いままでに一度か二度、書いたことがあると思う。大学のとき、美とはどういうものか、みたいな題目の講義を取っていた。美学、ということばは講義名に入っていなかった。内容としても、そのような概念的なものではなく、もっと身近な例を取り上げて、それを手がかりにかんがえていこうというおもむきだった。たとえば、スポーツ選手のいわゆる「ゾーンに入った」状態や、それについて選手自身が語っている本なんかを助けとしていたおぼえがある。アカデミックというより、徒手空拳の感がつよかったように思う。講義としてはあまり明快なものではなかった気がするが、それは講師も解をもっていなかったからだろう。女性だった。近くで見たわけでないが、少し背が高く、四〇代くらいだったと思う。黒い長髪を、はなすあいだにたびたび前髪から頭頂まで大きくかきあげていた、そんな仕草の像があたまの内にのこっている。
そこにゲストとして、深町純が来たことがあった。講師の知り合いだったらしい。キーボードで即興演奏を披露した。講義は比較的小規模な文学部キャンパスのものではなく、本キャンパスの区分だったもので、階段状になっている座席群の底に舞台じみた一角とスクリーンのある室も広かった。生徒のひとりか複数人を呼んで、音を選ばせ、かんたんなメロディをこしらえた。ドミソラ、程度のものだ。それをモチーフに終始保持しながら、さまざまなバリエーションを展開して即興するという趣向だった。
その回の終了後、室を出ると廊下の端に深町純がいたので声をかけ、ちょっとはなしを聞いた。小柄な老人だった。コードとかスケールはかんがえるのかと聞くと、まったくかんがえない、という答えがあった。くわえていくらかことばを足してくれたが、その内容はわすれてしまった。眼目は、そういったものに則ったアドリブとは違うやりかたの即興だ、ということだったと思う。
ミスをしないというのは良くない、ミスをしなかったということは、挑戦をしなかったということだ、ということばも、たしかこのとき、深町純の口から聞いたものだったと思う。廊下での会話のなかではなく、講義中に言っていたはずだ。
武道のほうなんかで、守破離という考え方がある。まず型を守り、じきに破り、さらに離れていくと。知識は身につけたあとでわすれなければならない、というたぐいのアフォリズムも目にする。unlearn、ということばもある。読んだことはないが、大江健三郎がなにかのエッセイで取り上げているのではなかったか。
そのような考えをじぶんなりに言いかえてみると、こうなる。たとえば、ペンタトニックスケールを、あるいはペンタトニックスケールに沿って、弾くのではない。弾いたら、結果として、ペンタトニックスケールを構成する音群になっていた。そんなふうに弾けるのが即興ということじゃないか。