2019/5/17, Fri.

 九時二〇分に起床することに成功。睡眠時間は六時間にも満たない。快挙である。堕落の輪を一時断ち切ることが出来た。起き上がって上階に行くと、母親は台所で立ち働いていた。サラダか何か拵えていたようだ。台所に入ると輪切りにしたウインナーを菜っ葉やピーマンとともに炒めた料理があったので、それを電子レンジに突っ込む。その他米をよそり卓に就くと、母親が作ったばかりのサラダを皿に載せて寄越してくれたのでそれも運び、食事を取った。食後、抗鬱剤ほかを服用し、食器をさっと洗って下階に戻ると、コンピューターを再起動させて、それから前日の記録を付けた。この日の記事を作成してさて日記を書きはじめるとまもなく、母親が掃除機を持ってやって来たので、機械を受け取って自室の床の細かなゴミや埃を吸い取った。それからFISHMANS『Oh! Mountain』とともに日記を書いて、現在一一時過ぎである。音楽はBill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』に移行している。今日は午後、医者に行こうかと思っている。その後図書館で日記を書いたのちに夜から労働の予定である。
 前日の記事をインターネットに投稿。のち、一一時半から読書。ジェイムズ・ジョイス/米本義孝訳『ダブリンの人びと』を読みはじめたのだったが、じきに目がひりつき、眠気が煙のように身中に湧き昇ってきて撃沈。枕に頭を載せてしばらく休む。一時二〇分頃起きて、再度読書を始めたようだ。この時に、干してあった布団を取り込むこともしたと思う。それでふたたび書見の時間なのだが、ここでも眠気に刺されてしまって、一応二時半過ぎまで読んだけれどその後はあえなくまた床に臥してしまった。三時頃まで休んでそれから食事を取って出かけようと思っていたところが、気力が身体に宿って来ずに、あれよあれよという間に時間が過ぎて、結局四時を迎えてしまった。そこでようやく起き出して、上階へ。カップラーメンとおにぎりを食べることに。玄関の戸棚からカップ麺(柚子塩味)を取り出して湯を注ぎ、三分か四分待つあいだに台所に行って大きなおにぎりを拵えた。味付けは塩と味の素のみである。そうして卓に就き、おにぎりを半分以上貪ったあと、カップ麺の蓋を剝がして麺をほぐし、香味オイルと粉末スープを加えて搔き混ぜた。そうして啜るのだが、このカップ麺は大して美味いものではない。それでも完食して、しかしスープはあまり飲まずに台所に行って容器を片付け、そうしてワイシャツと靴下を身に纏いながら下階に下りた。今日のスーツは父親から借りた高島屋のグレーのものを着ることにした。スラックスは僅かに腰回りが緩いので、茶色のベルトを締め、首もとに臙脂色のネクタイも巻き、そしてこのスーツにはベストはついていないのだけれど、同じ灰色でそう違和感もあるまいということで自分のスーツに付属しているベストを身につけた。そうして便所に行って腹を軽くしたあと、Miles Davis『Kind Of Blue』の冒頭、"So What"が流れるなかで歯磨きをして、荷物をまとめて出発である。
 今日も風が流れて、葉擦れが鳴っているなか、坂を上って行く。空には青味が窺えて、空気もそう暗くはないが、太陽は西の雲に覆われているようで日向の感触は道にない。歩いているうちに、やはりベストにジャケットまで着込んでいると熱が身内に籠って、汗の感覚が生じはじめた。街道に出て通りを渡ると、目の前には躑躅の花叢があったが、赤紫色の花はもう大方萎んでおり、地にもたくさん伏したものが散らばっていた。Mさんが二月に来都した時のことをふと思い起こして思い出し笑いをしながら表通りを進んで行く。途中で老人ホームの、道に面した大窓を覗くと、車椅子に乗った高齢者たちが多数テーブルの周りに集まって、通りすがりのこちらを眺めていた。その角、青々と大きな葉をつけた桜の木の前を曲がり、裏通りに入る。
 コデマリやらミモザらしき花やら、色々と咲いているなかを歩いていき、白猫の家に至ると、今日も猫は家の前にうつ伏せになって佇んでいたので、寄っていって手を差し出した。相手は顔をこちらの指先に寄せてきて、湿った鼻面の感触が微かに触れる。それから頭を撫でてやったり、腹をくすぐるように触ってやったり、背中をゆっくりとさすってやったりして一時――五分もなかったのではないか?――戯れたあと、立ち上がり、身を屈めて、最後にもう一度頭を撫でてやったあとに別れを告げた。
 元市民会館のあたりまで来ると、森の方から響いてくる鳥の声が少ないなと思われた。過去の記憶によると、初夏の出勤路には、鵯のけたたましい鳴き声が響いていたような気がするのだが、あれは朝のことだっただろうか? ともかく駅に至ると改札を抜け、ホームに上がるとちょうどアナウンスが入って電車が入線してくるところだった。停まった電車の、二号車の三人掛けに腰を下ろし、リュックサックを傍らに置いて、手帳を取り出して眺めた。道中搔いた汗の感触が身体中にあって、熱が籠って暑かった。
 河辺に着くと降り、改札を抜けて左へ、駅舎を抜けると医者を目指す。家々のあいだの道の途中に陽射しが湧いて、ところどころ日向がぱっくりと口をひらいていた。その薄オレンジ色に比して、なかに伸びるこちらの影や、日蔭の色が青く際立っている。そんななかを歩いていき、ビルに着くとなかに入って階段を上った。待合室に入ってみると待っている人はこちら以外に僅か二人、これなら早そうだと期待して、受付に保険証と診察券を差し出した。そうしてすぐ傍の席に腰を下ろし、ジャケットを脱いで二つ折りに畳んで傍らに置き、ベスト姿でジェイムズ・ジョイス/米本義孝訳『ダブリンの人びと』を取り出して読みはじめたのが五時四三分だった。そうして六時ぴったりに順番が回ってきて名前を呼ばれた。はい、と低く返事をして、診察室の扉に近づき、こんこんと二回ノックをしたあとになかに入って、こんにちは、と挨拶した。そうして革張りの黒い椅子に腰を下ろす。どうですか調子は、といつものように問われるので、まあ変わらず、普通……普通です、と答えたあと、続けて、職場に復帰致しましたと告げた。そうじゃないかなと思ったんですよと先生はこちらのベスト姿を見て言った。一年ぶりの仕事の調子はどうかと問われたので、そうですね、思いの外に働いてみると身体が動いて、今の所問題なく、わりあいに上手くやれていると思いますと答えた。その他、睡眠は取れていますかと訊かれたのには、やや過眠気味だと受けて、先生はそのあたり少々気になっているようだったが、これはこちらの意志薄弱の為せる業である。同僚などは以前の人が残っているのかと問われたのには、結構いなくなってしまったが、残っている者は残っていると応じ、生徒の方はと訊かれたのにも、結構残っていますよと答えた。久しぶりと言って、旅に出ていたんだとか言ったりして、と話し、それから、どうでもいい話をしてもいいですかと許可を取ってから、病中に太りまして、一〇キロも太ってしまいまして、それで職場に復帰するにあたって久しぶりにスーツのスラックスを履いたら入らなかったんですよと笑った。続けてセルトラリンは太る薬ですかと訊いたが、特にそういうわけでもないらしい。オランザピンを使った時に太ったのだと思うと話すと、それ以来落ちていないということですねと先生は笑ったので、肯定した。まあ以前が痩せすぎだったのであって、今の体重の方が適正であるくらいなのだ。
 薬の処方は、職場に復帰したばかりでもあるし、以前と変わらずということになった。ありがとうございますと椅子に座ったまま医師に向けて礼をして、立って扉に寄るともう一度礼をしながら失礼しますと口にして退出した。スーツのジャケットを羽織って荷物をまとめるとすぐに会計、一四三〇円を払って、受付の職員にもありがとうございますと正面から礼を言って待合室を出た。領収書を畳んでリュックサックに入れるとともに、お薬手帳を取り出し、処方箋を片手に持って階段を下りていく。ビルから出るとすぐ隣の薬局に入り、挨拶しながら処方箋と手帳を差し出した。八八番の札を代わりに受け取って、がらがらに空いている席のなかの一つに就き、手帳を読みながらしばらく待っていると――頭上に設えられたテレビは日本文化を模したタイの観光地について取り上げていた――すぐに八八番の方、と呼ばれた。それでカウンターに寄り、定型的なやりとりを交わしたあとで会計、一九九〇円を払って礼を口にして薬局をあとにした。
 線路沿いに出て道を行けば、西空に掛かった雲の向こうから残照が仄かな明るみを洩らしており、それを背景に小さな黒い点と化した鳥たちが、風に舞う花びらのように空中を群れて行き交う。線路沿いを歩いていき、駅に着くと階段を上って、駅舎内の通路を通って反対側に出た。歩廊を図書館に向けて途中まで進んだところで、電車の時間を確認していなかったことに気づいて駅に引き返した。それで掲示板を確認すると、乗るべき電車は七時七分か一八分、一八分だと労働までの余裕がいくらか乏しいので、七時七分に乗れば良かろうと定めてふたたび歩廊に出た。西空に浮かんだ千切れ雲の上端に、薄紫色が乗っていた。
 図書館に入り、新着のCDを見ると、Woody Shawの八一年の日本でのライブ音源があった。それから階段を上って上階に行き、新着図書を眺めたが、それほど目新しいものはない。書架のあいだを抜けて大窓際の席を見れば、テスト前だからだろう中高生の姿が多く見られて席は混んでいる。喉も乾いているし喫茶店に行くかと思いながらも席を辿ってみると、一席空きが見つかったのでそこに入った。ジャケットを脱ぎ、椅子の背に掛けて、ベスト姿になって席に就く。コンピューターを取り出し、日記を書きはじめたのが六時半、それからぴったり三〇分、七時ちょうどまで打鍵して、医者にいるあいだの途中のことまで書くと、速やかに荷物をまとめて席を立った。何か本を借りようかと思っていたものの、見分している時間はもはやなかった。退館し、歩廊に出ると、果てから足もとまで等しく青さに浸った午後七時の空気のなか、右方の西空の山際には幽かにゼニアオイ色がくゆり、左方の東空に出た満月は青さのなかでくっきりと際立ちはじめていた。河辺駅に渡り、改札を抜け、エスカレーターを下ってホームの先頭、一号車の位置まで行き、手帳を眺めているとまもなく電車はやって来た。乗りこみ、扉際に立ちながら手帳に目を落として、青梅に着くと降車して、ホームを辿っていく。駅を抜けると職場に向かった。
 職場に入り、奥のスペースに行くと、(……)先生がいたのでお疲れ様ですと挨拶をした。この日は室長がいなかった。担当は国語二名、(……)くん(中一)と、(……)くん(同じく中一)。(……)くんは三回目である。テスト前の国語三時限をこちらがすべて担当したことになる。この日はワークの問題は終わってしまったので、補助教材を使って進めた。補助教材にはやや難度の高い記述問題があるのだが、それも積極的に書いてくれて良い感じである。記述を解く時はまず中核となる答えを短く簡単に考えて、それから周辺情報を付加していくようにとのアドバイスを行った。
 (……)くんは以前勤めていた時にも担当したことのある生徒で、少々背など高くなっていたと思う。お久しぶりです、またよろしくお願いしますと挨拶をした。彼は私立学校の生徒である。それでしかし、国語の教材を何も持ってきていないと言うのでどうしたものかと思ったところが、使っている教科書を訊くと公立学校のそれと同じで、やっているところも同じだと言うので、それならば対応するワークがある、ということでコピーして対応した。それで国語はやはり、突っ込んで解説をしたり、ノートに事柄を書かせるのが難しい。突っ込んで質問したり解説したりするところまではある程度出来るが、そこから学んだことをいざノートにメモするとなると、これがなかなか困難で、ほかの教科のように逐語的な知識があまりある科目ではないので、何を書けば良いのか生徒のほうも戸惑うような形だ。この日は一応、(……)くんの場合は、「花曇り」という言葉の意味と、蟷螂の詩について書かせた。蟷螂の詩については、力強い感覚があると答えにはあるが、どこの部分が力強いかという質問をすると、まずもって「~ぜ」「~だぜ」という語調になっているのが強い感じがするという答えがあって、それはなかなか良い着目点ではないかと思ってそれをノートに書かせたのだったが、果たしてこうしたことをメモっておいて何か意味や効果があるのかというと心もとない。しかしほかに書くこともないのだ――空欄にしてしまうのはまずいので、どうしてもノートを埋めることが自己目的化してしまいがちなのが我が塾のシステムの危ういところである。
 とは言え授業は全体的には問題なく、わりあいに上手くいっただろうと思う。また、この日はこちらが(……)くんの教材をコピーしている時に、(……)先生という女性の先生があちらから挨拶をしてきてくれた。向こうから挨拶が来たのは初めてで、この夜に両親とも話したことだけれど挨拶というのはやはり何だかんだ言っても大事で、そのあたりこちらから行くばかりで向こうから来る人があまりいなかったので、この日の(……)先生の対応には安心した。また、(……)先生も授業後、挨拶が遅れましてと言いながらこちらのもとに来てくれたので、これも良かった。そのほか(……)先生と(……)先生にはこちらから挨拶をしたので、これで同僚とはほとんど一応一回は言葉を交わしたことになると思う。さらにこの日良かったこととしては、コピー機の前にいる時に(……)がやって来たのだが、そのうちの一人――双子なのでどちらがどちらなのかわからない――が、先生の授業もう一回受けたいですよと言ってくれたことがある。なかなか嬉しい評価ではないか。
 あとそうだ、(……)先生とも再会して、授業後にちょっと立ち話をした。彼女は今大学三年生だと言う。と言うことは、こちらが以前いた時分には大学一年生だったということなのだが、当然のその事実を確認して、マジかと口にし、月日の流れてしまったその事実に打ち震えた。いつの間にか、気づけば三年生になってましたと彼女は言う。就活などしなければならないのだが、元々教職志望だったところ、色々と調べてみると自分には向いていないのではないかと思うようになって、今進路を迷っているところらしい。そんなような話をして、一緒に出口のところまで行き、お疲れ様ですと見送ってこちらも外に出て、ロータリーを回った。
 水分の抜けた身体を潤すかというわけで、裏道の途中にある自販機に寄って、一〇〇円のコーラの缶を一つ買った。そのプルタブを引き開けると、しゅわしゅわと音を立てながら中身の炭酸水が噴出してきたので、マジかと思ったが、噴出はすぐに止まって、液体が缶の上端を越えて少々零れるだけで済んだものの、左手がべたべたと汚れてしまった。それでもそのコーラを飲みながら歩いて行き、途中に差し挟まった間道に出ると、午後九時半の深い闇空のなか、左方、南の方角に、満月が輝かしく照っていた。その後、コーラをごくごくと口にしながら歩いて行き、青梅坂まで来てふたたび南空に目をやると、先ほどは星の息絶えたように黒々と深んでいた夜空に、今度は美しい青味が露わになっている。その青々と光の照り渡った夜空の下、坂を下りて角の新聞屋の前のゴミ箱に缶を捨て、表通りを歩いていくあいだ、道行きの左方に常に満月が付き添ってきた。
 家の傍に続く最後の坂を下りると、右方にひらいた木の間の上り坂の中途に、白い影がある。猫だった。それでしゃがんで手を伸ばしてみるのだが、猫はこちらを一顧もせずに上って行ってしまう。それを追いかけるけれどもあちらも走って逃げて、一度はすぐ傍まで接近することができて、相手は振り返って止まったのだが、やはり警戒して逃げてしまったので、途中で諦めて坂道を引き返した。そうして帰宅。両親に挨拶し、下階に下って服を脱ぐ。汗だくだった。コンピューターを机上に据えて起動させておき、肌着の真っ黒なシャツにジャージ姿になると、支出を記録してから上階に行った。そうして食事、餃子や炒め物をおかずに白米を食った。父親が話しかけて仕事のことを訊いてきた。それが発端になって、職場のことを色々と話したが、細かく思い出して記すのは面倒臭い。国語の授業が難しいといったこととか、詳しく書くと素性がバレるので避けるが、塾全体のシステムを説明してその問題点を指摘したりとか、あとは同僚たちがあちらからあまり挨拶をしてこないということなどだ。風呂から出てきた母親も交えて零時を過ぎるまで長々と話したのだったが、挨拶の件について触れておくと、自分は以前から、新しく入った新人の講師と時間が一緒になったら、こちらからFです、よろしくお願いします、文系科目を担当しているのでわからないことがあったら訊いてください、くらいの声は掛けるようにしていた。ところがこちらが復帰して入っていっても、面識のなかった先生からの挨拶がなかなかなくて、こちらから行かねばならない、そのあたりちょっと釈然としないものを感じていたのだ(しかしこの日は先に綴ったように、二人の先生から挨拶されたのでそれは良かったのだが)。あとは、同僚同士の挨拶だけでなくて、生徒の出迎え、見送りの挨拶も、こちらが入口に一番近いところに立ち、言わば最前線に立ってやっている。そのあたりも、皆もっと来いよ、ついて来いよ、と思うと両親に話すと、そうした改善点が目につくのだったら、今すぐでなくても良いけれど、教室会議の折などに指摘したほうが良いと思うとの返答があって、まあそれはその通りである。あとは塾で働くに当たっての心構えとか、英単語テストの使い方の難しさ、その無意味さなどについても話したのだけれど、そのあたりは面倒臭いので省略しよう。
 零時を結構過ぎてから風呂に入った。出てくると下階に下り、零時五〇分頃から読書を始めた。ジェイムズ・ジョイス/米本義孝訳『ダブリンの人びと』から「死者たち」である。それを一時間弱読んだところで、中断し、コンピューターに寄ってSkypeでやり取りして、二時前から通話が始まった。何を話したのか例によって全然覚えていない。幽体離脱の話があった。Yさんが以前体験したらしい幽体離脱の手前の体験のことが話された。こちらも応じて、以前瞑想を習慣的にやっていたのだが、変性意識に入ると眼裏に鮮明な画像が見えたり、昼寝の時に幻聴が聞こえたりしたことがあったと話した。また、恐怖症の話もあった。MDさんが皆さん、何か恐いものってありますかと訊いたのだった。いや、訊いたのはYさんだったか? 皆の恐いものって何かな、と彼が訊いていたような気もする。MDさんは「トライポフォビア」とかいう単語を口にした。訊けば、何か丸いものが無数に連なっているのが恐いという恐怖症、例の「蓮コラ」のようなものに対する恐怖症のことだと言う。以前MDさんがイギリスを訪れた時に、ウェストミンスター大寺院だかを見に行ったと言うのだが、その時に連れ立っていた相手がこの恐怖症で、美しい薔薇窓のステントグラスをその人は直視できなかったということだった。
 しばらくするとRさんが参加してきて、このグループの皆さんで同人誌みたいなものを作ったらどうでしょうかとの提案をしてきた。その場にいたメンバーは概ね好意的な感じだった。こちらは日記しか提供できないが。あとは短歌があると言ったら、それを出しましょうとRさんは言ったけれど、あんなもので良いのだろうか。短歌に関して言えば、MDさんがこちらの例の短歌を好いてくれているらしく、ファンですとまで言ってくれたので、ありがとうございますと照れながら礼を言った。同人誌は、Rさんの構想では、何かサイケデリックな感じとか、幻想的な雰囲気のものになれば良いと考えているようだった。Iさんが小説を提供できるとして、僕は日記、Aさんに絵を描いてもらって、あとは詩ですねと口にし、Yさんに詩を書いてもらうか、何となく書けそう、と無茶なことを言った。
 その後はBさんの音声がまた水中から通信しているかのようにくぐもってしまい、彼女はチャットに移行したので、その発言をこちらが拾うような形で話が展開された。同人誌の話から文学フリマという単語が出てきて、それでかつて行っていた読書会の話をした。二〇一四年だったか二〇一五年だったかの文学フリマにそのメンバーで訪れたのだけれど、その帰りに代々木のPRONTOに寄ったところで何故か政治談義になり、なかに一人、本気で――と言ってどれくらい本気だったのかわからないけれど――共産主義革命、全世界同時革命をしなければ駄目だと主張する人がいて、周りのメンバーは皆、いやいやさすがにもうそんな時代ではないでしょうと応じて対立みたいな形になり、その人が孤立無援のなか、決裂ということになって会が解体した、そんな体験があったのだった。それについて話し、今も一つ読書会を僕はやっていますとも言い、このグループで読書会とかやるのもいいんじゃないですか、と言うかSkypeで出来るじゃないですかと提案した。読書会と言っても簡単な話で、同じ本を皆で読んできてそれについてくっちゃべるというだけのことである。
 そのほかBさんが先日、Twitterで他人の読了ツイートにケチをつけているような人を見かけて、それから怖くてしょうがないという話があった。そこから思い出してこちらは、やはり他人の「質問箱」に来ていた妙な質問の話をした。それは、「アラサー無職が偉そうに文学について語っているの、どう思います?」みたいな質問で、阿呆か、という話ではあるのだけれど、それを見た時、あれ、これ俺のことじゃね? と自意識過剰にも思ったのだった。自分はアラサーであるし、当時はまだ職場に復帰していなかったので無職でもあったし、長々しい感想ツイートを垂れ流しているので、それが「偉そうに」見えることもないではないかもしれない。その質問を受けた当人は、文学を語るのに年齢とか身分とかは関係ないと思いますというような、穏当な返答をしていたので安心するのだが、まあそんなことがあって、これ俺じゃね? と思ったのだと言って一人で大笑いした。
 そんなような事々を話して、三時半になったところでやはりこちらが、もう三時半なので寝ましょうと呼びかけて通話を終了した。そうしてコンピューターを閉じると、すぐに明かりを落として寝床にもぐりこみ、就床した。


・作文
 10:17 - 11:10 = 53分
 18:30 - 19:00 = 30分
 計: 1時間23分

・読書
 11:30 - 12:24 = 54分
 13:20 - 14:35 = 1時間25分
 17:43 - 18:00 = 17分
 24:48 - 25:43 = 55分
 計: 3時間31分

・睡眠
 3:30 - 9:20 = 5時間50分

・音楽