2019/6/14, Fri.

 多数者とは何か、一般市民とは何かということを考えていて、いつも思うのは、それが「大きな構造のなかで、その存在を指し示せない/指し示されないようになっている」ということである。
 マイノリティは、「在日コリアン」「沖縄人」「障害者」「ゲイ」であると、いつも指差され、ラベルを貼られ、名指しをされる。しかしマジョリティは、同じように「日本人」「ナイチャー」「健常者」「ヘテロ」であると指差され、ラベルを貼られ、名指しをされることはない。だから、「在日コリアン」の対義語としては、便宜的に「日本人」が持ってこられるけれども、そもそもこの二つは同じ平面に並んで存在しているのではない。一方には色がついている。これに対し、他方に異なる色がついているのではない。こちらには、そもそも「色というものがない」のだ。
 一方に「在日コリアンという経験」があり、他方に「日本人という経験」があるのではない。一方に「在日コリアンという経験」があり、そして他方に、「そもそも民族というものについて何も経験せず、それについて考えることもない」人びとがいるのである。
 そして、このことこそ、「普通である」ということなのだ。それについて何も経験せず、何も考えなくてもよい人びとが、普通の人びとなのである。
 (岸政彦『断片的なものの社会学朝日出版社、二〇一五年、170)

     *

 学生を連れてよくミナミのニューハーフのショーパブに行く。だいたいいつも、女子学生が大喜びする。ああいう空間では、むしろ女性のほうが解放感を感じるようだ。あるとき、ショーの合間にお店のお姉さんが、女子学生が並んだテーブルで、あんたたち女はええな、すっぴんでTシャツ着てるだけで女やから。わたしらオカマは、これだけお化粧して飾り立てても、やっとオカマになれるだけやからな、と冗談を飛ばした。
 私は、これこそ普通であるということだ、と思った。すっぴんでTシャツでも女でいることができる、ということ。
 もちろん私たち男は、さらにその「どちらかの性である」という課題すら、免除されている。私たち男が思う存分「個人」としてふるまっているその横で、女性たちは「女でいる」。
 (171)



 九時半起床。上階に行く前にコンピューターを立ち上げて少々インターネットを回った。それで一〇時。上階へ。冷蔵庫を覗くと前夜のラタトゥイユがある。それを電子レンジに突っ込んで温め、米をよそって卓に運び、新聞を読みながら食事。安倍晋三首相とイランのハメネイ師の会談。ドナルド・トランプとの交渉は拒否と。そのほかにも記事を読んだが、何だったか忘れてしまった。つい二時間前に読んだ新聞記事の内容も覚えていないとは! 食べ終えると抗鬱剤を服用し、皿を洗い、洗面所で髪を梳かしたあとに風呂を洗った。そうして下階に戻ってきて、一〇時半過ぎから日記。二時間! 二時間掛けてようやく前日の記事を仕上げることが出来た。BGMはcero『POLY LIFE MULTI SOUL』に、FISHMANS『Oh! Mountain』。『POLY LIFE MULTI SOUL』は、『Obscure Ride』のようにわかりやすいキャッチーな曲がないので、最初に聞いた時には後者よりも劣るかと思っていたのだが、昨日あたりからこれはこれで非常に良いのではないか、もしかすると名盤の類なのではないかという気がしてきている。母親は仕事に出かけていった。こちらも夕刻から労働。
 前日の記事をブログに投稿。画像リンクを記事最下部に拵えておき、表示のされ方をGoogle Chromeで確認したのち、Twitterにも投稿通知を流し、さらにnoteの方にも発表しておいた。そうして一時過ぎから、渡辺守章フーコーの声――思考の風景』の書抜き。BGMはCharles Lloyd『Hagar's Song』である。僅か二箇所を書き抜いただけで三〇分が経ったので切りとし、続いてMさんのブログを読んだ。二日分読んだのち、Sさんのブログも、五月八日分から一一日分まで読む。それでまた三〇分が経って、時刻は二時過ぎである。
 本を読もうと思ってベッドに乗ったのだが、すぐに読み出すことは出来ず、『Hagar's Song』が最終曲の"God Only Knows"に差し掛かっていたので、クッションに凭れて目を閉じながらそれを聞いた。音楽が終わってからもその状態から立ち直れず、布団を身に引き寄せて、眠るというほどでもないけれどうとうとと休むような時間がずっと続き、結局四時一五分頃までそのままでいた。怠惰の罪である。四時一五分に達したところでさすがにそろそろ支度を始めなければというわけで布団を剝いで身体を起こし、上階に行った。冷蔵庫を覗くと昨日の天麩羅が一つだけ、プラスチック・パックに取り分けられて残っている。それを電子レンジで二〇秒温めるとともに、卵を焼くことにした。普段だったらハムやベーコンと一緒に焼くのだが、この日はハムもベーコンもなかった。代わりに細く薄切りにされた豚肉があったので、オリーブオイルを引いたフライパンにそれを四枚敷き並べて、その上から卵を割り落とした。焼いているあいだに丼に米を用意する。そうして黄身が固まらないうちに、その丼の米の上に焼いたものを上げて、天麩羅をもぐもぐ食いながら卓に移った。醤油を掛けて黄身を崩し、ぐちゃぐちゃと搔き混ぜながらかっ喰らった。食べ終えてもまだ何か食べたい感じがしたので冷蔵庫のなかにあった薄皮クリームパンを持ってきて、三つ残っていたなかの二つを頂いた。さらに、冷凍庫を探ると竜田揚げがあったのでそれも電子レンジで加熱して、ご飯をおかわりしてきて鶏肉をおかずに食した。傍ら新聞に目を通す。台湾の総統選では予備選が行われて、民進党の候補者では蔡英文氏がもう一人の前行政院長に勝利したと。蔡氏は野党国民党の候補者と比べても勝ちそうな勢いらしい。英国でも保守党の第一回党首選が行われて、ボリス・ジョンソン前外相が一一四票くらいを得て首位になったと言う。
 ものを食べ終えると台所に食器を運び、それを洗い出す前に使ったばかりのフライパンに水を汲んで火に掛けた。そうして食器類を網状の布で擦り洗い、食器乾燥機に収めておくと、居間の方に移ってアイロンのスイッチを入れた。アイロン台を炬燵テーブルの上に出して、母親のシャツをちょっとアイロン掛けしてから、台所に行って湯の沸いたフライパンを手に持ち、沸騰した高熱の湯を流しに零した。そうしてキッチン・ペーパーで卵の残骸を拭き取って綺麗にしておくと、ふたたびアイロン掛けに戻った。仕事を終えて下階に戻るとちょうど五時頃だった。歯磨きをしたあと、cero "POLY LIFE MULTI SOUL"の流れるなかで仕事着に着替えた。この日は白いワイシャツに父親から借りているグレーのスラックス、それにネクタイも灰色のなかに細かな四角形が散った模様のものを締めた。ベストまで身につけて外出の支度が整うと、五時三分から日記を綴りはじめた。一〇分少々のみ綴って、五時一五分に達したところで作業を切り上げ、コンピューターを閉ざしてクラッチバッグを持ちながら上階に行った。便所に入って放尿すると出発。
 風の強い日で、こちらがベッドで微睡んでいるあいだなどびゅんびゅん吹いてたびたび家を揺らしていた。その風はまだ道に残っていて、ベストまで着込んでいても歩きはじめは結構涼しい夕刻だった。坂を上っていくあいだも路傍の木々がさらさらと、沢の流れのような音を立て、出口に掛かるとそこに立った木が一本、虫の手足のように緩慢かつ無造作な動きで枝葉を回し揺らしている、と見る間に風が強まって下方から舞い上がり、それに応じて木枝の濃緑の葉叢がゆさゆさと上下に揺さぶられていた。
 三ツ辻に今日は行商の八百屋は来ていなかった。街道に出て通りを北側に渡り、風を正面から受けながら歩いていく。空は全面白くて陽の感触はないものの、歩いてくればやはりシャツの内側が蒸す、けれどそれもいくらか風によって和らげられているようだった。肌はともかくとしても、靴のなかの足がやたらと温もった。裏通りに入ると途端に静かになり、遠くから時鳥の鳴き声も届く。車の通りがなければ、自分の幽かな吐息すらも聞こえてきそうな静けさのなかに、路傍で紫陽花が花を膨らませている。
 女子高生の一団が立ち止まって集まっているので、あそこに白猫がいるなと遠くからその姿が見えずともわかった。いつもいる家から通りを挟んで向かいの宅の敷地である。女子高生たちはやがて去っていき、そのあとからそこまで歩いていくと、やはり件の猫が寝そべっていて可愛がってあげたかったが、張られた鎖を跨いで敷地に入りこむのに気が引けて、人目につくのも憚られて今日は素通りした。背中を丸めて首を突き出した猫背の男がこちらを抜かしていく。
 裏道にもよく風の踊る暮れ方だった。青梅坂を過ぎた頃合いでふたたび風が舞って、と言っても道には入りこんでこないで、家々の向こうに立った木々を鳴らして、そのなかから鳥の囀りも混ざって届いてきた。市民会館後の施設の少し前の駐車場の端に、Nさんのトラックが停まっていた。三ツ辻に来ているものとは違う、また別の行商の八百屋である。近づいていき、向こうを向いていたNさんにこんにちはと挨拶し、二言三言交わしたあと、いつもお世話様です、行ってきますと言ってその場をあとにした。駅前に出ると、角の植え込みに紫陽花の、丸々と太って濃い清水色に染まったものがいくつも咲いていて、その色鮮やかさに翻って、まるで紙で作られた風船のような、人造物のような感を得た。
 職場に着くと挨拶してなかに入った。室長や(……)さんは教室の奥の方で保護者と面談中らしかった。その近くを通り抜けて奥のスペースに入り、ロッカーに荷物を入れて椅子に腰掛け、しばらく何をするでもなく、仕切りの向こうで交わされている室長たちと保護者の会話を聞いた。新規入会の生徒の親らしい。六時前になるとタイムカードを押して、入り口近くで生徒たちの出迎え・見送りをしていると、(……)先生が話しかけてきて、F先生、今日授業は、と言うので、ないんですよと笑った。なんと、と彼女は受けたのでさらに笑い、事務仕事で呼ばれましてと事情を説明した。室長は面談中、(……)さんも別の場所でやはり面談中というわけで、こちらは何をすれば良いのかわからなかったので、ひとまずタブレットを取り、奥のスペースのテーブルに就いて生徒の授業記録を適当に閲覧していた。そのうちに(……)さんが近くにやってきた機会があったので、何か僕のやること聞いていますかと訊くと、ああ聞いています、聞いていますとなった。あと一〇分待ってくださいと言う。了承してまたしばらく待っていると、(……)さんのテストの準備をしてやってくれと来たものだから、段ボール箱のなかから高三生用の英語の試験問題を取り出し、タイマーを九〇分に設定して彼女に渡した。その次に、団扇にキャンペーンを知らせるシールを貼ってくれということだったので、黙々とぺたぺたと貼っていったが、それはすぐに終わってしまった。そこでまた(……)さんのところに行くと、彼女はいくらか困りながら、困惑したようになりながら、大きな広告シールと、生徒たちに贈る誕生日カードを取り出した。パーテーションで区切られた各座席の壁に広告シールを貼っていき、それが終わったら誕生日カードにメッセージを書いてほしいと言う。了解し、古いシールの貼られている箇所は剝がして捨て、新しいシールを順番に貼っていった。残り一枚になったところでシールの数が足りず、まだ貼られていない座席がいくつもあったので、(……)さんにこれはもうないですかと訊きに行くと、足りないですかと彼女は言って、そんなことってある、とまた困惑していた。ともあれ広告を貼る仕事はそれで終いとなり、あとは誕生日カードである。名前だけを見ても顔が思い出せない生徒がいたので、タブレットで授業記録を参照してこの子はこういう子だったなと思い出しながらいくつかのカードにメッセージを綴っていった。まだ一回も当たっていない生徒に関しては、さすがに一度も担当していないのにメッセージも糞もなかろうというわけで省き、三人か四人分書いたところで(……)さんのところへ持って行った。それから団扇に貼るシールが追加印刷されたので、それをまたぺたぺた貼って、それでほぼ授業時間も尽きてこちらの仕事は終わり、(……)さんからもあとはのんびりしていてくださいとの許しが出たので、またタブレットで生徒の授業記録を閲覧していた。
 その後生徒の出迎え・見送りを行ったあと、シフト表を記入して退勤である。退勤前に(……)さんに――そう言えば今日は室長はずっと面談をしていて、彼とは一言も言葉を交わさなかった――七月のシフトで朝の部分はバツを付けちゃいましたけれど、あれは朝起きるのが大変だからで、足りなければ入れるので一応要相談ということで、と伝え、また明後日、日曜日の質問教室も午後からなら参加できますと言った。多分参加することになりそうだ。朝起きるのが大変だから、と言った時に、一瞬彼女は顔を顰めるような、眉根を寄せるような表情になってみせたので、だらしない人間だと多少軽蔑されたのかもしれない。それはともかくとしても、彼女は愛想の良い人なのだが、その慇懃さと愛想の良さ、いつも浮かべている笑顔の感じからは、何となく、無理をしているのではないかという匂いが微かに香るような気がしないでもない。もしかしたら根はそこまで明るい人間でもないのかもしれない――まあまったくの当てずっぽうだけれど。
 それで退勤。電車までは二五分ほどあったので、歩いて帰ることに。表通りに出た。風はまだ道に残っていた。夜の底でも躑躅が赤々と、あるいは白々と映えて咲いていた。車が風を切って走行音を散らすその横を黙々と歩いていく。夜になって微風があるとは言っても、ネクタイで首もとまでかっちりと閉ざし、加えてベストも羽織っていればそれなりに暑く蒸す。車通りはそこそこあって、流れが途切れれば非常に静かで虫の音も空間に忍び込んでくるが、そうした静けさはほとんど生まれないくらいにはこの田舎町でも、もう少し時間が遅ければともかく午後八時では交通量がある。月は見えなかった。表通りにいては街灯やら車の明かりやらに邪魔されて、晴れているのか曇っているのかもいまいち見分けがつかない。裏に入って静けさのなかから見上げてみると、星が一つも見当たらないので、どうやら全面曇っているらしいと見えた。月の姿もないが、それにしても光の痕跡すらも、気配すらも見当たらないとはどういうことか、前夜の同じ頃合いには結構丸く膨らんだのが皓々と見えていたはずだが、それほど雲が厚いのかと歩いていると、家に続く坂道の上に掛かったあたりで、正面の空に幽かな月の痕を見つけた。非常に朧で、周囲の灰色から少しだけ際立った白くあやふやな円が浮かんでいるのみで、何かの霊体のようだった。雲はやはり相応に厚いようだ。
 帰宅して母親に挨拶すると、下階に下りて、cero "POLY LIFE MULTI SOUL"を流しながらベストを脱ぎ、ネクタイを取り払ってワイシャツを脱いで、スラックスも脱衣すると肌着のシャツとステテコ・パンツの姿になった。そうして上階へ。母親は風呂に入っていた。炒められた玉ねぎと豚肉、それにセブン・イレブンか何かの簡易な手羽中を一つの皿に載せて電子レンジにぶち込んだ。味噌汁にはワカメと納豆が入っていた。納豆を入れた汁物はあまり好きではないが、文句を言わずによそって、そのほか紫玉ねぎ・人参・胡瓜などを細かな角切りにしたサラダを皿に盛って卓へ。点けっぱなしになっていたテレビを消し、新聞からイラン関連の記事を読みながらものを食っているうちに父親が帰ってきて、こちらが食事を終えて皿を洗いはじめた頃合いになって母親も風呂から出た。それでこちらは下階へ。九時から日記を書き出す。一七分ほど書いたところで父親が風呂を出たらしい気配が伝わってきたので、上階に行って入浴。入浴中は特段のことはない。まだ沢の勢いが強く、水音が雨音のように聞こえる。そうして出てきて戻ってくると、九時四一分からふたたび日記に取り掛かり、Bob Dylan『Live 1962-1966: Rare Performances From The Copyright Collections』をBGMにしながらここまで綴って一〇時半。
 それからインターネット記事を読んだりしようと思っていたところが、娯楽的な動画を視聴して時間を潰してしまい、インターネット記事を読むのは諦めて、零時を過ぎた頃合いからコンピューターをシャットダウンし、ベッドに移って書見に入った。まず初めにMichael Stanislawski, Zionism: A Very Short Introductionを数頁読んだ。例によって英単語や、気になった箇所を手帳にメモしながら読み進めた。もう終盤で、残りの頁はあと四、五頁である。それから山尾悠子『飛ぶ孔雀』に移行したのだったが、その頃には眠気に刺されて意識が曖昧になり、ほとんど読み進めることが出来なかった。三時二〇分になるとはっと気づいて、そのまま就床した。


・作文
 10:38 - 12:43 = 2時間5分
 17:03 - 17:14 = 11分
 21:01 - 21:18 = 17分
 21:41 - 22:30 = 49分
 計: 3時間22分

・読書
 13:05 - 13:36 = 31分
 13:39 - 14:09 = 30分
 24:13 - 27:20 = 3時間7分
 計: 4時間8分

  • 渡辺守章フーコーの声――思考の風景』哲学書房、一九八七年、書抜き
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-06-07「雛鳥のいかにももろい首根っこ強者に生まれたものの責任」; 2019-06-08「光線に浮かぶ銀河のような塵私は文明がさびしい」
  • 「at-oyr」: 2019-05-08「図面」; 2019-05-09「思い出したい」; 2019-05-10「祖父母」; 2019-05-11「鳥」
  • Michael Stanislawski, Zionism: A Very Short Introduction: 109 - 114
  • 山尾悠子『飛ぶ孔雀』: 118 - 120

  

・睡眠
 3:00 - 9:30 = 6時間30分

・音楽

  • cero『POLY LIFE MULTI SOUL』
  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • Charles Lloyd『Hagar's Song』
  • Bob Dylan『Live 1962-1966: Rare Performances From The Copyright Collections』

   

2019/6/13, Thu.

 肉体労働をやってみて思ったのは、これは体というよりも感覚を、あるいは時間を売る仕事だな、ということだった。決められた時間に現場に入り、単純な重労働を我慢してやっていれば、そのうち五時になって一日の仕事は終わる。その間、八時間なら八時間のあいだずっと、私という意識は、暑いという感覚、重いという感覚、疲れたという感覚を感じ続けることになる。現場監督に怒鳴られたり、あるいは逆に自分より新しく入った役立たずの新人を怒鳴ったりして、感情的な起伏を経験することもあるが、基本的には、仕事時間のあいだずっと、重い、とか、寒い、とか、辛い、という感覚を感じ続けるのである。
 こうした「身体的な感覚を、一定時間のあいだ中ずっと感じ続けること」が、日雇いの肉体労働の本質だな、と、自分でやってみて思った。脳のなかで、意識のなかでずっと重い、寒い、痛い、辛いと感じ続けることが仕事なのだ。それを誰か他人に押し付けることはできない。そのかわりに金をもらうのである。
 (岸政彦『断片的なものの社会学朝日出版社、二〇一五年、138~139)


 六時、八時と目覚めて最終的に一〇時起床。微睡みのなかで頭のなかにメロディが流れていて、折角なのでそれを記録してT田にでも送ってアレンジをしてもらおうと思い、実際コンピューターに寄って記録を始めた場面もあったのだったが、それもまた夢のなかでのことであり、実際の自分は相も変わらず背を汗で濡らしながら薄布団の下に眠っているのだった。そのほか、何かしら悪魔に関連した夢を見たような覚えもあるが、その一点の情報しか記憶には残っていない。上階に行って母親に挨拶し、冷蔵庫から昨夜の茄子と肉の炒め物の僅かな残りを取り出し、電子レンジへ。釜のなかの白米をすべて払ってよそってしまい、そのほか同様に昨晩のサラダの残りを持って卓に就いた。香港の、いわゆる「逃亡犯条例」改正に反対する大規模デモの続報を読みながらものを食べていると、母親が、玉ねぎを干すのを手伝ってくれないかと言うので了承した。それでものを食べ終え、抗鬱剤を服用し、台所で食器を洗ったあと、洗面所に入って櫛付きのドライヤーで髪を梳かした。それでも後頭部に寝癖が残っていたので整髪ウォーターを吹きかけ、もう一度ドライヤーで梳かして髪を整えると、母親が掃除機を掛けはじめるところだった。そのあいだに風呂を洗ってしまえと言うのでその言に従って浴室に入り、洗剤を吹きつけながら浴槽の壁や床をブラシで擦った。そうして出てくると、じゃあやろうぜと掃除機を掛け終えた母親に告げて階段を下り、下階の物置に置いてある古びたスニーカーを履き、灰色の軍手も身につけて外に出た。一旦小坂を上って家の正面に出て、敷地の隅、物置の脇に立てかけてあった黒いトレイを二つ持って、ふたたび坂を下り、隣家の敷地――以前は木造の家が建っていたけれど、ずっと前に壊されて以来、黒いシートが敷かれ、その隙間から緑の草が生えている――にぼんやり立って、暖かな陽射しと肌をくすぐるような風を身に受けながら、母親が来るのを待った。彼女がやって来ると一緒に畑の方に下りていき、端の、玉ねぎの植わった区画の前にしゃがみこみ、母親が取り上げて鋏で余計な部分を切り落としていく紫玉ねぎを受け取り、トレイのなかに整理していった。あたりは陽射しに照らされて、猛暑というほどでもないがそれなりに暑く、黒い肌着の下の肌に汗が湧く。そのうちに、たくさんあるので近所に配ろうかという話になった。それでもう一つ、おそらく小型の植木鉢かあるいは苗か何かをまとめて収める用途のトレイを持ってきて、それに大きめのものと小さめのものとをそれぞれ八個ずつ入れて、近所の家々に配ることになった。畑の端から下りて隣家の敷地を通らせてもらい、道に出ると、まずはMさんの宅へ向かった。Mさんという人はこちらは今まで会った覚えがなくて顔もわからなかったが、出てきたのは人の良さそうな老婆であった。母親がぺらぺらと、今玉ねぎを取ったからなどと話す横に、トレイを持ちながら突っ立って、時折り、是非召し上がってくださいなどと言葉を送ると、外をもう歩かないからわからないけれど、こちらが下の息子さん、と訊くので、次男です、と笑った。長男はモスクワに赴任しているのだと母親が話し、今何歳と訊かれたのには、もう二九歳ですと答えると、まだ若いね、という反応があったので笑った。うちも四〇男が一人でいるよ、と言う。
 Mさんの宅を辞去すると、隣のMZさん――この人も会ったことがないのでどういう人なのかわからない――の宅へ向かったが、車庫がひらいていて車がないので、どこかに出かけているのだろうということで素通りした。それから通りを向かいへ渡り、Wさんの宅である。この人は以前は自転車に乗ってどこかに出かけているのをよく見かけたものなのだが、何度も呼びかけてようやくよろよろと出てきたその姿はいかにも老いさらばえており、訊けば耳がもうあまり聞こえないのだと言った。頭の方も確かなのかわからず、こちらのことはともかく、母親のことを上のFとして認識しているのかどうかも定かではなかった。その次に隣の、N.Mさんである。この人は時折り母親の話に出てくるので名前は知っていたが、やはり顔と名前を一致させて認識したのは初めてである。最初は固いような顔をしていて、どちらさま、などと訊いていたので、やはりこの人も頭の方がもういくらか危ういのかもしれないが、母親のことを認識すると表情を和らげ綻ばせて、二五日から三〇日まで折り紙の展覧会をやるから、などと言っていた。そのあと、向かいのSさんの宅に行ったが、留守のようだったので早々に辞去し、Oさんの宅はSさんが上の家、我が家の向かいの家にいるだろうからと素通りし、Nさんの宅に向かった。ごめんくださいと母親が戸口で呼びかけるとおばさんの方が出てきて、紫玉ねぎの大きさに驚き、喜んでくれていたようだった。三つを渡して、あとから一つ足して計四つ渡したのだったが、そうしているうちにおばさんはSくんが玉ねぎを持ってきてくれたよ、と言って隣室で休んでいただろうおじさんの方を呼び、おじさんは出てくると、脚がむくんじゃってとズボンをめくってその脚を見せた。リウマチで一時は生死の境を彷徨ったという話で、何とかその後回復してたまに出歩いてもいたのだが、最近はもう夫婦共々歩いていないらしい。検査をしてもむくみの原因と言うか、根幹の悪いところが何なのかわからないらしく、明日また検査をしに行くのだと言っていた。
 続いてもう一軒、同じ名字のNさんの宅に二つを届け――ここでは、Aちゃんと母親が呼んでいるいう名前の人だと思うが、おじさんが出てきた――坂を上って我が家の向かいの家に訪いし、Sさんには三個を渡した。それで一旦畑に戻り、隣家のTさんの分と、Sさんに更にあげる分とを三つずつ回収し、Tさん宅の勝手口に向かった。母親がおばさんを呼んで、玉ねぎを差し上げたあと――Tさんはこちらの姿も見留めて、どうもすみませんねえと言って礼をしてみせた――こちらが今度は一人でSさんのところに行って、たびたびすみませんと言いながら更に三つを贈呈した。それからまた畑に戻り、残った玉ねぎをトレイに収めきって、それを畑の上、家の南側の植木鉢が色々と並んでいるあたりの区画に持っていって陽の当たる場所に置き、最初のMさんにあげたのが二個では少ないと思ったのか、母親は袋を用意してきてそれに五個くらい追加して入れながら、これを持っていってくれると言ってくるので了承した。それで畑を通り抜け、端の段の上からおっかなびっくり飛び下りて、道に出てMさんの宅に行くとインターフォンのボタンを押した。出てきた老婦人に、たびたびすみません、Fですと名乗り、また採れたのでと袋を差し出すと、先ほどあげたものを早速昼のご飯にしたところだと言う。細く切って、おかかを混ぜたなどと言っていた。その後、うちも余ってしまうので、是非食べてください、人助けだと思ってお願いしますなどと言い、更には、また色々とお世話になると思いますけれど、よろしくお願いしますと恙無く挨拶をしておき、それで辞去した。また畑の端から段を上って戻り、下階の物置から家内に入ると、階段を上って台所で水を飲んだ。
 時刻は正午前だった。それから自室に戻り、コンピューターを起動させ、前日の記事の記録を付けて、この日の記事も作成したあと、上階に行くと、母親が採れたばかりの玉ねぎを早速天麩羅にしているところだった。それを引き継ぎ、茄子やらえんどう豆やら玉ねぎやらを揚げるあいだに――油の温度が低かったのか、あまりからりとうまく揚がらなかったが――母親が蕎麦と素麺を茹でた。そうして食事である。葬式の引き出物か何かのうどんについていた麺つゆを使ったのだが、これが大したことのない味で、もう食事も終盤になった頃に母親が、先日買ったという高価な麺つゆを出してきたのでそれを足し、僅かに残った麺を良質なつゆで味わった。そうして食器を洗い、NHK連続テレビ小説なつぞら」の再放送をちょっと眺めると、自室に帰ってきて、FISHMANS『Oh! Mountain』とともに日記を書きはじめたのが一時一七分であった。現在、ここまで記してちょうど二時を回ったところ。
 前日の記事をブログに投稿――そこで、特にこれといった理由はないのだけれど、Amazon Affiliateを再開してみることにした。以前は記事中にテキストリンクを拵えていたが、今回は画像のリンクを用いてみることにした。色々と試して、その日言及した書籍や音楽作品の画像を記事最下部に羅列するという芸のない方法を取ることに。リンクの貼り方の模索に時間が掛かって――こちらは基本のブラウザとしてOperaを使用しているのだが、それだと画像が表示されず、Google Chromeの方で画像の映り方を確認したりしたのだ――投稿を終える頃には二時四〇分頃に差し掛かっていたと思う。ブログに記事を投稿しているあいだのBGMはcero『Obscure Ride』。それから、同じくceroの"POLY LIFE MULTI SOUL"を流しはじめて服を着替えた。モザイク画めいた抽象的な図柄の白Tシャツに、ガンクラブ・チェックのズボンと、得意の格好である。図書館にCDを返却しに行かなければならなかったのだが、それに加えて古本屋にも行ってみることにした。行けばどうせまた散財してしまうことは必定なので迷ったが、売りたい本もあったし、天気も良いので遠出をしたい気持ちがあったのだ。それでUNITED ARROWS green label relaxingの袋――深緑色の不織布のもので、淳久堂のそれと材質にしても色にしてもほとんどまったく変わらない――を取り出し、売りたい本一〇冊少々をそこに入れていった。財布と携帯の入ったクラッチバッグをその上に載せ、そうしてコンピューターの動作が何だか重かったので、スリープ状態にするのではなくてシャットダウンの操作をしておき、上階へ行った。母親は歯医者で不在である。時刻はちょうど三時頃だった。
 出発した。Tシャツ一枚で丁度良い、爽やかな空気だった。道を行っていると、弓を引いて放つような鶯の音がたびたび落ちる。家を出てすぐの頃は清々しい陽気だと感じられたが、坂を上っているうちにやはり暑くなって、駅のホームに着く頃には汗が背の全面を覆っていた。喉が渇いているような気がしたので自販機を見分したが、荷物を増やすのが面倒だったので買わず、ベンチの端に就いた。反対側の端には老人が一人座っており、あとから来たハイキング姿の高年女性が彼に挨拶をしていた。こっちは暑いね、と言う。ベンチは北側を向いて設置されており、午後三時の陽射しが屋根の下に入りこんで、日向が足もとの際まで寄せて来ていたのだ。でも今日は風があるから、と老人が言い、女性も同意して、梅雨の晴れ間でね、と答えていた。
 こちらは携帯電話を取り出してメモを始め、じきに電車到着のアナウンスが入ると立ち上がって、シャツをぱたぱたとやりながらホームの先、日向のなかへ向かった。そうして乗車すると、扉際で引き続きメモを取り、青梅に着くと乗り換えた。一号車へと向かい、乗車して席に就いた直後に電車は発車した。河辺まで携帯電話をかちかちとやってやや簡易的な日記を書いた。
 降りてエスカレーターを上がり、改札を抜けて、シャツをぱたぱたとやりながら歩廊を渡って図書館に入った。カウンターへ寄り、坊主頭の職員に挨拶をしてCD三枚を返却した。職員がケースをひらいてディスクを一枚ずつ取ってその表面を確認するのを待ち、終わるとありがとうございますと互いに交わしてその場を離れ、CDの区画に行った。Bob DylanがThe Bandを従えて行ったライブの音源が入っていたと思うのだが、この時は見当たらなかったので、目当てのものがないなら今日はCDを借りないで良いかと落とし、フロアを引き返して退館した。歩廊を戻って駅に入り、ホームに立ってまた携帯にメモを取る。じきに電車が来たので乗り込み、七人掛けの端に乗車した。左方の席には老人二人が並んで乗っていた。メモを取っていると、草取りがどうとか話が聞こえてきた。どうやら若い者が草取りをしないということを嘆いているらしい――母親が嫌がりそうな言説だ。このくらいの狭い土地が、もう、ドクダミでいっぱい、などというようなことを言っている。その後、スマートフォンの弊害について話していたと言うか、三歳くらいからああやってスマートフォンばかり弄らせて自然に触れさせないと、草木の名前もわからない、どうなっちゃうんだろうねえ、みたいなことを話していた。草木の名前がわからないというのはこちらの世代で既にそうなので、確かに今後、ある種の自然からの疎外というのは進むのかもしれない。聞き耳を立てるともなく立てながらメモを取り、拝島で停車しているあいだに現在時のことに追いついた。
 メモを取り終わったあとは手帳を取り出し眺めていたが、そのあいだにもやはり老人たちの会話――と言って話しているのは基本的に一方の老人の方で、もう一人の方は聞き役らしかったが――が耳に入ってくる。話題は北朝鮮関連のことに移っていた。ソ連あるいはロシアとか出稼ぎがどうとか言っていたので、多分北朝鮮の人民がロシアへ出稼ぎして金を稼いでいる、ということを話していたのではないか。そのうちにちょっと大きな声で、恐ろしいよ、と漏らすのが耳に留まったが、これは多分、北朝鮮の体制が崩壊して日本に多数の難民が押し寄せたらと考えると恐ろしい、という話だったように思う。同時に地中海がどうのと言っていたのは、ヨーロッパで起こった難民危機への言及だろう。ここまでの話からわかるように、この老人は、ネトウヨ老人というわけでもないだろうが、日本の伝統を重んじ難民にはどちらかと言えば反対の、わりと素朴な右派、というくらいの立ち位置だったのではないか。
 立川着。人々からちょっと遅れて降り、階段を上ると三・四番線ホームへ。混み合っているなかを一号車の位置まで歩き、ホームを横切って並んでいる人々の後ろに就くと、まもなく東京行きがやって来た。ぞろぞろと乗り込んでいくが、席は前に乗った人々に容易に取られてしまうので、扉際に立った。そうしてふたたび手帳を見やる。
 三鷹に着くと降りて、間近のエスカレーター前は混んでいたので、もう一つ先の上り口へと歩いた。階段を上り、改札を抜けると右折して、階段を下りていき駅舎から出る。ロータリーを回って横断歩道を渡ると、いつもならここで右折するところだが、たまには違うルートを取るかというわけで直進した。角の煙草屋に、随分とサラリーマンたちの集まって立ちながら一服している姿が見られた。ちょっと進んで右折し、「三鷹ホルモン」という炭火焼肉屋の横を通っていき、自転車が犇めき合っている広い駐輪場を過ぎて左折、そうして出た通りを右に曲がるとちょうどS書店のある交差点に出た。ceroの音楽を脳内再生し、口のなかでメロディを鳴らしながら店の前へ行く。一〇〇円の棚を見分したあと店内へ入ると、ちょうどカウンターでは客の応対をしているところだったので、ちょっと待ってから近づき、こんにちはと挨拶をして、女性店員に買い取りを頼んだ。それで思想の棚を見ているとお呼びが掛かって、聞けば詩集や句集は店主がいないと値段を付けられないと言う。それで預かりにしてほしいと言うので了解し、用紙に名前などを記入しながら、今日は店主さんはと訊くと、今休憩に出ているところで、多分六時くらいに戻ってくると言う。それなら、店内を見ているうちに多分そのくらいの時間になると思いますんで、と笑い、店員を安心させた。それから用紙に住所や電話番号をゆっくりと記入している無言の時間のあいだに、いくつか雑談の種を思いついてはいたのだが、ここで実際にそれを口に出せないところがこちらのコミュニケーション能力の低さである。記入し終えると用紙を提出し、カウンターの端に置かれてあったUNITED ARROWSの袋を回収させてもらい、ふたたび思想の棚へ。見ているうちにまもなく、六時を待たずに店主のKさんが戻ってきたので、彼がカウンター裏に入ったところでこんにちはと挨拶し、(査定を)お願いしますと頼んだ。査定はすぐに終わった。以下の一二冊で四五〇〇円である。

・阿部完市『句集 軽のやまめ』
福間健二『あと少しだけ just a little more』
町田健『コトバの謎解き ソシュール入門』
ショーペンハウアー/斎藤忍随訳『読書について 他二篇』
小林康夫『君自身の哲学へ』
・山我哲雄『一神教の起源 旧約聖書の「神」はどこから来たのか』
ジェイムズ・ジョイス/米本義孝訳『ダブリンの人びと』
ジェイムズ・ジョイス柳瀬尚紀訳『ダブリナーズ』
・若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』
蓮實重彦『表象の奈落』
・『岩田宏詩集成』
・九螺ささら『ゆめのほとり鳥』

 『岩田宏詩集成』を売ってしまったのは勿体ないかもしれないが、こちらの好きな彼の詩というのは現代詩文庫の『岩田宏詩集』と『続・岩田宏詩集』に網羅されているので、良いかと思ったのだった。査定に文句はあろうはずがない。何の注文も付けずに了承して金を受け取ると、良かったらまたゆっくり見ていってくださいとKさんが言うので、はいと笑って受けた。それで、店内入口から見て右端の壁際に揃っている美術や映画や音楽関連の書籍、また反対側の左端の方に集まっている漫画や絵本の棚は覗いて、棚を一区画ずつ、ほとんど舐めるように見分していった。思想の棚では中田光雄『意味と脱 - 意味』という本が面白そうで、なおかつ知らない著者だったので手帳にメモしておいた。
 詩歌がやはり充実しているという印象であり、ほか、フェミニズムや性についての本にも力を入れているという感じを受けた。購入候補に挙がった本は棚の上に上げておき、一通り回り終わると棚上に載せていた本を吟味し、いくつか棚に戻した。そうして最終的に以下の一一冊に確定。

小林康夫編『いま、哲学とはなにか』
・『批評空間 Ⅱ-19』
ロラン・バルト/花輪光訳『言語のざわめき』
・『エドワード・W・サイード発言集成 権力、政治、文化 上』
・『エドワード・W・サイード発言集成 権力、政治、文化 下』
・鈴木正枝『そこに月があったということに』
・古賀忠昭『古賀廃品回収所』
・『現代詩手帖 一九八九年六月号』
藤井貞和『うた ゆくりなく夏姿するきみは去り』
・石井辰彦『海の空虚』
・『藤原龍一郎歌集 楽園』

 計一一一〇〇円なので、平均して一冊あたり一〇〇〇円の計算である。『批評空間』は実物は初めて見た。浅田彰が共同討議などしているのだけれど、彼の名前にはやはり惹かれるところがある。バルトは説明不要。サイードの発言集成は上下巻で三〇〇〇円だったのだけれど、棚上に載せたものを吟味し終えた段階で、意外と嵩張っていないと言うか、まだ足せるなということに気づいたので最後に増やしたのだった――値段よりも、嵩張り具合、持ち運びの重さの方が問題だったのだ。鈴木正枝という人と、古賀忠昭という人の詩集は、書肆子午線から出ているもので、この出版社は言うまでもなく『子午線』という詩と批評の雑誌を出しているところで、こちらもその雑誌は二冊持っているわけだが、何となく信用できるのではないかという気がする。古賀忠昭氏のこの詩集は以前、Twitterかどこかで好評を見かけたことがあったと思う。『現代詩手帖』はミシェル・レリス特集だったので買うことに。石井辰彦は先日淳久堂池袋本店でも買った前衛短歌の人。『バスハウス』という著作もあったが、そちらは見送った。藤原龍一郎という人は前情報が何もなかったけれど、何となく良さそうだったので、直感で買ってみることに。『花束で殴る』という歌集もあって、そのタイトルにも惹かれるものを感じたのだが、どれか一冊ということで、なかを覗いて一番良さそうだった『楽園』を選んだ。
 それで一一冊を持ってカウンターに行き、会計を頼んだ。Kさんが値段をレジスターに打ち込んでいくあいだ、最近はいかがですかと尋ねてみると、年明けから忙しさが続いているとのことだった。あまり本も読めていないと言う。今月末からその忙しさは幾分和らぐかなといったところらしい。そちらはと問い返されたので、最近はどうだろうなと考えて、仕事を休んでいたんですけれど、復帰しましたと受けた。それは結構大きな変化ですね。前と同じ職場なんですか。そうです。それでしたら、環境がそこまで大きく変わらず、安心ですね。というようなことを話して、さらに詩についての話などもしたかったのだが、背後に一人並んで待っている客があったので、これは長話をせずに退散した方が懸命だなと判断して、袋を受け取るとありがとうございますと礼を言って退店した。時刻は六時過ぎ、西の方角から琥珀色あるいは黄金色あるいは橙色の陽射しが路上に液体のように伸びてきていた。
 それで店をあとにしたのだったが、やはりKさんともう少し話をしたいという気持ちがあって、迷いながらもひとまず駅の方面に向かった。ロータリー前の横断歩道まで来たところでやはり戻ってもう少しお話しさせてもらおうと決断し、先ほども通った道へと右折した。角の煙草屋には相変わらずサラリーマンたちの姿が多くあった。ぐるりと長方形を描いて一周するような形で店まで戻り、なかに入って、カウンターに寄り、どうもと笑いかけ、もう少しお話しをしたくて、戻ってきちゃいましたと告げた。すみません、と微笑し、今大丈夫ですか、忙しくないですかと訊くと、今日はわりとゆったりとしていて、とのことだった。それで、お聞きしたいことがありましてと前置き、詩ってどういう風に読まれますかと尋ねた。実は先日、生まれて初めて詩を作ったんですけれど、自分で作ってみてもよくわからなくて。行開けのものですか。行開け? つまり、普通に改行して進んでいくタイプの……。そうです、そうです。といった具合で話は進み、Kさんの言のなかには、改行が大きな意味や効果を持つ垂直性の詩というものと、そんなに改行が激烈な効果を持たない、散文的と言うか、意味の通りやすく繋がりがわかりやすいような水平性の詩という区分けが登場した。こちらはそうした考え方で詩を捉えたことはなかったので、なるほどと思った。前者の例としては田村隆一が挙がり、後者の例としては室生犀星なんかの名前が挙げられていたと思う。やはり改行というものが詩を詩たらしめるものとして重要な要素としてあるのだろうか。色々話したあとにKさんはしかし、実のところ、それぞれの詩を読むたびに、読み方をその都度「でっちあげている」ような感じかもしれないですねと言った。やはり詩の読み方などと言っても通り一遍ではなくて、そういうことになってくるのだろう。小説の読み方ならば、小説作品というものはそこそこ読んできたからまあわりあいわかると言うか、この作家はこういうタイプだなとかこういうことをやっているのだなというのが何となくわかるような気がするのだが――とは言っても、今読んでいる山尾悠子『飛ぶ孔雀』などは彼女が一体どのような思考で持ってあのような文の連なりを産み出したのか皆目検討がつかないのだけれど――詩というものに関してはまだまだ読んだ数も少ないし、作家が何をやっているのかということが全然わからない。ここいいよね、このフレーズいいよね、みたいな実に素人臭い読み方になってしまうのだと話した。そのほかKさんは、詩を読んでいるとたまに、紛うことなく自分は今、詩を読んでいるなという確信を抱ける時があって、そうした感覚を味わうのが醍醐味の一つなのかもしれないとも言った。映画でもそうしたことはあって、Kさんは以前、一年で三〇〇本くらい映画を見ていた時期があったと言うのだが、大抵はつまらなく、退屈なのだと言う。しかし三〇本に一本か四〇本に一本か、俺は今まさしく映画を見ているな、凄いものを見ているなという感覚に襲われる作品というものに出会えることがあって、そうした感覚に引っ張られてやはり読んだり観たりを続けてしまうのですね、ということだった。こちらもそれはわりあいにわかるような気がして、こちらの場合は小説ですねと受けたが、その時念頭に挙がっているのはヴァージニア・ウルフの『灯台へ』だった。あれはまさしく小説、という感じの作品だろう。小説の歓びというものがふんだんに詰まっていると言うか。
 退屈さで言えば、やはり凄いものを味わうためにはそのほかの退屈な作品やそれに触れる時間というものも必要なんでしょうかねえなどということも話した。一作のなかでもそれはそうですよね、初めは何かかったるいなと思っていたものが、後半に至るとぐっと面白くなってくることがある。プルーストなんかも結構退屈ですよね、「スワンの恋」なんかは物語的な結構がしっかりしているから読みやすいけれど、三巻とか四巻あたりとか、結構退屈だったような覚えがあります。でも、僕の場合は書抜きということをしているので、退屈な箇所が続いていても、ちょっといいフレーズがあれば、そこを抜き出すことができるんですよ。なるほど、読んできた甲斐があると。そうです、そうです。
 古井由吉の名前が出た際に、最近Twitterで見かけた彼の言を紹介した。『群像』だか『新潮』だかの確か今年の四月号あたりに、蜂飼耳が古井由吉にインタビューした記事が載っていて、そのなかで語られていたものなのだが、彼曰く、優れた散文というものは、散文でもそのどこかでふっと詩になっている、と。それはわかる気がするとKさんは受け、こちらも、要するにこちらが書き抜くような場所というのはそうなっている箇所なのではないかと思った。それと直接繋がっていたわけではないと思うが、吉田健一の著作の名前が出た時があった。彼の晩年あたりの、小沢書店などから出ている詩論というものが結構面白いのだと言う。何という著作だったか忘れてしまったので今、ウィキペディアを参照したが、『時をたたせる為に』というものだった。タイトルからして面白いですよね、時って人間が立たせることができるものなのかよ! などと思ってしまいますけれど、僕は好きなんですよとKさんは言う。まさしく詩的な一節のように思うのだが、それで思い出した、とこちらは言って、ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』のなかに好きな一節があって、確か、「人生がここに立ち止まりますように」ですね、僕はやたらとこれが好きでした。散文が詩になっている瞬間というのは、そういうことなのかもしれませんねえ、などと同意し合った。
 そのほかにもKさんは客を捌きながら、彼がそうしているあいだはこちらは脇に退きながら、結構話をしたのだったが、上記以外の話題は今のところ思い出せないのでこんなところにしておく。いや、あとそうだ、木下こう『体温と雨』という歌集をお勧めされた時があった。もう絶版になっている作品らしいのだが、最近私家版として復刻されたのだと言う。Fさんの短歌を見ていると、もしかしたらお好きかもしれないと思いまして、とのことで、Kさんはわざわざメモ用紙に名前を書いてくれたのだった。そのほか、詩論は読むんですかと訊いた時に、いくつか名前を挙げてこちらも用紙にメモして渡してくれた。そこに記された名前というのは、堀川正美、平出隆、安東次男、吉田健一である。堀川正美というのは初めて聞く名前だった。平出隆は知っていて、以前から読まねば読まねばと思っている作家だが、古書店などで見かけても結構高くて一冊も入手できていない。立川図書館に結構あったはずなのだが、もう立川の図書館は利用できない、カードの期限が切れてしまったからだ。安東次男は名前を聞いたことがあるようなないような。
 じきにそろそろ話題も尽きてきて、沈黙が差し挟まるようになり、Kさんがありがとうございます、こうしてたまに話してもらえると、こちらも読む時の新たな切り口と言うか、見つかるような気がして、と言ったので、このあたりが潮時だなと判断して、こちらこそありがとうございますと言って置いていた紙袋を取った。重いのでお気をつけてと言われるのに笑って返し、ありがとうございました、またよろしくお願いしますと互いに交わし合って、退店した。時刻は七時前だったが、まだ明るい空気だった。色づいた残光はもはや届かぬ薄白い西空を見上げながら駅まで行き、階段を上って、人波のなか改札をくぐると、ちょうど青梅行きの文字が電光掲示板に表示されていた。その時刻は既に過ぎており、どうやら電車は遅れているらしい。それで急がずに歩いてエスカレーターでホームに下ったところで、電車入線のアナウンスが入った。一号車の位置まで行き、人々の最後尾から、扉際に乗り込んだ。電車は満員で、扉際には四人が詰めており、こちらの前には茶髪の女性、BASKETBALLがどうのなどと記されている赤いシャツを着た女性が立っていて、距離はかなり近かった。彼女は国分寺で降りていった。その次に扉がひらいたのは立川だが、青梅行きなので乗り換える必要はなし、そのまま扉際に留まった。立川以降、こちらの前には、三〇代後半くらいだろうかサラリーマンが一人立っていて、その人が左手でスマートフォンを持ってゲームをやる一方で、右手でタブレットを持って漫画を読んでいた。随分と忙しい人間であるが、こちらの観察したところ、ゲームを操作する一方、ゲームが進む時にいくらか待ち時間というものが生まれる、そのあいだに漫画を読んでいるような塩梅だったようだ。事ここに至っては、もはや彼はゲームをやりたいのでも漫画を読みたいのでもなく、多分暇な時間というものに耐えられないだけなのだろうなと思った。「何もせずにただ待つ」という時間のその無為さにきっと耐えられない人間なのだ。小林康夫が『日本を解き放つ』のなかで言っていたように、そのようにして絶えず情報を取り入れていれば脳は癒やされるというわけだ。

 けれども、世界と向かいあって存在しているという感覚が薄れてしまうと、言語をそのような探求へと発動する心が生まれてこないように思いますね。意識がいつもどこかに接続されて、つねに情報が流れ込んでくる、そういうあり方に慣れてしまうと、向かいあいという拮抗が失われてしまう。からだがなくなって、全方位、だけど世界という不思議が感じられなくなってしまうというかね。自分が「いま、ここ」に存在するというプレザンスの感覚が日々薄くなりつつあるような気がしますね。でも、われわれの脳はそれで充足できるんですよ。脳は情報が入ってくれば癒やされるのかもしれない。これは、脳が存在しているのか、脳ではない「わたし」が存在しているのか、という大きな問題ですよね。
 脳という意識は癒やされる。情報刺激が入ってくればね。テレビを見て、インターネットを見て、映像を追いかけ、音楽を聴いて、さらにはゲームに埋没して、そうすれば、存在という厄介なものは忘れてしまえる。存在って厄介ですからね。
 たとえば引きこもりの人は、引きこもって存在してるというよりは、引きこもって人間の存在を忘れさせてくれる膨大な情報を引き入れていたりする。それは、いまの時代の大きな問題ですよ。「存在とは別の仕方で」存在しているというと、レヴィナス哲学を茶化しているようですけど、レヴィナスが言ったのとは違った意味で、「存在とは別の仕方で」がはやってきているように思えたりします。この現にある世界に、世界内に存在することが、難しくなってきているという奇妙な事態。脳が、この世界ではなく、ヴァーチャルな世界に常時接続しているみたいな、ね。
 (小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、389~390)

 誰もがどこでも自分の世界だけに没入しているという意味で、「一億総引きこもり化」とでも言うような社会が訪れているのかもしれない。それは直接性の感覚が薄れてきているということでもあるだろう。誰も電車のなかで眺めているのはスマートフォンの小さな画面ばかりで、周囲の人の表情を見てみようともしないわけだ。それで言えば、人々の他者に対する無関心を表す一つのささやかな現象というのは、電車内でも如実に観察されて、それは他人のために扉の開閉ボタンを押すか押さないか、という点である。青梅線の電車というのは乗降する時に、扉の脇にあるボタンを押して入口を開閉する。電車が混んでいると、そのボタンの前にも人が立っていて、ボタンを押す際の妨げになったりしていることがあるわけなのだけれど、そこで他人が降りたいとなった時にその人のためにボタンを押す人間と押さない人間とがいて、後者のタイプの人間には、お前らもう少し他者というものに興味を持てよと言いたい気がするのだ。こちらはボタンのある方の扉際に立った際には、駅に着く直前になって例えばそれまで目を落としていた手帳などから視線を上げて、あたりを見回す。それで周囲に降りる動きを見せている人がいたら、自ら進んで扉を開けるボタンに手を掛けて押してあげるわけだ。ところがそうしたことをせずに、スマートフォンなどに目を落として没入したまま立ち尽くしていて、降りる人がボタンに手を伸ばすと邪魔そうな素振りを見せながらそれをちょっと脇に避ける、というくらいのことしかしない人が結構いて、繰り返しになるがそういう人間たちに対しては、お前らもう少し他者への関心を持てよと言いたいような気がするものである。ちなみにこの日の扉際のそのボタンの方には若い女性が就いていたのだけれど、彼女はきちんと駅に着いたら開閉ボタンを押してくれていた。そのたびに扉際に立っていたこちらは一旦降りて降車客が去っていくのを待ち、それからもう一度乗るということを繰り返した。
 そのあいだ、こちらは例によって携帯でメモを取り続けていた。河辺に着くと人々の大多数が捌けていったので、空いた席に座る。それからまたメモを取っているうちに青梅が近づき、奥多摩行きはこの電車が着いたらすぐに発車だと言うので、乗り換えに時間が掛からないように車両を移り、降りると小走りになって向かいのホームの電車に乗り換えた。それで発車、最寄り駅までのあいだは引き続きメモを取る。そうして降り、細かな羽虫が蛍光灯に群がっている階段通路を抜け、横断歩道を渡ると自販機に寄って、コカ・コーラ・ゼロのペットボトルを一つ買った。それを古本屋の袋に入れたクラッチバッグに収めて道を歩き、木の間の坂から下の道に下りていって帰宅した。
 帰宅後のことは書くのが面倒臭いので簡潔に、省略して書こう。夕食はラタトゥイユなど。夕食中、また食べ終わってからも、両親に向けて珍しく、今日こういう爺を見て、と電車のなかで行きに見かけた老人のことや、また帰りに見たスマートフォンタブレット併用人間のことを話した。そのほか老人が話していた北朝鮮の話題から、日本内の外国人についても話が及んで、父親の会社における外国人登用の試みなどについても聞いた。あとはそうだ、テレビは『奇跡体験! アンビリーバボー』を流していて、定年後にカンボジアに渡って地域の地雷除去やインフラ整備や教育環境整備に尽力した人のことが語られていて結構面白かったのだが、しかし何故こんなに書くことがたくさんあるのか? とても細かく書く気力が湧かない。あとこの日はTとも電話したし、Yさんとも通話したしでもう書くことがありすぎる! もうやめだ! 面倒臭い! 気力がない!簡潔に、二言三言で終わらせよう。
 両親と色々話したのち、風呂を出て部屋に戻ってくるとTからのメールと着信が入っていたのだ。それで折り返し電話し、今度セミナーをやるかもしれないということや、昨日のT谷の誕生日にこちらを除いて皆で行ったディズニー・シーでのことなどを聞いた。そのほか一一時半からYさんと通話。本の話など。あるいは最近グループが下火になっていて寂しいねえなどという話。一時間ほど話して零時半に至ったあと、一時二〇分まで間が空いているのだが一体何をしていたのだろうか。わからない。ともかく一時二〇分から山尾悠子『飛ぶ孔雀』を読みだし、意識を失いながら書見して、三時前に就床。


・作文
 13:17 - 14:01 = 44分
 23:25 - 23:30 = 5分
 計: 49分

・読書
 25:20 - 26:50 = 1時間30分

・睡眠
 3:20 - 10:00 = 6時間40分

・音楽


    

2019/6/12, Wed.

 たとえば、女性は若くきれいにかわいくしているべきである、という、ありきたりな規範がある。それは私たちを縛り付ける鎖であり、たくさんの人びとを排除する暴力である。しかし、たとえば女性が身ぎれいにすること自体を、暴力に等しいものとして否定することは、なかなか難しい。
 ここで、ひとつの考え方がある。それは、「さまざまな価値観を尊重しましょう」というものだ。だから、おしゃれをしたりメークをしたりすること自体が悪いことなのではなくて、それを他者から、あるいは社会全体から強制されてしまうことを否定しましょう、ということである。たとえば無神経な上司から外見をからかわれたことを気にしておしゃれをする、ということは、いかにも屈辱的なことなのだが、自分なりの個性的な価値観と信念に基づいておしゃれをすることは、何も悪いことではない、ということになる。
 だが、私はここから本当にわからなくなる。私たちは「実際に」どれぐらい個性的であるだろうか。私たちは本当に、社会的に共有された規範の暴力をすべてはねのけることができるほどのしっかりした「自分」というものを持っているだろうか。
 むしろ私たちは、それほど個性的な服を着ることよりも、普通にきれいでかわいい服を着て、普通にきれいでかわいいねとみんなから言われたいのではないだろうか。個性的である、ということは、孤独なことだ。私たちはその孤独に耐えることができるだろうか。
 そもそも幸せというものは、もっとありきたりな、つまらないものなのではないだろうか。
 (岸政彦『断片的なものの社会学』朝日出版社、二〇一五年、115~116)


 一時過ぎまで爆睡。爆睡と言うほど深く眠りに就いているわけではなくて、たびたび覚めているのだけれど身体が持ち上がらない。腐った茸のような寝坊。上階へ。母親に挨拶し、白米と、「ルクエ」のスチームケースに入った温野菜と、玉ねぎのスープを用意する。食卓に就いて新聞を読みながら食事。辺野古の埋立てが加速しているという話。テレビは『ごごナマ』、前川清が出演して鯉の飼育などについて話していた。食後、抗鬱剤を飲むと食器を洗い、母親の使ったそれも同時に洗い、それから風呂を洗った。そうして便所に行って排便し、下階に戻るとコンピューターを点け、前日の記録を付けるとともに今日の記事も作成し、FISHMANS『Oh! Mountain』とともに日記を書きはじめたのだが、書いていて思うけれどこのあたりの流れは本当に毎日まったく変わらない。ならば書かなくても良いのではないか? そうかもしれないのだが、何故か毎日芸もなく反復して書いてしまう。日記を書きはじめたのはちょうど二時頃。それから一時間で前日分を仕上げてここまで。図書館に行こうかと思っているのだが、どうしようか。
 行かなかった。何となく身体が重かったので面倒臭くなってしまったのだ。それでベッドに吸い寄せられて、最初のうちはクッションに凭れ掛かって目を閉じていただけだったのだが、じきに姿勢が崩れていって、頭を枕に乗せてしまい、七時まで長々と眠ることになった。まことに勿体ない、贅沢で怠惰な時間の使い方をしているが、こういう怠けた日もあるのは人間である以上必定だろう。何かしら悪魔が出てくる夢を見た。夢で言えば朝には、Tの出てくる夢も見たのだが、詳細はもうあまり覚えていないし、面倒臭いので細かな記述は省く。七時までだらだらと、時折り唸り声を上げながら眠ったあと、上階に行くと、母親が茄子と豚肉を炒めているところだった。ほうれん草を切ってくれと言うので、フライパンの水に浸けられていた菜っ葉を少しずつ取り上げ、ぎゅっと絞って水気を散らしてから包丁で切り分けていった。そのほか、ボウルに胡瓜をスライスしていく。一方で母親がトマトを切り、ゆで卵を剝いて、それからそれらを合わせて酢や辛子やマヨネーズで和えた。そうして食事――の前に自室から燃えるゴミのゴミ箱を持ってきて、そのなかのゴミを上階のゴミと合流させておいた。そうして食事。茄子と豚肉の炒め物――山椒味噌で味付けしたもの――をおかずに白米を食べ、そのほかサラダや菜っ葉や昼間の玉ねぎスープを食べる。夕刊をひらくと、香港では議会を囲むデモ活動が続いているらしい。テレビは単身赴任の父親の様子を遠く離れた家族が見て、お互いにメッセージを送り合うといったような番組。この父親は脱サラして漁師の世界に飛び込み、対馬で延縄漁をやっているという人だった。そのあと、二二年前にマルコメ味噌のCMに出ていた子役が今はヒューマン・ビート・ボクサーに転身しているというのが紹介されたのだが、彼が披露したボイス・パーカッションが凄かった。さすがはプロである。それらを見たあと、あるいは見る前だったかもしれないが皿を洗って、そうして入浴に行った。湯に浸かっていると窓の外から聞こえる増水した沢の流れの響きが、ほとんど雨が降っているのと変わらないような感じだが、雨はもう降っていないはずだ。出てくるとパンツ一丁の姿で下階に戻り、YさんとSkype上でやり取りをしながら日記を書きはじめた。BGMはBill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 1)。一〇分ほどで現在時に追いつかせる。
 それからMさんのブログ。「悲しみは」リミックス版のなかでは、こちらとしては「目尻に起こるさざ波」と、「覚えたそばから忘れる聞きかけの歌」が良いように感じられた。二日分読み、それから物凄く久しぶりにSさんのブログを読むことにした。検索してみると一か月以上離れていたようで、最後に読んだのは四月三〇日付の記事だったので驚きである。読み出せばやはりなかなか面白いもので、例えば五月一日付「Isolation」の以下の批評など、なるほど、そうなのか、と思わされる。

ジョン・レノンビートルズ時代の"Yer Blues"、あるいは"Come Together"でもいいけど、どれもブルース解釈というか、ブルースマナーで歌う際の、ジョン・レノンのある種の達成という感じを受けるのだが、ソロ第一弾「ジョンの魂」における"Isolation"をはじめとする各曲は、これらはジョンレノンのソウル解釈、それもジャンルとしてのソウルではなくて、もっと切迫した、身を切るような、気持ち全開の、これが成り立たなければ死ぬしかないほどに思い詰めた果ての成果としての、ソウル・ミュージックで、その類を見ない達成なのではないかと。

それで久々に「ジョンの魂」を聴いてみようと思って、まずCD棚から「ジョンの魂」のCDを探し出すのが死ぬほど大変だったのだが、こういうときに連休というのは素晴らしくて、ほぼ無益に思えるような大掛かりな捜索を許容できるほどの時間的な猶予があるということで、世間の人々もきっとこの期間を利用して家に埋もれている何かを必死に掘り起こして無益な時間を浪費しているのだろうと想像されるのだが、それはともかく久々に聴いた「ジョンの魂」は奇しくも昨今流行りのミニマルなR&B的雰囲気を彷彿させるきわめて単調・単純なリズム反復だけでおおむね構成されたまさに「魂の」音楽という感じで、皮肉ではなくてこの開き直った単調さの迫力は、たしかにすごい。なぜこんなサウンドになったのだろうか。今の俺の気分が、こんな感じ、、ということだったのだろうか。ジョンレノンという人はどこまでも内省的になるくせに、どこまでも他人から見た感じを異様な敏感さで感じ続けている人なので、「ジョンの魂」はそのバランスのもっともテンションギリギリな瞬間をとらえ得ているとは言えるのだろうし、ロックが作家個人的告白の手段として超有効になりうることを良くも悪くも示してしまったとも言えるのだろう。

webで調べたところによれば当時のジョンレノンは「原初療法」診療直後だそうで、過去のとらわれからの開放…という物語をそれなりにガチで思い込んでいる状態とも言えて、肉親とか出自的なドロドロしたものを含め、如何にも突き放しえた解放感というか、言い切って捨てていく踏ん切りというか、内向的に引きこもりながらも、どこまでも力強くある種の確信を掴んだたしかな感触があって、そうなのか、この異様な自己肯定感の手触りこそが、70年代以降の(私小説的)ロックの基底音なのか…という感じだ。この精神分析的な沈降と回復を経て、最終的に幸福な結末に至る物語の流れを演じるジョンレノン的なテイストというのは、ロック・ミュージックの歴史において無視できないもので、雑駁いえば論理的にはつながらない、納得し辛い、容易に肯定し難い、そのようなややききわけのない子供じみた態度だが、それとは微妙かつ絶対的に違うある批判的態度というスタイルとしてこの後も引き継がれていく。

 また散歩の記事を読んでいると、Sさんという人は結構よく歩いているなあという印象を持つものであり、彼と街を散歩したらそれは面白いだろうなあ、あるいは面白いとか楽しいと言うよりは、穏やかな時間なのではないか、ただただひたすら穏やかな時間が続くのではないか、ということも想像される。そのほか、以下に引く五月六日付「動物園」の記事がまるで小説のようだと言うか、梶井基次郎とかヴァルザーとかがやるような小説ともエッセイともつかない小品の類の一部のように感じられた。あるいはほとんど読んだことがないけれど、川端康成とかももしかするとこういう雰囲気に近いのだろうか。

先週は金沢動物園に行って、昨日は井の頭動物園に行った。休日に動物園に行くこと、これは近代人、ことに二十世紀以降を生きる者たちの基本行動である。但し今では動物園もすっかり枯れた施設に成り果てたが、昔はそうじゃなかったらしい。動物を見に行って、動物に怪我をさせられたり、運が悪ければ落命することもめずらしくなかった。そんな始まり方で、あのときから動物と人間は距離を縮めたのだった。もちろん今では高い柵や分厚いアクリルガラスが人間の身を危険から守ってくれているし、動物たちも整然と管理保護されているから、昔のようなアクシデントは起こらない。だから最近の動物園に行くと、我々はむしろ鳥類ばかり見るのだ。鳥はいつも大体、それは鳥に限らないのだが、いつも大体眠っていて、我々の眼にはただの羽毛の塊にしか見えない。そんな種が多い。もちろん活発な鳥もいる。水鳥はおおむね元気だ。鴨や鷺は勢いよく水飛沫を上げて羽根を洗っている。何しろ動物園で檻に入った鳥は、ことに渡り鳥は哀れだ。もはや本来の自分の生を想像することすら忘れてしまったかのようだ。しかし彼らと同種の鳥は、我々がわざわざ檻を覗き込む必要もないほど、近所の空を今も平気で飛び回っているのだ。数ヶ月おきに檻の中の彼らと入れ替わっても何ら問題ないくらいだ。しかし今に至って、そんな境遇さえ彼らにとってはさほど不可解でもないらしいのだ。

 Sさんのブログを五月の頭から一週間分読んだあとは、渡辺守章フーコーの声――思考の風景』の書抜き、こいつを五〇分ほど。BGMは、Sさんのブログで触れられていた"Come Together"や"Yer Blues"を聞こうかということで、The BeatlesAbbey Road』に『The Beatles (White Album)』のディスク二。『フーコーの声』のなかには、以下のようなフーコーとの対話が含まれている。

――(……)フロイト精神分析は、カトリック教会による告解の義務づけという、十三世紀以来のヨーロッパの伝統を無視しては理解できない。わたしの関心を惹いているのもそこなのです。自分の性について、細大洩らさず語る、そこにこそ自分自身についての真実が隠されているからだという義務感につき動かされて執拗に語るのだし、語らせるのですね。
 それに一般的に言って、〈告解=告白〉の伝統は、現在のヨーロッパでも極めて根強いのです。たとえば全然別の例ですが、同性愛者の権利主張をする団体がある。ところが、そういう団体に加入を認められるには必須の条件が一つあって、それは、自分の同性愛の遍歴を細大洩らさず告白する、ということです。
――公にですか?
――そうです。
――一種の秘密結社への入社秘儀[イニシエーション]……?
――全くそうです。しかし重要なのは、ここでも〈告白〉というものが、性についての真実を言説化することが、その人の主体の真実の保証であり、かつ、それを相手に引き渡すことによって一つの力関係に組み込まれる、という点です。同性愛者としての主体[シュジェ]の成立は、そのような隷属化[アシュジェチスマン]によってしか可能ではないという話になる。わたしとしては、こういう要請は法外なもので、とても認めることはできない!
 (渡辺守章フーコーの声――思考の風景』哲学書房、一九八七年、128~129; 「幕間狂言 脱構築風狂問答 三日月を戴くヘルマプロディートス」)

 これは『日本を解き放つ』のなかで小林康夫中島隆博が語っていた、トマス・カスリスの「インティマシー」概念とも関わる部分だろう。こちらの当該箇所も下に引いておく。

 中島 いまおっしゃったように、インティマシーの原型は母子密着の状態だろうと、わたしも思います。ところが、カスリスさんに言わせると、インティマシーの定義は、「親友に自分の内奥のものを伝えることなんだ」と言うわけです。
 小林 すばらしい!
 中島 これはおそらく、母子密着のインティマシーが、ある種変容し、再定義されたインティマシーだと思うんですよね。
 小林 そのとおりだと思います。まさに、一度、インテグリティーを通過したあとのインティマシーですよね。そこでは、インティマシーは、与えられた親密性ではなくて、みずからの内奥を打ち明け、与えることによって、まったく他人である存在とのあいだに、友情というインティマシーの関係を構築するという方向に跳んだわけですね。これはすごい、と同時に、とても西欧的。だって、キリスト教的な西欧文化の中心軸のひとつが、みずからの罪という秘密の内奥を打ち明けるという告白の伝統だからですね。西欧の近代は、ジャン=ジャック・ルソーが典型的ですけど、まさにこの問題を近代の根底に据えたわけですね。
 中島 近代的な内面性ですよね。
 小林 いや、これはなかなか難しい問題です。というのは、告白は究極的には「神」というインテグリティーが必然的に絡んでくるからで、ここにこそ、インティマシーとインテグリティーとの関係づけのキリスト教的な「解」があったわけですから。このような告白の観念は日本にはないでしょう。日本人にとっては、告白は君に恋心を告白する、ですから。西欧的には、インテグラルな自分を相手に開示することがインティマシーなのだという方向に行くわけで、これをわかっていないと、ヨーロッパ人とは真の友情が成立しない。おつきあいできないというか、単なる「おつきあい」で終わるというか。打ち明けられないインティマシーを打ち明けることだけが、友情の定義なのに。極端なことを言うと、日本人がヨーロッパに行ったときに、そこを見られているということが、多くの日本人にはわからない。
 (小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、22~24)

 小林康夫はここで、「親友に自分の内奥のものを伝えること」という「インティマシー」の内実を、「すばらしい!」と嬉々として評価しているけれど、フーコーからしてみると、そうした「告白」を契機/条件とした人間関係の成立のなかには、避けがたく権力が――そして場合によっては暴力が――入りこんで来るという点に着目しなければならないのだ、ということだろう。勿論、小林康夫もフランス現代思想にとんでもなく通じている人間であるので、そうしたフーコー的視点は当然承知した上で、そうした事柄はここでは括弧に括って、引用部では敢えて(「インテグリティー」を通過した上での)「インティマシー」的な親密さというものに高い評価を与えているはずだ。
 書抜きに区切りを付け、今しがた書き抜いた記述のいくつかをTwitterに流しておいたあと、今度はインターネット記事を読むことにした。今宵は岸政彦へのインタビュー、「FROM OKINAWA TO OSAKA」(https://cdp-japan.jp/interview/23)を読もうと思ったのだが、これが掲載されているのが立憲民主党のホームページだったものだから、ついでに同党の「国民との約束」(https://cdp-japan.jp/about-cdp/yakusoku)と、「綱領」(https://cdp-japan.jp/about-cdp/principles)も読み、その過程で「人間の安全保障」という概念を知った。ウィキペディアの記事によると、緒方貞子アマルティア・センが共同議長を務める「人間の安全保障委員会」の定義では、この語は、個々人の安寧を図り、「すべての人の自由と可能性を実現すること」だと述べられており、その後にこの定義が抽象的なので各方面で独自の概念整理が成されて、現在では主要三要素として、「欠乏からの自由」「恐怖からの自由」「尊厳ある人間生活」があるというのが共通的な理解になっているようだった。岸政彦のインタビューでは、「自治と連帯」を作るためにこそ、経済成長と再分配が最重要なのだと語っているのが印象的だった。財源がないのだという保守派の議論に対抗するために、左派こそ経済成長の方策を模索していかねばならないのだ、という話だった。
 上記まで日記を綴ったその後、Twitterをちょっと眺めてからベッドに乗って読書へ。山尾悠子『飛ぶ孔雀』である。シュールレアリスムというのはほとんどまったく触れたことがないけれど、こういう感じなのだろうか。三時過ぎまで読んだけれど最後の方ではいくらか意識を失っていたような記憶がある。三時二〇分に就床した。


・作文
 14:02 - 15:03 = 1時間1分
 20:26 - 20:38 = 12分
 23:56 - 24:15 = 19分
 計: 1時間32分

・読書
 20:44 - 21:34 = 50分
 21:41 - 22:28 = 47分
 22:48 - 23:50 = 1時間2分
 24:40 - 27:18 = 2時間38分
 計: 5時間17分

・睡眠
 2:15 - 13:10 = 10時間55分

・音楽


       

2019/6/11, Tue.

 便所に行ってきたのち、三時手前から日記。窓をひらいていたので肌着にハーフ・パンツの格好では結構肌寒く、収納からグレン・チェックのブルゾンを取り出して羽織った。そうして一時間ほど音楽もなく、窓外から響いてくるホトトギスの鳴き声を共連れとして打鍵を続け、午前四時直前に前日の記事は完成した。素晴らしい勤勉ぶりである。
 前日の記事をブログやTwitter、noteに投稿したあと、ふたたび何となく短歌を作った。

 名前がない家も妻もなく食べ物もあるのは朝と昼と夜だけ
 東京は監視の都ならばいっそ裸を晒せ囁き声で
 青空の深いところに馬がいるすべての道は牢屋に至る
 死に人は帰らないから歌うのさ僕の心を取り戻すために
 いかにして跡形もなく消え去るかそれを考えながら眠ろう

 そうして四時半から、渡辺守章フーコーの声――思考の風景』の読書メモ。BGMにRadioheadRadiohead Rocks Germany 2001』を流して、一時間ほど掛けてすべての書抜き箇所をメモし終える。それで五時半。ちょっとTwitterなど眺めてから上階へ。両親はまだ起きていない。食卓の上のオレンジ色の電灯を点け、台所の電気も点けて、冷蔵庫を覗くと穴子飯がパックに取り分けられてある。それを取り出し、ほか、例によって卵とベーコンを焼くことにした。卵は残り二つしかなかったので、いつもならば二つ焼くところだが今日は一つのみとし、穴子飯を箸で椀に盛って電子レンジへ突っ込んだ。それからフライパンにオリーブ・オイルを垂らして、ハーフ・ベーコン四枚を落とし、その上から卵を割った。そうして蓋をして加熱しているあいだに玄関を抜け、新聞を取りに行った。戻ってくると卵は良い具合に焼けていたので、箸を使って端から剝がしていき、皿に取った。それで卓に就いて食事。前夜の夕刊から、香港で一〇〇万人規模のデモ――それは主催者発表の数値で、警察の発表では二四万人だが――があったという記事を読みながら食べる。犯罪者の中国への引き渡しが可能になる法改正に反対するものだと言う。ものを食べ終えるとさっさと食器を洗い、それからフライパンも綺麗にするために、水を汲んで火に掛けた。水が沸騰するのを待っているあいだは、今度は今日の朝刊から、引き続き香港のデモの報を追う。そうして湯が沸いた気配を察知すると台所に行き、フライパンの熱湯を零してキッチン・ペーパーで汚れを拭き取った。それで片付けは完了、抗鬱剤を服用して下階に戻ると、六時半から『Bob Dylan』を流し、渡辺守章フーコーの声――思考の風景』の、今度は書抜きを始めた。二〇分ほどで打鍵を中断し、上階に行って起きた母親に顔を見せに行った。何となく寒いよねと彼女は言い、石油ストーブも久しぶりに稼働させられていた。ゴミ出しを手伝おうかと思ったのだが、火曜日はゴミ収集のない日だった。それでこちらは仏間に入ってジャージの上着を取り出し、ブルゾンと取り替えて身につけ、そうして自室に帰るとまたしばらく書抜きを行った。Bob Dylanの音楽が終わるとともに作業も止めて七時一〇分、そこから日記を書き出して現在七時半直前である。今日は午前中から立川にパスポートの更新をしに行くつもりであり、夜からは労働である。
 Twitter上でいくらかフォロー攻勢を仕掛けたあと、Mさんのブログを読むことにした。六月三日と四日。後者の記事に含まれていた以下の記述の流れに爆笑した。

またC先生が奥さんと四歳半の息子を連れて教室に入ってきた一幕もあった。子供は日本で産まれたのだが、日本語はさっぱりしゃべれないとC先生はいった。息子はおそろしくかわいかった。女の子みたいだった。かわいい声でなにやら呟きながらぴょんぴょん飛び跳ねたりしているので、こちらもその真似をしてぴょんぴょん飛び跳ねてやると、很奇怪! という反応があったので、その場にいあわせた全員声をあげて笑った。完全に変なおじさんだと思われたはずだ。
18時になったところで部屋を出た。Lさんから大学に到着したという連絡が入ったのだ。女子寮でOさんを拾ってから彼女の待っているという第五食堂付近に向かうことになった。おもては死ぬほど暑かった。女子寮前でLSさんと別れたが(誘うべきかいなかちょっと迷ったが、今日はあくまでも火鍋のグループチャットのメンツで集まる日である)、寮の中で売店の老板がスイカを切り売りしていたらしく、わざわざ引き返してきて先生ほしいとたずねてみせるので、くれくれと応じた。それで彼女が老板と交渉しているあいだ、女子寮の入り口にある門の柵を動物園の猿のようにわしづかみにしながら、りせい! スイカくれ! りせい! スイカくれ! と日本語で叫び続けた。となりにいたKさんが恥ずかしくてたまらずその場から逃げたそうにしているのが面白かったので、ますます悪ふざけして今度は中国語で、给我西瓜! 给我西瓜! と叫んだ。

 それで時刻は八時過ぎ。一旦上へ。風呂を洗うことに。浴室にゴム靴で入り、栓を抜いてまだ生温い湯を流しだし、それからブラシで浴槽を擦り洗った。シャワーで洗剤を流し、栓と蓋をもとに戻して出てきて、階段に差し掛かったところで仏間の父親からおはようと呟かれたので、はい、と答えた。そうして下階に下り、自室に入って着替え。tk TAKEO KIKUCHIのTシャツ、いくらか幾何学的と言うような模様の赤褐色の差し込まれたシャツを着たかった――折角買ったので。それとオレンジっぽい煉瓦色のパンツを合わせてみたところ、近い色合いだからだろうこれがなかなか調和した。ただ、その上にグレン・チェックのブルゾンを羽織ってみると、Tシャツの柄とブルゾンのチェックとがぶつかり合うような感じがしてこれはどうかなと思われたので、両親の寝室に入って母親に、この格好どう、と訊いてみた。母親もこちらと同意見のようだった。それで室に戻って収納を探ると、以前古着屋で買ったLevi'sのジーンズ・ジャンパーが見つかったのでそれを着てもう一度母親に見せにいったところ、そちらの方が良いとのことだった。それで室に戻ってTwitterなどを眺めていたのだが、――そう言えば着替える前にcero『Obscure Ride』を流しながら手の爪を切ったのを忘れていた。その頃には乗ったベッドの上に窓から斜めに白っぽい薄陽が射し込んでいた。ともかくそれで、Twitterを眺めていたのだけれど、ジージャンに染みついた古着屋の臭いが気になり、自分の腕を包んでいる生地を間近で眺めてみれば細かな糸埃もたくさん全面に付着していたので、やはりこれはやめようと決めて、代わりにカーディガンを着ることにした。滋味深い海のような青で、左肩の部分から下端へ掛けて、紅白の格子縞が入っている品である。これももうだいぶ長く着ているが、無地になりきらずアクセントが入っていてなかなか良いアイテムだ。あまりこういったカーディガンは店を回っていても目にしないのだが、この品は大学時代に吉祥寺の「いせや」という店で買ったのだったと思う。それから日記をここまで綴って九時前。両親と車に同乗して小作あたりまで送ってもらうことにしている。
 上階へ。仏間に入って黒のカバー・ソックスを履く。パスポート申請の身分証明に必要かと思い年金手帳のことを口にすると、所在が不明だったのだが、父親が俺が持っていると言ってそのあたりをごそごそ探しはじめた。そのあいだにこちらは便所に行って放尿し、戻ってくると階段を上がってきた父親が手帳を渡して来るので礼を言って受け取った。そうして出発である。玄関から外へ出ると、空に雲は多いが陽もいくらか射しており、晴れなのか曇りなのかよくわからない天気である。車の助手席に乗り込んでシート・ベルトをつけた。まずK.MSさんを迎えに行く。それで発車して道を西に走り出すと、すぐに前方から歩いてくる姿を発見する。MSさんはマスクをつけていた。後部座席へ乗ってきたところをおはようございますと挨拶する。頭がまだぼけっとしているな、などと彼は呟く。
 市街を走っているあいだは、前に座ったこちらと父親はほとんど喋らなかった。特にこちらは、挨拶してからは多分一言も喋らなかったと思う。後ろでMSさんと母親が雑談を交わすのを聞くともなしに聞きながら車に揺られる。ラジオは伊集院光のもので、例の年金の問題、老後の生活を豊かに暮らすには年金以外にも二〇〇〇万円の貯蓄が必要だとかいう発言の問題について語っているが、母親たちの会話であまりラジオの音声は聞こえなかった。しかし本当に老後の資金として二〇〇〇万円も必要なのだとすると、こちらなどは惨めな貧困に陥るほかに道はない。
 小作駅に着くと、運転席の父親にありがとうと礼を言い、後ろを向いて、じゃあMSさん、失礼しますと声を掛けた。MSさんはどうも、と受けてきた。それで車を降りて、駅へ。エスカレーターを使わずに長い階段を上って構内に入り、改札を抜けてホームに下りると一番前の車両の位置まで長々と歩いた。駅舎脇に生えた草葉につるつると光が宿っており、ベンチの下には雀が一羽、いたいけなようにして跳ねている。一号車の位置に着くと、山尾悠子『飛ぶ孔雀』を取り出して、クラッチバッグを右の脇に挟んで両手で書籍を持ち支えて読みはじめた。風が吹き流れ、肌をくすぐっていく。
 じきに電車がやって来たので、乗り込んで七人掛けの端に就いた。それで引き続き読書に励もうとしたが、やはりさすがにほとんど徹夜では眠気に苛まれるのも必至で、意識を乱されてたびたび目を瞑ってしまった。そういうわけであっという間に立川に到着した。人々が捌けていくのをちょっと待ってからこちらも降りると、背後から、あれは何と言う機械なのだろうか、ジュースの大箱などを運ぶためのキャタピラー付きの荷台のようなものがあると思うが――ピーピー電子音を発しながら階段をゆっくりじりじりと引き上げられていくあの機械である――あれが接近していたので脇に避け、階段をじりじりと上りはじめたその横をこちらも上がっていった。人々のなかを歩き、改札を抜けると通路を挟んで向かいのATMに寄り、七万円を下ろした。そうしてパスポート・センターのあるLUMINEへ向かったのだが、まだ一〇時前だったので二階の入り口はひらいていなかった。とは言え時刻は一〇時直前、開店まで数分しかなかったので、同じように扉がひらくのを待っている人たちのあいだで、その場で立ち尽くして五分ほど何をするでもなく待ちの姿勢を取った。そうして一〇時に至ってスタッフが扉を開けると、待っていた人々が一斉に雪崩込んでいってエスカレーターの前が少々ごった返した。乗って上階へ。八階まで上がり、エスカレーターはそこまでしかなかったので、フロアの隅の階段に向かい、もう一階上がると九階フロアをかつかつと歩いてパスポート・センターへ。入り口の横に、新規・切替の方は書類を記入して三番窓口へ、とか何とか書いた紙が掲示されてあった。それを見てからなかに入ると、LUMINE自体は一〇時に開店したばかりなのに、パスポート・センターには既に多数の人が集まっており、待合席を埋め、あるいはカウンターに向けて列を作っている。パスポート・センター自体は九時からやっているらしいのでさもありなんといった感じだが、しかしこの人間たちはどうやってLUMINEに入ったのだろうか、一階の入り口などは九時からひらいているのだろうか? それはともかくとしてこちらは案内を読みながら一〇年申請用の書類を取り、筆記台に寄って、記入例を参照して項目を一つずつ確認しながらゆっくりと書類を記入した。完成すると列に並ぶのだが、一応最後尾にいたおばさんに、申請はこちらでよろしいんですかと尋ねてみると、あたしもわからなくって人に訊いたら、申請書を記入してからここに並ぶんだって、などとぺらぺらと話してくれた。はい、はい、なるほど、などと相槌を打って受け、ありがとうございますと礼を言って彼女の後ろに並んだ。列の進みは遅々たるものである。こちらの後ろに並んだのは若い女性だったので、誰もが感じているこの暇な待ち時間を潰すために雑談でも交わしたいように思われたのだが、さすがに実際に話しかけて実行する勇気とコミュニケーション能力はない。そのうちにこちらは、例によって携帯を取り出してメモを始めた。退屈なひとときになってしまうはずの時間でこのように、片手で日記を書けるとは、携帯電話とは何と便利な道具なのか!
 そのうちに番がやって来たので、女性スタッフに――それにしても窓口受付の人は皆女性で、男性スタッフは一人もいなかったような気がする――お願い致しますと言って用紙を差し出した。いくつか確認の質問をされたのち、住所を住基ネットで調べますねと言われた。そうして古いパスポートに整理券をクリップで留めたものを渡されたので、礼を言って受け取り、待合席に就いた。そうして引き続き、背中を曲げた格好悪い姿勢で携帯を操ってメモを取った。ぽちぽちと文字を打ち込んでいるあいだに結構順番は進んで、待ちはじめた時には四〇番代だったのが、六七番まで消化されていた。こちらの番号は七三番だった。待合席は結構埋まっており、一つの長椅子に三人腰掛けている場所も多くあったが、不思議と言うかちょっと目についたのは、おそらく誰一人としてイヤフォンを耳に差していなかったことだ。待つ時間は結構あったし、自分の番が来たとしても音声以外に電光掲示板に現在の番が表示されているものだから、耳を塞いでいても特に問題はないように思われたのだったが、音楽を聞いて時間を潰している人は全然いなかった。
 それから山尾悠子を取り出して読んでいると七三番がやって来たので本を仕舞って立ち上がり、鷹揚な足取りでカウンターまで進んだ。ここでもいくつか確認事項を言われたのち、ピンク色の引換書を渡された。交付は六月一八日以降、必要はものはこの書類と、一〇年旅券に掛かる費用として一六〇〇〇円、裏にパスポート受け取りの手順が大まかに書かれているから読んでくださいねとのことだった。はい、はい、と受けながら、差し出されたこれを折り畳んでも良いものかどうか訊こうと思っていると、そうしたこちらの心中を先読みしたかのように、折っても大丈夫ですとの言が付加された。それで紙を二つに折り畳み、礼を言って立ち上がり、パスポート・センターをあとにした。そうしてエスカレーターに乗って下階へ下り、二階から駅構内へと脱出した。
 立川に来たのには、パスポートの手続き以外に、書店に寄ってついにミシェル・フーコーの『狂気の歴史』と『監獄の誕生』を買ってしまおうという目論見があった。その前にしかし、腹を満たすことにして、PRONTOに行ってスパゲッティでも食べるかと決断した。それで北口広場を越え、高架通路からエスカレーターを下り――乗っているあいだは両手を左右の手摺に乗せ、片脚を浮かせてもう片脚の上に緩く交差させるような格好を取っていた――、喫茶店に入店した。一階に客はおらず、がらがらと言って良い空き方だった。カウンターに寄ってメニューを見てちょっと考え、男性店員に、まずは茄子とベーコンのトマトソースのパスタを注文し、それと、と一息置いてから、ジンジャー・エールは出来ますかと尋ねたが、昼間は扱っていないとのことだったので――この要求に応えてくれる店員とそうでない店員がいる――それではアイス・ココアのレギュラー・サイズを、と頼んだ。九七〇円。千円札を出して釣りを受け取ると、店員はアイス・ココアを拵えに入る。ホイップ・クリームを乗せてもよろしいですかと訊かれるので、はいと肯定し、出来上がったものを深緑色のトレイに乗せて受け取った。バッグを脇に挟んで、両手でトレイを持ち、入り口横の四人掛けの席へ。食べたら長居せずにすぐに退店するつもりだったし、客もさほど来ないようだったから、一人で悠々と四人掛けを使わせてもらうことにしたのだ。ココアの上のクリームをストローで掬って食い、余りを突いて褐色の液体に混ぜて吸っていると、パスタが届いたので礼を言って受け取った。そうしてフォーク一本をくるくる回しながら茄子とベーコンのトマトソース・スパゲッティを食す。入ってくる客を眺めたり、客らと店員とのやり取りを耳にしたりしながら黙々と食べて完食すると、ココアも飲んで、トレイや食器を片付けようと立ち上がった。すると同時に店員が、こちらの姿は見えていなかったと思うのだが気配を察知したのだろうか、カウンターの裏から現れて、引き取ってくれたので礼を言い、退店間際に後ろを向いてさらにごちそうさまでしたと付け加えて、自動ドアをくぐった。
 通りを歩き、交差点の角を曲がって、高架歩廊へ階段を一歩一歩上がって行った。そうして歩道橋を渡り、左に折れて高島屋に入館。入り口脇に店を構えているPaul Smithの品をちょっと見てみたい気持ちがあるのだが、どうせ高いのだろうからと振り切り、エスカレーターに乗って淳久堂を目指した。六階で降りて書店に踏み入り、早速哲学・思想のコーナーを見分した。新刊書の区画に、東浩紀の『テーマパーク化する地球』が並べられていたので、新刊を出したのか、これは知らなかったと注目した。と言って東浩紀の著作はまだ一冊も読んだことがない。『存在論的、郵便的』は持っていて、『ゲンロン0』も積んであり、雑誌の『ゲンロン』で言えば浅田彰のインタビューに惹かれて買った『ゲンロン4』も――浅田へのインタビュー以外は――まだ読めていない。それから、哲学概論のあたりをチェックする。書店に来た目当てはフーコーの著作以外にももう一つあって、それは『世界の語り方』という東大のエグゼクティブ何とかプログラムみたいな企画から出された二冊本である。先日小林康夫との共著『日本を解き放つ』を読んだ中島隆博が編者を務めていて、以前から何となくちょっと気になっていた著作ではあったのだが、中島の該博な知見に感心したのでこちらも読んでみようかと思ったのだった。概論の区画から件の品を発見し、ひとまずこの二つを横の並びから取り出して並んだ本たちの上に寝かせて置いておき、そうして振り向いてフーコーの区画を見分した。分厚い『狂気の歴史』は六〇〇〇円だか七〇〇〇円くらい、『監獄の誕生』も五〇〇〇円台に乗っていて、さすがにこれらを二つ一遍に買うことを考えると怯んだが、ええい、ままよとばかりに心を固め、『世界の語り方』と合わせて四冊を持ち、それらの重みを腕に感じながらレジに行った。レジを担当してくれた女性店員は、ちょっと声が低めで芯があると言うか、ちょっと格好良いような感じの声色の人だった。合わせて一七八二〇円。また大層な散財をしてしまった。しかし、少なくともフーコーの著作は買って手もとに置いておく価値がきっとあるだろう。緑の不織布の袋に入れられた書物を受け取り、礼を言ってカウンターの前から離れ、エスカレーターに乗った。そうして下降していき、二階で降りて、「軽井沢シャツ」――この店も以前からちょっと気になっている――の前を通り過ぎて出口へ。
 退館すると片手でバッグと袋とを両方持ちながら高架歩廊を行き、駅へ。人波のあいだをくぐって改札を抜け、直近の青梅行きは六番線だったが、座って帰るかということで一番線ホームへ。芳しい匂いの湧出している焼きそば屋の前を通り過ぎて下りて行くと、既に電車はやって来ていたので一号車に乗り込んだ。そうしてふたたび読書を始めたが、発車したあとは例によって眠気に苛まれることになったので、途中から本を読むのは諦めて頁を閉ざして膝の上に置き、横の仕切りに凭れ掛かって微睡みに身を委ねた。しかし一駅ごとに目を覚ましながら揺られて、青梅に着くと降車した。奥多摩行きは向かいの一番線ホームに既にやって来ていた。乗ると優先席に座り、荷物は隣の席に置いて、そのなかから『狂気の歴史』を取り出し、序言や訳者あとがきなどを瞥見した。そうこうしているうちに最寄り駅に着いたので降り、駅舎を抜けて坂道に入った。坂を下りて行って平らな道に出て、家の近くまで来ると、林の縁に旺盛に伸びた緑の草ぐさのなかに雀が何匹も突進するように飛んでいき、草にぶつかったと思うとすぐにまた場所を移しては鳴き声を降らせていた。
 鍵を開けて家のなかに入り、自室に帰るとコンピューターを立ち上げ、カーディガンを脱ぐとともにTwitterをひらき、「ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』と『監獄の誕生』を買ってしまった」と誰に向けたわけでもない報告を流して、煉瓦色のズボンを脱いで収納に吊るした。そうしてハーフ・パンツを履き、上は赤褐色の幾何学的な模様の入ったTシャツのままで、しばらくTwitterを眺めたりしたのち、日記を書きはじめた。BGMはJose James『Blackmagic』、その後同じくJose Jamesの『Lean On Me』に繋げて、ここまで綴ると午後三時が目前だ。
 そうして三時ぴったりから、Michael Stanislawski, Zionism: A Very Short Introductionを読みはじめた。ベッドに乗り、薄布団を身体の上に掛け、眠気の幽かな濁りを意識に感じつつ、手帳や辞書をたびたび持ち替えながら英文を追った。一九九三年九月一三日のパレスチナ暫定自治政府原則宣言(the Declaration of Principles on Interim Self-Government Arrangements)、いわゆるオスロ合意調印についてちょっと触れられていたので、日付と事柄を手帳にメモし、また書抜き箇所として頁も記録しておいた。シオニズムパレスチナ関連の文献では、大学時代に買って以来もう今までに二回か三回読んでいるはずだが、エドワード・W・サイードの『ペンと剣』及び『文化と抵抗』をまた読み返したいところだ。インタビューを集成した本で、オスロ合意に対するサイードの冷静な批評的意見も確か含まれていたはずである。
 一時間英語を読んだのち、FISHMANS『Oh! Mountain』とともに今度は渡辺守章フーコーの声――思考の風景』の書抜きを始めた。コンピューターの前に座ってこちらも一時間ほど打鍵を進めて五時を越えると、一旦上階に行った。勤務に向けてエネルギーを補充しておく必要があったのだ。母親はソファに就いて『しゃべくり007』の録画を眺めていた。冷蔵庫のなかに煮込み素麺があることを知っていたので、台所に入ってそれを取り出し、火に掛けた。搔き混ぜながらいくらか熱したあと、丼にすべて流し込んでしまい、卓に就いて食べはじめたが、充分に温まっていなかったのでさらに電子レンジに突っ込んだ。そうして食事を取りながら、『しゃべくり007』を視聴して少々笑いを漏らし、食べ終えると台所に食器を持って行って、それから引き続きテレビを眺めながらアイロン掛けをした。仕事が終わると、母親に夕食はどうするのかと訊いた。俺はやらなくて良いかと横着して尋ねると、肉じゃがはと言うので、肉じゃがなんて面倒臭いものはやっていられないと払って、もう仕事着に着替えてしまおうと下階に戻った。便所で腹を軽くしてから細かなチェック模様のワイシャツを身につけ、灰色のスラックスを履く。ネクタイは水色の、ところどころ斜めに線が入っているシンプルなものを選び、首もとを固くしたあとベストも羽織った。それでそれまで着ていたTシャツを上階に持って行っておき、そうして戻ってくるとEnrico Pieranunzi, Paul Motian『Doorways』とともに日記に取り掛かって、ここまで綴れば六時八分となっている。出勤までのあいだはまた書抜きでもしようか。
 仕事着姿でコンピューターの前に立ち尽くし、渡辺守章フーコーの声――思考の風景』の書抜きをした。と言っても、書き抜いている箇所で専門家たちが語っていることが一体どのようなことなのかいまいち理解はしきれないのだが、ともかく二箇所を写すだけは写しておき、そうして時刻は六時四〇分を越えたのでそろそろ出勤することにした。上階に行き、便所に入って放尿し、母親に行ってくると告げて黒傘とともに玄関を抜けた。左手の手のひらを上に向けて落ちるものの感触を探ってみたところ、雨はもう降っていないようだった。頑張ってね、との母親の声を背に受けて歩き出すと、空気がなかなかに涼しい。傘とバッグを片手に坂をずんずん上って平らな道に出たあとも、吹き流れてシャツに覆われた腕を通過していく風のなかに含まれた涼しさがなかなか強いように感じられた。T田さんの宅の前に、ピンク色の紫陽花が膨らんでいた。街道に出た頃には、やはりそのあたりまで歩いてくると身体が温もって、ベストやシャツの内に蒸すような感覚が生まれていて、正面から来る風がそれを冷やす。通りを渡って北側に行くと、民家の脇に青色の萼紫陽花がいくつか生えており、粒粒の集合を中央に据えてその周りに蝶が舞っているような形の花をいくつか浮かべたその不思議な形を見て、何となく宇宙生物のようだなと思われた。それから歩いていると、「紫陽花は宇宙から来たお友達」という短歌の上の句が思いついたので、バッグから携帯電話を取り出し、歩きながらメモしておいた。頭の内にはBlankey Jet City "ガソリンの揺れ方"が流れていて、この曲はこのあとの道中でもたびたび脳内に回帰してきた。
 老人ホームの通りに面した窓はもうカーテンを閉められていて、暖色が穏やかな灯りが洩れてくるばかりでなかの様子は窺えない。そのあたりに差し掛かった頃、鼻の上にぽつりと一つ、雨粒が落ちてきた。裏通りに入るとアパートの周囲の垣根の葉が微風に揺れ、民家の庭木も、それほど強い風でもないのにわさわさと震えている。その動きの形容を探して、不吉なような揺れ方だなと思ったのだったが、そう思って過ぎながら、果たして自分は本当にそのように感じているのだろうかという疑問が湧いた。不吉さの意味素を感じたのは確かだろうが、感情としてそれを感得したわけではない。つまりこの場合、「不吉」という形容はこちらの内面、主観性を表すものではなくて、どちらかと言えば客体的世界の方の属性として提示されたものであるわけだが、自分はものを見る時、「自分がどのように感じたか」という基準で見ていると言うよりは、「それがどういう言葉で書けるか」という判断基準によって言葉を浮かべているような気がした。言葉にならない感覚をを四苦八苦して言語化すると言うよりは、世界そのものが第一段階として「書かれるもの」としてあり、ある意味が言語化されることによって遡行的に、事後的にそれを感じたことになる、というような構図だろうか。それはある意味素を本当に感じておらず、嘘をついているとか、脚色をしているとかいうこととは違うと思うのだが、これを換言すれば自分はこの世界そのものを一つの「フィクション」として捉えているということなのではないか、と考えた。そもそも言語的秩序と世界そのものの秩序は測り知れないほど異なっているわけで、言語に移行されたものはそれが実体験を元にしていようが想像力の産物だろうがおしなべて「フィクション」と呼ぶことが出来るのだ、という立場もあり得るわけで、自分もどちらかと言えばこの立場に傾きたいような気がするのだが、ここで言っているのはそれともまた別の話であるような気がする。つまりは世界は自分にとって「感情」として現れるのではなく、「意味」としてあるいは現前してくる、ということだろうか? よくわからないが。
 ともかくもそのようなことを考えたり、"ガソリンの揺れ方"を思い浮かべたり、短歌の案を頭に巡らせたりしながら裏通りを歩いていった。青梅坂に差し掛かる頃には脳内の音楽は"ロメオ"に移行していた。坂の向こうに続く裏道から出てきた車のヘッドライトのなかに落ちる雨粒の情景で、雨が思ったよりも、身に感じられるよりも厚く振っているなということがわかったので、坂を渡ってしばらくすると黒傘をひらいた。
 市民会館跡の施設を過ぎたところに天麩羅屋があるのだが、そこに掛かった頃合いに、道の先を何か暗く茶色い色の塊が横切って、天麩羅屋の脇を通り抜けていった。どうも猫ではなかったように見えたので、多分狸だったのではないか。通りを抜けて、駅前に続く道に入る頃には宵の青さが雲の蟠った空にも地上のアスファルトの上にも立ち籠めていて、それが時折り電灯の明かりによって乱されているそのなかに、駅内で流されているアナウンスが忍び込んできた。駅前に出て横断歩道を渡ると傘を閉ざして、職場に向かった。
 職場に入って奥のスペースに行くと同僚が一人いたのでお疲れ様ですと挨拶をした。するとあちらは、お疲れ様ですと返したあとに、挨拶がまだでしたねと言って、(……)ですと名乗ってきた。名乗り返してどうぞよろしくと挨拶すると、以前勤めておられたと聞きました、というような発言があったので、そうなんです、去年は離れていたんですけど、事情があって、と受けて、ロッカーに荷物を仕舞ったあと、誰から聞きましたと尋ねると、(……)先生の名が挙がった。彼女ももう職場にはいないわけだが、帰り道が一緒だったこともあって彼は彼女と仲良くしているらしく、それで多分最近こちらが戻ったということが多分LINEか何かで話題に出たのだろう。
 この日の授業の相手は(……)兄弟。どちらも英語。細かく書くのは面倒臭いので簡潔に済ませるが、まず一点、双子なので能力も同じくらいなのかと思いきや、月例テストの結果にははっきりとした差があって、どちらが兄でどちらが弟なのか知らないが、(……)の方が(……)よりも全体的に点数が良かった。しかし授業を担当してみた感触だと、どちらもあまり記憶力といった面では差はないように感じられる。この日の授業では、現在完了の形は、とか~~は、とかいう感じで、とにかく質問をしつこいくらいに投げかけまくった。それなので結構覚えられたと思う、少なくとも現在完了形の形は頭に入っただろう。あとは、質問をしている最中に、それまでの授業でどんな単語や表現を扱ったか、こちらが忘れてしまったと言うか、つまり即興の問題が思いつかないことがあって、あとほかに何をやったっけ、などと呟いたのだが、それを受けて生徒の方が勝手に、あと、あれをやりました、などと言って思い出してくれることがあって、これはなかなか良い方策を発見したものだ。つまり、具体的な個々の単語や表現について質問をするのではなく、折に触れて今日の授業でこれまでに何をやりましたか、というような質問を差し向けて、それまでの授業内容を思い出させる、ということをやるのもうまいやり方なのではないかと発見したのだった。
 あとは(……)先生という新人の方が、多分今日初授業だろうか、いたので、用紙の印刷の仕方だとかをちょっと教えた。帰りに七月のシフト表を記入しておいて退勤。駅に入り、奥多摩行きの発車まで二分くらいしかなかったので、小走りに通路を行き、電車に乗った。最寄り駅に着くまで扉際にバッグと傘を持ちながらただ立ち尽くしていた。降りると駅舎を抜けて、傘を差して帰路を行く。
 帰宅。帰宅後は食事と風呂とニュース記事の類を読んだのと山尾悠子『飛ぶ孔雀』を読んだことくらいしか特段の話題はない。夕食は煮込み素麺。父親がまた酒を飲んだらしく、NHKの、あれは『クローズアップ現代+』だろうか、LGBTについての番組を見ながら本当に難しいなあなどとぶつぶつ呟いていた。入浴中はちょっと眠りそうになった。入浴後、自室に戻ってくると、一一時一五分から、望月優大「ファクトで押さえる「日本の移民問題」。在留外国人300万人時代をどう捉えるか」(https://note.mu/hirokim/n/ndf03e49e263d)、「「老後へ2000万円貯めろ」麻生大臣の“飲み代”は年2019万円」(https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/255789)、「ドイツで移民擁護派の政治家射殺される、ネットに歓迎ヘイト投稿殺到」(https://www.afpbb.com/articles/-/3229196?cx_amp=all&act=all)の三つの記事を読んだ。そうして零時。山尾悠子『飛ぶ孔雀』を読み進めようとベッドに乗ったのだったが、いつの間にか意識を失っており、気づけば二時を越えていた。そのまま就床。


・作文
 2:53 - 3:59 = 1時間6分
 7:10 - 7:29 = 19分
 8:36 - 8:48 = 12分
 13:49 - 14:55 = 1時間6分
 17:51 - 18:08 = 17分
 計: 3時間

・読書
 4:31 - 5:30 = 55分
 6:29 - 6:47 = 18分
 6:53 - 7:10 = 17分
 7:48 - 8:07 = 19分
 9:23 - 9:52 = 29分
 15:00 - 16:07 = 1時間7分
 16:12 - 17:04 = 52分
 18:18 - 18:41 = 23分
 23:15 - 24:01 = 46分
 24:20 - ? = ?
 計: 4時間26分

・睡眠
 2:00 - 2:40 = 40分

・音楽

2019/6/10, Mon.

 十年ほど前に那覇で乗ったタクシーの運転手のおっちゃんは、私は奄美の人間で、沖縄は合いません、と話していた。本土の人間からすると、どっちも似たようなものだと思いがちなのだが、実は奄美と沖縄とはかなり複雑な関係にある。
 そのおっちゃんは、戦時中に朝鮮半島で生まれた。両親が奄美出身だった。小さいころに太平洋戦争が終わったのだが、彼がいた地域は「北朝鮮」となり、「朝鮮人たちからひどい扱いを受けた」という。朝鮮戦争が始まるころにようやく日本に引き揚げ、奄美に帰ってきた。彼にとっては、「はじめて見る故郷」だった奄美だが、わずか数ヵ月のうちに、当時は米軍政下で同じ「琉球」だった沖縄本島へ出稼ぎへ。その当時の那覇は、経済成長のまっただ中で、仕事がたくさんあったという。
 しかし、沖縄へ出稼ぎに来た直後、一九五二年に、奄美は沖縄より先に日本へ返還されてしまう。そのまま沖縄に残った「日本人」としての彼は、軍政下の沖縄で「外国人」として扱われてしまう。そのときから、いろいろあったのだと思う。沖縄の復帰後も、ずっと那覇に住んでいる。
 そのおっちゃんは、朝鮮で生まれ、人生のほとんどの時間を沖縄で過ごしている。奄美で過ごしたのは、わうか数ヵ月しかない。
 運転しているあいだ、おっちゃんは、何度も何度も、「私は奄美の人間ですから、沖縄は肌に合いません」と繰り返していた。
 奄美にいた数ヵ月以外は、七十年ものあいだ、ずっと「よそもの」として暮らしてきたのだろう。
 (岸政彦『断片的なものの社会学朝日出版社、二〇一五年、88~89)


 夢を見た。一つは小中の同級生であるAと帰路をともにして自宅近くの道を歩いているもの。市営住宅に帰っていく彼と別れたあと、現実にも存在する道を辿って、家々のあいだの細道を上ろうとすると、その脇に猫が何匹もいた。生まれたばかりの赤子の猫が数匹いて、そちらに向けて手を伸ばしてあやしているあいだに目が覚めた。もう一つはギャルじみた女性とディープ・キスをするエロティックな夢。興奮という感じはあまりなかったと思うが、幸福な夢ではあったと思う。キスをして舌を絡み合わせているあいだに、射精したような覚えがあるのだが、起きてから股間をまさぐってみても特に濡れてはいなかったので、あれは夢のなかだけのことだったらしい。一〇時二〇分頃起床した。
 上階に行くと炊飯器が稼働しており、あと一一分で炊けると表示されている。訊けば、穴子飯を作ったのだと言う。白米の方が鶏肉のおかずと一緒に食えるので良かったが、ともかく炊けるまでのあいだに前日の記録を付けたりするかというわけで一旦自室に帰り、コンピューターを起動させて六月九日の記事をひらき、日課の記録を記した。それからこの日の記事も作ったあと、早速日記を書きはじめて、一〇分で前日分を仕上げてここまで綴った。現在は一一時を目前としている。
 ブログやTwitterに前日の記事を投稿したあと、食事を取りに上階に行った。冷蔵庫から味噌汁の鍋を取り出して火に掛け、同時にケンタッキー・フライド・チキンの残りも取って皿に置き、電子レンジに突っ込む。穴子飯をよそりながら味噌汁の加熱具合を確認し、搔き混ぜながら熱して椀に盛るとそれぞれ卓に運んだ。テレビはニュースを映していた。塩気のある鶏肉を賞味し、甘やかな白菜の味がよく出ている味噌汁を飲んで、食事を終えると抗鬱剤を服用した。それから台所に行って皿を洗ったあと、洗面所に入り、櫛付きのドライヤーで頭の全体を軽く梳かし、さらに整髪ウォーターを後頭部に吹きつけたあと同様にドライヤーを操って寝癖を直した。それから電動髭剃りで口の周りを綺麗にしたあと、小さな鋏でもみあげの毛をちょっと切り、身支度を終えるとそのまま浴室にも入って、風呂を洗ってしまうことにした。洗剤がなくなっていたので、詰替え用のパックの封を切り、小さな注ぎ口をボトルの開口部に差し込んで液体洗剤を押し出していく。空になったパックは浴槽の縁の端に置いておき、新たな洗剤を吹きつけて風呂桶をブラシで擦り洗った。そうして出てくると下階に戻り、Blankey Jet Cityの数曲――"僕の心を取り戻すために"、"ロメオ"、"ガソリンの揺れ方"――を流して下手くそに歌ったあと、引き続きBlankey Jet Cityの『LIVE!!!』を流しながら読書ノートへのメモを始めたのが正午を回ったところだった。コンピューターを閉じてその上にノートを載せ、左手には渡辺守章フーコーの声――思考の風景』をひらいて文言を記録していく。外では雨が変わらず降り続いていた。時折り歌を口ずさみながら記録を続け、一時間強行って切りがつくと手帳に時間を記録しておき、歯磨きをした。音楽もちょうど終わったのでFISHMANS『Oh! Mountain』を流しだし、葬式に向けて衣服を着替えた。白いワイシャツを身につけ、真っ黒なスラックスも履き――こちらはウエストの太さが調節できるタイプで、直さなくてもサイズを緩くすれば丁度良く入ったので良かった――、上階に行って黒のネクタイを締めていると母親がやって来て、こちらのシャツが随分大きくて弛みが寄ってしまうと指摘する。さらに加えて、こちらは何故かそうではないと思いこんでいて気づかなかったのだが、着ていたこのシャツがボタンダウンであることが明らかになり、それでは駄目だと相成った。それで代わりのシャツを探したのだが、情けないことに礼服用に着られる真っ白なワイシャツの一枚もこちらは持ち合わせていない。仕方なく父親に借りることにして母親とともに両親の衣装部屋に向かい、そこに吊るされたたくさんのワイシャツのなかから袋に包まれた一枚を選び取って上階に上がり、洗面所で歯磨きをしていた父親にこれを借りても良いかと了承を取った。それで居間の南窓に寄り、そぼ降る雨の風景を眺めながら改めてそのシャツを身につけ、鏡の前に移ってネクタイを締めた。そうして下階に戻るとジャケットも羽織ってしまい、コンピューターの前に立ったままの姿勢で日記を書きはじめた。音楽が"ひこうき"に差し掛かってまもなく、こちらを呼ぶ声が聞こえた気がしたので、音楽を止めて呼んだ、と上階に向かって声を送ると、父親がそろそろ行くよと答える。はいと応じて日記の作成を中断し、一時五八分を記録しておいて、財布と携帯、それに山尾悠子『飛ぶ孔雀』の入ったクラッチバッグを持って上階へ行った。父親は先に外に出て行って車の準備をした。あとからこちらも玄関へ行き、靴べらを使って靴を履くと、上がり框に座りこんで艶出しスポンジで靴の表面を撫で磨いた。そうして大きな黒傘をひらき、柔らかな針のように降る雨のなか外へ出て車に寄り、荷物を後部座席に置いてから助手席に乗った。傘が大きいために座席とダッシュボードのあいだのスペースに収めるのに苦慮し、シートやスラックスにたくさん水滴をつけてしまった。父親がタオルを寄越してくれたのでそれで拭く。そうして母親がやって来ると、Y子さんが乗るからとバッグもこちらに寄越されたので受け取り、足もとに置いておく。そうしてじきに発車した。
 市街を抜けていくあいだ、ラジオでは算盤の話がなされていた。算盤経験者は暗算の際に頭のなかに玉が思い浮かんでそれが動くとかそういった話である。こちらも小学生の時分算盤を習っており、自分もそうだなと思っていると、Nの踏切りに差し掛かったあたりで父親が、お前も浮かぶかと訊いてきたので肯定を返した。はっきり浮かぶのと続いた言には、ぼんやり浮かぶと答えた。その後、ラジオには一〇桁もの暗算が出来るという算盤マスターの女性が登場していた。その人は話しながらその場で即興で、何十何万何々足す何十何万何々足す……と数桁の数字を四つ五つ並べて問題を拵え、しかもそれを言うのと同時に計算もしていて、口にし終えた時には正しい答えがもう出ている、というような感じだった。
 小作駅に到着。マクドナルドの前のガードレールの外側に停まってしばらく待っていると、Y子さんが駅の階段を下りてやって来たので、窓を開けて呼びかけた。傘を差さずに屋根のない空間をやって来るので、濡れさせてしまって、という意味合いを込めて、笑みを浮かべながらすみませんと続けて口にした。後部座席に乗った彼女は、Sくん、しばらくですと言うので、どうもと振り向いて挨拶し、先日はお墓参りにありがとうございましたと礼を述べた。こうして今日Y.Hさんの通夜に出てきたことも、偉いとかありがとうとか言われるので、とんでもない、と恐縮して受けた。そのあとY子さんは父親にも呼びかけて礼を言い、それに応じて父親の方もとんでもない、とこちらと同じ答え方をしていた。話は初め、ありがちなことで天気のこと、しとしとと降り籠めているこの日の雨のことから始まって、母親が、この雨のなか家の近くで電気屋が高所作業用のクレーンを使って電線の配線を取り替えるか何なのかわからないが何か作業をやっていたと感心したことを話し、そのうちにY子さんの家に来る植木屋の話に移った。そう、高所作業は危ないという所感から、うちに来る植木屋ももう二、三度、高いところから落ちて怪我をしているのよ、という話題に移行したのだった。その植木屋が朝の早い人で、午前六時にはもうやって来る、それに対応するために五時にはもう起きていなければならない、しかもそんなに朝早くから作業をするとうるさいでしょう、だから近所から苦情が入ったことがあって、もう少し遅くしてもらった方がいいって言われたの、でもやっぱりそうやって朝早くから来てくれるのを断れないでしょう、などをいった話が展開された。Y子さんはよく喋る婦人である。
 そうこうしているうちにSホールへ到着した。建物の脇、側面入口の傍で父親以外の三人は降りて、父親は車を駐車場に入れに行った。自動ドアを一つ入った中途半端なスペースで父親を待っていると、Y.Tさんがやって来たのでこの度はご愁傷様ですと皆で挨拶をした。そのあとから奥さんと娘さんもやって来たのでふたたび挨拶をして、それからしばらく父親を待ったあと、なかに入った。エレベーターに乗って三階に上がり、控え室に入ったところ、なかは知らない人間ばかりである。のちにY子さんや母親に教えてもらって把握した親族関係をここで一遍に記しておくと、まず故人Y.Hさんの息子が喪主のTさん。その奥さんはJ子さんという茶髪の方で、この人は母親もY子さんもあまり付き合いがなかったらしく、名前を訊いても詳らかにしなかったので、あとで母親が控え室での待ち時間のあいだに名前を尋ねて、それでJ子という名が判明した。その夫婦の娘が小学六年生のJちゃん、この子は最初Y子さんに話しかけられてもあまりうまく対応しないと言うか、顔を伏せて黙り気味にしていて、引っ込み思案な子なのかと思ったのだが、あとの待ち時間のあいだにはもう少し活発そうな様子を見せていた。次に、Hさんのもう一人の子供、Tさんの妹であるMさんがいた。この人の旦那さんがBさんと言って、沖縄出身のアメリカ人とのハーフで、大層恰幅のある大男であった。その息子が中学三年生のBくん(父親と同じ発音の名前である)、この子も線が細めで顔はにきび面で、父親の大柄さとは対照的に決して社交的とは言えなさそうな雰囲気だった(のちに納棺式の際には、母親から順番を促されても躊躇するような様子を見せていた)。それがHさんの息子娘の家族、次にHさんの妹が二人いて、上の方の妹がS.Nさんという方で、この人は話によるともういくらか頭が呆けているらしかった。もう一人の、下の方の妹がK.Kさんという人で、この人は頭の方はまだ大丈夫なのだが、耳がだいぶ遠くて、人の発言がよく聞こえないようで、何かを言われた際にはたびたび、うん? と言って顔を傾け差し出す素振りを見せていた。そのKさんの娘さんがIさんという人で、宇治に嫁いだと言う。母親のKさんの方もどこかそちらの方に嫁いだ人なのだろうか、この二人は京都弁――なのだろうか、ともかく関西の言葉で話し合っていた。そのほか、こちら、こちらの両親、I.Y子さんという顔ぶれなので、全部で一三人だろうか。
 控え室のなかに入って挨拶し、座布団の一席に座りこんで、父親が、すみませんけど脚を崩させてもらいますと言って胡座を搔いたのに倣ってこちらも胡座に構え、色と味の薄い緑茶を飲んでいるとお呼びが掛かった。三時五分前だった。控え室を出て、一同でエレベーターへ乗り、あれは何階だったのだろうか、二階にはそれらしき部屋はなかったように思うから、一階だったのだろうか? ともかく、多分下階に下りて行き、順番に遺体の置かれた小部屋のなかに入った。革靴を手で掴んで脱ぎ、皆の靴と並べて置いておき、室に入ると、入った口から見て部屋の右奥に遺体が寝かされ、その周囲に男性と女性のスタッフが一人ずつ控えていた。部屋の左側には座布団と椅子が用意されていて、こちらはそのなかの中列に就いた。椅子はこちらの両親やY子さんや、腹が大きすぎて正座が出来ないのだろう、Bさんが利用していた。
 納棺式はまず末期の水を唇に付加することから始まった。喪主から順番に、先に髪か毛か何かついた筆のような棒で、遺体の唇を湿らせていくのだ。BさんやY子さんは、遺体に近寄った際、良い顔だとか何とか声を掛けていた。こちらは無言で、しかし作業の初めと終わりに丁寧に合掌して哀悼の念を示した。次に湯灌である。こちらの祖父だか祖母だかの時は――あれはどっちだっただろうか?――家まで業者がやって来て、大きな風呂桶のような容れ物に遺体を入れてシャワーでじゃぶじゃぶ洗ったものだが、ここで行われたのは簡易的なものだった。女性スタッフが顔にクリームを泡立てつけて髭を剃り化粧を施しているあいだに、ふたたび順番で一人ずつ、タオルを使って手と足を拭いていくのだった。Y子さんやHさんの妹たちは泣いており、母親も涙声になっていた。このあたりの女性陣の感じやすさと言うか、泣くべきところでは素直に安々と泣き、そのあとは打って変わってけろりとしているという変わり身の速さは、何と言うか凄いものだと思う。父親はお疲れ様でしたと声を掛けていた。そのように皆が手足を拭いているあいだ、こちらは情けなくも正座を続けるのが苦しくなって、膝立ちになって頭を前の列の人々の後ろから出し、泡を塗られ髭を剃られる遺体の顔を眺めたりしていたのだが、Bさんも立ち上がっていた時間があった。こちらの父親も立ったり座ったりで、こちらもそれに倣って一時立ち上がって部屋の隅に控えていた時間もあった。その後、死出の旅の道具を身につけさせる段に。足袋と脚絆、あとは忘れた。腕にも何かつけていたと思う。化粧は一度完成した時点で、Mさんが、もっと色が黒かったと言い、もう少し明るくというリクエストがなされたので、さらに赤味が足され、すると皆良い顔になったと満足したようだった。それから棺を囲み、遺体の下に敷かれたシーツを皆で持ち、故人を持ち上げて納棺。その後ドライアイスなどが入れられたあと、ふたたび棺を囲んで最後の別れとなった。掛け布団を皆で掛ける。こちらも手を出して布団の端を掴み、掛けてあげ、裾を丸めて遺体をくるむようにした。そうして衣服が入れられる。緑と赤のチェックのシャツが出てきたので、洒落てますねとTさんに声を掛けたが、でもあの人はね、これじゃないんだ、なんて言うんだよきっと、などと言っていた。シャツのあとはスラックスを遺体の上に置き、さらに帽子と眼鏡が加えられた。眼鏡は火葬出来ないので、直前に取り除くまで入れておくとのことだった。
 それで納棺式は終了した。退室していく一同のあとに残ってこちらは遺体に近寄り、その顔をまじまじと眺めた。するとY子さんが、顔見たことある、と訊いてきたので、勿論、と答える。おばさんと一緒に何度も我が家を訪れていたのだ。お小遣いもらったりもしたもんね、とこちらは覚えていないが母親がそう言う。遺体の顔は安らかそうで悪くないものだったと思う。最後に退室し、靴べらを使って革靴を履いたあと、一度棚の上に置きかけたのだが、男性スタッフがあとに残っていることに気づき、使いますかと尋ねかけた。相手は恐縮したようにいえいえ、と答えたので、すいませんと薄笑みを浮かべながら棚の上に道具を置いた。
 ふたたびエレベーターに乗って三階へ上がると、控え室の入口前で、Bさん、母親、Y子さんの三人の立ち話が始まり、こちらも何となくそこに加わって大方黙って話を聞いた。Bさんは沖縄出身のハーフらしく、携帯電話で写真を見せてもらった父君はおそらくアメリカの軍人だったのではないか。沖縄の話が話題に上がった。先般Bさんが沖縄を訪れた時に残念だったのは、海が汚くなっていた、自分の知っている海ではなくなっていたことだと言う。それに続けて、埋立てはいただけないと彼は口にした。辺野古基地建設の問題だろう。あれは元の場所で大丈夫なんですよ、と彼は言った。そう言う根拠は不明確だったが、あの周りは――彼は一度も「辺野古」とも「普天間」とも「名護」とも「宜野湾」とも口にしなかった――山みたいになっていて、大丈夫なんですよとよくわからないことを言っていた。それに、その場に住んでいる人は飛行機の騒音などもう慣れているのだとも主張して、自分も子供の頃から頭の上絵を飛行機が飛んでいたから何でもない、横田に来て周りの人が基地がうるさいと言っているので、沖縄の方がもっとうるさかったと驚いたくらいだ、と話した。反対運動でうるさいのは地元民ではなくて周りの人なんですよね、とも言っていたけれど、果たしてどうだろうか? 普通に普天間の周辺、その近くに住んでいて騒音被害に苦しんでいたり、頭上から何かが落ちてくるのではないかという不安を抱えながら暮らしている人だって大勢いるのではないだろうか? そういう人たちの言い分だってあるだろう。話を聞く限り、彼は辺野古に新基地を建設する必要はないという立場らしいが、彼の場合それが同時に普天間の固定化をも意味しているわけで、それはこちらは賛同できない、何しろ普天間基地というのは聞くところでは、米軍の安全基準に基づくと基準違反となるような類の危険な基地で、その周辺は本来はクリアゾーンと言って公共施設や病院などを造ってはいけないような地帯になっているはずだと言うのだから。かと言って辺野古が代替案として充分なものかと言うとそうではなさそうに見えるわけで、少なくとも現行の計画では滑走路が短すぎて――一八〇〇メートルとか一六〇〇メートルとか言っていたと思う、ちなみに普天間の滑走路は二六〇〇メートルほどだったはずだ――緊急時の任務の使い物にならないという話を聞いたことがある。例の、「サンドコンパクションパイル工法」とかいう例の地盤工事、七〇メートルだか九〇メートルだかの砂の杭を六万本だか七万本だか打ち込まなければならないというのも途方もない手間が掛かるだろう。そういう問題もあるから、工期や費用における国の試算と県の試算は大きく食い違っていて、国の方では五年で二四〇〇億円の工費で造れるという見込みだったはずが、県の試算によればそんな数字はとんでもない、一三年間及び二兆五五〇〇億円掛かると見込まれているらしい。普天間が駄目なら辺野古しかない、あるいは辺野古が駄目なら普天間で良いという二者択一の思考硬直を打破し、普天間でも辺野古でもない第三の選択肢を――本土移転も含めて――考えなければならないはずだと思うのだが、現今の状況はそういう流れにはまったくなっていない。そもそも、沖縄の海兵隊駐留に戦略的必然性はないという指摘も一部でなされている(「「戦略的必要性ない」 在沖海兵隊に元米軍高官言及 90年代分析 日本の経費負担好都合」(https://ryukyushimpo.jp/news/entry-852864.html))。沖縄に海兵隊が駐留しているのは、例えばそれがカリフォルニアに駐留する場合よりも経費が格段に安くなるためだと言うのだ。在沖海兵隊の「抑止力」は機能しないのかという疑問も上がるのだが、この記事で紹介されているローレンス・ウィルカーソンという専門家の発言によると、「仮に朝鮮半島で有事が起きた際でも在沖海兵隊の派遣は「戦闘が終わってからしか現地に到着しないだろう。60万人の韓国軍にとって微少な追加でしかなく、戦略的理由はない」」ということらしい。この主張がどこまで正確で的を射たものなのか、知識のないこちらには判断がつかないけれど、こういう意見もあるという一点は頭に留めておくべきことだろう。
 話がだいぶ逸れた。横田の話からオスプレイのことに話題が及んで、Bさんはあれは確かにうるさい、と言った。事故の多さに関しても、パイロットの友人に訊いてみたのだが、オスプレイという垂直離着陸機はベテランの飛行機のパイロットでも運転出来ない、ヘリコプターの方のパイロットでも難しい、あの機体専用の技術を身につけなければならないという話だったと言う。そんな話をしているうちに、じきに控え室から人々が出てきて式場の方に向かいはじめた。そこで立ち話は解散となり、式場に入って順番に一人ずつ線香を上げていくことになった。こちらは線香を上げ終えたあと、手前の焼香台に置かれていた小さな遺影写真を近寄って見つめたが、顔に皺を寄せて口をきっとへの字にしているものだったので、厳しいようですねと言って笑った。するとY子さんと母親も同意して、もっとにこやかな、良い写真がありそうなものだと文句をつけはじめた。そこから女性同士の立ち話が始まって、こちらもしばらく聞いていたのだが、じきに式場の外に出ると、そこでも父親がスタッフと雑談を交わしていた。今は会社で葬儀の知らせが回ってきても、全部、家族葬だから参列はお控えくださいとかそういうのばかりですよ、といったような話だ。それからちょっとすると女性二人も式場から出てきた。時刻は四時前、六時の通夜式開始までまだかなりの時間が余っている。そのあいだの時間、どうしていようかと来る前にも言い合っていたのだが、ひとまず二階にラウンジがあると言うので、そこに行ってみることになった。
 それでエレベーターで移動したのだが、ラウンジなどと言ってもフロアの隅に丸テーブルの席がいくつか用意されているだけのものである。コーヒーを提供するスタンドも一応あるようなのだが、この時は「CLOSED」の札が掲げられて閉まっていた。喫煙所のなかに自動販売機があるようだったので、こちらは財布を持ってそこに行き、オレンジジュースを一本買った。それで席へ戻ると、母親とY子さんは温かいものが飲みたいと言うのだが、もう一度自販機を見に行くと温かい飲み物は一つもない。それで控え室に戻るかどうするかと言いながら、しばらく話した。話していたのは例によって女性二人が中心で、その話題も、控え室で出された茶が随分と薄かったなどと文句をつけるものである――勿論それほど険のある顔つきで話し合っていたわけではなく、にこやかに笑いながらの愚痴のようなものだったが。それでやはり控え室に行ってお茶でも貰おうということになったのだが、その前に親族関係がわからないからとY子さんや母親に尋ね、簡易な図を手帳にメモした。そうしてからふたたびエレベーターに戻って控え室へ。テーブルの端に就き、オレンジジュースを飲んでいると、母親がMさんに向けてこちらを、うちの次男ですと急に紹介するので、慌ててかしこまり、この度はと挨拶をした。まもなく一度家に帰った――犬に餌をやる時間なのだということだった――Bさんらが買ってきたのだろうか、茶菓子が届き、コーヒーも用意された。こちらはジュースがあったので、Y子さんにコーヒーを譲り、それから雑談が成された。こちらの右方で母親やY子さん、Mさんらが話している一方で、こちらから卓を挟んで向かいでは京都の母娘が二人で、関西人らしく勢いとテンポの良い話しぶりで談笑していた。関西特有のイントネーションや歯切れの良さ。
 じきに、今これは一人になって日記を書くチャンスなのではないかと気がついた。それで缶ジュースを飲み干し、一人密かに控え室を抜けた。階段を下り、フロアを横切って喫煙所に入り、缶を捨てておいてから誰もいない静寂のなか一人で席に就き、携帯にひたすらメモを取った。現在時に追いつかせるためには、四時過ぎから始めて五時半前まで掛かった。五時半には控え室に戻ろうと思っていたので丁度良かった。便意と尿意を感じていたのでその前にトイレに行き、個室に入って腸と膀胱のなかを軽くした。それから階段を上がって控え室に戻ると、Y子さんが、Sくん、どこに行っていたのと訊いてきたので、ちょっと下でゆっくりしていましたと笑った。それからまたしばらく雑談をしたあと――と言ってもこちらは大方黙っていたわけだが、こういう時、Y子さんや母親が何も言わなくとも自分から喋ってくれるのには安心すると言うか、彼女らがいて良かったなという気になる――六時が近づいたので皆控え室を出た。受付のところにいた父親がこちらを招く素振りを見せたので近づいていくと、手伝ってくれと。了承する。それで父親が芳名カードと香典を合わせて受け取り、こちらはそれを受けて香典とカードに番号を振っていき対応させ、中身を確認して金額をカードに記録する役目を仰せつかった。しばらく袋をひらいては戻し、カード上にペンを走らせる。そうして六時になって開式。
 僧侶が経を読んでいるあいだのことは特に覚えていないと言うか、動きはほとんどなかった。坊主の声と、木魚ではなくてあれは何と言うのだろうか、僧侶の左側に置かれた大きな鐘のような道具があると思うが、それが時折り鳴らされる響きとが式場に渡るなか、こちらは父親と並んで受付台の後ろに立ち尽くし、ぼんやり前を向き、視力の悪くいくらかぼやけた視界で式場のなかの様子、僧侶や参列者らの背を眺めていた。記念写真って良いよね、大勢の人が全員同じ一つの方向を向くことなんて記念写真くらいしかないもんね、という言葉を誰かが残していたと思うが、葬式の際に僧侶が経を読んでいるあいだという時間も、参列者は皆ぼんやりと前を向いてじっと時が過ぎるのを待つほかないのではないか。式が始まってからやって来た人々が三人いた。女性二人に男性一人だったが、この人たちの続柄はよくわからない、ただあきる野市に住んでいる人たちだったようではある。彼女らが差し出したカードをこちらと父親が受け取り、こちらはふたたび椅子に座って、カードと香典袋に番号を振り、金額を記入した。それから焼香の時間がやって来た。木魚をぽんぽん叩きながらの読経のなか、参列者全員が終えたあと、我々のうちからまず父親が焼香に行き、入れ替わりにこちらが式場に踏み入った。こういう場では少々勿体ぶったような振る舞いを取ったほうが様になるものである――と別に心底からそう思っているわけではないが、礼服を着ているからか自然と鷹揚な感じの歩調身振りになって、左右の参列者にゆっくりと礼をした。焼香をしたあと、前方の遺影に視線を合わせ――目が悪いのでぼんやりとしか見えないのだが――手を合わせて故人の冥福を祈った。そうしてふたたび左右に鷹揚に礼をして、式場を抜け、受付台の背後へ戻った。それからしばらくすると読経が終わり、僧侶の法話――と言って良いのか?――である。書き忘れていたが、焼香の前にTさんによって喪主の挨拶もあった。本日はお足元が悪いなかご参列くださりありがとうございますとの定型句が導入されたあと、父は八年間癌と闘って、その果てについに力尽きたような具合だったのですが、私は父は病に勝ったと思いたいですというようなことが語られ、さらに残された遺族もこれから仲良く助け合っていきたいと思うのでよろしくお願いしますと短く終わり、最後に一言だけ、と付け足されて、親父、お疲れ様でした、ゆっくり休んでくださいと述べられた。それで僧侶の話なのだが、この喪主挨拶の、病と買ったという言葉を引いて、まさにその通りだと思うし、また最後にゆっくり休んでくださいと述べられたことも引かれ、このような素直な心、こうした言葉が直截に心の底から出てくるという心の有り様が信仰というものではないかと思いますと坊主は述べた。それから結構長く彼は話していたのだが、要約すると、故人の死、病と闘い抜いたその生き様を受けて我々も、生きているなかでのささやかなことを幸せと感じられるような心持ちを涵養していきたいものだ、例えば毎日ご飯が食べられる、蛇口を捻ればすぐに水が出てくる、そういったことは本当は当たり前のことではないのだ、そういった当然になっていることに今一度目を向けて、感謝の心を育んでいきたいものだ、というようなことが述べられた。実にわかりやすい物語である。しかしなかなか人間、そうした心持ちに達するのは難しいだろう。理屈としては勿論彼の言っていることはわかるのだが、それを心の底から実感として骨身に染みて理解できるかと言うと、大抵の人には難しいのではないか。せいぜいそのような一瞬がごくたまに訪れるといった程度のことで、まあその程度でも良いのかもしれないが、ともあれ本当に生の一瞬一瞬に対する感謝の気持ちを抱きながら生きるというような心持ちに達することが出来れば、それはあるいは幸福の究極形なのかもしれない。マインドフルネスとか、慈悲の瞑想とかはわりとそうした方向性を目指しているものなのではないか。
 それから戒名について述べられたが、これは「(……)」というものだった。大きく安らかな川のように欠けることのない全き状態を久しく保つ、というような意味合いだろうか。僧侶の法話――ではないか――が終わって退出していったあと――一同は司会の指示に従って合掌でそれを送った――通夜式はこれで終わりとなった。それから会食だが、皆すぐに隣の会食室には移らず、棺の周りに集まって何だかんだと話をしていた。そこにこちらと父親も加わっていくと、Tさんが父親に礼を言ったあと、こちらにも受付をしてくれてありがとうとの礼を述べて頭を下げてきたので、礼を返してとんでもない、と応じた。
 それから会食。テーブルは円形のものが四卓あり、そのうち三卓にそれぞれの家庭と言うかグループで分かれて座った。我々のテーブルはこちらと両親とK.MSさん(書くのを忘れていたが彼は納棺には来ず、通夜から参列した。こちらとの間柄は、何という続柄になるのだろうか、祖父の妹の息子さんである)とY子さんである。こちらから見て右方に父親、向かいにMSさん、こちらの左隣は母親で、その向こうのMSさんの右隣がY子さんという配置だった。食事は寿司に天麩羅に煮物。こちらはここでもオレンジジュースを頂き、左右の両親にそれぞれビールとノンアルコールビールを注いであげたのを皮切りに、途中で席を立ってY子さんにもオレンジジュースを注いであげたり、煮物を全員分よそってあげたりと、多少のまめまめしさを発揮した。そうして寿司を中心にたらふく食った。途中、まだいくつか貫が残っているにもかかわらず、スタッフによって新しい寿司が届けられて古い膳は下げられてしまったので――天麩羅も同様――それを見た母親は、ちょうどテーブルを回ってお酌をしに来たTさんに、まだあるのに替えちゃうんだねと不満そうな、勿体なさそうな口振りで言っていた。それを受けてTさんが言ったことには、どれだけの人が来るのかわからないから三〇人分を用意してもらったのだと言う。その場にいたのはせいぜい一五人というところだったので、倍の量である。それだからなるべく若い人に詰め込んでいってもらいたいと言いながら、こちらにオレンジジュースの酌をしてくるので、いや、どうですかねと笑い、ありがとうございますと礼を言った。
 そのうちにあきる野市の親戚が帰途に向かう様子を見せたので、母親が挨拶をして関係をちょっと訊いていたようだ。そのほか僧侶が退出する時にはこちらも立って、ありがとうございましたと礼をした。そうしてしばらくして、七時四〇分を過ぎたあたりだっただろうか、我々も帰るということになったので――その前に、会食中の話の内容をまったく書いていなかったが、大した話はなされていない。ただ父親が、ここで飲み食いしてもまた帰ってからどうせ呑むんだよと不満そうに言うのに対して、外で呑む酒とうちで呑む酒は違うんだ、外だとやはり落着いて呑んだり食ったり出来ない、だから家に帰ったあと一人で穏やかに、ちょっとだけ呑みたいという気持ちになるんだ、というような持論を展開していたのがやや印象に残っている。酒飲みの主張である。
 それで我々も帰ろうということになり、ほかのテーブルに挨拶をしに行った。そうして退出。こちらはY子さんとともにトイレに。歩いている途中、彼女が、Sくんは姿勢が良くて、礼なんかもちゃんとしててと言ってくれたので、Y子さんはいつもそうやって褒めてくれて、と笑って返した。それで便所に入って排尿し、手を洗い、備え付けのペーパーで水気を拭って父親のもとへ戻ると、女性二人を待ってからエレベーターで下階に下りた。MSさんは先に傘を取りに行って、そこの一階で待っていた。それで建物側面の出口、入ってきた時と同じ場所から外に出て、母親が車を取りに行っているあいだ――父親が酒を呑んだので、帰りは母親が運転する役目だった――ほかの四人は軒下で雨を避けながらひととき待った。この時も多少話されて、会食中にも話していたが、MSさんはどうやら数学が好きなようで、そちらの方面の専門書など多少買っているらしい。文学なら多少はわかるのだが、数学となるとこちらは完全な門外漢である。
 それでそのうちに母親が車を回してきて、こちらは助手席に、父親、MSさん、Y子さんが後部座席に詰めて乗った。帰りの道中での会話は特に覚えていないし、大したことが話されていたわけではない。Y子さんをまず小作駅まで送っていき、それから帰路へ。MSさんは以前は学校の教師を勤めていたと思っていたのだが、この時の話しぶりでは塾の先生だったような様子だった。わからない、両方やっていたのかもしれない。仕事を辞めたのは四二歳かそこらだったと言い、それから今まで何で生計を立てているのかは不明である。何か株だかインターネット・ビジネスの類だかやっているらしいということを母親に聞いたことはある。さあそして、帰路の車内でのことは省略して、と言うか特に印象深いことがなかったのだが、我が家の近くに来ると、一旦家の前を通り過ぎて、MSさんの住む公営住宅の傍まで行った。街灯の少ない暗い坂の途中で車は停まった。MSさんが降りていく間際に、今日はSくんの顔を見られて幸せな気持ちになりました、などと言い残していったが、そんなに大した顔はしていない。その後、自宅の方に回っていって帰宅。駐車場に入れず家の前に横向きに停まったので、父親、次いでこちらと降りていき、こちらはまだ少々降っている雨に濡れながらポストから新聞を取り出し、鍵を持っていない父親に代わって玄関を解錠した。そうしてなかに入り、居間に向かって明かりを点け、三方の窓のカーテンを閉めていった。そうして下階へ。自室に入るとコンピューターを点け、親戚の法事だったのでまた日記が長くなるとツイートし、それから服を着替えた。ワイシャツを上階に持って行ったあと、自室に戻り、日記を書かなければならないのはわかっていたもののそうする気力が湧かずにしばらく何をするか立ち迷っていたが、結局日記を書くしかないのだと観念して文章をコンピューターに打ち込みはじめた。それが九時直前である。BGMはThe Police『Synchronicity』。四〇分ほど書いたところで父親が風呂を出たらしく、天井が鳴ったので書き物を中断して上階に行った。そうして入浴。湯のなかに身体を沈めて疲れを癒やし、出てくるとすぐにまた自室に戻って、ちょっとだらだらしたあと一〇時半からふたたび日記に取り掛かった。The Police『Outlandos d'Amour』を背景に零時過ぎまで。その途中、一一時半頃、喉が渇いたので何か飲もうと上階に行った。すると父親はやはりあれからまた酒を呑んだらしく、テレビのニュースを見ながらぶつぶつと独り言を呟いている。母親は仏間で昔の写真を探っていた。こちらは玄関の戸棚を探ってオロナミンCを一本取り出し――多分先日父親が山梨に行った際に祖母から貰ってきたものだろう――コップに氷を入れてそこに鈍い金色の液体を注いだ。そうして飲み物が冷えるのを待つあいだに仏間に入って、母親の掘り出してきた写真を眺める。誰だかわからない親族の結婚式の写真が多かった。そうして居間に出てオロナミンCを飲み干すと下階に戻り、ふたたび打鍵を進めたのち、零時を回ったあとは渡辺守章フーコーの声――思考の風景』のメモを取った。BGMはRadioheadRadiohead Rocks Germany 2001』。一時間ほど読書ノートに文言を書き込んで、それからさらに書抜きでもしようかなと思っていたのだが、歯を磨いているあいだに何となく短歌を作る方向に心が向いて、口を濯いできてからも作歌して以下の七つを拵えた。

 溺死者を引き上げ悼み灰にして崖の上から海に還せよ
 滑らかな歯ぎしり立てて宙返りくるるくるると舌に血の味
 サーカスの子熊が遊ぶ玉の上銀河は回る地球を乗せて
 革命が今晩頭上を通過する一杯呑んで遠雷を待とう
 青空は魚平等死の定めすべての比喩を吸い込む調べ
 強さとか悲しさだとか言うけれど食べられないそれが詩の運命[さだめ]
 大海はあらゆる比喩の終着点そこから先は頁の外さ

 そうして二時に至ったので就床したのだが、眠気がやってくる気配がまったくなかった。それなので四〇分ほど輾転反側したあと、また日記を書くかと起き上がってしまった。


・作文
 10:44 - 10:54 = 10分
 13:42 - 13:58 = 16分
 20:57 - 21:35 = 38分
 22:28 - 24:06 = 1時間38分
 計: 2時間42分

・読書
 12:05 - 13:14 = 1時間9分
 24:08 - 25:19 = 1時間11分
 計: 2時間20分

・睡眠
 1:30 - 10:20 = 8時間50分

・音楽

2019/6/9, Sun.

 だが、世界中で何事でもないような何事かが常に起きていて、そしてそれはすべて私たちの目の前にあり、いつでも触れることができる、ということそのものが、私の心をつかんで離さない。断片的な語りの一つひとつを読むことは苦痛ですらあるが、その「厖大さ」にいつも圧倒される。
 私はこれらの厖大な語りを、民衆の文学だとか、真の大衆文化だと言って称揚したいのではない。そういう金持ちの遊びは「屋根裏[アチック]」でやっていればよい。ただ、人びとの断片的な人生の、顔文字や絵文字を多用した、断片的な語りがあるだけである。文化的価値観を転倒させてそこに芸術的価値を見出すことはできない。
 そして、だからこそ、この「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない」語りは、美しいのだと思う。徹底的に世俗的で、徹底的に孤独で、徹底的に厖大なこのすばらしい語りたちの美しさは、一つひとつの語りが無意味であることによって可能になっているのである。
 (岸政彦『断片的なものの社会学朝日出版社、二〇一五年、38~39)


 一二時半まで床に留まる。糞寝坊ここに極まるといった感じ。高校の同級生であるHが出てくる夢を見て、結構面白かった覚えがあるのだが、詳細は砂がさらさらと手から零れていくように既に失われてなくなった。上階へ。母親はポーランド料理の講座に行っているとかで不在である。冷蔵庫を覗くと鍋が二つ入っている。一つは味噌汁、一つは煮物の鍋で、どちらとも前夜の残りである。それらをそれぞれ取り出して温め、皿によそると、ゆで卵一つとともに卓に運んだ。新聞を読みながらものを食べる。尖閣諸島の接続水域に中国公船が侵入し続けているとの由。五八日間連続とか書いてあっただろうか。領海への侵入も起こっており、五月中には四度あったと言う。そのほか、ドナルド・トランプが三月だったかにイスラエルの主権を承認する宣言を出したゴラン高原の状況を伝える記事を国際面から読んだ。トランプ大統領の承認を受けてイスラエル政府は、入植を拡大し、イスラエル人人口を現在の一〇倍にまで増やす計画を発表したと言う。やりたい放題である。それらの記事を読みながら食事を取ったあと、コップに水を一杯汲んできて抗鬱剤を服用し、それから皿を洗った。そうしてそのまま浴室に行き、便意を我慢しながら浴槽を擦り洗ったのち、便所に行って腸のなかを軽くした。そして下階に戻る。コンピューターを点け、前日の記録を付けるとFISHMANS『Oh! Mountain』とともにすぐに日記に取り掛かって、ここまで一〇分少々で記すと一時二四分である。
 前日の記事をインターネット上に投稿したのち、一時四五分からベッドに移り、薄布団を身体に掛けながら読書を始めた。久しぶりにMichael Stanislawski, Zionism: A Very Short Introductionを読んだ。例によって英単語を調べ、調べたものは手帳にメモしと忙しく手に持つものを入れ替えながら、一時間書見を進めた。外国語の文を読むというのはやはり結構気力を使うもので、日本語の文章だったらわりあいどれだけでも読めるけれども、英語を読んでいると段々と疲労してきて、せいぜい五頁くらいしか集中力が続かない。情けない話である。こんなことでは翻訳など夢のまた夢だ。しかし地道に一歩一歩やっていくほかはない。二時四五分になったところで読書を中断した。その頃にはまだ両親は帰ってきていなかった。小腹が空いたのでカップうどんでも食べるかというわけで上階に行き、玄関の戸棚から「赤いきつね」を取り出し、卓の端に置いて蓋を剝き、粉末スープと唐辛子の小袋を開けてなかに振りかけたあと、電気ポットから湯を注いだ。包装ビニールや小袋のゴミはきちんと台所のゴミ箱に始末しておき、湯の注がれて重くなった容器を慎重に持って自室に帰った。Bill Evasn Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 3)が室内には掛かっており、そのなかから"All Of You (take 3)"が流れていたので麺が柔らかくなるまでのあいだそれを聞き、五分間が経つとインターネットを閲覧しながらカップ麺を食った。食べている途中に両親が帰ってきたのだったと思う。スープまですべて飲み干してゴミ箱に容器を捨てておくと、上階に行った。父親は山梨の実家へ、母親は料理教室に行っていたのだが、どうやらほとんど同じタイミングで帰ってきたようだった。母親が帰りにガストで買ってきたピザがあると言うので、残っていた二切れを有り難く頂き、それからアイロン掛けに入った。母親のシャツ、自分の青いフレンチ・リネンのシャツ、エプロン二枚などを掛けていくあいだ、母親は玄関の方で長々と電話をしていた。相手はI.Y子さんらしく、話題は翌日に迫っているYさんの法事のことだ。T.Mさんという祖父の妹がいる。このたびYさんという祖父の妹のうちのもう一人が亡くなり、そのあとを追うようにして先日その夫の方も亡くなったのだが、おじさんの方が亡くなったということをこのT.Mさんに知らせるかどうか、という点で話し合いが持たれているようだった。こちらとしては極々普通に知らせるべきだと思うもので――Tさんが死ぬまで隠しておくわけでもあるまいし、あとになって自分だけ知らされていなかったと彼女が知ったらどう思うだろうか? しかしそれで言ったら、もう一人の祖父の姉妹、Kさんという人には、うちの祖母が死んだということは息子さんの意向で未だに知らされていないのだった。これも釈然としない話だ――父親も人が死ぬというのは大変なことだからやはり知らせた方が良いのではないかという意見を持っているらしく、母親にそのように忠告していたようで、アイロン掛けが終わってこちらが新聞を読んでいるあいだも続けて長々と通話をしていた母親も、結局その方針に意思を固めたようだった。それで玄関から戻ってきた母親に、携帯を指し示して、Yさんの息子さん(Tとかいう名前だったと思う。両親からは「Tちゃん」と呼ばれている)から電話が掛かってきていたよと伝えると、その場で母親は電話し、やっぱりTさんにも伝えた方がいいんじゃないかということを話していた。その電話を聞き終えるとこちらは下階に下りた。時刻は四時直前だった。『Bob Dylan』を流しだすとともに、九螺ささら『ゆめのほとり鳥』から読書ノートに短歌を引いて感想を記した。感想など記せないと思っていてもいざ書きはじめれば結構――大した内容の文ではないけれど――書けることがあって、三つの歌に感想を付しているとそれだけでもう一時間ほどが経って五時を越えた。

 貫かれ脳がバターになってゆく来世のじぶんがぬるく波立つ
 (九螺ささら『ゆめのほとり鳥』書肆侃侃房、二〇一八年、54)

 ペニンシュラ、半島または愛されてもう戻れない女の体
 (57)

 一日じゅうふりこを眺めつづけたらこれと似た恍惚になるでしょう
 (58)

 一首目の前半は比較的直截な表現で性交時のとろけるような快楽を表している。後半の「来世のじぶん」が勘所だろう。来世の自分、すなわち今の自分が死んで生まれ変わったあとの自分にまで性交の波動が伝わり、感覚が波及していくのだ。それは遡行的に、今世の自分、今現在の自分にも前世の自分から伝達されるものがあるのではないかということを意識させる。輪廻転生があり得るとしても、何がしか前世の自分がなければ今世の自分は存在しないし、今世の自分がなければ来世の自分も存在しない。反対に、来世があるならば今世が、そしてさらに遡って前世が存在することになる。言うまでもなく、この生まれ変わりの系列は過去・未来の両方面においてほとんど無限に、時空の端まで拡張されて繋がっていくことが出来る。この一首を単に性交の快感の大きさを比喩的に言い表したものとして読んではならないだろう。「世界」と「存在」を超えて広がり、振動し、伝達されていくものがあるという広大無辺のダイナミズムこそが重要なのだ。
 二首目の「愛されてもう戻れない」という文言からは処女膜の喪失が連想される。「女の体」は一度「愛されて」しまえば、不可逆の身体的・物体的変容を被るわけだが、それにしてもその身体がなぜ「半島」に喩えられるのか。細くて丸みを帯びた女体の形は確かに、あるいは「半島」を思わせるかもしれない。ところで「半島」とは、海に向かって「突き出したもの」である。そして、「突き出したもの」と言えば、男性のペニスもまたそうではないだろうか。ここにおいて「半島」の形象を媒介として、「女の体」を貫き変容させる男根と、男根を受け入れ変容させられる女体とが重ね合わされ、一致することになる(ついでに言えば、「ペニス」と「ペニンシュラ」とは音の面でも類似している)。女体が男根を飲み込み、肉体全体でペニスを感じ、男と一体化する時のエロス、これを言語形式及び意味の位相においても実現しているのがこの一首ではないだろうか。
 三首目は、この一首だけでは「恍惚」の内実は明らかでないものの、恋人との性愛関係を主題とした前後の歌の文脈からすると、やはりこの「恍惚」とは性行為のそれではないかと思わされる。そうすると、「ふりこ」の止むことのない行きつ戻りつの半円運動とは、セックスの際の寄せては返す快感の波の運動を暗示したもののようにも思われてくる。この一首の話者はそれを「見る」ことで、あたかも実際にセックスを体験しているかのような「恍惚」を味わうことを想像している。そこにおいて話者は、「見る」ことの働きを介しておそらくほとんど「ふりこ」の運動と一体化した存在と化し、視覚から快楽を吸い込む[﹅4]主体となるだろう。
 感想を書き終えたあと、食事の支度をするために上階に上がった。父親がケンタッキー・フライド・チキンを買ってきてくれたし、母親の作ってきた料理もあるし、煮物や生サラダなども余っているので、ほとんど作り足す必要はなさそうだった。えんどう豆を茹でてくれと母親が言うので、BGMとしてFISHMANS『ORANGE』が流れるなか、豆の筋を一つ一つ根気良く取り除いていき、除いたものは笊に入れておいて、それらを流水で洗うと湯の沸いたフライパンに投入した。それから、味噌汁を作るために白菜と小葱を切り分けた。切り終える頃には豆が茹だっていたので笊に上げておき、もう一方の焜炉に掛けた鍋に白菜と葱を投入した。台所をうろうろしたり、音楽に合わせて身体を揺さぶったり、小さな声で曲を口ずさんだり、脚を左右に大きくひらいて股関節をほぐしたりしながら野菜が煮えるのを待ち、途中で台所に入ってきた母親に頼まれて紫玉ねぎの皮を剝いたあと、鍋に白味噌を溶かし入れた。それだけでは味が薄いので醤油も少量だけ加えておき、そうして完成、焜炉の火と換気扇を停めて、あとは頼むと母親に告げて下階に戻った。そうして五時四四分から、Bob Dylan『Live 1975: The Rolling Thunder Revue Concert』とともに日記を書きはじめ、ここまで綴ると六時半が目前となっている。
 上記の感想をTwitterに流したあと、ふたたび九螺ささら『ゆめのほとり鳥』のメモを始めた。閉じたコンピューターの上に読書ノートを載せ、左方に書籍を置いて手帳にメモした頁を参照しながら詩句を写し、感想を付していく。ある程度の分量の感想がまとまったのは以下の二首。

 人体は熱製造所にて刻刻と発熱しながら愛しつづける
 (九螺ささら『ゆめのほとり鳥』書肆侃侃房、二〇一八年、63)

 「たたむ」とは宗教であるTシャツも折りたたまれて偶像になる
 (81)

 一首目は、「わたしと名付けしこの熱は今朝もキツネ色のトーストを欲しがり」という別の一首を連想させる。この作家の目には「わたし」という主体の存在も「人体」というその容れ物もともに、「熱」という物理的現象に還元されてしまう。それはまるで、サーモグラフィーによって映し出された世界を見ているかのようだ。しかしこの「熱」は人間的な「意味」を剥奪された荒涼たる物質の世界にのみ属しているわけではなく、人間の生の根源とも言うべき「欲望」と結びついている。「人体」の一首は愛欲と、「わたし」の歌は食欲と、である。人間から実存の重みを剝ぎ取って化学的作用として観察する冷静な目と、それでもそこから零れ落ちてくる人間臭さ、散文的な非人間性と血の通った人間性との絡み合いがこれらの歌の要だろう。
 二首目の、「「たたむ」とは宗教である」という一節の内実はよくわからないが、これが個人的に、この歌集のなかで最も鮮烈に感じる印象的な一首かもしれない。それはまさしく、意味の内実が明らかでない謎めいたアフォリズムの形を取っていることで、思考に引っかかりを与えるからではないか。ところで、「宗教」につきものの人間的行為と言えば、やはり「いのる」ことだろう。ここではあるいは、「たたむ」ことと「いのる」ことが重ね合わされているのだろうか? 例えば洗濯物を「たたむ」という、手順の定まった単純作業を行っているときの無心さというのは、「いのる」際の心の静寂に似ているかもしれない、などと戯れに思ってみたくもなる。有名な言葉だが、カフカは「祈りの一形式としての書くこと」という一節を残した。「いのる」ことは何かの無心な「行為」のなかにこそ宿るのかもしれない。
 そのほかいくつかの歌を読書ノートに引いておき、そうするともう七時半を過ぎていたので食事を取りに上階に行った。味噌汁やケンタッキー・フライド・チキンをそれぞれ温め、そのほか白米や紫玉ねぎとえんどう豆のサラダや前日の煮物の残りをテーブルに運ぶ。母親はもう大方食事を終えてタブレットを眺めており、父親はビールを既に二缶か三缶空けながら、NHKの『ダーウィンが来た!』が映し出すライオンの群れの様子を眺めていた。こちらは時折りテレビの方に目を向けながら、鶏肉をおかずにして白米を食い、煮物をつまみ、白菜の甘みのよく出た味噌汁を啜って、最後にキューピーの「すりおろしオニオンドレッシング」を掛けたサラダを平らげた。そうしながら、明日の法事のことが話題に出るので、俺も線香を上げに行っておけば良かったな、と呟くと、それなら明日の通夜にお前も出ればと母親が言った。土壇場で人数を増やしてしまって大丈夫かと訊いたのだが、明日の通夜は人数が固定的に決まっているものではないから問題ないだろうとの返答があった。実際参加するかどうかはこちらの一存に任されているわけだが、今のところ、一応参列するつもりでいる。そのような話をしながら食事を終え、八時に至るとNHK大河ドラマ『いだてん』が始まったが、母親がこれ見るの、と不満そうな口振りで父親に尋ねた。父親の方は意外にも、ほかのでもいいよと緩く答えて、それで『ポツンと一軒家』に番組は移った。日曜日は大河ドラマを毎週見ているものだと思っていたのだが、最近はそうでもないと言う。『ポツンと一軒家』を少々眺めてから立ち上がり、台所に行って食器を洗った。網状の布で食器を擦っていると、横に父親が盆を持ってやって来て、もう食事を終えたのかと思いきやそうではなくて、鶏肉を温めたり、サラダをおかわりしたりしてからこちらの足もとから酒を取り出し、それも用意してまた炬燵テーブルへと戻っていった。こちらは皿を洗ったあと、風呂に入ろうと下着を取り上げると、肌着のシャツがもうだいぶくたびれていたので、その旨母親に告げると新品のシャツがあると言う。それで、「a. v. v HOMME」というメーカーのそれを受け取り、洗面所に入って服を脱ぐと浴室に入った。風呂のなかでは雨が林の木々を鳴らす音を聞いたくらいで特段のことはない――いや、そのほか、口笛を適当に吹いていたらCarlos Santanaの"Europe"のメロディに偶然繋がって、久しぶりにSantanaという固有名詞を思い出した、ということもあった。出てくるとこの日はわりと涼しいので、ハーフ・パンツに新品の肌着のシャツもきちんと着込み、下階に戻って日記を書き出した。Bob Dylan『The Freewheelin' Bob Dylan』を背景にここまで綴って九時半直前である。やはり日記だ。とにかく日記。何よりも日記。それしか自分の生にはない。
 それからMさんのブログ。三日分。その後、『岩田宏詩集成』の書抜きを三〇分で終える。一〇時半からさらに、九螺ささら『ゆめのほとり鳥』の書抜き。手帳や読書ノートにメモした歌たちを、今度はEvernoteの方に打ち込んで記録していく。短歌は文が短いので数があってもすぐに終えた。そうしてまた残った数首を読書ノートにメモし、感想を付す。

 夜の中に薔薇は薔薇のまま香ってる人は死んでも見えないだけだ
 (九螺ささら『ゆめのほとり鳥』書肆侃侃房、二〇一八年、107)

 ふさふさの群青色が流れてく空は一頭のさみしい馬
 (124)

 一首目。夜闇に紛れて花が見えなくとも「薔薇」が芳香を漂わせるように、死んだ人も見えないだけで別の存在の仕方をしているのかもしれない。「見えないだけだ」という強い確信を伴った断言の形が印象的だ。「見えないだけかも」といった風にあやふやにせず、力強く言い切っている。この一首には死後の生や、別様の存在の仕方、別の位相の世界への志向が含まれているが、「薔薇」の花の香りからそうした存在論的問題にまで一挙にひらいていくその飛躍が鮮やかで見事である。
 二首目。青空の色を「ふさふさ」という擬態語を用いて表す発想は稀有のものだろう。しかし、下の句で出現する一頭の「馬」のイメージによって、その形容が調和的に回収されてしまうのが勿体ないようでもある。この擬態語がわかりやすく「馬」と対応せず、それのみで独立して出てきたとしたら、より鮮烈で、言語の手触り、その物質性が屹立していたのではないかとも思うのだ。だが、この調和こそがこの歌の美点だと捉える向きも当然あろう。ともかく、その点を措いても、「空」を「さみしい馬」に喩える想像力は特筆物だろう。あるいはここで言われている「空」は、真っ青にひらいたそれではなく、多数の雲に囲まれ切り取られた「空」の一部で、その形が「ふさふさ」とした馬の毛のように見えたのかもしれない。しかし、そのように現実的な可能性を考えると、どうもつまらなくなってくるようだ。ここではただこの一首に書かれてあることのレベルで、「空」が「一頭のさみしい馬」であるという、この巧みで詩情香る等置を味わえば良いのだろう。
 そのようなことを読書ノートに綴り、それから今しがたメモしたばかりの歌たちもEvernoteの方に引いておいて、時刻は零時前。Bobo Stenson / Anders Jormin / Paul Motian『Goodbye』を背景に日記を書いて零時を回った。書抜きやメモをしているあいだはBob Dylanの音源をいくつか続けて流していたのだが、アルバムによって彼の声がまったく違うのに今更ながら驚いた。
 それから読書を始めるまでのあいだに四〇分ほどの空白の時間が差し挟まっている。この時間で何をしていたのか? Twitterに感想を流していたのは確かである。そのほか同じくTwitterでDさんとやり取りをして、ゆらゆら帝国の音源などを紹介してもらい、それを聞いた時間もあった。そうして零時四〇分ほどになるとコンピューターを閉ざし、ベッドに移って、山尾悠子『飛ぶ孔雀』を読みはじめた。一時半前まで読んで、明かりを落として就寝。頭痛があって、入眠するまでには少々苦戦した記憶がある。


・作文
 13:12 - 13:24 = 12分
 17:44 - 18:26 = 42分
 20:55 - 21:28 = 33分
 23:49 - 24:03 = 14分
 計: 1時間41分

・読書
 13:45 - 14:45 = 1時間
 15:57 - 17:08 = 1時間11分
 18:39 - 19:37 = 58分
 21:33 - 21:53 = 20分
 21:55 - 22:25 = 30分
 22:30 - 23:45 = 1時間15分
 24:42 - 25:28 = 46分
 計: 6時間

  • Michael Stanislawski, Zionism: A Very Short Introduction: 95 - 100
  • 九螺ささら『ゆめのほとり鳥』書肆侃侃房、二〇一八年、メモ
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  • 岩田宏詩集成』書肆山田、二〇一四年、書抜き
  • 九螺ささら『ゆめのほとり鳥』書肆侃侃房、二〇一八年、書抜き
  • 山尾悠子『飛ぶ孔雀』: 24 - 38

・睡眠
 2:30 - 12:30 = 10時間

・音楽

九螺ささら『ゆめのほとり鳥』書肆侃侃房、二〇一八年

 鳥避けのCD揺れる銀河色 四億年前の記憶のごとく
 (九螺ささら『ゆめのほとり鳥』書肆侃侃房、二〇一八年、9)

 エレベーター昇りきるとき重力はとうめいになる シリウスが近い
 (14)

 目玉焼きが真円になる春分は万物が平等になる一日[ひとひ]
 (36)

 一首目は、「銀河色」という色の形容が美しく、またこの語によって読者は宇宙的スケールにまでイメージを拡張していくことになる。「四億年前」という時間の指示も同様の働きを持っていて、人類がこの地球に誕生する以前の、ほとんど宇宙的な時間がここでは想像されている。「鳥避けのCD」というどこにでも見られる日常的な事物から、時間・空間両面において「宇宙」を連想させ、想像力を拡大していく規模の大きさが特筆するべき点だろう。
 二首目において主題化されている「重力」は元々透明で目に見えないものだが、ここではあえてその語を使うことによってエレベーターが「昇りきるとき」の浮遊感、常に身体に作用している重みがふっと消えた時の感覚をよく表しているように思われる。それはまさに「重力」がその実質を失い、「とうめい」になったかのような感覚だ。「とうめい」の語を漢字にせず平仮名にひらいているのもポイントだろう。また、結語の「シリウスが近い」では、ここでも「宇宙」への志向が見られる。空を越えて天体と同じ位相にまで浮かび上がっていきそうな浮遊感・上昇感というわけだろう。
 三首目。「真円」は欠けた箇所のない完全な形であり、それは「万物」の「平等」という完全性の観念の形象化と言っても良いだろう。目玉焼きが偶然、完璧な円になった時のささやかな喜びを想像的に増幅させて、このようなやや大仰とも思われる表現に仕立てたのだろうか。しかし、「春分」の語から連想される春を迎えた頃合いのうらうらとした暖かさのイメージも調和して、ユートピア的に浮き浮きするような春の一日をよく描き出しているように思われる。
 「鳥避け」の一首や「目玉焼き」の歌にも見られるように、この作家は、極々日常的で身近な事物や情景を、いくらか抽象的で大規模なイメージや観念と結び合わせることが得意なようだ。同じような趣向を持った歌には、例えば次のようなものがあるだろう。

 あくびした人から順に西方の浄土のような睡蓮になる
 (8)

 耳鼻科には絶滅種たちの鳴き声が標本のごと残響してる
 (21)

 日曜の歩行者天国から空へレジ袋天使が旅立ってゆく
 (24)

 ありきたりな評言ではあるが、これらの歌は、日常の見慣れた世界を「異化」し、その豊かさや重層性を浮き彫りにして見せてくれるという機能を果たしているだろう。

     *

 貫かれ脳がバターになってゆく来世のじぶんがぬるく波立つ
 (九螺ささら『ゆめのほとり鳥』書肆侃侃房、二〇一八年、54)

 ペニンシュラ、半島または愛されてもう戻れない女の体
 (57)

 一日じゅうふりこを眺めつづけたらこれと似た恍惚になるでしょう
 (58)

 一首目の前半は比較的直截な表現で性交時のとろけるような快楽を表している。後半の「来世のじぶん」が勘所だろう。来世の自分、すなわち今の自分が死んで生まれ変わったあとの自分にまで性交の波動が伝わり、感覚が波及していくのだ。それは遡行的に、今世の自分、今現在の自分にも前世の自分から伝達されるものがあるのではないかということを意識させる。輪廻転生があり得るとしても、何がしか前世の自分がなければ今世の自分は存在しないし、今世の自分がなければ来世の自分も存在しない。反対に、来世があるならば今世が、そしてさらに遡って前世が存在することになる。言うまでもなく、この生まれ変わりの系列は過去・未来の両方面においてほとんど無限に、時空の端まで拡張されて繋がっていくことが出来る。この一首を単に性交の快感の大きさを比喩的に言い表したものとして読んではならないだろう。「世界」と「存在」を超えて広がり、振動し、伝達されていくものがあるという広大無辺のダイナミズムこそが重要なのだ。
 二首目の「愛されてもう戻れない」という文言からは処女膜の喪失が連想される。「女の体」は一度「愛されて」しまえば、不可逆の身体的・物体的変容を被るわけだが、それにしてもその身体がなぜ「半島」に喩えられるのか。細くて丸みを帯びた女体の形は確かに、あるいは「半島」を思わせるかもしれない。ところで「半島」とは、海に向かって「突き出したもの」である。そして、「突き出したもの」と言えば、男性のペニスもまたそうではないだろうか。ここにおいて「半島」の形象を媒介として、「女の体」を貫き変容させる男根と、男根を受け入れ変容させられる女体とが重ね合わされ、一致することになる(ついでに言えば、「ペニス」と「ペニンシュラ」とは音の面でも類似している)。女体が男根を飲み込み、肉体全体でペニスを感じ、男と一体化する時のエロス、これを言語形式及び意味の位相においても実現しているのがこの一首ではないだろうか。
 三首目は、この一首だけでは「恍惚」の内実は明らかでないものの、恋人との性愛関係を主題とした前後の歌の文脈からすると、やはりこの「恍惚」とは性行為のそれではないかと思わされる。そうすると、「ふりこ」の止むことのない行きつ戻りつの半円運動とは、セックスの際の寄せては返す快感の波の運動を暗示したもののようにも思われてくる。この一首の話者はそれを「見る」ことで、あたかも実際にセックスを体験しているかのような「恍惚」を味わうことを想像している。そこにおいて話者は、「見る」ことの働きを介しておそらくほとんど「ふりこ」の運動と一体化した存在と化し、視覚から快楽を吸い込む[﹅4]主体となるだろう。

     *

 人体は熱製造所にて刻刻と発熱しながら愛しつづける
 (九螺ささら『ゆめのほとり鳥』書肆侃侃房、二〇一八年、63)

 「たたむ」とは宗教であるTシャツも折りたたまれて偶像になる
 (81)

 一首目は、「わたしと名付けしこの熱は今朝もキツネ色のトーストを欲しがり」という別の一首を連想させる。この作家の目には「わたし」という主体の存在も「人体」というその容れ物もともに、「熱」という物理的現象に還元されてしまう。それはまるで、サーモグラフィーによって映し出された世界を見ているかのようだ。しかしこの「熱」は人間的な「意味」を剥奪された荒涼たる物質の世界にのみ属しているわけではなく、人間の生の根源とも言うべき「欲望」と結びついている。「人体」の一首は愛欲と、「わたし」の歌は食欲と、である。人間から実存の重みを剝ぎ取って化学的作用として観察する冷静な目と、それでもそこから零れ落ちてくる人間臭さ、散文的な非人間性と血の通った人間性との絡み合いがこれらの歌の要だろう。
 二首目の、「「たたむ」とは宗教である」という一節の内実はよくわからないが、これが個人的に、この歌集のなかで最も鮮烈に感じる印象的な一首かもしれない。それはまさしく、意味の内実が明らかでない謎めいたアフォリズムの形を取っていることで、思考に引っかかりを与えるからではないか。ところで、「宗教」につきものの人間的行為と言えば、やはり「いのる」ことだろう。ここではあるいは、「たたむ」ことと「いのる」ことが重ね合わされているのだろうか? 例えば洗濯物を「たたむ」という、手順の定まった単純作業を行っているときの無心さというのは、「いのる」際の心の静寂に似ているかもしれない、などと戯れに思ってみたくもなる。有名な言葉だが、カフカは「祈りの一形式としての書くこと」という一節を残した。「いのる」ことは何かの無心な「行為」のなかにこそ宿るのかもしれない。

     *

 夜の中に薔薇は薔薇のまま香ってる人は死んでも見えないだけだ
 (九螺ささら『ゆめのほとり鳥』書肆侃侃房、二〇一八年、107)

 ふさふさの群青色が流れてく空は一頭のさみしい馬
 (124)

 一首目。夜闇に紛れて花が見えなくとも「薔薇」が芳香を漂わせるように、死んだ人も見えないだけで別の存在の仕方をしているのかもしれない。「見えないだけだ」という強い確信を伴った断言の形が印象的だ。「見えないだけかも」といった風にあやふやにせず、力強く言い切っている。この一首には死後の生や、別様の存在の仕方、別の位相の世界への志向が含まれているが、「薔薇」の花の香りからそうした存在論的問題にまで一挙にひらいていくその飛躍が鮮やかで見事である。
 二首目。青空の色を「ふさふさ」という擬態語を用いて表す発想は稀有のものだろう。しかし、下の句で出現する一頭の「馬」のイメージによって、その形容が調和的に回収されてしまうのが勿体ないようでもある。この擬態語がわかりやすく「馬」と対応せず、それのみで独立して出てきたとしたら、より鮮烈で、言語の手触り、その物質性が屹立していたのではないかとも思うのだ。だが、この調和こそがこの歌の美点だと捉える向きも当然あろう。ともかく、その点を措いても、「空」を「さみしい馬」に喩える想像力は特筆物だろう。あるいはここで言われている「空」は、真っ青にひらいたそれではなく、多数の雲に囲まれ切り取られた「空」の一部で、その形が「ふさふさ」とした馬の毛のように見えたのかもしれない。しかし、そのように現実的な可能性を考えると、どうもつまらなくなってくるようだ。ここではただこの一首に書かれてあることのレベルで、「空」が「一頭のさみしい馬」であるという、この巧みで詩情香る等置を味わえば良いのだろう。