月曜日に勤務を終えて実家に帰り、安息のベッドで三〇分ほど休んでから食事を取りに居間に行くと、母親が『月曜から夜ふかし』という番組をみている。マツコ・デラックスと、村上信五がやっているやつ。まえにも二、三回、みたことがある。ものを食べながらこちらもながめる。ふつうにわらえる。母親は、くだらないけど、わらっちゃう、という。似たようなバラエティをみるとき、よく口にしている。いいことだ。くだらないことでわらって生きられたほうが、精神衛生にいい。それに、くだらないけどわらっちゃうのではなく、くだらないからわらえるんじゃないか。番組内に「中国から夜ふかし」というコーナーがあって、もう何回かやっているらしいが、こんかいは広東省の広州市がとりあげられていた。広東省のにんげんはなんでも食べるということでゆうめいらしい。蛇でもカエルでも蟻でもなんでもと。中国人は足のあるものなら机以外はなんでも食う、だったか、そんなことばがあったとおもうが、それも広東省のことなのかもしれない。あと猿の脳みそとか。若い中国人男性のコメントとして、広東省のとなりは福建省だが、そのうち福建省のにんげんも食べるいきおいだ、とあったのはわらった。その広東省のあれも広州市内だったんだとおもうけれど、ひなびた飯屋のおばちゃんが、きょうはちんこ客がすくないからちんこ暇だよ! みたいなことばづかいをしていて、テロップではち◯ことなっていたが、要はその地方では程度のはなはだしさをあらわす強調語としてちんこにあたることばがもちいられるらしい。若い世代はつかわないようで、客の若者がツボにはいって笑っていた。英語でいうところのfuckin'にあたるとおもわれる。ロックバンドのやつらみたいな感じだ。OasisのGallagher兄弟なんかもfuckin' fuckin'言いまくっていたイメージがある。日本語でいうと「クソ」がそれにちかいだろう。もうすこしやわらげれば、「めっちゃ」というところか。fuckはいうまでもなく性行為で、ちんこは性器だ。クソはうんこで、排泄物だ。趣味によってはうんこも性的になるだろうが、まえのふたつにくらべると性的度合いはまだすくない。いずれシモの領分なので、ちかいところにはあるが。こういう卑語を強調にもちいるのはだいたいどういう言語にもある用法なんじゃないかという気がするが、日本語にあからさまに性的な語による強意があるか、おもいつかない。ちんこもまんこも強調にはつかわないだろうし、罵倒をかんがえても、クソ野郎、は一般的だが、ちんこ野郎、とはあまりいわないだろう。野郎にちんこがついているのはふつうなので、罵倒にならない。野郎の対義語としてはいちおう女郎 [めろう] というのがあるとおもうが、女郎 [じょろう] とまぎらわしいし、女性をののしるばあいもクソ女郎とはまずいわない。クソ女、とか、クソアマ、となる。野郎にしても、女性を軽蔑的にいうアマにしても、語源がなんなのか、かんがえてみると不思議だ。いまとりあえず「野郎」のウィキペディア記事をみてみたら、「江戸時代では前髪を落として月代を剃った男性を指した。のちにこの言葉は男性を侮蔑する場合に使用されるようになる(対語は「女郎(めろう)」)」「月代を剃った頭を「野郎頭」と言い、その「野郎頭」の役者のみで興業される歌舞伎は「野郎歌舞伎[4][5]」と呼ばれた」とあった。「郎」がおとこを指す語だから、たぶん、野卑な男、粗野な男、みたいなことなんだろう。アマは尼なのかなとおもっていたらやっぱりそうみたいで、おなじくウィキペディアには、「女性が髪を肩のあたりで切ることやその髪型を尼削ぎ(あまそぎ)というが、そのような髪形の童女を尼という場合がある。また近世以降少女または女性を卑しめて呼ぶときにも尼という語を用いた」とあった。どうもどちらも髪型に関係している。ちなみにウィクショナリーのほうでは、「阿魔」という表記も紹介されていて、例文として、「このアマめ。キサマ、死ぬと見せて、男だけ殺したな。はじめから、死ぬる気持がなかったのだな、悪党めが!」(坂口安吾『行雲流水』)と、「おい、しっかりしろ、あの娘はとんでもない阿魔だぞ。」(吉行エイスケ『大阪万華鏡』)のふたつが載っていた。罵倒のクソにはなしをもどすと、まず「くそったれ」といういいかたがある。たれは垂れだろう。だからこれはうんこっ垂れということで、そこそこひどいが、意味合いとして、うんこを垂らしているような見下げ果てたやつ、ということなのか、うんこを垂らしていろ、という命令なのかが判然としない。それにたいして「くそくらえ」は明確だ。うんこ食ってろ、ということで、丁寧ないいかたにするとおグソをお召し上がりください、ということだ。冷静にかんがえるとこれは相当ひどいことを言っている。日本語が誇るべきすばらしい悪態だとおもう。果たして英語にeat the shit!という罵倒があるのか? とおもっていま手もとのランダムハウス英和辞典を引いてみたら、英語にもeat [or take] shitといういいかたがあるらしい。「((米))(1)屈辱 [苦しみ] に耐える, 嫌な [腹立たしい] 事を甘受する. (2)((軽蔑を表して))くそったれ, くそくらえ.」とのこと。だから、とくべつ日本語のみが誇るべき悪態ではなかった。これらの悪態や、あるいは強調用法としてクソの語を口にするときあるいは文に書くとき、それがもともとうんこを指していることはそれほど意識されないとおもう。あるいはまた、悔しさとか怒りとかをあらわす間投詞として、くそっ、とか、くっそー、といういいかたはより日常的にもちいられるが、おもわずこれが口をついて出てしまったさい、やはりうんこと言っているという自覚はないだろう。大便への参照はかなり薄くなっている。同様の間投詞としてはちくしょう、があって、まあいまあんまりちくしょう、なんていうひといない印象だけれど、これももとは畜生で、仏語ではないか? やはりそう。コトバンクに、「改訂新版 世界大百科事典」の解説として、以下のように詳しく載っている。「サンスクリットのtiryag-yoniの訳語。原語のtiryac(本来はtiryañc)は〈横の〉を,yoniは〈生れ〉を意味している。それゆえ,〈横に動く生き物〉で,獣・動物を指す語である。畜生と訳したのは,前半部のtiryacのなまった形に畜の音を当て,後半のyoniは意味をとって生としたものかと思う。〈傍生(ぼうしよう)〉とも訳されている。古来,人が食用や力役(りきやく)のために畜養するけものであるから,畜生と名づけられたと誤って解釈され,また傍生の傍は傍行(ぼうこう)(横ざまに動く)の意味ともされている。仏教では,仏や人間やすべての動物の状態やあり方を順位をつけて分類して十界(じつかい)とするが,畜生趣(ちくしようしゆ)(畜生の状態)はそれらの下から3番目で,地獄,餓鬼(がき)と合わせて三悪趣(さんあくしゆ)と呼ばれ,悪い行いの結果生まれるところとされている。また,この語は本来仏教用語であったが,その意味から広く他人をののしったり,人生の悪行や苦しみをあらわす場合にも用いられている。」 ところで犬畜生ということばもある。畜はそのほかにもたくさんいるのに、猫畜生とも牛畜生とも馬畜生ともいわない。なぜ犬だけがまるで畜生どもの代表であるかのように、我が物顔で畜生のあたまに居座っているのか?