わたしはこれから刑務所へ行く。わたしは刑務所のなかがどのような場所だか、くわしいことはまるで知らないのだ。しかし行かねばならないという。わたしが送監されるのは痴漢をおかした罪だというのだが、これはおかしなはなしで、というのもわたしはいままで電車に乗ったことなどいちどもないからだ。離島の生まれでそこをはなれずにここまで四十二年、漁師としての仕事で生計を立ててきた。これも厄年の星のまわりなのかもしれない。たしかに村の神社のおみくじには厄年注意のような、警告とも忠告ともつかない文言もあったはずだ、具体的な内容はわすれたが……。けれど、あんなものは、じぶんも子どものころにやったおぼえがあるが、神主にあつめられた近所の悪ガキどもが、みんなでげらげら笑いながらその場のノリでてきとうな内容を決めていく、そういうものだったはずだ。神主も、ときには手をたたき、なみだをにじませて笑いころげていた。ともかく、わたしは電車に乗ったことがないのだから、痴漢というのはあたらない、東京に出た友人にたしか弁護士になったやつがいたはずだから、送監されるまえにかれと会わせてほしい、そのくらいの権利はあるものだろう、むかえにやってきた駐在警官と、本土からこの件のために渡ってきたもうひとりの警官とにそう告げると(ふたりはまったく同じとしか見えない同色同型の制服をまとい、背格好も横並びだったので後ろ姿ではどちらがどちらかわからなかったくらいだ)、「しかしねえ、お前さん」と駐在は言った。子ども時分からなじみのひとだ。「わざわざそれくらいのことで弁護士に頼むってのも……あちらさんが受けてくれるかねえ」まあいくらか時間も必要でしょうし、ということで、警官ふたりは用件を告げると、いちど帰っていった。いったいどういうことなのだろう? 弁護士の仕事についてもくわしいことは知らないが、こういうときに活躍して冤罪を証明してくれるのがかれらの本分のはずじゃあないのか? 浜からかえってきて事の次第を妻に告げると、「あらそう」と淡白にもらしたかのじょは、そのまま獲ったばかりの魚が詰めこまれたケースを受け取り、さっそく調理をはじめた。まな板のうえに一尾を乗せて包丁をすらすらうごかしながらこちらを見ずに、「どうせだからついでにあのひとに会ってきたら? ほら、東京に出て弁護士になったひといたでしょ、なんていったか、なまえ忘れちゃったけど」と続けられたときには、そういうものなのかな、四十二年も生きてきたけどおれが不勉強で知らなかっただけで、世間っていうのはそういうふうに回ってたのかな、なにしろこの島を出たこともほとんどないし……という気持ちが朦朧とこころのなかに立ち籠めたのだが、しかしそんなわけがない! とにかくわたしは電車に乗ったことがないのだ。そしてこれから乗ることもない! わたしのあたまは驚きと憤懣のあまり、逆さになって首からぽっかり転げ落ち、海に突っこんでフカの餌になっちまいそうだ。というのもいまわたしは海の上にいるからだ。ここは海上である。どうこうしていても埒が明かない、ともかく捕まってしまったらおしまいなので、船を出して逃げてきたのだ。この文書は、あくまでも自分が無実であることを訴えるために、ほとんど遺書のような気持ちで綴っている。書き終えたらメールで知り合いとか新聞社とかに送信するつもりだ。これでわたしも犯罪者、犯罪逃亡人だ……こんな人生になってしまうとは。行くあてと言ってきちんとしたものはない。ただ、おおきな声では言えないが、漁師としてのたしなみとでもいおうか、仕事の都合上、わたしは某国の漁師といくらか見知り合っていないこともない。かれらと船上で酒を飲んだときに聞いたのだが、どことは言えないその国では、密輸とか密入国、果てはほとんど人身売買のような人間の受け渡しまで行われているという噂だったのだ。あくまで噂だがね、イッヒッヒ! と前歯の黄ばんだその漁師は言ったが、いまわたしに残されている希望は、なんとかかれらとまた遭遇できないかということだけである。また毛ガニ漁に来ているといいのだが……。