2019/8/24, Sat.

 ぼくらは 高原から
 ぼくらの夏へ帰って来たが
 死は こののちにも
 ぼくらをおもい
 つづけるだろう
 ぼくらは 風に
 自由だったが
 儀式はこののちにも
 ぼくらにまとい
 つづけるだろう
 忘れてはいけないのだ
 どこかで ぼくらが
 厳粛だったことを
 (『石原吉郎詩集』思潮社(現代詩文庫26)、一九六九年、43; 「風と結婚式」; 『サンチョ・パンサの帰郷』)

     *

 だれもが いちど
 のぼって来た井戸だ
 ことさらにふかい
 目つきなぞするな
 病気の手のゆびや足の指が
 小刻みにえぐった
 階段を攀じ
 やがてまっさおな出口の上で
 金色の太陽に
 出あったはずだ
 泣かんばかりのしずかな夕暮れを
 それでも見たはずだ
 花のような無恥をかさねて来て
 朝へ遠ざかるのが
 それでもこわいのか
 病気の耳や
 病気の手が
 そのひとところであかく灯り
 だれもがほっそりと 
 うるんで見えるなら
 それでも生きて
 いていいということだ
 なべかまの会釈や
 日のかたかげり
 馬の皮の袋でできた
 単純な構造の死を見すえる
 単純な姿勢の積みかさねで
 君とおれとの
 小さな約束事へ
 したたるように
 こたえたらどうだ
 (45~46; 「病気の女に」全篇; 『サンチョ・パンサの帰郷』)


 一一時半まで寝坊。汗を搔いていた。布団を身体から剝ぎ取り、ハーフ・パンツを履いて上階へ。母親はこちらが高校生の時の保護者仲間と食事に行っている。天気は晴れに寄っており、陽射しがあって、ベランダには洗濯物が出されていた。冷蔵庫を覗くと餃子が二つ残っていたので電子レンジに入れ、そのあいだに便所に行って放尿した。戻ってくると白米をよそって餃子とともに卓に置き、新聞を瞥見しながらちまちまとものを食った。食べ終えれば抗鬱薬を服用し、食器を洗って風呂へ、背を丸め腰を曲げて手すりを掴みながらブラシで浴槽を擦り洗う。終えると出てきて下階に戻り、Twitterを眺めたり、前日の記事に記録を付けたりしてから日記に取り掛かった。一二時半過ぎだった。それからちょうど一時間で、前日の記事を綴り、この日の記事もここまで書いている。
 それから二時に至るまでのあいだは確かまたTwitterを眺めたりしていたのではないだろうか。そうして大体二時ちょうどに、インターネット上に昨日の記事を投稿した。そして洗濯物を取り込むために部屋を出て上階に行った。白いポロシャツによくある青さのぱっとしないジーンズを履いた姿の父親がソファに就いていた。その背後を通り、ベランダに出て吊るされた物々を室内に入れていく。障子を向こうに据えたガラス戸に、裾の溶けた雲の浮かぶ薄青い空が淡く映り込み、ありきたりな印象ではあるがガラスかその先の障子に絵が描かれているようだった。洗濯物をすべて取り込んでしまうと、まずバスタオルから始めてタオル類を畳んで行った。次に両親の寝間着や肌着である。ソファの背の上で畳みながら目の前のソファに腰掛けている父親の後ろ姿を眺め、その側頭部の一番端、耳に近いところの髪の毛が白くなっているのを見て、歳を取ったものだなあとの感慨を催した。同時に、歳を取ると子供に戻っていくようなタイプの人間と、聖人のような鷹揚さを身につける人間とに分けられるのだとしたら、うちの父親はおそらく前者のタイプだろうなと密かに思って、来たる父親の退化を先取りして煩わしく思った。
 洗濯物を畳み終えると自室に帰って、読書に掛かることにした。栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』である。クッションや枕に上体を預けてベッドに横になり、扇風機の風を浴びながら読みはじめたのだが、例によっていくらも読まないうちに眠気が身中から湧き出し籠って瞼を下ろした。一体何故、夜には眠くならないのに、日中にばかり眠ってしまうのか? そういうわけで実際読んでいた時間は三〇分ほどくらいしかなかったと思う。意識を覚醒に固定出来た頃には既に四時一八分だった。
 出勤前に食事を取るために上階に行った。テーブルの上には母親が頼んだELTか何かのチケットが届いて置かれてあった。メルカリでお礼のメッセージを送る必要があるためだろう、チケットが届いたらメールをしてくれと母親に予め言われていたのだが、父親がもう送ったのだろうかと思い、南窓の網戸を開けて、眼下で畑の周りの草を刈っている父親に呼びかけた。メールを送ったかと訊くと送っていないと言うので了承し、一旦室に戻って携帯で母親にチケットが届いた旨を報告しておいてから、ふたたび上階に上がった。冷蔵庫から前夜の残り物――モヤシやカニカマのサラダに、雪花菜と胡瓜のサラダ――とゆで卵を取り出し、卓に就いて黙々と食った。そうして食器を洗うとさっさと階段を下り、歯ブラシを咥えながらMさんのブログにアクセスした。歯を磨きながら二日分の記事を読み、その後、Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』を流しだし、弦楽が優美な旋律を奏でるのを聞きながら服を着替えた。そうして日記の加筆に取り掛かり、ここまで書き足して五時一〇分、そろそろ出発の時間である。
 クラッチバッグを持って部屋を抜け、階段を上ると仏間に入り、アーガイル柄の入った真っ赤な靴下を履いた。そうして玄関に行き、暗褐色の靴を履いて外に出ると、扉を開け放したまま階段を下りてポストに近づき、夕刊を取って戻った。新聞を台の上に置いておくともう一度戸をくぐり、扉の鍵を掛けて道に出た。作業着を着込んだ父親は家の斜め向かいの敷地で小さな畑の周りの草を毟っていた。そちらの方に視線を投げてもあちらはしゃがみこんだまま視線を寄越さないので、手を上げることなくそのまま西へ向かって歩き出した。林からは織り重なる激しい電磁波のような蟬の声が降り注いでいた。道を行っている最中、今日は土曜日だったと思い出した。そうすると普段と電車の時間が異なっており、ただでさえ少ない本数が土日はさらに少なくなったりするので、ことによると勤務開始時間に間に合わないかもしれないぞと思った。それでなるべく早く駅に向かうことにして速足で歩き、坂道に入って、蟬時雨が空間に浸透して身を包み込むなかを上がっていく。駅に着くとちょうど奥多摩行きが入線して乗客が何人も降りてきたところだったが、こちらが乗るのは青梅行きである。掲示板で電車の時刻を見ると、五時台の電車は五時五分か五〇分かしかない。現在時刻は五時二〇分頃だった。五〇分のものに乗ればぎりぎり間に合うことは間に合うし、今日の勤務は一コマだけなので準備をほとんどしなくともどうにかなるだろうと判断して電車を待つことにした。それで階段口に掛かると、前から母親が下りて来たので、あ、と声を出し、相手が気づくとおかえりと言った。すぐに別れ、こちらは階段を上り下りしてホームへ、ベンチに座って手帳を取り出したが、首筋や腕に汗がべたべたと湧いていたので、一方でハンカチを取って肌の水気を拭った。しばらくのあいだ、駅にはこちらしか人影がなかった。箒で地面を掃いている音がどこかから響き、蟬が時折り宙に飛び立って翅音を立て、こちらの足の周りには蚊が一匹寄ってきて、スラックスと靴下に阻まれて肌に着地し血を吸うことが出来ないのに、未練がましくいつまでもそのあたりを飛び回っているのだった。手帳を読みながら暗唱のために目を閉じると、まろやかで優しげな風が肌を涼しくしてくれるのを感じた。
 五〇分に至る頃、席を立ってホームの先に歩いていき、やって来た電車に乗り込んだ。車内は混み合っていた。土曜日なので山に行ってきた行楽客がちょうど帰る時刻だったのだろう。こちらの傍らには腕に入れ墨を彫り込んでサングラスを掛けた背の高い――バスケットボールでもやっていそうな――黒人が立っており、仲間と話をしているなかに日本人らしき女性も一人含まれていて、英語で会話をしていた。その会話に密かに耳を立てたり――しかし全然聞き取れなかった――手帳の情報を頭のなかで反芻したりしながら揺られて、青梅に着くと降りて階段を下った。
 職場に着くとすぐに支度を始めて、まもなく授業である。今日の相手は(……)くん(中三・英語)及び(……)さん(中三・英語)。二人相手で余裕があったこともあり、今日の授業は全体的に上手く行った。二人の傍らに立ちながら進行を見守り、答え合わせを待たずに介入するべき時には即座に介入することが出来たのが良かった。その結果、そこから滑らかな流れでノートに事項を記録させることも出来たわけである。やはり問題をやっている途中でも、何か解説をしたらその場ですぐに記録させてしまうのが良い。(……)さんは以前当たった時にはこちらに見つからないように携帯を弄っていたのだが、今日はそのような様子は観察されなかった。ただ、こちらが場を離れてしまうと問題をなかなか進めず俯いた状態でいるのだが、あれは何をやっているのだろうか。
 授業を終えてさっさと退勤し、駅に入った。普段なら先発の電車に間に合う時間だったが、土曜日なのでそれも普段より早かったようで、既に経ってしまっており、八時一四分発の電車まで待たなくてはならなかった。ホームに上がると例によって自販機でコカ・コーラを買い、木製のベンチに就いて手帳を眺めながら漆黒色の炭酸飲料を胃にゆっくりと流し込んだ。
 そうして奥多摩行きが来ると乗り、引き続き手帳に記された知識を頭のなかで反芻しながら時間が過ぎるのを待ち、最寄り駅に降り立った。空気はそよとも動かず、温みが宙に宿っているのが感じられたが、電車が動き出すとそれに応じていくらか風も生まれた。駅舎を抜けて坂道に入ると、今日も闇の奥から、鈴虫の幽幻な声が立って彷徨う。チリン……チリン……チリン……チリン、と四音を一単位としてたっぷりと間を置きながら鳴いていた。
 坂を下りて平らな道に出る間際で、どこか遠くの方から花火でも撃っているような響きが伝わってきた。どこぞで祭りでもやっていたのだろうか。クラッチバッグを手に提げながら夜道を行き、家の近くの林の前まで来ると、多種多様な無数の秋虫の声が周囲から替わる替わる立って交錯した。
 家に入るとワイシャツを脱いで洗面所に置いておき、下階に戻って服を着替えた。そうして食事へ。上っていき、台所に入って茄子の味噌汁を椀によそって電子レンジへ、それから鮭も温める。一方で米をよそり、レタスや胡瓜などの生サラダを大皿へ盛った。そうして卓に就き、テレビには録画したものだろうか、ドラマ『凪のお暇』が掛かっているなか、ものを食べた。食べ終わる頃、母親がセブンイレブンの、あれは手羽元だっただろうか、小さな骨付きの鶏肉を温めて持ってきてくれたので、それも口に入れてもごもご咀嚼し、骨を吐き出しながら食った。そうして食器を洗ってテーブルを布巾で拭くと、風呂に行ったのだが、母親が湯沸かしスイッチを押すのを忘れていて浴槽は空だった。それなのでスイッチを押しておき、湯が湧くまでのあいだ下階に戻って英文メールを綴りはじめた。と言うのも、モスクワから東京に戻る飛行機のなかで席が隣になって会話を交わしたJからメールが届いていたのだ。本当にメールを送ってきてくれて驚く気持ちもいくらかあるが、彼はI'll write you laterと繰り返し言っていたし、その念押しの様子が社交辞令には見えなかったので、多分実際に送ってくるのではないかなと思っていたのだった。それでいくらか文を綴ったあと、九時半頃になって風呂に行った。さっさと湯を浴びて上がり、パンツ一丁で部屋に戻ると、引き続きオンラインの辞書を駆使しながらメールを綴った。以下の文面が完成する頃には、一一時を迎えていた。

Hello, J!

First of all, thank you very much for really writing to me. I'm so glad to hear from you.

Since coming back to Japan, I have been engaging in reading and writing same as before. As you know, I'm working as a cram school teacher, so my service usually starts in the evening. I read books or write my diary for the rest of a day.

Please let me introduce myself again here.

I'm 29 years old. I graduated from Waseda University in 2013. I studied the Western History in the university and wrote about The French Revolution in my graduation thesis (But I was a BAD student and it was a terrible paper as I think of it now). I rather got interested in the literature since a little before the graduation. Then I started reading some works, and I've been fascinated with the literature. Since then, I have been reading many books and writing some texts while working as a part-time jobber (In Japan, they generally call someone like me a "freeter" ).

I came across the literature in 2013 and I started writing at the same period. I write my diary everyday. My journal is rather special, I guess. It may feel strange to some people. I write EVERYTHING about my life from the time I get up to the time I go to bed. Therefore my daily stuff becomes so long that ordinary people don't want to read it. It takes an hour or two hours, and sometimes three hours and more to complete my daily work.

I used to dream about creating a great novel. But now I don't think much about it. Instead, I'm devoting my life to writing my diary. I'm crazy about documenting almost everything about my life and my world. I have a grandiose idea that I write until the day I die. It is not some analogy or exaggeration. I do hope so.

Well, I'm a kind of man like this. Then, If you have time to do that, would you let me know about your life so far?

You said you were flying to South Korea. It sounds nice. Sad to say, relationship between South Korea and Japan is getting very bad in the present. But I personally don't have any bad impression about South Korea. What do you go to South Korea for? I hope that you will enjoy your trip. And I wish to meet you somewhere and enjoy talking.

Excuse me if my English feels strange to you, for I have never written a letter in English! (I looked in a dictionary a lot to write this message!)

Best regards,
S.F

 沖縄のHさんからも今月初めにメールが届いており、モスクワ行きなどで忙しくて返信を書けずにそれを放置してしまっているのが心苦しいのだが、今日は英文を綴るのにだいぶ力を使ったので、彼女へのメールはまた別の日に綴ることにする。彼女はシカゴの神学校で神学修士の学びを始めるのだと言う。凄い。
 それから Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』とともにこの日の日記を書き足して、現在ちょうど日付が替わるところである。
 その後、ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』の書抜きを行い、さらに星浩「3・11、小沢一郎氏との抗争…混乱続いた菅政権 平成政治の興亡 私が見た権力者たち(17)」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019052300004.html)を読んだあと、ベッドに移って書見に入った。栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』である。二時四〇分まで読んで明かりを落とし、就床したのだが、眠気が皆無だったので、とても眠れる予感がしなかった。


・作文
 12:37 - 13:37 = 1時間
 16:56 - 17:10 = 14分
 23:13 - 23:59 = 46分
 計: 2時間

・読書
 14:22 - 16:18 = (1時間半引いて)26分
 16:41 - 16:53 = 12分
 24:04 - 24:28 = 24分
 24:36 - 25:04 = 28分
 25:06 - 26:42 = 1時間36分
 計: 3時間6分

・睡眠
 3:00 - 11:30 = 8時間30分

・音楽

  • Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』
  • R+R=NOW『Collagically Speaking』

2019/8/23, Fri.

 さびしいと いま
 いったろう ひげだらけの
 その土塀にぴったり
 おしつけたその背の
 その すぐうしろで
 さびしいと いま
 いったろう
 そこだけが けものの
 腹のようにあたたかく
 手ばなしの影ばかりが
 せつなくおりかさなって
 いるあたりで
 背なかあわせの 奇妙な
 にくしみのあいだで
 たしかに さびしいと
 いったやつがいて
 たしかに それを
 聞いたやつがいるのだ
 いった口と
 聞いた耳とのあいだで
 おもいもかけぬ
 蓋がもちあがり
 冗談のように あつい湯が
 ふきこぼれる
 あわててとびのくのは
 土塀や おれの勝手だが
 たしかに さびしいと
 いったやつがいて
 たしかに それを
 聞いたやつがいる以上
 あのしいの木も
 とちの木も
 日ぐれもみずうみも
 そっくりおれのものだ
 (『石原吉郎詩集』思潮社(現代詩文庫26)、一九六九年、42~43; 「さびしいと いま」全篇; 『サンチョ・パンサの帰郷』)


 一一時半まで寝過ごす。もう少し早く起きたいところだ。やはり夜更しをし過ぎなのかもしれない。パンツ一丁のほとんど裸の格好で眠っていたので、布団を身体から引き剝がすとハーフ・パンツを履き、肌着の黒いシャツは手に持って部屋を出た。階段を上がったところでシャツを身につけ、母親の書き置きを確認すると、ピラフがあると言う。それで冷蔵庫からピラフと、前夜のエノキダケの汁物の残りを取り出し、ピラフは電子レンジへ入れて、スープは椀によそった。電子レンジが稼働しているあいだにトイレに行って放尿し、また洗面所で顔を洗うとともに後頭部の寝癖に整髪ウォーターを吹きかけた。そうして出てくると次は汁物を電子レンジに入れ、そのあいだに自分はピラフを持って卓に移って食べはじめた。新聞の一面は、韓国が日韓の軍事情報協定を破棄したという話題を大きく取り上げていた。それを読みながらピラフと汁物を食べ、食べ終えると台所で皿を洗ったのち、抗鬱薬を服用した。そうして米を磨いでおくことにした。台所の調理台の下の収納から笊を一つ取り出し、玄関に出て戸棚のなかの米袋から三合を掬い取る。それで流しに戻って洗い桶のなかで米を磨ぎ、炊飯器の釜にもうすぐに入れてしまって、水も注いで六時五〇分に炊けるよう設定しておいた。それから風呂洗いである。済ませると下階に下りていき、自室に入ってコンピューターを点けた。Twitterを少々眺め、そのほかインターネットもちょっと回ってからFISHMANS『Oh! Mountain』とともに日記を書きはじめたのが一二時五〇分だった。そしてここまで一〇分も掛からずに記している。
 その後、音楽はBorodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』に移しながら、三時まで二時間ほど文を綴った。例によって、プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』の感想を綴るのに時間が掛かったのだった。感想や分析、考察の類を綴るのは、概ね自らの生活をただ時系列順に追っていけば自ずと出来上がる普段の日記を記すのとは違い、それで一つの論理や文脈の筋道を構築しなければならないためになかなか難しく、骨が折れ、手間が掛かるのだが、細部まで力を込めて構成した文章を完成させることが出来ると、充実感もひとしおである。その感想文も含んだ前日の記事をインターネット上に投稿すると、上階に行った。冷蔵庫から茄子焼きと胡瓜と豚肉を和えたサラダ――どちらも前日の残り物だ――を取り出し、卓に就いてそれらを食した。これらを食べているあいだは新聞を読んだのだったか否か、覚えていない。食べ終えると台所で使った食器を洗い、階段を下りていって、食事の余韻も味わわずにすぐに洗面所で歯ブラシを取って口に突っこんだ。そうして室に戻り、歯を磨きながらMさんのブログを読みはじめた。その後口を濯いできてから仕事着に着替え、引き続きMさんのブログを読んで二日分を通過すると、今度はプリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』のメモを取りはじめた。書抜き候補の頁をメモしておいた読書ノートを見ながら本の当該頁を振り返って参照し、メモするべきだと思う文言があれば手帳にメモを記していく。そうして四時半に達したところで手帳を閉じ、コンピューターをシャットダウンしてクラッチバッグに荷物を入れ、部屋を出た。階段を上って仏間に入ると、踝までの短い靴下を履き、さらに居間の引出しからハンカチを取ってポケットに入れ、玄関に向かった。焦茶色の靴を履いて扉をひらき、階段を下りてポストに寄ると夕刊を取り出し、玄関に戻って台の上に置いておいた。それから姿見に全身を映してみると、首もとまで高く覆うタイプの黒い肌着がワイシャツの隙間から覗くのが野暮ったかったので、第一ボタンを留めた。そうして玄関を抜けて出発、林から空間を搔き乱す蟬の叫びが大挙して湧出しているなか、道に出た。西へ向かって歩いていき、十字路に至ると、ここではツクツクホウシの弾ける撥条のように弾力的な鳴き声が木の間から飛び出していた。坂道に入り、アブラゼミの声が天蓋を成すなかを上って行って、駅に到着すると、ちょうど青梅行きが入線してきたところだった。腕時計を見て発車まで二分あることはわかっていたが、一応急ぎ足で階段を上り下りし、一番手前の車両の開いていたドアから乗り込んだ。そうして扉際に立ち、手帳を見やる。
 青梅に着くと降り、ホームを先の方へと移動した。職場に行くにはまだ早すぎる時間だった。それなら次の電車で来れば良かったのにと思われるだろうが、一時間に一本または二本しか電車のない田舎路線なので、この次の電車に乗ってくると、それでも勤務には勿論間に合うものの、予習などの準備の余裕を考えると少々遅い時間になってしまうのだった。それで今日は早めに青梅駅に到着し、手帳を見ながら時間を潰してから職場に向かうつもりだった。ベンチに座ろうかと思っていたのだが、今しがたこちらの乗ってきた電車が奥多摩行きに変わって、五時九分発となっていた。その時間まで駅に留まってそれから職場に行けばちょうど良かろうというわけで、冷房の掛かって涼しい車内で時間を潰すことにして、車両に乗り込み、座席に就いて脚を組んだ。車内は涼しかったが、すぐには汗が引かず、首筋や髪の裏の頭皮にじわじわと滲み出す感触があったので、尻のポケットからハンカチを出して首もとを拭った。そうして手帳を見つめながら時間を過ごし、向かいの番線に奥多摩行きに接続する電車がやって来たのを機に降りて、階段を下りた。通路を辿り、改札口まで来るとすぐにはくぐらず、精算機に寄ってSUICAに五〇〇〇円をチャージした。それから改札を抜けて職場に向かった。
 勤務開始の六時までにはだいぶ時間があったので、余裕を持って予習をすることが出来た。一コマ目は(……)くん(中一・英語)と(……)(高三・英語)。(……)くんは来て早々今日は駄目だと呟いて、序盤はやる気なさげにしていたのだが、最終的には三頁を扱うことが出来たのでそれほど悪くはなかった。前回、When及びWhereの疑問文を習っていたのだが、授業冒頭の前回の復習の際に、そのあたりの知識の定着がいまいちだったように思われたので、前回と同じくWhen及びWhereの頁をまず扱った。その後復習として、How much ~? の表現の頁を二頁やってもらった。ノートもそこそこ充実させることが出来た。(……)は今日から長文を扱いはじめた。出来はまあまあといった感じ。まだまだ語彙が足りないようではある。せっかく二対一で余裕があったのだから、もう少し細かく、一緒に読んでいくようなことをすれば良かった。
 二コマ目は一コマ目から引き続き(……)(高三・国語)と、(……)くん(中三・社会)、(……)さん(中三・社会)。社会の二人は両方もう歴史に入っている。歴史は説明することが多いのでなかなかに忙しく、喋る量も多くて疲労した。社会が二人までならまだ何とか回せるが、三人とも社会になったりするとかなり厳しいだろう。(……)くんの方は間違いやわからなかったところが多かったので、問題を解き終わったあとに解答を覚えてもらう時間をいくらか取った。これはなかなか良い方策かもしれない。こちらも時間の余裕が取れてそのあいだほかの生徒に当たっていられるし、生徒の方も知識を頭に入れることが出来るからだ。自分で解答を見ながら覚えることが出来る生徒が相手だった場合は、そうした時間を取っていくのが良いだろう。(……)さんは、この子も打ち解けてくれているのかいないのか、好感を持ってくれているのかいないのか、いまいちわかりにくい相手である。笑みを返してはくれるので、多分多少打ち解けてはいるのだと思うが、その笑いが困ったような感じであり、普段の表情も微かに不安気な仏頂面、といったような感じなので、どこまで打ち解けているのか確かなところが掴めないのだ。それでもコミュニケーションに問題はないし、授業は真面目に受けてくれるので、支障はないのだが。(……)の国語は西郷信綱の文章などを解説した。自分で進めて自分で疑問点をこちらに訊いてきてくれるので、やりやすいはやりやすいのだが、その代わりに今日は授業内容ややや薄くなってしまったような気がする。もう少し突っこんだ指導をしたかったのだが、社会の二人に追われてなかなか出来なかった。
 授業後、片付けやプリントのコピーなどをしてから退勤。時刻は九時半を過ぎてしまったので、一〇時台の電車で帰らなければならない。職場を出るとその目の前で、工事をしていた。道路の脇を掘り返しているその横を係員の誘導に従って渡り、駅に入ってホームに上がると、自販機に寄っていつものようにコカ・コーラを買った。そうして木製のベンチに座ってバッグから手帳を取り出し、コーラを飲みながら情報を追う。線路の向こうからは秋虫の翅を擦り合わせる音が響いていた。ひらひらと舞い上がるように甲高い、回転性の鳴き声である。手帳の内容は一項目ずつ、目を閉じて暗唱出来るくらいになるまで読み込んでいき、奥多摩行きがやって来ると車内に移って三人掛けに腰を下ろした。そうして引き続き手帳を追い、瞑目して頭のなかで情報を唱え、最寄り駅に着くと降車した。正面から、つまり西方向から心地良い風が走ってくるなか、顔を俯き気味にしてホームを歩いていく。ホームの端には一匹、蟬が伏せており、階段の途中にも一匹落ちていたが、どちらももう死にかけだったのか、騒ぐことはせずに静かに地に佇んでいた。駅舎を抜けて横断歩道を渡り、坂道に入ると、闇の奥へとこちらを誘い込むように鈴虫の、鬼火のごとく細かく震えながら鳴る声が浮かび漂う。ここでも風が吹いて巨大な生き物のような木の影が足もとで暴れ交錯し、しばらく進むあいだも路上は騒がしかった。雨が来るのだろうかと思った。それとも雨が去ったあとの風だったのだろうか。坂を出て平らな道を行き、自宅の傍まで来ると林から多数の虫の音が湧き出しているが、駅で聞いた秋虫の音はそのなかになく、どれも無色の地味な色合いで、空気をあまり孕まず詰まったような散文的な声だった。
 帰宅すると居間には寝間着姿の母親がテーブルに就き、父親はいつもの炬燵テーブルの座で食事を取っている。テレビには多部未華子が映っているので、『これは経費で落ちません!』というテレビドラマだなとわかった。ワイシャツを脱いで洗面所に置いておき、下階に戻ってコンピューターを点けるとともに服を着替えた。Twitterなどをちょっと眺めたあと、食事を取るために上階に向かった。夕食のおかずは主に餃子である。醤油を掛けて、細かく千切りながら米と一緒に咀嚼するそのあいだ、テレビは先のドラマを放映していて、多部未華子が夜の公園でブランコに乗りながら何か思い悩んでいて、最終的に涙するのだったが、瞥見したその映像がシチュエーションからしてもう紋切型極まりなく、音楽にしても台詞にしても演出にしてもありきたりそのもの、よくもここまで恥ずかしげもなく「物語」出来るなという類のもので、こちらはそれらの諸要素によって醸し出される全体的な「物語」の雰囲気からしてもう辟易してしまうのだが、一方炬燵テーブルでは父親が真剣な表情をしながらテレビ画面を注視しているのだった。それでドラマには興味が湧かなかったのであまり目を向けず、夕刊の一面に目を落としながらものを食った。一一時に至るとドラマは終わって、何かのドキュメンタリー番組が始まった。女性たちが数人、テーブルに集って食事を取っている場面が映される。最初、『ドキュメント72時間』かと思ったのだがそうではなく、女性らのなかの一人は右手が肘までしかないのだった。パラリンピックに出場する陸上アスリートの何とかいう人と、そのコーチである何とかいう人のドキュメンタリーだった。インタビューに答える二人の真摯な飾らない表情を見て、先のドラマを全篇見るよりも、この表情が映っているワンカットを見るほうがよほど興味深いなと思った。テレビ番組というものはもはや大概どうでも良いものばかりなのだが、ドキュメンタリーはまだ比較的見ることが出来るようだ。それから、母親が一つだけ買ってきたと言ってバニラアイスを持ってきたので、半分ずつ分けて頂き、そのあとで梨を食ったが、アイスの甘味によって梨の甘味は駆逐されていた。
 そうして抗鬱薬を飲み、食器を洗ってテーブルを台布巾で拭くと、入浴に行った。浴室に入ると、いつものことなのだが、風呂の蓋の上に水気がびしょびしょに散らばっていた。一体どのようなシャワーの浴び方をしているのか、父親が入ったあとは必ず蓋の上がびしょ濡れになっているのだ。そこにタオルを置くと濡れてしまうため、フェイス・タオルはひとまず窓際の縁に避難させておき、蓋をひらいて湯に浸かり、湯を両手で掬って顔を洗って脂を流した。しばらくしてから出てくると、パンツ一丁で下階に下り、コンピューターの前に就いてLINEにログインし、Tに八月三〇日は何時から集まるのかと訊いた。決めていなかったと言って彼女はグループの方に、何時にしようかと問いかけるメッセージを投稿し、それに応えてT田が、結構作業に時間が掛かると思うから一〇時集合で良いかと投稿した。結構早いが、こちらは特別にやることもないので、あとから合流したって良いわけである。
 それからLed Zeppelin『How The West Was Won』と一緒に、ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』の書抜きをした。三〇分ほど打鍵したあと、さらにこの日の日記を綴りはじめた。これも三〇分強続けて、そうして次に、星浩「逆風に沈んだ麻生首相、未熟だった理念の鳩山首相 平成政治の興亡 私が見た権力者たち(16)」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019050900010.html)を読んだ。鳩山由紀夫が内閣を作っていた二〇〇九年はこちらは一九歳、まだまだ未熟極まりなく、当然文学にも出会っていないし、政治というものにもまったく興味がなかった。それで当時のことは全然覚えていないのだが、年末の一二月には鳩山由紀夫の脱税疑惑問題が出来したと言う。母親から毎月一五〇〇万円もの贈与を受けながら納税していなかったために、鳩山氏は修正申告して約六億円を追加納税したと言うのだが、小遣いとして毎月一五〇〇万もの金を貰えることと言い、追加で一気に六億円もぽんと納税出来ることと言い、一体鳩山家の資産はどうなっているのだと驚愕した。羨ましい。こちらは一億円でもあれば一生暮らしていける自信がある。
 一時を過ぎて記事を読み終えると、ベッドに移って栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』を読みはじめた。三時まで読んで就床したのだが、予想した通り眠気は一向にやって来なかった。一時間経っても眠れなかったら起きて本を読もうと考えていた。それでこの日のことを脳内で振り返り、たびたびあらぬ方向に逸れていく思念を誘導して記憶を探りながら床に臥していたのだが、そうしているうちに三時五五分に達したので、一時間には五分足りないがもう起きてしまうことにして、ベッドから身体を下ろして電灯のスイッチを入れた。そうしてふたたび書見に入ったのだが、ここに至って遅れ馳せながらそのうちに眠気が湧いたようで、いくらも読み進めないうちに意識を失ったらしかった。


・作文
 12:50 - 15:01 = 2時間11分
 24:06 - 24:41 = 35分
 計: 2時間46分

・読書
 15:27 - 15:53 = 26分
 16:02 - 16:30 = 28分
 23:35 - 24:03 = 28分
 24:44 - 25:14 = 30分
 25:25 - 27:00 = 1時間35分
 計: 3時間27分

・睡眠
 2:30 - 11:30 = 9時間

・音楽

  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』
  • Led Zeppelin『How The West Was Won』

2019/8/22, Thu.

 霧のある夜がとりわけて
 自由だとはいわぬ
 君らにどこで行き遭おうと
 君らと僕らのけじめはないし
 告発の十字砲火で
 みごとに均らされたこの町では
 人があるけば
 どこでも大通りだが
 まれには まともな傷口が
 それでも肩ごしにのぞくとなると
 霧のある夜と ない夜とでは
 うしろめたさも
 ちがうというものだ
 重心ばかりをてっぺんにおしあげた
 お祭りさわぎの魔女狩りの町では
 やつさえいっぱしの
 ジャコバン党だが
 どこでうちおろす石槌でも
 火花の色がおんなじなら
 誰が投げ出す金貨にしても
 おもてと裏がおんなじなら
 鞭と拍車が狎れあう町へ
 霧よ ためらわずに
 おりてこい!
 (『石原吉郎詩集』思潮社(現代詩文庫26)、一九六九年、28~29; 「霧と町」; 『サンチョ・パンサの帰郷』)

     *

 いつ行きついたのか
 歩行するものの次元が
 そこで尽き やがて
 とまどい うずくまる――
 意志よりも重い意志が
 遮断機よりも無表情に
 だまって断ちおとした未来
 その赤ちゃけた切口に
 たとえばどんな
 決断の光栄があるか
 またたくまに
 風となった意志
 たんぽぽを抜き
 おれは踵[くびす]をめぐらそう
 もはやおれを防ぐものはなく
 おれが防ぐものが
 あるばかりだ
 そこに立ちどまって
 みせるな
 カンテラよりも
 おろかなやつでさえ
 おれを笑うことを知っている
 重たく蹴おとした意志の
 むこうにあるものはいつも
 明るく透明であるほかに
 なんのすべをも知らぬ
 能なしの夜明けだけだ
 (37~38; 「絶壁より」; 『サンチョ・パンサの帰郷』)


 一〇時半起床。睡眠時間は八時間。悪くはないが、もう少し早く起きられたはずだとも思う。上階に行き、洗面所で顔を洗って、整髪スプレーを後頭部に振り掛けて手櫛で寝癖を押さえておくと、台所に出て冷蔵庫を開けた。前夜の残り物――豚汁と鰆か何かの煮魚――があったのでそれらを取り出し、それぞれ火に掛けたり電子レンジに入れたりして温めた。そうして食卓に就き、食事を始めながら新聞に目を落とす。一面には日韓外相会談の模様が伝えられていた。国際面からはインド関連の記事を読んだ。インドでは未だカースト制度が根強く残存しており、身分を跨いだ結婚などは歓迎されない傾向にあると言う。上層の国民のなかには、カーストはインドの秩序を保つのに必要な制度だとの意見も見られるとのことだった。
 食事を終えて抗鬱薬を飲み、台所で食器を洗うとそのままいつも通り風呂に行った。ブラシを上下に動かしてごしごしと浴槽の壁を洗い、出てくると下階に下りた。この日は昨日に比べると肉体の重さはましだが、それでもやはりすぐに日記に取り掛かる気力が湧かなかった。それなので例によってベッドに寝転びながら書見をすることにして、栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』を持って寝床に移った。そうしてこれも例によって、読んでいるうちに姿勢が水平に崩れていって、いつの間にか眠りのなかに入っていた。また時間を無駄にしてしまったわけだ。二時前までそうして過ごしてから、食事を取りに上階に行った。上がって行くと母親が、ブロックを動かすのを手伝ってくれと言う。何のことかよくわからなかったが了承しておき、食事にはピザがあると言うので、冷蔵庫からそれを取り出して、二切れをアルミホイルに載せてオーブン・トースターに入れた。そのほか、やはり前夜の残り物であるポテトサラダとゆで卵である。サラダや卵を食っているあいだにピザが焼けたので、それも持ってきて、廉価なものではあるが香ばしくチーズの溶けた料理にかぶりついた。食べてしまうと、台所で父親の飲んだ炭酸水のペットボトル二つから包装を剝ぎ、それではブロックとやらを運ぼうかと言いながらクロックスを突っかけて玄関を抜け、まず物置きにペットボトルを置いておいた。そうして母親を待ったが、出てきた母親はまず家の前に出ていたバイク――動かなくなったので先ほど馴染みの自転車屋に来てもらってバッテリーを取り替えたらしい――に乗りだした。後ろに乗せてやろうかと言いながら笑うが、こちらは断って先に家の横に向かうと、母親は試運転をすると言ってちょっとそのへんを走りに出て行った。こちらが山積みになった軍手のなかから比較的綺麗なものを取り分けて手につけていると彼女は戻ってきたので、バイクを所定の位置に収めるのを手伝った。それから、元々隣家のあった敷地に積まれているコンクリート・ブロックを移動させに掛かった。これはどこから来たものなのかと訊いても、母親にもわからないと言う。父親がどこかから引っ張り出してきたものなのだろう。それがここに置いてあると、隣家の人が土地を見に来た時など、我が家のものがその敷地に置いてあって決まりが悪いから移動させるのだと言った。それで、ほとんど離れていないが近くの草が茂っているあたりに木組みの台を置き、その上にコンクリート・ブロックを並べて載せていった。それが終わると今度は何に使ったのか良くわからない木材の断片なども移動させた。終えると母親が、お父さんが草を刈ったから下を見てみなと言うので、家の南側に足を進める。草は確かに旺盛に繁茂しているなとこちらも思っていたのだったが、先日の火曜日の休みの時に父親がそれを刈ったらしく、畑の周りはいくらか軽い装いになっていた。今は父親が何も言わずともそれをやってくれるから良いが、彼が動けなくなったりした時に、こちらや母親が独力でやらなければいけなくなることを考えると、途方に暮れる。それから母親は、家の南側の壁の前にネットが張られているのだが、そこに伸びて来ている朝顔に注意を促した。誰かから貰った八重咲きの珍しいものだと言い、確かに細かな花弁が集合しているようだった。その花の近くに小さなバッタが止まっていたので、軍手を嵌めた手でもって掴もうとしてみたが、バッタは飛び跳ねて逃げてしまうのだった。
 室内に戻ってくると冷蔵庫から冷やされた水を取り出し、一杯コップに汲んで飲むと下階に戻った。そうして自室に入り、日記を書かねばなるまいと決意を固めてコンピューターの前に就き、キーボードを打ちはじめた。前日の記事は数文足しただけですぐに終わったが、出来ればあとでまた書物の感想を記したいところだ。それからこの日の記事をここまで綴って三時を越えた。
 歯磨きをしながらMさんのブログにアクセスし、読みはじめたのだが、階段下の室にいた母親が呼んで、いくらも読まないうちにコンピューターの前を離れることになった。パソコンがうまく起動しないのだと言う。それでその後、服を着替えたりしながら、強制的にシャットダウンしたり、セーフモードで起動させてみたりと試したが、マウスの電池が切れたのかポインターがまったく動かなくなったこともあり、根本的な解決はなされなかった。そうこうしているうちに、Mさんのブログを一日分も読むことが出来ないまま、出勤の時間が迫ったのでコンピューターをスリープ・モードに移行して部屋を出た。
 時刻は三時半直前だった。母親がまた送っていってくれることになっていた。それで彼女の支度を待ちながらソファに座って手帳に目を落とした。しばらくすると出発することになったので、手帳をクラッチバッグに仕舞い、玄関に行って靴を履いた。そうして外に出て、母親の車の脇に立って彼女が車を出してくれるのを待つ。そのあいだ、隣のTさんの宅に生えた百日紅の、枝先を楚々と彩る薄紅色に目を寄せていた。
 車に乗るとAir Supplyが掛かっており、透明感のある男性の歌声が、I can live forever if you say you'll be there, tooなどと歌っている。母親はバイクを整備しに来てくれた自転車屋の老人の話をした。胃にポリープか何か見つかって、何か月かに一度だか検査に行っているのだと言う。それに答えて母親も、色々なところが痛くって、言わないだけでもうがたが来ているんだよ、とか話したということだった。駅前ロータリーに入ってバスを待っている人々の群れを見た母親は、本当、中高年ばっかりだね、と言い、まあ人のこと言えないけど、自分も中高年だからと漏らした。職場のすぐ脇に停めてもらい、礼を言って降りた。
 職場に入って座席表を見ると、前日、今日は二コマの勤務で良いですかと言われて了承したはずが、一コマのままになっていた。さらに、室長のデスクの上にある翌日の座席表を見てみても、一コマ勤務のはずが二コマの仕事になっていた。今日は室長が不在だったので真意がわからない。それで準備中、(……)先生に話しかけて、こういう訳だが何も聞いていないですよねと確認すると、予想通り特に何も聞いていないとのことだった。まあ別に大丈夫なんで、良いんですけどねと笑っていると、でも一応メールを送ってみてくれと言われたので、さっと文を作成し、室長に送りつけた。室長からはのちのちこちらの携帯に直接連絡があって、すみません、よろしくお願いしますとの返答だった。
 そういうわけで今日は一コマのみの勤務となった。相手は二人、(……)くん(中一・英語)と、(……)さん(中三・国語)。特段の問題はない。(……)くんは夏期講習用のテキストを忘れてきていたので、学校準拠のワークを使って、予習をすることにした。そろそろ夏休みも終わりで学校の開始が近いので丁度良いと言えば丁度良かった。今日扱ったのは、How much ~?の表現などである。彼は授業中の取り組み方は特別問題ないと思うのだが、宿題や単語テストの勉強をして来ないのがちょっと気になる。(……)さんは物語文の読解。人物の心情について何点か問い、それについてノートに記してもらった。授業中にはまたクッキーを配った。
 そうして退勤した。屋内にいるあいだに激しめの雨が通って町は上から下まで水に塗れていた。少し前から、久しぶりにモスバーガーを食べたいような気持ちが湧いていなくもない。駅前に店があるのだ。あるいはまた、コンビニでポテトチップスでも買って帰りたいような気もしており、寄り道の誘惑を感じながらも、最終的には何だか面倒臭いというわけでモスバーガーの前は素通りし、コンビニの方には行かないでまっすぐ駅に入る。改札を抜けて通路を行っていると、前から(……)先生がやって来て、こちらを認めた彼女は「あ」の形に口をひらきながら驚き顔でイヤフォンを外した。お疲れさまですと挨拶を交わして過ぎ、階段を上ってホームに出ると自販機に寄って財布を取り出し、一三〇円分の硬貨四枚を機械に挿入して、二八〇ミリリットルのコカ・コーラを買った。わざわざ硬貨を出さずとも、SUICAを使って購入した方が簡便なのだが、何故かどうもそうする気にならない。
 そうして木製のベンチに就くと、クラッチバッグから手帳を取り出してひらき、黒々と深い色の炭酸飲料を空の胃に流し込みながら記されてある文字を追った。書かれてあることを一項目ずつ、目を閉じて頭のなかで再生できるようになるまで繰り返し読んでいった。待ち時間は三〇分ほどあったと思うが、そうしているうちに時間は支障なく流れ、奥多摩行きが到着すると車内に移って脚を組み、同じことを続けた。プリーモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』から引いた情報などを復習して、到着を待ち、最寄り駅に着くと降りてホームを辿った。空は宵闇のなかに冷めた青さで暮れきって、その色に包まれて雲がどす黒く魚影のように蟠っていた。雨は止んでいたが、横断歩道を渡って坂道に入ると、路面は全面、木の下までじめじめと濡れそぼっており、天蓋が閉じたその下を通っていくと枝葉から落ちる雫の音があたりに響いて、まだ雨が降り続いているかのようになり、実際頭や肩口にぽたぽたと落ちるものがあって濡れるのだった。樹冠の方では蟬の声が泡立っていた。
 帰宅するとワイシャツを脱いで丸め、洗面所の籠のなかに入れておき、自室に帰った。服を脱いで肌着とパンツの姿になると、出かける前に読んでいたMさんのブログの続きを読んだ。八月一〇日と八月一一日の記事である。「弟が広島で引いたおみくじを見せてくれたのだが、「吉凶未分」という結果で、こんなものを見たのは初めてである。まだ「ことのはじめ」の段階であるので、今後吉と出るか凶と出るかわからないみたいな趣旨の文章が、ひらがなオンリーの古文めいた文体で書き記されていたのに、すでに十年も穀潰しをやっているにもかかわらずまだ「ことのはじめ」かよと、母とそろって爆笑した」との記述に、こちらも爆笑した。同じ一一日の記事の終いにある、「「K」は伊勢にあるセブンイレブンの店長をしているという話をMちゃんから聞いたことがあったのでそれをTに伝えた上で、でもあいつ副業もしとるからなと続けると、なにやっとんの? と当然はTはいう。そこで、いやアゴの中でセミの幼虫飼っとんねん、幼虫が成虫になるまでの七年アゴの中で育ててとる、今年はちょうど脱皮する年やからまたあたらしい幼虫仕入れやなあかん、ほやしセブンで雇っとるバイトの子らにたのんで山の中でセミの幼虫探させとるわ、などとクソくだらないことをいって、おたがい腹が痛くなるほどゲラゲラ笑うのだが、こうして書いてみると全然おもしろくない、しかし夜中のテンションということもあってわれわれはこういういちいちに死ぬほど、本当に死ぬほど笑うのだった」という馬鹿馬鹿しい発言にも同じく笑った。
 それから続けて、Sさんのブログも、七月序盤のものを三日分読んだ。「ふだんコーヒーをそれほど飲むわけではないが、図書館の帰り道にある喫茶店にはよく立寄る。日々の生活において、きちんと淹れてあるコーヒーを飲む機会はその店を訪れたときだけだ。注文はいつもその日のサービス価格になっているレギュラーコーヒーをお願いする。今日はバリ・アラビカという豆。飲んでみたら、これが実に美味しい。美味しいコーヒーを飲んだとき特有の、深みとさっぱりが絶妙に交じり合って体内の鼻腔口腔を抜けて脳内にまで駆け上がってくる快楽に浸りながら、はーっと力が抜けてうっとりする。覚醒的だが刺激によって目覚めさせるのではなく倦怠感や疲労感そのものを中和させてしまっているような感じがする。美味い酒もそうだが、美味いコーヒーも飲みながら本を読んだりスマホを見たりできず、それを飲むことしかできなくなる」との記述があった。端正である。俺はコーヒーを飲んでも、いやそればかりでなく何か美味い飯を食っても、こんな風に感じ、陶酔したり、こんな風に文章化したりすることは絶対に出来ないぞと思った。三〇を目前にしてもコーヒーも酒も飲みつけないお子様のこちらであるが――一応、パニック障害だったという理由があるにはあるのだが――、それで損をしているような気持ちになるようなことがないでもない。酒もコーヒーも非常にバラエティ豊かで奥が深いものなのだろうから――と言うか食文化全般がそうであるに違いないのだが――、それをいくらかでもわかった方が人生が豊かになるのではないか、と思わないでもないのだ。と、そうは言いながらも、しかしそれでは実際に酒やコーヒーを嗜む習慣を自分が身につけるかと言ったら、そんな自分の姿も想像できないのだが。結局のところ、そこまでの興味や欲望はないということなのだろう。スーパーで三袋ワンセットで売っている安っぽいうどんを、玉ねぎと卵と一緒に煮込んで食えば満足できる廉価な舌の主である。
 他人のブログを読み終えると食事を取りに上階に行った。メニューは白米に焼き茄子、豚肉と胡瓜を和えたサラダにエノキダケのスープ。テレビはおよそどうでも良いような番組をやっていたので、興味を引かれずあまり目も向けなかった。それでは代わりに新聞を読むかと言ってそういうわけでもない。テレビが掛かっていては文に集中することも出来ない。それで、タブレットを弄っている母親と向かい合いながら、大して発言もせず黙々とものを口に運んだ。茄子がとろけるように柔らかくて美味だった。
 ものを食べ終えると薬を服用し、台所で食器をさっさと洗って風呂に行った。上がってくるとパンツ一丁で自室に戻り、扇風機の風を背後から浴びながら日記を書きはじめたのが八時一一分だった。Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』を流してみると、一曲目の、ボロディン弦楽四重奏第二番第一楽章が非常に優美で素晴らしかったので、この音源をCD-Rに焼いてプレゼントしてくれたT田にその旨LINEで送った。そうしてやり取りを交わしながらこの日の日記を進めて、現在は九時半前に至っている。音楽はその後、Fabian Almazan『Rhizome』に繋げている。
 その後、T田とLINEで会話しながら前日の記事を作成して、一一時に至った。ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』の感想とも分析ともつかない文章を綴るのに時間が掛かったのだった。それを含んだ前日の記事をインターネットに投稿すると、今度はヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』の書抜きを始めた。二箇所を抜いてこの本の書抜きは終了、それからまた零時頃までT田とやりとりを交わした。八月三〇日は元々レコーディング・スタジオに入る予定だったところが、デング熱に掛かったT谷の都合などで日にちをずらすことになった。T田とTはそれでも独自に集まるらしいので、こちらもその会合に参加しようかと思っており、その旨伝えたところ、良いんじゃないかとの返答があった。それでTにも了承を求めるメッセージを送っておき、それからプリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』のメモを手帳に取りはじめたのだったが、文字を記していたはずがいつの間にかコンピューターをひらいて自分の日記を読み返したりしている有り様である。それで無駄な時間を使いながら一時まで作業を進めたあと、コンピューターを閉じ、ベッドに移って読書を始めた。栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』である。そうして二時半直前まで読んで就床した。

 プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』。レーヴィは入所後一週間で、身体を綺麗に保っておく気力を失ってしまった。そうした彼に対して、シュタインラウフという規律正しい元軍人の友人が投げかけた言葉が引かれている。

 今も心が痛むのだが、私は彼の正しく明快な言葉を忘れてしまった。第一次世界大戦の鉄十字章受勲者、オーストリア・ハンガリー帝国軍の元軍曹、シュタインラウフの言葉づかいを忘れてしまった。私の心は痛む。なぜなら、良き兵士がおぼつかないイタリア語で語ってくれた明快な演説を、私の半信半疑の言葉に翻訳しなければならないからだ。だが当時もその後も、その演説の内容は忘れなかった。こんな具合だった。ラーゲルとは人間を動物に変える巨大な機械だ。だからこそ、我々は動物になってはいけない。ここでも生きのびることはできる、だから生きのびる意志を持たねばならない。証拠を持ち帰り、語るためだ。そして生きのびるには、少なくとも文明の形式、枠組、残骸だけでも残すことが大切だ。我々は奴隷で、いかなる権利も奪われ、意のままに危害を加えられ、確実な死にさらされている。だがそれでも一つだけ能力が残っている。だから全力を尽くしてそれを守らねばならない。なぜなら最後のものだからだ。それはつまり同意を拒否する能力のことだ。そこで、我々はもちろん石けんがなく、水がよごれていても、顔を洗い、上着でぬぐわねばならない。また規則に従うためではなく、人間固有の特質と尊厳を守るために、靴に墨を塗らねばならない。そして木靴を引きずるのではなく、体をまっすぐ伸ばして歩かねばならない。プロシア流の規律に敬意を表するのではなく、生き続けるため、死の意志に屈しないためだ。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、46~47)

 収容所の劣悪な環境に敗北しまいと努力するシュタインラウフの不屈の抵抗心は感銘を与えるものだ。しかし、この演説はレーヴィの耳には「ひどく奇妙に響いた」と言う。シュタインラウフの思想は彼を納得させず、むしろ彼に違和感を与え、レーヴィにとって理解できたのはその一部分だけだった。「シュタインラウフの賢さと徳性は、確かに彼にとっては良いものだ。しかし私には十分とはいえない」。レーヴィの考えは混乱をきたしており、彼は生き延びるために確実に依拠すべき明快な原則を打ち立てられずにいる。そもそも絶滅収容所という「錯綜した死者の世界」のただなかで、そのような明確な原則を確固として成立させることが本当に出来るのか、成立させられたとしてそれが本当に上手く機能するのか、という根本的な問題点にレーヴィの疑念は向かうのだ。「ある思想体系を練り上げ実行することが本当に必要なのだろうか? 思想体系を持たないという自覚を得ることのほうが、ずっと有益ではないだろうか?」という疑問の言葉で、この「通過儀礼」という章は締め括られている。確かに、自らの存在を支える足場として固く保たれていたはずの原則が、圧倒的な暴力によって絶えず掘り崩され、無化されてしまうのがラーゲルという環境の忌まわしい力ではないだろうか。
 そこにおいてレーヴィの支えとなったものがもしあったとするならば、それは常にその正当性を毀損される恐れに直面し続ける一般的な原理原則ではなくて、文学という人類の歴史的遺産に媒介された個々の具体的な「体験」だったのではないか、とこちらは考えたいと思う。以前引用した部分だが、例えばそれは「オデュッセウスの歌」の章に描かれているもので、過去の文学作品が現在の彼の状況と不意打ちのようにして接続され、他者との深く真摯なコミュニケーションを引き起こすような体験である。レーヴィはそこから何か自分に役立つような一般的な「思想」を導き出そうとはしない。しかし、「オデュッセウスの歌」の章におけるダンテ『神曲』を仲介役としたピコロとの交わりは、この作品のなかでも最も感動的なハイライトと目されるべき場面であり、収容所の非人間的な環境のなかでも失われないこの上なく人間的な輝きを皓々と放っている。
 聖書との関わりについても、それは同様である。レーヴィや仲間の囚人たちは、夜、互いに自らの身の上話を語り合う。それらは、「みな聖書の物語のように簡潔で分かりにくい。だがこうした話が集まれば、新しい聖書の物語になるのではないだろうか?」(80) この文章に註を付けてレーヴィは、「著者は、かつての迫害と、今日の、いまだかつてなかった、最も血なまぐさい迫害との間に、悲劇的な連続性を見て取っている」(265)と述べている。同様に、別の註では、「昔の聖書につながるような「新しい聖書」の状態が生起したことに、著者や仲間たちは、束の間だが、大きな慰めを得た」(266)と述懐されている。自分たちの苦難が過去の書物のなかに既に記されているという歴史的接続性、文学という人類の伝統のなかに生きているという意識がレーヴィを支えていたのだ。このように、文学作品が体験的に光を放つ瞬間を知っていたという意味で、レーヴィは紛れもなく文学者であり、小説家だった――いや、と言うよりはむしろ、収容所におけるこのような「輝き」の体験を通して、レーヴィは文学者に、小説家になった[﹅3]とおそらくは言えるのだろう。
 シュタインラウフの「思想」は彼の「戦い」の根幹である。彼にとって汚れ水で身体を洗うことは、生存を賭けた闘争であり、収容所という死の環境に対する真っ向からの反抗である。しかし、レーヴィの「文学的体験」はそれとは趣をいくらか異にしているように思われる。それは、正面からぶつかり合う「反抗」の手段となるものではなくて、横から、あるいは斜めから射し入る光芒のようにして、レーヴィの生に不意に闖入してきて彼の存在を、人間性を根底から下支えするようなものだった。前にも記したように、そうした体験が生じたからと言って、別に何か状況が変わっているわけではない。事態が一つでも良くなっているわけではない。しかし文学は、勝者と敗者を決定せずにはいられない「戦い」の論理とは違った回路でもって、それとは違った次元において、人間の生を力強く肯定するものである。レーヴィの記述はそうしたことを告げているように思われる。
 「思想」を闘争の武器としたシュタインラウフと、文学によって自己のアイデンティティを回復したレーヴィとのあいだにも、一つの共通点がある。収容所における自らの体験を、外の世界[﹅4]に持ち帰り、他人に語らなければならないと決意していることである。シュタインラウフは、生き延びねばならないのは、「証拠を持ち帰り、語るためだ」と断言している。レーヴィもまた、この著作の序文において、「「他人」に語りたい、「他人」に知らせたいというこの欲求は、解放の前も、解放の後も、生きるための必要事項をないがしろにさせんばかりに激しく、私たちの心の中で燃えていた」(6)と述べている。アウシュヴィッツの絶望的な状況のなかでも彼らがそうした人間的な欲求を失わず、反対に激しく燃え立たせ、おそらくは使命感と呼ぶべき感情にまで高めたであろうこと、そしてそれが『これが人間か』というテクストの形で実際に具現化されたという現実には、一抹の救いのようなものを見る思いがする。


・作文
 14:35 - 15:02 = 27分
 20:11 - 22:57 = 2時間46分
 計: 3時間13分

・読書
 11:36 - 13:58 = (1時間半引いて)52分
 15:10 - 15:21 = 11分
 19:06 - 19:26 = 20分
 23:20 - 23:38 = 18分
 24:08 - 25:03 = 55分
 25:18 - 26:27 = 1時間9分
 計: 2時間45分

  • 栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』: 65 - 90
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-08-10「神殿の落書きも千年後には装飾となる歴史の粗忽」; 2019-08-11「言霊を耳飾りとする子らのささやき声はかくも美し」
  • 「at-oyr」: 2019-07-06「バリ・アラビカ」; 2019-07-07「バンド」; 2019-07-08「暫定」
  • ヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』岩波書店、二〇一七年、書抜き
  • プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』、メモ

・睡眠
 2:30 - 10:30 = 8時間

・音楽

  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』
  • Fabian Almazan『Rhizome』
  • Pablo Casals『A Concert At The White House』

ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』講談社学術文庫、一九九九年

ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』講談社学術文庫、一九九九年
Rudolf Höss, Kommandant in Auschwitz, 1963
 2019/8/4, Sun. - 8/15, Thu.


 『アウシュヴィッツ収容所』はひとまず編者の序文を読んだが、この時点で結構興味深かった。まず、ルドルフ・ヘスと表記されるナチスの高官が二人いることを初めて知った。一人はこの手記を綴ったアウシュヴィッツ収容所元所長のRudolf Höss。それにもう一人、ナチスで総統代理を務めたRudolf Hessという人物がいるのだった。序文によれば、この手記に描かれている収容所長ルドルフ・ヘスの姿は、「すべてに平均的で、まったく悪意はなく、反対に秩序を好み、責任感があり、動物を愛し、自然に愛着を持ち、それなりに「内面的な」天分があり、それどころか「道徳的にまったく非難の余地のない」一人の人間」(33)なのだと言う。要するに、ナチス体制下でなければ、大虐殺などという史上未曾有の犯罪に手を染めることもなく、特に糾弾されるようなことはなかったであろう一般的な小市民の姿というわけだ。「普通の人間」こそがあのような、ほとんど我々の思考と想像力を超越したかに思える凶悪犯罪を唯々諾々と実行したということに、ナチス体制の恐ろしさと凄まじさがあるわけだが、この点はプリーモ・レーヴィも『溺れるものと救われるもの』の末尾で強調していた。彼によれば、アウシュヴィッツの獄吏やSSの人間は、「素質的には私たちと同じような人間だった」(242)。「彼らは普通の人間で、頭脳的にも、その意地悪さも普通だった」と言う。ナチスの教えを狂信的に信じている人間は僅かで、「多くは無関心か、罰を恐れているか、出世をしたいか、あまりにも従順であった」。ただし彼らは「悪い教育」を受けていた、とレーヴィは指摘する。それと照応するように、教育という点に関してはヘスの文書の序文においても言及されている。「彼らは、無批判に服従するよう教育を受け、批判精神も想像力もなく、何十万という人間の「抹殺・粛正」こそが民族と祖国のための職務だと、誠心誠意自らそう信じ、あるいは信じ込まされたのである」(37)。 ヘスの文書は、「理想主義や責任感から熱心にことにあたった人間と、(……)生来残忍で、他の人の善意をその悪魔のような手仕事で損なった人間を、カテゴリー的に区別することをもはや許さない」(33)。ここに我々を当惑させ、狼狽させる事実があるだろう。ヘスの手記や、プリーモ・レーヴィの報告が示しているのは、ホロコーストの被害者と加害者のあいだに、一見して判別できるような明々白々な境界線がどうやらなかったらしいということなのだ。こうした考察からは、ドイツとソ連で国は違えど、同じく強制収容所の生活を体験した石原吉郎の思想が連想される。彼もまた、人間が単に一面的に被害者であるのではなく、被害者であると同時に加害者でもあるような、人間がそのあいだを瞬時に入れ替わり、入り乱れるような極限的な状況を目撃してきたのだった。

     *

 ジプシーの子供たちは、「とても人なつっこくヘスに信頼を寄せてくれるので、ヘスにとって「最愛の抑留者たち」であった」(39)と言う。おそらくヘスにも、いたいけな子供たちを可愛がるようなごく普通の人間的な心は存在したはずである。実際、彼は人懐っこい子供たちを「無慈悲」に殺すことの困難さを語ってもいる。「こういったことを、冷酷で容赦なく、無慈悲に実行に移さなければならないことほど難しいことは、おそらく他にあるまい」(40)と言うのである。しかしそこではあくまで殺害は既定事項であり、任務の遂行は覆しがたい前提とされている。ヘスは自らの任務を疑うことはなかったのだろうか? 子供を慈しむ「人間らしい」心と、その子供の運命、命に関する最終的な無関心とのいびつな共存。
 五八~五九頁には、幼少期からヘスが義務感を育むように躾けられてきたことが語られている。「年長の人の頼みやいいつけは、すぐに実行し、あるいはそれに従い、どんなことがあっても、それをなおざりにしてはならない、と絶えず私はいましめられた」。彼の父親は、熱心なカトリック信者として帝国の政策に反対していたにもかかわらず、「国家の法と指示には無条件で従わねばならない」と事あるごとに口にしていたと言う。この二つの引用のどちらにも、「従う」という語が書きつけられているのが注目に値する。ヘスの原則は「従うこと」なのだ。それも自分自身の内発的な欲望や動機に従うのではなく、外部の権威(年長の人、国家)に凭れ掛かり、忠実に、唯々諾々とそれに服従して、その利益を図ることこそが、彼が自らに与えた「最高の義務」なのである。言い換えれば、自己放棄がヘスの根源的な存在様式なのであり、体制に対する無批判な服従の芽は、既に幼年期の教育において現れていたと言えるかもしれない。

     *

 ヘスの記述ぶりは編者の序文において、「大量ガス虐殺に関する彼の描写はすべて、それにまったく加担していない観察者のそれである」(39)という評価を得ているが、ガス虐殺についての描写のみならず、彼の記述は全般的にすべてを俯瞰しているかのような趣がある。そこにはナチスへの忠誠も、翻って人類史上未曾有の大犯罪に関与したという事実への反省のようなものも、双方とも感じ取れないのだ。ある意味中立的と言うか、自ら実行したはずの行いに寄与したという責任感が見えず、例えば囚人の類型についての考察など、確かに収容所を運営していたヘスでなければわからないことなのだろうが、ほとんど外部から招かれた部外者のような淡々とした観察のトーンを帯びている。この冷徹とも言うべき自分自身への距離の取り方は何なのだろう。

     *

 一七五頁には、ヘスがSS隊員の銃殺刑に始めて立ち会い、心を非常に乱されたことが語られている。このSS隊長は逮捕したある元共産党員を収容所に移送する途中で逃がしてしまい、その咎で死刑を宣告されたのだった。「どうやって、私が、心を静め、射殺命令を下せたのか、今もって、私にはわからない」とヘスは語り、さらに、「内心の動揺のあまり、私は、こめかみにピストルをあてて、とどめの一撃をすることがほとんどできかねるほどだった」とも漏らす。
 注目されるのは、その次の段落の冒頭の一文である。「これは、すでにして、もはや人間的ではない、と当時、私は信じた」とヘスは述べるのだが、ここで思い起こされるのは、「確認されない死のなかで」において石原吉郎が同じような呟きを漏らしていたことである。ある時、石原の傍らで食事を取っていた男が、ふと食器を手から落として居眠りを始めた。驚いた石原が慌てて揺さぶってみると、彼は既に死んでいた。その時の手触りは、「すでに中身が流れ去って、皮だけになった林檎をつかんだような触感」だったと言う。この突然の死の即物的な感触に対して、既に人間の死というものに慣れきって無感覚になっていたはずの石原はしかし衝撃を受け、「「これはもう、一人の人間の死ではない。」 私は、直感的にそう思った」と述懐している。
 おそらく、二人のあいだで「人間的」という言葉が示す意味は多少異なっているだろう。しかし、ドイツとソ連で国は違えど、収容所体制を構築する歯車の一片となった「加害者」の側と、収容所に囚われ凄惨に苦しめられた「被害者」の側とで双方が一致して、そこにおいて起こった出来事を「人間的ではない」「人間の死ではない」と述べていることの皮肉――皮肉という言葉では表せないほどの、ひりひりと痛々しいような歴史的奇遇だ。
 今では悲劇的なまでに悪名高いアウシュヴィッツ強制収容所を、そのガス室を、ユダヤ人殺戮のための悪魔的なシステムを構築するのに責任を負っていたその当事者が、「人間的」という言葉を口にしていることは強い印象を与える事実である。彼には、少なくとも自ら思っているところでは、「人間性」や「道徳性」といったものを理解する頭と心があったのだ。おそらくはヘスも、このような仲間の殺害には疑念を抱いていたのではないか。しかし命令[﹅2]に逆らうことは出来ない。銃殺の命令に反抗すれば、その時点で自分が死刑の対象になったであろうことは確実だからだ。それを措いても、ヘスの「命令」に対する義務感、服従心は、あまりにも強固なものであった。のちの頁で、ユダヤ人大量虐殺を命じられた時のことを振り返って、ヘスはこう書いている。「命令ということが、この虐殺措置を、私に正しいもの[﹅6]と思わせた」(290)。彼は命令を受けた、「だから、それを実行しなければならなかったのだ」。彼はおぞましい怪物ではなかった。むしろ、責任感に溢れた勤勉な官僚だった。しかし彼はあまりに無思考で、あまりに従順だった。この無批判な従属性こそが、ナチス体制を根底で支えた、何よりも危険な要素だったのだ。

     *

 収容所で逃亡者が出ると、「隊員たちは、しばしば、一六時間から二〇時間も、立ちつくしていなければならなかった」(199)と言う。そのあいだは抑留者たちもずっと立ちっぱなしでいなければならない。プリーモ・レーヴィも、脱走者が発覚した場合の点呼の苦しみについては、『溺れるものと救われるもの』のなかで報告している。それは通常時でも最低一時間は掛かり、場合によっては二時間も三時間も続く酷薄なもので、さらに「脱走の疑いがあった場合は、二十四時間以上も続いた」(131)と言う。寒さの厳しい時期には、それは「労働以上にひどい拷問」となった。こうした長時間の点呼による肉体的・精神的苦痛は、「優越する人種が劣等人種を従属させるか、抹殺するという、推定された権利の展開であった」(132)とレーヴィは解釈している。
 ナチ・イデオロギーへの堅固な忠誠心を誇るヘスでも、心中、己の任務に対して疑念を抱く瞬間がなかったわけではない。「いったい、われわれは、こんなことをする必要があるのだろうか。何十万という女子供が虐殺されねばならぬ必要があるのだろうか」(307)という疑問を、ヘスは「心の奥底で数知れぬほど」抱いた、と言う。また、戦争の帰趨に関しても、自分たちは結局のところ勝利出来ないのではないかという正当な疑いを彼は抱いていた。
 しかし、そうした疑念は自分には許されなかった[﹅7]のだとヘスは反論する。「許される」という言葉を執拗なほどに繰り返し用いているのが肝要な点だろう。「ユダヤ人大量虐殺が必要であったか否か、それについて、私はいかなる判断も許されなかった[﹅7]」(290)。虐殺の必要性に関する疑念も、彼には「告白することを許されなかった[﹅7]」(307)。そして、「最後の勝利を疑うことは、私には許されていなかった[﹅9]」(342)。ヘスは、上層部から仮借なく下されてくる命令の正当性を、何百万人ものユダヤ人虐殺の正しさを、そして戦争の最終的な勝利を、「信じねばならなかった」。たとえ「健全な理性」がそれとは反対のことを明白に告げていたとしても、である。ここでヘスは、自分の「信念」が理性的・合理的な判断とは真っ向から逆行していたことを自らはっきりと認めている。ヘスにとって総統の指示を疑うことは、自らの理性に照らし合わせて正しいかどうかではなく、彼の忠実さや義務感から見て許されるか許されないかの問題なのだ。そこにおいて批評精神を伴う「健全な理性」は完全に放棄され、彼の総統への、そしてナチ・イデオロギーに対する忠誠心は宗教的な色合いを帯び、教祖の言うことを粛々と遵守する狂信者のそれに接近する。虐殺の命令を拒否し得たのではないか、という弾劾に対するヘスの反論の言葉からもそのことが証されるだろう。「総統の名における、彼[ヒムラー]の原則的命令は、聖なるものだったのだ。それにたいしては、いかなる考慮、いかなる説明、いかなる解釈の余地もなかった」。ヘスの態度が、聖典の言葉に一切の「解釈」を加えず、一字一句を文字通りにそのまま受け取ろうとする宗教的原理主義者のそれとほとんど同じであることが見て取られるだろう。彼のなかには宗教的な心性が確固として存在しているのだ。従って、「エホバの御下」に参ることが出来るとして、熱狂的な態度で死刑を肯定する聖書研究会員の死に様に、ヘスが強い印象を受けているのも頷けるところだ。「まったく晴ればれとした表情で、目は天を仰ぎ、手は祈りのために組んで、おごそかに彼らは死んでいった。この死のさまを見た者はすべて感動し、処刑を指揮した者たちでさえも、はげしく心をうたれた」(180)と彼は回想している。ヒムラーやアイケは、聖書研究会員のこうした死をも恐れぬ信仰の不動性を取り上げ、アドルフ・ヒトラーへの忠誠を誓うSS隊員も積極的に見習うべきものだとたびたび称賛した、と言う(184)。自らの心が総統とその理想に捧げられていたことを淡々と、しかしおそらくその底では熱を込めて断言するヘスの陳述からすると、彼は、ヒムラーたちが求めた意味での忠実なSS隊員のほとんど理想的な「成功例」だったと言えるのではないだろうか。
 ユダヤ人大量虐殺の正当性を心の内では疑ったというヘスだが、この手記のなかでは、「現在、私は、ユダヤ人虐殺は誤り、全くの誤りだったと考える」(368)と断言している。アウシュヴィッツ収容所の元責任者が、人類史上最大級の悪魔的な犯罪が「誤り」だったと明確に認めているのは一つの大きな事柄ではあるだろう。しかし、それは道徳的な観点からの「反省」の言では決してないのだ。ヘスが上記の判断を下すに当たっての根拠となる部分を見てみると、そのことははっきりする。「それは、反ユダヤ主義に何の利益にもならぬどころか、逆に、ユダヤ人はそれで彼らの終極目標により近づくことになってしまった」(369)と彼は嘆くのだ。ここにあるのは、イデオロギー的「利益」の観点からの冷徹で戦略的な判断に過ぎず、ヘスにとって虐殺は人の道を外れた「過ち」だったのではなくて、単なる正誤の問題として見た時の「誤り」でしかなかったのだ。自らの責任を誠実に認め、悔悟し、謝罪する言葉はそこにはない。

2019/8/21, Wed.

 右手をまわしても
 左手をまわしても
 とどかぬ背後の一点に
 よるひるの見さかい知らぬげに
 あかあかもえつづける
 カンテラのような
 きみをふりむくことももう
 できないのか
 ふりむくことはできないのか
 なんという
 愚鈍な時刻のめぐりあわせが
 ここまでおれを
 せり出したのだ
 風は蜜蜂をまじえて
 かわいた手のひらをわたり
 五月は おれを除いた
 どこの地上をおとずれるというのだ
 ああ 騎士は五月に
 帰るというのか
 墓は五月に
 燃えるというのか
 耐えきれぬ心のどこで
 華麗な食卓が割れるというのか
 皿よ 耐えるな
 あざやかに地におちて
 みじんとなれ青い安全灯
 ああ 五月
 猫背の神様に背をたたかれて
 朝はやくとおくへ行く
 おれの旗手よ
 (『石原吉郎詩集』思潮社(現代詩文庫26)、一九六九年、27~28; 「五月のわかれ 死んだ男に」全篇; 『サンチョ・パンサの帰郷』)


 一時半まで怠惰な寝坊。身体が重かった。床に留まりすぎてかえって疲れたような感じがあった。上階へ行ってもすぐに食事の用意に取り掛かれず、ソファに就いてテレビを見ている母親の横に座ってしばらく休んだ。食事は煮込み蕎麦とピザだと言う。ちょっとしてから立ち上がり、台所に入って蕎麦の入った鍋を火に掛け、アルミホイルに乗った二切れのピザはオーブン・トースターに入れて加熱した。先に蕎麦を丼に注ぎ込んで、卓に行って食っていると、ピザを早く出さないと焦げちゃうんじゃない、と母親が注意を促してきたので、それでふたたび台所に行き、オーブン・トースターを開けた。ピザはちょうど良く、こんがりと焼けていた。それを卓に持ってきて食し、蕎麦の汁も最後まで飲んでしまうと、抗鬱薬を服用し、食器を洗った。そうして風呂場に行ったが、残り湯が多かったので今日は風呂を洗わないことにして、洗面所を出るとその旨母親に告げた。彼女は録画したものだろうベビー・シッターのテレビドラマを見ていた。隣に座ってこちらもちょっとだけそれを見たあと、適当なところで下階に下りた。
 コンピューターを点けてTwitterを眺めたり、Evernoteをひらいて記事を作成したりしたものの、日記に取り掛かる気力が湧かなかった。絶望的にやる気がなかった。長くだらだらと寝床に留まり続けたために、肉体の重さや気怠さを引きずっているようだった。それで身体が気力が湧いてくるまでベッドに寝ながら本を読むことにした。栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』である。それで三時間、五時四五分までごろごろしながら書見したのだが、そのあいだ半分くらいは本を置いて目を閉じていたと思う。途中、四時半に、携帯電話が震えた。振動が三回で止まらないので電話だとわかり、とするとNだなと推測した。重い身体を落として携帯を取ってみると果たしてそうだったので、着信を受けた。前日、今日が急遽休みになったのでその旨送っておいたのだったが、そのメールは先ほど見たところだと言う。昨日のうちに気づいていれば今日会えたのだが、と彼は悔やんでいた。ロシアへ行ってきたんだってと言うので、充実した一週間だったと答え、お前も沖縄へ行ったって、と訊いた。二泊三日で恋人と行ってきたと言う。前回こちらに会った日には、その恋人とは違う女性を夜連れ込むとか話していたのだったが、それ以来はもうほかの女性と遊ぶ不義理は働いていないと彼は笑った。
 電話を終えるとまたベッドに寝転がって書見を続け、六時を過ぎたあたりで上階に行った。食事の支度をしなければと思ったのだったが、既に母親がすべて終わらせてしまっていた。それでソファに就いている彼女の横にまた座り、夕方の情報番組を眺めた。初島という、首都圏から最も近いという離島の見所を紹介していた。それからしばらくするとまた自室に帰った。日記を書かなければならないのだったが、驚くほどにやる気が出ず、未だにコンピューターの前に就いて長時間文字を打ち込むための気力が身に宿っていなかった。まだ肉体が重さを引きずっていたのだ。それでまたなすすべもなくベッドに寝転んだのだったが、そのまま何もしないのではなくてせめて本は読もうというわけで、栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』を取り上げた。そうしてふたたび読書を始めたのだったが、結局また三〇分ほどは意識を失っていたと思う。八時直前に書見を止めてからも、だらだらと寝床に転がり続け、扇風機を風を浴びながら何をするでもなく休み、八時半を過ぎてからようやく起き上がり、上階に行った。その頃には母親は既に風呂を済ませて寝間着を纏い、頭にタオルを巻きながら卓に就いてタブレットを弄っており、帰宅した父親が風呂からまもなく出るところだった。こちらは台所に入って、鰆か何かの煮魚を皿に取って電子レンジへ、それから豚汁を椀によそり、こちらも電子レンジに入れると、そのほかポテトサラダを小皿に盛った。そうこうしているあいだに父親がパンツ一丁で洗面所から出てきたので、お帰りと告げた。そうして白米とともに料理を卓に運び、ものを食べはじめた。母親は、魚がパサパサしてあまり美味しくなかったという言葉を残して下階に下っていった。煮魚を千切りながら米と一緒に咀嚼したが、確かに彼女の言う通りあまりぱっとしない、漫然としたような味だった。しかし、大根などの野菜が色々と入って味噌の色の濃い豚汁の方はなかなか美味かった。それでものを食べ終えたあと、おかわりをすることにした。食器を台所に運び、椀にもう一杯豚汁をよそって電子レンジで温めているあいだにほかの皿――母親が放置していったものも含む――は洗ってしまった。温まったものをレンジから出して運びながら、父親に、豚汁は食わないのかと尋ねると、一杯だけよそっておいてくれとの返答があったので、そのようにしてこちらも電子レンジで温めてから父親のもとに持っていった。それで豚汁の鍋は冷蔵庫のなかに入れておいた。そうして椅子に座り、豚汁をもう一杯食すと、抗鬱薬を服用して、椀と箸を洗い、二切れほどフライパンに残っていた魚を小皿に取り分けて、ラップを掛けて冷蔵庫のなかに入れておいた。
 時刻は既に九時過ぎ、夜のニュースが始まって、日韓関係の悪化によって韓国人観光客が激減しているという状況が伝えられていた。それをちょっと眺めてからこちらは入浴に行った。くるり "ワンダーフォーゲル" を軽く口ずさんだりしながら湯に浸かって、出てくるとパンツ一丁で下階に戻り、カボスのジュースを飲んでからようやく、まったくようやくのことだが日記に取り組みはじめた。先にこの日の記事をここまで綴って一〇時半前、音楽はFISHMANS『空中キャンプ』を久しぶりに流した。これから前日の記事を書かねばならないが、これも前日中はあまり書けていなかったので綴ることが多いし、引き換え記憶は薄れつつあるので面倒臭い。
 一一時まで書けて前日の記事を綴った。最後の方はもう面倒臭くなったので適当に省略してしまった。それから一時間ほどインターネットを閲覧してだらだらしたあと、手帳にメモを取りはじめた。ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』と、プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』である。その後、一時過ぎから栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』を読み出し、二時半前まで読んで就床した。読書中は手帳ではなくてやや大きめの読書ノートに気になった部分を引いたり、思ったことを書きつけたりしながら読んだ。手帳と読書ノートの関係、それぞれの使い方のシステムとして未だ確かなものを決定的に確立出来ていないのだが、書見中は読書ノートの方に引用や思いつきや調査事項など、すべて情報を集約して記すようにして、手帳にはそのなかから繰り返し読み返したい情報のみを厳選してのちに写す、といった方式が良いかもしれない。

 ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』。収容所で逃亡者が出ると、「隊員たちは、しばしば、一六時間から二〇時間も、立ちつくしていなければならなかった」(199)と言う。そのあいだは抑留者たちもずっと立ちっぱなしでいなければならない。プリーモ・レーヴィも、脱走者が発覚した場合の点呼の苦しみについては、『溺れるものと救われるもの』のなかで報告している。それは通常時でも最低一時間は掛かり、場合によっては二時間も三時間も続く酷薄なもので、さらに「脱走の疑いがあった場合は、二十四時間以上も続いた」(131)と言う。寒さの厳しい時期には、それは「労働以上にひどい拷問」となった。こうした長時間の点呼による肉体的・精神的苦痛は、「優越する人種が劣等人種を従属させるか、抹殺するという、推定された権利の展開であった」(132)とレーヴィは解釈している。
 ナチ・イデオロギーへの堅固な忠誠心を誇るヘスでも、心中、己の任務に対して疑念を抱く瞬間がなかったわけではない。「いったい、われわれは、こんなことをする必要があるのだろうか。何十万という女子供が虐殺されねばならぬ必要があるのだろうか」(307)という疑問を、ヘスは「心の奥底で数知れぬほど」抱いた、と言う。また、戦争の帰趨に関しても、自分たちは結局のところ勝利出来ないのではないかという正当な疑いを彼は抱いていた。
 しかし、そうした疑念は自分には許されなかった[﹅7]のだとヘスは反論する。「許される」という言葉を執拗なほどに繰り返し用いているのが肝要な点だろう。「ユダヤ人大量虐殺が必要であったか否か、それについて、私はいかなる判断も許されなかった[﹅7]」(290)。虐殺の必要性に関する疑念も、彼には「告白することを許されなかった[﹅7]」(307)。そして、「最後の勝利を疑うことは、私には許されていなかった[﹅9]」(342)。ヘスは、上層部から仮借なく下されてくる命令の正当性を、何百万人ものユダヤ人虐殺の正しさを、そして戦争の最終的な勝利を、「信じねばならなかった」。たとえ「健全な理性」がそれとは反対のことを明白に告げていたとしても、である。ここでヘスは、自分の「信念」が理性的・合理的な判断とは真っ向から逆行していたことを自らはっきりと認めている。ヘスにとって総統の指示を疑うことは、自らの理性に照らし合わせて正しいかどうかではなく、彼の忠実さや義務感から見て許されるか許されないかの問題なのだ。そこにおいて批評精神を伴う「健全な理性」は完全に放棄され、彼の総統への、そしてナチ・イデオロギーに対する忠誠心は宗教的な色合いを帯び、教祖の言うことを粛々と遵守する狂信者のそれに接近する。虐殺の命令を拒否し得たのではないか、という弾劾に対するヘスの反論の言葉からもそのことが証されるだろう。「総統の名における、彼[ヒムラー]の原則的命令は、聖なるものだったのだ。それにたいしては、いかなる考慮、いかなる説明、いかなる解釈の余地もなかった」。ヘスの態度が、聖典の言葉に一切の「解釈」を加えず、一字一句を文字通りにそのまま受け取ろうとする宗教的原理主義者のそれとほとんど同じであることが見て取られるだろう。彼のなかには宗教的な心性が確固として存在しているのだ。従って、「エホバの御下」に参ることが出来るとして、熱狂的な態度で死刑を肯定する聖書研究会員の死に様に、ヘスが強い印象を受けているのも頷けるところだ。「まったく晴ればれとした表情で、目は天を仰ぎ、手は祈りのために組んで、おごそかに彼らは死んでいった。この死のさまを見た者はすべて感動し、処刑を指揮した者たちでさえも、はげしく心をうたれた」(180)と彼は回想している。ヒムラーやアイケは、聖書研究会員のこうした死をも恐れぬ信仰の不動性を取り上げ、アドルフ・ヒトラーへの忠誠を誓うSS隊員も積極的に見習うべきものだとたびたび称賛した、と言う(184)。自らの心が総統とその理想に捧げられていたことを淡々と、しかしおそらくその底では熱を込めて断言するヘスの陳述からすると、彼は、ヒムラーたちが求めた意味での忠実なSS隊員のほとんど理想的な「成功例」だったと言えるのではないだろうか。
 ユダヤ人大量虐殺の正当性を心の内では疑ったというヘスだが、この手記のなかでは、「現在、私は、ユダヤ人虐殺は誤り、全くの誤りだったと考える」(368)と断言している。アウシュヴィッツ収容所の元責任者が、人類史上最大級の悪魔的な犯罪が「誤り」だったと明確に認めているのは一つの大きな事柄ではあるだろう。しかし、それは道徳的な観点からの「反省」の言では決してないのだ。ヘスが上記の判断を下すに当たっての根拠となる部分を見てみると、そのことははっきりする。「それは、反ユダヤ主義に何の利益にもならぬどころか、逆に、ユダヤ人はそれで彼らの終極目標により近づくことになってしまった」(369)と彼は嘆くのだ。ここにあるのは、イデオロギー的「利益」の観点からの冷徹で戦略的な判断に過ぎず、ヘスにとって虐殺は人の道を外れた「過ち」だったのではなくて、単なる正誤の問題として見た時の「誤り」でしかなかったのだ。自らの責任を誠実に認め、悔悟し、謝罪する言葉はそこにはない。


・作文
 21:41 - 23:00 = 1時間19分

・読書
 14:45 - 17:45 = (1時間30分引いて)1時間30分
 18:51 - 19:58 = (30分引いて)37分
 24:14 - 24:57 = 43分
 25:03 - 26:24 = 1時間21分
 計: 4時間11分

・睡眠
 5:05 - 13:30 = 8時間25分

・音楽

  • FISHMANS『空中キャンプ』
  • FLY『Year Of The Snake』

2019/8/20, Tue.

 デメトリアーデは死んだが
 死ななくたって おんなじことだ
 唐がらしよりほかに
 あかいものを知らぬ愚直な国で
 両手いっぱい 裸の風を
 扼殺するようなかなしみは
 どのみちだれにも
 かかわりはないのだ
 (『石原吉郎詩集』思潮社(現代詩文庫26)、一九六九年、17~18; 「デメトリアーデは死んだが 一九五〇年ザバイカルの徒刑地で」; 『サンチョ・パンサの帰郷』)

     *

 そのとき 銃声がきこえ
 日まわりはふりかえって
 われらを見た
 ふりあげた鈍器の下のような
 不敵な静寂のなかで
 あまりにも唐突に
 世界が深くなったのだ
 見たものは 見たといえ
 われらがうずくまる
 まぎれもないそのあいだから
 火のような足あとが南へ奔[はし]り
 力つきたところに
 すでに他の男が立っている
 あざやかな悔恨のような
 ザバイカルの八月の砂地
 爪先のめりの郷愁は
 待伏せたように薙ぎたおされ
 沈黙は いきなり
 向きあわせた僧院のようだ
 (20; 「脱走 一九五〇年ザバイカルの徒刑地で」; 『サンチョ・パンサの帰郷』)


 色々と夢を見たあと、一一時過ぎに至ってようやく覚醒が確かなものとなった。眠い目を擦りながら身体を起こし、上階へ行く。父親は仕事、母親も着物リメイクの手伝いが一日あって既に不在である。書き置きに、ワカメのおにぎりが冷蔵庫のなかにあると記されてあった。それでまず洗面所に行き、顔を洗ってから冷蔵庫を開けておにぎりの二つ乗った皿を取り出し、電子レンジに突っこんだ。一分半、温めているあいだは卓で新聞を瞥見し、電子レンジがブザーを鳴らすと取りに行って、箸で千切りながらおにぎりを食った。新聞には、先日テレビのニュースでも取り上げられていたが、田島道治宮内庁初代長官が記した昭和天皇の発言に関する資料が一九日、公表されたとの報があった。それを読みながら海苔の貼られた米の塊を食べ、食べ終えると台所に移って皿をさっと洗い、それから風呂も洗った。そうして下階に戻ってくると、エアコンと扇風機を点けてコンピューターを起動させた。コンピューターの準備が整うのを待っているあいだ、手近の積み本の上に置かれていた空箱――Nさんに貰った「ひよ子のピィナンシェ」のものをずっと放置していたのだった――が目についたので、それを捨てに行くことにした。継ぎ目をひらいて平面に均しながら階段を上っていき、玄関の戸棚のなかの紙袋に折り畳んで収めておくと、戻ってきてTwitterを眺めた。それから前日の記事の記録を付け、この日の記事も作成して、早速日記を書きはじめた。音楽は流さず、窓外に広がる蟬の声を共連れとしている。
 一二時四二分まで前日の日記を作成した。それから読書。プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』。これが面白い。レーヴィはかなり真っ当なことを言っている。一時半まで。それから上階へ行って食事。豆腐やゆで卵。父親もカップラーメンの食事を取ったあとで、ソファに就いて休んでいた。こちらは食事を終えると下階に戻り、歯を磨く。歯を磨いているあいだはふたたびレーヴィの本を読む。そうして着替え。着替えてからも少々レーヴィの本を読み、そうして出発。
 便所で放尿してから玄関を抜けようとすると、父親が外から入ってきたので行ってくると告げて出発。今日も林から振る蟬の声が姦しい。しかし空は曖昧に曇っており、暑気はさほどでもなかったように思う。Nさんが庭で草取りか何かしていたが、挨拶はせずに通り過ぎた。木の間の坂道に入って上っていく。坂道の路面は前日の雨の水気が残っており、褐色の葉っぱが貼りついて帯を成している。
 駅に到着。ホームに渡って、ベンチには先客があったので先の方に行き、立ったまま手帳を取り出して眺める。林の向こうからは鴉の鳴き声が頻りに響く。電車が来ると乗り、手帳を眺め続け、青梅で降りると前日と同じようにベンチの前に立って乗り換える人々の流れをやり過ごす。そうして職場へ。
 一コマ目は(……)くん(中三・英語)、(……)さん(高三・英語)、(……)くん(中三・国語)。全体に特別問題はない。(……)くんは授業中、トイレに行くことが多いような気がするのだが、緊張しやすい性分なのだろうか。この日、トイレに行った際も、随分と焦っていたような気がした。授業中にはまたクッキーを配った。
 二コマ目は(……)くん(小四・国算)、(……)さん(小五・国算)、(……)くん(中三・英語)。(……)姉弟は相変わらずだが、この日は(……)の方が嫌いな漢字の問題をやり、僅か三つではあるけれど練習もしてくれたので良かった。しかし授業全体としてはちょっとミスしたと言うか、終了時間をちょっと過ぎてしまったし、そのわりに(……)くんのノートなど全然充実させることが出来なかった。
 それで退勤したのは六時過ぎ。この日のあとの時間は特段に印象に残っていることもないし、二一日の午後一一時前現在、やる気も全然なくて細かく書くのが面倒臭いので省略する。プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』を読み終わり、深更に至って栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』を読みだしたということだけは記しておく。レーヴィの『これが人間か』は素晴らしい作品だった。皆が読むべきだ。


・作文
 11:53 - 12:42 = 49分
 23:06 - 24:22 = 1時間16分
 計: 2時間5分

・読書
 12:44 - 13:30 = 46分
 19:42 - 20:37 = 55分
 21:37 - 22:00 = 23分
 25:30 - ? = ?
 計: 2時間4分+?

・睡眠
 4:15 - 11:10 = 6時間55分

・音楽

2019/8/19, Mon.

 なんという駅を出発して来たのか
 もう誰もおぼえていない
 ただ いつも右側は真昼で
 左側は真夜中のふしぎな国を
 汽車ははしりつづけている
 駅に着くごとに かならず
 赤いランプが窓をのぞき
 よごれた義足やぼろ靴といっしょに
 まっ黒なかたまりが
 投げこまれる
 そいつはみんな生きており
 汽車が走っているときでも
 みんなずっと生きているのだが
 それでいて汽車のなかは
 どこでも屍臭がたちこめている
 そこにはたしかに俺もいる
 誰でも半分はもう亡霊になって
 もたれあったり
 からだをすりよせたりしながら
 まだすこしずつは
 飲んだり食ったりしているが
 もう尻のあたりがすきとおって
 消えかけている奴さえいる
 ああそこにはたしかに俺もいる
 うらめしげに窓によりかかりながら
 ときどきどっちかが
 くさった林檎をかじり出す
 俺だの 俺の亡霊だの
 俺たちはそうしてしょっちゅう
 自分の亡霊とかさなりあったり
 はなれたりしながら
 やりきれない遠い未来に
 汽車が着くのを待っている
 誰が機関車にいるのだ
 巨きな黒い鉄橋をわたるたびに
 どろどろと橋桁が鳴り
 たくさんの亡霊がひょっと
 食う手をやすめる
 思い出そうとしているのだ
 なんという駅を出発して来たのかを
 (『石原吉郎詩集』思潮社(現代詩文庫26)、一九六九年、15~16; 「葬式列車」全篇; 『サンチョ・パンサの帰郷』)


 ツクツクホウシが近くの木から泡立つような鳴き声を発していた。九時半になって起床した。既に家のなかに両親の気配はなかった。母親は九時から仕事なのだ。上階に上がっていき、洗面所で顔を洗うと、白米を椀によそって冷蔵庫から茄子の炒め物の残りと鰹節の掛かった小松菜を取り出した。炒め物は電子レンジに入れておき、小松菜と米を先に卓に運ぶと、菜っ葉に醤油を掛けて一摘みした。それから炒め物を取ってきて、濃い味付けのそれとともに米を口に入れる。新聞をめくると、アフガニスタンの結婚式場で自爆テロがあって六三人が死亡、との報が目に入ってきた。「イスラム国」の犯行だと言う。その他、国際面から、イスラエルの与党リクードが総選挙を前にして、ヨルダン川西岸の併合を進める見込みだとの記事を読んだ。野党の方も選挙対策として、強い反対を打ち出せず、入植の維持を口にしていると言う。いけ好かない話だ。
 抗鬱薬を服用してから手早く皿を洗うと、風呂場に行った。洗剤の入ったボトルを持ってレバーを引いたが、泡の滓しか出てこず、もう中身がないのだったと思い当たった。それで詰め替えることにして、棚から詰め替え用の洗剤を取り、口を切ってその極々細い開口部をボトルの口に挿し込む。そうして容器を両手で押し潰して、ゆっくりと洗剤をボトルのなかに注がせた。ボトルがいっぱいになると詰め替え用の洗剤も尽きたので、プラスチック製の容器は折り畳んで脇に置いておき、新しい洗剤を噴射しながら浴槽を擦り洗った。終えて出てくると既に不要の容器をプラスチックゴミの箱に入れておき、冷蔵庫からロシア産のロールケーキを二切れ取り出して、それをもぐもぐやりながら部屋に帰った。
 コンピューターを点けて前日の記録を記したり、この日の記事を作ったりしたあと、いくらかだらだらとした時間を過ごした。さっさと日記を書かなければならないのだが、どうも身体と精神がそちらの方向に向かってくれないと言うか、まだ何も活動をしていないのにもかかわらず、早くも肉体を休めたいという感覚があったので、ベッドに身を預けながら読書をすることにした。プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』である。一一時一五分だった。枕とクッションをヘッドボードとのあいだに置いて身を支えつつ、脚をしどけなく伸ばして本の文字を追った。四五分読んで正午に達したあたりでしかし力尽き、指を本の頁のあいだに挟んだまま目を閉じた。眠ったわけではないけれど、そのまま瞑目の時間が長く続いて、一時頃に至ると腹が痛くなり、便意と尿意が嵩んできたので、起き上がって便所に行った。少々柔らかめの糞を垂れたのち、上階に行ってものを食べることにした。冷蔵庫のなかに、前日のカレーの残りで拵えられたドリアがあったので、それを取り出して電子レンジに入れ、三分間の加熱をセッティングした。レンジのなかで料理が回っているあいだに一旦下階に下りて、Twitterを眺めたり、路線案内で二時台の電車を調べたりした。電車は二時二七分発だった。それから上階に戻って、温まったドリアを取り出し、卓に就いて黄褐色の米をスプーンで掬っていった。食べ終えると台所に移り、冷蔵庫で冷やされた水を一杯汲んで飲むと下階に帰って、歯磨きをした。歯を磨いているあいだは、プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』を僅かながらも読み進めていた。口を濯いでくるとエアコンの掛かったなか、仕事着に服を着替えた。薄青いワイシャツに、紺色のスラックスである。そうしてようやく日記に取り掛かったのが一時半だった。途中、携帯を見るとNからメールが入っていた。今朝、今日か水曜日は空いているかというメールが届いており、それに対して今日は労働が四時半までなので、夜ならば空いていると返したのだったが、今日の夜には予定が入っているとの返答だった。水曜日も生憎こちらは仕事である。
 その後、前日の記事を書き進めて、二時一〇分頃になったところで中断し、ポケットに鍵やペンやSUICAを、そしてクラッチバッグに財布や携帯を入れた。それで上階に上がり、仏間に入って黒地にドット柄の靴下を履き、ハンカチを引出しから取ると玄関を抜けた。ポストに郵便物がないことを確認してから玄関の鍵を閉め、道を歩き出した。林からは激しい、空間に焼けつくような蟬の声が大挙して降っていた。空は雲が織り重ねられて曖昧に曇っており、空気は比較的涼しさを帯びているように感じられた。しかし木の間の坂道を上っていって駅に着く頃には、やはりワイシャツの裏の肌が大変べたついていた。ベンチに座って左手を椅子の背に乗せ、吹きすぎていく風を寸刻浴びたあと、バッグから手帳を取り出して頁を眺めた。まもなく電車到着のアナウンスが入ったので手帳を持ったまま立ち上がってホームの先に向かったが、風によって頁が翻されて、歩きながら目的の文字が見えないのだった。
 乗り込むと電車内はわりと混み合っていた。扉際に立って手帳に目を落とした。青梅に着いて降りてもすぐには動かず、ベンチの前で立ち止まって、大挙して出ていって向かいの電車に乗り換える人々をやり過ごし、それから歩き出した。階段口には観光客らしい三人の若い男女が止まっていた。彼らはこちらのあとから階段を下りてきて、映画看板の飾られている通路に差し掛かると、『鉄道員[ぽっぽや]』だ、などと言っていた。通路を辿って改札を抜け、職場に向かうその後ろから、彼らもまた出てきて、意外と都会っぽい、などということを漏らしているのが聞こえた。全然都会っぽくなどないのだが。
 この日の勤務は一コマのみだった。高校生の現代文に当たっていたので準備はそのテキストを読むことに大方費やされたが、あまり充分な時間は取れなかった。しかしそれでも何とかなるものだ。相手は、(……)さん(高三・国語)、(……)くん(中三・国語)に、(……)(中三・英語)。前者二人は特段の問題はない。(……)さんの解いた問題のなかには、松尾芭蕉向井去来の句、「岩鼻やここにもひとり月の客」を添削して、「月の客」を他者ではなく自分自身のこととするように助言したという有名なエピソードが出てきたので、それについてノートには記してもらった。また、ほかの文章は、『サラダ記念日』のなかに垣間見える俵万智の暗鬱な側面を、塚本邦雄が評価していたというような趣旨のものだった。
 室長やほかの講師たちからはわりと問題児と目されている(……)だが、こちらは彼に気に入られているようで、今日の授業は立ち歩くこともなく、比較的真面目に取り組んでいて、途中、授業の場を離れて室長と隣り合う機会があった時にも、室長は、流石、F先生の授業だとちゃんとやっているねというようなことを小声で囁いた。今日扱ったのは受動態。ノートには一部余計なことを書いてもいたが、比較的充実させることが出来たし、過去の記録も三回分復習することが出来たので、具合は良好だったと思う。授業中には先日と同様、ロシア土産のクッキーを一人一枚ずつ配って提供した。
 授業後、漢字テストの教材をコピーしていると、何やら暇そうにしていた(……)先生がコピー機に就いていたこちらのもとに近づいてきて、私、生徒が誰も来ないかもしれませんと呟く。元々二対一だったところに一人休み、もう一人も来る気配がないのだと言う。何をすれば良いんでしょうかと訊いてくるので、ええ……と困惑したあと、予習するとか、と言ってみたが、あとのコマで当たる面々は、予習が必要そうな教科でも相手でもない。僕は国語をやるんで、時間があったら国語のテキスト読んだりしていますけれどね、と言ったが、彼女が当たるのは数学と英語だった。
 ともかく電話をしてみればと勧め、あと一分経って授業開始から一〇分になったら電話してみるとの返答を得たところで、奥のスペースに下がった。そうして事務給関連の書類を記入して、バッグを持って退勤しようと出口に向かうと、ふたたび(……)先生と遭遇したので、お疲れさまですと挨拶して、結局来ないんですかと笑った。どうするのかと訊くと、自分の好きな教材を借りて勉強をしていようと思うと言ったので、いいですねと掛けておき、頑張ってくださいと残して別れた。
 退勤すると、路上には雨の降った跡が残っていた。駅に入り、ホームに上がって自販機に近寄り、久しぶりに二八〇ミリリットルのコカ・コーラを買った。奥多摩行きは既に来ていたが、まだ乗り込まず、木製のベンチに腰掛けて、手帳を見ながらコーラを飲んだ。空っぽの腹にゆっくりと一口ずつ炭酸飲料を流し込んだあと、自販機横のダストボックスにペットボトルを捨てて、そうして奥多摩行きに乗車した。席に就いて脚を組みながら手帳を眺め、最寄り駅に着いて降りると、雨が降りはじめていた。ホームを歩くあいだ、薄水色のワイシャツに、いびつな水玉模様が生まれていく。階段を上った先から遠くの道路を見下ろすと、歩道に沿って信号機の青緑色が、路面に長く伸び流れていた。横断歩道を渡って木の間の坂道に入り下りて行くと、アブラゼミの、まさしく耳を聾するがごとき圧迫的な鳴き声の雨が頭上から降り注いで空間を包み込んだ。そのなかからカナカナやミンミンゼミの声も僅かに立つ。木々の下を抜けると雨はにわかに強まっていて、ワイシャツの上の模様は既に水玉の体を成さず、濡れた痕は広がっていき、頭の上にも雨粒が打ちつける。しかし幾分速歩きになるのみで、走りはせずに、あくまで歩いたまま家路を辿った。
 帰宅すると濡れたワイシャツを脱ぎ、洗面所の籠のなかに放り込んでおき、下階に下りた。部屋に入るとスラックスも脱いでハーフパンツに着替え、そうして五時半から日記の続きを綴りはじめた。前日の記事には長々とプリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』の感想を書き記し、時間が掛かった。書いているあいだに雨が盛って、じゅくじゅくとした大きな水音が窓の向こうから響き、時折り雷の轟きも伝わってきた。前日の記事が終わると、今度は前々日の記事、居酒屋にいるあいだのことを綴る。そうして打鍵を始めてから二時間以上が過ぎ去り、八時前になったところで中断して食事を取りに行った。既に食事を終えていた母親は、父親がもう帰ってくるからと言ってまもなく風呂に向かった。一人になったこちらはフライパンで煮られたジャガイモをつまみ食いしながら皿にいくつか乗せ、もう一つのフライパンに作られたビーフンを大皿に盛って電子レンジへ入れて、その他味噌汁をよそり、小松菜を切り分けてこちらの分と父親の分とを小皿に盛りつけた。そうして卓に就き、テレビを消して、新聞からロシアの現況を伝える記事を読みながらものを食べた。ロシアでも若い世代を中心に、プーチン政権への反発が高まっているらしく、一〇日には大きなデモがあったと言うが、これは、訪露中の日記には書き忘れたと思うが、T子さんや兄がデモがあると漏らしていたのがこの件だったのだろう。タクシーのなかで兄が、今日は街にやたらと警官が多いと言って不思議がったあと、そうだデモがあると言っていた、と解答に思い当たっていたのがこの八月一〇日、プーシキン美術館を見たあとのことだったはずだ。二五日にはふたたび一〇万人規模のデモが予定されているとのことだった。
 目の前の皿を空にしてもまだ少々食べ足りない気がしたので、冷蔵庫を覗き、鮭の一欠片を取り出して電子レンジで熱した。加えて白米をよそり、卓に戻ると鮭に醤油を掛け、身を少しずつ千切りながら米と一緒に咀嚼した。それで食べ終わると抗鬱薬を飲み、食器を洗って自室に帰り、ふたたび日記に取り掛かった。まもなく前々日の記事も仕上げることが出来て、インターネット上に二日分の記事を投稿した。それから入浴に行った。階段を上がっていくと風呂から出たパンツ姿の父親がいたのでおかえりと告げ、下着を持って洗面所に入り、服を脱いだ。湯浴みのあいだは湯に浸かって背を浴槽の壁に預け、左腕を縁の上に置いたままあまり動かず、Ben E. King "Stand By Me" のメロディを口笛で吹いた。換気扇が空気の飲み込むごうごうという音で、窓外の虫の音は聞こえなかった。腕を浴槽の縁に凭せ掛けたまま静止していると、脇の下の付近がちょうど圧迫されているからだろうか、腕先が軽く痺れてくるようで、同時に指先に伝わる血管の脈動がぴくぴくと感じられるのだった。
 風呂を上がるとパンツ一丁で自室に戻り、少々だらだらとしたあと、Alex Sipiagin『Steppin' Zone』をバックにふたたび日記を書きはじめた。今日の記事である。音楽を小沢健二犬は吠えるがキャラバンは進む』に移しながらこの日のことを記述していき、打鍵を始めてからちょうど一時間ほどで現在時刻に追いついた。一一時七分となっている。
 それからヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』の書抜きに取り組んだ。二五分で三箇所を写したあと、さらに三宅さんのブログを読む。そうして次に、ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』のメモを始めた。気になった頁は手帳に記してあるので、本のそこをいちいち振り返って参照し、メモするに値する事柄があれば手帳の最新の頁に書き写していく。これを元にしてさらにのちには書抜きをするわけだ。
 一七五頁には、ヘスがSS隊員の銃殺刑に始めて立ち会い、心を非常に乱されたことが語られている。このSS隊長は逮捕したある元共産党員を収容所に移送する途中で逃がしてしまい、その咎で死刑を宣告されたのだった。「どうやって、私が、心を静め、射殺命令を下せたのか、今もって、私にはわからない」とヘスは語り、さらに、「内心の動揺のあまり、私は、こめかみにピストルをあてて、とどめの一撃をすることがほとんどできかねるほどだった」とも漏らす。
 注目されるのは、その次の段落の冒頭の一文である。「これは、すでにして、もはや人間的ではない、と当時、私は信じた」とヘスは述べるのだが、ここで思い起こされるのは、「確認されない死のなかで」において石原吉郎が同じような呟きを漏らしていたことである。ある時、石原の傍らで食事を取っていた男が、ふと食器を手から落として居眠りを始めた。驚いた石原が慌てて揺さぶってみると、彼は既に死んでいた。その時の手触りは、「すでに中身が流れ去って、皮だけになった林檎をつかんだような触感」だったと言う。この突然の死の即物的な感触に対して、既に人間の死というものに慣れきって無感覚になっていたはずの石原はしかし衝撃を受け、「「これはもう、一人の人間の死ではない。」 私は、直感的にそう思った」と述懐している。
 おそらく、二人のあいだで「人間的」という言葉が示す意味は多少異なっているだろう。しかし、ドイツとソ連で国は違えど、収容所体制を構築する歯車の一片となった「加害者」の側と、収容所に囚われ凄惨に苦しめられた「被害者」の側とで双方が一致して、そこにおいて起こった出来事を「人間的ではない」「人間の死ではない」と述べていることの皮肉――皮肉という言葉では表せないほどの、ひりひりと痛々しいような歴史的奇遇だ。
 今では悲劇的なまでに悪名高いアウシュヴィッツ強制収容所を、そのガス室を、ユダヤ人殺戮のための悪魔的なシステムを構築するのに責任を負っていたその当事者が、「人間的」という言葉を口にしていることは強い印象を与える事実である。彼には、少なくとも自ら思っているところでは、「人間性」や「道徳性」といったものを理解する頭と心があったのだ。おそらくはヘスも、このような仲間の殺害には疑念を抱いていたのではないか。しかし命令[﹅2]に逆らうことは出来ない。銃殺の命令に反抗すれば、その時点で自分が死刑の対象になったであろうことは確実だからだ。それを措いても、ヘスの「命令」に対する義務感、服従心は、あまりにも強固なものであった。のちの頁で、ユダヤ人大量虐殺を命じられた時のことを振り返って、ヘスはこう書いている。「命令ということが、この虐殺措置を、私に正しいもの[﹅6]と思わせた」(290)。彼は命令を受けた、「だから、それを実行しなければならなかったのだ」。彼はおぞましい怪物ではなかった。むしろ、責任感に溢れた勤勉な官僚だった。しかし彼はあまりに無思考で、あまりに従順だった。この無批判な従属性こそが、ナチス体制を根底で支えた、何よりも危険な要素だったのだ。
 一時ちょうどまでメモを取った。その後、だらだらとした時間を過ごしたのち、二時二五分からふたたび読書を始めた。プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』である。四時過ぎまで読んで就寝。
 一九四四年の冬、ビルケナウの焼却炉が一つ、爆破される。これはガス室や焼却炉で働いていた特別コマンドー[ゾンダーコマンドー]の仕業だったらしく、反乱を起こした囚人たちはSSとの戦いのなかで皆殺しになったと言う。この事件に加担したという罪で絞首刑になった男の処刑のさまをレーヴィは目撃させられて[﹅5]おり、その最期の様子が一九二頁から一九三頁に記述されている。

 だれ一人として理解できなかったドイツ語の演説が終わると、また初めのしわがれ声が響いた。
 「分かったか[ハプト・イーア・フェアシュタンデン]?」
 「分かりました[ヤヴォール]」と答えたのはだれだ? だれでもないし、全員である。まるで私たちのいまいましいあきらめが自然に実体化して、頭上でいっせいに声を上げたかのようだった。だがみなは死に行くものの叫び声を聞いた。それは昔からの無気力と忍従の厚い防壁を貫いて、各人のまだ人間として生きている核を打ち震わせた。
 「同志諸君[カメラーデン]、私が最後だ[イッヒ・ビン・デア・レッテ]」
 私たち卑屈な群れの中から、一つの声が、つぶやきが、同意の声が上がった、と語ることができたら、と思う。だが何も起こらなかった。私たちは頭を垂れ、背を曲げ、灰色の姿で立ったままだった。ドイツ人が命令するまで帽子も取らなかった。落としぶたが開き、体が無残にはね上がった。楽隊がまた演奏を始め、私たちは再び列を作って、死者が断末魔に身を震わす前を通りすぎた。
 絞首台の下ではSSたちが、私たちの通るのを無関心に眺めていた。彼らの仕事は終わった。しかも大成功だった。もうロシア軍がやって来るはずだ。だが私たちの中にはもう強い男はいない。最後の一人は頭上にぶら下がっている。残りのものたちには絞首索など必要ない。もうロシア軍が着くはずだ。だが飼いならされ、破壊された私たちしか見いだせないだろう。待ち受けている無防備の死にふさわしいこの私たちしか。
 人間を破壊するのは、創造するのと同じくらい難しい。たやすくはなかったし、時間もかかった。だが、きみたちドイツ人はそれに成功した。きみたちに見つめられて私たちは言いなりになる。私たちの何を恐れるのだ? 反乱は起こさないし、挑戦の言葉を吐くこともないし、裁きの視線さえ投げつけられないのだから。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、192~193)

 死刑囚がまさしく最期の瞬間に発した雄々しい、英雄的な叫びは感動的だが、それにも増して、その声に応えることの出来ない敗北感と虚しさに満ち満ちた、絶望的に痛ましい陳述である。囚人たちは内面を破壊しつくされ、反逆心を根こそぎに奪われてしまった。収容所において、ものを考えること、正常な感受性を持って物事をまざまざと感じ取ることは危険なことである。だから囚人たちは自衛のために、思考を止め、感性を鈍化させることになる。レーヴィは収容所生活を続けるうちにもう何か月も、苦痛や喜びや恐れを感じることがなくなってしまった、と書いている(196)。これは一種の離人症的な状態だと思われる。感性を剝奪され、野獣のように飢え、傷を負って衰弱し、消耗の限界に達した囚人の姿を、レーヴィは「ぼろきれ=人間」と一言に要約して呼んでいる(『溺れるものと救われるもの』、一八六頁)。それはまた、収容所内の隠語で「回教徒」と呼ばれた人間の姿でもある。囚人のうちの平均的な大多数を占め、収容所の中核を構成した彼らの姿を、レーヴィは「現代の悪をすべて一つのイメージに押しこめ」、象徴するものとして描いている。「頭を垂れ、肩をすぼめ、顔にも目にも思考の影さえ読み取れない、やせこけた男」(113)。


・作文
 13:30 - 14:10 = 40分
 17:30 - 19:42 = 2時間12分
 20:09 - 20:25 = 16分
 22:06 - 23:07 = 1時間1分
 計: 4時間9分

・読書
 11:15 - 12:00 = 45分
 23:20 - 23:44 = 24分
 23:45 - 25:00 = 1時間15分
 26:25 - 28:12 = 1時間47分
 計: 4時間11分

・睡眠
 3:10 - 9:30 = 6時間20分

・音楽