調子が回復しているとすればイス軸法がそれに寄与しているところはたぶんけっこうおおきくて、イス軸法と体軸、瞑想についてのはなしもついでに書いておこうかな。そんなに書いてだいじょうぶなのかわからんが。
まずイス軸法というのはいぜんUくんやKさんにいちどおしえてもらって、そのときはちょっとためしたくらいでじゅうぶんな興味を惹かずに終わったのだけれど、数か月前からあらためて目をつけて継続的にやっているもので、西山創というひとが中国武術や整体などの経験・知見をもとに開発した「五秒で体軸をつくれる」というメソッドのことで、体軸というのはかれのいうところではからだの「中心軸」のことであり、これができるとそのひとのからだにとっていちばんバランスの良いうごきができ、楽になるということなのだ。YouTubeにはまるで魔法のように、格闘家などをあいてにその体軸を「注入」(とほんにんはいうのだが)したり「解除」したりする動画がいろいろあがっていてけっこうおもしろい。
こちらはもともと自律神経の問題でからだぜんたいがめちゃくちゃかたかったので(たんにストレッチ的にかたいというだけではなく、つねに緊張がとれないので皮膚や肉じたいが冷えていたりかたかったりするということ)、これをやっても動画みたいに即座にうまくは行かなかったのだが、ただいちにちの終わりのほうでそこそこからだがほぐれていたりするときにやるとたしかに楽になったな、うごきが最適化されたような感じがあるな、ということはあって、それが瞑想をしたときのからだの楽さと似ていたのだ。
それでじぶんはかんがえた、体軸というのはもともと、瞑想によってからだじゅうがじわじわとほぐれていってノイズが発生してはなくなっていく、その末に浮き彫りになってくるようなものなのではないか? と。そうしてそこから容易につぎのような発想が浮かんでくる。理屈はわからないがイス軸法はこの体軸を先立って「注入」することができる、ならばイス軸法をやってから瞑想すればよりかんたんにからだはほぐれていくはずではないかと。そういうわけでいま屍になるまえにはイス軸法をやってから横たわっているし、またいちにちのなかでおりおりやっているのだけれど、おそらくこの仮説はただしい。
なにもしないでじっとしているとからだの自己調節機能がおのずとはたらいて、じぶんの意志で心身にそとから押しつけるのではなくからだじたいの自然な現成として正身端坐が実現すると、そういう方向で只管打坐をかんがえつづけているのが藤田一照という曹洞宗の禅僧で、こんかいあらためて瞑想というか屍というか端的になにもしないことを習慣化してから、かれの著作をまた読んだのだけれど、藤田一照もやはり「体軸」ということばはつかっている。それが西山創のいう「体軸」とおなじものを指しているのかどうかはわからないが、ただこのふたりの向いている方向性がほぼおなじだろうという傍証はあって、それはふたりとも赤ん坊の身体をめざすべきものとして言及していることだ。藤田一照はまったく力みや意図や自意識がなく自然に背の伸びたきれいな座り方をしている赤ん坊の写真を著作によく載せている。そして西山創も、「雑談スワイショウ」という動画コンテンツがあるのだけれど、その何回目かのなかで、スワイショウとかイス軸法というのは赤ちゃんだったときのからだにもどるためのメソッドだということを言っていた。つまりかれの理解では、体軸というものはもともとだれのからだにもそなわっていた、それがあるから筋肉的にはまだまだ未発達な赤子でもだんだんと立ち上がり、あるくことができるようになる、ところがその後成長するにつれてさまざまな要因でからだがゆがんだり、そのつかいかたに癖ができたりして、体軸によって実現していた最適なバランスがうしなわれてしまう、ということなのだ。
つまり、なにもしないでじっとしていることでからだの自己調節機能がはたらいて、だんだん体軸のそなわったバランスの良いからだになっていく、いいかえれば身体の自律性にはその起源というか、原初的な状態へと回帰するかたむきがもともとそなわっているのだとすると、なんかこれ精神分析理論と似ているかもしれない、とこちらはおもったのだった。といってよくおぼえていないし理解していないのだが、たしかまだ去勢されておらず主体が成立していない段階の、母子一体の(ということは世界とも未分化の)万能的ユートピアへと回帰したがる傾向が主体の精神にはあって、それが死の欲動としてあらわれる、というはなしなんではなかったっけか。
その類似についてはともかくとして、うえの仮説がただしいならば、今回こちらの心身が回復しているようにおもえるのも、体軸のあるからだへと徐々に徐々に向かっているということなのではないかとおもうのだけれど、体軸というものはかのゆうめいな丹田とおなじように、人間の身体内にそういう器官が実体的にあるわけではなく、あくまで観念的な存在である。したがって個人にとっては、それはおそらく徹頭徹尾感覚の問題である。こちらのイメージでは、からだのなかに空洞がとおっていて、その空洞があるがゆえに身体のほかの部分がゆらぎをもって柔軟にうごくことができる、なんかそんなようなものではないかというのがひとつあるのだが、これはあくまでイメージである。もうひとつ、むしろ体軸というのは「機能」としてとらえたほうが良いのかもしれない、という気もする。からだを原初の最適バランスにもどしていくという、からだじたいにそなわった自己回帰のはたらきだと。