2017/5/31, Wed.

 湿り気の多くて、室内にいても肌が汗を帯びる曇天だが、三時頃に外に出ると、風は走る。絶え間も少なく、繰り返し流れるのに、林の樹々がさざめきを宙に返す。普段とは違って駅に向かわず、車で運んでもらい、町の南側、四車線を満たす風切り音の騒がしいバイパス路から直接、図書館へと歩いた。振り向けば白くひらいた空の果てに平板な山影が薄青く映り、上方には陽がやや透けて、隈なく塗られた雲の下に暖気が籠るのだろう、風があっても大気は蒸している。坂を上り、立体交差の急な階段も上がって線路沿いの細道に入ると、リュックサックに隠れた背が粘りはじめ、額に手をやればそちらもややべたついている。踏切りを渡ったところで風が厚く走ったが、涼しさに芯がなく、あまり肌を抜けないような、身体に当たると左右に滑って過ぎていくような、と思った。駅前まで来ると、ビルに当たったものが落ちるか、通りを風がひっきりなしに埋めて汗も引く。
 例によって文を書いたり写したりで時を費やし、館を出れば一面黒々と籠められた宵の空に、月も大方隠れきって、仄白い濁りがそこだけ、手違いのように小さくくっついている。最寄り駅に着いた頃にはそれがいくらかひらいて、赤と黄をはらんだ月が霞みがちではあるが、西空で上弦になりかかっていた。坂に入って見上げれば、星も一つ、濁りに消されずに見える。下りながら、木の間の闇が視線を吸いこんで行くのに、またもう夜になってしまったか、と諦念と組んだ倦怠のようなものが立ち、このつるつると走り過ぎてやまない時の滑りの勢いを、せめてもう僅かなりとも遅らせるにはどうすれば良いのかと思った。数年前には、幾許かでも時が過ぎるというそのことのなかには既に、感傷が含まれていると思っていたこともある。しかしそれでは何か、時とは常に既に過ぎているもので、それでない限り生はなく、生とは、駆けることも滞ることも折々にあり、その猛りに追い立てられることも、その粘りに苦しむこともまたあろうが、ともかくも時が流れるというそのことなのだから、生そのものが感傷の連なりか、とそんな妄言は措くとしても、かつての自分は切ながりが過ぎるが、しかし留まりを知らずあまりに事も無げな流れを前にして、無力感のようなものに引かれることはある。誰にも似たことはあろう。坂を抜けて通りに出ると、時鳥の、近頃は深夜にばかり聞いていたのにここでいくらか気早な声が、どこからと方向もあまり知れず、届いた。

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