2016/9/18, Sun.

 まだ早い時間から何度も覚めたが、起床を寄せることができないのは常通りである。夢をいくつも見て、目がはっきりひらくようになった頃にはわりと覚えていたようだが、もはやどこかに飛んでいってしまった。一一時二〇分だったか四〇分だったかに最後の覚醒を得たが、油断をするとまた瞼が合わさりそうだったので、携帯電話を取ったのだが、それで時間を余計に潰すことになった。床を抜けたのは、一二時半も近くなった頃だったと思う。母親は、いつもの障害者支援団体の関連で、市役所で行われている催しの手伝いに出掛けていた。チャーハンを作っておいてくれたので、皿に丘状に盛られたそれだけを食い、風呂も洗わずにすぐに部屋に戻った。それで、日記の読み返しやら書き物やらをしなくてはと思っていたところが、机の足もと、トレイに載せてあるオノ・ナツメさらい屋五葉』をなぜか手に取って読みはじめてしまった。それで、物語の誘いに安々と従って、一巻読むと次の巻を取った。そうして三時頃には三巻目にも掛かったのだが、先の食事がチャーハン一杯だけだったせいで、早くも腹が減っていたので、これはカップ麺でも食いながら読むことにして、上階に行った。先にポットに湯を足しておいてから風呂を洗いに行くと、洗剤がもうなくてレバーを引いてもほとんど出てこない。詰め替え袋から容器に補充し、収まりきらなかった分を浴槽のなかに巻いて、大層泡立てながらブラシで水垢を擦り落とした。それから自室の可燃ごみを持ってきて上のごみと一緒にしておき、下階とのあいだを再往復すると湯が具合良く湧いていたので、カップうどんに注いだ。ティッシュ箱を蓋代わりにし、漫画を読みながら待っていると、母親が帰宅した。焼きそばを貰ってきたと言って、ビニールパックを卓上に置く。うどんを食ったあと、それも分けて食い、ゆで卵も食べて、漫画を読んだ。母親はソファに就いて、タブレットを弄っていたらしいがそのうちにまどろんでいた。三巻を読み終えると立って洗い物をし、さらに米も研いで、それから下階に帰った。時刻は四時半か五時か、そのくらいだったはずである。それから八時台に至って再度上に行くまでのあいだは、『さらい屋五葉』を八巻まで読んで物語の行方を見届けることに費やされた。良い時間になっても夕食の支度にも行かず、読み続けていると、途中で父親が、前夜泊まっていた山梨の実家から帰ってきたらしい気配が聞こえた。さらに寝床に貼り付いて、ようやく上がった頃にはNHK大河ドラマも既に始まって、武士に扮した大泉洋が涙を堪えて顔を歪ませながら、お家の処分軽減を一心に訴える家臣を演じていた。父親がそれを見ながら飯を食っている卓の端にアイロン台を出して、自分が前日に着た群青色のシャツを処理した。それから、腹があまり減っていなかったので先に風呂に行った。湯に浸かりながら、どうもやるべきことを後回しにして時間を、無駄にとは言わないが、だらだらと締まりなく使ってしまっているのに対して、やはり死というものを考えることが重要なのではないかと思案した。ありきたりな思考だが、いつ死んでも良いというような意気込みで、緊張感を持って暮らすのが、勤勉の実現を可能にするのではないかというわけである。それで出てからしばらく、飯を食っているあいだは、死というものの観念を頭の片隅に置いて、両親が気楽にしているなかでひとり、顔を固いようにして物腰も重く、多少の構えを取っていたようだが、それがそう続くものでもない。いくら可能性としてすぐ明日に、今日が終わるまでに、あるいは一瞬ののちにも死が訪れるかもしれないと考えたところで、その潜在性が身に迫ってくるものでもなく――不安障害真っ只中の時期にはそういうこともあったようだが、それは勿論恐怖を伴うものであって、神経症をもたらし、精神の締まりを得るどころではなかった――、マルセル・プルーストもちょうどいま読んでいる『失われたときを求めて』の六巻冒頭に記しているけれど、我々は次の瞬間にも死がやって来るかもしれないなどと口にはしながら、現実にはその訪れを、「漠然とした遠いところにあるもののように想像して」おり、自分とそれとのあいだの距離をそうそう縮めることができるはずもないのだ(その距離を埋めて死を身近に置くことができるとしても、それは大方神経症の再発への道であり、平静を保つことは難しいだろう)。それでも食器を片付け、九時半頃に室に帰ってからは、すぐに日記の読み返しに掛かることができた。二年でそれぞれ三日間、計六日分が溜まっていた。昨年のこの頃はちょうどいわゆる安全保障関連法案が採決された時期であり、ニコニコ動画参議院本会議を眺めているが、記述は見るからに不十分で、いまだったらもっと色々なことを記せるだろうにとの思いが浮かぶのは避けられない。読みながらGreg Osby『9 Levels』を聞いた――前日、これも売却に分類しようかと迷いながらも、もう一度聞いてから決めようと思ったのだったが、二度目を聞いてみるとやはり最初の印象通り、残すのが正解と思われた。それで箇条書きをいくつも作り、読み返しには一一時前まで掛けて、それから書き物に移った。Osbyの次の音楽はAna Popovic『ANA! Live In Amsterdam』(これは売却である)、さらにGregory Porter『Liquid Spirit』を流した――後者は図書館で借りたものであり、初めて聞いた当時は温く思われたもので、いま耳にしてみるとその時よりは楽しめるが、データを残しておくべきかどうかは判然としない。この日は大概漫画を読んでいただけなので、四〇分ほどで記述は切りを付けて、零時過ぎである。それからふたたび時間を潰したあとに、音楽を、せめてBill Evans Trioだけでも聞かなくてはと "All of You (take 1)" をじっと聞き、一時を迎えて日本史の一問一答を取った。見開き両方で一ページとして僅か三ページ分進めると英語のほうに移り、こちらも二〇分のみ触れてから、読書に入った。プルーストではなく、『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』である。と言うのは、翌々日に知人と会ってこの本のことを話す予定だったので、その前にせめて「複製技術時代の芸術作品」だけでも読み返しておこうと思ったのだ。この会合は台風のために一度延期になり、その時にもこの篇を少々読み返していたので、途中から始めて、一時間を費やして二時四〇分である。前日よりも一〇分就寝を早めて二時五〇分には消灯しようというわけで、瞑想をちょっとして布団に潜りこみ、深呼吸を繰り返しているうちに寝入った。