三月一九日火曜日のつづきで、ムージルの「トンカ」の冒頭についてもうすこし。

 とある生垣のほとり。一羽の鳥がさえずった。と思うと太陽は、もう藪かげのどこかに姿をかくしていた。鳥の歌がやんだ。夕方だ。百姓娘たちが歌をうたいながら野をこえてきた。こんな書きかたはくだくだしいか? だが、このような一部始終が、まるで服に取りつくいが [﹅2] かなんぞのように、人の心にまつわりついてはなれないとしたら、それは些細なことだろうか? それが、トンカだった。無限というものは、しばしば、ひとしずくずつ滴り落ちるものである。
 (岩波文庫、98)

 「グリージャ」と「トンカ」の冒頭部分をくわしく読んでいるのは、「塔のある街」の精読からながれた脇道で、同作の発端がムージルを意識したアフォリズムだったもので、ムージルでは冒頭からどう物語本篇にはいっているかというのを確認しておこうとおもったのだ。「塔のある街」は、二段落目がエッセイの書き出しみたいな書き方になっていて、これは「グリージャ」とも「トンカ」ともちがう。一段落目でアフォリズムを置いておきながら、二段目のはじまりも、「街の門をくぐるときの数秒間、そこでうつり変わるのは空間ではなく、なによりもにおいだ」という、やや具体におりて体験的な感慨でありながらこれもアフォリズム調の一文になっているので、一段落目とトーンが似ており、ちょっと冗長な感じがするなとおもっていた。ふりかえっておくと、「グリージャ」では冒頭、微妙なあいまいさをかもす一段ののち、二段落目からはさっそく物語がかたられはじめている。それとくらべると「トンカ」の一段目はかなり複雑な、おおげさにいうならば混濁的ともおもえる道行きとなっており、そこで書かれている内容というよりは、おのおのの初段落の書き方としてあらわれているこの平板さと混濁の質感が、そのまま二作の全体的なありかたをも象徴しているような気すらする。しかしそれはあまりたしかな印象ではない。「グリージャ」はさいごまで読んだが、「トンカ」は読んでいない。
 「トンカ」一段目のながれを要約しておくと、すきまの多い牧歌的な場面記述 → 書き方にたいする自問 → 反語のかたちでの自答 → 「トンカ」への収束 → アフォリズム、となる。さいごのアフォリズムは、「グリージャ」のそれとくらべるならば、鋭い、かっちりと輪郭のさだまった一文だ。これは「無限」というこの世でもっとも抽象的な概念と、「ひとしずく」という最小単位の具体イメージが組み合わされていることによるだろう。「抽象的」ということばはそれじたいがときに抽象的でとらえがたい。つまり、抽象性にもいろいろあるとおもうのだけれど、それをいまいち判然と区別せずにつかってしまいがちではないか、ということだ。ここでおもいつく抽象性のありかたはふたつである。意味の射程・範囲がひろいことと、意味の輪郭があいまいなことだ。「グリージャ」の冒頭はどちらかといえば後者の性質に寄る。じつのところそんなにあいまいでもないのかもしれないが、そういう質感がふくまれているのはたしかで、ひるがえって「トンカ」のアフォリズムにあいまいさはない。文の輪郭は明晰である。「無限」というものが輪郭をもたない、という点までふくめてそうなのだ。
 「無限」はこの世でもっとも抽象的な概念だとうえに書いたが、そもそもそれは「概念」の名にすらあたいしないような抽象性なのかもしれない。概念とはなにか。むかし塾で、中学校二年か三年の生徒からそうきかれたことがあった。批評のことばをやしなおうみたいなテーマの竹田青嗣の文章が教科書に載っていて、たしかそのなかに出てきていたのだったとおもう。批評のことばというのは、要は、友だちとはなしていてある音楽が好きだとか嫌いだとかなったとき、単に好きだ嫌いだだけではなくて、なぜそうなのか、どこがそうなのか、どういうふうにそうなのか、そういったところまで言語化して伝え合い、理解できたらいいよね、みたいな、わかりやすいはなしだったとおもう。しかし概念の語を中学生に説明するのはむずかしい。とうじのじぶんは、むずかしいこと聞くなあとおもいながら、「犬というもの」、みたいなこと、という答え方をした。あまりうまく説明できたとはおもっていない。いまだったらこうかんがえる。漢字というのは便利なもので、とりあえず字面をとって文字の意味を手がかりにすればいいのだ。「概」という字には、おおまかとか、大雑把、という意味がある。大学の講義でなんとか概論、なんとか概説、みたいなものがよくあるだろう。概略ということばもある。「梗概」という、いまやほとんどつかわれないだろう、かなりかたいたぐいのことばは、あらすじという意味だ。これらすべてで、「概」の字はおおまかさの意をになっている。「念」とは思念、観念、われわれがあたまのなかに浮かべる思考やイメージのことだ。したがって、「概念」の語を表意文字に即して変換すれば、「おおまかなイメージ」ということになる。
 犬、といったときに、われわれはみんな犬のおおまかなイメージをもっている。四本足で、二足歩行は基本的にはしないで、狼の末裔で、毛があって、肉食で、嗅覚がよくて、とか、そういったことだ。これは経験世界に個体としての具体的な対応物をもった概念である。もうすこし抽象的な概念としては、「幸福」とかがある。幸福そのものは具体的な犬とはちがって、物理的な物体や生き物のようにしてあるわけではない。したがって「幸福」の概念もより幅広いものになるだろうし、「幸福」と聞いたときにひとがその語をおとしこむ具体的なイメージも多彩になる。漠然とほがらかな気持ちをおもうひともいれば、幸福の象徴として流通している紋切り型をかんがえるひともいるだろう。じぶんの体験に照らして、うまい食い物を思い浮かべたり、風呂でくつろいでいるときのことを思い出したりするひともいるだろう。いずれにせよ、対応「物」とはいえないとしても、「幸福」もいちおう経験世界のなかに対応する感情や感覚や体験をみつけることができる。
 「無限」はこれらとちがう。無限そのもののおおまかなイメージをもつことはできない。そういう意味で、これは概念というよりは、純粋な観念というのが厳密なのかもしれないとおもう次第だ。人間が「無限」を把握できるのは、ただ意味としてのみである。つまり、有限との対比でしか、それは把捉できない。いいかえれば、「無限」は位置づけとしてのみ念ずることができる。われわれがイメージできるのは、無限そのものではなく、無限の位置だけだ。数としての無限をかんがえてみよう。小学校のとき、数の単位というものを習った。一、十、百、千、万、億、兆、京、がい、とあって、そのあとはもうわすれてしまった。この「がい」の漢字すらわからない。が、さいごはたしか、あそうぎ、那由多、不可思議、無量大数、だったはずだ。そもそも先人がなぜこのような、もはやイメージ不能という意味でほぼ無限に準じているような膨大な数の単位を発明したのか、それじたいがまさに不可思議というほかないのだけれど、これらはいちおう有限数の範囲なのだ。ただ、無量大数がどういうものだったか理解していない。桁であらわせる単位の範疇にあるのだったか、それとも有限数のうちで最大、という意味だったかわからないのだが、ともあれ、この単位群は、たとえば柱としてイメージされうる。平面図でも、立体図でもいい。一からはじまってうえに積み上がっていく階層として、有限数の単位はとらえることができる。その柱は無量大数の層で尽きる。そのうえに漠として浮かんでいるのが「無限」、というのが、われわれがふだんかんがえる無限の位置づけだろう。無限は、有限の枠組みを超えたものである。この「超えた」というかんがえかた、あるいは語に、「上」という意味がもとよりふくまれている。なにかを超えるというのは、なにかのうえを行く、ということである。だからわれわれは、無限はどのような有限よりも上であり、おおきいものだとかんがえがちなのだけれど、それは正確ではない。無限というのは有限の枠をはずれたものとしてある。というか、そういうものとしてしか、ひとには把握できない。それは有限と、位相や次元がちがっているのであって、おおきいとかちいさいとかいうことではないのだ。おおきいもちいさいもない、そういう理解のしかたをできない、というのが、「無限」という観念のありかたのはずだ。だから、柱のイメージにもどるならば、「無限」は柱の上である必然性はなく、下にあってもいいし、横にあってもいい。その外ならばどこにあってもいいし、柱の輪郭のそとの空間すべてが無限の領域だととらえることもできる。
 「トンカ」は固有名詞である。固有名は、辞書的な定義をもたない。「トンカ」も、こちらのなまえも、だれのなまえも、語義をあつめた辞典には載っていない。一般的な、そのほかのことばと交換できないというのが、固有のなまえの性質だ。固有名の意味を理解するためには、その名をもつ現実の存在を参照するしかない。じぶんの本名は、イニシャルで記すとF.Sである。F.Sとはどういう人間なのか? それが、このなまえの意味となる。第一段落の時点で、「トンカ」はいまだ、たんなるカタカナ三文字でしかない。その三文字からは、ほとんどなにもイメージされない。「トンカ」を理解するには、物語を待たねばならない。「トンカ」にとっての現実とは、物語と、それを構成していることばの群れにほかならない。ただ、ひとつの比喩が直前に書きこまれていることによって、「トンカ」はかろうじて、空っぽのうつわではなく、そこはかとない内容物をおさめた輪郭でありえている。記述の順序に即すならば、逆だ。ひとつの比喩をおさめるための空のうつわとして、「トンカ」の三文字がここで呼び寄せられ、比喩をおさめることではじめてそれは、「トンカ」という名として鋳造されたのだ。このさきの物語とことばの如何によって、「トンカ」の意味はいかようにでもありえるだろう。固有名は、辞書的な定義をもたない。だから、「トンカ」を語ろうとすることばは結局のところ、どこまでいっても比喩でしかありえないだろう。「トンカ」はカタカナ三文字の輪郭をもっている。その中身は、いまだほとんどどのような可能性にもひらかれている。「トンカ」とはなにか? まだわからない。「無限」とはなにか? わからない。「無限」は輪郭を欠いている。その意味は、有限でない、ということでしかない。それそのものとして把捉できないという意味で、「無限」を語ろうとすることばもまた、どこまでいっても比喩にしかなりえないだろう。いまだ内実不明の比喩でしかありえないものが、内実不問の比喩にしかなりえないものと、背中合わせに対峙している。数歩すすめば、「無限」は絞り出されるように、「ひとしずく」へと移行する。その最小の具体性を通じて、「無限」の顔と「トンカ」の顔は、はるかに向かい合っている。
 文学的なかたりにながれたけれど、固有名 → 純粋観念 → 最小単位の具体イメージ、という要素の移り変わりが、「トンカ」第一段落終盤の鮮烈さのよってきたるところではないか、というのが上記の趣旨だ。「無限というものは、しばしば、ひとしずくずつ滴り落ちるものである」というさいごの一文は、ふたつのとらえかたができる。ひとつはうえに記したように、輪郭を欠いた大きさも小ささももたないものから、もっとも小さなひとつのものが「滴り落ち」てくる、という考えだ。これは、いわば流出論である。汲み尽くされることのありえない源泉から、輪郭をもった有限のものがひとつひとつ、流れ出してくる。プロティノスという紀元三世紀の哲学者が、そういうことを考えていた。ここにその発想の響きを聞き取ることは十分に可能だろう。ただし、ムージルが書き、川村二郎が訳したことばは、「ひとしずくずつ滴り落ちる」だ。「流れ出す」のと、「滴り落ちる」のとは、あきらかにちがう。したがって、このアフォリズムを流出論に還元したとき、しずくのしたたりという具体的なイメージのニュアンスはうしなわれることになる。
 もうひとつのとらえかた。無限とは、輪郭を欠いた、大きさも小ささももたないものだ。ならば、その「無限というもの」が「滴り落ち」た「ひとしずく」は、それじたいおなじ無限、輪郭を欠き、大きさも小ささももたないものではないか? 純粋抽象と最小単位が入り混じったこの考えは、経験的に理解することはできないし、もちろんイメージとして想像することもできない。しかし意味はわかる。矛盾、両義性、あるいは撞着語法と呼ばれる意味の組み合わせとしてのみ、それは理解される。ことばのうえでしか、それともことばのなかにしか、それは存在しない事態である。決して現実化されえない不可能態のこのふところに、ことばは未知の生命としてひそやかに息づいている。そうじゃないだろうか?
 はからずも、このとらえかたは、「塔のある街」のさいごに書かれた一節と発想をおなじくしている。いわく、「塔のてっぺんには、天国へ続く七つの階段があるという。その一段一段、ひと踏みひと踏みは、天使にとってのものであって、われわれにとっては塔そのものとおなじく、無限にたかい壁だろう」。