2022/12/7, Wed.

 昨晩はお便りしませんでした。『ミハエル・コールハース』のため遅くなったのです(あなたはこれを知っていますか? 知らなければ、読まないでください! ぼくが [﹅3] 読んであげます!)。もう一昨日読んでいた小部分は除いて、一気に読んだのです。おそらくもう十度目でしょう。これはぼくが真に神への畏敬の念をもって読む物語で、驚嘆が次々にぼくを捉えます。もしやや弱い、部分的には粗野に書き下された結末がなかったら、完璧といえるでしょう。つまり、ぼくが実在はしないと好んで主張するあの完璧な作品です(ぼくの言うのは、どんなに最高の文学作品でも人間的なものの尻尾をもち、もし人がそう望み、それに対する眼をもっておれば、それは蠢動しはじめ、全体の崇高さと神的相似性を邪魔するということです)。
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、264; 一九一三年二月九日から一〇日)



  • 「読みかえし2」より。これはなんかすごい。

565

 求めであっては、もはや求めであってはならない、年長 [た] けて飛び立つ声よ、お前の叫びの自然は。それでもお前は鳥のように純粋に叫ぶのだろう。季節が、上昇する季節が鳥を揚げ、それがひよわな鳥であることも、ただひとつの心ばかりを晴朗な大気へ、穏和な天へ投げ上げたのではないことも、ほとんど忘れているその時に。鳥に変わらず、鳥に劣らず、お前はやはり求めることになるのか。そしてどこかで、姿はまだ見えず、未来の恋人(end203)が、寡黙な女人がお前を聞き取り、その胸の内にひとつの答えがおもむろに目覚め、耳を傾けながら答えは温もり、やがてお前の思いきり高まった感情を、女人の熱した感情が迎える、と期待して。

 そして春もまた聞き取るだろう。告げる声を受けてまた先へ伝えぬ所はひとつとしてないのだ。まず初めに小声の物問いの叫びは、つれて深まるあたりの静まりの中で、すべてを肯定する清新な朝がこれをはるばると沈黙につつんで運ぶ。さらに階梯を、叫びの階梯を踏んで昇り、夢に見た未来の神殿にまで至ろうとして、そこで顫声 [トリル] に変わり、たえず先を約束する動きの中で上昇の極まる前にすでに落ちかかる噴水の、その声にひとしく顫える。すると目の前に、夏がある。

 昼へ移りつつ一日の始まりに輝く夏の朝という朝。さらには、花のまわりにはやさしく、壮健な樹冠のまわりでは強く烈しく照る白昼。さらには、これら繰りひろげられた力の敬虔な黙想、夕の道に夕の野、遅い夕立の後で安堵の息を吐いて澄み渡る大気。近づく眠りと、今宵はとふくらむ予感。そればかりか、夜々もある。高く晴れあがった夏の夜々。そして星、地から挙げられた星々。ああ、いつか死者となり、すべての星々の心を(end204)限りなく知りたいものだ。どうして、どうして星たちのことを忘れられるだろうか。

 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、203~205; 「22 ドゥイノ・エレギー訳文 7」)


     *


567

 いずれ何処にも、友よ、世界は存在しなくなるだろう、内側においてのほかは。われわれの生は変転しながら過ぎて行く。つれて外側はいよいよ細くなり消えて行く。かつては一軒の持続する家屋のあったところに、今では人に考え出された造形ばかりが露呈して、間違いのように、考案の領域にもろに属して、あたかもなお頭脳の内に留まっているかに見える。時代の精神はおのれがあらゆるものから獲得した切迫の衝動と、おのれもひとしく形姿を欠いて、動力を溜めこむための広大な倉庫は造営するが、神殿をもはや知らない。神殿という、この心の贅をわれわれはいよいよ内密なものへ切り詰めつつある。そればかりか、ひとつの記念碑が、かつて人の祈った、人の仕えた、人の跪いた建造物が生き残ったとしても、それもすでに、その現にあるがままに、目には見えぬものの中へ傾きつつある。多くの人間たちにはそれがもう見えない。また、見えぬ甲斐もない。見えぬかわりに、これをいまや内側に建て、石柱や石像ともども、さらに高く立たせるということも(end206)ないのだ。

 世界のなしくずしの反転はかならずこのような、資産を奪われた者たちを吐き出す。彼らにとっては、昔日はおろか、間近にあるものも所有とはならない。間近のものすら人間たちにとって遠くなるのだ。われわれはしかし、それに昏迷させられてはならない。われわれのまだ知る形姿というものを、さらにしっかりと内に保持しよう。これこそかつて人間たちのあいだに立ったものだ。運命の、滅ぼしにかかるその只中に立った。行方も知れぬ危機の中に変わらず立ち、揺ぎもない天から星々を捥ぎ取った。天使よ、これをわたしはあなたに示そう。さあ、これだ。あなたの見つめる眼の内にこれがついに救い取られて、いまやすっくと立つように。エジプトの石柱が、塔門 [パイロン] が、スフィンクスが、そして滅び行く都市から、あるいはすでに人に知られぬその廃墟から、天を衝く円蓋 [ドーム] の、一心の迫りあがりも。

 これは奇蹟ではなかったか。驚歎せよ、天使よ。おお、丈高き者よ、われわれにこれほどの事が出来たことを、語りひろめよ。わたしの息ではこれを賞賛するに足りない。それでもわれわれの証しであり、われわれのものである空間を、なおざりに失わせては来なか(end207)った。幾千年の歳月もの間われわれの感情によってこれを満たしきれずにいるとは、何と巨大な空間であることか。しかし一個の塔も大きかった。そうではないか、おお、天使よ、あなたに並べて見ても、丈高くはなかったか。シャルトルの聖堂も大きかった。まして音楽はさらに遠くまで及んで、われわれを超越した。しかしまた一個の愛する女性ですら、ひとり窓辺に寄って、あなたの膝の高さにも届かなかっただろうか。
 わたしが求めているとは、思ってくれるな。
 天使よ、かりにわたしが求めていてもだ。あなたは来はしない。というのも、わたしの呼びかけはつねに、「退 [さが] れ」の狂おしさに満ちている。そのような烈しい流れに逆らってあなたは近づけるものではない。いっぱいに差し伸べた腕に、わたしの叫びは似ている。しかも、摑みかからんばかりにひろげた手は、あなたの前に迫っても、ひらいたままなのだ。防禦と警告の手のように、いよいよ捉えがたく、さらに高く突きあげられ。

 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、206~208; 「22 ドゥイノ・エレギー訳文 7」)

  • もう五時を越えて二〇分にもなってしまった。きょうの覚醒は九時過ぎで、一〇時半ごろ離床したとおもう。しかしいちにちのあたまから書かなければならないなどという法はない。食事を取って二時ごろまで音読したあと、寝床にうつって斎藤兆史 [よしふみ] 『英語達人列伝』を読んでいて、よいところで日記にうつろうとおもっていたのだが、けっきょくさいごまで読んでしまった。なかなかおもしろい。かるい本だが。かるい本と言っても、一〇人もの人物の小伝をものするわけだから、資料探索などには相当な手間がかかったとおもうが、読み口はかるくてすらすら読める。きょうは第Ⅴ章の幣原喜重郎からはじめて、野口英世斎藤博、岩崎民平、西脇順三郎白洲次郎とさいごまで。ぶっちゃけたはなし各人の英語学習法なんかは、まあみんなそんなに具体的に語りはしないだろうから資料もとぼしいのだろうが、そんなに載っておらず、その点ではあまり参考にはならない。幣原喜重郎がロンドン滞在中に先生をさがしてきて英語を学びなおすときに、かれは読み書きはなにも問題ないといわれるいっぽうで発音がよくなかったらしく(それは「明治中期の変則英語のせいではなかったかと思われる」(113)とのこと)、いままでならってきた英語をわすれろ、unlearnしろといわれ、「書物の三、四ページを全部暗唱せよ」(111)という課題を順次あたえられて訓練したというはなしがあったので、やっぱり暗唱かなあ、とにかくくりかえし読むことかなあという気になったくらいのものだ。いまいちおうTo The Lighthouseの第三部のいちばん好きなところ(リリー・ブリスコウがラムジー夫人のことをおもいかえしている場面)を四段落、基本的に毎日一回は読んでいるのだけれど、できたらもうすこしくりかえし読むようにしようかなとおもう。あと、書き出しの一段落も好きなのでそこもくわえようかなと。まあしょうじきこんなむずかしい文学の英語をはじめから素読対象としてやってしまっていいのかというか、読むのはともかくとして話したり書いたりはそもそも基礎レベルを堅実に身につけてはいないのにどうも、というおもいもあるけれど、好きなものを素材にするのがいちばんだとおもうので。それに現状、英語をまなぶ目的といって、外国人とはなしたいということは特段ふくんでおらず、英書を読みたいということと訳したいということに尽きるので、それにはかなっているといえばいえる。あとはもう単純にやはりもっと英語の本を読まないと、と。そもそもGuardianとかのニュース記事とかはだいぶ読んできたが、書物のかたちでまとまった英語はほぼ読んできていないし。英語の本もしくは文学作品にも触れていくのと、そのなかで好きになった一節とか、あるいはゆうめいな作品の書き出しとかを素読していくのがいいんではないか。そういう感じでやっていって一〇年後くらいにはTo The Lighthouseを全篇訳していたい。To The Lighthouseも部分的にちょっとだけ訳したし、いまはUlyssesもほんのちょっとだけやっているけれど、そもそも英書をぜんぜん読んだことがないやつが翻訳しようなどというのがほんらいは馬鹿げたはなしなわけで、曲がりなりにも訳文をつくれているのはもっぱらいままで数年間、ほぼまいにち日本語を読み書きしてきたその鍛錬のおかげでしかなく(もっとも、和訳しようというなら英語がわかるだけでなく日本語の語彙やその射程や論理や感覚にもひとかたならず通じていなければはなしにならず、むしろそちらのほうがいくぶん比重がおおきいのではないかという気がするが、プロの学者や翻訳家が訳したはずの出版物のなかにも、そういう日本語への通暁習熟・その構築力の面ではなしにならないものがときに見られるのは、海外文学などをおおく読んでいればみな知っていることであり、つまりかれらは(そういう出版物の訳者は)、まいにち日本語を読んではいるかもしれないが、書いてはいないのだ)、ほんとうだったらまだ文学作品の翻訳ができるほどの英語感覚には達していないはず。それもWoolfなんてのは。もっと読みやすいやつをまず読んでいかないと。
  • 一〇人の英語達人のなかでいちばんおもしろかったのはやはり西脇順三郎で、ほかの連中が何歳でなにを読んでてとか書いてあると、このクソ才人がふざけやがってとムカつくのだけれど、西脇だけは奇天烈度がちょっと違うので、そういう僻みが生まれずにたんじゅんにおもしろくて笑う。幼少期のエピソードが以下である。

 『英語青年』(一九八二年一〇月号)の西脇順三郎追悼特集の冒頭に掲載された鍵谷幸信の「小伝」によれば、一九〇六(明治三九)年に小千谷中学校に入学した西脇は、「英語に異常な興味をもち、『ナショナル・リーダー』を丸暗記した」という。だが、「あらゆる時間を外国語の修得に費やし……言語に関する限り英国人と完全に同じくなることを目的とし」(「私と英語」)、また「日本で出ている中学の英語読本はみな買い集めた」(「メモリとヴィジョン」)ほどの西脇が教科書の丸暗記程度で満足するはずがない。そののめり込みようは尋常ではなかったと思われる。たとえば、新渡戸稲造斎藤秀三郎野口英世、それぞれの英語修業の推進力がそれぞれ「努力」、「執念」、「根性」であったとすれば、西脇のそれは、まさに「偏愛」に近い。
 工藤美代子の『寂しい声』には、いまだに小千谷の町で語り継がれている西脇伝説が紹介され(end205)ている。それによると、中学時代の彼は授業のノートをすべて英語で取り、また、すでに三高に進学していた先輩が帰郷するたびに英語を教えたという。
 もっとも、井上十吉の英語辞典のどこを聞いてもわからないところがなく、英語の時間には、教師から「キミに教えることはないから、なんでも好きなことをやれ」と言われ、フランス語の勉強をしていたくらいだから(池田恒雄「西脇順三郎先生のこと」『回想の西脇順三郎』)、先輩に英語を教えるなど朝飯前であったろう。そんな西脇の当時のあだ名は「英語屋」。「屋」が取れて、そのままずばり「英語」であったとする説もある。辞書を通読する彼の習慣は、若い教授時代まで続いた。のちに彼は、辞書を通読することは人間のイマジネーションを豊かにする最良の方法だと語ったというが、常人には思いもよらぬ発想である。
 英語に対する彼の偏愛ぶりを示すこんな逸話もある。中学生の西脇が小学六年生の従弟に英語を教えることになった。教科書は先述の『ナショナル・リーダー』である。その本を手にとって表紙を開いた従弟に向かって、西脇はまず「嗅ぎなさい」と言った(横部得三郎「順様のこと」前掲書)。彼にとっての英語とは英書の匂いまでも含む、官能的な愛の対象だったのである。
 (斎藤兆史 [よしふみ] 『英語達人列伝 あっぱれ、日本人の英語』(中公新書1533、二〇〇〇年)、205~206)

  • あだなが「英語屋」もしくは「英語」なのも笑うが、「嗅ぎなさい」にはさすがに笑う。後年詩人になろうというやつはやっぱり違いますわ。
  • あと、かれは二〇歳くらいでフローベール(フランス語で)とか、アーサー・シモンズ、ウォルター・ペイターなんかを愛読していたと言って、後者ふたりはギリギリなまえを聞いたことがあるかなくらいでなにも知らんのだが、ウォルター・ペイターの『ルネサンス』という著作の文が載っていたので引いておく(斎藤じしんの訳とともに)。ちょっと興味深かったので。というのは、「すべての芸術は音楽の状態を志向する」ということはアフォリズム的にけっこうよく言われるとおもうし、こちらもきのう"All of You (take 1)"を聞いて感動のあまりおもわずそういうたぐいの感想をつづってしまったのだけれど、それとおなじようなはなしがされていたので、このアフォリズムの元ネタってここなのかなとおもったからだ。

 All art constantly aspires towards the condition of music. For while in all other kinds of art it is possible to distinguish the matter from the form, and the un(end208)derstanding can always make this distinction, yet it is the constant effort of art to obliterate it. That the mere matter of a poem, for instance, its subject, namely, its given incidents or situation ― that the mere matter of a picture, the actual circumstances of an event, the actual topography of a landscape ― should be nothing without the form, the spirit, of the handling, that this form, this mode of handling, should become an end in itself, should penetrate every part of the matter: this is what all art constantly strives after, and achieves in different degrees.

 すべての芸術は音楽の状態を志向する [﹅一文] 。音楽以外の芸術にあっては、質料と形相を区別することが可能であり、また知性はつねにそれを区別することができるけれども、芸術とはつねにその区別を取り払おうとするものなのである。たとえば、詩の純粋な質量、つまりその主題、与えられた事件や状況――絵画の純粋な質量ということで言えば、出来事の実際の状況や景色の地形的条件――が、それを取り扱う形相、その精神なしには成り立たない状態、(end209)そしてこの形相、この質量の扱い方それ自体が目的となり、質料 [原文ママ] のあらゆる部分を貫いている状態こそ、すべての芸術が目指すものであり、程度の差こそあれ、現出させるものなのである。

 (斎藤兆史 [よしふみ] 『英語達人列伝 あっぱれ、日本人の英語』(中公新書1533、二〇〇〇年)、208~210)

  • その他斎藤博とか岩崎民平とか知らなかったひともいたし、幣原とか野口英世とか白洲次郎とか、なまえを知っているひとでも、へえそうなんだというおもしろさはあり、伝記のたぐいってのはこういうにんげんがいるんだなあというだけでだいたいまあおもしろくはある。
  • きょうは朝目覚めたときから天井の明かりのようすがあきらかに晴れの日のもので、じっさいカーテンをあけてみれば空は雲なしの真っ青、洗濯日和だというわけで一〇時半ごろに寝床を発つとまず洗濯機を稼働させた。取りこんだのは布団のうえで本を読んでいたあいだ、三時半ごろ。そのころになると空は色の均一さは変わらずとも、水色がだんだんとうしなわれて雲めいており、勿忘草とかラベンダーとかスミレの色をめいっぱい、できうる限り希釈させたような、ほんのわずか色味の透ける白さにおちついていた。季節柄もう陽が弱いこともあり、取りこんで円型ハンガーからはずしたあとに気づいたことに、タオルは端のほうが乾ききらずいくらか湿っていたのだけれど、まあいいやとおもってもうそこでたたんでしまった。肌着三セットも。このくらいいっぺんに洗うとハンガーが足りず、シャツをつけて吊るしてあったのを一時借りなければならないので、ハンガーをもう一セットか二セット買っておいたほうがよいだろう。
  • 洗濯機をうごかしはじめたあとはきのうと同様、Bill Evans Trioの一九六一年のVillage Vanguardの一枚目を聞きながら手を振り、また”All of You (take 1)”に完璧さを見てしまったのだが、そのへんのことは書けたらのちほど。四時四〇分ごろにいたって寝床から起き上がったときにも、ディスク1のさいごである”Solar”を聞き(午前に聞いたときにそのまえまで行っていたので)、”All of You (take 1)”もついでにもう一回聞いた。そうしてそのあと歯磨きしながら新書をまた読んで読了。それでいまこれを書いていて、もう六時半を越えているが、腹が空なこともあって打鍵しているとじょじょに背や首がこごってきて、このままだとからだが緊張をはじめてきもちがわるくなるなという兆しがみられる。それでたびたび身をうしろにたおして背もたれにあずけ、後頭部をあてながら左右にころがしてからだをリラックスさせなければならない。ころがすといってもそんなにゴロゴロやっているわけではなくて、コツはとにかくちからを入れず、ゆっくりやることだ。さいしょはほんのすこしうごかすだけで、だんだん左右の幅をひろげていったほうがよい。からだをほぐすというのはけっきょくリラックスするのが大事だという自明の理に気づいてしまったのだが、基本的ににんげんはおおきいうごきとかはやいうごきとかをするとリラックスはできず、なるべくうごかないほうがリラックスしやすい。なぜならうごくとしぜん、ちからがはいるからで、からだにちからがはいればあたまのほうも応じてかまえる。
  • 左の手首と背、肩甲骨のあたりが右にたいして非対称でなんかゆがんでいるらしいというのはここ数日書いているとおりだが、そういえば膝の骨も、左が中学生のときにオスグッドになって右より出っ張っているのだ。どうもじぶんのからだは左側にゆがみが集中しているのではないか。原因などわかるはずもないがひとつかんがえられるのはやはりギターである。中学二年からギターをはじめて数年習慣的に弾いていたことで、左の手と腕には右よりも負担がかかっただろう。もうひとつもしかしてとおもいあたるのは、単に姿勢がわるかったということなのだけれど、小中のときとかは実家の階段下の室でちゃちな座椅子めいたものにもたれながらスーファミをやったりパソコンをやったりしていたところ、そのときめちゃくちゃだらーんとしているような、要は首のうしろとか背の上面あたりを背もたれにあててそこでからだを支えるような、かなり丸まったというかぐねっとなったような姿勢でよくいたことで、とうじそのようすをみた祖母に、おまえそんな姿勢をしてちゃ背骨が曲がっちまうよ、となんどか言われたものだが、もしかすると齢三三をむかえようといういま、祖母の言っていたとおりになっているのかもしれない。ちゃんと言うことを聞いておけばよかった。
  • そろそろ飯を食おうとおもっていまレトルトのカレーを鍋であたためはじめたところだが、いちどめの食事はれいによってキャベツと白菜と豆腐を切り、あとしじみの味噌汁と、冷凍のタレの唐揚げが二粒のこっていたのでそれをおかずに米を食った。唐揚げはふたつある椀のいっぽうに入れてあたためるのだがそうするとタレが椀の底付近にこびりつく。また唐揚げがはいっていた袋のなかにも滓が付着していて、水でゆすいだだけでは取れなかったので、それらは両方とも洗剤を垂らして水に漬けておき、さきほどかたづけた。
  • せっかく好天だったというのにきょうも籠もってしまっているが、きょうはあと一二月五日のことを書いていよいよ現在時に追いつければOK。


     *

  • いまもう零時一〇分。ちょっと休んだので飯を食うのはけっきょく八時くらいになってしまったのだが、いつものサラダとレトルトのカレーと、あとおとといの帰路、雨の夜半前にスーパーに寄って買ったちゃちいような茶碗蒸しを食い、そうすると食っているあいだとか食後はやはり体内がなんかかなりうごめいて苦しいような、身の真ん中に響くような感じがあって、これではすぐには日記に取りかかれない。うしろにもたれて首をうごかしつつ休んでも、たしかに背骨や背中はやさしく刺激されるし胸のあたりがひらきはするのだが、昂進的な感じがおさまるわけではない。しかしそのうちに手指をストレッチするとこれが効いた。とたんに肩が下がったり、首のうしろがうごいたり、背もゆるむし、ばあいによっては腰とか足のほうまで反応する。手をさすって振るだけでは駄目で、やはり伸ばさないといけないのかもしれない。このあいだ実家に帰った日もよく伸ばしていて、それで行き帰りの電車内では、ひとがいなかったためもあるがいつになくリラックスしたし。それでストレッチをよくしながら音読をしたりGuardianの音楽記事をちょっと読んだりして、そののちパウル・ツェランを書抜き。BGMにはGuardianで知ったLake Street Diveというのをながしてみたのだが(『Obviously』)、すると一曲目が、ソウルじゃん! という感じでノリノリになれて、めちゃくちゃいいわとおもったのだけれど、アルバムのとちゅうからだんだんわりとふつうのカントリー風味ロックみたいになってきたというか、#6 "Nobody's Stopping You Now"とか、陽の照り渡っているアメリカの大草原か自然公園ですか? みたいな、すがすがしさしかないような、あまりにも陰影のなさすぎる色になっていて、こうなるとそんなにはまりはしない。Wikipediaをみると二〇一五年にNonesuchと契約したとあったので、それはわかる気がするなとおもった。NonesuchはPat Methenyとかが出しているところで、なぜか知らんのだが、そういう清浄なあかるさ一辺倒みたいな音楽もいくらか出しているので。こういうのがアメリカーナというのかな。しかしいま七曲目以降からまたながしていると、ベースにドラムが利いていてキャッチーながらソウル方面に寄ったような曲もあるので、そういうのはよいというか、こちらの好みからするとどうしたってこういうのばかりやってほしくなってしまう。印象としては、Room Elevenのジャズ色をかなり薄くして、もっと主流のロック/ポップスに寄せたようなイメージ。でもこれだったらRoom Elevenのほうが好きだな、となってしまうな。もう解散してしまっているが。アルバムぜんたいを通っても、ポップ方面に寄りすぎている印象。一曲目はマジでノリノリでいいんだけど。この一曲目があるし、ほかのアルバムも聞いてみようかなとはなっている。
  • そのあと一二月五日の日記を書き出して、いま勤務前まで行って切ったわけだが、これで日付が変わってしまっているので、きょうじゅうに終えるのは無理そうだ。これいじょう綴る気もあまりないし。まああとは勤務時のことと、書くなら通話時のことだけなので、べつによいが。
  • 英語達人列伝を読み終えてつぎになにを読もうかなというのが決まっていない。それこそ英書を読むべきかとおもって、それならKindleというかパソコンで読むのがよかろうと、Amazonで0円で売られている英語の小説を検索してみたところ、有名所もそうでないものもいろいろあってこのへんをどんどん読めばよいんだよなあと。しかしどうも着手する気になりきらない。紙の本も読みたいが、併読があまり得意でない人間なので。しかしラスキンの『胡麻と百合』とか、そんなのも0円であるんですか? みたいなのもあるのはよい。ラスキンの本とか邦訳で買ったらみすず書房で出ていて(『胡麻と百合』はちがったかもしれないが)七〇〇〇円くらいする(『ヴェネツィアの石』がたしかそうだったはず)。ConradのHeart of Darknessなんかもとうぜん0円で、これはむかしいちど読んだし(しかもそのときは、とちゅうまでだが、ペーパーバックでわからなかった単語に赤線を引いて、たびたびそこを復習して語彙を習得するというじつにまじめな学習すらやったのだ! その後この赤線入りの古びたペーパーバックはブックオフ行きとなった)、もういちど読むのもよいかもしれんとおもった。ちゃんとした邦訳があるやつを読んで、気に入った部分を原文と訳文と両方引いておいてまいにち読めば良いのではないか。それだったらもうTo The Lighthouseちびちび読んでいけばいいじゃんともおもうが。そういえばうえに記したとおり(記したよな?)、To The Lighthouseの冒頭も「ことば」ノートにくわえておいた。あときょう読みかえしで出てきた古井由吉訳の『ドゥイノの悲歌』も。


     *

  • 草木もねむる丑三つをすぎたわたしはいまもこうして生きて文を書いている。「やがてわたしは棺の中に横たわり骸骨となる定めなのだろうが、このマシーンの前に座って過ごすこうした痛快な夜が、何であれこの先損なわれるようなことは決してあり得ないのだ」(ブコウスキー)。「いまこの長い変ることのない夜々には、世界は人を忘れてくれます。たとえ人が世界を忘れないとしても」(カフカ)。たいした文ではない。生きて文を書いてはいるが、生きた文を書けているかどうかについては自信や確信をもってはいない。生活をこまごまと綴るだけのものだ。宛先の不明な報告であり、目的の不明な記録である。報告や記録はつうじょうなんらかの目的をもっておこなわれ、その目的に資するだけのことが書かれ、その範疇にはいらない情報はカットされるはずであり、それは物語の筋道上不必要な情報は描かれず、触れられず、省略されることとおなじなのかもしれないし、すくなくとも似通ったことがらなのかもしれない。しかし物語一般にそれを語ることいがいの目的があるのかどうかはよくわからない。物語が目的不明の語り行為だとしても、その物語じたいの範疇で不要であると判断されてカットされる部分は出てくる。そもそもすべてを語ることなどできようはずもないのだから、どんなに詳細な語りを生み出したとしても、カットされる部分はつねにそのまわりやすきまにまつわってくる。じぶんの日々の記録は目的が不明で、ほんとうにこれを日々に書くことの目的というのはおもいつかず、これがラカン精神分析にいわせればじぶんにとっての特異的な享楽ということなのだろうか。目的が不明だということは目的にもとづいた情報や主題の取捨選択はそこにはないということで、しかしだからといって取捨選択のはたらきじたいが存在しないわけはなく、この世のすべては書くにあたいするがすべてを書けるはずもないから取捨選択はいくつかのかたちで自動的にはたらいており、いくつかと言ったがいまおもいつくのはふたつで、ひとつはこちら個人、もしくはにんげん一般の能力的な限界、もうひとつはこちらじしんの好みとか気分とか趣味とか自意識とかである。だからここにおける取捨選択はひじょうにだらしのない、じぶんという実存にかなり直結したものであるはずで、したがってこの文章はそうとうに個人的なものだとおもうのだが、その個人性が内破的になんらかの普遍性のようなものにひらき通ずることがこのさきあるのか? それはともかくうえまで書いたあとは湯を浴びて、出てくるともう一時過ぎだったわけだが、よくないことに夜食を取ってしまった。インスタントのしじみの味噌汁と、夕食にも食ったたいした味ではない茶碗蒸しだけだが。まあ夜食が食えるくらいの体調になったととらえるべきなのかもしれない。そのあとは手のゆびを伸ばしつつちょっと休んでから、一二月一日から四日までの記事をブログとnoteに投稿した。投稿作業もなかなかめんどうくさい。検閲するのもそこそこ手間だ。それだからいまもうここで三時を越えてしまっている。あしたは五日の記事を完成させて、いよいよようやく現在時に追いつかせたいところだ。


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Guardian staff and agencies, “Russia-Ukraine war at a glance: what we know on day 287 of the invasion”(2022/12/7, Wed.)(https://www.theguardian.com/world/2022/dec/07/russia-ukraine-war-at-a-glance-what-we-know-on-day-287-of-the-invasion(https://www.theguardian.com/world/2022/dec/07/russia-ukraine-war-at-a-glance-what-we-know-on-day-287-of-the-invasion))

A drone attack has set an oil storage tank on fire at an airfield in Kursk, the Russian region’s governor, Roman Starovoyt, has said. Video footage posted on social media showed a large explosion lighting up the night sky followed by a substantial fire at the airfield 175 miles (280km) from the Ukrainian border.

The drone attack came a day after Ukraine appeared to launch attacks on two military airfields deep inside Russian territory. For Kyiv the strike represented an unprecedented operation to disrupt the Kremlin strategy of trying to cripple the Ukrainian electrical grid to provoke a humanitarian catastrophe in a country on the verge of winter.

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Russian and Ukrainian authorities confirmed the exchange of 120 people in a prisoner swap. According to the Russian defence ministry, 60 servicemen were returned from “Kyiv-controlled territory”. Ukraine received 60 prisoners in return, Andrii Yermak, Ukraine’s presidential chief of staff, said.

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Senior EU officials have vowed to ensure Ukraine gets €18bn in financial aid, after Hungary vetoed the release of the funds. Earlier Viktor Orbán’s government was accused of “holding hostage” funds for Ukrainian hospitals and “cynical obstructionism” after Hungary confirmed on Tuesday that it would block €18bn of aid for Ukraine. The move by the Orbán government is widely seen as an attempt to gain leverage in separate disputes over Hungary’s access to €13bn EU funds.


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  • 「ことば」: 31, 9, 24, 11 - 15, 40
  • 「読みかえし2」: 563 - 567