2019/7/2, Tue.

 しかも、「からだ」は、「世界」という視点に立って見るならば、日本文化の独自性がもっとも強く立ち現れてくる次元であることはまちがいない。柔道ひとつを取ってみても、これほど世界化した日本文化はないかもしれないと言うべきでしょうし、柔道ほどの世界的展開にまではいたっていないとしても、剣道、合気道、空手、なども世界各地で広く行われている。また、国内にとどまっているように思えても、相撲も弓道も日本文化を代表するものとして世界で広く認知されています。
 それに、茶道や華道などを加えてもいいでしょう。そうした儀礼的な「美」の「道」の根底にも、西欧をはじめとする世界のほかの文化にはなかった、独特な「からだ」の使い方、あるいは「あり方」があることは、直観的に理解できるはずです。すなわち、現代では、「スポーツ」あるいは「芸術」というカテゴリーに分類されてしまいますが、それらに共通する「からだ」をベースにした、さらに正確に言えば「からだ」と「こころ」とが一体となっているような「道」の文化とでも呼ぶべきものが、日本には、あるということになる。そして、われわれは、概念やイデーといった「ことば」よりは、むしろこうした「からだ」の「かたち」において、世界に向けて文化を発信しつづけているのかもしれません。
 (小林康夫・中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、152~153; 小林康夫「受け継がれる芸――世阿弥『花鏡』」)

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 むしろ大雑把な括り方をさらに継続しつつ、わたしが提出したいイメージは、ユーラシア大陸の端に位置し、広大な太平洋に面した日本列島は、西から押し寄せてくるさまざまな外来文化をすべて受けとめ、受け入れる終着の「器」であったということ。そして、この「器」のなかで、――さらにその無数の襞のような「谷間」のなかで――さまざまな「文化」が言わば「発酵」して「文化変容」を起こし、そこからきわめて独特な「からだ」が生まれてきたということです。海を渡って運ばれてきた「ことば」が「器」のなかで、納豆や醤油、味噌、漬物、鰹節などのように「発酵」し、――もはやこの先の大海は渡れないので――「からだ」へと変容する、というわけです。
 (153~154; 小林康夫「受け継がれる芸――世阿弥『花鏡』」)


 一〇時頃から覚めていたのだが、いつもの通り、起き上がるほどのエネルギーを身に引き寄せるまでに時間が掛かって、だらだらと床に留まり続けて正午を迎えた。ようやく身を起こし、パンツ一丁の格好だったのでハーフ・パンツと肌着の黒いシャツを着て、上階に行った。父親は仕事、母親も着物リメイクのボランティアで出かけている。書き置きには冷蔵庫のなかにジャガイモとマカロニがあると簡易的に記されていた。マカロニは前夜のおかずの残りである。それらを取り出し、電子レンジに突っ込んで、加熱しているあいだに便所に行って尿を放った。そうして戻ってくると米をよそり、おかず二品とともに卓に運んで、椅子に腰を下ろして食事を取りはじめた。新聞を瞥見しながら醤油を垂らしたマカロニとともに白米を咀嚼する。香港では七月一日の返還二二年を期して、ふたたびデモ活動が盛り上がり、立法会が一部占拠されたと言う。デモ隊が立法会のガラスを破壊したとの報を見て、おや、と思った。香港の活動は非暴力を貫いていたはずなのに、ここで破壊行為を行ってしまって良いのだろうか? 風向きと言うか、これであるいは動勢が変わるのではないかと思うのだが、新聞記事によると、どうも破壊行為を敢行した一派はデモを主催した中心団体とは離れたゲリラ的な部隊であるらしい。
 ものを食べ終えると抗鬱剤を服用して食器を洗い、風呂場に行って浴槽を擦り洗った。出てくると洗面所の鏡の前で、櫛付きのドライヤーを使って髪を梳かし、それから居間に出てアイロン掛けを行った。風呂を洗っているあいだも、エプロンやハンカチやシャツに高熱の器具を滑らせているあいだも、"アポロ"が頭のなかで繰り返し掛かって仕方がなかった。アイロン掛けを終えると下階に下りてきて、コンピューターを起動させ、Evernoteをひらいて前日の記事に日課の記録を付けた。それからこの日の記事を作成し、Twitterを覗くと、Iさんがブログの読者が二〇〇人を越えたと報告していたので、やばいですね、凄いですねとリプライを送っておいた。開始から二か月も経たないうちにそこまで読者数が増えるとは凄まじい。こちらも多少、あやかりたいくらいである。それから、一時を越えて日記を書きはじめた。音楽は例によって最初にFISHMANS『Oh! Mountain』。この日の記事を先にここまで綴って、一時二〇分過ぎである。これから前日の記事を仕上げなければならない。
 前日の記事は二時直前に至って仕上げることが出来たが、どうもいまいち文を書くという行いのなかにじっと沈潜して耐えるほどの気力がうまく湧かず、少々適当に書き流すようになってしまった。石坂産業のサクセス・ストーリーなど、番組を実際に見ているあいだにはもっと詳細に綴ろうと思っていたのだが。それでもともかく二時前には七月一日の日記を完成させ、名前を検閲したりAmazonへのリンクを仕込んだりしながらブログに投稿し、Twitterやnoteの方にも発表しておいた。そうして、二時一五分から柴崎聰編『石原吉郎セレクション』を読みはじめたのだが、朝にあれほど怠惰に床に留まり続けているのに、ベッドに乗ってクッションに凭れ、姿勢を緩く伸ばすと何故だかどうしても眠気が湧き、いくらも読まずにそのうちに目が閉じて、正気を失った。じきに意識を取り戻したのだが、すぐに頭が晴れるというわけには行かず、眠りと現の境の曖昧な領域に陥ったままでいた。そうして四時を越え、四時一〇分か一五分頃になってようやく身体を起こし、上階に行った。労働前の食事のためである。母親は一時かそのくらいに一度帰ってきたのだが、今度はまた歯医者に出かけていた。別の歯医者に移ったのでと、菓子折りを持って断りに行くのだと言う。わざわざ丁寧なことである。書き忘れていたが、日記を投稿し終わったタイミングで一度上階に上がって母親に顔を見せ、その時台所に置いてあった竹輪――胡瓜をあいだに挟んだもの――を食べてから戻ってきて読書を試みたのだった。
 上階に行くと冷蔵庫から硝子皿に入ったジャガイモ――薄くスライスして炒め、塩胡椒を振ったもの――を取り出し、電子レンジに突っ込んだ。そのほか母親が買ってきてくれたコンビニのおにぎりとゆで卵を持って卓に就き、食物をもしゃもしゃと咀嚼してさっさと腹に入れた。皿を洗うのは面倒だったので箸とともに流し台に放置し、居間の隅、ベランダに続く戸の脇に掛けられてあった柔らかい素材のワイシャツを持って下階に下り、自室に入るとシャツを身につけた。それからハーフ・パンツを灰色のスラックスに履き替え、cero "POLY LIFE MULTI SOUL"の流れるなかで歯を磨くと、コンピューターの前の椅子に就いて詩を音読しはじめた。岩田宏の「むすめに」という詩である。以下に引く。

 ことばは手に変れ
 とても男らしい手に
 すこし汗ばみ すこし荒れた
 実用的な手に なぜなら
 ぼくはことばを
 突き出さなければならない
 自殺を決心したむすめ
 あなたに なぜなら
 それがぼくの権利
 あなたの義務は
 思いつめ 思いつめること
 まるで追いつ追われつ
 走るように なぜなら
 夜は戦争よりも長いんだ
 政府もあなたも徹底的に一人で
 朝ほど痛い時間はほかに絶対ないんだ
 そのことを百回あるいは
 千回思って絶望しなさい
 あなたは睡眠薬を二百錠飲むつもりだが
 薬より口あたりのわるいことばを
 あなたの穴という穴に詰めこむのが
 ぼくのほんとうの望みなんだ
 サディストどもが
 拍手している ぼくは
 あなたにあげる
 握手を!
 (『岩田宏詩集』思潮社(現代詩文庫3)、一九六八年、21~22; 「むすめに」全篇; 『いやな唄』)

 素晴らしい詩だと言わざるを得ない。この詩篇を四時三六分から五一分まで一五分間音読し続け、半ば暗唱できるようにした。そうしてコンピューターをスリープ状態に落とし入れてクラッチバッグを持って上階に行き、便所に入った。放尿していると母親が帰ってきた音がしたので、出るともう行くよと告げて、階段横の腰壁の上に置いてあったバッグを取って、玄関から出た。
 坂を上っていき、今日は八百屋のいない三ツ辻まで来ると、鈍く白い空のなか北西方向に、僅かに暖色がかった太陽の印が焼きつけられていた。街道に出る頃には捲った袖の裏の肌が水気を吐いていた。雀が鳴き声を降らせながら、車道の上を飛び交っているなか歩いていき、老人ホームの角を今日は曲がらず、たまには表を行くかとそのまま車道に沿って東に向かった。
 道行きの端々で、雀の、あれは囀りだろうか地鳴きだろうか、チチチチチ、という細かく連打的な鳴き声が落ちてくる。ふと視線を目前の地面に落として、ほんの幽かな自分の影が浮かび、蠢いていることに気がついた。振り向けば、蒼白に醒めた空のなかに、やはり太陽が辛うじて暖色を帯びながらその影を刻印している。空気は蒸し暑くて、髪の内側や襟足に汗の気が溜まって肌を湿らせているのが如実に感得される。風はなく、せいぜい微風が時折り肌に触れてくるのみで、路傍の庭木を揺らがせるほどの力もない。
 通りすがりに道の脇を見やれば、シャッターの下りている商店が目につく寂れた町並みである。青梅図書館に入る細道の手前あたりで、前方からやって来た老人がこの蒸し暑いのにシャツの上にジャケットまで着込んでいる。何やら顔を顰めたような険しい表情をしていたのだが、その顔貌が先日一三回忌を執り行った我が祖父に似ているようだった――と書いて思い出したが、この時は気づかなかったけれど、今日、七月二日はまさにその祖父の命日なのだった。
 職場に着いたのは五時二五分頃だった。授業は六時からなので、随分と早く着いたものだ。そのおかげで、今日当たった小学生の国語の文章をたくさん読み、予習しておくことが出来た。授業の相手は、(……)さん(中三・英語)、(……)くん(小六・国語)、(……)くん(中二・英語)。(……)くんと(……)くんはいつも通り、恙無い授業だったと思う。前者の国語は、今日は長めの文章を取り扱って、そのなかで重要だと思われた部分と、物語における場面転換の見分け方のようなことをノートには書いてもらった。後者の方はwillを使った文の疑問文・否定文を扱い、特に大きな問題はなかったと思う。問題は(……)さんである。チェックテストの勉強をしてきたらしいのは良かった。しかし、授業本篇は予想以上に彼女の進み方が遅く、本当は一般動詞(1)と同じく一般動詞(2)の両単元をこの一授業で扱わなければならない計画だったところ、前者の一頁しか終わらなかったのだ。どうも進行が遅いのは、たびたび隠れて携帯を弄っているからではないかと思われた。時折り、左手を使って身体の脇で携帯を操作している姿が見られたのだ。そうでなくとも、手遊びと言うか、何をやっているのかわからないが何かごそごそとやりながら時間を潰している時間が多かったように見受けられた。彼女は問題に取り組む時、背を大きく曲げて髪を垂らし、顔をノートの頁面の近くに持っていって伏せ、そのせいで表情が見えなくなるのだが、同時に手もとも顔や髪に隠されてこちらからは見えなくなるわけで、これはもしかするとどれくらい進んでいるのかというのを講師から見えなくするためにやっているのかもしれない――というのは穿ちすぎた見方だろうか? しかしともかく、今述べたような具合で充分に進めることが出来ず、当然指導もこちらの納得の行くものではなく、せいぜい主語が複数の時は動詞にsはつかないこと、doesがあったら動詞は原形になることの二つを確認する程度で終わってしまった。本人のスピードに任せて放っておいたのがまずかったのだ。解説を加えながら一緒に問題を解き進め、導くという形で介入して、もう少しスピードを速め、多くの問いに当たらせるべきだっただろう。
 授業が終わると片付けをして、奥のスペースに置いてあった「シャトレーゼ」の焼き菓子を二つバッグに入れた。さらに、今日こちらが来る前、おそらく四時くらいかと思うが、社長が視察に来たらしいのだが、その社長が置いていったというGODIVAの丸型クッキーも二つ頂き、そうして退勤した。時刻は七時四五分ほどで、奥多摩行きの発車までもうまもなかったので、次の電車を待つことにして急がず歩いていくと、駅からは青梅着の電車から降りてきた人々が大挙して吐き出されてくる。そのなかを通り抜け、改札を通り、ホームに出ると自動販売機に寄って一三〇円で二八〇ミリリットルのコーラを一本買った。そうして木製のベンチに就き、手帳を読みながら、黒々と深い色に染まった炭酸飲料を空っぽの胃に流し込んだ。飲み終わるとペットボトルを自販機横のボックスに捨てておき、席に戻って引き続き手帳を目を落とし、奥多摩行きがやって来ると最後尾の車両に乗り込んだ。七人掛けの端に就き、バッグは隣席に置いて偉そうに脚を組み、手帳のなかから『世界の語り方2』から引いた情報などを確認していく。一項目につき一〇回ほど読み込みながら発車を待ち――電車は例によって、中央線で安全確認をした時間があったとかで遅れていた――向かいに青梅着の電車がやって来て乗り換えが済むと、電車は出発した。そうして最寄り駅まで手帳を確認して過ごし、ホームの上に降り立つと、空気は生温かった。それでも微風が身に触れて、細かな羽虫が蛍光灯に向かって投身を繰り返している。階段通路を通り抜け、横断歩道のボタンを押して車を止めて渡ると、坂道に入った。空は曇り、街灯の光の届かない地は闇に覆われて、石壁や高く聳えた木の葉々の襞も明らかならない。街灯が白く地を舐めるその上には道脇から張り出した枝葉の影が差し込まれているものの、斑なその影はそよとも蠢かないのだった。木の間の坂道は陽が当たらないのでまだ路面がじっとりと湿っている。下りて行って沢が近くなると、街灯の光の膜のなかが薄白く靄を掛けたようになっていた。
 平らな道に出て行っていると、足もとから前方にするすると伸びて、水が浸透するように地に消えていく己の影に目が落ちる。次の街灯を通り過ぎるとまた、電灯の位置に応じて右あるいは左から影がこちらを追い抜いていき、左手をポケットに突っ込み右手でバッグを小脇に抱えた姿の分身が、揺れながら道の先へと長く巨大に伸びていくのを繰り返し、それを見ているうちに家に着いていた。
 父親が入っているらしい風呂の音が玄関外で聞こえた。なかに入ると母親に挨拶し、ワイシャツを脱いで洗面所の籠に丸めておき、下階に下りるとコンピューターを点けた。Twitterを覗くと、昼間に呟いておいた「毎日日記を書いているだけで食っていける世界が来てくれないだろうか」という発言に結構反響があって、なかにリプライが二つ混じっていた。Cさんからのものと、E.Sさんという方からのものである。後者の方はリプライを送ってきてくれたのは初めてだと思う。返信はあとにすることにしてハーフ・パンツ姿に着替えると上階に行った。冷やし中華にしようかなどと母親は出る前に言っていたけれど、結局茄子のカレーにしたと言う。それでフライパンのカレーを火に掛け、その他水菜・胡瓜・人参・パプリカを細かくおろした生サラダなどを卓に運んだ。そうしてコーンやら何やらの混ざったカレーを、氷水を時折り口に含みながら食い、サラダも玉ねぎドレッシングを掛けて頂き、ほかにインゲン豆の和え物や大根の切り干しなども母親があとから追加して持ってきてくれたので腹に入れた。抗鬱剤を飲んで食器を洗ってしまうと、父親がそろそろ風呂から出そうな気配だったので、ソファに就き、九時からのニュースを眺めながら待った。鹿児島ではどこかの川の堤防が決壊したらしく、民家の周りに茶色く濁った水が押し寄せて植木鉢などが流される映像が報道されていた。父親が風呂から出ると入れ替わりに洗面所に入り、服を脱いで風呂場に踏み入って、湯のなかに浸かった。浸かりながら髪を搔き上げ、ばしゃばしゃと両手で湯を掬って顔を何度も洗って脂を落とし、それから目を閉ざして呼吸に集中しながら身体を温めた。頬や肩口を流れていく汗の玉の感触がくすぐったく、頭のなかにはまだ火曜日だというのにFISHMANS "土曜日の夜"のメロディが流れていた。しばらくすると洗い場に上がってシャワーで頭を一度流し、シャンプーを手に取って泡立て、前後左右にがしがしと指の腹を使って頭を擦り、それから洗剤をシャワーで流した。その後身体も洗って流すと風呂の蓋を閉め、洗面所に上がる扉の前で、持っていたフェイスタオルを使って――やや生乾きの臭いがした――身体の水気を拭ってから――兄などはこの行程を踏まないので、彼が入ったあとはいつも足拭きがびしょびしょに濡れていたものだ――洗面所に踏み入った。さらにバスタオルで身体を拭いてから髪を乾かしたが、熱風を頭に受けているあいだにふたたび汗が湧いたので、乾かし終わったあとにふたたびバスタオルを取って背や胸や腹や首筋に当てなければならなかった。洗面所から出てくると、居間の母親に、お先にという意味合いを込めてはい、と声を掛けておき、それから階段を下った。自室に入るとcero "Yellow Magus"及び"POLY LIFE MULTI SOUL"を流して歌い、合間にTwitterでリプライに返信もしておいて、そうして九時四〇分から日記を綴りはじめた。BGMとして流されたのはBill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 1)にBIGYUKI『Greek Fire』である。そうして打鍵を始めてから一時間強が経って、ここまで記述が進んでいる。
 Mさんのブログを四日分読んだ。それから、書抜きである。まず『石原吉郎詩集』の散文部分――「三つのあとがき」と「肉親へあてた手紙」――から文言を写し取り、次にMichael Stanislawski, Zionism: A Very Short Introductionからも情報をEvernoteに記録した。イスラエルの入植活動が始まったのは、メナヘム・ベギンのヘルートが政権を握っていた時期ではなく、労働党政権の下でのことだったとの由。書抜きに切りを付けると時刻は零時を越え、日付替わりも既に済んでいた。ベッドに移り、柴崎聰編『石原吉郎セレクション』を読みはじめた。二時過ぎまで書見を続けたのちに就寝。


・作文
 13:02 - 13:55 = 53分
 21:39 - 22:47 = 1時間8分
 計: 2時間1分

・読書
 14:15 - ? = ?
 16:36 - 16:51 = 15分
 22:50 - 23:20 = 30分
 23:23 - 24:08 = 45分
 24:15 - 26:09 = 1時間54分
 計: 3時間24分

・睡眠
 3:20 - 12:00 = 8時間40分

・音楽