起床、一一時四〇分。この日も四時五〇分の遅きに至って床に就いたが、そのわりに早く起床できて、睡眠は七時間未満に収まった。瞑想中のことは覚えていない。上階に行くと、この日が休みの父親はちょうどストーブのタンクに石油を補給するために外に出たところらしい。台所に入ると、鍋におじやが拵えられていたのでそれをよそって、レンジで熱して食事を取った。「「首都認定」 EUが懸念 エルサレム 外相「2国家共存」強調 ネタニヤフ氏と会談、平行線か」と、「ガザ 報復の傷痕 イスラエル軍 空爆で市民に被害」の二記事を読んだのが多分この時だったと思う。(……)こちらは食後、例日通り風呂を洗い、下階に帰る。
コンピューターを立ち上げてすぐに、一時過ぎから書き物に入っている。前日、一二月一一日の記事である。(……)一時四五分までで一旦切り上げて、その後まず運動を行った。肉体がほぐれると、そのまま椅子に就いて音楽を聞き出す。Bill Evans Trio, "All of You (take 3)", "Milestones"、THE BLANKEY JET CITY, "胸がこわれそう", "RAIN DOG", "BABY BABY"(『LIVE!!!』: #12-#14)である。"胸がこわれそう"は前日に気に入られたのでもう一度聞いたのだったが、そのあとの"RAIN DOG"も素晴らしいものだった。演奏が非常に密に、強靭に引き締まっていたように感じられた。ベースとドラムの一体性もさることながら、その上に乗る浅井健一の歌唱もぴったりと嵌まっていたように思う。音楽というものは面白すぎる、気持ちが良すぎるなと思った。この世に退屈な音楽、退屈な音など存在しないのではないかと大袈裟に考えてしまいたくなるくらいである。
二時四〇分まで音楽を聞くと、上階に行った。ゆで卵を食べたはずだ。そのほか確か、肌着を畳むこともしてから下階に戻り、歯磨きに着替えをする。ベッドに就いて歯磨きをする一〇分のあいだに、一二月一〇日の新聞の記事に目を通した。「イラク全土解放 首相宣言 「イスラム国」一掃」と、「国際支援「文明」守る 「イスラム国」一掃 イラク再建 宗派対立課題」の二つである。そうして出るまでにちょっと時間が余ったので歌を歌っていたところが、それが気持ち良くて思いのほかに出発が遅くなってしまったのだった。前日よりも一時間半ほど早く家を出ており、まだ暮れ方までいくらかあるわけだが、空気は既に前の夕刻よりも冷たくなっていた。空に雲が湧いている。街道まで行きながら見上げると、少々鱗めいて粒立った白さが端切れのように付されている。振り向いて見晴らすと西から厚い雲が渡っており、南の空は大方それに占められて青さを隠していた。
勤務を終えての帰路、前夜は背に風を寄せられた横断歩道を渡りながら、今日は風はないなと確認する。しかし、空気はやはり前日よりも冷たいものになっている。空の東側に雲が残っていて、星の映りがいくらか阻害されていたようだ。その他、特段にいま思い出せることはない。帰り着くと、室で(……)を読んでいる。一〇時半に至って食事を取りに行く。ものを食べているあいだ、テレビは最初、何という番組だったのかわからないが、外国人労働者の使い捨て問題を取り上げたものが流れていたが、そのうちに(……)番組が『グッと!スポーツ』に移った。この日のこのプログラムの内容はヨガスペシャルという趣向で、既に番組も終盤に掛かったところに、インストラクターの女性が出演する。この人は何年か前のヨガの世界大会か何かでチャンピオンになった人物らしく、その時のパフォーマンスが流れるのを見るに、凄まじいものだった。その後にはスタジオでも(相葉雅紀がMCのため)嵐の楽曲に合わせて演技を披露していたのだが、これも同様にとても人間業とは思えないようなもので、その複雑な肉体の動き方を描写するにはこちらの能力が足りないが、例えば、脚を首に掛けたり、股のあいだから顔を出しながら指の力だけで身体を浮かせてみたり、片脚を天に向けて突き上げ、もう片脚と合わせて完全に一八〇度の角度を作ってまっすぐな一本の線のようにひらいてみたり、というものだった。そのように演技をしているあいだ、筋肉が強張って身体が震えるということが一瞬もなく、あくまで滑らかかつしなやかに、重力を感じていないかのような様相を見せるわけである。人間というよりは何か別種の軟体生物のような趣であり、また人体が普段見慣れている人体としての秩序や役割を解体して、その物質性が強調されて目に映ったような気がする。
この人は、世界大会でのパフォーマンスの時の体験を語って、演技をしているあいだは本当に何も見えなくなるし聞こえなくなる、まさに「無」というような感覚になると言っていた。これは「悟り」と呼ばれる体験/境地について通念的に言われる類の事柄だと思うが、一応こちらも今までヴィパッサナー瞑想を実践して来ていながらも、こうしたことはいつまで経っても良くわからない。と言うか、こちらとしては反対に、何もないという状態がこの世界にはまったく存在しない、ということのほうに驚きを覚えさせられる。意識がどこを向いていようと、人間の脳は常に必ず何かを知覚し、認識しており、意識が失われずに動作している限り、そこには必ず何かしらのものがある(ということはすなわち、何らかの意味があるということであり、言語の生まれる契機が(実際に成功するか失敗するかは別としても少なくともその契機が)あるということになる)という状況がほんの一瞬の断絶もなく[﹅8]常に続くということ、瞑想をしていてもそれを強く実感するものであり、こちらとしてはこれこそがこの世界の神秘とも言うべき事柄のように感じられる(これはおそらく哲学の分野では古典的な問題なのだろう)。つまり、純粋な「無」というものはこの世には存在せず(「何もない」という状況が仮にあったとして、そこには「何もない」という意味が発生している)、それは完全に我々の外部にあるもので、我々は本来、それを思考することも名指すこともできないということではないのだろうか。「神」とか「(自分の)死」とか呼ばれているものも、そうしたものとしてあるのではないかと思うが、しかしこうした思考は単に概念を遊ばせているだけのような気もする。
番組中ではほかにもヨガの指導者のような人が出てきて、ヨガというのは元々は「くびき」を意味する言葉だと語源を説明していた。軛というとこちらとしてはどちらかと言うとネガティヴな語の印象があるのだが、動物を繋げる道具を指したのが元来の意であり、そこからヨガというのは「結ぶもの」というような意味合いとして捉えられるようになったのだと、ポジティヴな方向の解説をしていた。人と人とを結ぶもの、などといくつか具体的な例を挙げて説明を敷衍する際に、最終的には自分自身と宇宙そのものを結ぶ、と例によってスピリチュアルとも言われるような類の事柄が理想として挙げられていたのだが、こうした主客合一の境地というのはまったく理解できないでもない。主客合一とは少々違うのかもしれないが、最近のこちらの感覚としては、いわゆる自らの「内面」の事柄(及びある程度自らの統御化にある身体の動き/行動)も、こちらから独立してある外界の事柄も、意識の志向性の対象として(というのは自分の場合、書く対象としてと言うのと概ね重なるのだが)ほとんど差がないというか、同一平面上にあるというような感じが(ますます)支配的になってきているのだ。図式的に(イメージを使って)考えてみると、主体が「見る」それと「見られる」それとに分裂し、そのうちの「見る」機能、つまり認識/対象化/相対化/メタ認知の精神機構が優勢になった場合、「見られる」ほうの主体と客体は同じ領域に送りこまれるということになる。自分としては、「主体」と呼ばれているものは本質的には、単に認識する機能ただそれだけの存在というような感じがするのだが、このあたりは哲学的には様々な議論があるのだろう。こうした「主体」の分裂あるいは縮約は、感情の抑制/自己統御/現実感の稀薄さ/主体を「演じる」こと/自分自身で自分を操ること/分身感覚/「フィクショナル」な世界感覚、などといった(長短両面をはらむ)諸々のテーマと繋がりがあるのだろうが、今日のところはこの話はここまでにしておこう。
食後、入浴し、室へ。インターネットをしばらく覗いたあとに、書き物の前に足裏をほぐしながら読書をする。パク・ミンギュ/ヒョン・ジェフン、斎藤真理子訳『カステラ』を一〇四から一一四頁まで。この時、文章が妙に明晰に読み取れるように感じられ、折々に時計に目を向けてみても時間が過ぎるのが遅いように感覚された。ここのところ全般的に意識/精神が明晰化を増しており、それで音楽なども聞くのが大層面白くなっていて、また、二週間ほど前には煩わされていた不安も感じなくなった。カフェインを摂らなくなったということが、やはり良かったのだろうと思う。
その後書き物に入り、二時間掛けて一二月一一日の記事を仕上げると、三時半である。ふたたび『カステラ』を読んだが、終盤は眠気に巻かれた書見だった。それで就寝前の瞑想も七分しか耐えられない。四時一五分に就床。