2022/12/10, Sat.

 最愛のひと、今晩寒さのなかで(また風邪をひいたのでしょうか? 背中を本当の、あるいはただそんな気がするだけの悪寒が走ります)町をあちらこちらと通って、フラチーンを過ぎ、大聖堂を回り、ベルヴェデーレを過ぎる長い散歩の途上、ぼくは頭のなかであなたに限りない手紙を書きつづけました。こんな書き方では、あなたに詳しいことは分らなかったかもしれませんが、それでも最愛のひとよ、あなたは次のことをまたしても悟ったにちがいありません――そうでなければ、ぼくは途方に暮れるでしょう――つまり、ぼくがあなたに書くすべてのこと、ぼくという存在にわけ入る気紛れと無気力状態のため、厭わしく人工的な、表面的で媚態的な、偽りの、悪意ある、支離滅裂の相貌を呈しがちな、あるいはおそらくただそう見えるだけでなく、否定し難く実際そうであるすべてのことを越えて、またそれらすべての下に――それにも拘わらずその底(end274)に、時にはぼく自身にさえ閉される底において、ぼくが行い、また書くすべての悪しきことを、認識し、正しく評価し、途方に暮れるあまり泣くという事実です。あなたがぼくを好きであるということは、フェリーツェ、たしかにぼくの幸福ですが、ぼくの確信ではありません。というのも、あなたは思い違いをしているかもしれないし、ぼくが手紙であなたを欺く術策を弄しているかもしれないからです。あなたはぼくをほとんど見たことがなく、ぼくが話すのをほとんど聴いたことがなく、ぼくの沈黙に悩まされたこともほとんどなく、ぼくがそばにいてあなたに感じさせるかもしれぬ偶然の、また必然的な醜悪さについてなにも御存知ないのですから、――ぼくの確信はむしろ次の点にあります。ぼくが [﹅3] あなたを愛していること、あの短かい晩にぼくがあなたを認識し、あなたに捉えられたと感じたこと、ぼくはこの愛より弱くはなく、この試練に耐えたこと、この愛はぼくの本性に順応し、あたかもぼくと一緒にこの世に生まれ、いま始めて理解されたかのようだということです。
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、274~275; 一九一三年二月一六日から一七日)



  • きょうも真っ青な空がひろがってひかりもあかるい洗濯日和で、きのう溜まっていた洗い物はかたづけたから袋のなかはほぼ空だったのだけれど、そんならジャージと寝間着を洗うかとおもってきょうも洗濯した。覚醒は八時台にいちど、一〇時四五分くらいに正式に、離床は正午前。あけたカーテンのむこうを寝床から臥位でみあげたときに、晴れ空でないと電線のとちゅうについている白いボール状の索具みたいなものが認知されないのはあいかわらずで、一二月ともなればその表面に艶の付与もほとんど感じられない。離床するとそういうわけでまず洗濯機を稼働させ、手を振ったり、その場歩きをして足首をほぐしたりを少々。手首足首をやわらげるのが全身の血流にとってどうやらおおきく寄与するらしいぞということを看破した。そうして瞑想。一二時一一分から二〇分弱。きのうより左半身のこごりがすくない。足もそうびくびくうごかない。ただ空腹のところに血がめぐっていくので、腹がほんのわずかえぐられるというか、ちょっと気持ち悪くなってきそうな感じはあった。それが高まらないうちに切る。瞑想中は洗濯機がすぐそばでゴトゴト稼働していたし、切ったときもまだすすぎと脱水がのこっており、のこり時間の欄には14が表示されていた。とりあえず食事の支度へ。水切りケースのなかは昨晩先んじてかたづけており、はいっていたのはロースカツの容器と蓋のみで、それを鋏で切って始末。まな板を揺れる洗濯機のうえに出してキャベツを剝いで切る。つぎに豆腐を切ろうととなりの冷蔵庫のほうにうごくと、か細い金属音が耳にはいり、それは脱水にはいってガタガタやっている洗濯機のうえのまな板と包丁が振動をわけあって微妙にうごいているものだったので、落ちてはあぶないと包丁の位置を直し、豆腐を取り出すとながしのうえで手のひらに乗せて切る。和風醤油ドレッシングをかけて大皿を机に置いておくと、まな板と包丁を洗った。さいきんでは水切りケースをあげたりおろしたりするのがめんどうくさくて、床のうえに置いたまま、洗ったものはながしでちょっと滞空させて水滴を落としてから、さっとケースのほうに運ぶことがおおい。洗濯はのこり数分で終わるところだったので、もう時刻も一二時半を過ぎて陽に当てられる時間がすくないので、飯のまえに洗濯物を干そうとおもい、また手を振ったりしつつ数分を待った。そうして肌着一セットにバスタオルにジャージと寝間着を窓外にとりつけ。布団はすでにたたんでおり、座布団も出してあった。
  • それからしじみの味噌汁を即席で用意して食事。あたたかい汁物をまずいくらかすすって腹に入れてから、キャベツをつまんで口に入れると、ドレッシングと混ざった野菜のこまぎれの口当たりがけっこうやわらかくて、ずいぶんやわらかいな、なんかうまいなとおもった。ウェブを見つつ食事を取り、ほんとうはあとナーンドッグも一個食おうかなとおもっていたのだけれど、二品のみでなんか体内がけっこううごいてそれいじょうものを入れたいという気がなくなったので、パンはまたこんどに。洗い物を済ませ、白湯を飲みつつウェブをみたり、音読をしたり。両手両腕をさすったり指を伸ばしたりしつつ文を読む。
  • 寝床では一年前の日記を読み、二〇一四年のほうもひさしぶりに読んだ。去年の勤務中には(……)の成長をみている。高校受験をまえにしたこのあたりから明確に変わってきたようだ。

(……)それに、取り組みかたとか雰囲気とかは(……)なりにやる気を出してまじめになっていることがかんじとれる。全体的なやりとりのようすもそうで、この日の見送りのときに(……)はきちんとあいさつをした。それも、教室内でいちどさよならと言ったあと、こちらがおもてにもちょっと出て、さむいさむいともらしながら、彼が(……)とふたりで去っていくのをさらに見送ったときにも、(……)はこちらのほうに顔をむけてうなずきながらふたたびさよならとあいさつをおくってきた。これはいぜんの彼にはありえなかったことである。一年前なんかとくらべると、人間としてのふるまいかたの面で成長していることがあきらかに見て取れる。それが実現しただけでもじぶんのしごとはだいたい終わったとおもっている。そういう(……)の成長に多少なりとも寄与したという自負はあるし、じぶんでなければなかなかこうは行かなかったのではないかと自負もある。なんだかんだいっても、いままで塾ではたらいてきたなかで、彼とのかかわりがある種のいちばんおおきな体験だったことはまちがいない。

  • 「そういう(……)の成長に多少なりとも寄与したという自負はあるし、じぶんでなければなかなかこうは行かなかったのではないかと [いう] 自負もある」と述べていて、まちがってはいないとおもうが、しかし一年後のいま冷静にかんがえるに、(……)がそういうふうに変わったのはだんだん体質も変わって元気になってきたというのもあったのではないかという気がした。かれはちょっとからだができあがるのが遅かったり、飯もそう多く食えなかったり、夜寝られなかったり、あと血圧関連の問題で朝起きられなかったり、という男子なのだが(ちなみにさいきんもまた夜ねむれなくて、夕方前に起きるような生活になっているようだ)。もっともこの時点で(……)のからだがどれくらい成長してきていたか、おぼえていないけれど。
  • あと、「それにしても現代文とか学校の国語の問題のつくりかたって、もうすこしどうにかなる気がするのだが。この文脈で空欄になにがはいりうるか、とかではなく、もっとテキストにそくして、ここにこういうことが書かれてある、ここにこの理由がある、こことここがつながっている、みたいに、表層を地道に正確に読むちからをやしなう方向で教育したほうがいいとおもうのだけれど。意味を問うものにしても、もっときちんと語と語の対応や変換がたどれるような正確なつくりにしたほうがよいし、あと、ここ問題にしてどうすんの? みたいな、そこはこの文章の重要なところじゃないだろう、みたいな問いもある」とももらしている。
  • 二〇一四年のほうは本文外にながく書きつけ。さほど興味深いものではないが、とうじの懊悩(などというと大げさにすぎるが)をもらしている。まさしく自問自答の閉鎖性という感じで、こいつほぼなにも言ってねえな、とちょっと笑える。

高橋源一郎『さよなら、ニッポン』を読んだ。普通。いくつか共感するところやおもしろいところはあったと思うが、具体的にどういう箇所だったか思い出そうとしても出てこないし、読みかえして書き抜こうというほどのモチベーションも生まれない。この小説の内容とは直接的な関係はないが(というよりはどんな小説や評論にも関係することだが)、文章を、作品を、どう読むにしても、結局深読みとか解釈が生まれてしまうのではないか? 小説をどう読めばいいのかがわからない、つまり、どう読めばおもしろいのかがわからない、ということがあって、読み方の参考にしようと評論のたぐいを読むわけだが――しかし、どう読めばおもしろいのかわからない、というのはどういうことなのか、本当のことなのか。たとえば、『族長の秋』について、あれはもうただ読めばそれだけでおもしろいということを確信しているし、それならばどう読めばいいのかわかっているのではないか。何がわからないのか? 読み方がわからない、というよりは、語り方がわからない、のだろうか。小説について、ある作品について、より深く語りたい、という欲求があるのだろうか。しかし、深読みのたぐいはどうもおもしろくないと感じる。解釈があると、それがおもしろい解釈であっても妥当すると思われるようなものであっても、これは解釈だな、と感じてしまう?

小説作品として全体の意味を探すような読み方、これはたいしておもしろくないという確信がある。なぜそうなのか、ということを説明するのは好みの問題でもあって難しいが、ひとまずのところは、小説の豊かさが要約されてしまうからだ、ということはできる。要約するということは細部を捨象するということだ。小説の姿を矮小化することになるわけだが、しかしこれはどんな作品についてどのように語るとしても避けられないことではないのか? こんな抽象的な一般的な思索をもてあそんでいても意味が無いか? 具体的な作品に即して読み方を考えていくべきだろうか。

一応の姿勢としては、やはりそれぞれに固有のおもしろさを発見していきたいわけだ。それが解釈であるか、深読みであるか、読み替えであるか、それは重要なことではない、か? 基本的には作家がそこで何をやっているのかということを見ていくところは変わらないだろうが――。しかしそれが意味の深読みとどう違うのか、というところが疑問としてあるわけだ。答えは出ないがとりあえずいまはここで筆を置く。やはり具体的な作品に即して考えないとしかたがない。

「自分はこう感じる」「この文章からはこういう感じを受ける」という読み方は結構おもしろいのにたいして、「自分はこの小説の意味はこうだと思う」「作者が言いたいことはこうだと思う」という意味の読み解きがたいしておもしろくないのはなぜなのか。意味の読み解き、深読みには、柄谷行人蓮實重彦が対談で言っていたことがヒントになるかもしれない、自分はこれだけ潜れる、深いところまでいける、自分はこれだけ深読みができる、作品を理解している、というようなニュアンスがあってそこが鼻につくのだろうか。評者の「私」が出すぎてしまう(しかし、だったら文章から受ける感じを語ることにはそれはないのか? いや、あるだろう)。

ひとまずはおもしろいと思う評論を見つけるべきだろう。保坂和志のエッセイは結構おもしろいのだが、それがなぜおもしろいのか、自分に合うのかということは理解できていない。

結局おもしろい「解釈」の方法を探しているということなのだろうか。

結局問題意識としては、どう小説作品を描写するか、ということがひとつ。もうひとつは、小説について語るどんな言葉も基本的にはおそらくその小説を超えることがないのだから、なにかおもしろいことをやろうとするならば、そこから得たものを活かして別の小説をつくるしかないということ。このふたつはおそらくまったく無関係ではない。ようは小説を読んでそのことを表現するには、自分で書きかえなくてはならないということではないか?

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すべてを書きたい。この世のすべてを書くことは無理だ。せめて身の回りのすべてを書きたい。現実にはそれも無理だ。しかし、原理的にはこの世のすべてが書くに値する、という信仰を確認すること、確認しながら日々を生きること。本当にそうなのか、という疑問はないでもないが――たとえば、日記には汚いものは出てこない、おそらく意識的に書こうとしなければそうしたものは書くときの自分の意識のなかで自然に捨象されてしまうのだ――本当にそうなのかどうなのかというところとは離れてただ信じるのが信仰の信仰たるゆえんだ。

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柴崎友香『ビリジアン』の感じがだんだんわかってきたのかもしれない、同じということはありえないだろうが――ああいう方向に文章をチューニングしはじめているつもりだ。そしてしばらくはそういう書き方をしていく、そのあいだに高校のころのことを書き出し、完成させられるといいのだけれど。仮題は『降っても晴れても』とする。『ビリジアン』ももう一度読む必要がもちろんあるだろう、Aくんたちとの読書会でとりあげてみてもいいかもしれない、来月に。あまりおもしろいと思われるとは思えないが。

  • 仮題としてあげられている『降っても晴れても』というのはもちろん”Come Rain or Come Shine”から取ったものだろうが、柴崎友香ということで、『寝ても覚めても』の題もとうぜん連想していただろう。この時期から一貫しているじぶんの風景や天気への志向をすでにしめしているものでもある。じっさいこの高校時代のことを題材、というか素材にした小説のアイディアというのは、一人称をまったくつかわないけれどしかし三人称ではない、たしかにそこにいはするのだけれど存在感がひじょうに希薄で、世界に溶けこんだようにしてじぶんのまわりやかかわりのある同級生をみている、みたいな語り(手)を、『ビリジアン』を参考にしたかるくさらさらとした文体で、かつ時系列不順の断章形式でやることで、高校生活三年間の時空を断片的に浮かび上がらせるみたいなもので、各断章にかならず天気の情報(要素)と色彩をひとつ入れる、というようなものだった。とにかく話者の個人性を希薄化して、世界と一体化している視線のように書きたいとおもっていたので、男女のどちらなのかもわからないようにするつもりだったし、学校いがいの時間も書くとしても、家庭や家族なんかはまったく出さない予定だった。ただそこにいるのはたしかで、かつ同級生とのかかわりもあることを示すために、ほかの人物のなまえはあだなにしたり、あと「こっち」という一人称の代替としての指示語だけはつかうつもりだった。いままで実現していないこの小説の案というのは要するに、バルトの『偶景』をじぶんなりにアレンジして小説化したいという欲求で、あとかれがコレージュ・ド・フランスの講義録で言っていた、「俳句の本」(だったか?)とかいうアイディアも参考源としてあたまにあったはず。要は意味の零度、断章をいくらかさねてもそれが垂直につみあがらず、たかまらず、ひたすら水平性の世界が天気と風景とともにつづくみたいなイメージだったろう。断章の順序は色でかんがえて、時系列ではなくそこでなにかしらの法則性とか統一性とかをつくるか? とか、おりにふれていろいろかんがえてはいたが、いまさらもとのアイディアのままでこれをやるつもりにはならない。今後なにかべつのことに生かされる未来はあるかもしれないが。
  • そういえば一〇時四五分くらいにカーテンをあけた直後インターフォンが鳴って、訪問客のチャイムが鳴るのなどそうとうひさしぶりだったので寸時困惑するようになったが、急いで身を起こして布団から抜けて、冷蔵庫の裏の壁についたモニターのところに行けば、だれだかわからない知らない女性が立っており、眼鏡をかけてコートを着込み、マフラーもつけていたはず。防寒対策は十分な格好だった。それで「通話/終了」のボタンを押してはい、と出ると、とつぜんすみません、というあいさつがあって、このへんの家をまわって聖書を無料でおしえている(だったか配っているだったか)ものだといったので得心し、Jehovah’s Witnessのひとかなとおもった。聖書をご覧になったことはありますかと聞いてくるので、ああ、まあそのー、友だちが……まあくれたといいますか、となぜかちょっと笑みになりながらこたえると、ああ、そうなんですね、とかえる。なのでそれでちょっとだけのぞいたことはあります、とつづけると、あのー、聖書って、日常生活にもためになることがいろいろ書かれているので、みたいな文言があり、URLを書いた紙をポストのほうに入れさせてもらってもよろしいでしょうか? と来たので、はいと了承した。しかし午後五時(ちょうど!)現在、きょうはまだ部屋を出ていないので取りに行っていないが。それで別れ。エホバの証人にはエホバの証人でいろいろ問題があるのだとはおもうが、かれらも統一教会の件があって布教はめちゃくちゃやりづらくなっただろうなとおもう。
  • 音読後は日記をやるか布団でなまけるかという普段だが、きょうは立って身をひねったりしているときに収納スペースが目について、ちょっとだけでも整理するかという気になった。じぶんがいま座っているのは椅子であり、目の前には長方形の机が横にながく置かれてある。顔の方角は南である。右を向けば布団をはさんで西窓、左を向くと入り口のほうだが、机の端からちょっと浮いてまもない位置には、壁のとちゅうに突き出したようなかたちの収納スペースがもうけられていて、そのしたは紙袋に入れて実家からもってきたまま手をつけられていないおおくの本たち、それにこちらに来てから買い足した本たち、その他ビニール袋や紙袋などが雑多にあつまっていて散らかっている。収納スペースは右端に衣類がたたんで寄せられてあり、奥は肌着類などを入れているボックスと、タオル類を入れているボックスがならんでいるが、そのてまえの部分がやはりいろいろ置かれて散らかっていたので、ここをかたづける気になった。それで職場の給与明細とか、いろんな封筒とかを整理。給与明細はそれらの袋のうちひとつにまとめて、二〇二二年の明細はぜんぶこれにあつめることにし、そうすると封筒があまるので、「葉書」と「小間物」と書いたものをつくって事物を整理しておいた。小間物はもともとやはり職場の封筒に入れてあったのだけれど、それが破けてボロくなっていたのであたらしい封筒にうつしたかたち。そしてもともとそれは印鑑とかパスポートといっしょにビニール袋に入れて足もとに置いてあったのだが、まあ貴重品は貴重品ということにしようとビニール袋はそれらでまとめ、「給与明細 2022年」「葉書」「小間物」の封筒と、その他いろいろな封筒類は、やはり本たちの外縁、足もとに置いてあるひとつの紙袋のなかに突っこんでおいた。ここにも本がはいっており、くわえてゴミ出しカレンダーとか、役所からおくられてきたハンドブック類とかがあつまっている。あと都民共済とか国民年金基金の通知封筒とかがあって、それらはどうしたもんかなといま机上にあるのだけれど、共済すらするほどの金の余裕がこちらにはないだろう。さらに行政のほうから価格高騰を受けて五万円くれるという通知がいぜん来ていて、しかしそのときなかをのぞくと、今年の元日時点で扶養だったにんげんは対象にならないとあったので、これ転入してきたばあいもおなじだよな、じぶんは対象外だよなとおもっていたのだが、あらためてホームページをみて確認するとやはりそうなので、五万円はもらえない。そしてここでようやく水道局アプリに登録した。ここ数回は支払い書で払っていたが、クレジットカードに紐付けなければとおもっていたのだ。おもっていながらも生活のこういう事務的なことがらにまったくやる気がむかないのがじぶんの性分なのでずっと放置していたのを、ここで解消した。ほかにもそういうことはたくさんあるのだが。まず部屋のかたづけがそうだし。雑紙系のゴミとかずーっと壁際に放置してあるしな。すこしずつでもかたづけていかないと。あと服もやっぱりラックを導入しないとスペースがなさそう。そのラックを導入するスペースすらないのが現状だが。収納スペースはほんとうはおおかた本の置き場所にして、てまえだけフリースペースをちょっとつくり、いま本が群れをなして占領している収納スペースしたにタオルとか肌着類とかを置いたほうがいいんだろうとまえからおもっている。
  • そのあと日記に行かずに洗濯物を取りこんでたたみ、そのままちょっとゴロゴロしたが、LINEをみてみると(……)にかんしてはなしがなされていたので確認し、寝床を立ってメインのパソコンのほうにうつってコメント。そうしてきょうのことを記述。五時一七分。もう暗い。コメントもふくめてたぶん三時半くらいに文を書きはじめたとおもうのだが、これだけ一気に綴っても背があまりこごらなくなってきたので、手をほぐしてあたためるのがやはり正解なようだ。


     *

  • すでに日付は一一日に変わった。越えて三分だ。いまきのうの外出路のことを終えて記事をしまえたところ。書けばおおくなってだいぶの労が要った。はじめのうちはけっこうがーっと書くような、前のめりになるようなゆびのうごきをしてしまい、そうするとやはりからだが疲れ、こごり、昂進してきて、あたまをめぐる言語もうるさいように響いてきて、身がだんだん内から緊張し、このままだとよくない、吐きそうになるなとおもっていちどはなれて、寝床でころがりながら一時休んだが、もどっても書きぶりと昂進感が変わらない。それで手を振るかと立ってぷらぷらやりはじめて、やっぱりちからを入れないのが大事なのだ、最小限のちからで時間をかけてほぐしたほうがよいと、ぽけーっとかるいような感じで振りつづける。目を閉じてそうやっているとたしかにリラックスしてくるのでたいしたもんだなという感じだ。たまに振るのをとめて手から腕までさすりもするが、そうしてみると左手の甲の一部に、なんかここだけほかよりつめたくなっているなという箇所があって、打鍵によるうごきの具合とかでそこだけ血流がわるいのだろうか。いずれにしてもけっこう時間をかけてぷらぷらやっていたらあたまから首から肩から背までかなりほぐれておちついたので、書きものにもどる。ところがここで、文化施設から裏に折れてうつむきあたまの中年男性をこまかく描写しているとちゅうに、メモ帳がなぜかとつぜん画面から消えた。なにが起こったのかわからないが、文を書きすぎてダウンしたのだろうか。だいたい一段か二段ごとにはNotionにコピペしてまっさらにしているので、そんなはずがなかろうとおもうのだが。なにか余計なキーを押してしまったのか。いずれにしてもその範囲の記述が一挙に消えて、もういちど書くのめんどくせえなとおもったが、たいして落胆もうんざりもせずにすぐにまた書き直しはじめ、するととうぜんさきほど書いた文を一字一句そのまま再生できるわけがないから、ちがうながれ、ちがうことばの順序になって、これはこれでちょっとおもしろいなとおもった。しかもこの消失でおちついたのか、リズムがそれまでよりもしっかりと踏むような、読点をたびたび入れて急がずに置いていくような、そういう感じになってきて、くわえて記述の順序、さきのながれをあまりかんがえず、とりあえず一範囲を書いて点を置き、ながれを宙に浮かせたところでそれに応じられる要素情報をえらんでつぎの一範囲を置き、と、俯瞰的構成力というよりはリズムにみちびかれてつなげていくような、半 - 一筆書きのようなやりかたになって、こうなれば楽だ。いぜんはけっこうこういう書き方ができていたんだよな、とおもいだした。さいきんはとんとなかったことだ。またこうしたい。心身がおちついていればできるのかもしれない。
  • そのほか夕刻からLINEでのやりとりはつづき、(……)についてとか振り返って整理するためにはなしておいたほうがいいかなと、今夜通話はどうかと提案したのだが、もろもろあってあした(……)の貸し会議室で三人あつまることになった。(……)はきょうから出張ときいていたが、それはどうも宮古島らしい。


     *

  • 零時をまわってから湯を浴びて、出ると夜食を食おうかどうしようかまよったのだけれど、けっきょく食べてしまった。味噌汁と、スティックチキンをおかずにして米。そのあとはねむけと重さがやってきたし、特になにかをやったというおぼえがない。三時くらいに寝床にうつって、きちんとねむりに向かわないまま意識をうしなったはず。べつにこんなこと書かなくてもよいのだけれど。


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  • 「ことば」: 40, 31, 9, 24, 26 - 30
  • 日記読み: 2021/12/10, Fri. / 2014/4/14, Mon.