寝台の上に仰向けになって、古井由吉の最新刊を読んでいるうちに、文字の上にこごっていた視覚から意識が、耳の方へとふと逸れた。聴覚空間の、その外辺のあたりで先ほどから鳴いていた鶯の声の、放たれたあとの残響が、耳を掠ったのだった。目を閉じればそのあとからも繰り返し、一定の間を置いて、川の音の奥に籠った空気のなかに、威勢の良い鳴きが走っている。まさしく、撃つ、放つと言うに相応しい音色の、尾を引いて横に飛んで行く響きの声である。近間では鵯らが集って、浅瀬でぴちゃぴちゃと水を跳ね返すような声を立てる。空は白幕を被せられていて、ひらいた窓から、風というほどの厚みもない涼気が流れこんで来るのは、午後三時だった。読んでいたのは、四〇代の半ばの頃に、時鳥の声を聞きに比叡山を訪ねた旅のあとに、夜中に時鳥の空声めいたものに耳を澄まして苦しめられる時期があったと書かれた箇所だった。
この二日だか三日だか前の夜の寝入り際にも、鳥の声を聞いた。眠気の一向にやって来なくて、仰向いた身体の脇に両手を寝かせてかすかな身じろぎもせずにいるうちに、やがて腕が重って、金具を被せてベッドに嵌め込まれたような具合に固まってきた安静のなかで、切れ切れの思念に巻かれていた頭が、窓の外で鳴った軽い声を、ふと聞き留めた。ガラスに阻まれていくらか遠く、特徴らしい特徴もないような、小さな鳴きだった。床に就いてから眠りに入れないままに結構な時間を過ごして、二時に掛かっていたのではないか。一度耳にしてからそのあとも聞こえたが、弱いもので、僅かな間も置かずほとんど常に鳴いているようにも聞こえてきて、幻聴と本物の区別が付かなくなった。本物が実際にあったのかどうかも、怪しかった。就床前に書見をしていて、臥位の顔先に掲げた本の頁から、桃の匂いが仄めいて鼻孔に触れるのを感じていた。嗅ごうとすればもうそれでなくなり、紙に鼻を寄せてみても、紙の匂いしかしない。意識を向けようとすると拾えなくなり、放って文字を追いはじめると、またその時間の端々に、薄く現れ束の間香った。そうして、風邪の熱のまだいくらか名残った身体で夜半を越えたためか、横になった時からもう、耳鳴りが、耳のすぐ近くに伸びていた。
いつか寝付いて、覚めた早朝にも耳鳴りは残って、むしろ定かになっていて、左耳から二音重なって響いているのを、三度の音とそこから音階を一周下っての一度の、揺らぎもせず安らかに合わさった和音と聞き取って、耳の内部の詰まったような感じにちょっと嫌気を覚えながらも、艶のある鴇色めいた色の、綺麗な音だと思った。わざわざ自分から耳を寄せているのも不健康なので、姿勢を変えて意識を逸らしたところ、和音はすぐに薄れていってそのあとから新たに弱い音が浮かんできたのが、下の一度のすぐ傍の、今度は二度の音だった。