きのうひさびさにたくさん文を書いたものだからきょうはぜったい書かないほうがいいだろう、休んだほうがいいだろうとおもっていたのだけれど、九時過ぎに起きたときの心身の感覚としてはむしろ比較的すっきりしており、一度目の食事も鍋にのこっていた煮込みうどんを、おとといつくって冷蔵庫にも入れずにいたけど大丈夫かなと懸念しつつも、へんなにおいはしなかったのでのこりすべて食べた。胃は起きた直後の時点では痛かったのだが、食っているあいだはそうでもなく、二時ごろ二食目も食った。バナナや納豆ご飯。その後三時直前から散歩に出て、三〇分ほどあるいてきてから屍になってのいまなのだけれど、やはりきのうよりも打鍵していて神経的な反応はすくないように感じられるし、あたまもきのうよりおちついており、加熱の感覚はとぼしい、というか現状ではない。ただ目のまわりは赤くなっている。
昨晩は文を書いたあともうさっさと寝ようとおもって一〇時半には床につき、しかし時間もはやいし、またあたまも加熱していたからすぐにはねむれないだろうとおもっていたとおりなかなか意識がまどろんでこず、そうしているうちにしかしからだのほうはどんどんどんどんほぐれていって、さいしょのうちは文を書いた影響による神経反応で痰みたいなものがたびたび喉もとにのぼってきており、それをたびたび飲み下さなければならず、喉も詰まったような感じでからだが緊張しているのがあきらかに見て取れたのだけれど、時間が経つにつれて徐々にではあるがそれがどんどんなくなっていき、からだはやたらとあたたまる。しかしあたまだけはなかなかほぐれてこず、思念がまわる。とはいえこうした不眠の夜はパニック障害初期にもよくあったもので、そのときと同様、ねむれなくてもじっとしていればいいのだというわけで、おれは朝まででもこのままじぶんのからだとつきあいつづける覚悟を決めているぞと呼吸をする石もしくは屍になりつづけていると、しかしおなじ姿勢でずっとじっとしているのもつかれるから、おそらく一時間か一時間半か経ったあたりでいちど解いて右を向き、それからまもなく意識をうしなった記憶がある。その後まだ暗いうちにいちど起きた。たぶん四時ごろかそのまえ。いったん起きて時間を見たら四時三五分だったので。それで一二時に就眠したとしてもさすがにみじかくてこれでは危険だからとまたあかるくなるまでじっとする覚悟を決めたが、いつかふたたびいちおうの寝付きにはいっていた。八時台には現世に復帰していたとおもう。
夜半にじっとしているあいだにひとつおもっていたのは、どんどんからだがほぐれて苦しさがなくなってくるものだから、あれ、これもしかしてほんとうに体調が良くなっているのか? ということで、きのうは冷静に興奮したあたまでこのさきやばいことになる気がしてならないとほぼ確信し、それを粛々と受け入れるとおおげさに書いてしまったけれど、きょう起きたときの感じとかからしても、これはもしかしてふつうに回復しているのでは? といううたがいが生じてきた。回復のうたがい、というのもへんなはなしだが。どうも釈然としないというか、だまされているような、罠にはめられているような気がしてならないのだよな。いまだって神経反応はありつつもこうしてわりとふつうに書けてしまっているのがじぶんでうたがわしい。そんなにうまくいくだろうかと。うまくいっているとしたら、一月八日あたりにじぶんがいたった根本的には自律神経の問題であるという洞察はおそらくあたっているということで、なにもせずきちんと休む時間をたっぷり取って心身がただしくリラックスし自然と回復する能力を取り戻すという、要はあまりにも脆弱化していたとおもわれる副交感神経を建て直すというこちらの目論見は成功しているということになるのだけれど、ちょっとそれを信用しきれず、罠にはめられているのではないかという警戒を捨てられない。まあそうだったとしてももはやかまわんというのがきのうのやけっぱちなのだけれど、ふつうにかんがえてきのうあれだけ書いて心身に負荷をあたえたし、じぶんがおもっているいじょうに疲労しているとかんがえるのが筋だろう。じっさい、さっき散歩から帰ってきたときも、たかだか三〇分なのに、疲れたな、という感覚はおぼえたし。外界はちょっと情報量がおおすぎて、即座に休まないとからだがもたない。ただ、文を書くのでも読むのでもそとをあるくのでも体操やら運動でもなんでもいいだろうが、心身にある程度の、やばくない範囲の負担をかけて、そうしてその都度屍になって休むというのがやっぱりいいのかもしれないなとはおもう。そのようにしてメリハリをつけることで副交感神経が賦活され、生理システムのバランスがととのっていくのではないかと。きのうはずいぶんおおげさに書いたけれど、要はよく休むということだけ優先事項としつつ、あとはただふつうに生きていればたぶんそれでいいのだ。そうすれば徐々に徐々に、時間はけっこうかかるだろうが、バランスの良い心身にだんだんなっていくだろう。ただしそれでパニック障害が寛解にまでいたるかというとその保証はないけれど、それこそべつにそれでも良いのだ。必要なのは病とともに生を添い遂げるというこころもちである。