのあと一同そろって教会から役場まで野のなかを行列になってあるいていくという場面の記述に惹かれるものをおぼえた。やはりそこにあるものを細部まで詳しくえがくという種類の文になにか魅力をかんじてしまうらしい。あと55の、「さて学校を出てからの一年と二ヵ月というものは、ベッドにはいっても足が氷のように冷たい後家といっしょに暮らした。ところがどうだ、今こそは最愛のあの美女を永久にわがものにしてしまったのだ。シャルルにとっては、宇宙とは妻のペチコートの絹の手ざわりの内側を超えるものではなかった」という一節。「ベッドにはいっても足が氷のように冷たい後家」というのも、いいかたじたいは凡庸としても、からだの一部の特徴から敷衍されて前妻の性質をよくあらわしているようにかんじられてちょっとよくおもわれたのだが、そのあとの「宇宙とは妻のペチコートの絹の手ざわりの内側を超えるものではなかった」という文はなかなかすごいのではないかとおもった。

  • あとニュース。

(……)アイロンかけをしながらテレビのニュースに目をむけていると、ニューヨーク市が市内企業の全従業員にワクチン接種を義務化するという報があった。かなりおもいきった措置という印象。とうぜん反対もおおくあるわけだろうけれど、ただ、ふだんから伝統としてあれほどみんなが自由自由と口にしているアメリカという国(とばあいによっては欧州も)が、こういう緊急事態にはすみやかに、あまり躊躇なく個人の自由を制限しにかかるという、その転換のはやさは印象的ではある。それもまた伝統や制度のうちにくみこまれているのだろうか。そのあとは、カセットテープやラジカセがさいきんまた人気になってきているという話題が紹介された。Billie Eilishとか、カセットテープで新曲を売り出したりもしているらしく、若い世代でもわざわざカセットやラジカセを買うひとがいるらしい。いま音楽はだいたい配信サービスできかれ、データとしてすら手もとにのこらないようになっているから、そういうなかでメディアの物質的な側面とか、聞くまでに手間がかかる点とか、収録曲を書き記したりしてじぶんでテープをつくるというような身体性とかに惹かれるむきがあるようだ。


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  • 「ことば」: 31, 9, 24, 6 -10
  • 「読みかえし2」: 551 - 554, 555 - 562
  • 日記読み: 2021/12/5, Sun. / 2021/12/6, Mon. / 2021/12/7, Tue.