きのうきょうとかんぜんに春の気で、台風でも来てんのかというくらい風がめちゃくちゃにつよく吹き荒れていて、洗濯物は片寄せられるし、きのうなど三階くらいまであるような見上げるほどに巨大な引き戸が一気にたたき閉ざされるような大気の音がときおり立っていた。
 きょうの起床は九時二〇分ごろだったのだけれどおそらく八時台には覚めており、れいによって起き上がるまえに膝を立てた姿勢の屍としてじっとしているのだが、心身の感じはやはり比較的すっきりしていた。おとといきのうよりもリラックス度が高いことが見受けられ、それは昨晩やめたほうがいいのにとおもいながらもまた一記事書いてしまったあとの睡眠もおなじことで、おとといよりもさいしょから心身の落ち着き度がましで、しばらく屍にはなったけれど入眠にも苦労せず、二回くらい覚めていたようではあるがそれもよく覚えておらず、なんかわりとよくねむれたなという感じがあった。ただ、詳細をわすれたけれど暴力的なゆめをみたので、文を書いたことによるストレスはあるのかもしれない。
 それで起床前に屍になっているあいだ、リラックス度は比較的高い(といってもたかが知れているのだろうが)にもかかわらず、希死念慮めいた思念が湧いてきたときがあって、死にたいというよりは存在していることがつらいみたいな感じだが、この一事からその後かんがえたことがある。たまたま生じた思念に意味を読み込みすぎだといわれればそれまでなのだけれど、この希死念慮もひとつの抑圧されていたものではないかとおもったのだ。というのも、希死念慮を直視するのはやはりこわい。なぜこわいのかというと、じぶんの死を、ふだん抽象化され受け流されている希薄さにおいてよりも具体的にかんがえることになるからで、もうすこしひらたくいえば、希死念慮に引きずられてじぶんがほんとうに自殺してしまうのではないか、そこまで行かなくてもこのことをあんまりかんがえすぎると、そっちのほうに引き寄せられて体調が悪くなってしまうのではないか、というようなおそれがあるわけである。
 存在することじたいがじつに重労働でしんどいということは前々からもちろんよくおもっていた。生体にとっては生体の維持こそが根源的なストレスですよマジで。しかし、おもっているということと、それをじぶんじしんでほんとうにみとめるということとは、おそらくべつのことなのだ。抑圧されているものを顕在化させてそれを症状として展開させるのが治癒のプロセスでありうるということをおとといもちょっと書いたとおもうけれど、どうもじっさいそういうことはあるのかもしれない、という気がしてきた。これはかなりわかりやすいというか、俗流化されたかたちでの精神分析とか無意識についての理解と軌を一にしているようにおもうので、どうなのかなという気もするのだけれど、たぶんフロイトも理論の根幹ではそういうはなしになっているんですよね? そのプロセスじたいはもっと複雑化されたものかもしれないが。フロイトはおいても、宗教からスピリチュアリズムから心理療法まで、この点はおおかたのひとびとが一致しているんじゃないかとおもう。それこそスピリチュアル方面の言説で「インナーチャイルド」というのがあって、じぶんのなかにねむっている子どものじぶんをやさしく抱きしめてそのままみとめてあげましょうみたいなはなしで、あの甘ったるさというかまったりとまろやかな調子はいやだなあとおもうのだけれど、それも要は被抑圧事項を承認するというはなしではあるわけだろう。表象形式はともかく、まあそういうことはあるのかもしれんと。藤田一照も坐禅にまつわってそのへんのはなしはしているし。
 それで重要なのは、比較的リラックスしてすっきりしているにもかかわらず、そういった不穏なかんがえが湧いてきたというのは、むしろ、リラックス状態でこそ、無意識的要素とみなせるかもしれないものが顕在化してくるということではないのか、とおもったのだ。そういうとこれもまたいわゆる変性意識とか催眠療法とかのおもむきが微妙に出てきていやなのだけれど、でもそういうことがあるのだとすると、まえからちょっとおもっていたことだが、坐禅というのはじぶんひとりで精神分析をするようなものじゃないのかという気がするんですね。
 精神分析というのはほんらいあいてがいないとできないもののはずで、つまり分析家と分析主体の二者が必要なはずで、端的にいいかえれば他者が必要なのだ。言語やそれいがいの意味交換をもちいた他者との対話のなかで分析プロセスが進展するとおもうのだが、では坐禅もしくは瞑想においてその他者の役割を果たすものがなんなのかといえば、言うまでもなくそれはじぶんじしんの身体ということになる。この点が道元や(おそらく釈迦も)の特徴的な、興味深いポイントだとおもう。坐禅というのは、すくなくとも藤田一照からまなぶかぎりでは、徹頭徹尾身体的な実践なのだ。ただひたすらに正身端坐をねらいつづけるというだけのことなんですね。ただしそれはじぶんの意志でからだに押しつけるのではなく、身体じたいのはたらきが内発的に発露されるようなありかたとして成されなければならない。かんたんにいってしまえば、能動性をカットしてなにもせずにただじっとしていれば、からだはおのずからそういう機能を発揮させはじめる。そのひとつがリラックスだったり、自律神経がととのうとかいうことだったりするわけだ。
 で、仏教あるいは曹洞宗ではそこにやってくるさまざまな思念は「追わず払わず」の態度でただ受け止めろみたいなことが言われるのだけれど、これが要はじぶんのなかに抑圧されている、じぶんじしんではみとめたくないような要素を承認するということになりうる。そしておもしろいことに、おもいとか感情とか自意識とか無意識的なものとかというのは、その存在を気づかれてうまく承認されると、なんというか力をうしなうんですね。おさまりがつくというか。釈迦のエピソードでも、苦行をやめて樹下に座って(仏教の教義上では「第一の禅定」とされる)一種の悟りを得た釈迦のもとに、悪魔が多数襲来するというはなしがあって、これは要するに打坐を邪魔するさまざまな誘惑を象徴しているわけだけれど、釈迦はそこで、「悪魔よ、わたしはおまえがそこにいることを知っているよ」という、そうすると悪魔は手が出せない、ということになっている。これもそういうメタ的な承認を語っていると理解できる。
 つまり坐禅もしくは非能動性瞑想というのは、じぶんの身体をあいてとすることで同時に無意識的要素との交流がなされる自己の解釈学的実践なのではないかと。しかしその「無意識」はおそらく「本来のじぶん」というような真理の座ではない。フロイトの言説のなかでも、無意識というのは一種の作業仮説というか、じっさいにそれが存在しているのかどうかほんとうのところはわからない、ただ、そういうものがあるとかんがえるといろいろなことにうまく説明がつく、無意識というのはそういうものだし、精神分析にとってそういうものでありつづけなければならない、みたいな主張があったはずたしか。そういう意味で、よく知らないのだけれど、数学にも虚数というものがたしかあったはずで、それもおなじようなものだったはずたぶん。常識的にはかんがえられない数というか、ムージル的にいえばいわば数の名に値しない数なのだけれど、その概念を導入することでいろいろなことが理解できるようになると。
 だから無意識というのは実体的にあるのかどうかはわからない仮設的なもの、フィクショナルなもので、むしろわれわれのなかにそれをその都度つくりだす機能がそなわっていると、そんなようなものなのかもしれないとおもう。仏教の縁起思想にもとづいてみても、そういう理解になりうるはず。われわれが他者となんらかのかたちで向かい合うそのたびに、そこで発生するものだと。だから精神分析や、無意識へのアプローチをするためには他者の存在が必要なのだと。坐禅とか瞑想においてはじぶんのからだがその他者として機能するのではないかということはさきほど述べたが、その他者化が行き過ぎたのが要は離人症とかだろう。
 道元はおそらくこういったことにはふつうに気づいていた。だから非思量底を思量する、要は坐禅をしているときというのはかんがえられないところのものをかんがえているのだ、みたいなことを言っているのだろうし、また、坐禅をしてああ胸のつかえが取れた、悩みがなくなってすっきりしたみたいな状態に安堵したり、それをめざして坐禅をやっているやからがいるけれど、そんなのはまったく坐禅ではない、愚劣きわまりない、坐禅とはそんなものではないし、それを目的とするものではない、そんなのはただの「習禅」だ、堕すべきものだ、みたいな激烈な批判をしている。かれじしん坐禅は「安楽の法門」だと言っているわけだけれど、上記のような理解にそくすならば、その「安楽」とは、混じり気なしのこころよい快楽一辺倒ではなく(それはおそらくむしろサマタ瞑想的な立場ではないか)、苦をそのなかにつつみこんだかたちでの、猥雑で芳醇な安楽の味だということになるだろう。また、かれのいわゆる只管打坐、つまり坐禅は悟りというようななにか特別な状態や認識にいたるためのものではない、ただ坐ること、坐りつづけることだというのもよくわかる。他者と向かい合うたびに無意識が発生するのだとかんがえると、その交流に終わりはないからだ。だから坐禅が自己の解釈学的な身体的実践とみなせるとして、かれにとって、その自己の解釈学は生きているかぎりずっとつづくものだったということになる。曹洞宗坐禅を超えて日常の動作全般が修行だといわれていることも同様だろう。じぶんの身体と他者的に向き合うことで無意識を経由して自己の解釈学が作動するのだとすると、じぶんの身体とはつねにそこにあるものだからだ。そしてまた他者はじぶんの身体いがいにもあるのだから実質解釈学的契機はいたるところに存在するわけで、だから生がそのままぜんぶ修行だということにもなる。曹洞宗はたしかそういう立場だったとおもうのだけれど。
 もうかなり疲れたのでそろそろ休まないとやばいが、さいごに一言しておくと、精神分析理論というのはたいていのことにあてはめるとたしかにそうかもしれない、そのように理解できる気がするというその汎用性がむしろ胡散臭いわけだけれど(八割の納得と二割の疑念、というような)、その胡散臭さ、信用しきれない感じ、二割の疑念こそが、精神分析理論自体にとって重要なのではないかという気もしてきた。つまり、完全に信じることができちゃったら、解釈学終わっちゃうじゃん、ということなのだ。だから無意識はあくまで仮説にとどまらなければならないし、精神分析理論もフィクショナルな生産性をうしなわないために、あえて信用できない感じ、胡散臭さをのこしておかないといけない。そのようにして理論自体も無限の解釈学のなかに巻きこまれて機能していく、と。つまり、精神分析理論じたいを精神分析するためには、あえて疑念がのこるようでなければならない。
 上記のことはぜんぶ主体永続革命論的な解釈学ならびに精神分析の観点から書いているので、正当な理解かどうかはちょっとわからない。そもそもものの本を一冊も読んだことがないし……。だからフロイトとかラカンとかそのほかのひとびとがじっさいにどういっているのかはぜんぜん知らない。ただ、さいごにひとつだけおもいだしたエピソードを書いておくと、ジャック=アラン・ミレールというラカン派の重鎮みたいなひとがいるけれど、なんといったかなまえをわすれたが日本人の分析家(ミレールの弟子になったんじゃなかったか)がかれに会いに行ったとき、きみは道元を読んだかい? とたずねられたという。だから読んでるやつはやっぱり読んでるわけですよフランス人の精神分析学者でも。