2017/7/20, Thu.

 風の多く流れる日だった。自室にいればカーテンが膨らみ、便所に行くと外の林が騒ぐのに雨が降りはじめたかと、室を出て玄関先を覗くまで錯覚させられる。夕刻五時に出た道にも風は厚く向かって来て、耳の穴を覆ってばたばたという響きをぶら下げるのが、久しぶりの感覚である。樹々のなかを上って行くと、重なりはじめたニイニイゼミの声が左右に拡散し、その向こうから鶯の音も落ちた。街道まで出れば例によって夏の太陽が身を包むが、このくらいの陽射しにはもう慣れたなと、ポケットを手に突っ込み顎を持ち上げて、余裕ぶったそぶりで道を行った。風鈴の音が、どこかの家から響いていた。
 夜は外に出た途端に空気の温さが感じ取られた。風というほどのものも吹かず、停滞気味の鈍い空気に、両の手のひらがべたついている。頭が痒くなるような生温さに、室内にいても汗をかいて垢が身体に溜まり重なっているのだろう、昼間よりも肌が粘るような感じがした。空も鈍い。思いのほか雲が出ており、家の間近まで来ると、山の姿が薄墨色の空に侵食されて、境が淡く霞んでいた。

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2017/7/19, Wed.

 坂に降る蟬の声が、まだ合唱というほどでもないが厚くなりはじめている夕方、空は晴れ晴れと穏やかに青く、陽射しのなかにあってもさして背が粘らず、路上に掛かった蔭も水を含んだようにさらさらとした質感で伸びている。雲はほとんどなくて、僅かに混ざったそれよりも、膨張した太陽から押し寄せる光の波のほうが空に白さを刻印して、振り向けば西が一面、洗われたようになっていた。道行く男らの、シャツから伸びた腕がどれも血色良く染まっているのに引き換えて、自分の細腕は殊に青白く映るのだろうとふと思われた。こちらはそもそも夏であっても半袖を好まず、長袖を捲りながら毎年やり過ごしているのだが、この日はその袖を肘まで引き上げる必要を感じない、爽やかな空気の晴れの日だった。
 帰りは雲が湧き、煙に纏わりつかれたような濁った空に、昨夜はなかった背のべたつきが戻って、行きは引き上げずとも良かった袖を深く捲らされる。特に何があったわけでもないが、人のあいだで働くというのはいやに面倒だと、肉体と言うよりは精神の疲労倦怠に思いが流れて、周囲の物々もあまり耳目に入らず、自宅間近の下り坂の末端まで来てようやくひらいた景色に意識が向いて、黒影と化した木立の奥に川向こうの灯が、こちらの歩調に合わせてゆっくりと萎んではまたひらくように見え隠れするのに、侘しさの情が薄く滲むようだった。

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2017/7/18, Tue.

 前夜の帰路には既に雨の近づきを感じていたが、それがこの昼の二時前、驟雨となって顕在化した。窓の外が暗く沈んできたのにそろそろ来るなと洗濯物を仕舞ってからまもなく、降り出しから棕櫚の葉に当たる音の高くて、水を一気に零したような雨が始まり、早々に盛って、一時は窓ガラスに打ちつけるもので景色が歪んで流動化するほどだった。じきに終わって晴れの気配が見えたかと思いきやまたにわかに曇って降りはじめ、続くあいだも振れ幅が大きく、雨音が高まっては次の瞬間には収まり、近間に素早く滑りこんでは引いて行くのが、妙な言い方だが、機動性の高い雨だった。
 続いた時間は短く、三時半に出る頃には止んでいて、また降ってはと念の為に傘を持ったがこれは使う機会がなかった。まだ雨が残っているかのような水音が林のなかから立ち、露わになった陽射しにアスファルトからは湯気が立って、空気の流れに合わせて低く這いながら回転している。光には力があるが、たびたび流れる雨後の風が涼しくもある。裏道に曲がると、集合住宅の横、小公園の木からだろう、陽色の通った空気のなかにミンミンゼミの声が響くのが、夏めきを感じさせないでもなかった。数日前、自室にいるあいだに遠くで立つのを耳にしていたが、すぐ近くで鳴く声を受けるのは今夏初である。
 前日に続き、夜道には風がよく吹き通る。今日は冷たさを感じるほどの涼気ではないが、昨日より全体に気温が低いようで、実に久しぶりに、シャツの内が汗でべたつくことのない、心地の良い夜歩きだった。

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2017/7/17, Mon.

 蟬の羽音のばちばちと響く正午前の林から、夜の更けかかった帰り道まで、風の多い一日だった。夕刻の往路には熱が籠められて漂っていたが、柔らかな風が生まれて吹きこんで来ると、糸のように腕にまつわって、暖気を搔き混ぜ乱してくれる。陽射しは幸い雲に絡め取られて、街道を行く車の底から、影もほとんど湧かない。新聞屋の前、丁字路の角で白の百日紅が咲きはじめており、きめの細かい清潔な泡を丸く膨らませて枝先に受けたようになっているのを、遠目に見留めた。無造作な雲に濁りつつも明るい空に、西では大きな塊が丘の向こうから伸し上がるようにして天頂に突き出し、それとて暗むではなく、陽をしっかりと包みながら内からその光に浸されているのだろう、毛布のように穏やかで涼しい青に一面染められていた。道の終盤で振り返ると、光の切れ端が雲の際から沁み出して、空との境界部分が灼きつけられたように輝いていた。
 建物を出ると路面に水気が小さく残っているから、屋内にいるあいだに一雨通ったらしい。威勢の良い風が道を埋めるようにして正面から吹き流れ、そのなかに久方ぶりで、冷涼と言うべき感触の含まれているのが、更なる雨の予兆めく。雲はほつれながらも黴のように湧き、合間から暗みの覗く下を街道まで来ると、風がさらに勢いを増して草を煽り、木立からは葉擦れをざわざわ立てさせるのに、いよいよ雨の近いかと、いつ来るとも知れぬものが落ちはじめるのを窺うような目になったが、顔に触れるものはなかった。今夜中か、それとも明日にはと思って帰れば、翌日は雨だと聞かれて、さもありなんと得心が行ったものだ。

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2017/7/13, Thu.

 正午過ぎ、食器を空にしたまま卓に留まっていると、突然の雨が落ちはじめた。曇ってきたなとはぼんやり見ていたものの、風もなく、予兆らしいものも感じ取れず、降りはじめから間を置かず一挙に速度を上げる雨に、急いで立って洗濯物を取りこんだ。雨は短い一過性のもので、それから三時間ほど経って出かける頃にはふたたび陽射しが戻っており、脇から突き出した山百合が大口ひらいて斑点を晒している坂を上って行くと、駅の階段は光と熱の回廊と化していて、入れば液体じみた陽光に濡れそぼって激しく漬け込まれる有様、屋根の下でシャツの背をばたばたやりながら電車を待った。
 東京ではこの日が盆の入り、暮れには仕事で暇がなかったのだろう、夜道、料理屋の戸口で老夫婦が迎え火を焚いていた。斑状に掛かった雲の隙間に青が深く溜まって、なかに星が瞭然と灯ったその下、地上は気温が比較的低いようで、肌を撫でる微風のなかに涼しさの感覚が小さく含まれていた。月はそろそろ会えない頃かと見廻しながら、家の近間の坂の上まで来ると、出たばかりらしく赤みがかって低い姿が市街の空に見られて、揺らぐ水面[みなも]に映った鏡像さながら、細い雲を差し込まれて折り目を付けられたように乱れていた。

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2017/7/12, Wed.

 振り向いた窓が、いつの間にか仄暗くなっていた。流していた音楽の裏に風の音を聞いたように思ったのは、あれはどうやら遠い雷の響きだったらしい。時刻は二時、洗濯物を取りこみに行くとベランダには既に散るものがあって、吊るされたものを室に収めてまもなく、夕立めいて駆け出した。地上は薄暗いが南の空には青さが見えていて、明るみが半端なように混ざって不調和ななかを雨はしばらく盛り、止まったあとには遠くから、気早な蜩の声が一つだけ、細くかすかに伝わった。
 夕刻、風が林を駆け回り、大きな鳴りを起こす。坂に入っても頻りに周囲が立ち騒ぎ、目を落としていると車が来たかと錯覚するほど、そのなかを抜けて出口間際で、木立の一番端に立った樹が搔き回されるのを見上げていると、にわかに動きが強まって、既に乱れていたものに拍車が掛かってさらに荒れ、くっきりと重いような響きの降ってくる下を過ぎたあとから、遅れて厚く、風が正面から顔に吹きつけて来た。道中も風が時折強く走るなかを、吹き飛ばされる落葉のようにして雀が宙を滑り、飛び交っている。家の傍ではかすかな滴が顔に散って、瞼のあいだに入りこんでも来たが、それもいつかなくなって、傘を使う用は生じなかった。
 帰路、道端の樹の木末が黒くわだかまり、縺れたような影となって、その向こうに覗く空は樹影とほとんど色の差異も見られず、月も星もなくて暗く墨色に沈んでいた。前日までは歩いていれば、足を炬燵に突っ込んだように靴のなかが温もったものだが、この夜は雨のあとで、大層緩いが風があり、暑気は多少ましなようだった。それでも血が身体を巡るうちに、襟足がやはり濡れてくる。家の前、戸口のすぐ下まで来たところで東南の空に、不注意でちょっと擦り付けてしまったかのようなオレンジ色の断片を見つけた。見つめていると目の錯覚でその輪郭が膨張と収縮を繰り返すのだが、それにつれて色の範囲も実際にゆっくりと広がって円みを帯びて行き、少々欠けた月の形を成したかと思うと、膨らんだ時と同じ緩慢さで周縁部から少しずつ嵩を落として行くのに、完全に消えてしまうか否かと物語の先を予想する心で見守っていると、月は果たしてくすんだ雲の膜に呑みこまれ、表面に何の痕跡も残さず隠れきって、綺麗な終演が訪れた。

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2017/7/11, Tue.

 風の厚く吹き流れて葉擦れの賑やかに膨らむ日中、走るものに拍車が掛かって、甲高く細い唸りの鳴り出す時間があった。四時前ではまだ陽も盛って侵すように肌に沁み入るそのなかを、近間の最寄駅へと向かって行く。坂に入ると正面の樹々が木洩れ陽と緩い風を受けて、天然の電飾さながら、ゆったりと明滅する光をあちらこちらに湛えて緩慢に騒いでいる。駅に着くまでのあいだに既に汗にまみれ、やっと入った屋根の下にも北から明るい陽射しが寄せており、ベンチに座っても脚から腰まで分厚い熱に浸される有様、堪らず立って、ホームの端に僅か残った日蔭のなかに避難した。外では草が緑のなかに、磨きすぎたあまりに削れてしまったような純白を宿して、鷹揚に揺らぎながらもしかし同時に、硬化して金属に変じたかのごとき感触を表面に貼り付けていた。屋根に遮られて小さくなった空の隅、溜まった雲の、光に貫かれて浮き彫りとなっているのが蔭のなかから眺めていても大層眩しく、そこばかりを見つめているとその輝きに中てられたのか、見慣れた平生の居場所を離れて、旅の途上で初めて見る空の下にいるような、そんな錯覚が兆しかねない瞬間もあったようだ。
 月は出が遅れて低く、昨夜は真白く照り映えていたのがこの晩は黄味を強めながら右肩を隠しはじめていた。暑い夜道に、髪の内に湧く汗がくすぐったい。下り坂に入るとこの日も、風に触れられて回転しているかのような虫の音が周囲に立ち、それはあるいは、ぜんまい仕掛けの玩具が木立の奥で駆動しているかのようでもある。そのなかを通って、木の伐採されてひらいた斜面の脇に掛かると、寝かされた丸太の放つ香りか、熟したような甘さが立ち昇って鼻を刺激した。

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