どうもつねに胃腸の調子が良くないわけだ。食後にやたら張ったりして苦しかったり、空気とか呑酸めいたものがあがってきたり。それできょうは一〇時一〇分ごろ起床して、食事を取るわけだけれど食欲もあまり感じないし、スチームケースでこしらえた温野菜をぱくつきながらむかしの、パニック障害最初期の体調がいちばん悪かった時期にものを食ってても味がせず、「砂を噛むような」という比喩の意味を我が身にそくして理解したときのことをおもいだし、味がしないわけじゃないけれどこのままだと拒食症にでもなるんじゃないかとおもっていると、食後ほんとうにちょっと気持ち悪くなってきて、椅子についてもたれながらへそのあたりと左胸をおさえてしばらくじっとする羽目になった。
 けっきょくのところじぶんの体調の根本的な問題のひとつは自律神経だろうという結論にいたって、一月八日くらいからだったか、ただ生きているだけでもからだがつねにリラックスできないということなのだろうから、なるべく心身が休まる時間を取ろうということで瞑想を再開した。瞑想というか、さいしょのうちはただ布団のうえに横になってじっとしているだけで、要はヨガでいう屍のポーズであり、これは意志的な操作をまじえない自律訓練法みたいなものだとおもうのだが、その後座布団のうえであぐらでやってみたり、椅子でやってみたりもしているものの、さいきんは瞑想とか坐禅というよりもふつうにただ休む時間を取ってからだの自然回復力を取り戻したいというわけでまた仰臥している。よく知らないが仰臥禅というものもあるらしい。ただそうして休むときはきちんと休むという習慣にしたとはいえ状況が好転したのかというと果たしてあいまいで、現状維持もしくはちょっとずつ悪化しているのではないかという気もされて、うえに記した一事もそのひとつだ。ただ、もうこれはこれでいいというか、休むときはちゃんと休むようにしながらもうふつうに生きれば良いのではないかというこころにいたってはいて、要は体調を良くしたい、緊張とか発作を防ぎたい、それからのがれたい、はやく症状を治して正常に復帰したいというおもいでいろいろかんがえたり行為したりすることじたいにもう疲れて、それがストレスとなってむしろ精神を消耗させているのではないかというのがさいきんの自己観察だ。それでもうただ休んで自律神経を回復させようという結論にいたったのだが。ただにんげんそこまで急には悟れないので、からだがかたければ体操をがんばっちゃったり、日を浴びたほうがいいとおもって日中がんばってあるきに出たりするのだが、この「〜〜したほうがいい」という思考が良くない。神経症とか鬱方面の精神疾患のにんげんにはおそらくことさら良くない。けっきょく苦しみをなくしできるだけ発作から離れたいという完璧主義的な思考傾向がいちばん良くないのだとおもう。それは言い換えれば、じぶんにとっての異物、自己の安定性を乱す影響源、ひとことで言えば他者をかんぜんに排除したいという全体主義的なメンタリティだということで、自己の心身のレベルでそのような状態にあって政治的にリベラルを標榜することができるとおもっているのか?(とはいえじぶんはことさらそのように自認しているわけではないが) 体調が悪いということは、まずさいしょに苦しみが所与としてある。にんげん、とうぜんそこから逃れたくて逃れるための方策や行動をいろいろ取る。ところがじゅうぶんな成果が上がらず、予想(理想)と現状(現実)との齟齬から二段階目の苦しみが生じる、すなわち苦しみから逃れようとして努力することこそが苦しみを固定化する要因なのだというのが釈迦ならびに仏教の洞察だったはずで、そうした意味で生きるということはまことに一切皆苦であるなあというおもいを深くしているきょうこのごろである。さいしょにパニック障害になったときもこういう認識にいたっていたはずで、治ろうとがんばらずに病の現状をそのまま受け入れなければ完治・寛解はないとただしく理解していたはずなのだが、どうもこんかいそういうことができていなかった気がする。病と一生付き合い続ける腹を決めてふつうに生きていればそのうちなんかよくなるだろうというわけだ。ほんとうによくなる保証もじっさいにはないのだが。胃の苦しさというか胸苦しさというか端的に吐き気にちょっと襲われながら椅子でじっとしているあいだにあらためてそうしたことをかんがえて、「〜〜したほうがいい」という行動原理の悪辣さに再度おもいをいたし、ではじぶんがほんとうにしたいのはなんなのかと問うてみれば、それはやはり読むことであり、書くことであり、健康のためとかではなく大気と風景と世界のいとなみを賞味するために外気のなかを歩くことであり、あとはギターも弾きたい。そういうわけで、行為をひかえてもひかえなくても苦しむならもう知ったこっちゃねえや、ひさしぶりにギター弾こう、それでダメージ受けたらそのぶん休めばいいやという気になって、吐き気がいちおう楽になったあとはウルフの英文を音読したりし、食後一時間ほどからちょっとだけ横になって休んだあと(正確にはこの臥位のあいだにギター弾こうという決意がかたまったのだが)、部屋の隅に置いてあるケースからものを取り出してひさしぶりにてきとうにブルースやったり似非インプロやったりしたが指がうごかないうごかない。しかしおもったよりもそれでからだの調子がわるくなったりはしなかった。いまこうして打鍵していても、さいしょのうちは特に左手のゆびがふるえたり、胃のあたりがちょっと嫌な感じになったりしていたというかいまもわりとしてはいるのだが、しかし書けてはいるから、要は体調が悪くなることじたいにビビっていたということなのだろう。苦しみを苦しみとしてきちんと苦しむことこそが生きるということであると、そこの覚悟が足りていなかったのだ。「覚悟」などというといかにも雄々しい単語だし、ハイデガー的なおもむきが出てきて嫌だが。ただやはりパニック障害最初期のころにも、いまのこの苦しみがじぶんの生にいわば割り当てられた苦しみなのだから、という受け入れの思考があったことはおぼえている。そういう契機が必要なのだ。
 ついでにいうと拒食症になるんじゃないかとか、このままずっと治らないんじゃないかとかいう不安もとうぜん最初期にはおぼえていたもので、さいきんもそれを感じているから、けっこうやっぱり反復している感じなんだよな。さらにいえば二〇一八年におとずれた人生二度目のどん底である鬱期間のまえにあったこともいくらか反復している。自生思考騒ぎはないが、じぶんの思考、あたまのなかでつねに展開している独り言自体が負担に感じられるときはあるし(一八年のときもけっきょくはそういうことだったのだろうとおもう、思念の負担に心身が耐えられる状態ではなかったので、その存在じたいが不安やストレスに感じられたのだろうと。とうじ調べたところでは雑念恐怖という症状はたしかにあるらしく、たしか倉田百三がそういうものになったことがあるとネット上で見た。一定の計算があたまのなかにつねに展開してやまず、それが恐怖の対象になったというのだが、こちらもなにかの曲がずーっとくりかえし脳内で再生されることとかよくあるし、それと似たようなことだろう)、きのうとかおとといとか日のなかをあるいているとやっぱり空の色とか大気のあかるさとかひかりの感触とかがやたらみずみずしくうつくしく感じられて、それだけでちょっとなみだをもよおすくらいになってしまい、まえだったらこんなんじゃロマン派詩人になっちゃうよとか言っていたところだが、あれ、おれそろそろ死ぬのかなみたいな、そういう風景のかがやきみたいなものは一八年のときにもあった。これはやはり単純に、心身が弱っていて情緒不安定になっているということだろうとおもう。鬱的な気分にすこしかたむくときがあるのも自覚している。だからこれからまた鬱様態になるのではないか、人生三度目の底が来るのではないかという気がなんとなくするのだが、しかしじぶんはもはやそこから逃れようとはせず、あらがうことなく粛々とそれを受け入れ、病が展開するのを病にまかせるつもりである。下手にもがけば苦しみが肥大するだけなのだ。それにもしそういう衰弱が来るとしても、それは病の順当な展開として、治癒のプロセスというものがあるとしたらそれにとって必要なものなのではないかという気がなんとなくする。精神分析理論も症状をおさえるのではなく、むしろ十全に展開させることが肝要だという認識に立っていなかったか? そういうものなのではないか。無意識だか心身の生理的システムなのかなんなのかわからないが、その展開がきちんと果たされて時期を通過すれば、しぜんにおさまると。まあそういう保証もやはりないのだが、いずれにしても、かっこうつけたいいかたをすればじぶんはいまいかにも近代的なかたちとしての人間主体にとっての悲劇的地位にあるということで、つまりじぶんにこれから破滅と死が待っていることを明晰に認識しながらもその宿命にしたがうほかないという『白鯨』のエイハブ船長と構図的には似たたちばだということだ(もしそうだとしても、たぶん死ぬことはないとおもうが)。科学主義全盛(?)のこの現代にあって宿命論など時代錯誤もはなはだしいというのが順当な印象なのだが、しかしある種の病というのはそのおとずれを受けたにんげんにとってはそのようなものとして受け取られることも往々にしてあるだろう。それにAIを神としてたてまつるような勢力もあることだし。
 ところで、病が宿命であるというときに、その「宿命」とは必然ということなのか偶然ということなのか? ふつう「宿命」とか「運命」といったばあい、それは定まっていたこととして逃れられない必然、という意味を帯びてつかわれるような気がする。けれど、宿命とはむしろ逃れられない偶然なのではないか。これは語義矛盾か? 必然はいわば因果のことわりによって規定されているものなので、その因果を見定め適切な処置をはかれば避けることができる(もっともその介入ができないばあいも多くあり、その状況こそが「宿命」と呼ばれるのかもしれないが)。しかし偶然は原理を超えたアクシデントとしての偶然であるがゆえに、起これば起こったこととして全面的に受け入れるほかなく、そこから逃れることはできないと。偶然が事後的に主体の認識のつじつまを合わせるために必然化されるというだけのことかもしれないが。つまり病や宿命的なものは言語と語り(物語)によって意味づけされることで、その個人のなかで理解できるものとなり、馴致されていくことができるようになると。よくあるオープンダイアローグとかストーリーテリングと(精神)疾患とのかかわりという話題に収束してしまうが、ちょっと位相の違うはなしだろうか。