2017/5/12, Fri.

 この日も朝から平らかに晴れて、さらに風があって、居間の東窓に掛かったレースのカーテンがよく膨らむ。ものを食っていると、幕を端に留めて外の露わになった南窓には、タンポポの綿毛が群れなして、羽虫の集まりのように舞って過ぎた。前日と同じく、昼頃から曇りはじめて空が白くなったが、三時前に再度食事を取りに来た時も変わらず風はよく通って、卓上に載せた腕を柔らかくくすぐる。それからアイロンを使ってシャツの皺を取っていると、母親が、あそこに鳥がいる、と言う。近所の屋根も電線も越えて川向こうの、岸から盛り上がった斜面の林の内の一本を指すのに、立ち上がって目を凝らしてみると、確かに白いものがあるのがわかったが、こちらの目にはただ木々のなかに色が混ざっているのみで鳥と定かに視認できるものでなく、いま横になった、いま立ったなどと母親が仔細に言うのに、目がよく見えるものだなと驚かされた。手近の抽斗から双眼鏡を取り出したのを受け取って覗いてみると、鷺か何かか、確かに鳥である。見ているうちに飛び立って横に滑って行くのを追って視線を滑らせ、翼の裏に美しい群青色を現したところで、家屋の裏に降りて行って見えなくなったのだが、鳥にも興味を惹かれはしたものの、それを追う前に既に惹き付けられていたのは双眼鏡を覗いた時の視覚像そのもので、丸い枠に切り取られた視界の、距離を無化して遠くのものをこの上なく明晰に映しながらも、同時にあまりに平面的で、無数の細部を緻密に貼り合わせて作ったような風なのに、大層驚かされた。木を見れば、木の葉の肌理など、空間にそのまま刻み込まれたかのような、極端に明るい細やかさである。手に取るよう、とはまさにこのことだと思った。何の変哲もない電柱を映して、くすんだ鼠色のその表面を上下に視線でなぞっているだけで、多少の快楽すら覚えるような有様で、なるほど、これではバードウォッチングとやらをする人の心もわかる、しかし人々は、鳥を見るのも勿論興だろうが、双眼鏡のなかがこれほど気持ち良ければ、鳥を見るなどと託つけて、そのあたりの何でも、手当たり次第に見ているようなものではないだろうかと、そんなことをさらに思った。
 三時半に到っても風は吹いていて、家を出ればちょうど林が葉擦れを鳴らしているところで、竹秋を迎えて薄山吹に染まった竹の葉がさらさらと斜めに流れる。滑らかに、薄白く濁った空には太陽の影が、そこだけさらに白く映っている。ベスト姿で出たが、空気には熱が混ざっていていくらか蒸し暑いようで、朝の陽射しが地面にまだ籠っているのか、歩道から温みが立って、脛のあたりが殊に暖かかった。勤めを済ませて一〇時の帰路には、風らしい風もなかったが、空気はさすがに涼しい。前夜が満月で、この日も空は明るいが、色は一面灰色で月の姿のどこにも見えず、光をいっぱいに溜めているはずの大きな月をこれほど確かに隠すとは、厚い雲が掛かっているらしい。
 風呂を済ませて日付替わりも目前に迫った頃に、ぱちぱちと、囁きめいた音が外で起こって、次第に間を狭く募って雨が始まった。夜半が過ぎる内に気づけば音は止まっていたが、眠りに既に落ちたあとの未明頃から、どうやらまた降り出していたようである。