きょうこれで昼間とあわせて二回目、記事でいうと五記事目も書いてしまっていて、心身にとってあきらかによくないのだけれどどうも書いてしまう。二食目にきのうこれもひさしぶりにつくった煮込みうどんを食ったのが五時ごろだったが、そのあと椅子に座ってちょっと休んだり、『族長の秋』を音読したり、机のしたのマットの埃などをクラフトテープで取ったりしたあとギターもまた弾いてしまったし。その後七時ごろから四〇分ほど屍になってから夜道に出たのだけれど、屍になっているときもからだが熱かったり、またこうしてやたら書いていることからもうかがわれるように、全般的にあたまは加熱気味に感じられて、要は精神が冷静な興奮とでもいうような状態にあって思念がよくめぐる。そしてこの心身の状態もまたおぼえのあるもので、二〇一八年初に変調をきたすまえ、一七年の末に発作をまねく直前もこういう感じだった。そのときはヤクがなかったので鎮静させることができず、そのまま思念は加熱と加速をしつづけて、年初の三日四日あたりがピークで、たしか三日にMさんと通話したんだったと記憶している。あのときの加熱感に似ており、と言ってこれを書いているいまはたしょうはさめているのだが、しかしからだのあまり安定しないような感じはおそらく同種のものである。この事態にたいする解釈は、まず好意的にみるならば、1. なにもせず休むときはきちんと休むという習慣をつづけたおかげで、体調が回復し、書き物ができるくらい心身が活動的になった、そして一八年初頭の反復だとみなすならば、2. これからやばいことになる前兆である、ということで、どうも2の線が濃厚なようにじぶんとしてはおもわれる。だからあきらかに帰宅後にこうして文を書くのはやめておいたほうがよかったのだが、理性的な主体としてのじぶんはなんどもそのように告げていても、帰路をたどるじぶんのあたまはいっぽうで、すでに文を書きはじめていたし、おどろくべきことに帰ってからも書くつもりでいるようにしかおもえなかったのだ! あたかもなにかに誘引されているかのように。これこそが無意識のはたらきなのだろうか? 無意識だかなんだかわからんがそういったものが、こちらをいわば個人的破局へと追い込もうとする一種の破滅願望(もしくは死への欲動?)として展開しているということなのだろうか? そして、こちらにはそれを根本的にはどうすることもできないという感じを得る。なんかもがいてもけっきょくうまく行かないのだ。さきにも記したように、じぶんはただ来たるべきものを来たるべきものとして待ち受けるだけである。そういう従容とした姿勢でいるつもりなのだが一八年のときとは違う。あとしばしば屍になっている点が。ところでこのあいだAくん・Kくんとの読書会の課題書で、ジャン=ピエール・デュピュイの『ありえないことが現実になるとき 賢明な破局論にむけて』を読んで、ひさしぶりにこういうハードな思想書読んだわという感じでむずかしかったのだけれど、主張の眼目はいちおうとらえられたつもりで、人類的破局のような、それが来るということを知ってはいても信じられない事態にたいしてはわれわれのつうじょうの時間観念(無数の枝分かれによって未来の可能性が無限にひらかれているととらえるもので、デュピュイはそれを「歴史の時間」と呼んでいた)で対応するのは適切ではなく、破局が起こり来たるということをもう固定された未来としてみなしてしまい、その前提から取るべき対応を取るという時間観念を提案しており、デュピュイはこちらを「投企の時間」と呼んでいた。構造的には要はハイデガーである。個人的次元、実存の避けることができない最終到達点としての死をただしく見据え、その認識を未来から現在に反映することによって、いま現在の頽落した非本来的な生から覚醒し、本来的な生として「民族」の一員として邁進できるというのがその雄々しき理屈で、確定的とおもわれる未来の先取りが現在の生に投影的な影響をあたえるというのはニヒリズムとおなじ構造だし、もっとカジュアルな例でいえば土曜日にせまりくる運動会がいやでいま遊んでいても楽しくない子どもとおなじことである。ハイデガーのばあいやニヒリズムでは来たるべき死は防ぐことができないわけだが、デュピュイの理屈ではそのような態度で対処され破局が未然に防がれたとすれば、「投企の時間」としてあったはずのこの未来 - 現在の円環的ループそのものが消滅し、なかったことになる、というはなしだけれど、これは保坂和志がなにかのエッセイで東日本大震災にまつわってほぼおなじようなことを言っていたのをMさんのブログで読んだ。ところで今時のこちらの姿勢もこの「投企の時間」的な態度だということができるはずで、要はもうこれからなにかやばいことになるとおもっていたほうが良いわけである。それがなんなのかはわからない。たんなる体調の悪化なのか、発作なのか、一八年の反復としてつねなる不安のさらなる蔓延、半錯乱、そして無感情化をともなった鬱様態への移行なのか、それいじょうの狂気なのか、どれでもないのか。なにが来るのかはわからない。未知と偶然と不確定性にひらかれ、予想もつかない来たるべきもののおとずれを待ち受けるでもなく受け取り、引き受けなければならない、そうしたのっぺりとした不条理を生きるほかないということ、それが人間の生だ。偶然を、それが偶然であるがゆえに肯定しようではないか! 良いことであろうとわるいことであろうと。