2018/1/13, Sat.

 五時台に一度目覚めた時、不安の高い精神の状態になっており、家鳴りなどのかすかな物音にもびくびくするような有様だった。いつも通り、自力で寝付こうとしばらく試みたものの無駄だったので、薬を服用して眠りに就き、一一時まで長く眠った。
 覚えていない時間についてはどんどん省略するが、一二時半から読書を始めている。ここでは、Catherine Wilson, Epicureanism: A Very Short Introductionを新しく読みはじめた。HemingwayのThe Old Man And The Seaを読んで以来、長いこと英語に触れていなかったのだが、毎日は読めなくとも、ともかく英語に持続的に触れなくてはならないと意識を新たにしたのだ。一時を四分の一ほど越えるあたりまで読んだのち、作文に入っているのだが、これは多分、一二日のことをメモに取ったのではないか。その後、運動をしたのち、瞑想が先だったか支度が先だったかわからないが、外出の準備を始めた。古本屋に行くつもりでいた。売る本を一二冊、淳久堂の濃緑の布袋にぴったり収めて、家を発ったのが三時過ぎである。
 最寄り駅へ向かう。坂に入る。先日に見た時は、梢の上方のみが黄色く染まっていたが、この日はその時よりも時間がやや早かったのだろう、右手の壁の上にまで陽が射しこまれて、段の上に生えた樹の根もとまで明るみが届いている。横から張り出した緑色の葉叢が光を受けて細工めいているのに目を向けながら上って行き、駅に入った。ホームにもまだ日なたが広がっていて暖かく、東の彼方を見据えてもこの日は平衡が乱れる感じもない。回送の電車が入線してくる。向かいに停まったその手前、線路の隙間に生えたネコジャラシの草は、もう色も抜けて吹けば崩れるような軽い薄白さに染まっているが、左手、太陽のほうに目をやれば、陽射しを注入されたものがいくらか、琥珀のような飴色のような風情を帯びていた。まさしく、斜陽、という言葉の色だな、と思った。
 やって来た電車に乗って、乗り換えで先頭に行く。本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』を読み出す。過去に読書をしているあいだに緊張が高まるということがあったので、警戒する心が少々あったが、支障なく、むしろかなり集中して読むことができた。立川を越えて高架に入ると、西に落ち行く太陽が時折り建物の合間に現れて、一瞬、頁の上や銀色の手すりに散るその陽の色が、もうだいぶ濃く、茜の強さだった。
 (……)で降りる。空腹が頼りなかったので、荷物をベンチの上に置き、何か食うわけでないが腹を温めてはおこうと、ココアを買って飲んだ。それからエスカレーターを通ってホームから上がる。駅舎内に設けられた店舗の合間を通ると、アコーディオンのBGMが聞かれる。ヨーロッパの瀟洒な街路風アコーディオン、とありがちなイメージではあるが言葉を当て嵌めながら便所に向かうのだが、そうしつつ、何だかシニフィアンシニフィエが逆転しているようだな、と思った。通常の図式で言うと言語がシニフィアン=記号表現であり、それに包まれて伝達される意味=内実がシニフィエ=記号内容とされるはずだが、何か自分の関心を惹くものを感知するなり、ほとんど自動的にそれが言語に変換される自分にあっては、この世界の様相そのものがシニフィアン=記号表現であり、そこにおいて自分は、湧き上がってくる言語表現そのものをシニフィエ=意味として受け取っているかのようだと感じられたのだ。そんなことを考えながら用を足し、出ると改札を抜けて駅舎も抜けた。ロータリーのなかには電球装飾が仕掛けられており、植え込みの一角は緑や青にざわめき、樹の幹や枝に沿っても白や緑の光が連ねられている。そのなかに、これは昨年も目にして日記に書きつけた覚えがあるが、ワイヤーの類が縦に張ってあるらしく、どういった仕組みなのかその線上を上から下に、白い光が尾を引いて滑り落ちる演出が見られるのが、これがここの装飾の勘所だろうなと思われた。そちらに目をやりながら過ぎて、通りを渡ると、(……)に向かう。
 店前の百円均一の棚を見ると、大江健三郎の古い全集が何冊かあったのだが、入手しておいたほうが良いものなのかどうか、今のこちらには判断がつかない。なかに入ると、随分な盛況で、どの通路にも人の姿があるくらいだった。カウンターに本を持っていき、店員の女性に買い取りを頼む。相手が袋から本を出しているあいだに、今日は店主さんは、と訊くと、いまちょうど休憩に行っているところで、とのことだった。了解し、店内を見て回る。しばらくすると呼ばれて、買い取りは二八〇〇円になるとのことだったので、了承して書類にサインをした。
 ふたたび店内を見て回るのだが、見分しているあいだのことを時間に沿って再構成することは面倒なので、最終的に購入した品目を以下に並べる。

小沼純一編『高橋悠治 対談選』
・ミシェル・ヴィヴィオルカ/宮島喬・森千香子訳『差異 アイデンティティと文化の政治学
・須山静夫訳『フォークナー全集9 八月の光』
・ハンス・エーリヒ・ノサック/香月恵里訳『ブレックヴァルトが死んだ ノサック短篇集』
蓮實重彦『帝国の陰謀』
檜垣立哉『瞬間と永遠 ジル・ドゥルーズの時間論』
・Edited by Amritjit Singh and Bruce G. Johnson, Interviews with EDWARD W. SAID

 フォークナーの『八月の光』は、岩波文庫にも入っており、もしかするとそちらも同じ訳者のものではないか、だとすればわざわざ古い全集を買わなくても良いのだが、と考えながらも、須山静夫というのはフラナリー・オコナーの訳業を(……)が褒めていた訳者でもあるので、ここで入手してしまうことにしたのだった。ノサックは、やはり岩波文庫に入っている『死神とのインタヴュー』を、確か古井由吉がどこかで「私の三冊」というような企画の時に挙げていたのが思い出されたこともあり、何となく読んでおいたほうが良さそうだなとの直感が働いた。蓮實重彦の『帝国の陰謀』は確か絶版だったはずなので、ここで安く入手できたのはありがたい。また、サイードのインタヴュー集成は、英語なのでいつになったら読めるかわからないが、個人的には掘り出し物である。ほか、塚本正則(この人は、ロラン・バルトの講義録の二冊目『<中性>について』を訳した人である)などが編集した『声と文学』という本もあって、これは以前淳久堂で見かけて面白そうだと手帳にメモしたものであり、それが二〇〇〇円で買えるというのは魅力的だったが、檜垣立哉と迷った結果、文学論の類よりも(そもそも自分は、文学論、文芸批評にそれほど興味があるのだろうか? ただ自分なりに作品を読み、楽しみ、生の糧にできればそれで良いのではないか?)「瞬間」というものに対する哲学的な関心のほうを優先することにしたのだった。七冊合わせて六八〇〇円になったが、買い取りの分と相殺して、実質四〇〇〇円である。
 店内を回り尽くして会計に至った頃には(……)が帰ってきていたので、会計の際に、いつの間にか年が明けてしまいまして、ご無沙汰しておりました、などと少々言葉を交わした。この人とは夏に一度会合を持っており、その後また、と言いながらも機会が得られずに今日まで至っているのだが、あちらはなかなか忙しいようで、こちらも来月後半くらいまではそれなりの忙しさが続く。二月後半にもなればいくらか時間が空くので、またお話しできたら、と話を振っておき、互いに時間ができたら連絡し合いましょう、ということになった。
 そうして退店、店の前の道路が妙に艶めいて見えたので、知らぬ間に降ったのかとも思われたが、これは気の所為だったらしい。駅に戻る。既に六時台だったはずで、空は暗く、駅前の電飾がビルの上の暗部を背景に際立っている。改札を抜け、ふたたび便所に寄ってからホームに降り、電車に乗った。車内では瞑目して心と頭を休めながら移動を待った。精神は落着いており、離人感というか、ある種夢のなかにあるような現実感の希薄さがあったようだが、それに対して不安を覚えることはなかった。
 立川で降りる。コンピューター用の眼鏡を買うつもりでいた。ひとまず先に飯を食うことにして、例によってラーメン屋((……))に向かう。入店すると、たまには味噌を食うかということでそれを選んで食券を買い、ネギのトッピングとサービス券の餃子を足して、近寄ってきた女性店員に注文する。カウンターの角に座り(右手の壁際には、母と娘の親子が座っていた)、買ったばかりの『高橋悠治 対談選』をちょっと覗いていると、すぐに品が届いた。割り箸を取って二つに割り、スープを少々啜ってから、野菜の下から麺を引っ張り出して一口食べる。かつてのパニック障害時代のように、食べているあいだに気持ち悪くなるのではないかという危惧が少々あったのだが、そのような体験は今までに何度もしてきているわけでもはや慣れっこであり、今は財布に薬も入っているのだから仮に症状が出たところでそれを服用すれば良いというわけで、物怖じせずに、ネギとモヤシと麺をまとめて口に含んでがしがしと咀嚼した。美味かった。途中、入口の戸をひらきっぱなしにしていった客があり、外の空気が吹きこんで冷たかったので、一番手近にいるこちらが閉めよう、ともぐもぐやりながら鷹揚に立ち上がり、のろのろとした動作で戸を閉ざしたのだが、すると調理場にいる店員の方から腰の低い礼の声が飛んできた。
 食べ終えるとちょっと息をついて、配られていた口臭用のタブレットを口に含み、余計な時間を過ごさず、入口のところで礼を告げて退店した。そうして表の通りに出て、道を渡り、電気屋(ビックカメラ)に入る。エスカレーター前にあるフロアごとの案内を見て、パソコン周辺機器とあるから二階だろうと目星を付けて上がり、フロアを回ったところが、眼鏡のコーナーは見当たらない。もう一度案内表示の前に戻ると、地下一階に眼鏡売り場があるらしいので、そちらだったかと階を下り、一階からは階段を下った。そうして探すと、フロアの端に確かに区画がある。目当てのものを探せば、ブルーライトカット用眼鏡というコーナーが、小さなものではあるが設けられていた。三〇パーセントカットとか、四四パーセントカットとか、いくつか種類が揃えられている。果たしてこの種の眼鏡が本当に効果をもたらすものなのか疑わしく思う心もあり、また、三〇パーセントカットと四四パーセントカットで値段の変わらないものも見受けられて、何が何だかわからないのだが、ともかくもなるべく多くカットできるほうが良かろうと、上下に並んだなかの下方、四四パーセントカットできるという一番値の張る種類のものを買うことにした。色の種類は乏しく、鼈甲調めいたものか、緋色というか抑えた紅色のものかだったところ、後者を選んで会計をした。
 階段から地上に出る(出入り口のところをちょうど、女性店員が、箒を持って階段を掃除しているところだった)。高架歩廊に上がって駅舎に入り、改札を通って電車に乗る。帰路は(……)まで瞑目して頭を休ませ、それからまた本を読んだ。(……)に着いてからも、待合室に入って読み続け、乗り換えの電車がやって来るとそちらに移っても読書を続け、最寄りに至る。
 あとのことはよくも覚えていないし、面倒臭いので省略する。ただ、買ってきた眼鏡を掛けてコンピューターに向かい合ってみたところ、確かに神経症状があまり出ないようではあった。単純に、薬剤を飲みはじめて数日経ったので、こちらの症状が和らいでいるというだけのことかもしれないが、プラシーボだろうと効果があれば良いのであって、ひとまず掛け続けてみるつもりである。それでこの日は、九日の記事を完成させ、一〇日の記事を少々進めることもできた。

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