旅先でわたしはいつもかならず不思議な草地と出くわす。これはどうあっても逃れられない運命らしい。どんな旅だろうと、どこから出発しようと、最後はたいてい黄昏時にその草地があらわれて終わるのだ。草地といってもごく小さくて、斜面にあって、近くには黒い大木の森がある。
草地はいつも美しい緑だ。薄闇のなかでも、そこが光源だといわんばかりにまぶしいほど輝いて見え、なんだか草の葉一枚一枚が光を放っているようにさえ思える。まずたいてい心を奪われるのは、目の覚めるような草の緑だ。ややあって、その緑がじつは強烈すぎてちっとも目を楽しませるものではないことに気づき、どうして初めはそう感じなかったのかと首を傾げる。いったんそう感じるとこんどは、そもそも草が光を発すること自体が少々おかしいとしか思えなくなる。あんなにもこれみよがしにおのれの存在を主張する法はない。あそこまでまばゆい輝きは自然律における控え目な立場と相容れないばかりか、この草地は草が伸び放題だぞ――居丈高に、攻撃的に、轟然と茂っているぞ、と見せつけるものでしかない。
煽情的で不穏当といってもいいほどのその輝きは、いつも同じだ。季節によって移ろうどころか、まるで草の傲慢さを強調するかのように、草地のきらびやかさは揺るぎない。もっともほかの点では、(end7)その外観は時と場所でさまざまに変化する。確かに、かならず鮮やかな緑だということに加えて、草地はかならず小さいし、かならず斜面にあるし、近くにかならず黒い大きな森がある。とはいえ、大きさと色合いは相対的だから、輝く小さな草地や黒い大きな森のことが話に出ても、この人とあの人の頭にあるのが同じものとはかぎらない。同様に、斜面の概念もやはり千差万別だ。そしてこの草地に関するかぎり、絶対に水平ではないという特性は共通していても、斜面の勾配はびっくりするほどまちまちなのだ。
傾きが感じ取れなくて、ビリヤードテーブルに劣らず平らだと断言したくなることもある。場合によっては傾斜儀で角度を測って確認するまで、わたしも地面が完全に水平ではないと納得できなかったほどだ。そうかと思えば、そんな"気づかない傾き"と対照的に、ほぼ垂直に切り立って見えることもある。
(アンナ・カヴァン/安野玲訳『草地は緑に輝いて』(文遊社、二〇二〇年)、7~8; 「草地は緑に輝いて」; 書き出し)
- いま午前二時一五分。日付上は二九日の記事に移行したが、意識のうえではまだ二八日である。勤務後、実家に来ている。着いたのは一〇時半ごろ。休んでから母親となんだかんだはなしつつ飯を食い、かのじょが下階に下がったあとは白湯を飲みつつ紙の新聞(読売新聞)を読んで、それから入浴したのが零時五〇分ごろだった。そうながくはつからず、比較的はやく、一時一五分くらいには出たはず。そこから勤務後の深夜にもかかわらず意気旺盛でアイロン掛けをやってしまう気になり、居間の東窓に接して置かれてある低い戸棚のうえに乗っていたハンカチや、卓の端の椅子やその付近にかけられてあったシャツを三枚処理した。シャツはどれも父親のもの。ひとつはさしてあかるくはないが暗くもない、とはいえ沈んだ薄青や淡くて軽々しいような黄色など、寒色っぽいいろでまとめて地味なチェックのフランネルのシャツで、もうひとつはユニクロのサーモンピンク一色のシャツ、さいごは真っ白なワイシャツで、これはちかごろうえの(……)さん(「(……)」という業者で、こちらの一個したに息子がいて、小学生のころは近所にあったおなじそろばん塾にかよっていた)のおばあさんが亡くなったらしく通夜があしたあるので、それに父親が着ていくということだった。なのであかりをオレンジ色の食卓灯のみに落として薄暗いリビングのなかで、シャツをもちあげてひかりのあたる角度を変えつつ皺がきちんと消えているか目を凝らしながら始末した。サーモンピンクのシャツをやっているあいだに兄が到着。一時四〇分くらいだった。ただいまといいながら居間にはいってきたのでおかえりと受けると、さむいな、と兄はもらし、そのあと服を脱いで風呂にいくあいだも、あと三回くらいはおなじ言をもらしていた。あるいてきたの? と問えば、(……)からタクシーに乗ってきたが四〇分くらい待ったという。笑い、まあそりゃそうでしょうな、と受ける。すこし間を置いてから、待ってるあいだずっと駅前でならんでたのかと問いをかさねればそうだというのでふたたび笑い、それじゃあるいたほうがよかっただろうにとむけると、そうだな、四〇分待つんじゃあるいたほうがいいよなと兄は素直にこちらの言をくりかえした。そうして風呂へ。アイロン掛けを終えると台や器具をかたづける。アイロンじたいと水を吹く用の細長いボトルは東窓前の戸棚の上面端へ、台はそこからもっと左、テーブルの東側の席についたとき背後にあたる位置で棚に立てかけ、膝のしたに敷くのにつかった座布団はソファのうえにもどしておき、ついでに座って背後にあたまをあずけて左右にころがし、後頭部から首をほぐした。シャツは東窓前で天井から吊るされて左右に伸びている物干し棒の端のほうにまとめてかけてある。家に着いたあとこちらが脱いだモッズコートやスラックスなどはその横に。白湯を一杯また汲んで自室に来ると、まずきのう、と言って意識のうえではまだきょうだが、二八日の記事を投稿。二八日分の冒頭に書いてあるのはじっさいには二七日の夜のことで、肝心の二八日とうじつのことがらをほぼ書けていないというか語によるメモしか取れていないが、それはそれでよい。それからここまで綴って二時半。
- きのうの記事に引いたバンヴェニストのはなしなのだが、あそこの記述をきょう(二八日)の朝読みかえしておもったところに、じぶんの理解はすこしずれているなとおもった。まずあらためて当該の文をしたに引く。
(……)つまりバンヴェニストのいわゆる「シフター」のことをおもいだしたということで、じぶんがこの概念について知ったのはバンヴェニストじしんの著作ではなく(それは読んだことがない)、ジョルジョ・アガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの』でその論が援用されていたからなのだが、記憶にたよって記述してみると、まず言語外の世界や事物と言語とをむすびつけるような必然性とか法則とか根拠とかは、言語のうちにはまったく見出だせないという認識がある。牛とか蜂とか机とか滝とか、なんでもいいのだけれど、それが指示する事物とその語がなぜ結合するのかという理由は、本質的に、その語じたいのうちにも言語体系ぜんたいのうちにも見つけられない(擬音語のように音を言語として形態化したことばや、語源的に音がかかわってくる語は事情がすこしちがうだろうが)。これはソシュールのいわゆる言語の恣意性というかんがえかたを下敷きにしたものだとおもわれるが(牛を「牛」という語ならびに「うし」という音で呼ばなければならない必然的な理由はない)、つまり、人間に言語を習得させ、それをあやつってものを指し示す能力を身につけさせるような機能は、言語体系そのものやつうじょうの語のなかには発見できない、ということである。そこで登場してくるのが「シフター」という概念で、これは「これ」とか「それ」のような一般的な指示語とか、「わたし」のような人称代名詞にあたるものであり、こうした語はつうじょうの単語のように辞書的な意味を定義することができず、それがじっさいに発せられ使用される文脈にのみ依存して意味と指示対象をさだめられることになる(「わたし」という代名詞は、それを発語する主体におうじて、数十億にもおよぶこの世の人間すべてを指し示すことができる魔法のような一語である)。こうしたことばを媒介としてひとは言語外の世界と言語とのあいだを移行するのであり(したがって「シフター」とは、ひとを事物の世界から言語の世界へと移行(シフト)させ、参入させるものという謂だろう)、むしろこの語によってこそ主体は主体としてとりまとめられ成立することとなり、本質的には「わたし」は、主体が「わたし」と発するその瞬間にのみその都度成立しては去っていくあえかな存在なのだ、みたいなことがバンヴェニストの所論だったとおもう(このさいごの点にはやや意訳がはいっている気がするが、このあたりの論点はデカルトと軌を一にしているのではないか)。というところできちんと典拠を引いておこうというわけで、Evernoteから書抜きをうつしておく。
(……)現代の言語学によって得られた原理のひとつは、言語(lingua, langue)と現におこなわれている言述行為〔話[わ]〕(discorso, discours)とは完全に分裂した二つの世界であって、両者のあいだには移行も交流もないということである。すでにソシュールが指摘していたことによれば、言語のなかには一連の記号(たとえば、「牛、湖、天、赤、悲しい、五、割る、見る」)が用意されているが、言述〔話〕を形成しようとする場合に、どのようなしかたで、またどのような操作によって、これらの記号が働かされるのかを予見させ、理解させてくれるものは、言語自体のうちにはなにもない。「この一連の単語は、それが思い起こさせる諸観念がどれほど豊富にあろうとも、人間の個体がそれを口にして、なにかを伝えようとしているということを、別の個体に教えることはけっしてない」。その数十年後に、バンヴェニストは、ソシュールの二律背反をふたたび取り上げ、敷衍して、こう付け加えた。「記号の世界は閉じている。記号から文へは、連辞化によってであろうと、ほかのやり方によってであろうと、移行はない。ひとつの裂け目が両者を分け隔てている」(Benveniste, E., Problèmes de linguistique générale, vol. 2, Gallimard, Paris 1974., p.65)。
その一方で、いかなる言語も、個体が言語をわがものとし、働かせることを可能にするための一連の記号(言語学者たちはこれをシフター[shifter]、もしくは陳述指示語と呼んでおり、そのなかには、とくに代名詞の「わたし」、「あなた」、「これ」や副詞の「ここ」、「いま」などが含まれる)を持ち合わせている。これらの記号すべてに共通する特徴は、それらはほかの単語とちがって事物に関する用語によって定義できるような辞書的な意味をもっておらず、それらの記号(end156)の意味はそれらを含む具体的な言述行為を参照することによってしかつきとめることができないということである。(……)
(ジョルジョ・アガンベン/上村忠男・廣石正和訳『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』(月曜社、二〇〇一年)、156~157)*
奇妙な生物のことを考えてみよう。幼児のことである。かれが「わたし」と言い、話すようになるとき、かれのうちで、そしてかれにとって、なにが起こるのだろうか。「わたし」、すなわちかれが到達する主体性は、すでに見たように、純粋に言述行為〔話[わ]〕的なものであり、それは概念も現実の個体も指示してはいない。生の多様な総体を超越する統一性として、わたしたちが意識と呼んでいるものの永続性を保証するこの「わたし」は、もっぱら言語的な特性が存在のうちにあらわれるということにほかならない。バンヴェニストが書いているように、「話し手が自分を主体〔主辞〕として言表するのは、わたし[﹅3]がそれの話し手を指している現におこなわれている話〔言述行為〕においてである。それゆえ、主体性の根拠が言語の行使にあるというのは、文字どおり真実なのである」(Benveniste, E., Problèmes de linguistique générale, vol. 1, Gallimard, Paris 1966.(岸本通夫監訳『一般言語学の諸問題』みすず書房、1983年), p.262)。言語学者たちは、主体性を言語活動のうちに据えることが言語の構造におよぼす影響については分析してきた。しかし、その主体性が生物としての個体におよぼす影響については、まだ大部分が分析されていない。わたし[﹅3]としての、言述行為〔話〕における話し手としての、自己自身のもとへのこの前代未聞の現前のおかげでこそ、もろもろの生ともろもろの行為が帰属する統一的中心のようなもの、もろもろの感覚ともろもろの心理状態のうずまく大洋の外にあって、それらの感覚と心理状態があたかも所有主に帰属するかのようにして統合的に帰属する不動の一点のようなものが、生物学的な生を生きている存在(il vivente)のうちに生まれるのである。そして、バンヴェニストが明らかにしたところでは、言表の行為が可能にする自己と世界への現前をとおしてこそ、人間の時間性が生まれるのであり、一般に、人間は、言述行為〔話〕を世界のうちに挿入することをとおして言表の行為を実行するこ(end165)とによってしか、すなわち、「わたし」、「いま」と言うことによってしか、〈いま〉を生きるすべをもっていないのである。しかし、まさにこのために、まさに言述行為〔話〕という現実しかないために、〈いま〉は――現在の一瞬をつかもうとするあらゆる試みから明らかなように――還元不可能な否定性によってしか告げられない。まさに意識は言語活動という内実しかもっていないために、哲学と心理学が意識のうちに発見したと思いこんできたもののすべては、言語の影でしかなく、「夢想された実体」でしかない。わたしたちの文化がもっとも堅固な土台だと思いこんできた主体性、意識は、世界にあるもののうちでもっとも脆くてはかないもの、すなわち発語というできごとに依拠しているのである。しかし、この移ろいやすい土台は、自己と他者たちにひとたび言葉が与えられさえすれば、どれほどうわついたおしゃべりによってであろうと、わたしたちが話そうとして言語を働かせるたびに再建される。そして、その行為が終了するとともにまたもや崩れ去ってしまうのである。
(165~166)
- こちらは、「まず言語外の世界や事物と言語とをむすびつけるような必然性とか法則とか根拠とかは、言語のうちにはまったく見出だせないという認識がある。牛とか蜂とか机とか滝とか、なんでもいいのだけれど、それが指示する事物とその語がなぜ結合するのかという理由は、本質的に、その語じたいのうちにも言語体系ぜんたいのうちにも見つけられない」と記憶にたよって書いているが、アガンベンの引用を読むに、そこで問題とされているのは「言語」と「現におこなわれている言述行為〔話[わ]〕」のあいだの「分裂」のことだったのだ。つまり、こちらの説明にあるような、言語と「世界」や「事物」のあいだの関係を問うていたわけではない(第一次的には)。
- その後の記述、「すでにソシュールが指摘していたことによれば、言語のなかには一連の記号(たとえば、「牛、湖、天、赤、悲しい、五、割る、見る」)が用意されているが、言述〔話〕を形成しようとする場合に、どのようなしかたで、またどのような操作によって、これらの記号が働かされるのかを予見させ、理解させてくれるものは、言語自体のうちにはなにもない。「この一連の単語は、それが思い起こさせる諸観念がどれほど豊富にあろうとも、人間の個体がそれを口にして、なにかを伝えようとしているということを、別の個体に教えることはけっしてない」。その数十年後に、バンヴェニストは、ソシュールの二律背反をふたたび取り上げ、敷衍して、こう付け加えた。「記号の世界は閉じている。記号から文へは、連辞化によってであろうと、ほかのやり方によってであろうと、移行はない。ひとつの裂け目が両者を分け隔てている」(Benveniste, E., Problèmes de linguistique générale, vol. 2, Gallimard, Paris 1974., p.65)」においてもおなじで、ソシュールにせよバンヴェニストにせよ、かれらがかんがえているのは、「記号」(ひとつひとつの語)と全体的な規則や要素の体系である「言語」の関係、ならびに「記号から文」(ここでの「文」は「言述行為」と同義とみてよいだろう)への「移行」の問題だったのだ。かんがえてみればあたりまえというか基本的な点で、その基本的な点を一年前のじぶんは見落としていたわけだけれど、言語、というか「単語」、もしくは「記号」が(「指示する」というとまたちがってくるとおもうが)意味するのは、「事物」や「世界」そのものではなく、概念や観念なのだ(ソシュールが、「この一連の単語は、それが思い起こさせる諸観念がどれほど豊富にあろうとも」と言っているとおりだ)。シニフィアンにたいするシニフィエとはものではない。観念や理念の領域にあるものである。たとえば「牛」という一記号が意味するのはあくまで概念としての牛一般であって、あるところでだれかが目のまえにみる個体としての「この牛」ではないのだ。「牛」という記号が「この牛」を指し示すことができるのは(そこではまた「意味する」ことも可能になっているのだろうか?)、まさしくその具体的な時空において具体的な「言述行為」がなされるからであり、記号や言語一般は、「言述行為」によって(それにおいて)「世界」や「事物」とようやくかかわることができるようになる。ところが、ソシュールおよびバンヴェニストが述べるように、「記号」や「言語」というものが、「言述行為」をかたちづくるものとしてあるということ、いわばその用途をしめし理解させるような情報や要素や契機は、「記号」や「言語」じたいのなかにはなにひとつ存在していない。ところが現ににんげんは、「記号」や「言語」によって「言述行為」を行使し、それによって「世界」や「事物」と呼ばれる領域との関係を確保している。そのさい結節点となるのが「シフター」と呼ばれる代名詞などの特殊な単語だということだ。「「わたし」、すなわちかれが到達する主体性は、すでに見たように、純粋に言述行為〔話[わ]〕的なものであり、それは概念も現実の個体も指示してはいない」と述べられている。「わたし」という語じたいに、概念としての意味内容があるわけではないし(事物やほかの語との関係で、辞書的な意味としての「定義」をつくることができない)、また「わたし」という語がそれじたいで「このわたし」(あるいはべつの「わたし」)という「現実の個体」を参照しているわけでもない。「わたし」という語が「現実の個体」を「指示」することができるためには、それはかならず、具体的な「言述行為」の場に置かれなければならない。だから「わたし」という語(やその他のシフター)は、なかみを欠いた空虚な語なのであり、空虚であるからこそ言述行為の領域にあらわれれば、どのようなにんげん(ばあいによってはにんげんいがいの存在)をも「指示」することができるのだ。言ってみればそれは、言述行為(もしくは連辞的文構造)のなかでたんなる位置をになうだけの空洞化されたことばであり、べつのいいかたをするなら、それがそなえているのはあるひとつの方向性のみだというべきかもしれない。「わたし」という語は、それがもちいられたとき、「わたし」という語を発語した当の存在を指し示す、というひとつの方向にむかうはたらきだけをもっている。つまり、それがもっているのは意味ではなくて指向性なのだ。性質や、機能や、形式の領分にぞくすることば。その指向性によって、「わたし」は、具体的な言述行為においてあるひとつの存在のほうを向き、それに手を伸ばし、自己の空洞のなかにその存在を取りこんで、それに主体としての座をあたえることで、それいぜんは「存在」でしかなかったものをまさしく「主体化」する(「存在」としてのみあることができていたものを、ある意味でおとしめ、「主体」の地位へと放逐する、ということもできるだろう)。
- ここまでで三時一五分。部屋に来たときにはさすがに疲労感が濃かったので、投稿してひとこと書くだけではなれようとおもっていたところが、なぜか書き出したらここまで書きつづけることができてしまった。しかしさすがにそろそろ寝る。
- いま明けて二九日の午後三時前。うえまで書いたあとは歯を磨き、寝るまえに脚をほぐそうとおもってコンピューターを持ちつつ寝床(ひさかたぶりのベッド)に横たわったのだが、そうしているうちに正式な就眠を確とできず、いつか意識をうしなっていた。明かりもエアコンもつけっぱなしになってしまったのでよくない。六時くらいにいちど気づいて、そこからようやくただしい眠りへ。朝は九時ごろからだんだんと覚醒しはじめた。カーテンをあけると太陽が、九時ではまだひくくて窓枠をほとんど越えていなかったとおもうが、しだいに凪の水色として一面ひろがってある空のなかにあらわれはじめて、そうするとガラスをとおして放射された光線が顔にふれてぬくもりをくれるので、これは南窓のいいところだなとおもった。アパートの西窓ではこうはならない。洗濯物も南へとひらいていたほうが乾きやすいだろうし。実家のベランダは家の西南の角部分にある。
- 布団のしたで呼吸したり手をさすったりなんだりしたのち、一〇時くらいに起き上がって、コンピューターを取ってウェブをみたり文を読んだり。脚をほぐすためには布団から脚を出さなければならない。しかし実家の掛け布団装備はただ一枚しかないアパートのそれとくらべると豪華で、毛布も入れて三枚もある。その厚みをからだのうえに乗せたまま脚を奥から出してもぞもぞうごくのはやりづらい。そういうわけで布団は奥にたたんで追いやっておき、からだは露出することになる。そうするとさむいのでエアコンをつけ、また、からだのうえに直接コンピューターをのせると胸骨が痛くなるので、ちょっとたたんだ薄手の毛布を胸のうえにのせ、そのうえにノートパソコンの下端を置いて支えながら電脳の海を閲覧したり、文を読んだりすることになる。一年前の日記からは以下。ひきつづき、兄夫婦が滞在しており、子どもの面倒をみている。
(……)二時前くらいに、まだ日なたののこっているベランダにいっしょに出たときがあった。そこで(……)ちゃんといろいろやりとり。かのじょは子ども用化粧セットみたいなバッグを持っており、リップにグロスにマニキュアにアイシャドーとそろっていて、それをじぶんにほどこして見せてくれたのだが、また(……)くんにもやってあげていた(マニキュアはとくに嫌がられないが、アイシャドーでまぶた付近に筆をあてようとすると男児は顔をそむけて拒否するようすを見せるのだった)。西空に太陽がまだ出ていてまぶしく、とはいえ日なたの厚みは次第に減じつつあって空気はつめたかったのだが、(……)ちゃんはちいさな懐中電灯を持っており(ほかに化粧バッグや、真っ青なミニチュアの車や、あと何品かをあつめて、「探検」に行く準備ができたと言っていた)、それをつけて太陽にむければ太陽がまぶしがってどこかに行ってしまう、というようなことを口にした。じゃあ太陽がいなくなっちゃったらどうなるの? 暗くなっちゃうじゃん、ときいてみると、しかしかのじょのかんがえではそういうわけではないようだった。そうなのね、と笑う。おもしろい。なるほど、そういうおとなからすれば幻想的と言われたり合理からはずれていると見えるような特有の論理があるわけね、とおもったのだが、だから比喩的にいえば子どもというのは正規の道をそれて獣道を行くまさしく探検者だというか、あらかじめ敷かれている道のそこここに他人には見えない分岐を発見して、おもいがけないところにいたってしまうことの名人のようなものなのだろう。世界のさなかいたるところに穴をつくりあげて、おとなたちの理性的な秩序を虫食いや歯抜けのような状態へと毀損しつつ、道などつくれるはずがない宙空を横断するトンネルを無造作に引いて、つながるはずのなかったところへ穴をつなげてしまうというか。理性にまみれきった人間主体の目からすると、そんなふうに見える。こういう子ども特有のオルタナティヴな論理として観察された例はもうひとつあって、それは川から帰ってきたあと、下階の兄の部屋でギターを弾いてあそんでいるあいだのことだった。さいしょのうちはこちらがギターを持ち、正面から子どもふたりに弦にふれさせて、ガシャガシャ音を出させてあそばせていたのだが、そのうちにふたりはベッドにうつり、椅子についたこちらはてきとうにAブルースをやっていたところ、壁に刺してある画鋲に気づいた(……)ちゃんが、それをまわしながら、いまくるくるしてるから、上手に弾けてるでしょ? と言ったのだ。つまりかのじょのなかでは、じぶんが画鋲をまわしていることが原因となってこちらの演奏の質があがっている、という論理連関が成立していたことになる。
- したのような言も。「ほとんど四時にいたってひくくなりつつもまだあかるみを空中にわたしている西陽の色をかけられて金橙色に染まった対岸の樹々のならびのすがたが川に反映しており」まではよかったんだけどなあというか、これだけでもういいんだけどなあ、とおもった。それかそのあとの、「金のようなオレンジのようなつやめきゆらぐおなじ色が水のなかにうつりこんでひろがっている」まで。せっかくこのなまなまとした具体性があるのに、感傷は余計だ。じっさいそれが生まれてしまったのでしょうがないことだが。
(……)河原におりて水のほうにちかづいていくと、ほとんど四時にいたってひくくなりつつもまだあかるみを空中にわたしている西陽の色をかけられて金橙色に染まった対岸の樹々のならびのすがたが川に反映しており、金のようなオレンジのようなつやめきゆらぐおなじ色が水のなかにうつりこんでひろがっているさまを見てすこし涙腺を刺激された。行きだか帰りだかにももういちど、幼児の手を引いてあるきながらちょっと涙の気配をかんじる感傷のときがあり、それはなんというか、こういう時がすぎて子どもたちが育ち、もはや子どもではなくなった未来からいまこのときをふりかえったさいにおぼえるかもしれない感傷を、仮構的に先取りした、というようなおもむきがあったようだ。じぶんが感傷をおぼえるのは時のすぎざまがなんらかのかたちでまざまざと感得される瞬間であり(そこからいわゆる「無常」の感覚も生じてくる)、それはわりと一般的な心性として共有されてもいるとおもうが、まだ生まれてもいないその「時のすぎざま」をじぶんのあたまのなかだけで勝手に生み出してしまったのだ。これがさらに拡張していけば、古井由吉がどこかで書いていたような、すでにじぶんが死んでいなくなったあとの世界を見ているような、死後の目とでもいうような感覚にもつうじるだろう。
- 2014/5/28, Wed.も読んだ。めずらしく、過去のじぶんのわざとらしくて気色のわるい語りくちを敬遠せずに、いちおうちゃんと読むことができた。したの一節はそうわるくはない。とくにさいごの一文。「~して、」をひたすらかさねていくリズム。
窓を閉めてベースを弾いていると部屋にどんどん熱がたまって、一時半くらいになった。上にあがって食事にした。マグロのソテーと米とみそ汁を食べた。食べながら食べ物の熱が顔やからだにうつって汗が出た。これが夏だった、と思いだした。空気はなまあたたかくて、熱が顔にまとわりついて何もしなくても汗が出て、ときどき風が吹きこんで涼しくてレースのカーテンがスカートみたいに持ちあがって、それか逆に網戸に吸いつけられて、温度計は三十度だった。(……)
- 夜歩きの記述も、なにほどのものでもないがぜんたいとしてわるくはない。
散歩に行った。汗をかくからやめたほうがいいと言われたけれど、汗はかかなかった。涼しくて、ときどき肌寒いくらいだった。夏のなまぬるくて気だるい夜はまだ遠かった。玄関を出るとめずらしく目の前の家に明かりが灯っていて、真っ白い光が窓にも扉にも満ちてあふれて広がった。歩いていると風を感じるけれど、林は鳴らなかった。木の葉の先が揺れるのも見えなくて黒く固まっているようで、そのむこうの空も暗いから星がよく見えた。片側が林に接している坂をあがっていると、土か草の湿ったにおいが立ちあがった。表通りは車が通って、光が走っているみたいだった。神社のほうへ行く坂の上からひとり下ってきて、こっちが来た道に入っていった。歌をうたっていた。タクシーの事務所でおじさんが床を洗っていた。人間はそのふたりしか見なかった。坂をおりていると歌をうたっていた人がカーブから現われてびっくりした。幽霊みたいに青白い顔をしていたけれど、こっちもそうだったかもしれない。まだうたっていたから、きっとずっとうたいながら歩いていた。そのすぐ先で、道のまんなかに黒い影が生まれたと思ったら、滑るように動いてどこかに消えてしまった。たぶん黒猫だった。
- またこの日は欄外に、古井由吉『鐘の渡り』の感想というか、分析みたいな言を記している。これもなにほどのものでもないが、とうじのじぶんの見方感じ方がわかるので引いておく。着目するポイントはいまもそう変わっていないのではないか。
古井由吉『鐘の渡り』。
エッセイと小説のあいだというのはそのとおりで、もっともそのふたつの境界というのもはっきりしないのだが。エッセイというのは身辺雑記というか、身の回りのことについて考えたことなどをつづるというイメージだが、たしかにそういうところはある。読んだ本のことや季節の移り変わりやらから導かれる思考が書かれているがそれはまとまった論というものではなく、つれづれに書いたようなものである。そこからさらに過去の経験が出てくる。古井由吉はたしか初期の短篇集の『水』なんかを読んだときにも、いまどこにいるかわからない、忘れてしまうような時間の操作、エピソードの語り方をしていたような気がするが、今作もそうで、過去と現在の境があいまいになるようで、一種読みにくいというかすらすらと読みすすめられないようなのもひとつにはそれがあるのだろう。もうひとつには描写というものをあまりしていないのではないか、という印象を受けたというか、それは正確ではなくてもちろん描写はしているのだけれど、そもそも描写とはなにかということを置いておくとしても、ひとつの空間、ひとつの場面をつくるということをあまりしていないのではないか? 場面や空間があってそこに人物がいて動くというようなものではない。筋らしい筋もない。短編でありながら時間の移動が激しいのがそういう印象を与えるのか。その移動のしかたがさりげないというか、いつの間にか過去に行きいつの間にかもどってくるようでもあって、一種混沌としてくる。「新潮」の大江健三郎との対談でもそのあたりについてなにかを言っていた気がする、すべてを現在として書くとかなんとかだったか、記憶があいまいだがこれは絶対にまちがっている、なんといっていたのか?
描写をあまりしていないのではないかというのは、人物がいまどこかにいて、いまそこで何かを見ていてそれを書いている、という感じではない。かといって回想という感じでもない。いや、むしろ回想なのか?
「窓の内」では、「窓に向かって、両の掌に顎を深く沈めている」とはじまる。ここではこれが自分のことなのか誰のことなのかわからないが、「頬杖をついたかたちに見えるが、坐っているのではなくて立っているとある」と続くから、これが語り手以外の第三者のことで、しかも書かれたものを語り手が読んでいるのだとわかる。このドイツの哲学者の記述をおいながらそれに対する感想らしきものや想起される自分の体験をくわえながら進んでいく。このあたりはエッセイっぽい。
そして行があくと、別のエピソードになって、「自分は母親というものを知らないので、人のことがわからない、と知人にいきなりつぶやかれたことがある」とはじまる。共通の知人の通夜の帰り道と言う。駅まで行く道の描写をはさみながらやはりはじめのつぶやきに触発された考察めいた思考がはさまれる。
また行があいて、別のエピソードだが、窓の前に坐りこむ男の話になる。その家には一度寄って、縁がなくなったが、男のことは記憶に残っていた。そうして自分の話に移る。入院のときの夢の話だ。「子供のころに四年ばかり暮らした家」で、路地のなかにあるその家の玄関から表を眺めていたエピソード。路地なかの家についての記述がつづくが、やはり場面があって、ということではない。ここは回想である。時間的に順序立ててなにがあって、なにがあってという語りではない。路地を眺めながら、老女の死についての子供の物思いで行があき、今度は殺したものと殺されたものの面相の話。
「二十歳の頃に年寄りから聞かされた話」とある。それについてやはり考察がつづくが、いつと時間を設定されているわけではなく、エッセイらしい。前世と来世についての考えから、眠りの話に話題が滑っていく、そうして語り手自身のことが語られる。「夜には眠り朝には起きるという、その当たり前の繰り返しが訝しいように思われることが、年を取るにつれてあるようになった」。眠りや不眠、朝の感覚について記述がつづき、「長い道を来る夢」の話に移る。そして夢のなかで、ふたつ目のエピソードに出てきた知人が出てきて、当該挿話に接続されて終わる。
こう追ってきてわかるのは、まず単純に、こういう話である、と簡単に言えるような筋がない。話題はどんどん飛んでいくが飛んでいくというよりは滑っていくというような感じで、そのあたりが一種取りとめのない、つれづれめいた感じを与える。そして回想や体験に現在の語り手の思考がはさまれてそれらが渾然と提示されるので、記述が追いにくいということがあるだろう。どうも変なことをやっているものだがおもしろい。こういうこともできるのだ。
「鐘の渡り」はらしいというか、自選作品二を読んだときの感覚に近いように思われる。どちらかといえば初期のころの作品に連なるものなのではないか。エッセイらしさはほかよりも希薄で、より小説らしいというか、そんな感じを受けた。
- さきほど(……)さんのブログを読んだが、したはそこから。気になるはなし。
「泳ぐことの快さ」は、「身体配置をもった体験」において生起するものであって、孤立した心的現象ではない。また、ネーゲルのように、「魚の楽しみ」を、人間もしくは自己の「主観的な」楽しみを想像的に変容したものとしての理解に留めてはならない。桑子は、「魚の楽しみ」を「荘周の身体配置のうちで、他者の身体と環境と身体のうちで生じる心的状態の全体性として」捉えようとする。それは、荘子の「身体配置をもった体験」を通じて捉えられる「他者の楽しみ」に他ならない。
そうであれば、この「魚の楽しみ」が告げていることが、知覚の明証性とは別の事柄であることがわかるだろう。知覚の明証性は、「主観的な」明証性にすぎず、荘子が「魚の楽しみ」を特定の時空の中で生き生きと知覚したことによって、その経験の切実さを証明するものである。ところが、ここで問われているのは、荘子という「主観」もしくは「自己」が前提される以前の事態である。「自己」があらかじめ存在し、それが魚との間に特定の身体配置を構成し、その上で「魚の楽しみ」を明証的に知ったということではない。そうではなく、「魚の楽しみ」というまったく特異な経験が、「わたし」が魚と濠水において出会う状況で成立したのである。この経験は、「わたし」の経験(しかも身体に深く根差した経験)でありながら、同時に「わたし」をはみ出す経験である(なぜなら「わたし」にとってはまったく受動的な経験であるからである)。
こうした経験が「わたし」に生じるか生じないかは、誰にもわからない。(…)
(…)
濠水で魚を目にしたとしても、それにまったく触発されずに通り過ぎることはよくあることだし、あるいは魚を、釣ってみたい客体だと思うだけで、「魚の楽しみ」に思いを馳せることなどないかもしれない。したがって、「魚の楽しみ」を経験するというのはまったく特異な事態なのだ。それは「自己」の経験の固有性を確認するのではなく、ある特定の状況において、「他者の楽しみ」としての「魚の楽しみ」に出会ってしまい、出会うことで「わたし」が特異な「わたし」として成立したということである。ここにあるのは根源的な受動性の経験である。「わたし」自体が、「他者の楽しみ」に受動的に触発されて成立したのである。
別の言い方をすれば、「魚の楽しみ」の経験が示しているのは、「わたし」と魚が濠水において、ある近さ(近傍)の関係に入ったということである。それは、〈今・ここ〉で現前する知覚の能動的な明証性ではなく、その手前で生じる一種の「秘密」である。それは、「わたし」が、泳ぐ魚とともに、「魚の楽しみ」を感じてしまう一つのこの世界に属してしまったという「秘密」である。知覚の明証性は、受動性が垣間見せるこの世界が成立した後にのみ可能となる。
- 一一時をまわって起床した。寝床にとどまっているあいだ、となりの部屋からは兄のいびきが聞こえていた。ぶもー、ぶもー、ずごー、というような感じの響き。ベッドからおりて床のうえに立つとちょっと両手をぷらぷら振っておき、部屋を出て洗面所にむかいつつ作業着姿で階段下の室でなにかやっている父親にあいさつ。そのときのおはようの声がいつになく低く、ふくよかまでいかないがそこそこしっかりしたもので、だからからだがよくあたたまっているなというのがわかる。トイレにはいって小便を捨て、うがい。上階へ。母親は居間にいる。ここでもまた手首をしばらくふり、肩や腕をやわらげ、食事へ。うどんをやっておいたというので礼を言い、冷蔵庫でパックのなかに(なぜかかなりいっぽうにかたよって)はいっていたうどんを取り出して、鍋にできているゴボウとかニンジンとかがはいったスープにいくらか投入。そのほかさくばんも食ったソーセージや、おなじくスライスされたキャベツやポテトサラダ。ソーセージというのは冷凍のもので、さくばん母親が、これ見てよ、と、「通販オタク」が買ったものだと言って冷凍庫に大量にあるのをみせてくれたが(「通販オタク」というのはもちろん父親のことである)、瞥見したところ、たくさんのアイスキャンディーが一本ずつおのおの用にスペースを区分けされた格子状ケースに縦向きにおさまっているかのような見た目で、つまり傘立てのようなイメージなのだが、しかしじっさいにはべつに袋内に区分けがあったわけではないだろうとおもう。それを大量に買ったことに母親は辟易しているような口調だったが(おなじものがもう一袋あるとか)、こちらとしてはありがたいというかもらって帰るつもりである。二〇本くらいくれと言っておいた。味もふつうにわるくなかったし。
- 飯を食いつつ母親のはなしを聞いたり、新聞をみたりしているうちに兄も起きてきた。そこからなので卓についたままたしょうはなしをしたり、ソファで休んでいた兄がそろそろ飯を食おうとうごきはじめたのを機にこちらも台所にはいって食器をかたづけたあとは、白湯をつくってちびちびやりながらまたはなしたり。会話の内容はめんどうなのでいったんはぶく。しばらくするとアイロン掛けをすることに。こちらと兄のワイシャツがあると母親がいうので。その他かけるものはたくさんあって、洗って干されてあった兄や父親のズボン、エプロン、ハンカチ、母親のパジャマなど。おそらく一時くらいかそれいぜんからはじめたとおもうが、たくさんの衣服を処理することになり、その間母親や兄とはなしを交わしたり、母親がメルカリに出品する服の情報に、もともとそれを買った通販サイトの画像やサイズ情報をスクリーンショットをやって載せたいというので、男三人で(父親もあがってきて飯を食ったあとだったので)ああだこうだとやりかたをおしえたり。スマートフォンでのスクリーンショットのやりかたなどこちらはようも知らん。URLをコピーして貼るのがはやいんじゃないかとこちらも兄もいうが、母親はその言の意味合いもそんなにピンとは来ていなそうなようすだった。しかもURLをコピーしようとして画面上部のURL欄にふれてもなぜかGoogleの検索ページにうつってしまう。そこに父親が、右上の三つ点があるとこにないかと言ってきたので、こちらももちろんあたりをつけつつURLコピーみたいな選択がないなとみていたのだけれど、「共有」からスクリーンショットとかURLコピーとかが出てくることが判明。ところがそれで画像を取ってみても、また兄がすすめたように画面上の画像にふれて直接それをダウンロードしてみても、なぜかスマートフォンの保存フォルダでは画像が空白として表示されて、読み込みができない。原因不明。父親がまえにスクリーンショットをやってくれたと母親はいうのだが、その父親が、画面の右上の角からしたにおろすようにやるとできるというあらたな情報を背後からよこしたのでそうしてみると、マジですーっとやってゆびをはなすだけで撮影がなされ、うわほんとだ、こんな機能あったのか、ぜんぜん知らんかった、とおもった。そのやりかたを母親におしえて解決。画像もアルバムにただしく保存されて出てきていた。その後たぶんメルカリへの出品操作をすすめていたようだ。
- 卓についているあいだやアイロンかけのあいだなどはテレビもついており、兄が食事を取りはじめたあたりではワイドショー的情報番組がうつしだされ、そのときこちらは台所で洗い物をしていたのだが、急にテレビでしゃべるコメンテーターの声がやたらおおきくなったので、それは兄が音量をあげたわけだけれど、これは父親と共通の特徴である。それにしてもずいぶんおおきくしていた。番組はウクライナの状況をあつかっており、現地キーウ在住のボグダンさん(といったか?)という男性につないで、当地の生活のようすを聞いたりしていたのだがこのボグダンさんというひとの日本語がじつに流暢で、日本人とくらべてもほぼ遜色のないように聞こえるものだった(ちなみに『英語達人列伝』の著者である斎藤兆史が書いていたことには、外国人から直接面と向かって、「あなたは英語(などその外国人の母語)がとても上手だ」といわれるようでは、まだ二流のレベルだという。どのような褒め言葉であれ、真の達人はもはやそんなことすらいわれなくなると。ただしこれは直接面と向かってのはなしであって、達人の知らないところでネイティヴのひとが達人の語学力を褒めるということはあるらしい)。番組には解説者として『プーチン幻想』という新書(PHP新書)の著者であるグレンコ・アンドリーという国際政治学者が出演しており、日本人コメンテーターの質問にこたえていろいろ解説していたが、さいしょはあのキーウ在住ボグダンさんってずいぶん日本語がうまかったな、国際政治学者よりうまいじゃん、と言っていたけれど(ちなみに兄によればこのボグダン氏は幼少期から日本にいて、三井物産だかどこだかではたらいていた経歴の持ち主だということで、このときうつった範囲でそういう情報が出ていたおぼえはないから(こちらが見落としていただけかもしれないが)、兄は過去にもこのひとがテレビに出演しているのをみかけたことがあるのかもしれない。とするとそれは兄がウクライナ関連の情報を一定の、もしくは一定いじょうの関心をもって追っているということで、それはふしぎではない、というのは兄は大学時代にロシア語をやっていてロシアに留学し、また卒業していまの会社(「(……)」)につとめてからも、一時(一八年か一九年くらいからだっけ?)ロシアに駐在していたからだ。とうぜんながらロシア人の知り合いや友人もけっこういるはずで、そういう兄の知人のロシア人がいったいこんかいの戦争についてどういったことを言っているのか、どのような雰囲気でいるのか、兄の観測範囲のことを聞きたい気もしたが、それはぶしつけだろうからそういうことは口に出さなかった。ただ兄がそういう経歴や関係をもったにんげんとして、心中そんなに穏やかでないというか、固有の関心をもちながらウクライナ情勢を追っているのはたぶんたしかなことだとおもわれ、テレビの番組をそれにうつして音量をあげたのもそういうことだろうし、飯を食っているあいだに母親は横から職場の写真をみせたりするのだけれど、それにこたえつつも、ある種神妙めいてみえなくもない顔つきで黙ってテレビを注視している時間がおおかった)、グレンコ・アンドリー氏も、発音はどうしても西洋圏(といちおうしておくが、欧州圏といったほうがよいか)の生まれであるにんげんのニュアンスをまぬかれないものの(ぜんたいてきにそうだったがとくにNの音など)、しかし語りじたいは堂々としておおかたなめらかなものであって、このひともこのひとでだいぶんうまいな、異国出身のひととしてこういうテレビ番組に出されて、そこでまわりの日本人のことばを正確に聞き取り、いいまわしに詰まることもあまりなく、あやまたず説明を返して堂々と語るのだから、たいしたものだなあとおもった。
- アイロン掛けを終えたあとは下階に来て、兄の部屋にはいり、弦が一本切れてかつ破滅的に錆びついているテレキャスターを持って自室にうつり、ベッド縁にこしかけてしばらく似非ブルースをやった。エレキギターはチョーキングができるからよい。ゆびはかなりよくうごいた。しばらく遊んで満足するともとのばしょにもどし、それからベッド上にあおむいて、腰とか脚をやわらげながら(……)さんのブログを読んだ。そのあとはコンピューターをからだの横に置き、脚をほぐしつづけながら窓のほうをみあげると、空はかわらずまろやかな、ふわりとした水色が無方向にのべられている快晴で、しかしちょっとあたまをもちあげると窓枠の下端から雲が顔を出し、みれば山際にそこそこの量感をもった白さのかたまりがもうひとつの峰のように盛り上がっていて、それを細い分かれ目のなかに満たした窓外すぐのシュロの葉は、雲をシートとしてそのうえに貼りついたようにうごかないので、あたりは無風ののどやかさ、きのうの晩に職場で(……)さんに、年末っていう感じぜんぜんないですね、ふだんとなにも変わらない、二〇一四年くらいまではかろうじてあったんですよ、だんだんうすくなってきて、二〇一四年に去年までは年末年始の雰囲気かんじてたんだけどな、っておもって、そのつぎの年にはもうなにもかんじなくなった、とはなしてたがいに笑ったけれど、しかしこうしてみるとしごとをおさめ、実家に来て、ベッドにあおむいて無風の青空をながめあげる無為のなかに、年末の空気感をかんじないでもない気がされた。天気だ。天気と空模様のなかに、年の暮れがかろうじてある。みているうちにその空には黒い鳥影がふたつすべっていき、そのつぎに一匹またあらわれて、距離がとおくてちいさく見えるがあのゆったりとした滑空と滞在はトンビだなとみるいっぽう、窓の右手(あるいは寝転がった姿勢でみているので下側からと言ってもよいのだが)からはいつの間にかべつの雲が生まれてはいりこんできていて、近所の上空にとどまりつづけるトンビは無規則な円運動をつくりながらすこしずつばしょを移動していくのだが、窓ガラスのすぐそばには夏場にゴーヤなどをそだてるための青緑色のネットが貼られているそれがいま薄陽を線の表面にわずか溜めつつ、かなたのトンビはその合成繊維の紐による方眼のさかいをものともせずに、やすやすと越えてそのなかを自由に行き来しながらだんだん視界を去っていく。
- その後きょうのことを書き出してここまでで四時。一時間一〇分程度でこれだけ書けているからまあなかなかのペースと言ってよい。
- そのあとは五時ごろからスープをつくり、七時過ぎに夕食。ちいさなプレートで肉や野菜を焼いた。まちがいなくここ数か月でいちばんの量を食った。食後はなんだかんだ主に男三人で会話。母親はうとうとしており、起きると風呂に行った。こちらは一一時だったか零時前だったかそのくらいで離脱し、入浴。その後も兄と父親はしごとのはなしなどいろいろしていたよう。兄は二時ごろ(入浴はせず)、父親は三時ごろに寝たとか。おおざっぱなながれはそんなところで、会話の詳細などのちのち書ければ。あと、アイロン掛けちゅうにみかけたテレビ番組はもうひとつあって、なんか外国に定住して暮らしを立てている日本人に密着取材するみたいなやつ。それも気が向けば。
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- 日記読み: 2021/12/29, Wed. / 2014/5/28, Wed.