2022/12/17, Sat.

 「あなたがわたしから奪われるかもしれないという感情」――どうしてぼくがそれを持たないわけがありましょう、最愛のひと、ぼくが自分にその権利を否認しているのだから(しかし「権利」は弱すぎ、「否認して」は弱すぎます!)、ぼくは自分に、あなたを保持する権利を否認しているのだから。思い違いをしないで、最愛のひと、災いの元は距離ではなく、反対に、その距離にこそ少くとも、あなたに対する権利の見せかけがぼくに与えられており、ふたしかなものがふたしかな手で摑まえられるかぎり、それをぼくはしっかり摑んでいます。
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、301; 一九一三年三月九日から一〇日)



  • 午後三時である。シャワーを浴びてさっぱりしたところ。しかし湯を浴びて浴室から出てくると室内がさむく、裸の肌につめたい空気が一気に襲ってきて、これからさらに気温が低くなったら血圧の急な変動で死ぬんじゃないかとおもう。エアコンをつけておけばまだましだろうが、じっさいそうしてもエアコンは戸口のほうにある浴室からははなれた部屋の隅(南西の角)にあるので、あたたかさもたいして届きはしない。きょうの起床はあいかわらず一一時過ぎと遅くなってしまった。覚めるとれいによって深呼吸をしつつ手や腕をさすったりするのだが、やはり右腕よりも左のほうがつめたくなっている。手の甲から腕の外側、そして肘のあたりにふれるとあきらかにそうだ。とはいえここ数日覚醒後の深呼吸をまた習慣化したから、意識をとりもどした瞬間から手はいぜんよりほぐれており、冷えきってかたまっているということはなく、布団のしたでわりと生気をもっている。一年前の日記にたいしたことは書かれていなかった。起床すると瞑想するのはいつもどおりだが、きょうはそのまえに手をちょっと振る。首や肩まわりをほぐすにはそれがいちばん良いような気がする。あと椅子の背後にあたまをあずけて左右にころがすのも。それから瞑想。一一時三五分くらいからはじめて、目をあけると一二時二分だった。静止しているあいだは進行中の詩片のことがひさしぶりにめぐったり。食事はキャベツ・イタリアンレタス・豆腐のサラダに、即席の味噌汁、レンジであたためる包みピザとバナナ。バナナは安くなっていたので買ったやつで、見た目は皮がもうそこそこ色を変えてきているのだが、きのうだかおとといに一本食ったらおもいのほかにまだ硬かったのだが、きょう食ってみても中身も茶色くなっている箇所がありつつもところどころ歯ごたえがある。そういう種なのか、それとも冷蔵庫に入れているためか? 食後は二時過ぎまで洗い物もせず椅子についたままウェブを閲覧して過ごしてしまった。その後食器などをかたづけ、湯を浴びていまにいたっている。そういえば夢をみたのだったが、地元の図書館分館((……)図書館)が舞台で、書架室のまえ、入り口の横あたりに文庫本の棚があり(いまはどうだか知らないがむかしはじっさいにそうで、ライトノベルが置かれてあったからなにか借りて読んだおぼえがあるし(たしか『ロードス島戦記』なんかがあった気がするが、しかしこの作品は読んだことがない)、あとシャーロック・ホームズシリーズもそこにあったはず(こちらはすこしだけ借りて読んだ))、そこをみると岩波文庫ワイド版のウルフ『波』があり、のぞいてみれば二〇〇八年くらいに訳されたもので、訳者名は松本なんとかみたいな感じだったとおもうが、いま読んでいる新訳とくらべてこっちのほうがなんか訳文よさそうだなと感じられて、こっちを買えばよかったとおもった。もちろん現実にはこのような『波』の版は存在していない。新訳いがいだとむかし川本静子がみすず書房のウルフ著作集の一巻として訳したものしかないはず(じぶんが過去に読んだのはもちろんこれで、そのときは(……)図書館で借りたのだったが、その後古本屋で入手して手もとにある(アパートに持ってきてあったかどうかわからないが))。それから書架のなかにはいって、いまは『波』を読んでいるところだからなにも借りる気はないが、なんか疲労回復とか健康法とかについてのかるい本ないかなとさがしているうちに目が覚めた。母親もいたとおもう。
  • きょうの天気は文句なしの、まったくの、もうまさしく曇りというほかないという感じの曇り。雨にいたることはなさそうだが、陽の気配を微塵もただよわせない、平板な薄暗さを帯びたかんぜんな白曇り。なんというストレートアヘッドな曇天か。あまりにもいかにもな曇り空のそのいかにもさがこれはこれですごい。白湯を飲みながらここまで記して三時半直前。さてどうするか? 一四日いこうをすすめるべきなのはそうだが。しかし、さくばんのように、書き抜きをやりたいようなきもちがどちらかといえばもたげている。


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  • ならばそれにしたがおうではないかということで、岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書、二〇〇三年)の書き抜きをした。読んだのはもう二年も前だが。そのころからずっと書き抜きをできずにいる本がたくさん溜まっている。この本もなかなか良い本というか、ひじょうにわかりやすい概説書という感じで、わかりやすいうえにただ入門的なだけではなく重要なポイントに目配りがとどいているという印象で、ジュニア新書ではあるけれどこちらのようなにんげんが読んでも益があるものだから、ジュニア新書もあなどれない。戦前生まれの学者はやっぱり器がちがうなあ、なんてことをおもってしまう。書き抜きをしたいというのはBGMとしてでもいいから音楽にふれたいという欲求ともかさなるところがあって、きのうもGuardianの二〇二二年のBest Album 50のページを見て、Nilüfer Yanya『Painless』というのをながした。きょうもなんか知らんなまえをてきとうにかけてみるかと49番のTove Lo『Dirt Femme』というのをながしたが(50番のPhoenix『Alpha Zulu』はいぜんにもうながしたことがあったので)、これらふたつはとくにピンとこない。やっぱりジャズなのか? とおもい、おなじくGuardianでジャズの新譜レビューとかみてみようとカテゴリをかえると、Ben Crosland『Songs of Solace and Reflection』というのをとりあげた記事があって、それをながしてみるとこれがよかった。くりかえし聞ける。編成が、Ben Croslandはベースで(エレベ)、Clare Bhabra、Deirdre Bencsikというヴァイオリンおよびチェロが下敷きとなるそのうえにTheo Travis(フルート)、Steve Waterman(トランペット)、Alan Barnes(クラリネット)の三者がメロディを吹いたり合奏したりソロをやったりするというわけで、だから室内楽的なアンサンブルなのだけれど、こういうのはけっこう好きだ。二曲目(”Cowgill Lament”)のややアブストラクトな和音の推移なんかは、これと似たのをどこかで聞いたことがあるなとおもったのだが、Fabian Almazanのなにかのアルバムだったかもしれない。管楽器三名はだれもよいしごとをしている印象で、とりわけ微妙にファンキー風味の混ざっている四曲目(”Walkin’ the Cat”)のフルートが力演とおもった。あと一曲目のさいしょは、これ”Maiden Voyage”(だったよな?)じゃん、とおもってちょっと笑った。


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  • 日記読み: 2021/12/17, Fri.