そういうふうに後藤明生のことをおもいだし、かんがえたのは、ここのところ「グリージャ」のことをかんがえていたのと、すこしつながっているのかもしれない。Mさんの『亜人』を読んだながれで、ムージルの『三人の女・黒つぐみ』も読みかえしていて、ただ目のまわりが荒れたり、また書きはじめちゃったりなんだりで、「ポルトガルの女」のとちゅうでとまっているのだ。「グリージャ」はおもしろい。そしてへんな短篇だ。その変さというのは、これは変なはずなんだけど、しかしどこが変なのかがいまいちわからない、むしろふつうにすらみえる、という変さだとおもっている。まだ「ポルトガルの女」と「トンカ」を読んでいないので、ふたしかだけれど、『三人の女』のなかでいちばん変なのは「グリージャ」じゃないかとおもうし、ムージルが書いた作品のなかでももしかしたらいちばん変なのかもしれない。「ポルトガルの女」は、ある意味わかりやすくて、あれはじつに見事に成功しているきれいな短篇でしょう。謎はある。ただ、謎はここですよね、というのがかなり特定できるようになっているとおもう。「トンカ」はそれよりはあいまいさがあってよくわからんが、あれもいわば比較的ふつうに奇妙な感触をあたえる、そういう空気が全面にただよっているタイプの篇だとおもう。謎のばしょも、ある程度まではしぼれる気がする。「グリージャ」は謎のばしょがわからない。むしろ謎がないようにみえる。それが不思議だ、というかんじの印象。
 もちろん、ここが変ですね、というところはある。あと、ムージル特有の、とおくにあって愛の啓示を受けるみたいなテーマも書きこまれてはいる。不倫が反転的に「愛の完成」になるというモチーフも、明確にそう書かれてはいなかったとおもうが、そちらへのかたむきはちょっとありそうというか、それを読み込むことも不可能ではなさそうな気がする。ただ、読んでいるさいちゅうは、案外ふつうの小説じゃん、ともおもっていた。やたらおもしろくはあるのだけれど、意外とふつうだなと。しかしそれと同時に、このふつうさは……? という困惑がにじむし、読み終わったあとは変だとしかおもえない。その変さの実態がよくわからない。
 たぶん、書かれてある要素がほぼぜんぶ平行的というか、収束しないようになっているんじゃないかとおもう。しかもそれが、そう意図されてできあがったのではなく、なんかそうなっちゃっている、というかんじ。だから、深層がほぼなくて、すべてがさらけだされているようにおもえる。「トンカ」には深層がある。あるいは、あると見えるように書かれている。だからあれはたぶん戦略的にやられている。「グリージャ」は、ただそういうことがあったのをただそう書いただけ、という感触が濃い。その点がじぶんのあたまのなかで、後藤明生とつながったのかもしれない。だから、いまさらだけれど、磯崎憲一郎がいちばん影響を受けているのってやっぱり「グリージャ」なのかもしれないなとおもった。あのひとのやりかたは、「小説」を作者やにんげんを超えたおおきなものとして、一種超越的な位置において、できるかぎりそれにしたがうことで、にんげんが意図してつくりだす、あるいは意図しないままにとりこまれてしまう象徴的な秩序からいかにしてのがれるか、というのを追求したものでしょう。さいきんの作品は読んでいないので、いまはどうなのかわからないが、なんだっけ、たしか五冊目の、双子が出てくるやつくらいまではそれを追求していたとおもう。『電車道』あたりから変わってきたのかな、もしかすると。「歴史」のほうに行ったのかな。
 「グリージャ」のなかでいちばん変にみえるのは、岩波文庫版で44ページの、干し草をたばねる作業をやっている女を、ホモがとなりの丘からながめている、そのむすめのようすを描写した一段のさいごに、「――それともこれは、グリージャではなかったか?」とつけたされているこのひとこと。ここはびっくりした。まえに読んだときもおどろいたとおもうけれど、こんかいいっそうびっくりした。なんだこれ? というかんじ。こんなことやっちゃっていいの? という。このひとことにはまるで根拠がないとおもう。これを置くことができたのがムージルのすごさだ。ただ、たぶんこれはムージルもやろうとおもっていなかったとおもう。書いていたらなんかながれで書けちゃった、というかんじではないか。ふつうこんなこと書けないでしょ、だって。ここでムージルは無根拠地帯に踏み出しているのだが、ただ、ムージルはむしろ根拠のないところに行くのはけっこう得意だ。じぶんが見るには。つまり、『合一』の二篇は根拠かなりうすいし、「熱狂家たち」はほぼないでしょう。『合一』でも「愛の完成」はまだわかりやすい。「静かなヴェロニカの誘惑」のほうはふつうにわけがわからない。それでも、なにかしらのかたちで成り立ってはいるな、という、独自の論理にもとづいているかんじはあるから、いちおうまだ根拠はある。「熱狂家たち」はある意味もっとうすいから、ほぼ失敗しているようにしかみえない。ただ、ムージルのおそろしいところ、おろかなる偉大さであり偉大なるおろかさなのは、ほんにんはあれらが根拠ありありだとおもって書いていることだ。だから「熱狂家たち」が上演できるとおもっていたのだが、そんなわけがないだろうとしかこちらにはおもえない。あれが世に受け入れられて、上演できるわけがないだろうと。そういうムージルも、「グリージャ」のうえのひとことには、根拠もっていなかったとおもう。