2017/9/22, Fri.

 昼下がりには降っていた雨が、午後も深まって道に出た頃には止んでいた。仄白く濁りの混ざって、雨の通ったあとで冷たい空気に、この秋初めてベストを羽織りネクタイも締めたが、捲ったシャツの袖口が肌寒くて頼りないようだった。坂道の脇を縁取る緑の斜面には、彼岸花が旺盛にひらいて隙間を開けずに連なっている。
 空はただ白く広がるのみで、偏差のない一面性のさらにその上に煙色の煤けたような雲が薄く仄めいている。裏通りには通る人も車も多少はあるが、合間には静かな時間が挟まって、そうすると道の先のその空隙の方へと耳が広がり寄って行くようで、応じて心も静まった。周囲の虫の音やら自分の足音やら、地を突く傘の打音やら、立つ物音のそれぞれに次々と耳が移って、よく聞こえるようだった。
 夜にはふたたび、軽く雨が降り出していた。傘の下をくぐって流れる風の、頬を柔らかく撫でて通るのが快く、そのなかにほんのひととき感覚の高まって、何からも離れてその時しかないような一瞬がある。どうせ刹那のものですぐにまた平常の心に戻ってはしまうのだが、それが純然たる自由と、あるいは自足というものだろうか。降りは大したものでなく、雨音の虫の音を妨げるほどでもなく、しかし風があるので胸や腹がいくらか濡れた。傘の裏を見上げれば表に溜まった水滴の発光するのが透けて見え、光の点が無数に、川のようにして移ろい流れるのが、速送りのようにもスローモーションのようにも見えて惑わされる。『After Hours』に聞かれるSarah Vaughanの歌声が頭に付きまとって止まなかった。
 表に出ると雨の日はいつもながら、濡れた路面に車のライトが強く反映されて、この日は殊更にそれが明るい。長年に渡って夥しい数のタイヤに擦られてきたためだろう、アスファルトに作られている僅かな起伏に添って、黒い水溜まりの細く帯状に伸びていて、電球を埋めこまれたかのような強烈な白さでそこを滑って行く光の、思わず熱さを想像させるほどだった。走行音も水を含んで膨らみ、空間を破るような、という比喩を昔もどこかで使ったと思うが、この夜もまさしく破る、という語の相応しい騒がしさである。
 路地に入って光量が落ちると通りの靄っているのがよくわかり、特に電灯の周りは暈のなかが煙っていて、坂の上から遥かに見れば遠くの山も呑まれているが、しかし空には青みも微かに見て取れるようだった。集団で蠢く微生物のような傘の裏の光の踊りをまた見ながら坂を下って行くと、出口でひらけた夜空の、山を消し去って大層暗く、と言って色としては薄白いような感じで黒々と染まった空よりも暗くはないはずなのだが、何かかえって禍々しいような印象を受けた。