ついでにずいぶんまえにつくって、文を書けないでいるあいだじゅうこの投稿だけしておこうかなとたびたびおもいつつもできなかった詩も載せておく。



 彼岸と呼ばれる方角を得てはじめて呼吸をするものたちへ
 晴天頼みのおぼろな鼓動を歩行の単位とするなかれ
 雲ゆく五月の大空はしかし日の出を抱いてもまだなおひろい
 みずみずしいのは青さではなくなめらかな朝の顔立ちなのだ

 旅人は言おう冷たい土にもときに約束を見ることはある
 サルスベリの樹が冬でも夏でも落花をつづけるそのひともとへ
 こじつけられたたましいの草に呪いをすすめるものとてないが
 黄泉路を行くにはひとつばかりの苦さを片手に刻むほかない

 つながりを知れば信じることこそ愚者の胡乱な嘆きと化して
 だとすればやはりそれこそは蛇のあのとき仕掛けた罠でしかない
 結び目以前の存在者どもが宴をささげる年々の冬
 間遠に高鳴る弓張りの月がたばねるひかりを忘れるまいと

 記憶も記録も無益な業を課せられたものの恍惚を知る
 ただし敬虔がないのだとしたらそれは禍いの死骸にすぎぬと
 冷静に騒ぐ亡霊たちから有明の位置を聞き取ったなら
 その空を掘って白日へ向かう無数の墓穴を配りまわろう

 祈りとなったわれわれはそこにて昼寝の功徳を味わうけれど
 雨はいつでもさみしげなひびきで邪魔な銀色を刺しこんでくる
 八十八夜の堆きゆめを城砦となしてたたかうあいだ
 時間を奏でるささやきの笛にどうか足をとどめてくれないか

 傷つけられた飛空艇のごとくわれわれの生はみじめに回り
 わたしとあなたの重なりの底に平方根などもとめはしまい
 雨脚ばかりが加速しつつある紀元と紀元のこの変わり目で
 ひよめく手首の血管のうちに真理の予感はめぐりゆくのだ

 複雑怪奇な感情の唄を数多あつめて書棚に据えよ
 それでいてしかし人にありがちな分類の欲を断ち切ったなら
 夜々のひとことが春風につれて時のゆく先をおしえるだろう
 いかさまだらけの太陽の下で一個のまばゆい謎であるそれが

 ほどけることなく繁殖をつづけ星々の数をしのぐ瞬間
 さだめという名の観念がやっとこの世に幻滅してくれるだろう
 役立たずだった予言者どもからうらないのすべを奪い尽くして
 落日の裏をさかしまにゆこう白昼のゆめと出くわすために

 語り継がれた約束もいつしか不安をつたえる符牒となって
 恥じらいとともに墜落を知った星々はきょうもしずかにゆれる
 水たまりだけが距離をいろどるあざやかな雨後の路上にあって
 しゃべり疲れたものたちのくゆらす沈黙こそが支えとなった

 いらなくなった思い出をまるめたちり紙は森のほとりで燃やせ
 強情な鳥と二か月ばかりの狎れ合いをすすめ愛を知ったら
 きみのものでない言語のなかからきみのものでないことばが生まれ
 あかつきの空に吸いこまれていく百世紀先の遠吠えに似て

 ゆめの根源をだれも知らないがおそらくはそこで響き合うのだ
 鎖と鎖のすれあいのごとくいびつな泣き声のような時が
 海鳴りだったあのころをだれもが忘れ去ったまま死にゆくだろう
 そして植物は蔓をすこしずつ無限の距離へと差し伸べてゆく



 あとさいきんはMさんの『亜人』をかなりひさしぶりに読みかえしたのだけれどめっぽうおもしろく、おもしろくないところがなくてやはりすごいなとおもった。ただ、実家にいるあいだに二日で120ページくらい一気に読んだのだけれど、そのせいで負担がかかったらしく、目のまわりが赤くなって荒れるという事態が起こり、これはさいきんもあるのでほんとうはこうしてモニターをまえにしているのもよくない。
 こんかい読んでこれは意外とすごいんじゃないかとおもった箇所は、12ページの「大佐は完璧な詩人だった。言葉の誤りを指摘されるたびに、むしろその言葉によって指示しようとした当のものを誤用された言葉に見合うべく変形してみせる、しなやかで強情な鑿の振るい手だった」というところと、28ページの、「罰の予感がすでに罪であり、罪の実感がつねに罰であった」というアフォリズム的なひとこと。どちらも段落のはじまりにあるもので、要は後続する記述群との距離感の点でというか、つながりがよくわからんというかほぼないようにおもえるその並列・切断感覚において(それぞれの直後としては、前者は「戦の大半は海戦であった」とつづき、後者は、「めざめと同時に今日がその日だとだれもが直感せざるをえない完璧な凪の数日というものが一年のうちに何度かおとずれた」とつづく)。特に後者。前者は大佐の人物像の記述として理解できるし、この前段で、「魂の感受性の異様な繊細さ」とかあったり、「世界と詩と魂が三位一体となってとりむすぶ崇高な共犯関係」と「詩」ということばそのものも出てきているし、大佐の「詩人」性はのちにもいくらかはあらわれていたはずなのでまだおさまりがつくのだけれど、ただこの三行がこの位置にあるのは特殊じゃないかとおもう。ふつう、前段の大佐の説明の部分とひとつづきに組み込んでしまうものではないかと。後者はもっとよくわからんというか、このひとことだけ独立自存しているような感じがありつつも、がんばって解釈をつけようとすればこれはこれのことであると強引に言えなくもなさそうな気もするそこはかとない意味のひろがりがただよっているような感触、だろうか? しかしそれも決して妥当にはなりきらないというような。