きょうは一〇時てまえに離床。ゆめみ。アパートの部屋のまえにヤクザがきているというもの。インターフォンが鳴って、聞こえた声はふつうの、ていねいそうでほがらかなかんじのものだったのだが、ヤクザがきているとだれかがおしえてくれて、ドアについているあの、そとをのぞける穴があるじゃないですか、魚眼ホールとでも呼ぶのかな? あれをのぞいてみるとたしかに、立っているのはヤクザっぽい風体のこわそうな男である。鳥のたまごがヤクザの親分のものかなんか、そういうものだったんだなと理解する。というのは前段があって、この場面のまえにたまごから羽化した鳥を世話している場面があったのだ。ばしょは倉庫みたいな、鶏舎というよりは厩舎みたいな雰囲気のひろめの建物内で、藁かなんか敷いてあったかもしれない。鳥は二羽。こちらの背丈とおなじくらいかそれいじょうあるおおきな鳥で、いっしょに世話をするにんげんとしてもうふたりいた。そのひとりは職場のM先生。生まれた鳥のなまえをなんにするかときくと、ピヨピヨ、というので採用する。もう一羽はピヨ子といったが、これはどうかな、とまよう。たまごからかえったばかりの鳥は粘液みたいなものをからだじゅうにたくさんつけているので、それを拭いたりして甲斐甲斐しくかわいがる。
 さめたあとはからだをさすったり屍になったりしているので、じっさいには八時台にはさめている。布団からおきあがってそれをたたみあげてまもなく、後藤明生のことをおもいだした。なんかまたちょっと読みたいなとおもったのだ。じぶんは、いとうせいこうとかが編集した、どこから出ていたかわすれた、講談社だったか? なんねんかまえに出た後藤明生小説集みたいな全五巻の単行本の四巻目の、「蜂アカデミーへの報告」というやつなどがはいっているやつをもっていて、それとあと『挟み撃ち』しか読んだことがないのだけれど、おもいだされていたのはその単行本の後半にはいっているような、なんかただ町をうろうろあるいているだけみたいな篇の感触で、あれはおもしろいかといわれるとべつにそうでもないというか、おもしろいのかそうでないのかよくわからないような、じつに地味な質感のものだ。なのだけれど、なにかそれが気になった。「蜂アカデミーへの報告」とかはおもしろいですよ。わりとへんなやつで、けっこうながい大作でもあった。それよりまえにはいっているやつとかも、ちょっとふざけたようなものとか、なんやねんこれみたいな、わかりやすくユーモア的なおもしろさがあった。たしか三つ目に「鰐」というのがあって、これは聖書とかいろんな本にある鰐についての記述をさいしょにあつめたあと、デパートの屋上にある小遊園地みたいなところで鰐があばれているみたいな場面が展開されるものだったとおもうけれど、メルヴィルの『白鯨』のパロディなんですね。そういうのはよくわかる。ただ後半の「四天王寺ワッソ」とかそういうやつは、ほんとうにただあるいて、ただそれを書いただけみたいな、なんのひねりも戦略も計画もしかけもないような感触のするものだったはずで、終わりかたも、え、ここで終わるんかい、みたいなものがおおかったはず。あれが気になって、また読みたいなとおもった。あれが散文的というものなんじゃないかと。抑制的な文体、とかってあるじゃないですか。ヘミングウェイとか、レイモンド・チャンドラーとかについていわれるような。内面をカットして、外面的にみえる行動だけ書くことで、かわいた感触を出す、という。ただ、あれはじつは、男はことばすくなで寡黙なほうがかっこういいみたいな、おおくはかたらずに背中でかたるみたいな、そういう美意識が下敷きになっているんじゃないかという気が、このときしたんですね。ヘミングウェイとかチャンドラーの文をじっさいに読んでそうかんじるかどうかはともかく、かれらについてかたられることばには、そういう見方がつきまとっているんじゃないかと。だとしたらそれは、じつは内面性をぜんぜんカットできてなどいなくて、情感がふかくこもっているかたりかただということになる。だからこそおおくのひとを惹きつけるんじゃないかと。後藤明生はおおくのひとを惹きつけないでしょう。すくなくとも、こちらがおもいだしたような地味なやつとかはぜんぜん惹きつけないとおもう。あの淡白なかんじ、あれがまさに、飄々とした、というものなんではないか。いいかえれば、散文的、ということになる。