2022/12/9, Fri.

 今日の昼ぼくは穴があれば身を隠したいと思いました。つまり《三月 [メルツ] 》の新しい号で、マックスが書いたぼくの本 [『観察』] の書評を読んだからです。それが出るだろうとは知っていましたが、見ていませんでした。もういくつか書評が出ました。もちろん知人のものばかりで、誇張した賞讃において無益であり、註解において無益であり、ただ惑わされた友情の、印刷された言葉の過大評価の、文学に対する公衆の関係の誤解の、標識としてのみ説明できるものです。結局のところ、その点で批評一般の大部分と共通しており、それらが虚栄心を刺戟する、物悲しい、しかしまもなく消耗されるとげでないとしたら、安心して受入れるかもしれません。しかしマックスの書評は度を超えすぎています。彼がぼくに感じている友情が最も人間的なもののなかに、文学の始まるはるか以前に根ざしていて、だから文学が息吹きはじめる前すでに強大であるために、彼はぼくをこんなふうに過大評価し、ぼくを恥ずかしがらせ、うぬぼれさせ、高慢にするのです。一方で彼はもちろんその芸術上の経験と自分の力量から、批判以外のなにものでもない真の批判をそれこそ自分の周りに積み重ねているのです、にも拘わらず彼はそんなふうに書きます。ぼく自身仕事をしていたら、仕事の流れの中にいて、仕事に運び動かされていたら、書評について考えることもなく、心のなかでマックスの愛に対しキスすることでしょう、そして書評自体はぼくになんの関係もないでしょう! しかしこんなふうでは(end272)――そして恐しいのは、ぼくがマックスの仕事に対する態度は、彼がぼくの仕事に対するそれと変らないこと、ただぼくは時折それを意識するのに、彼は決してしないと、ぼく自身に言わなくてはならないことなのです。
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、272~273; 一九一三年二月一四日から一五日)



  • 「読みかえし2」から。「芸術とは、このうえなく情熱的な世界の反転 Inversion であり、無限なるものからの帰路である」。

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 「ドゥイノの悲歌」は第一歌と第二歌とが一九一二年の一、二月に書かれ、引き続きその春にドゥイノの館で、第三歌やその他のエレギーの部分が書きはじめられた。十篇の完成は、第一次世界大戦を挟み、むろんドゥイノからも離れ、じつに一九二二年のことであったという。改行を施しながら、気になってきたことを少し書いておきたい。この詩が書きはじめられる少し前のこと、一九一〇年八月三十日付の、館の主であるタクシス侯爵夫人に宛てた手紙は、大いなる格闘であった小説『マルテの手記』擱筆から『悲歌』へ至る途(end248)上の「分水嶺」を告げるものとして言及されることが多い。
 そこにリルケの次のようなことばが見える。芸術とは、このうえなく情熱的な世界の反転 Inversion であり、無限なるものからの帰路である。その道では、すべての誠実な事物が芸術家を迎えてくれる。事物の顔が近づいてきて、独自の動きを見せる。事物の全容が見えるのはそのときである、と。すでに多く論及されている箇所である。と同時に、この「反転」については、ひとりリルケに限らず古今の芸術の原理としての普遍性が確かめられる。芭蕉の「行きて帰る心」はそのひとつである。反面、その用語も多様にありうる。ここでは、リルケが Inversion を使用したことに留意する。もちろん、日本語においての「反転」の使用も一案にすぎない。数ある類語の中から Inversion であったことに注意するのは、「反転」の一語でよいのか、という問と隣り合せでもある。
 あるいは「反転」と「翻訳」は、そして「改行」は、じつは本質的に通いあっていることではないか。そのとき、これは普遍的という一語で済ませることのできない、詩と散文の布置を変える二十世紀文学における最初の大きな転換を指すことに気づかされる。
 リルケに即していえば、非常な言語的展開を経験した時期にあたる。抒情詩人であったリルケは、ロダンの彫刻、さらにはセザンヌの絵画と出会うことによって「事物」として存在する芸術のありかたに覚醒する。一方で、パリという大都市の中で一九一〇年、小説形式の『マルテの手記』を書き上げることで、内部からの語り手ではなく、外部からの破(end249)壊的経験の受取り手となり、遭難者のように徹底的な絶望状態に打ち捨てられた。この深甚な散文的遭難は書くことの不可能性、死の不可能性の認識を通じて、やがて彼を「世界内部空間」(すべての存在を貫いて広がる一つの空間)という場へ連れ出していく。そこでは内部と外部、時間と空間、生と死が絶えず交わり、また入れ替わる。『詩への小路』の古井由吉はここに関わり、しかも世界文学の小説家として、リルケの置かれている反対斜面を眺めている。古井由吉が「改行」を施さずに「悲歌」翻訳を試みるのは、こう見れば、散文的破壊からの蘇生を常に我がこととしているからだといえなくもない。
 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、248~250; 平出隆「解説 詩学入門書として」)

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 いささか時間を隔てるが、一九六六年に書かれた「実体のない影――或る数学入門書を読んで」というエッセイから、珍らしく詩人の役目について語られた次の箇所を引き、『詩への小路』と重ねて読みたいと思う。

 語りがたいものを語るのが、詩人の役目である。しかしこの役目をすぐさま《創造》と結びつけることには、大きな思いあがりがある。おそらくこのような自負が生まれたのはヨーロッパ近代のはじめ、世界の宗教性の傾きを見て取ったすぐれた個人の中で、宗教的な情熱が強い自意識とあいまって孤独に燃え上がったその時だろう。これらの詩人たちはおのれの営みを《創造》と呼んだ時、さぞかし神の《創造》に対する自負、罪悪感、屈従のいり混ったきわめて宗教的な感情を抱いたに違いない。だが、やがて時代(end250)がすすみ、宗教的情熱が衰えると、詩人たちはおのれの《創造》を支えるために、かずかずの詩論をものさなくてはならなくなる。
 もしも世界に対する任務というものが詩人にあるとしたら、それは《創造》ではなくて、むしろ《翻訳》ではあるまいか。過去の文化の翻訳、偉大な異文化の翻訳、そして何よりもかによりも、世界に現に存在し、現に力をふるっておりながら、依然として符号以外には言葉を受けつけぬものを、生きた言葉に翻訳すること、これこそ詩人の任務ではあるまいか。(中略)
 しかしここで翻訳といっても、あらゆる意味で逐語訳は不可能である。ここではテキストの明確さと、それを受けるべき言葉の明確さが、ほとんど常に質を異にする。それゆえ翻訳者はテキストをいちど自分の中に沈めてしまい、それからテキストによらず自分の口で語らなくてはならない。だがその時、かれはかならずしも生きた言葉で語るわけでない。生きた言葉だけに頼るかぎり、かれが克服できる領域はあまりにせまい。まだ生きてはいないが、やがて生きるやも知れぬ言葉で、かれは語るよりほかにない。

 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、250~251; 平出隆「解説 詩学入門書として」)

  • 起きたあと寝床でいつもどおり一年前の日記を読みかえしたが、なかなかおもしろかった。外出して図書館に行ったり、ちゃんぽんを食ったり、(……)に出て革靴を買ったりしているだけだが。以下のながい一段はすばらしい。「老婆がからだを微妙にうごかすのにおうじて街灯のひかりをはじく杖の表面を白さがゆっくりと、血管のなかを緩慢にながれる髄液のように上下に行き来していた」。図書館の駐車場からみたあたりのようすも、たしかにこういうことあったわ、あそこだ、ああいう景色だとおもいだされて、こんななんでもないような場所がそうしておもいだされることにおどろきを感じる。

四時半に出発。いつもどおりのかっこうで、リュックサックには図書館の本を入れていた。母親の車の後部に乗りこむ。まず地元の分館に寄り、そのあと「(……)」にも寄りたいということだった。あした父親が山梨かあるいは祖母の病院に行ってきょうだいたちと会うので土産としてもなかを持たせたいと。大通りから図書館につづく細道に曲がると踏切りがあって、ちょうどいま遮断機が下りていたので車は停まった。線路をはさんだむこうがわには老婆がひとりおり、両手を杖に乗せて背をまるめたからだをそれにあずけて立っており、あるくのがなかなか難儀そうなようすだがかたわらにはキャリーバッグ的な黒い荷物をともなっていて、老婆がからだを微妙にうごかすのにおうじて街灯のひかりをはじく杖の表面を白さがゆっくりと、血管のなかを緩慢にながれる髄液のように上下に行き来していた。踏切りがひらかないうちに老婆はできるだけ道の端に寄ったが、それはわれわれの車をさきにとおしてくれるという意思表示で、遮断機があがってからもじっさい彼女はすぐにうごかず、その横をとおりぬけていくさいに母親は会釈をしつつクラクションをちいさく鳴らした。そうして図書館着。駐車場に停めると、南側を正面にするかっこうとなり、母親が図書館にはいったみじかいあいだはフロントガラスのさきに見える空間をただながめていたが、近間に立っている一本の緑樹、街灯をかけられた一部だけ緑が若やいだようなあかるい色に浮かびあがっているそのこずえを見るに空気にながれはすこしあるようだった。待っているあいだにもう一台車がやってきて、こちらの右手におなじく南側をむくかたちで停まったが、車が停まるさいに正面になげかけられていたライトのうすい色が、街灯を浴びている木とはまたべつの一本、日暮れにほぼはいりかけた曇天の空気のなかに沈みこもうとして(こちらが眼鏡をかけていなかったこともあり)たんなるくすんだ緑色の靄めいたあつまりとなっている木のうえに気のせいのようにひらめいていた。その直後に母親はもどってきて、右手の車から降りたひとにこんにちはとあいさつをしていたが、それは図書館の職員と勘違いしたからで、乗りこみながら図書館のひとじゃなかった、ともらしていた。こちらはなんとはなしにすこしだけむなしいこころもちになっていたというか、それはたぶん、また一日が終わっていくのだなあみたいな感慨だったようだ。そこからさらに、風景や空をながめるときにはしばしばあることなのだが、じぶんもそのうちに死ぬんだなあという終わりへのおもいは容易に生じて、道(とりわけ夜道)をあるいているときにもよくそれを意識するけれど、おそらくは日常の生活のせわしないようなながれの拘束からひととき離脱して現在の瞬間が前面化されるとともに、転じてそのいつか来たる終わりである死へもおもいがただようということではないか。そういうふうにその場で自己分析しながら、中島義道ニヒリズム方面の著作でむかし書いていたことをちょっとおもいだした。彼はたしかマンスフィールドの「幸福」の冒頭、バーサ・ヤング(というなまえだったとおもうのだけれど)がもう三〇歳にもなったのに人生のふとした瞬間に舞い上がるような幸福感をかんじて走ったり踊ったりしたくなってしまう、みたいな記述を引きつつ、じぶんはこういう幸福をかんじてもそれがつかの間のものであってながくはつづかないのだというおもいが直後に自動的に湧いてきて、生まれた幸福感をすぐにみずから終わらせてしまう、みたいなことをどこかで書いていたとおもうのだけれど、これはもしかしたら中島義道ではなくてなにかの小説の一節とか、あるいは(……)さんがむかしブログに書いていたとか、ことによるとじぶんがじぶんで過去の日記に書きつけた心理分析だったかもしれない。こういう精神のうごきかたをおもいだしながらもしかし、じぶんのいわばメメント・モリはそれともまたちがうのだよなとおもっていた。図書館を出るととうぜんすぐにまたさきほどの踏切りにかかるわけだが、老婆がまだそこにいて道の端に立ちつくしたままだったので、あるけないのだろうかとおもった。つかれてしまって休んでいたのか、それともなにかを待っていたのか。街道に出て曲がると五時を越えて暗みはじめた空気のなかで定期的に設置されている街灯の白さや、信号の青緑や赤、また対向車のライトの白さやあるいはおなじ車線を行くまえの車たちの背部の赤色灯がフロントガラスから見える空間のそこここをところせましと満たしていて、さびれきった商店街ではあるものの左右にかろうじて明かりをひろげている店もいくつかはあり、腐っても街道というわけだろう、いくらかつやめいたあかるさの宙ではあった。すこしすすんで、「(……)」の店舗横にはいる。母親が買い物をしているあいだは例によってなにもせずにただ窓から見える景色をながめていた。やはり南をむいたかっこうで車は停まっており、敷地のさきは土地がくだっているから宙がひらいてかなたの風景が見えており、果てにある山はふたつか三つはおりたたみをなしているようなのだけれどその肌はわずかに青さをはらんだような黒っぽさに一面ならされて遠近の山稜の重ね目がほとんど見分けられず、そのうえの空は西陽の色を二、三滴垂らして混ぜたようなかろうじての赤味をはらみつつ雲につつまれた白さのなかでそれも雲なのかあるいはのぞいた空の地なのか、水っぽいような青さのすじが山の端からほんのわずか浮かびあがった位置でたよりなくふるえながら横に一本引かれてあって、そういう風景を目にしたその一瞬だけ感動か感傷のような心境がぽつりとひとつ点じられたが、それいじょうつづくことはなかった。車内は暗く、端のほうには蔭が満ちており、じぶんのからだを見下ろせばズボンもモッズコートも地味な色合いのものなので何色なのかもその二色の差異もほとんどわからず、足先は暗さのなかに埋没している。もういちどかなたの風景に目をやれば、いちばんてまえのすぐちかくには家屋根がふたつほどのぞいており、そのひだりには木もあるけれど、そこから川向こうの集落を越えて山影までやはりひとつの平面上の区切りのようにしか見えず、特に集落から山まではおなじ退屈な青暗さに統一されていた。もどってきた母親も、もう真っ暗になってきちゃったねという。ふたたび出発して、(……)の図書館に向かってもらう。(……)の五叉点から坂をくだっていくと、いくらかうねる道に沿って立っている木がどれも黄や赤によそおいを変えていて、もはや暮れきってたそがれた空気のなかでその色がながれながら目につく。下りて行き当たる広い道路の角にはいまはよくわからないちゃちな回転寿司店みたいなものがあるようだが、ここの店はこちらが子どものときからたびたび入れ替わっていて、いっときはカードゲームのカードを売る店舗になっていたこともあり、遊戯王だかマジック・ザ・ギャザリングだかをちょっとやっていた子どもの時分に、一回か数回だけはいったことがある。とうぜんレアカードが高額で売られていたわけだが、あんなものはぼったくり商売である。そこから東へ。車内にはRoberta Flackのベスト盤かなにかがかかっていたのだが、(……)がちかくなってきたあたりではじまった一曲が、これ完全にSadeじゃんというものだった。もちろん影響関係としてはSadeRoberta Flackなどを踏まえているわけだが、それにしてもSadeだった。そのときこちらのあたまのなかでもっとも参照されていたSadeというのは、おそらくは"The Sweetest Taboo"だったとおもう(じぶんは『Lovers Live』しかほぼ聞いたことがないので、その版)。

  • 図書館の新着図書。

(……)前回来たときに注目したのとおなじ本もおおかったが、あたらしく目にとまったものとしては、新潮クレスト・ブックスから出ているタナハシ・コーツの本があった。『ウォーターダンサー』という題だったか? 彼のデビュー長編らしく、冒頭をすこしだけ瞥見してみたかんじ、なんとなくよさそうな雰囲気だった。あと、現代メキシコを代表する女性作家のひとりだという書き手(グアドループみたいななまえだったはず)の、赤い魚なんとかみたいな作品もあって、冒頭のエピグラフでふたりの作家が引かれていたのだけれど、右側のことばはわすれたが左側の一行は高行健だった。メキシコのひとが中国作家を引くなんておもしろそうではないかとおもったのだが、いま検索してみたら高行健天安門事件を機にフランスに亡命していまはフランス国籍らしい。二〇〇〇年にノーベル文学賞。あともうひとつ、フローラなんとかいう一八四〇年くらいに亡くなったイギリスの女性作家の本があって、このひとは晩年に子ども時代の生活の回顧録をつづってその三部作が後年にのこる作品になったと著者紹介にあったのだが、この本はそのうちの二冊目で、なんとかいう田舎にうつってそこでの人間模様や生活をえがき物語る作品だったとおもわれ、どうも興味を惹かれた。フローラ・トンプソン『キャンドルフォード』というやつだ。亡くなったのは一八四〇年ではなくて一九四〇年(四七年)だった。田舎の自然をえがくみたいなやつはどうしても気になるところがあるのだが(マリ・ゲヴェルス『フランドルの四季暦』なんかもそうで、あれは擬人法や美麗な表現を多々おりまぜながらマジでひたすら自然や天象を記述しまくるというなかなかたいした本だった)、この本は表紙がきれいな絵柄で雰囲気もよく、出版社は朔北社といっていままで注目したことがなかったけれど、うしろのほうの広告ページを見ると中村妙子訳のロザムンド・ピルチャーの名があったので、たぶんこういう女性作家の作品にちからを入れている会社なのかなとおもった。ほか、中公新書の『ミャンマー政変』もあって、この本もわりと気になっていた。(……)

  • 描写はおりおりあって、たいしたものではないとはいえどれもわるくないのだけれど、そのなかでいちばんよかったのはしたのくだりのさいごのやつかな。

(……)改札内にはいり、ホームにおりる階段の脇にある「(……)」という店で夜食用におにぎりをふたつ買って(紅鮭とチキン南蛮)、電車へ。おにぎりはパックのままで袋に入れてもらわなかったので、お手拭きといっしょに紙袋のなか、靴のはいった箱のうえに乗せておき、また書見した。地元についても中断せず、乗り換えをはさんで最寄りまで。降りるとぜんぜんあつくなどないのになぜかコーラでも飲むかという気になっていたので、駅を出て自販機のある東へ。ペットボトルがほしかったのだけれど、三つ見ても缶しかなかったので、一〇〇円でそれを買って林のなかのほそい坂道をおりた。左右に茂みが厚く、頭上もおおかたは樹冠におおわれていて陽がとおりづらい場所なので、きのうの雨の水気がまだのこってじめじめしており、足もとは濡れたあとのなかで落ち葉がしなしなとちからなく希薄化している。そんな道だと何本か設置されている街灯のひかりの切れ目がわかりやすく、意外にとおくまでとどいてけっこうな範囲をおおっているなと見られるが、道のしたのほうまで来るとおびただしい落ち葉の群れがはじまり、ほとんどすきまなくつながって絨毯をなしているようなぐあいだった。

  • きょうの朝はいちど七時台に覚めたのだけれど、さすがにそれではねむりがすくないとゆびをのばしながらもふたたび寝つき、九時四三分へ。そこでねむりを断ち切って、布団のしたでしばらく手指を伸ばしたり、もぞもぞうごいたりしていた。天気は晴れらしいが、きのうほどのあかるさはなさそうで、天井をみているともれでているほのかなあかるみの白さがうっすら減じるときもある。一〇時過ぎに身を起こしてカーテンをあけた。胡座の姿勢でちょっと首や肩をまわしてからまた臥位にもどって布団をかぶり、れいによってChromebookでウェブをのぞいたり日記を読んだり。レースのカーテンまであけて窓をさらすとさすがに空気は冷たいようで、エアコンをつけていても床のうえに平べったくなっているこちらにはさほどあたたかさがつたわってこない。布団から脚を出してもちょっと寒い。一年前の日記を読んでいるとちゅうで一一時二〇分をむかえていることに気づいたので、洗濯をさきにはじめておこうとそこでいちど立ち、洗濯機に汚れ物をひとつずつ入れていって、注水しているあいだは寝床にもどって胎児のポーズで左右にゆれる。洗剤を入れて稼働させるとまたしばらく日記を読んで、なかなかおもしろい一日の記だった。特別なことはなにもないが。
  • 床をたつとリセッシュを撒いておき(そろそろ残量がすくない)、背伸びしたり手をちょっと振ったりしてから瞑想へ。すわりはじめてすぐに、やっぱりからだの左側が右にくらべてぜんたいてきにこごっているなということに気づいた。左の輪郭線をたどっていくとそこここにそういうところがある。だから左側だけ右と色がちがうというか、輪郭に沿ってなにか塗られているというか混ざっているというか、内外でざらついている。首の横がまずそうだ。肩と肘のあたりもそうだし、あと二日前くらいに胎児のポーズでゆれているときに気づいたのだけれど、脚の付け根の股の内側にも、左にだけいつもこごりがある。さらにはもうひとつ気づいたことに、瞑想中は各所のすじがほぐれていくのでいろいろなところで肌がぴくぴくしたり、肉がほどけてひらくような感触が生まれるが、そのなかでもおおきなものとして、たびたび脚がびくっとうごく。学校の机に突っ伏して寝ているときとかに、からだが勝手にびくっとなって起きることがあるとおもうけれど、あれのちいさい版みたいな感じ。そして、それが発生するのはつねに左脚なのだ。太ももの裏側がたぶん起点で、そこからはじまったびくっというちいさな衝撃の反動で、そのつど上体が右にゆったりふれて、ちょうど右回りでうしろにわずかさがって楕円をえがくような軌跡を通過し、もとの位置にもどってくる。ことほどさようにやっぱりからだの左半分にこごりが集中しているようで、おそらくそちらがわのほうが血のめぐりがわるいんだろうとかんがえた。となればその原因は、根本かどうかはつかめないが、ひとつには左手首だろうと。すくなくともあそこにおおきなとどこおりがあることはまちがいないはず。そういうわけでその後、音読のあいだなどよくさすっておいた。
  • 瞑想は二〇分くらいで終えたのだがそのわりにからだのほぐれかたはスピーディーだった。きょうはあまり起こらなかったけれど、瞑想中の身体のうごきとしてもうひとつ興味深いのに、上体がすーっとしぜんに、凪の水面をすべっていく船か鴨のようななめらかさで、すこし前傾した状態から後退してより背が立つことがある。すぐまた前傾してしまうこともおおいのだけれど、それは腰のあたりの肉がほぐれたときにそうなるのだろう。藤田一照とか、骨盤で立つということを言っていて、感覚としてよくわからないのだが、すーっと後退したときのその状態がそれなのかもしれない。
  • 瞑想を終えると一二時一五分くらいで、洗濯物を干した。空は粘りもつよさもない水色ひとつ、しかし遠くの低みには雲がほのかに混ざっていたのかもしれない。あかるさはきのうよりはやはり弱い気がした。二時半ごろ、洗濯物を取りこむまえに手首を振りながら窓のほうを向いていたが、そのときにはひかりのあかるさがレースのカーテンの上半分を越えて引いており、あかるい地帯はちょうど窓ガラスに斜めの格子線がはいっているのでその模様が透けて宿り、布のまんなかあたりからは洗濯物の影が、上端はもののかたちをみせているのだけれどすぐおおきなひとつの薄青い宿りとなりひろがって、風はなくしずまった大気らしく影はどこもうごきをみせないが、その薄影じたいのなかにもまた幕とガラスのむこうが微妙に透けて吊るされている黒シャツがぼんやり浮かびあがっており、しばらくみていると窓外のそちらは弱く左右にふれたのだけれど、だからといって影のほうにはやはりうごきは生じない。薄青さの下端、窓枠の間近ではまたあかるみがかろうじて這いこんでいて、明暗のさかいは輪郭をさだかにできず濃淡の推移でつながっていた。
  • 手首をふるのは爪先をあげないその場あるきとセットでやるのがよいかもしれんなと洞察した。要するに手首をほぐしたら足首もというはなしだが。手首部分というのはたぶん血流のおおきな結節点のひとつで、ここをよくさすってやわらかくしたり、さらに振ったりすると、たしかに血のめぐりはあきらかに変わってくる。だったら足首もそうだろうと。さらに歩行的なうごきをとれば血はより全身に拡散するだろうし、腕もうごいて肩や背もあがるし。手を振るだけでも各所がうまくほぐれていればけっこう全身にまわるのだけれど、その場あるきでさらにそれを拡張させるという。
  • 食事は野菜ときのうの煮込みうどん。豆腐がもうないのだった。白菜はいちおうあるけれど、野菜はもうキャベツだけ。半玉のさいごのあまりをぜんぶつかって大皿に。そういえば食事のまえ、瞑想を終えてからちょっと手を振ったあとに、トイレに行って糞を出しておいた。というのも、たしかきのういちにちは一回も排便しなかったとおもうので。ときおり便意のきざしを感じつつも、トイレに行ってもなんかすぐには出そうにないという感じだったので放っておいたのだが、そろそろ出しておいたほうがよいだろうとおもって、便器にすわると腹を揉んだりしつつケツの穴がつうじるのを待って、腸のなかをいくぶん軽くしておいた。便秘になってんのかなとちょっとうたがっていたが、べつにそういうわけでもなさそうだった。
  • 左手首に着目したのがよかったのか、食事中や食後も特段にからだが昂進する感覚はなく、おちついていて、苦しくもならなかった。あれは左右で血のめぐりのバランスがくずれていたということなのかもしれない。洗い物をかたづけるとすぐに音読をはじめて、けっこうながく読んでしまい、「読みかえし2」のほうは578から600まで行った。古井由吉の『詩への小路』の解説からはじまって、三島由紀夫の『金閣寺』を通過し、『ガンジー自伝』を少々。三島はなんだかんだ細部でなかなかよろしい描写やことばづかいをするにんげんではあるから、ここはめっちゃすごいなというところはなくとも、引かれてあったのはどれもわるくなかったり、なるほどという感じだったりする。『金閣寺』は半分くらいまでで読みさしになってしまっているので、そのうちまた読みたい。『ガンジー自伝』はまだ知識として書き抜いておいた訳注部分までしか行っていないのだが、インドの多言語状況にふれた項目のさいごに、「また英語はインド全体の共通語の役割を果たし、インド憲法の規定によって、一九六六年から国語になったヒンディ語とともに、インド統一の言語的土台をなしている」とあって、ここを読んだときに、征服者の言語が国家統一の土台となるとはなんともまあ、というおもいになった。それは一種、国家的・民族的トラウマのようなものとして共同体のなかのどこかにのこるのではないかという気がされて、もしかしたら、いまのインドがヒンドゥーナショナリズムをひじょうに強硬化しているのにもそれが響いているのかもしれない。ひるがえって日本をかんがえてみるに、インドとおなじとは言えないだろうが、ちかい部分もないではないのかもしれないとおもった。日本にこういう契機があったのはおそらく二回で、ひとつは明治期、もうひとつはとうぜん敗戦後ということになろうけれど、明治期は西洋のことばを翻訳するのにあらたな漢語を生んだりはしたとしても、言語そのものがとってかえられたわけではない。また、そもそも近代の「日本統一」がいつごろ成立したといえるのかもよくわからないのだが、国家統一のための標準語という観点でいうならば、それは軍事的必要のため、要は日本全国いろんなところからやってきて兵士となった連中ははなしかたもそれぞれぜんぜんちがっており、意思疎通に難があって、しかし戦争のときそんなんではとうぜん困るから、全員が共通して意志を伝達できる言語として標準語というものがつくられたみたいなことを聞いたことがあり、そういうことを言っていたのは石田英敬ちくま学芸文庫の、なんだっけ? 『現代思想講義 世界の見方をかんがえる15講』みたいなやつのなかで対談していた小森陽一なのだけれど、そういう軍事的文脈だけで標準語ができたわけではないとおもうが、いずれにしてもそれはだからいちおう日本内で生まれたことばではあるわけだろう。日本に国家的トラウマみたいなものがあるとしたらそれはやはり敗戦をおいてほかにはないだろうが、そのばあい総体としての言語というよりは、ひっくるめて要約して「民主主義」と呼ばれるその価値観・思想が(まさしく「戦後民主主義」といわれるように)その後の「日本統一」の「土台」となったとは言えそうで、戦前回帰をかんがえる右翼とかにとってはその「(戦後)民主主義」がトラウマなのかもしれない。ところでさきの対談で小森陽一がもうひとつ言っていたことには、日清戦争のときとかはとうじの右翼みたいなひとびとから、われわれは清と戦争をして立派にたたかっているけれど、ところがわれわれの書くもの出版物をみてみれば、そこには漢字があふれかえっているではないかというわけで、要は言語的には征服されきっているも同然ではないか、けしからん、という言説が一部出たらしく、それはけっこうおもしろいといえばおもしろい。そこでじゃあどういう日本語をかれらがかんがえて目指そうとしたのかは不明だが、(もともと「公的」で男性があつかうものだった漢語・漢文を排斥して、女性がものを書くのにつかった「私的」な)ひらがな(とカタカナ)だけでがんばろうということだったり、すくなくともひらがなの復権をかんがえたりとかしていたら、右翼の男性が、という文脈からしてちょっとおもしろい。しかしそれはべつに本居宣長いらいのふつうのことではあったのか? ともあれいまの右派は思想的に反中だったとしても、だからといってわれわれの言語文化のなかに中国由来の漢字があまりにも根付いてしまっていてけしからん、これは精神的に支配されているも同然である、とは言わないだろう(むしろ外来語・カタカナ語とかにたいして、「日本固有の」価値として漢字や漢語を押し出すはず)。その点明治期の連中は、(とうじ国家的に中国と直接ことをかまえていたという事情もおおいにあるだろうが)より徹底していると言えなくもないのかもしれない。
  • というようなことをかんがえつつ、音読を終えたあとはきょうのことを書き出したのだけれど、ゆびを伸ばしていたわりになんだかうごきがよくないなとおもったので、いったん立って手首をぷらぷらやるとともに、もう二時半を越えてひかりも引いてきているからと洗濯物を入れることにした。取りこみ、さいしょはたたみあげてあった布団のその盛り上がりのうえで入れたものをたたもうとしたのだが、やはりやりづらいので、布団を敷きなおし、そのうえに胡座をかいてタオルや肌着を整理。かたづけるとまた手を振ったりあるいたりして、きょうのことにもどると手をぷらぷらやったからゆびがよくうごき、ここまでざっと書いて四時五分。きょうはきのうのことをかたづけるとともに、なんか書店に行こうかなと、街にあるいて出ようかなというきもちがないではないのだけれど(ここ数日籠もりきりでぜんぜんあるいていないし)、これからもう暗くなってくるしなあというおもいもいっぽうにある。いずれにしても食い物は買いに行く必要があるだろう。


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  • きのうの記事のさいごにTo The Lighthouseのことを書いておもいだしたが、さきほどWoolfの文を二箇所音読しているときに、Woolfってときどき分裂的でわかりにくい文の書き方をするよなとおもったのだ。挿入がはいることで前後のつながりが


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  • うえのはなしはめんどうくさくなったので、またこんどやる気になったら。きのうのことはきょうのことを書いたあとにすぐ書いたんだったかな。わすれた。いずれにしても三段かるくさっと足して完成。のちほど投稿。二回目の食事は煮込みうどんの少量ののこりをまずあたためて椀に入れ、鍋をゆすいで金束子であらうと、あらためて水をそそいでレトルトのカレーも湯煎した。
  • 夕刻にかけてなにをしていたのかあまり記憶がないが、宵の口あたりから寝床にころがって、ヴァージニア・ウルフ/森山恵訳『波』(早川書房、二〇二一年)を読んだ。この新訳が出たのももう一年いじょうまえなの? 今年のことだとおもっていた。初版が二〇二一年六月で、もう一年と半年前。信じられん。図書館の新着だったか書店の棚だかにみつけたときは、ついに新訳が来たか、とおもったものだ。きのうさいしょの二ページ、各人の独白にはいるまえの風景のところだけ読んでいたのだけれど、ひじょうにきちんとしたしごとになっているとおもった。ことばえらびにちょっと格調をかんじるというか、古井由吉とかがやりそうな漢字とルビの組み合わせをやったりしている。

 太陽はまだ昇っていなかった。海が、布のなかの襞のようにかすかに皺立つほか、空と見分けるものとてない。空がほの白むにつれ、海と空を分かつ暗い一線があらわれ、灰色の布は、ひとつ、またひとつ、あとからあとから走るいくつもの太い筋によって縞目をつけられ、水面 [みなも] のしたのその筋は、果てしなく、たがいの後を追い、追いかけあった。
 どの筋も岸辺に近づくほどに高まり、高く盛りあがり、砕け散り、しぶきの白いヴェールで砂浜のあたり一面を払う。波はしばしためらい、そして無意識のうちに息をする眠り人 [びと] のごとく、深い吐息を漏らしながらまた退 [すさ] っていった。水平線上の暗い一線は、まるで古いワインボトルが澱 [おり] を瓶底へと沈めガラスの緑色になりゆくように、しだいに鮮明になる。そのむこうの空もまた、白色の澱を沈めたかのように明るむ。あるいはまた、水平線のしたにうずくまる乙女の腕がランプを高く掲げ、扇の羽根にも似た白や緑や黄色に広がる光の筋を、天空に放ったかのように。彼女(end5)がランプをさらに少し高く差しあげると、大気は繊維のごとくなり、繊維は赤に黄色に燃えあがりゆらめきながら、まるでけぶる炎がかがり火から燃えでるように、碧 [みどり] の水面からひき剝がされてゆく。燃えさかるかがり火の繊維はやがて、ひとつの靄へ、ひとつの白熱する光へ溶けあわさり、上空にある羊毛のような灰色の空の重みを押しあげ、あまたの淡い青の微粒子へとそれを散らしていった。海のおもてはしだいに透きとおり、暗い筋も磨かれて消えるまでさざ波立ち、煌めいて広がっていた。ランプを掲げた腕はゆっくりと、より高くのぼり、ついに巨大な燃える光輪が姿を現わす。孤を描く炎は水平線のふちで燃えあがり、それをかこむ海がきららと黄金 [きん] 色に煌めきわたる。
 光は庭の木々にまで届き、葉を一枚、また一枚と透明にしていった。小鳥が一羽、高みで囀る。しばしの静寂。ついでもう一羽が、低いところで囀る。陽の光は建物の壁をきわやかにし、そして白いブラインドのうえに扇の先のように止まると、ベッドルームの窓辺の葉陰に、影の青い指紋を作った。ブラインドがかすかに揺れても室内はまだほの昏く、形をなさずぼんやりとしている。外の小鳥たちは、まっ新 [さら] なメロディを歌っていた。
 (ヴァージニア・ウルフ/森山恵訳『波』(早川書房、二〇二一年)、5~6)

  • 「きららと」、「きわやか」、「まっ新 [さら] 」あたりが勉強になるところ。
  • ただ、きょう読みすすめた各人のセリフというか括弧にかこまれた独白のところは(この小説はほぼすべてそれで成り立っているのだけれど)、いかにも海外文学の翻訳っぽい調子、リズムになっているなという感を得た。しかしこれは、訳者あとがきをさきにちょっと瞥見したのだけれど、「「女ことば、男ことば」をどう扱うかにも心を砕いた。ジェンダーニュートラルな言葉を目指しつつも、やはり一〇〇年前の言葉である。しかもウルフが内なる男性性、女性性を描いたことも考え、ある程度の言語的性差は必要と判断した」(369)とあるので、強いての意図的な選択だったようだ。だがそれでも、セリフもしくは独白としてかんがえたときに、どうもリズムがかたいというか、おもいのほかながれずに硬直的ではないかというのがこちらの主観だ。これはひじょうに難題ではあるのだけれど、とくに文末がむずかしい。文末はジェンダー性が顕著にあらわれるポイントでもあるけれど、それのみならず、一文一文とつらなっていくリズムの面でなめらかさや終止感や、さまざまな律動を生むのにかなめとなる部分である。そこでたとえば、13ページのバーナードのセリフ、「みなに変に思われないように、スーザンはさり気ない感じで元気よく野原を横切っていく。さあ、くぼ地に出たぞ。だれも見ていないと思っているんだな。胸のまえでこぶしを握りしめて、駆けだした。爪がまるめたハンカチに食いこんでいるな。光の射しこまないブナ林に行くぞ」というようなつらなりを読むに、この「~ぞ」、「~な」のならべかたが、いかにも従来の翻訳調という感じでいまいちながれずうーん、となったのだ。この文末はうえで言っている「男性性」のほうなのだろう。「言語的性差」を採用することにしたという判断、および一〇〇年前のことばだという認識からして、こういう感じでもよいのかもしれないが、独白部分を読んだ印象では、この小説はこのさきべつのかたちで訳す余地がまだのこっているなとおもった(すぐれた、すばらしい作品はぜんぶそうだろうが)。ウルフじしんが劇=詩と言っているわけで、戯曲の原理(とこちらが勝手に呼んでいるだけだが)を採用して、じっさいにセリフとして声に出されたときにどうかという観点から、もうすこしながれをつくれるんじゃないかという気がする。とはいえそこも微妙なはなしで、この小説の括弧内はつうじょうの会話やセリフではなく、どうやらおそらく各人の内的独白に尽きているようなので、またウルフはあくまで劇のような結構を借りただけで、これを劇として演じることは想定していなかっただろうとおもうし、ふつうの戯曲や小説のセリフにたいして適用するべき(とこちらが勝手におもっている)戯曲の原理をあてはめるのが正解なのかどうかは不明だ。ちなみに「女性性」のほうも、たとえば、「彼女が彼にキスするのを見たの。植木鉢から顔をあげて生け垣のすき間からのぞいたのよ。彼女が彼にキスするのを見たの。見たのよ、ジニーとルイがキスしてるのを。わたしのこの辛い気持ちをハンカチに包んでしまおう。ぎゅっとまるめこむんだわ」(12~13)という感じで、やはり従来の調子であらわされている。しかしこれはほんとうにむずかしいところなんだよな。こういうのをやらないとして、じゃあほかにどういうやりかたがあるの? というのがあまりないし。あまりないというか、そこはまだ開拓されていない領域ということなのだろう。そうかんがえると、むしろこの小説でこそ、そこにいどむべきなのかもしれない。
  • きょうはまだ21くらいまでしか読んでいない。物語とかリアリズム的表象(舞台や状況や背景のイメージ)としての基盤が希薄な作品なので、それをささえにすることができないから、一文一文を意味やイメージに変換していくのに時間がかかり、そうすばやくは読みすすめられない。登場人物のなかできょうちょっと注目したのはバーナードで、かれのまわりには「~したり、~したり」といういいかた、またそれにつらなるような表現がしばしばみられる。20ページまで読んでそうおもったのだが、まずそこに書かれているのはつぎのような文言である(ここは「授業」がおこなわれている状況らしく、そこからして人物六人は学校にかよっているらしいが、こまかい外的背景や設定はまだよくわからない)。

 「声に出すと、ことばのしっぽが右に左に動く」とバーナード。「しっぽを振るんだ。しっぽをひょいと払うんだ。あちらへこちらへと、群れになって空を飛ぶ。ひとつになったり、散らばったり、またひとつになったりしながら」
 (20)

  • 「右に左に」、「あちらへこちらへ」、「ひとつになったり、散らばったり」と、これらの表現は、ふたつのあいだを行き来するという共通の意味素をもちあわせている。それを「往復」「揺動」といった語彙で要約することができるだろうし、ばあいによっては「反復」の意も引き出せるかもしれない。つぎに、14ページにさかのぼる。さきほどうえで引いたセリフのつづきだが、状況としてはスーザンが「ジニーとルイがキスしてるのを」(13)目撃して、心痛のあまり「ブナ林」(13)へと駆けていくのをみかけたかれが、あとを追いかけて、かのじょのうごきを述べている部分だ。いわく、ブナ林に「近づくと両手をいっぱいに広げ、スウィマーみたいに影のなかへ飛びこんでいく。でも明るいところから急に陰ったから目がくらんで、つまずいて、光がちらちら射したり陰ったりする木の根もとに倒れた」(13~14)。ここにも「~したり、~したり」が登場し、バーナードじしんの口によって発されている(内的独白だとおもうので、じっさいには口からことばを発してはいないのだろうが)。そしてこの「ちらちら射したり陰ったり」するひかりへの言及は、一ページのち、バーナードがスーザンをなぐさめることばのなかでふたたびおこなわれる(このことばも一見すると、声に出してスーザンに向けて発されているようにもおもえるのだけれど、そうではなく、こころのなかでそのように呼びかけているとも読める。対者を志向することばはおりおりみられるが、すべてそういうふうになっているとおもわれる)。

 (……)ほら、ぼくたちからだを寄せあってる。ぼくが息するのが聞こえるだろう。カブトムシが葉っぱをかついでいるのも見えるだろう。あっちへ走りこっちへ走りするから、それを見ていれば、何かを(いまはルイだ)なにがなんでも独占したい、というきみの気持ちも、きっとゆらぐ。ブナの葉のあいだにちらつく日の光みたいにね。(……)
 (15)

  • おわかりのように、ここにはまず「あっちへ走りこっちへ走り」という、遊動をあらわすことばが書かれており、それは20ページの「あちらへこちらへと」とおなじものである。さらにバーナードはみずからそれを、「ゆらぐ」といううごきにむすびつけて言っているから、かれのまわりに出てくるこれらの表現を「揺動」という語で一括するのはわりと適切そうだ。そして、「ゆらぐ」うごきはさいごに、さきほど「ちらちら射したり陰ったりする」(14)と述べられていた、「ブナの葉のあいだにちらつく日の光」に回収される。したがって、「あちらへこちらへ」という遊動性と、「~したり、~したり」という並列表現は、堅固な状態をたもって安定するのではない揺動の性質として、バーナードじしんのことばによって系列化されているようだ。かれはそうした性質に目をむけ、志向する傾向があるのかもしれない。
  • そこでつぎに注目されるのが、スーザンが走り去っていったとき、バーナードといっしょに道具小屋にて「薪でボートを作っていた」(14)ネヴィルの評言である。「バーナードは、いつもブーンと鳴っている、垂れさがった電線や、壊れた呼び鈴ひもみたいだ。窓の外に吊ってある海草みたいに、いま濡れていたかと思うと、もう乾いている。ぼくを見捨てていった。スーザンを追っていった」(19)。ここでは直接そうは述べられていないが、「垂れさがった電線」や「窓の外に吊ってある海草」からは連想的なイメージとして、「右に左に」の往復的揺動が容易に引き出されるだろう。垂れたり吊られたりしている紐や線や帯のような物体は、現実世界でたびたび風を受けて左右に揺れるところがみられるからである。さらに、「いま濡れていたかと思うと、もう乾いている」という状態変化のすばやさを言う比喩は、ここでは直接的にはバーナードがネヴィルを「見捨てて」、「スーザンを追っていった」ことを受けたことばであり、それを指しているのだろうから、バーナードはひとつところにじっとしていられず、動き回っている、と翻訳できるかもしれない。だとすればそれはやはり、「あちらへこちらへ」に集束する遊動性への言及である。したがって、ネヴィルから見れば、バーナードは世界の揺動や遊動に目を向けるだけでなく、かれじしんがそうした性格をそなえていることになる。
  • ネヴィルはこれにつづけて、「ぼくはぶらさがったものは大嫌いだ。じめっとしたものは大嫌いだ。うろついたり、混ぜ合わせたりも大嫌いだ」(19)と嫌悪を表明している。うえとあわせたこのことばからすると、バーナードの性質はネヴィルにとって好ましくないもののはずだ。それに関連して、21ページを参照しよう。

 「時制の活用ごとに」とネヴィル、「意味が違う。この世界には秩序がある。この世界には区別があり相違があり、ぼくはその縁に足をのせたところだ。だって始まったばかりだから」
 (21)

  • このセリフからするとネヴィルは世界における「区別」と「相違」、そしておそらくそれによって築かれるであろう「秩序」へと目を向けている。それはバーナードの「揺動」や「遊動」とは対照的な性質である。なぜなら、「区別」や「相違」はひとつのものとして安定的に確立している状態のあいだに成り立つのにたいして、「ゆらぎ」や「揺動」はまさしく堅固に安定的な状態にとどまらないことを意味するからだ。したがってかれが19ページで、「うろついたり、混ぜ合わせたりも大嫌いだ」と言っていることに不思議はない。そのつぎの文からネヴィルは、「ほら、始業ベルが鳴ってる。遅刻するぞ。ほら、遊び道具は置いて。さあ、いっしょになかに入らなくちゃ」と授業の時間をまもるよう呼びかけているが(しかしだれに呼びかけているのかはさだかでない)、ここにも「秩序」への志向をみることが可能かもしれない。かれにとっては、授業前のあそびの時間と授業の時間とはかっきりと「区別」されており、その「区別」にもとづいて「遅刻」は避けられねばならず、ふたつの時間の「相違」をさだめる境を希薄化し、「混ぜ合わせ」てはならないのだ。
  • ついでにふれると、バーナードはスーザンに追いついたあと、「きみが見えたんだ」、「道具小屋のまえを駆けていくときに、「悲しい」って叫ぶのが聞こえたんだ。ぼくはナイフを置いた」(14)と言っているのだけれど、「バーナードはどこだ?」(19)とかれを探すネヴィルのほうは、「ぼくのナイフを持っているんだ。いっしょに道具小屋で、ボートを作っていたんだ。そうしたらスーザンがドアの前を駆けていった。バーナードは自分のボートを放りだして、ぼくのナイフ、船の竜骨を彫る鋭いナイフを持ったまま、彼女を追っかけていった」(19)と言っているから、ナイフにまつわるふたりの証言は食い違っている。
  • ロウダをのぞいて四人、バーナード、ネヴィル、ジニーとスーザンが「虫とり網で花壇を払」い、「蝶をすくい取って」(14)いるあいだ、生け垣のうしろにひとりかくれていたのがルイである。かれをみつけてキスをしたのがジニーで、その瞬間を目撃してブナ林へと走り出したのがスーザンだ。ルイは授業のあいだにこう言っている。「ジニーとスーザン、バーナードとネヴィルは、束になって、鞭になって、ぼくを打つ。ぼくの身だしなみの良さを笑う、オーストラリア訛りを笑う」(20)。だからかれは、六人のなかで(ロウダはくわわっていないようだが)、ちょっといじめにあっているような立場なのかもしれない。ここを読むに、「生け垣の反対側」にかくれていたときのかれの祈りが、より内実をともなって見えてくる。「ああ、どうか彼らが通りすぎますように。どうか砂利の上にハンカチをひろげて、つかまえた蝶を並べますように。アカタテハ、ヒオドシ蝶、モンシロ蝶と、数えあげますように。でもどうか見つかりませんように」(14)とかれが願っているのは、ここを読んだだけではわからなかったが、迫害されている立場だからなのかもしれない。
  • ところで前回この小説(と言ってよいのか?)を読んだのは二〇一三年中のことだったはずで、二〇一三年というのはこちらが本格的に読み書きをはじめ文学を読みはじめたさいしょの年だから、一年目でこれを読むというのはなかなかチャレンジャーだなとおもうが(しかしおれは読み書き開始半年で『族長の秋』を読んでぶっ飛ばされ、引きずりこまれたにんげんだ)、とうじは読書メーターをやっており、そこにたしかフリージャズみたいな小説だとおもった、と書いたおぼえがあるけれど、いまはぜんぜんそうはおもわない。まあふつうのスタンダードな小説からすればそれはもちろん前衛的ではあろうけれど、とうじの評言が意味していたのは、なにをやっているのか、どういうふうに成り立っている作品なのかぜんぜんわからない、というだけのことだったのだろう。


     *

  • 九時ごろに夜歩き兼買い物のため外出。かっこうはれいによってうえはジャージにしたはブルーグレーのズボン、そうしてモッズコートを羽織る。ファスナーもいちばんうえまで閉めて、さらにあるいているとちゅうに首もとのボタンをふたつ留めて冷気にたいする防備をかためた。アパートを出ると左に踏み出して南へ。すぐに公園で、間近まで来ると敷地の角あたりにある木のこずえからカサカサという音が立ち、小動物かなにかがいるかに聞こえるけれど、それは風もなく落ちた葉がこずえのなかでほかの枝葉とすれあう音だろう。足もとにも道の端に寄って、また点々と散らばったものがあり、それらもやはり微風にちょっとうごいて虫がかくれているような音を出す。とはいえ路地にいるあいだは明確な風のながれはなかった。公園を越えるとつぎの敷地はなにか建設中の施設だが、視線を落としながら行くうちにすぐ左にある敷地の囲いが、このあいだまで白いフェンスだったのにいまは黒い柵になっているのに気がついた。そのなかは建物のてまえにまだむき出しの濃い色の土がひろがっており、地べたで夜の暗さを混ぜられたそこには水道管のようなものがいくつか無造作に置かれたり、雑多なものが放置されていた。奥の建物はおおかた暗んでいるが一部蛍光灯のあかりがもれる通路のようなところも見え、暗い二階にも、作業をつづけているのかだれかがうごいている気配があった。敷地の終わりがちかくなると境はふたたび白いフェンスにもどる。ここまで風もふれてこなかったが車道沿いに出れば寒いだろうと見込んで行くと、やはり駆けるものはあるが、首を閉ざせばそこまででもない。東西にまっすぐ走るこの通りではおりおり街灯が秋のこずえに接して、まだのこっている黄や黄緑の色をぼんやり浮かび上がらせてちょっと興だが、これはおそらく設計者の狙ったものなのだろう。あるきながら見てみるに、電灯はどれも巨大なパセリじみた植込みをはさんで街路樹のそばに設置されているからだ。和紙を貼り合わせてつくった紙風船を内側からぼうっと照らし出しているようなそのこずえでもまた、そこに虫でもいるかのような音が立ち、ちからない気配で大ぶりの葉が落ちていく。
  • 時間は前後するが、建設中の敷地横をあるいているあいだに左の建物をみあげると、二階か三階ほどの上端のさらにうえにひろがる濃灰色の夜空もおのずと目にはいり、そこに一部白っぽいくゆりが混ざっているのであそこに月があるなとみていると、満月ではないがだいぶおおきい、ななめに薄く欠けた月の顔が雲に巻かれながらもあらわれた。その後も道中、見上げるたびにときどきのよそおいを見せることになる。方角は東、したがって西に向かっているあいだには背後に来ることになる。コンビニのまえを過ぎるとお好み焼き屋がすぐあって、夜そのあたりにかかればいつもマスクをつけていても香ばしいにおいがただよってくる。車道のむこうの対岸を背後から、ぎゃばあああ! みたいな叫びが渡ってきてちょっと笑ってしまったのだが、それは若い女子らの一団が走りながら騒いでいるのだ。自転車のものもあり、徒歩のものもあるようだった。ひとりおおきな声でなんとかはなしている女子があって、声色や語調は、さすがにあどけなさはもうないけれど、おちついた大人のやわらかさもそなえてはおらず、いくらかまだ詰まったような、威勢のよい一〇代女子のそれで、中高生にすら聞こえかねないけれど、たぶんかのじょらはちかくの(……)大学の学生のはずだ。駅やその周辺でみかけるすがたの多くは、ふつうの大学生とはちがって、やはり基本的に飾り気が薄く、楽そうな格好をしている。はなやぎの声だな、とおもった。こちらがT字路の横断歩道まで来るあたりでは対岸では歌がはじまっており、一節、たしか宇多田ヒカルの、you are always gonna be my loveとか歌うやつがあったとおもうけど、あれのメロディらしきものが聞こえたものの、それいじょうつづかずすぐに違う曲になっていたのでさいしょから別物だったのかもしれない。
  • さて、踏切りにひっかけられることなく渡ったわたしはいつもどおり駅そばの空き地にいたる。夜のためか草は量感ゆたかで、ここでは風も伸び上がったならびをゆらしており、数日前に見たときからいっそう繁ったのではないかという印象すら起こる。見上げれば夜空は雲の白い影が病院のうえから草原を越えて、暗い色をときにこぼしてにがしながらも一帯にひろがっており、空は視界を領するある程度のひらきさえあれば、いつ見てもその巨大さだけで圧倒的だ。さきほどコンビニのあたりでも見上げており、そこも車道に接してあたりに高いビルもないしそこそこ頭上が開放されているが、靄がかった白さの茫洋としたふくらみとところどころ差されている細い黒さの織りなしをみるに亡霊の河、とふっと浮かんで、そのとき河は白さのほうであり、黒い差しこみはながれのなかにたまさか浮かぶ岩のようなものだろうが、その巨大な白さをみながらまた、忘却の淵、レテ河の名をなにとはなしにおもいだしつつ、お好み焼き屋の香りにふれたのだった。きょうは病院前で裏に折れず、そのまままっすぐ進むことにした。草の空き地と病院のあいだには細道が一本はさまるが、その向こう側で自転車に乗ったまま停止している集団が五人、こちら向きでまえに三人、うしろに二人、ならんでいて、渡りながら目を向けるも、いったいなにをやっているのかまったくわからなかった。いくらか会話はしていたようだが、スマートフォンをみたりしているでもない。いつでも走り出せる態勢のまま、しかしうごかず、なにかが来るのを待ち受けているかのようだった。好奇心を払い去って過ぎるとこんどは院の庭に設置されたイルミネーション、ロータリーを縁取る白灯の線や、そのとちゅうにあたまのあたりだけ見える鹿らしき動物像や、先日も日記でふれたが山型のこずえに大雑把な螺旋状で巻きついている曲線など、おしなべてどれもすずやかに澄んだ白さのあかりをみやりながら歩いていった。
  • 病院と文化施設のあいだには公園があり、その入り口には巨木がひとつそびえて大影を道に投げかけている。付近は黄色や茶色っぽい枯れ葉のおびただしい敷きあつまりでフレークかなにかを砕いて撒いて埋め尽くしたよう、巨木の脇から公園内につうじる細道も、黄緑をふくんだ一本を脇にともないながら、足の踏み場もなさそうなほどに満たされていた。(……)通りまでは出ず、(……)の入り口横から裏に折れる。先般ここをとおったさいには庭にイルミネーションがもうけられて、詳細はわすれたものの一本の巨木が色付きのひかりでいろどられたなかに、こちらの好みな一趣向、白いひかりがゆったりと、ガラスの表面をだんだんとたどっていくしずくのようにながれおちるのがふくまれていたが、きょう見ればもはやあたりに飾りのひとつもなくなっていて、木々はただの木々のまま、どころか敷地がこんなにぽっかりとひらいていたかなと、まるでいろどられていたおおきな木が、明かりとともに本体ごとかたづけられてしまったかのような印象すら得たけれど、さすがにそれはないだろう。裏へ抜けると右に折れて、もと来たほうへともどっていく。病院の棟の裏側にはあしらわれた草木のなかで、イチョウが一本、葉の黄色を裸木の端にとぼしく与えてのこしている。そのあたりで背後からちかづいてきた足音が横を抜かしていくのを見れば、中年いじょうの勤め人で、コートを羽織って靴は革靴、左手は鞄を、持ち手に腕を通すようにしてかかえて手の先はからだのまえへ、右手は上着の裾あたりに垂らしていたが、なによりあたまがずっとうつむいている。はじめは左手でスマートフォンでも操作しているのかとおもったが、どうもそういう雰囲気でもなく、右手には缶の飲み物を持っていたらしく顔に持っていって飲む仕草はあったものの(飲めば手はまた腰の脇にだらりともどる)、それをのぞけば首とあたまは終始変わらずうつむいていて、じぶんの歩みをいちに、いちに、とじっと見下ろしながら歩いているような固定ぶりだが、その歩はといえば小足をおくるというのはああいうことか、歩幅はちいさめで、ながく滞空して踵からつまさきへとやわらかく踏んでいく種の足取りになく、高校生がよくやっている地面をこすって引きずるかに音を立てるだらしなさまでは行かないけれど、つっ、つっ、と、なにか地に向けて突き当たっていくような、かたい足の運びだった。しかしそうした小幅でもこちらより歩くのははやく、距離はひらいていく。
  • 駅の至近にある踏切りが見えると横からややにぎやかにやってきた一団が、これも勤めを終えたあとのいかにも社会人で、渡ったあとにまえに三列になったのをながめるに男が三人女性が四人、うしろは女ふたりが右にならんで男は左端を、そこにつらなっているのかそれとも二列目にいるのか微妙な位置取りで浮きながらも、いちおう最後尾にくわわっているようだった。前列と中列はそれぞれ男女のペアであり、はなしぶりの快活さや、駅まで行ったあとにありがとうございましたとかお疲れさまでしたとか、互いにかさねられたあいさつの声もおおきかったのを耳にすれば、仕事後に飲んできたあとなのかもしれないなとちょっとおもわれた。終わる時間がいくぶんはやいようだが、あしたも仕事だろう尋常な勤め人の平日ならばこんなところだろう。声を背後に聞きつつ細道にはいったこちらはまっすぐ抜けてスーパーに着く。
  • 買い物とちゅうのことはよかろうし、たいした印象もない。夕食のおかずにロースカツを買って、米もなくなっていたので買ったが、いつもは五個入りのところを三個入りにしたのは、あまりパック米にもたよってばかりいられないし、なんというか食い物がなくて困るという状況をもうすこしつくり、そとに出ざるを得ないようにしようかなというあたまもないではなかった。会計は(……)氏。品を読みこんではこぶ手つきをあらためてみれば、読み込み箇所をとおったあとに籠まで来たあとのそれは、なかなか減速的にやわらかくて、ある種の専門用品をあつかうひとの手のひらきかたちをおもわせる。スピーディーながらも丁寧にやろうという意識が見て取れる。礼を言って会計し、整理台で整理したが、きょうはリュックとビニール袋に入れるものの選択配分をまちがえたようで、袋のほうが不格好にふくれることになってしまった。退店すると横断歩道をわたり、すぐ目のまえから裏路地へ。足は急がない。しずかななかで遠くから、ピーポーピーポーいう救急車のサイレンが、さらについでパトカーのそれも渡ってくる。右手に提げたビニール袋がときおり足の側面をこすって音を立てる。いちど膝の裏にちかいところに誤ってあててしまい、そうすると一瞬ちいさなしびれが走っていてっと口にすることになった。それほど解放的な気分、自由の気息に満ちてはいなかったが、心身におちつきはめぐって、”WALKING IN THE RHYTHM”をおもいだすからそのメロディを、口笛までいたらず、舌のうえでころがすか、せいぜい下唇のうえにとどめるような吹き方で、ひかえめに口内にもてあそびつつ帰路を行った。


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  • 「ことば」: 40, 31, 9, 24, 21 - 25
  • 「読みかえし2」: 578 - 600
  • 日記読み: 2021/12/9, Thu.