2022/12/12, Mon.

 遅い、遅い。またいろんな人と無用の晩を過しました。支えがないと――ぼくはいま書いていないし、あなたはベルリンです――ぼくは人の思うところへ引きずられていきます。ある若い婦人がその小さな乱暴な男の子のことを話し、それはまだ一番ましな部類でしたが、それさえとても完全には我慢できず、無関心に――彼女がぼくの気に入ったにも拘わらず――眼差をぴくつかせて彼女を見過し、おそらくはこの機械的な眼の動きで彼女をとまどわせ、話に身を入れようと唇を嚙みしめたのですが、あらゆる努力にも拘わらず心ここになく、といってまた他のどこにもいませんでした。とすればあるいは、ぼくはこの二時間のあいだ実在しなかったのではないでしょうか? そうにちがいない、というのもあのぼくのソファに眠っていたなら、ぼくの現存はもっと確信あるものだったでしょう。
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、280; 一九一三年二月二〇日から二一日)



  • すでに労働を終えて帰宅したのちの午前一時二〇分である。食事を取り、洗い物をすませたところ。食ったのは刻んだ白菜に麺つゆをかけただけのもの、煮込みうどんのさいごののこり、それにきのう貸し会議室に行くまえにみんなで甘いものでもと買ったがじぶんでは食わなかったドーナツ(カラフルチョコリングみたいなやつで、チョコレート)


     *

  • 起床時に読んだ一年前の日記より。この二〇二一年一二月一二日に、山梨の祖母が亡くなったという知らせをえている。

(……)おぼえていることは風呂のなかで祖母の死について多少かんがえたということで、訃報をうけたこの夜の時点で、かなしみやさびしさというたぐいの感情はまったく生じなかったのだけれど、風呂につかりながらそれをじぶんで認識した。急ではあったものの、もう九〇を越えていて(九二になる直前だった)いつどうなってもおかしくないといえばそうだったし、またふだんからいっしょに暮らしていたわけでもないので、明確なかなしみをおぼえなくともふしぎではない。ただ、父方の祖母のことは好きだった。ひとつ屋根のしたでともに暮らしていた母方の祖母よりもむしろ好きだったかもしれない。べつに母方の祖母のこともきらいだったわけではなく、ふつうに好きだったが、ふだんからちかくにいるぶん鬱陶しいということもあったわけで、父方のばあいはそういうぶぶんを見ることがなく距離があったからこそ孫に見せるよい祖母としての印象のみがのこって好意がおおきいようにかんじられる、ということだろう。とはいえ、山梨の祖母はじつにできた人間で、なにしろいちども怒ったところ、不快をしめしたところ、おおきい声を出したところ、子どもを叱りつけるところを見たことがない。悟りにいたったかのようなおだやかさと柔和さをつねにたたえており、こちらじしんも気をつかったり心配したり応援したりすることばしかかけられたおぼえがない。子は五人いてみなそだてあげたのだからまったく立派なもので、(……)じいさんが、こちらにはやさしい祖父としての顔しか印象にないけれど、酒飲みだからむかしはけっこう荒れたこともあったようだし、父親なんかも、じぶんの世代や家だと親父ってのはこわい存在で、食事のときにはなしかけることもできなかったといぜん言っていたから、まあ昭和的な家父長の典型的なイメージというか、頑固親父みたいなところもたぶんあったのだとおもわれ、(……)さんはそれで苦労したこともいろいろあったのではないか。ところで数年前に父親が、いままでの人生のことをちょっと書いてみてくれと言って祖母に来し方をつづらせたことがあって、何年かまえの日記にもそのことはふれているのだけれど、それがけっこういいかんじの文章で、戦争時に疎開に行くさい、(……)駅から列車に乗ったときに、おなじ車両にいた女子学生だったかが、なんじなんふん(……)発の列車で、みたいなうたをうたっていて、それでいまでもその時間をおぼえている、という内容がひとつには書かれてあり、じぶんはそのささやかな細部にかなり感動した。いまこうしてふたたび記していてもやはり感動するし、過去がたしかに存在したのだ、過去があり、ひとりの生がたしかに存在していたのだというすさまじいリアリティをおぼえる。あきらかに、小説家的な感性をもった人間にしかとらえることのできない世界の細部だとしかおもえない。だから祖母はたぶん、文章を書くという機会や習慣をあたえられれば、よい書き手になっていたのではないかととうじかんがえたものだ。

風呂のなかではそういったことごとをおもいだし、そのあとで例のごとくじぶんもそのうち死ぬんだなあという感慨にながれたのだけれど、じぶんのばあいこのある種のメメント・モリは、それいじょうなんのおもいにもつながらない。ときにうすいむなしさや無常感をおぼえることはあるけれど、じぶんもそのうち死ぬんだなあ、から、だから精一杯生きなければならないとか、生きているうちにやりたいことをやらないととか、あるいは反対に、どうせ死ぬのだしてきとうにやればいいやとか、生なんてどうでもいいわ、とか、なんであれそういったべつの感慨がまったく生じてこない。じぶんもそのうち死ぬんだなあ、というそれじたいがそれだけでひとつの感慨となっており、いつもそこで停まってそれいじょうひろがらない。死ぬのが怖いというかんじもない。とはいえパニック障害の全盛期は心臓神経症があって、つぎの瞬間に心臓が破裂して(現実には破裂するというより、うごきが止まるとか、血管が詰まったり破れたりするとか、そのくらいのことしかないのだが、なぜかじぶんの恐怖のイメージは破裂だった)死ぬのではないかという不安に日々おそわれてねむれぬ夜をすごしたりしたし、鬱様態のときも死にたい死にたいとベッドに臥せっていながら橋から飛び降りることをかんがえるとこわくてとても実行にうつす勇気が起こらなかったりもしたのだが、いまはそういう恐怖がまったくない。ただこれはやはり、なんだかんだまだ若いから、じぶんの死というものがどうしてもかなりとおい気でいて、抽象的なイメージでしかないからだろう。じぶんの心身にもっと具体的な死の気配みたいなものが生じてくれば、やはりおそれるのではないか。それでいえばこの日風呂を出て洗面所でからだを拭いたり鏡にむかったりしているときに、身内の不幸というか、人死にというのはつづくものだ、という観念があたまのなかに浮かんで(それはもちろん迷信にすぎず、偶然を事後的にそういうふうに論理づけするという態度が一般化されてひとつの疑似法則のごとくいわれるようになっただけなのだが、こういういいかたやかんがえかたがある程度一般的な観念として流通しているようにもおもう)、それにつづいて、ではつぎに死ぬとしたらそれはじぶんではないか、という可能性も即座によぎり、その瞬間だけは死がすこしリアリティをおびてちかづいたような不安をかすかにかんじた。これはなかなかおもしろい。こういう理路はなんの合理的な根拠もない迷信なのだけれど、迷信であれなんであれそういうふうに論理のみちすじが引かれてしまったことで、抽象的なかなたにあったじぶんの死がともかくもいまのじぶんに接続してくるようにかんじられたということだろう。しかもその論理づけがなんの合理的な根拠もない迷信だからこそ、むしろそこに不安が生じるのだともかんがえられる。なぜならば、なんの合理的な根拠もない迷信だからこそ、合理的な論理でもってそれをかんぜんに否定しきることは不可能だからだ。

  • あと、これは前日に読んだ2014/4/15, Tue.からだが、先日ふれたとうじの小説案にかんして、欄外に以下のような書きつけ。ところで四月一五日というのはヴァルザーの生誕日であるとともにムージル(とジュネ)の死んだ日付でもあるらしい。

男か女かわからないような語りをすること。男らしさのようなものを見せないこと。一人称をつかわないこと。大人というよりはいくらか子どものような語りにすること。やわらかい言葉づかいをすること(ひらがなを利用する)。一文を短くすること、どのくらい短くすればいいのか見極めること。短くするのみでなく、柴崎友香『ビリジアン』の語り手の見方、独特な論理・観察のありようみたいなものを見つけること。それでいて細部に向かっていくこと。言葉をあまりついやすことなく細部を描き出すこと。さりげなくやること。重さ・かたさ・厚さを捨て、軽く・やわらかく・薄く・淡くやること。なにより大切なのは、なにも起こさないこと。

  • すでに一二月一五日木曜日なので、この月曜日のことは労働にかんしてだけ書いておければよかろう。行きの道中はすでに忘却の淵へとながれさった。あれだ、いっぽんはやいほうが空いているのではないかとおもってはやめに家を発ったのだが、いざ駅に着いてホームに行ってみればむしろいつも乗っている電車より混んでいるとすらおもわれて、この時間はこれでいいのだなと、すでに到着していた向かいの後発に乗りこんだ。ここまでからだの具合はなかなかよかったのだが、どうせまた緊張が高まるかもしれないし、勤務も安心してはたらけたほうがよいのでもう飲んじまおうとおもって、ひとがまだぜんぜんいないうちにヤクを一錠追加で服用しておいた。そうすればとうぜん問題はなし。勤務のあいだもわりと悠々行けた。
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 帰路や帰宅後も亡失。