2019/11/5, Tue.

 ラーゲルのすべての記録作者が一致して、何度も繰り返し書いている、その他の虐待や暴力があるが、私はそれらを全体で無益なものだと決めつけるのにはためらいを感じる。すべての収容所で一日に一、二回、点呼が行われたことが知られている。だがもちろんそれは名前を呼ぶ点呼ではなかった。なぜなら何千人、何万人もの囚人の名前を呼ぶのは不可能だったからだ。それは名前ではなく、五桁か六桁の登録番号で確認されていた。それはこみいった、骨の折れる数字点呼[ツェールアペル]だった。というのは他の収容所に移送されたり、前の晩に病棟に行ったり、夜に死んだ囚人の数も考慮に入れなければならなかったからだ。その実数は、前日の数とともに、朝仕事に向かう労働舞台の行進の際に五人一組で数えられた数とも、正確に合っていなければならなかった。オイゲン・コゴンの語るところによると、ブーヘンヴァルトでは、夕方の点呼に、瀕死の病人や死者も出席しなければならなかった。立ったままではなく、地面に横たわった姿でだったが、計算を楽にするために、五人ごとの列を作らなければならなかった。
 この点呼はもちろん屋外で、いつ何時でも行われ、少なくとも一時間はかかり、計算が合わない場合は二時間、三時間と続いた。そして脱走の疑いがあった場合は、二十四時間以上も続いた。雨や雪が降ったり、寒さが厳しい時は、労働以上にひどい拷問となり、夕方、その疲労の上に重くのしかかってきた。それは中身のない、儀礼的な儀式と考えられていたが、おそらくそうではなかった。結局のところ、飢え、消耗させる労働、そして老人や子供をガス室で殺すことなどが無益でなかったという観点から見るなら、それも無益ではなかった(皮肉な観点を許してほしい。ここでは自分とは違う論理で考えようとしているのだ)。こうした苦しみはある主題の展開であった。つまり優越する人種が劣等人種を従属させるか、抹殺するという、推定された権利の展開であった。点呼もそうしたものだった。それは「帰還後の」私たちの夢の中で、労苦、寒さ、飢え、欲求不満が一体化した、ラーゲルそれ自身の象徴となった。点呼がもたらした苦しみは、冬には毎日虚脱状態で倒れたり、死者が出たその苦しみは、体制の中に、厳しい軍事教練[ドリル]の中にあった。それはプロシア流の伝統で、ビューヒナーが『ヴォイツェク』の中で永遠化したものだった。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』朝日新聞出版、二〇〇〇年、131~132)


 一一時四五分までだらだらと寝過ごしてしまった。カーテンを開ければ、一面青を注ぎこまれた南の空で太陽が白々と、雄々しいまでに光を広げて顔に送りつけてくる。その熱を感じながら段々と覚醒を確かなものにしていき、ようやく起床するとコンピューターに寄ってスイッチを押した。各種ソフトを立ち上げておき、Twitterを覗くと、早速昨日送った「MN」さんへのメッセージに返信が届いていた。随分と早いものだ。ざっと目を通しておいてから部屋を出て上階に行けば居間は無人、母親は着物リメイクで出ており、父親は休みだがまたどこかに行ったのだろう。階段横の腰壁に掛かっていたジャージを取り上げて、ソファの脇で寝間着を脱いで服を替え、それから洗面所に行って顔を洗った。そうしてトイレにも行って用を足してくると、台所に入り、フライパンに炒められてあったモヤシを皿に払って、電子レンジに入れるとともに米をよそった。その二品を持って卓に就くと、モヤシ炒めに醤油を垂らし、新聞を引き寄せて一面の、安倍首相と文在寅大統領が一〇分少々接触をしたとの記事を読みながらものを食った。速やかに食べ終えると電気ポットに水を足しておき、台所で皿を洗ってから風呂も洗いに行って、そうして下階に下りた。「MN」さんにひとまず礼の返信だけしておいて、この日の記事を作成したりしてからまた上がり、緑茶を仕立てて戻ってくると早速日記を書きはじめて、ここまで書くと一二時四〇分を目前としている。
 続いて前日の日記をさっと書き飛ばし、インターネット上に発表すると、読み物に入った。まずはいつものように一年前の日記を読み返すのだが、この日は通院しており、そこで今の状態は離人症的なものだろうと診断を下されている。それを受けての一節が以下だ。

よろしい、まあ比較的軽い方ではあるのだろうが、自分はおそらく離人症と言われる病状に囚われてしまった。これはまことに無味乾燥で退屈で、空虚でつまらず、生きている甲斐のないような感覚ではあるのだが、しかしパニック障害時代のように不安に苛まれることもなく、人とやりとりをする際に緊張もしないというのはまあ楽ではある。悟りというのは一種の離人症なのではないかという説もあるらしいが、確かに半ば悟ったと言っても良いような体感である気もする。ただ、それでは自分は苦しみから解放されたのかというとまったくそんなことはない。現在の状態は甚大な苦痛ではないにせよ、悩みの素ではあり、緩慢な苦に浸された状態ではある。パニック障害の時代も苦しかったが、それとは別種の、しかし確実に一つの苦しみであることは間違いない。自分はむしろ、現在の状態よりも、パニック障害ではありながらまだしも人間的な感覚のあった頃のほうが良かったとすら思っている。パニック障害は確かに苦しい、それはおそらくこの世の大半の人はまったく理解もできないし、また一生涯を通じて体験することもないであろう程度の苦しみなのだが、それはまだしもこちらの人間性を奪うものではなかった。現在の苦というのは、自分の人間性アイデンティティを根こそぎ奪われたという類の苦である。ここにおいては、物事のまざまざとした実感を感じられないこと――マイナスの情動や苦痛ですらも、感覚的にはほとんど不在であることそのものが苦しみの種である。かくして、釈迦の唱えた「一切皆苦」の正しさがまた一つ証明されることになるわけだ。すなわち、苦痛がないということですら、一つの苦になるという逆説がここにはある。

 二〇一四年の日記は二月六日から一〇日までのことが一つの記事として一続きに書かれており、祖母の死に立ち会っている。以下の記述などは、彼女が亡くなっていくさまの具体性を、当時の拙い筆力の範囲ではあるもののわりとよく捉えており、多分、肉親が死んでいくというこの情景を書かずしてほかに何を書くのか、というような気持ちが強くあったのではないかと想像させる。

 (……)祖母は一目でもうだめだとわかった。顔はぱんぱんにむくみ、左目は閉じ、右目もほとんどあいておらず、わずかに見える瞳も焦点があっておらず動くこともない。まなじりに赤くにじんだ血のせいで目は余計に細くつりあがって見え、狐の面を連想させた。透明な緑色の酸素マスクでつないでいる呼吸は荒く、たんがからむとのどの奥でごぼごぼとくぐもった水音が鳴り、どこか獣の息づかいめいて聞こえた。看護士が壁に設けられた汚物吸入器に管をつないで口や鼻から挿入すると、容器のなかに赤くにごった液体がたまった。痛ましい色だった。

 (……)祖母ののどを見つめた。息を吐くとのどが引っこみ、吸うとふくらんで、その動きに合わせて酸素マスクもくもってはまた晴れていく。表情はもはや動かず、目も閉じて、今や生命の証左はわずかに収縮と膨張をくり返すのどの動き以外になくなった。(……)

 続いてfuzkue「読書日記」を読んだところで流していたものんくる『RELOADING CITY』も終わったので一旦切りとして、箱に溜まったゴミを上階のものと合流させようというわけで、ゴミ箱二つを持って部屋を出た。上がると、母親が帰ってきていたので挨拶し、台所のゴミ箱にティッシュを移しておき、それからプラスチックゴミの袋はどこかと訊けば、下の自転車のところにあると言うので、サンダル履きで玄関を出た。明るい陽射しが渡って、階段を下りれば背や身体の側面に当たってくるのが暖かく、しかし家横の小坂を下りはじめると正面から風が吹き上がって、身体の一面は温みに覆われもう一面は冷たさを被せられるという温冷の同居が発生した。上はジャージを羽織らず肌着のシャツのみだったので、冷たさの方がいくらか勝るようだった。自転車を置いてあるスペースまで来るとプラスチックゴミの薄紫色の袋が吊るされてあったのでそれを取り、坂を上がってふたたび陽に触れられながら室内に戻り、台所にしゃがみこんでスナック菓子の袋などを詰めこんでいった。それからまたサンダル履きで外に出て、今度は勝手口の方に回って石油のポリバケツを入れるような大きな箱のなかにゴミ袋を収めておく。そうして玄関をくぐってゴミ箱二つを持つと、階段を下りて自室に帰り、ゴミ箱を置いておくと便意が高まっていたのでトイレに行った。糞を垂れるとこのまま部屋の埃も始末しようという気になって、トイレを出てすぐ脇に置いてある掃除機を持って部屋に行き、電源を挿してスイッチを入れ、床の上に蔓延った埃を吸いこんでいった。と言って部屋は狭く、本も置かれてあって露わになった床の面積が少ないのですぐに終わり、掃除機を元の場所に戻しておくと時刻は一時五〇分前、英文を読みはじめた。Tom Brokaw, "Tom Brokaw: Friends Across Barbed Wire and Politics"(https://www.nytimes.com/2017/08/11/opinion/brokaw-norman-mineta-alan-simpson.html)である。二次大戦中の米国での日系人強制収容の歴史についても学ばなければならないとは思っている。

・sneeringly: 嘲笑って、せせら笑って
・shorthand: 縮めた表現
・Jamboree: ジャンボリー; 大規模の賑やかなパーティーや催し物
・gregarious: 社交好きな
・dogged: 根気強い
・set off: 引き起こす

 続いて間髪入れず、手帳を読みはじめた。手帳に記してある事柄も毎日少しずつ触れて、頭に入れていきたいものである。この時はリチャード・ベッセル『ナチスの戦争』から取り入れた知識や情報を四〇分ほど勉強し、一項目ずつ頭のなかで反芻できるようにしていき、それが終わると日記をここまで書き足して三時を越えている。早くも腹が減った。
 腹が減ったので食物を補給することにして部屋を出て階段に掛かると、母親が上から下りてきて、階段を一段ずつクイックルワイパーの類で拭き掃除している。何かあるかと尋ねれば、クリームパンがあると言う。クリームパンと言って、スーパーで売っている類の、五個ワンセットになった薄皮クリームパンとかいう廉価な商品である。冷蔵庫を覗いて、ほかに豆腐と、久しぶりに納豆も食べることにして取り出せば、台所の床にはケンタッキー・フライド・チキンのバケツがあって、訊けばおそらく父親だと思うが買ってきたらしい。それを頂いても良かったが夜に残しておくことにして、豆腐を電子レンジに入れて納豆に酢を混ぜた。そうして米をよそって卓へ運び、さらにナメコと豆腐の味噌汁もあったので鍋を熱して椀に盛り、温まった豆腐には大根おろしを摩り下ろして麺つゆを掛けた。そうして卓に就き、新聞の一面を読みながら食べる。安倍晋三首相が東アジア首脳会議にて、北朝鮮のたびたびのミサイル発射を国連決議違反だと非難したとのことだった。品々を平らげると皿を洗い、それから炬燵を整備するのを手伝ってほしいと母親が言うので、炬燵テーブルの天板を取って隅に立てておき、母親が掃除機を掛けるあいだ炬燵を持ち上げてやった。それからテーブルの下に布を敷き、天板と土台のあいだのスペースにも布や炬燵布団を差しこんで整え、その上から天板を元に戻した。
 そうして下階へ下れば三時半、辻瑆・原田義人訳『世界文學大系 58 カフカ』から「判決」を読み、思うところを読書ノートに書きこんでいった。途中で緑茶を用意しに行き、戻ってくると書見と書きこみを続け、父親がゲオルクに対して向ける非難の材料、言ってみればゲオルクの罪状を整理しているあいだに茶を飲み干したので、作業を中断して歯磨きをすることにした。歯ブラシを咥えてきて、「外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」 もうひとつの〝東大闘争〟 二〇〇〇年代まで残った東大新左翼 「東大反百年闘争」の当事者・森田暁氏に聞く⑫」(https://dokushojin.com/article.html?i=5809)を読みつつ五分ほど口内を掃除したあと、口を濯いできて着替えに入る。まず上階へ行き、台所で早くも食事の支度を始めている母親の傍らを通って洗面所に入り、電動シェーバーを使って髭を剃った。あたったあとから保湿ローションを少々塗っておき、それから元祖父母の部屋に行って吊るされていたワイシャツ二枚を取って下階へ下り、今日は薄水色の方を着ることにした。脱いだジャージをきちんと畳んでベッドの上に置いておき、cero "Yellow Magus (Obscure)"の流れるなかワイシャツを身に纏い、今日はなかなか気温が低いので袖を捲らずボタンをつけようとしたところが、ボタンが思うように穴に入ってくれずに手間取った。何とか袖を留めると紺色の装いを取ることにして、スラックスを履き、廊下の鏡の前で鼠色のネクタイを巻いたあとにベストを羽織った。そうしてコンピューターの前に戻ってメモを取る。
 簡易的な記録を終えると時刻は四時四〇分、「判決」の書きこみを切りの良いところまで終えたかったが、余裕を持ってもう出ることにした。クラッチバッグを持って上階へ行くと居間に明かりは点いておらず、薄暗闇に浸されたなかで母親はソファに座ってタブレットを弄っている。切っておいて、と台所の鍋のことを言うので、昆布か何かを煮ている火を消し、鍋に蓋を被せ、換気扇も切っておいてからトイレへ行って放尿した。居間に戻ると外では防災放送が何か流れているところで、先ほど火災の発生を知らせたが、それは誤報だったということだった。バッグを取り、じゃあ行ってくると母親に告げて玄関を出た。道へ踏み入り見上げると、灰色の雲が直上から低みまで広く、ほつれながら雪崩れ掛かって、馴染みのありきたりな比喩だが煤煙めいている。空気はなかなかに冷たく、これだったらジャケットを着ても良かったかもしれないなと思われた。坂道に入って川を見やれば、一見して緑がいくらか戻ってきているようだが、それでもまだまだ、絵の具を洗ったあとの筆洗の水のようにくすみ、濁っている。老緑とでも言おうか、そんな風合いの川面を見下ろしながら行けば、坂の途中で鳥が、道端の低い梢のなかでばたばたと暴れ、鵯らしく声を張って近距離で二匹、鳴き交わしていると言うよりも、絶叫めいて威嚇し合うように、戦うように鳴き狂っていた。
 上手く巧みに、良く書くのでなくて、見たもの感じたものを十分に書くことこそが重要なのだとそう考えながら坂を抜ければ前からトラックがやって来て脇の空き地に入り、横から放たれるライトのなかをこちらは渡ることになり、すると左方の家々の縁に自分の歩む影が投射され、足だけの姿で巨人のように拡大されて映っていた。T田さんの宅の庭に行商の八百屋が来ていて、トラックの蔭に奥さんがいたのでこんにちはと挨拶すると、姿は見えなかったが八百屋の旦那が行ってらっしゃいと、威勢の良い声を放ってきた。寒くないの、そんな格好で、とこちらの薄着を取り上げてT田さんが言うのに、ちょっと寒いですねと笑って過ぎたが、しかし歩くうちにまた身体が温まってちょうど良くなるだろうと見越していた。
 街道に出て、Richie Kotzenの"Where Did Our Love Go"を頭に、電灯に映し抜かれた薄影を見下ろしつつ行って、空に目を反転させれば南で雲は押し出さず低く溜まって、櫛のような半月がそれを逃れて雲の上に浮かんで、そろそろ白々と照りはじめている。通りを北側に渡って歩いていると、時折り大きなダンプカーが通ってあとから風が引かれてきて、背から身体を包みこむけれどさほど寒くはない。道沿いの小公園に人の姿は一つもなくて、表の車の音に消されて虫の音も聞こえてこず、ただ暮れの冷えた空気のみを湛えている。老人ホームのハナミズキは上から下まで、偏差はありつつも大方赤に染まりきっていた。
 裏道へ折れると前から風が吹いてきて、ここまで歩いてきても思ったよりも温まらず、正面から当たられるとやはり冷え冷えとする。この分ではやはり、明日は上着を着て良いなと思われた。入った裏路地は静かで、シャッターが半分以上閉まった工場[こうば]のなかから溶接か何かの音が漏れ、虫の音と言っては散文的で地味なカネタタキの打音が、あんなに控え目なのに不思議とくっきり立って差しこんでくる。道の途中で老婆が二人、立ち話をしていた。一人は犬を連れており、話題はどうも、お定まりの老いの嘆きのようなことらしい。抜かして先に進むとやがて背後から掛け声めいた小さな声が届き、御飯食べるんでしょ、などという声も聞こえて、どうやら先ほどの老婆が犬に話しかけているようだった。暮れ方の暗い道に人通りは意外とあって、自転車や、やはり犬の散歩をする姿が見られ、車も前後から挟むようにやって来て、脇に退いて停まらなければならない場面もあった。
 やがて月はますます高くなり、雲は浮かばず一層低みに溜まり、南の山の向こうでもう一つ山が生まれたように平らかに繋がって、その際から淡い橙色が洩れ、道はよほど静まったなかを空き地まで来ても、芒の伸びた広場に虫の音は乏しくほとんど絶えて、野もせに、などという言葉を思ったのはもはや遥か昔のようで、振り仰いでも西空は青暗く沈んだ雲に残光が止められて、先日とは違って今日は地上にその色も混ざってこず、大気は黄昏に埋め尽くされているのみで一面薄青い。
 青梅坂を渡った頃、後ろからやって来た老婆がこちらを抜かしていくのを見れば、ベストではなくてチョッキと彼女の世代なら言うだろう臙脂っぽい色の羽織りを身につけた姿の、ウォーキングという格好でもないが散歩という足取りでもない。何か近所に用事を済ませにいくものか。こちらは遅れてゆるゆると行き、文化センターを遠目に見て、バスのような大きな車が停まっているなと思ったところが、近くなってもう一度見やればバスなど姿も形もない。駐輪場の脇の植込みに設えられたライトが車の目に、自転車の車輪がタイヤに見えたものだろうか、もうよほど粗悪になった視力が幻の大型車を生み出したらしい。先の老婆は料理屋「K」の戸口に折れて張り紙を見て、定休だって、と漏らして引き返していたが、客だったのか、店の者に何か用事だったのか。さらに進めば母親に手を引かれた女児が、雲って触れないの、と無邪気な問いを親に投げて、サンタさんは触ったことあるんじゃない、と続けて子供らしいことを言っていた。雲はいよいよ低くなったようで、直上に混ざるものはなく月が照り映えるのみ、駅前に出れば街路樹の足もとに銀杏の葉っぱが黄色く散らばっているが、樹についているものはまだことごとく若い緑である。老人のようにのろのろ行って横断歩道に掛かると、やって来たタクシーが停まってくれたので、左手をポケットから出して上げるとともに会釈して、足を速めて渡ったあとはまたゆっくりになって見下ろせば、こちらの側は街路樹の下に葉がほとんど見当たらないので、やはり掃除をされているらしい。
 今日の勤務は一コマ、(……)さん(中三・英語)、(……)さん(中三・英語)、(……)くん(中三・国語)が相手である。特に問題はなく、恙無く済んだと思う。(……)さんが今日学んだのはLesson 6のGET 1、分詞の後置修飾の単元である。文法的な理解は概ね問題ないと思うが、眠かったようでたびたび顔を伏せて目を閉じていた。それでも二頁弱は進んだのでまあ悪くはないだろう。(……)さんは(……)さんの扱ったところから一つ先に進んで、目的格の関係代名詞を省略した形の単元。彼女も問題なく、スピードもなかなか速く解くことができて、ミスも英作文の二問くらいでとてもよく出来ていたと言って良いだろう。関係代名詞の知識を確認した際にも、目的格というのはどういう形なのかということを理解して覚えていた。ただ、英作文に出てきた現在完了をいくらか忘れていたようだったので、宿題にはその箇所の復習も一頁出した。(……)くんは学校が和歌に進んだと言うので万葉集の問題を扱い、歌の意味を確認したり、枕詞などの表現技法について学んだりしたあと、魯迅の『故郷』を少しだけ扱って終了した。彼はテストの結果など見てもなかなか優秀なようだ。それだけに上手く突っこんでより理解を深めるような授業をするのが、特に国語にあっては難しいだろう。
 勤務後は書類を記入して提出して退勤、駅に入ってホームに上がると、さすがにもう冷たいコーラを喜んで飲むような気候でないから、今日は温かいココアを選んで買った。ベンチに就いてそれを飲み、干したボトルをボックスに捨てておくと、肌寒い空気のなかメモを取った。手帳に書きこみをしているあいだ、背後からは時折り中国語らしき音声が聞こえた。観光客らしい。奥多摩行きがやって来ると二号車の端の三人掛けに入ったが、車内には暖房が点けられているようだった。その運転も停まってほかの乗客の息遣いが伝わってきそうな静寂のなか、ペンを頁上に滑らせ、そのうちに発車を迎えて、しばらくすると最寄り駅に着いたので降車した。冷たい風が正面から流れるくるなかホームを行くと、階段口の付近で灰髪の老婦人がキャリーケースを引きながら、何か迷うようにうろついていた。何だろうと思いながら過ぎて階段を上ると、婦人は後ろからケースを持ち上げてやはり上りはじめたので、手伝った方が良いかと思いながらも結局は放っておき、駅を出て木の間の坂道に入ればやはり風が舞い上がってきて肌身に冷たく、震えるほどでないがもはや冬の気配も漂う。下り坂には一人、スマートフォンを見ながら歩いている女性があって、そう広くもない道の真ん中をふらふらしているものだからどうも抜かしづらく、夜道に女性の独り歩きなのだから少しは警戒するものではないのかと思いながら端に寄り、張り出した木の葉の下をちょっと顔を傾けながら追い抜かした。平らな道に出て行くと、Kさんの宅の前では今日も石油の臭いが漂った。おそらくストーブを使っているのではないか。
 肌寒いなかを帰宅して、居間で飯を食っている両親のおかえりという声に迎えられ、すぐに下階に下りてコンピューターを点けると、服をジャージに着替えた。そうして早速手帳に綴ったメモの続きをEvernoteに取りはじめた。駅にいる時は書きこみをしながら、手書きではそういくらも書けないのだから、むしろ手帳を読む方に時間を使って、メモは帰ったあとにまとめてコンピューターで取った方が良いのではないかと疑っていたのだが、いざかえって打鍵してみると、実際先に書いておいただけの時間は短縮できて、やはり記憶の薄れないうちに早急に、メモを取れる時に取っておくべきだな、勤勉さは自分を救うと思い直した。それで、一五分で往路のことを記録し終えると、上階に行って食事に取り掛かった。白米にケンタッキー・フライド・チキン、鶏肉やピーマンの炒め物、それにナメコと豆腐の味噌汁、あとサラダも何かあったかもしれない。席に就いて食べはじめてまもなく、向かいの母親が、AOくんがうちに来るんだってと知らせてくる。AOくんというのは兄の幼馴染である。いつ、と訊けば、今日、と言うので、こんな時間にと驚くと、何でも祭りの法被か何か、何と言っていたか忘れてしまったが、そのデザイン案を持ってくるのだと言う。しかし結局AOくんは夜分だから遠慮したのだろう、家のなかには入らず顔も見せないで、玄関の外に置いてあるボックスに案の資料を入れて、あとから電話でそれを知らせてきた。
 父親は休みだからまた酒を飲んで、管を巻くというほとでもないが、例えばニュースで安倍首相と文在寅大統領が――会談ではなくて――「接触」したと伝えられる際に、いい加減にどうにかしろよな、などと呆れるように呟いてみせて、端的に言ってこのような振舞いはみっともない。父親が酒を飲むと途端に空間に鬱陶しい磁場が満ちるので、さっさと飯を食い、食器を洗って入浴に行った。湯のなかで二〇分かそこら浸かって身を休めるとともに散漫な思考を観察し、そうして出てくると下階に下って、急須と湯呑みを持って戻ってくれば、父親は台所で洗い物をしながらテレビで流されるラグビーのニュースに、顔を綻ばせて頷いている。母親がこちらに、HDさんからお礼の電話があって、と知らせて、俳句の紙が二枚も入っていたのと言うのは、電話ではなくて手紙の間違いで、先ほど食事中に目の前で開封して父親とやりとりをしていたのだからこちらも知っている。母親が言い間違えたのに、電話じゃないだろ、と台所の父親が語気荒く突っこんだあと、馬鹿、と母親に聞こえないように口の内で微かに呟いてみせたのをこちらの耳はキャッチして、どうしてこれほどまでにささやかなことでそのような態度を取れるのかまったく理解できず、うんざりしたような気分にさせられる。父親のこうした高圧性と言うか、自己批判のなさはいい加減どうにかならないものなのだろうか。酒を飲んでいるから、という条件はあるとは思うが、それが免罪符になるわけでは無論なく、酒を飲むとどうしてもそのような振舞いを取ってしまうのだったら、端的に酒を飲むなと言いたいものだ。不快である。
 そういうわけでさっさと自分の塒に帰って、茶を飲みながら「判決」についての書きこみの続きを始めた。最初は茶を飲み終わるまでのあいだだけにしようと思っていたところが、何だか興が乗って、一〇時前に始めたものが零時を回るまで二時間強続き、一応感想の全体的な論旨は構築できたのだが、あまり面白い読解だとは思えない。それでもまあ自分が思ったこととして、記録に残しておくべきではあるだろう。もう日付も変わってしまったのでその作成は明日以降の自分に委ね、零時半から音楽を聞きはじめた。まず、Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』から"All Of You (take 2)"である。Bill Evansの演じぶりはやはりとても綺麗で、逸脱の気配がまったく、一滴も感じ取れない。それは行儀よく、こじんまりとまとまっているということではない。あるいは行儀が良いという言葉を使うのだったら、あまりにも行儀が良すぎてそれが比類なく突き抜けた洗練の域に至っているということだ。Scott LaFaroは折々に、そうしたEvansの生み出す洗練の領域から抜け出そうという志向を見せるが、それでいてアンサンブルが崩れずにかっちり嵌まっているのが不思議なものだ。それがBill Evansの強力な磁場なのだろうか。LaFaroはソロになると、勿論音数は増えるのだけれど、フレーズ全体の構築の仕方、統一性の面から見ると一転して大人しくなるような印象で、そこに逸脱はやはりなく、バッキングのあいだの方が明らかに自己主張をしているように聞こえる。つまりは通常、バッキングでは静かに支え、ソロになると自分の言いたいことを披露するというベースの役割とは逆転した様態として彼のプレイはある。
 続いて"Alice In Wonderland (take 1)"を聞いてみてもその印象は同様で、Scott LaFaroは明らかに尋常のベースの領分を逸脱しているものであり、要はバッキングにおいても大方ソロをやっているようなものなのだが、それでうるさくならないどころかこれ以上なく調和しているという印象をもたらすのが不可思議だと言わざるを得ない。それにしても、こいつらマジで全員滅茶苦茶に上手い、あまりにも上手すぎるなと改めて称賛の念が湧いてきた。「神ってる」というのはこういうことを言うのだなと思った。このような奇跡がこの世に存在して良いのだろうか。本当に、これを越えるピアノトリオはまだジャズの歴史上存在していないだろうと、血迷ったことを言いたくもなる。世の人々はこのトリオの真価に気づいているのだろうか? Bill Evans Trioのこの音源は、初学者用のジャズの入門盤としてよく挙げられるものなのだが、単なる綺麗でわかりやすいだけの、初心者にも楽しめる類の演奏ではまったくないと思う。このトリオが続いていたら、多分ジャズの歴史はいくらか変わっていたのではないかと想像させるほどのものだ。
 次に、Bill Evans Trio『On Green Dolphin Street』から冒頭の、"You And The Night And The Music"を聞いた。この音源の録音は一九五九年一月一九日、サポートメンバーはPaul ChambersPhilly Joe Jonesで、EvansとはMiles Davisのバンドからの付き合いである。この曲も凡百のピアニストには到底追いつけない出来であることは疑いないが、一九六一年六月二五日のどこまでも張り詰めた統一感はやはり生まれてはおらず、Evansのプレイだけを聞いても迷いや逡巡を感じさせるような間が僅かに見受けられる。それにしても、六一年六月二五日のあの演奏は、あのトリオの常態だったのだろうか。あれほどの演奏がその頃はコンスタントに生まれていたのだとすると、端的に言って化け物以外の何者でもなく、人間ではない。紛うことなき奇跡が実現されてしまっている。しかしさすがにそんなことはなく、あのライブがあのトリオの最良の瞬間を切り取ったものだとすると、そのような偶然が成立してあの演奏が世界に残り、我々の手に届けられるようになったという事実はそれはそれで奇跡じみていて、結局どちらにせよ奇跡的なことには変わりがない。"You And The Night And The Music"に話を戻すと、LaFaroと比べた時のPaul Chambersの古色蒼然ぶりはこれはこれで落着くものだが、比較するとやはりScott LaFaroはあまりにも異常であると実感させられる。Philly Joe JonesもPaul Motianよりはやはり幾分固くて直線的に聞こえるが、それでも、上方に空間を空けながらバスドラムをドスドスと踏んでみたりなど、Motianっぽいようなフレーズもソロでは意外と聞かせていた。
 音楽を聞き終えると午前一時過ぎ、そこから對馬達雄『ヒトラーに抵抗した人々 反ナチ市民の勇気とは何か』を二時間弱読んで、三時前に就床した。


・作文
 12:25 - 12:37 = 12分(5日)
 12:37 - 12:44 = 7分(4日)
 14:50 - 15:06 = 16分(5日)
 16:33 - 16:40 = 7分(5日; メモ)
 20:35 - 20:50 = 15分(5日; メモ)
 計: 57分

・読書
 12:57 - 13:23 = 26分
 13:49 - 14:07 = 18分
 14:07 - 14:48 = 41分
 15:30 - 16:12 = 42分
 16:14 - 16:19 = 5分
 21:51 - 24:06 = 2時間15分
 25:09 - 26:53 = 1時間44分
 計: 6時間11分

・睡眠
 1:15? - 11:45 = 10時間30分

・音楽