土曜日からきょうの二時半ごろまで実家。医者に行き、その後母親と合流して車で送ってもらい、やたら疲れていたので休んでからひとつまえの記事を書いていま。ちょうど八時だ。
 目をおもんぱかって実家では本も新聞も読まなかったし、パソコンも持っていかなかったのだが、まぶたや眼窩周辺の荒れや赤みは変わらず、きのうは目のまわりがやたら腫れぼったくなって、左目のまぶたがうまくひらききらないような調子で、いわば出来損ないの幽霊みたいな人相だったから、目をつかおうがつかうまいがあまり変わらないのかもしれない。たんじゅんに、心身への負担がそこに顕著にあらわれているということなのかもしれない。頭蓋、とくに後頭部や頭頂部の左あたりが固くて、そのへんの筋が目ともつながっているので、あたまをつかって精神的に疲労し、肉体的に頭部もこごってくれば目にも影響が出る。日曜日は部屋の掃除をがんばったので、きのうは目のまわりが悪化したのかもしれない。いちおう合間合間で屍になってはいたのだが、休息が足りなかったようだ。マジで、一時間くらい掃除していると、脳がゼーゼーいってくるというか、長時間走るとからだが疲れて呼吸がはあはあゼーゼーなってくるとおもうけれど、あたまじたいがそんなかんじになってくる。それできのうはよく休もうとおもい、屍になる時間をたっぷり取ったし、夜歩きも行かなかったのできょうはやや回復したのではないか。
 実家では読み書きができないかわりにというわけではないけれど、いちにちいちど、ギターを弾いた。それを録ったのをnoteに載せたのでここにリンクする。
 28(https://note.com/diary20210704/n/n2cbf4992079f?magazine_key=m1a3ae8f71705
 29(https://note.com/diary20210704/n/n9c5e8bae14ed?magazine_key=m1a3ae8f71705
 30(https://note.com/diary20210704/n/n1da6f43c9b44?magazine_key=m1a3ae8f71705
 実家にあるのは兄の部屋にずっと置いてあるテレキャスターで、いつからかわからないくらいまえからまったく掃除をしていないので、弦は錆びきっているし、指板も汚く、そして一弦がない。それをアンプにもつながずそのまま弾いたのを携帯のボイスレコーダーで録った。なのでぜんぜんなってはいないが、またこういうかんじでときどき弾いて録っておこうかと。
 土曜日の夜に散歩に出たさいに、28番を聞いたのだけれど、そのとき携帯にもうひとつ音声ファイルがのこっていて、二〇二三年三月二三日の日付がついていたこれは27番のやつだった。アップロードしたあとに携帯から消しておくのをわすれていたのだ。あるきながらそれも聞いてみたところ、これがよくて、アパートの部屋でアコギを弾いたやつなのだけれど、アンプにつないでいないテレキャスターのクソな音とはちがって、アコギってそもそもこんなに音いいのか! という聞き出しだったし、いまの演奏のぎこちなさ、力みとくらべると、ぜんたいてきにおちついており、はじめから終わりまで統一的なながれに乗れている。え? うまいじゃん、とおもっておどろいた。じぶんの実力の範囲で、ちからを出し切っているかんじがある。きょうも昼間にスワイショウしながら部屋のスピーカーからながして聞いたのだけれど、めっちゃいいなとおもう場面もあったし、よくこのコードここで弾けたな、というのがたくさんある。さいごにAブルースにもどってからまもなく、コードプレイしている一連があるのだけれど、ここなんか、やば、おれよくこれできたな、いまだったらぜったいできないわ、とおもった。この音源にせよほかのにせよ、リハモみたいなかんじでやっているところはけっこうどれもそうなのだけれど。コードプレイはだいたい、あとから聞いたときにじぶんでどうやったのかわからない。
 夜歩きの最中にはnoteにアクセスして26番もついでに聞いてみたところ、これは出だしからして27番より性急さがにじみ出ていて、だめだな、力んでいるなとおもったところが、あるいているうちに、あれ? こいつ、いつの間にかのりはじめてるぞ? 気づかないうちにながれをつかみやがったぞ? と認識が更新された。どこかの地点でわりとうまくながれだしたのだ。はじまりから性急だったかわりにというか、27番よりも威勢の良さがあり、ながれをつかんだあともそれがさいごまでのこっていて、後半のインプロ部分とか、もしかすると27番よりできているところはできているのかもしれない、とおもった。なんだよ、ちゃんと即興しているじゃないか、と。きちんとここで音楽が生まれては消えているじゃないか、と、そんなことすらおもい、過去のじぶんにたいして肩をたたいていたわりたいような、友好的なというか、したわしいようなきもちになった。ただ、きょうの昼間に聞いたところでは、そうでもなかったかもしれない。ただしそれも、27番を聞いたあとでちょっと疲れていたのでうまく聞けず、じっさいどうだかわからない。いずれにしてもいまのところ、27番がたぶんぜんたいてきにみていちばんうまくながれている演奏じゃないかとおもう。
 からだのやたら冷えて固かった数か月前からアパートでも湯船に湯をためて、風呂によく浸かるようにしている。たまりきらないうち、まだくるぶしを浸すくらいの水位しかないうちに、あるいはそれ以下のうちにでも、さっさと桶のなかにうつってしまい、からだの各所にシャワーをかけながらさすったり、壁にとりつけて湯を出しっぱなしにしたままじっとしたりしている。浴槽の一角にはシャワーを出しっぱなしにしても水が縁をこえてあふれでないように、底面とはべつの高い位置に排水用の口がもうけられている。水位がそのあたりまでたっすると湯をとめて、あぐらに瞑目でしばらくじっとする。トイレといっしょになっているちいさな室の、左半分が湯船、右側がトイレで、中央奥の壁には鏡があって、そのしたに水道と洗面台がある。水と湯とでノブが分かれている水道の、そのまんなかあたりには垂れ下がる水滴をおおざっぱに模したような、矢印的なひねりが一個ついていて、これは水が出るのを蛇口にするか、シャワーにするかの選択をになっている。矢印をいっぱいにシャワーのほうにやっても、蛇口からもいくらかぼたぼたながれでるので、入浴のさいはその先端を洗面台の上ではなく、湯船のほうに向けかえている。すると、シャワーをとめたあとに、溜まった湯の上に蛇口からぽつりぽつりほぼ一定の間隔で落ちるしずくがあたってくだけ、そのときにだいたいいつも、明確な高さとして聞き取れる音を発する。その一音一音の偶然のつらなりが、主体のない旋律めいて、意外なほどにいつも音楽的で、それを聞くのがじぶんは好きだ。ずいぶん見事に解決するなとおもうときすらあるのだが、たほうで、破裂音がうまく音程を生まず、ただただ水がはじける物理的な音として散っていくこともあり、ゴーストノートめいたその質感もすばらしいとおもうこともある。じぶんがほんとうにやりたい、理想としているのは、ああいう音楽未然と音楽以後のたゆたい、音楽になるようななりきらないようなところで野生の旋律を生みつらねている、ああいうものなのかもしれないなとおもう。