きょうはKさんと通話だった。ともに『灯台へ』を三ページ読んだあと、雑談しているさいちゅうに、じぶんで書いた文章を金にするよりは、読み書きをしたいひとの手助けというかサポートをするほうが性に向いている、そっちのほうがやりたい、というと、じぶんはけっこう助かっていると返ってきた。「生煮え」のかんがえをここではなして聞いてもらえるので、ここではなしておくことでそれがあとでかたちになって日記に書けたりするので、と。ああ、それでいいんだよなあとおもった。それでいい、以上に、それがいいとすら言える。こちらがなにかを教えるとか伝えるとかよりも、受け手やはなし相手となることで、そのひとのなかからおのずとなにかあたらしいものが引き出されてくるような、そのひとのもとになにかがおとずれてくるような、すくなくともそういう余地をひらく媒介物になる、みたいなことをやりたい。塾の生徒にたいしてもそういうふうでありたい。英文法などを教えるのもまあおもしろいはおもしろいのでべつにいいのだけれど、パッケージ化された知識をたんに伝達するだけではやっぱりつまらんなあとおもう。塾は学習塾であり、学校の勉強や受験勉強をがんばるためのところなので、もとめられるのはとうぜんテストの点や成績をあげることであり、最終的には志望校に合格させることなので、なかなかうえみたいなことを積極的にはやりづらいのだけれど、契機はいろいろあるだろうし、勉強という枠組みを通しながらも、そのひと自身のなかにあったなにかがおのずから発展したり、変容したりしていく媒介物として機能できたらそれがいいなと。そうしてそのうち媒介物だったこちらのことは忘れてしまってください、という感じ。