2018/7/30, Mon.

  • 正午まで寝てしまう。
  • 夕食に茄子を炒め、玉ねぎとネギの味噌汁を作る。ほか、牛蒡と人参の煮物も。
  • 夕食後、散歩へ。薄曇り。シャツの下の背が汗に濡れる。
  • 石原吉郎『望郷と海』を読了。
  • 記憶の正確な反芻ができなくなっている。




石原吉郎『望郷と海』筑摩書房、一九七二年

 時間の感覚のこのような混乱は、徐々に囚人をばらばらにして行く。ここでは時間は結局、一人ずつ[﹅4]の時間でしかなくなるからである。人間はおそらく、最小限度時間で連帯しているものであろう。人間に、自分ひとりの時間しかなくなるとき、掛値なしの孤独が彼に始まる。私はこのことを、カラガンダの独房で、いやというほど味わった。このような環境で人間が最初に救いを求めるのは、自分自身の言葉、というよりも自分自身の<声>である。事実私自身、独房のなかの孤独と不安に耐えきれなくなったとき、おのずと声に出してしゃべりはじめていた。しかし、どのような饒舌をもってしても、ついにこの孤独を掩いえないと気づくとき、まず言葉が声をうしなう。言葉は説得の衝動にもだえながら、むなしく内側へとりのこされる。このときから、言葉と時間のあてどもない追いかけあいがはじまる。そしてついに、言葉は時間に追いぬかれる。そのときから私たちには、つんぼのような静寂のなかで、目と口をあけているだけのような生活がはじまるのである。
 (53; 「沈黙と失語」)

     *

 強制労働の一日一日は、いうまでもなく苦痛であるが、しかもおどろくほど単調である。そしてこの単調さが、この異常な環境のなかへ、まさに日常性としかいいようのない状態を生み出して行く。異常なものが徐々に日常的なものへ還元されて行くという異常な現実のなかで、私たちは徐々(end53)に、そして確実に風化されて行ったのである。
 このような日常性の全体をささえていたものは、ある確固とした秩序である。私たち囚人のあいだに、連帯というべきものは最初からなかった。同民族の囚人のあいだでさえそうであった。同時に、私たちを監視する側の一人一人にも、おそらくなんの連帯も結びつきもなかったと私は考える。囚人は彼らの前で完全に無力であり、一丁の自動小銃でその集団を思うままに威嚇できる状態にあるとき、彼らはなんら連帯を必要としないだろうからである。ただそこにあるものは、誰にも理解できない、ある動かしがたい秩序であり、その秩序は今日もあすも、厳として存続するほかないと考える点で、監視するものもされるものもふしぎに一致していた。秩序というものはおそらく、そのようなかたちでしか維持されないのであろう。
 こうして、あきらかに失語状態といえる一種の日常性へ、私たちは足を踏み入れる。強制収容所の日常をひと言でいうなら、それはすさまじく異常でありながら、その全体が救いようもなく退屈[﹅2]だということである。一日が異常な出来事の連続でありながら、全体としては「なにごとも起っていない」のである。収容所の一日がおそろしく長いという実感は、このような異常な事態がついに倦怠となり終るほかない囚人の生態を直截にいいあてている。
 (53~54; 「沈黙と失語」)

     *

 言葉がむなしいとはどういうことか。言葉がむなしいのではない。言葉の主体がすでにむなしいのである。言葉の主体がむなしいとき、言葉の方が耐えきれずに、主体を離脱する。あるいは、主(end55)体をつつむ状況の全体を離脱する。私たちがどんな状況のなかに、どんな状態で立たされているかを知ることには、すでに言葉は無関係であった。私たちはただ、周囲を見まわし、目の前に生起するものを見るだけでたりる。どのような言葉も、それをなぞる以上のことはできないのである。
 あるときかたわらの日本人が、思わず「あさましい」と口走るのを聞いたとき、あやうく私は、「あたりまえのことをいうな」とどなるところであった。あさましい状態を、「あさましい」という言葉がもはや追いきれなくなるとき、言葉は私たちを「見放す」のである。
 このようにして、まず形容詞[﹅3]が私たちの言葉から脱落する。要するに「見たとおり」だからである。目はすでにそれを知っている。言葉がそれを、いまさら追ってもむだである。しかもその目は、すでに「均らされて」いるのである。つづいて代名詞が、徐々に私たちの会話から姿を消す。私たちはすでに数であり、対者を識別する能力をうしないはじめていたからである。ここでは、一人称と二人称はもはや不要であり、そのいずれをも三人称で代表させることができる。すなわち、私たちが確実に人間として「均らされて」行く状態、彼我の識別をうしなって急速に平均化されて行く過程に、それは照応しているのである。
 (55~56; 「沈黙と失語」)

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 最初の淘汰は、入ソ直後の昭和二十一年から二十二年にかけて起り、私の知るかぎりもっとも多くの日本人がこの時期に死亡した。死因の圧倒的な部分は、栄養失調と発疹チフスで占められていたが、栄養失調の加速的な進行には、精神的な要因が大きく作用している。それは精神力ということではない。生きるということへのエゴイスチックな動機にあいまいな対処のしかたしかできなかった人たちが、最低の食糧から最大の栄養を奪いとる力をまず失ったのである。およそここで生きのびた者は、その適応の最初の段階の最初の死者から出発して、みずからの負い目を積み上げて行かなければならない。

すなわちもっともよき人びとは帰っては来なかった           フランクル『夜と霧』

 いわば人間でなくなることへのためらいから、さいごまで自由になることのできなかった人たちから淘汰がはじまったのである。(end66)
 適応とは「生きのこる」ことである。それはまさに相対的な行為であって、他者を凌いで生きる、他者の死を凌いで生きるということにほかならない。この、他者とはついに「凌ぐべきもの」であるという認識は、その後の環境でもういちど承認しなおされ、やがて<恢復期>の混乱のなかで苦い検証を受けることになるのである。
 (66~67; 「強制された日常から」)

     *

 囚人にあって日常が耐えがたいのは、きのうと寸分たがわぬ一日が、今日も明日もさいげんもな(end91)くくりかえされるためではない。この日常がある日前ぶれもなしに崩壊するのではないか、すなわち<猶予された執行>が突如として起るのではないかという不安のなかで、たえまなく小刻みな緊張を強いられるためである。不定期囚は、苦痛にはおどろくほど耐えるが、不安にはほとんど耐えない。もしこの不安におびえずにさえすむなら、彼は安んじて日常への永住をもえらぶだろう。不定期囚の心理はこのようにして、強制収容所の日常の無条件の永続を無意識にねがうまで追いつめられる。
 一般に囚人は実際に目で見たものには、たとえそれがどのような苦痛な現実であっても、ある安堵感をもつ。これに反して予感されるしかないものにたいしては、たとえそれがよろこばしいはずのものであっても、恐怖に近い不安をもつ。甘んじて受入れるに到ったものは、どのようなかたちでも、変更されることを恐れるのである。
 いうまでもなく、このような不安はなんのいわれもないものであり、なんの根拠も理由もないものである。だがなんの根拠も理由もないからこそ、それは不安なのであり、およそ情緒の安定を欠いた囚人にとって、うごかしがたいリアリティをもつのである。しかも、なんの理由もないということは、この不安に対抗する現実的な手段をついにもちえないということを意味している。
 (91~92; 「終りの未知」)

     *

 夕暮れというのはたしかに奇妙な時間である。まだらな牝犬のまだらな乳房をなだめるようなけだるさのなかにその時間はやってくるが、ひととおりいろんなことは終ったにしても、まだほんとうの終りにはしてもらえないので、どうにも恰好がつかないといった時間なのだ。だからその時間になると、誰もが誰かにもてあまされているような顔つきになる。なにかがここではじまるにしても、それはほんとうの終りが来るまでのはかないあいだでの出来事にすぎないのである。(……)
 (160; 「棒をのんだ話」)

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 あるとき、そのようにして僕が出て行くのは、あふれるような月の光のなかである。バケツの底のような町へ、たっぷりと月がさしていて、なにかの飲みもののように光がたまっていた。光は帽子のふちにも、ズボンのへりにもたまっていた。水たまりをまたぐように、まっさおな光をまたいで行きながら、胸がいたくなるようにやさしい、そして奇妙に動物的なものの気配が、僕のからだのどこかでかすかにうごめくのを感じた。なんてやさしいんだろうと、僕は思わず口に出していった。まるで、しずかに草を食っているけものみたいじゃないか。すると僕は、おんながあるいているのを見るのだ。
 (162; 「棒をのんだ話」)

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 (……)ここではっきりさせておかなければならないことは、私がカトリック教徒ではなくプロテスタントであるということです。プロテスタントには、その外側の形式を拘束するどのような規範も存在しません。すべてはその人の宗教的良心に従って判断し、行動すべきものとされます。したがって、その人がプロテスタントでありながら、たとえば仏教の儀式を主宰するということもありうるわけです。それは、具体的な場合に聖書に耳をかたむけることによって具体的に判断して行くというほかいいようがありません。
 (171; 「肉親へあてた手紙」)