2019/2/28, Thu.

 三時半頃に一度目覚めたのを覚えている。その次は七時のアラーム。ベッドを抜け出して携帯電話の鳴り響きを止めたのだが、そのまま起床することは出来ず、また寝床に戻ってしまって結局は一〇時半まで過ごすことになる。寝間着の上にダウンジャケットを羽織って上階へ。雨降りの午前である。台所に入ると「ルクエ」のスチーム・ケースに野菜や豚肉が仕込まれている。そのほか、前日のほうれん草と卵のスープ。それぞれ熱しているあいだに便所に行って放尿し、戻ってくると米をよそって食物を卓に運んだ。新聞からは米朝首脳会談の記事を読む。その後、エマニュエル・トッドのインタビュー――日本が移民に消極的なのは、外国人を差別しているのではなく、「日本人同士」である状態のその居心地の良さから離れられないのだと。日本はほとんど自己完結している国だ。しかし、移民を受け入れることなしには日本は衰退の一途を辿るだろうとの予言。そして移民を受け入れるにしても、多文化主義政策を取るのではなく、寛容な同化政策を取るべきだとの提言。それらを読みながらものを食べ、食べ終わった頃にインターフォンが鳴った。出ると、Kラジオである。少々お待ち下さいと言って玄関に行き、開けると、短髪の男性。火災報知器がそろそろ一〇年を迎える、そうすると電池がなくなってしまうのだが、電池だけ替えるよりも機械をそのまま取り替えてしまったほうが良いとのセールス。手に持った資料の袋を差し出してくるので受け取り、ありがとうございますと言って別れる。戻って、皿を洗い、薬を飲むと下階へ下りて、早速日記を書き出し、ここまで綴ると一一時半過ぎ。今日は図書館に出かけようと思っている。
 それから前日の記事をブログに投稿したのち、過去の日記を読み返す。一年前はNと会っていたが、一日のことをすべては書けず、後半はメモのみ記してあるに留まっている。そろそろ日記に対する疑念が募り、混迷が深まってきているようだ。その次に二〇一六年七月一五日金曜日の分を読む。

 そうして家を出た。結構な雨降りで、傘を差して道を歩いていくと、水溜まりには極小の白い水柱があちこちに立ち、それに応じて水面に泡がいくつも生まれて滑るように少し流れては、ふたたび雨粒に打たれて消滅していた。坂に入ると、斜面になったアスファルトの上を、不可視の小さな存在が無数に踊るかのように、雨粒の痕跡が、規則的とも不規則とも言えない動きで縦横無尽に走っている。樹間から川を遠目に見下ろすと、林の色は薄まっているが霧はそれほどでもなく、この日は渋い緑色の川面が、白い泡を襞の突端に湧かせながらうねっているのが見て取れた。

 それなりに物事の具体性を掴んでいる描写である。水溜まりに生まれて束の間留まっては雨に割られる気泡への着目が特に良いと思う。そのほか、「不可視の小さな存在が無数に踊るかのように」とか、「規則的とも不規則とも言えない動きで」など、具体的で詳細な情報を確実に盛り込んでいる。
 その後、「記憶」記事の音読。Twitterに、小沢健二『犬は吠えるがキャラバンは進む』を掛ける、と簡素な呟きを流したところ、Aさんという人が名盤ですよね、とリプライを送ってきてくれた。ただ音楽を流したというだけの、ほとんど何の内容も含んでいない貧相な呟きでも、こうして目に留めてくれる人がいてやりとりが始まるのだから結構面白いものだ。それで返信をしながら、「記憶」記事から岩田宏神田神保町」を読んだり、沖縄関連の知識や中国史の記述を確認したりする。小沢健二の次はPaul Motian『Time And Time Again』を流した。そうして一時直前になったところで切り上げ、歯磨きをして、服を着替えた。荷物をリュックサックに整理して上階へ。料理教室に出向いている母親はまだ帰ってきていない。靴下を履き、Brooks Brothersのハンカチを戸棚から取って尻のポケットに入れ、洗面所に入ると整髪ウォーターを頭に振りかけて寝癖を整えた。それから浴室に入り、風呂を洗う。洗いながら義和団事件に関連した事柄など、先ほど読んだ記述を思い起こす。浴槽の内側を隅から隅まで擦り終えると、シャワーを使って洗剤の泡を流し、浴槽に蓋をして排水口の栓も留めておき、そうして室を出た。便所で放尿してから出発。雨は午前よりも降り増しており、傘を差して道に出れば途端にばちばちと、手持ち花火の燃え盛る時のような音が頭上から立って響く。路上は無数の矢を跳ね返すようにあちこちで白く毛羽立っている。坂を上っていくあいだ、風が吹かず、空気の動きは収まっていて、首すじに冷たさが触れることもない。それでも街道まで来ると吹くものがあるが、それは固く締まって肌に当たってくる吹き方ではなく、身体に触れたそばから柔らかく拡散して、包み込むような種類の風だった。街道を途中まで行き、裏路地に入って進んで行くと、道端にひらいた水溜まりにいくつもの気泡が昆虫のように浮かんでは、消えていく。我々の生もあの泡のようなものだろうな、などと無常を思った――この浮世に束の間浮かび上がっては、雨のたった一滴を受けただけで気泡が弾けてなくなるように、何かの拍子に儚くも散り消えてしまう。そんなことを思っていると、シェイクスピアマクベス』の一節が思い出されるようでもあった。

マクベス あれも、いつかは死なねばならなかったのだ、一度は来ると思っていた、そういう知らせを聞くときが。あすが来、あすが去り、そしてまたあすが、こうして一日一日と小きざみに、時の階[きざはし]を滑り落ちて行く、この世の終りに辿り着くまで。いつも、きのうという日が、愚か者の塵にまみれて死ぬ道筋を照らしてきたのだ。消えろ、消えろ、つかの間の燈し火! 人の生涯は動きまわる影にすぎぬ。あわれな役者だ、ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、みえを切ったり、喚いたり、そしてとどのつまりは消えてなくなる。白痴のおしゃべり同然、がやがやわやわや、すさまじいばかり、何の取りとめもありはせぬ。
 (シェイクスピア/福田恆存訳『マクベス』新潮文庫、1969年、125~126; 5-5)

 しばらく歩いてから足もとに目をやれば、灰青色のズボンの裾が濡れそぼって地味な色合いをなおさら沈ませており、右足をちょっと上げて触れてみると砂利の感触が指先を刺激した。梅の木はそこここで、雨に打たれながらもそよと揺れることもなく、上下にも左右にも動かず落着いて咲き静まっている。途中の坂下に出ると表通りへと折れた。郵便局に寄るためである。局の軒下に入ると傘をばさばさやり、それから自動扉をくぐって、すぐ脇の傘立てに傘を差し込んでから右方のATMへ寄る。リュックサックを下ろし、預金通帳と財布を取り出して通帳のほうを機械に挿入、タッチパネルを操作して五万円を下ろした。月ごとに貯金が着実に目減りしていく無職の身である。本当はこの日、国民年金を支払わなければならず、それで金を下ろしたのだが、支払い書を忘れてきてしまったのだった。一日過ぎたところでどうでもあるまい、翌日も出かければ良いと払って、そうして駅に向かった。
 駅に入り、雨の打音の頭上から響く通路を歩いてホームへ上がり、一番線の屋根の下で電車の入線を待つ。まもなく滑り込んできた電車に乗り、歩いて二両目の三人掛けへ、席に就いてリュックサックを下ろすと、バッグの上方もまたズボンの裾と同じく濡れそぼっている。ズボンの裾は変わらず砂利が付着しており、靴の先端のほうにも同様に、細かな砂粒が結構くっついて汚れていた。一時五四分発車。目を閉じて到着を待ち、河辺で降りる。エスカレーターを上って改札を抜け、ふたたび傘をひらいて図書館へ、傘をばさばさやりながら入り口を入ると、細長いビニール袋を一枚取って傘をそのなかに収める。多目的スペースでは血圧測定を催しており、戸口で血圧を測れますけど、どうですかと女性が呼びかけていた。その横を過ぎて入館、CDの新着棚を見に行くと狭間美帆のアルバムは不在で、Carmen McRaeのライブ盤があったが借りるほどでもなかろう。そうして上階へ、手摺りに触れてその上に手を滑らせながら階段を上り、新着図書を見るとこちらには興味深いものが結構いくつもあったが、忘れてしまった。一つ覚えているのは、アーサー・ウェズリー(だったか?)版の『源氏物語』の翻訳、ハードカバーのそれの二巻目があったことである。『源氏物語』のこの版は平凡社ライブラリーから確か四巻本で出ていたと思うが、その新訳ということだろうか。それで書架のあいだを抜けて窓際に出たが、空いている席は見つからない。フロアを辿ってテラス側の長テーブルの並びまで来ると、こちらは結構空いていたので、まだ誰も就いていない一並びの端にリュックサックを置いた。そうしてフロアに戻り、日本文学の棚に入る。古川真人の『縫わんばならん』と、滝口悠生の作品を借りるつもりでいた。しかし「ふ」の区画に行ってみると、『縫わんばならん』は見当たらず、『四時過ぎの船』だけがあったので、ひとまずそれを手に取った。多作である古川日出男の著作に押され、棚の区画を侵食されて、書庫入りになってしまったのだろうか。滝口悠生のほうは『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』を選び取り、そうして貸出に行く途中、検索機で古川の著作を確認してみたが、『縫わんばならん』は貸出されてもおらず、書庫入りしてもおらず、書架の九一三. 六番、「フ」のコーナーにあるという結果が出る。それでもう一度棚に戻って「ふ」の区画すべてに視線を滑らせたが、やはり『縫わんばならん』は見つからなかった。誰か席に持っていって読んでいるのかもしれない。そうして諦めて二冊を貸出手続きし、テラス側の席に戻るとコンピューターを取り出して、今しがた借りた二冊を瞥見しながら起動を待ち、Evernoteの支度が整うと打鍵を始めた。四時半前から日記を綴って四〇分、現在は三時を過ぎている。
 腹が減ったので食べるものを買いに行くことにした。リュックサックから財布を取り出し、モッズコートの左ポケットに入れて席を離れる。退館。傘は面倒なので持ってこなかった。高架歩廊の上に出ると同時に、小走りに駆け出して階段を下り、コンビニに向かうが、その僅かなあいだで見る見るうちに服には水玉模様が付される。入店。向かいの棚、おにぎりの区画はちょうど女性店員が品物を補充しているところだった。それではパンのほうはと左を向けば、そちらも同様である。それでひとまず区画を離れて、紙パックのチョコレート・ドリンクなど試みに手に取って戻したりしながら、遠巻きに店員の動向を窺う。じきに、店員の作業は続いていたものの、ちょっとスペースが空いたので、パンの棚の前へ。オールド・ファッション・ドーナツを取って、もう一品はおにぎりの棚(ここはまだ店員が作業をしていたので品物を取ることができない状態だった)の隣、サンドウィッチの区画からチキンカツサンドを確保。そうして会計、愛想と威勢の良い男性店員を相手に五百円玉を一枚支払い、釣りを受け取るとともにありがとうございますと低く礼を言って外へ、ふたたび小走りになって階段を一段飛ばしで駆け上がり、図書館に戻る。入ってすぐのところに飲食スペースがあるがそちらは取らず、ビニール袋を提げて入館し、上階に上がるとフロアを横切ってテラスに出た。そうして台に腰掛けて食事。風が流れてなかなか寒く、チキンカツサンドを咀嚼しながら鼻から滑り出していく呼気が即座に灰色に染まって空中に溶ける。座っている脚の太腿のあたりが特に寒かった。サンドウィッチを食べ終えると、脚を組んだ姿勢で一〇〇円のチョコレート・ドーナツもこまごまと食べ、ゴミを袋に入れて口を縛って潰すと屋内に戻った。ゴミの入ったビニール袋はリュックサックに入れておき、そうして書抜きを始めた―― 神崎繁・熊野純彦・鈴木泉編集『西洋哲学史Ⅰ 「ある」の衝撃からはじまる』である。三時半直前からおよそ二時間、ひたすら打鍵を続けた。最初のうちは席は空いており、こちらの周りも空席がいくつもあって悠々とした気持ちで過ごしていたのだが、そのうちに、テスト期間なのだろうか高校生らの姿が増えだして、こちらの向かいにも女子高生が入って溜息をつきながら赤ボールペンを滑らせて――問題を解いたあとの丸を付ける音でそれと知れる――勉強に取り組んでいた。彼女が去ったあとには今度はまだまだあどけなさを残して頼りないような男子高校生二人がやって来て、時折りひそひそと笑みを浮かべて言葉を交わしながら勉強していた。書抜きに切りをつけたこちらは一度席を立って便所に行った。放尿し、手を洗ってハンカチで拭きながら出てくると、哲学の区画に行って、『西洋哲学史』シリーズの残りの三巻の目次を瞥見した。それから席に戻り、『西洋哲学史Ⅰ』中、村井則夫「ハイデガーと前ソクラテス期の哲学者たち」の論考から書抜き箇所三つを読書ノートに写す――ページとともに、その箇所で最も自分の興味を惹いた、あるいは最も内容がまとまっていると思われる一文を書き写しておくのだ。そうして小笠原豊樹訳『プレヴェール詩集』も同じことをして時刻は六時前、帰ることにした。コンピューターを停止させてリュックサックに収め、いくつもの本たちも鞄に入れて立ち上がり、モッズコートを羽織って外していた腕時計を左手首に戻した。そうして歩き出し、ロシア文学の棚に寄って本を押さえるのに使っていた大部の『チェーホフ 小説選』を書架に戻しておき、そうして退館。外に出ると空が非常に青い。夜闇に包まれる前の、地上が丸ごと水面下に埋没したかのようなあの特別な時間の純な青さに、曇っているにもかかわらず空は満ち満ちている。傘を差して、その青さに視線を吸い込ませながら歩廊を渡り、駅舎に入って掲示板を見ると直近の電車は六時二分、都合良く奥多摩行きへの接続電車だった。それでホームに下り、まもなく電車はやって来る。勤めや学校を終えてきた人々が滔々と吐き出されていくのを、乗り口の脇に寄ってやり過ごし、乗り込むと扉際に寄って壁に凭れて立ったままに到着を待った。外は見えず、こちらの顔と車両内の様子が反映するばかりである。青梅に着く前に乗り換えの便を図って二号車から三号車に移り、降りるとすぐ向かいの電車に乗り換えた。車両内を渡って一番端の扉際に就く。こちらの背後では席に座って膝の上にコンピューターを出して、時折りあたりを見回しながら何やら打鍵している女性がいた。途中、ポケットから取り出して確認した白い携帯はいわゆるガラケーだった。同族である。打鍵のほうも、車両内の人々の様子など観察して記述しているのだろうかなどとちょっと思ったが――だとしたらこちらの方面でも同族だということになるが――さすがにそれはないだろう。と言ってしかし、わざわざ電車のなかでまでコンピューターを操っているその目的がわからない。目の前のガラスに映りこむ彼女の様子を窺いながら到着を待ち、最寄りに着くと降りて傘を差した。ホームを辿り、階段を上り下りして横断歩道を渡り、この日は目の前の坂には入らないで歩道を東へ辿る。水気によって増幅された激しい擦過音を響かせ、路面を白く輝かせながら車が何台も通り過ぎていくその横を歩き、木の間の細道へと折れた。静かで暗いなかを下って行き、帰宅である。
 母親は台所で立ち働いていた。時刻は六時二〇分といったところだっただろう。自室に戻り、モッズコートを脱ぎ、ズボンも脱いで吊るしておき、寝間着の下を履く、とそんな風に行為を進めながら一方でコンピューターをテーブルに据えて起動させた。そうしてシャツに寝間着のズボン姿になると、Mさんのブログを久しぶりに読みはじめた。BGMは昼に流していたPaul Motian『Time And Time Again』の続きである。二日分を読むと一旦読むことをやめたのだが、音楽がまだ続いていたのでこれが終わるまでは読み物に充てるかというわけで、「偽日記」の、もう結構昔になってしまったが、二月一一日の、ブリュノ・ラトゥールの著作から文言を引いている記事を読んだ。しかし何が言われているのかは全然わからない。それで音楽が終わるとともに読み物も終えて、食事を取りに上階へ、台所に入って汁物を温め、ガーリック・スパゲッティを大皿によそって電子レンジに突っ込む。ほか、ハンバーグの欠片をつまみ食いし、林檎やハムのサラダをよそって卓へ、食べはじめた。テレビは何かどうでも良い番組。炬燵に入っていた母親は例によってタブレットを弄っていたのだが、そのうちにT子さんからMちゃんの動画が送られてきたようで、それを見ながら面白い、面白いと言って笑っていた。こちらもその後見せてもらったが、Mちゃんが「タッチ、タッチ」と言いながらSちゃん――ロシアで知り合ったMちゃんと同じ年頃の幼児――に触れている場面で、Sちゃんはしかし恥ずかしいのか、Mちゃんから離れてしまうのだった。それに関してT子さんは、もう少しお近づきになりたかったようです、とのコメントを付していた。そうしてものを食べ終えるとアリピプラゾール一錠とセルトラリン二錠を水で胃に流し込み、食器を洗うと入浴に行った。風呂のなかでは例によって頭を浴槽の縁に預け、両腕も両側に乗せて天井を向きながら目を閉じ、「記憶」記事で読んだ中国史や沖縄の知識などを思い返した。そうして出てくると母親がこちらを呼んで、何かと言えば、卵ボーロがあると言う。Mちゃんに送る予定だったものが、賞味期限が今日で切れてしまうとのことだったので、それでは食べようと受け取って下階に戻り、幼児用のおやつをぱりぱり食いながらTwitterを眺めたあと、日記を書き出した。BGMはCornelius『Mellow Waves』。ここまで四五分で記して九時半前である。
 それから音楽を聞く。まず最初に、Bill Evans Trio, "All of You (take 1)"。やはり完璧な演奏である。Bill Evansは「必然」の体現、Scott LaFaroは「偶然」をその身に宿した存在、そしてPaul Motianは「必然」と「偶然」のあいだを行き来して、それら両者を繋ぐ「溶媒」としての役割を果たしている、と当てずっぽうだがそんなことを言ってみたくもなる。一九六一年六月二五日のBill Evans Trioの完璧さというのは、そうした相反する性質を具現化する演者同士が奇跡的に結びついてしまったところから発するものなのではないか。六一年Village Vanguardの"All of You"は三テイクあるが、そのどれもが様相を異にして豊かな多様性を実現していながらしかしどれも等しく完璧と言うべき演奏で、甲乙付けがたい、と言うよりも、ここでは「甲乙をつけようとする」という目論見自体が浅はかで無意味なものとして無効化されてしまう、そのような至高の領域というものが突きつけられている。
 その次に、Kenny Garrett『Pursuance: The Music Of John Coltrane』から冒頭三曲、"Countdown", "Equinox", "Liberia"を聞く。Garrettのサックスは、時にジグザグの形姿を取って鋭く切り込む場面もあるが、ここではColtrane風に音を詰め込んで奔流のようにうねるのではなく――Kenny Garrettほどの奏者なら、そうするのも容易なのだろうが――比較的整然と、端正に吹いていると思う。そのなかでもしかし、二曲目の後半に見られるような、高音部でびりびりと音を響かせトーンをざらつかせる咆哮などに、後期Coltraneの面影が見えないでもない。ほかにコード楽器のないなか、的確なバッキングに流麗なソロにと活躍・奮闘するPat Methenyのプレイも聞きものだろう。
 その後、Kurt Rosenwinkel Trio『Reflections』を流しながら、「記憶」記事を読む。七三番から八八番、最新の番号まで読んでおくと、この日に書き抜いた『西洋哲学史Ⅰ』からも記述を足して、新たに項目を作っておく。それからベッドに移って読書、小笠原豊樹訳『プレヴェール詩集』である。そのまま一時間半を費やして一気に読み終えてしまったが、正直なところ、岩田宏が訳しているという期待に比してあまりピンとくる詩篇がなかったのだが、そのなかでも「サンギーヌ」という詩などは格好良いと思われた。「ファスナーが稲妻のようにきみの腰を滑り/きみの恋する肉体の幸福な嵐が/くらやみのなかで/爆発的に始まった」といった調子だ。プレヴェールの言葉遣いは基本的に平易でわかりやすいのだが、そのためにかえって意味の詩的な戯れや拡散の魅力が少ないのではないかと感じてしまったのだが、しかしこれは自分が読めていないだけなのかもしれない。
 時刻は零時過ぎである。階上にいた父親が階下に下りて眠りに向かったのを見計らって、部屋から出て上階に行き、台所に入っておにぎりを作った。戻ってきて、一時前から、滝口悠生『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』を読みはじめながらベッドの上でおにぎりを食った。そうして二時近くまで読書をしたのちに就寝。


・作文
 11:23 - 11:33 = 10分
 14:25 - 15:06 = 41分
 20:42 - 21:27 = 45分
 計: 1時間36分

・読書
 11:48 - 12:50 = 1時間2分
 15:27 - 17:21 = 1時間54分
 18:40 - 18:54 = 14分
 19:00 - 19:13 = 13分
 22:01 - 22:34 = 33分
 22:42 - 24:07 = 1時間25分
 24:54 - 25:46 = 52分
 計: 6時間13分

  • 2018/2/28, Wed.
  • 2016/7/15, Fri.
  • 「記憶」: 5 - 10; 69 - 72; 73 - 88
  • 神崎繁熊野純彦・鈴木泉編集『西洋哲学史Ⅰ 「ある」の衝撃からはじまる』講談社選書メチエ(511)、二〇一一年、書抜き
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-02-22「とこしえは蝶のはばたき微風からはじまるものに揺れる後れ毛」; 2019-02-23「人間であることを知る夜がある静かの海のほとりにひとり」
  • 「偽日記@はてなブログ」: 2019-02-11
  • 小笠原豊樹訳『プレヴェール詩集』: 114 - 293(読了)
  • 滝口悠生ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』: 3 - 22

・睡眠
 0:20 - 10:30 = 10時間10分

・音楽




神崎繁熊野純彦・鈴木泉編集『西洋哲学史Ⅰ 「ある」の衝撃からはじまる』講談社選書メチエ(511)、二〇一一年

 第一アンチノミーに対するカントの解決が、現象としての世界は有限でも無限でもない、とするものであったしだいについては、よく知られている。カントは問題の文脈で、エレアのゼノンの名を挙げていた。「巧みな弁証家」のゼノンは、神は「有限でもなければ無限でもない、運動しているのでもなければ静止しているのでもない、他のいかなる事物にも似ているのでもなければ似ていないのでもない」と主張する。カントによれば、もしゼノンが神のもとに宇宙を理解していたとするなら、ゼノンはもちろん「宇宙はじぶんの場所において、持続的に現在している(静止している)のでもなく、その場所を変える(運動する)のでもない」と語ってしかるべきであった。いっさいの「場所」は宇宙のなかに存在するけれども、「宇宙[﹅2]そのもの」は「いかなる場所にもない[﹅10]」からだ。世界の「すべて All」があらゆるものを包括しているならば、世界は「他の事物[﹅4]に似ているのでもなければ、似ていないのでもない」。世界の「すべて」の外部には、それと比較されうるどのような他の事物もないからである(B530)。カントはこの文脈で、エレア学派のいわゆる詭弁にしかるべき正当性を承認しているのである。
 (28; 熊野純彦「哲学と哲学史をめぐって」)

     *

 『純粋理性批判』初版の「誤謬推理」論に、つぎのような一節がある。ややながく引用しておこう。(end28)

 いっさいの反論は、独断論的[﹅4]反論、批判的[﹅3]反論、および懐疑論的[﹅4]反論に区分することができる。独断論的反論は命題[﹅2]に、批判的反論は命題の証明[﹅2]に向けられる反論である。独断論的反論が、その対象にかんして命題が言いたてているところの反対を主張しうるためには、対象の本性が有する性状を見とおしていることを必要とする。独断論的反論は、だから、それじしん独断論的なものであって、問題となっている性状を、反対者よりもよく見知っていると言いたてる。批判的反論は、命題に価値があるか無価値であるかには手をふれず、証明のみを攻撃するものである。それゆえ、批判的反論は、対象をよりよく見知っている必要はまったくなく、あるいは対象について、よりすぐれた知識を有していると僭称する必要もない。それが示すのはただ、主張が根拠を欠いていることであって、主張が正しくないというしだいではない。懐疑論的反論は、命題と反対命題とを相互にたがいに対して対立させる。つまりふたつの命題を同等の重要さを有する反論としてあつかいながら、両者のうちの一方を交替でドグマとし、他方をそれに対する反論とするのである。懐疑論的反論は、したがってふたつの対立する命題のいずれにあっても、一見したところでは独断論的であるけれども、それは対象にかんするすべての判断をかんぜんに否定するためである。独断論的反論も懐疑論的反論も、こうしてともに、対象について肯定的あるいは否定的になにごとかを主張するために必要なていどに、その対象を見とおしていると言いたてざるをえない。批判的反論が、ひとり、ひとは自分の主張のために、空虚でたんに空想された(end29)にすぎないものを想定しているしだいをただ示すことで、理論を突きくずす種類の反論である。それは、理論から不当な根拠を奪いさることによるのであって、反論はそのさい、対象の性状をめぐってなにごとかを決定しようとはしないのである。

 (28~29; 熊野純彦「哲学と哲学史をめぐって」)

     *

 「白い」(esti leukon)と言おうが、「人間である」(estin anthropos)と言おうが、何か別の語を伴った動詞「ある」は、世界の一部分のみに関わる、すでに限定されたあり方である。「白い」と言ったとたんに「赤でない、黒でない……」と無限の「ない」が随伴する。「人間である」も同様に、「兎でない、うなぎでない、数でない……」と無限の「ない」を伴う。アリストテレスはこれらを「述語のカテゴリー」として分類したが、「ある」が多様に語られる場面では、すべての「ある」は「ない」との対で成立している。それは、どの主語を立てた場合でも、どの述語を述べた場合でも同様である。私たちの日常の言葉は、主語を限定し、それについて何かを述べることで、常に「ある」と「ない」が並立する語りの地平にある。しかし、真の探求は、私たちの日常が依拠する現実、いやそれが現実であると思っている「想い込み」を消し去る衝撃から始めなければならない。それは、まず「ある」の前に立ち、それを認めることであった。
 (53; 納富信留パルメニデス」)

     *

 すると、女神はこう語っていることになる。真に考えられ、言表で語られる「ある」の道を歩まず、考えることも語ることもできない「ない」を、その「ある」と混同して、あたかも分かった気[﹅5]になっている想い込み(ドクサ)、それが人間のあり方なのであると。
 プラトンは『ポリテイア』第五巻で、パルメニデスのこの教えを受けて、「知識」(エピステーメー)と「思わく」(ドクサ)を峻別し、目覚めた状態に対して、多くの人間は夢を真実であると思い込んでいる状態にいることを指摘している。「完全にある」もののみが「知る」対象となり、「まったくない」ものは「知られない」。ところが、それらの中間に位置する「あり、かつ、ない」ものどもが、人びとの「思わく」(ドクサ)の対象を成しているのである。プラトンは、個々の事柄について「ある」を論じる点でパルメニデスとは異なるが、基本の構図はそのまま踏襲している。
 人びとは多くの美しいものどもを認めるが、それらは「美しい」と同時に、「美しくない」ものでもある。どんな事物でも、ある人にとって、ある観点では、あるいは別のものとの比較で、「そうではない[﹅2]」事態を被る。それらにしか「美しさ」を認めない人びとは、実は「あり、かつ、ない」世界を真理であると勘違いしているに過ぎない。本来、「美しい」はそれ自体としてつねに完全に「美である」のでなければならない。それは単一の「イデア」という存在であり、他の多くの不完全な事物は、そのイデアに与ることによって初めて「ある」という性格をもつ。プラトンが批判する「思わく」は、パルメニデスの女神がまさに人間たちに遠ざかるように促す「逆転する道」なのであった。
 (59; 納富信留パルメニデス」)

     *

 「ある」というギリシア語"estin"が、動詞"einai"の現在形であったことを思い出そう。それは「今、ある」。しかし、この「今」とは、時間軸上に位置づけられる、流れる「今」ではなく、「あった」も「あるだろう」も認めない、絶対的な「ある」である。というのは、「ある」という限りにおいて、「あった」のではないし、「あるだろう」でもない。逆に、もし「あった」や「あるだろう」を認めるとすると、それは今「ある」のでは「ない」ことが含意される。こうして、時制、そして時間は存在しない。この「今」は、「非時間的な今」とか「永遠の今」とか言って、分かった気で片付けられるものではない。それは、「ある」が現に成り立っている、という実在を支える「今」なのである。
 (66; 納富信留パルメニデス」)

     *

 植物から動物、人間へと姿を変えるなかで、変化を通じて生きる「われ」がダイモーンとして存在している。人間は堕落したダイモーンとして、スパイロス(球)に至らずに四元の争いに支配されているが、いつか浄められて愛によってスパイロスに統合されるべき存在としても語られていた。たしかにそのダイモーンの永続性・同一性の根拠となるもの、自己が同一であるということを保証するものについて、エンペドクレスは明らかなかたちでは語っていない。しかし「われ」は、哲学的な知がそこに存する神的視点からのみ永遠なる至福の生を生きることができ、決して消し去ることのできない「われ」の視点をエンペドクレスは強調してもいる。「ある[﹅2]」ものとしての四元は、混合分離しながら、全体として変わらず「ある[﹅2]」。人間存在もまた「ある[﹅2]」のもとで確保されるかぎり、その「あ(end120)る[﹅2]」の「生」は「死」と別のものではない。人間の生と死の両極を経て、さらなる永遠の「生」が「われ」においてあるというのがエンペドクレスの宇宙論の真理なのである。ここに魂の不死性の真理に関して、『自然について』と『カタルモイ』の理論と重ねて見ることができるであろう。
 (120~121; 木原志乃「エンペドクレスとアナクサゴラス」)

     *

 アナクサゴラスは四十歳までに生国を去ってアテナイに移住し(二十歳とする証言もある)、この地の最初の哲学者としてそこで三十年間滞在したと言われている。その間に、かの政治家ペリクレスと親交を結んでいたが、それが災いし、後にペリクレスの政敵(クレオンか、ツキュディデスか)によって不敬神の咎で告発された。明らかに政治的な思惑の絡んだ裁判であったが、彼が不敬神とされたのは、「太陽は灼熱した勤続の塊である」(59A1ff.)という彼の主張が原因であるとされている。アナクサゴラスは前四六七年にアイゴスポタモイに落下した隕石を調査したことが知られていて、その際の自然科学的観察から天体が燃える鉄塊であるという見解に至ったのである。(……)
 (122; 木原志乃「エンペドクレスとアナクサゴラス」)

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 混合分離しながら「あり[﹅2]」続ける究極的事物について、アナクサゴラスはそれ自体で単独に取り出(end124)せるようなものを想定していない。彼はエレアのゼノンによってなされた議論、すなわち事物は無限に分割可能であることを前提したのである。「ある[﹅2]」ものが「ある[﹅2]」ための条件として「不可分なもの」を想定しなかったという点で、アナクサゴラスは原子論者たちと全く異なった立場から出発している。
 (124~125; 木原志乃「エンペドクレスとアナクサゴラス」)

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 髪で「あらぬ[﹅3]」ものから、髪で「ある[﹅2]」ものは決して生じない。髪で「ある[﹅2]」ものは、そもそも初めから髪で「あった[﹅3]」し、それはどんな微細な部分においても髪で「あり[﹅2]」続けるであろう。言い換えれば、髪や肉はそれらを形成する栄養物のうちに混在していたのであり、さらには栄養物となる(たとえば)穀物を生育させる水や土などのうちにすでに存在していたのである。この見解は、「あ(end125)る[﹅2]」ものについてのパルメニデスの要請に端的に応じたものであるとともに、同時代の多元論者エンペドクレスの四元素説と、はっきりと袂を分かつものである。エンペドクレスによれば、たとえば髪も肉も微細に分割していけば最終的にはそれらを構成する「四つの根」に分離・還元されるのだが、アナクサゴラスの立場では逆に真の要素的存在はあらゆる事物そのものであり、いわゆる四要素とは多様な事物を無限の微小体として含み込んでいる混合物にほかならないのである(むろんすべての事物は同様に一定程度、他のすべての事物を混在させてもいる)。
 どんな微小部分も他のすべての部分と同質のものをいつまでも持ち続けるのだから、アリストテレスはアナクサゴラスの言うその無限に分割できる究極的なる構成要素(ストイケイア)を、「同質素/同質部分的なもの(homoiomerē ホモイオメレー/homoiomereia ホモイオメレイア)」という言葉で表現した。これはアナクサゴラス自身の言葉ではなく、部分と全体の関係をイメージしやすいようアリストテレスが術語化したものである。アナクサゴラス自らはその言葉を一度も使用せず、世界の原物質を「事物(chrēmata クレーマタ)」とのみ語り、さらにそれを「種子(spermata スペルマタ)」という表現で説明した。
 植物の生長後のすべての姿は、潜在的に種子の中に備わっている。それらはそもそも多としてすべてを含み持つもので、髪や肉など、生物発生・成長の事例にとどまらず、数においても性質においても限りのない原物質のことである。したがって空気や水ですら最小単位ではなく、種子の混合物なのである。すべてを含み持った不可視なものが集まって「水」なり「空気」なりが形成されているのだ(end126)からである。すなわちそのような意味で「あらゆるもののうちにあらゆるものの部分が含まれている」(「en panti pantos moira enesti エン・パンティ・パントス・モイラ・エネスティ」B11)。
 (125~127; 木原志乃「エンペドクレスとアナクサゴラス」)

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 このように、アナクサゴラスは無限分割可能性を視野に入れることで、可視的なものから不可視的なものへと事物の存在のレベルを移行させている。エンペドクレスが究極的構成元素とした四根は、視覚しうるし認識しうるのに対して、アナクサゴラスにとっての種子であり事物(クレーマタ)である真の存在は、無限に微細な分割が可能である限りにおいてわれわれの視覚で捉えることはできない。デモクリトスもそれと同様に、不可分な原子を目に見えないものとしつつも、それこそが本来の「真正な認識」であるとし、逆にわれわれが目にしているものは視覚されてはいても「暗い認識」であるとしたのである(68B11)。この認識の転換を初めて想定したのがアナクサゴラスであり、それゆえ「明らかならざるものの視覚、それが現れである」(B21a)と述べてもいるのである。
 (129; 木原志乃「エンペドクレスとアナクサゴラス」)

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 しかし、おそらくアナクサゴラスにとってヌースの独立存在化は、機械論的な作用を意味するものにとどまらないだろう。ヌースによる事物の分明化には窮極がなく、どこまでいってもその作用は完了しないのである。たとえばあるものが肉と呼ばれているときに、肉であるというその事実は、肉という要素がそこにおいて優勢であるがゆえに、肉という名を持っているにすぎない。世界の混在性において肉は肉以外のあらゆる事物の性質を分け持っているゆえ、純粋な肉としてはありえないのである。その意味で、あらゆるものは非完結的で相互に開かれた連続的構造を持っている。その構造の中でヌースは常に世界に作用を及ぼす存在でなければならないことになる。最小と最大の「もの」は相互に即自的につながり合い、混在しているとともに分離している。この一即多の同時相即性がアナクサゴラスの自然学によるパルメニデスへの回答であった。
 (133; 木原志乃「エンペドクレスとアナクサゴラス」)

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(……)ソクラテスは魂の概念を独特の仕方で更新している。彼は、魂を「不正によって損なわれ、正しさによって益されるもの」と暗黙のうちに規定している(『クリトン』47e)。暗黙のうちに、というのは、厳密には「魂」という言葉を使用せずに、このように正義と不正とによって規定される存在があることを主張しているだけだからだが、それが魂を指すことは明らかである。あえて「魂」という言葉を使用せずに語るのは、魂の概念を既存のさまざまな想念から解放し、先のような規定からあらためて理解し直すべきこと、いわば再定義の試みであることを示唆するであろう。正義がそれにとって有益であり不正がそれにとって悪しきものであるようなもの、それこそが魂なのだ。ソクラテスは魂という生の原理を、正義と不正という規範との関係で規定しようとしている。ソクラテスにとって、生きるということの成立それ自身が、こうした規範との関わりを本質的に含んでいるのだ。
 (219; 中畑正志「ソクラテスそしてプラトン」)

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 プラトンが若いころ実際に目指していたのは、ソクラテスの生き方にしたがうことではなかった。プラトンは「若かりしころは、多くの人々と同じような気持ちに動かされ」「自分で自分の身を処する年頃になったならば、直ちに国家公共の仕事に就こうと考えていた」(『第七書簡』324b)のだ。だが、青年プラトンの希望がそのまま実現することはなかった。当時の混沌とした政治情勢がそれを許さなかったのである。前四〇四年、長期にわたった過酷なペロポネソス戦争アテナイの全面降伏と(end221)いう形で終わり、その直後に三十人政権が樹立される。これは、スパルタの後押しを得て成立した反民主派の政権だった。政権を担う三十人のなかには、プラトンの従兄弟のクリティアスや叔父のカルミデスが含まれており、プラトンにとっては政治参加を実現する好機でもあった。プラトンもこの政権に若干の期待を抱いていたが、しかしそれはすぐさま幻滅にかわる。
 三十人政権は、当初は一定の支持をあつめたが、やがて独裁色を強め、多数の市民の粛清や居留民の逮捕や財産没収などの専制政治をおこなう。そのため人心は離反し、多数の亡命者を生んだ。ただし、この政権の挫折とそれに対する失望も、プラトンから政治参加の野心を奪ったわけではない。プラトンは政治的ロマンチストではなく、冷静にことの成り行きを見守っていたのだ。
 三十人政権は、亡命した人々を中心とした民主派の武力抵抗や自身の内部分裂によって崩壊し、民主派の人々が政権を握る。プラトンは民主派の政治運営については、全体としては好意的な目で見ており、再び公的な政治活動への意欲を抱くようになっている。
 この民主政権下で、しかし、決定的な出来事が起こる。ソクラテスの裁判、そして刑死である。
 (221~222; 中畑正志「ソクラテスそしてプラトン」)

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 『パイドン』の記述は、さらに理論的に整備されたものとなっている。プラトンは次のような特徴を与えている。
 (1)知の対象  たとえば、われわれが視覚を通じて出会う「等しい」長さのものは厳密には等しくはない。にもかかわらずそれらが(おおよそ)等しい、あるいは等しくないということが識別できるのは、そのような認知に先立ってまさに等しいということそのもの、つまり<等のイデア>を理解しているからである。われわれが感覚を通じて経験するもののなかにはそのように厳密に等しいものが見出せないとすれば、われわれは感覚とは異なる形でその厳密な等しさの知を得ていることになるだろう。こうしてイデアとは、感覚知覚と区別対比された知識[﹅2]の対象である(……)。
 (2)感覚知覚を構成  ただしこのイデアの認識としての知と感覚経験とはまったく独立別個の認識ではない。なぜなら、たとえば等しいという感覚的認知は、<等しさそのもの>(=等のイデア)の知が感覚的経験においてはたらいていることによってはじめて成立するからだ。一般的に言うならば、何かをFとして感覚的に識別する場合、その当の感覚的識別においては、明確に意識されていなくとも、(=Fのイデア)という基準あるいは規範との関係によって、Fという認知が成立する(end236)のだ(……)。
 このような認識論の特徴は、それと対比的な考え方と比較するとより明瞭となるだろう。イデア論的な思考が否定するのは、何かが等しいと認識することを、すでに客観的に成立している(等しいという)事実を写真を写すように取り込むことだと考える見方である。これに対してイデア論的な考え方によれば、等しいという感覚による判別は、基準となる等しさのイデアの知が一種の概念的能力として感覚的経験において機能していることによってはじめて成立するのである。ここでは世界のあり方の認知は概念的能力の発揮と一体なのだ。
 したがってイデアとは、感覚によって捉えられる事象を「理想化」することによって想定されるものではない。一般に理想化とは、これまで経験してきた多くの共通する事柄(たとえば、美しいもの)から、できるかぎり厳密にそれであるもの(厳密に美しいもの)を認めることであろう。それは、ある数直線が左から右へ向かって美しさの程度が高まることを表すとすれば、できるかぎり右側に位置するものを考えることに相当する。しかしイデアは、美しさの程度を増す数直線上に位置するというよりも、そのような美しさの程度の比較を可能とする[﹅8]ような尺度あるいは基準としての数直線自身に相当するだろう。
 (236~237; 中畑正志「ソクラテスそしてプラトン」)

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 (……)何も無いところから、突如、何かが生まれてくる様子を想像してみよう。辺りには荒涼とした空間が広がる。いや、「何も無い」のだから、空間さえあってはならない。そこから何かが生まれてくる。ここで人は、ビッグバンを思い浮かべるかもしれない。あるいは、神による「無からの創造」を想像する人もいるだろう。ところが初期の哲学者の目には、それが想像すらつかないこと、絶対にありえないことと映ったのである。タレスが、万物は「水から」生じたと言ったのは、生成・変化が「無から」ではないということと表裏の関係にある。アナクシマンドロスにとっては「アペイロン(無限定なもの)」が、アナクシメネスにとっては「空(end258)気」が、「無」に代わる原理であった。彼らはそこに、世界や宇宙の「はじまり」を見たのである。
 しかし、「無からの生成」はもっと身近なところにも潜んでいる。あなたは、自分が生まれる以前は、何だったのだろう。あなたはまだその時、世界に存在していない、だからまったくの「無」であった。こう言う人がいてもおかしくない。よく考えれば、「変化」の場合もそうかもしれない。ついこの間まで痩せていた友人が最近少し太ってきた。しかし、「痩せた友人」というものは、もはやこの世界には存在しない。エレア派のパルメニデスは、こうした点を巧みに突いて、「生成・変化はありえない」という途方もない逆説を提起した。「あらぬもの(無)」は語ることも、考えることもできないため、「あらぬもの(無)がある」ということ自体、ありえない矛盾である。ところが、「生成・変化」には必ず、「あらぬもの・無」(かつては存在しなかったもの)への言及が含まれる。それゆえ、いかなる生成・変化もありえない。この単純な論理は、当時、多くの哲学者を魅了し、もはやそれへの応答なしに哲学ができないほど、多大な影響をもたらした。
 (258~259; 金子善彦「アリストテレス」)

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 有名な「四原因説」(……)。彼によると、事物の「原因」は次の四つに大別される(括弧内はアリストテレス自身による例)。

 (1)質料因――その事物は、どんな素材から[﹅4]生じ、構成されるのか(青銅、銀)
 (2)形相因――その事物は、そもそも何[﹅]であったのか、その本質(2対1などの比、数)
 (3)始動因――その事物の運動・変化は何から始まった[﹅4]のか(彫刻家、医術、父親、行為者)
 (4)目的因――その事物は何のため[﹅2]に存在するのか(健康、痩身)

 (293; 金子善彦「アリストテレス」)

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 「思慮ある人」(プロニモス)が満たすべき要件とは何だろうか。この問いが、彼を①[思考に関わる徳]の考察へと導く(EN[『ニコマコス倫理学』] Ⅵ)。アリストテレスがとくに強調するのは、行為者がその場で下す個別的判断(小前提)の重要性である(ここでは、一般的・普遍的な内容を含む「大前提」と個別的内容を含む「小前提」から、行為が導かれるという、いわゆる「実践的推論」の考えが前提になっている点に注意されたい)。「思慮ある人は、個別的な事柄を認識しなければならない」(EN Ⅵ. 11. 1143a33-34)。彼はまた、「経験に基づく目[﹅]をもつがゆえに、ものごとを正しく見る[﹅2]」(同 b13-14. 一部変更)人であるという。この「目」 が、たんなる感覚に尽きるものではなく、経験に裏打ちされた知性的な要素を含む判断であることは、この場合の「感覚」(見る)が「知性(思惟)」と等置されている(同 b5)ことからも窺える。だが、アリストテレスが「思慮ある人」に求めた要件は、それだけではなかった。興味深いのは、そうした「個」(小前提)から出発して「普遍」(大前提)に向かう方向性も、同時に示唆されている点である。「普遍は個別的な事柄から到達される」(同 b4-5. 一部変更)。それは、行為の目的を漸次遡行する目的志向的な道筋であり(本節冒頭参照)、その終局は、先と同様、行為者自身の(end300)「幸福」(最善の生)であろう。アリストテレスが、「思慮ある人」のさらなる特質として、「善く生きること」全体のために[﹅6]何がよいのかを適切に熟慮する能力を挙げるのは、この点とよく符号する(EN Ⅵ. 5. 1140a24-31)。このように、個別の状況を見究める卓越した目は、何を善として生きるかという人生全体の目的まで見据える普遍的な眼差しと切り離せない関係にある。
 すでに見たように、「思慮ある人」のあり方は、「適度」(中庸)を定める規準と考えられていた。その意味で、性格の徳は、以上のような思考の徳に依存している。しかしアリストテレスは、いわば逆方向の依存関係にも配慮を怠らない。「思慮なしには本来の意味での善き人ではありえず、性格の徳なしには思慮ある人ではありえない[﹅20]」(EN Ⅵ. 13. 1144b31-32)。そこには、思慮と性格の徳が調和する、トータルに完成された人物が「人間にとって最善の生」への指標になるという、きわめて重要な洞察が認められる。
 (300~301; 金子善彦「アリストテレス」)

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 (……)アリストテレスは言う。「立法家は、どのようにして市民が善き人になる[﹅6]か、それはどんな訓練をほどこすことによって達成されるか、最善の生の目的とは何であるかの課題に取組むべきであろう」(Pol.[『政治学』] Ⅶ. 14. 1333a14-16)。政治の場面でも「善き人」や「幸福」の中核は、やはり「徳」である。それゆえ、彼にとって「最善の国制」とは、市民を徳ある人にする上で最も適した政治体制である。こうして、国制のあるべき姿を究明する「政治の学」が構想される。
 アリストテレスはまず、ポリス(都市国家)の「自然性[ピュシス]」を擁護する議論から着手する(Pol. Ⅰ. 2)。それが課題となるのは、彼の同時代に、ポリスの「人為性[ノモス]」を主張する根強い風潮があったからだ。しかしそれでは、「最善の国制」が人々の交したただの約束事になってしまう。これを封じるために彼が採用したのは、ポリスの「発生」に着目する手法だった。男女の自然な交わり(生殖)を起源に、主人・奴隷、家族、村へと次第に共同体の規模を拡大し、「自足性の限り」を尽くしたときに、ポリスが生まれる。ここでいう「自足性の限り」とは、衣食住など「生きること」に必要な資源の限界を指している。ポリスは、人間たちが生の必要に駆られて、行き着く先(テロス)に誕生した自然的な存在であるというのである。
 ここにもまた、目的論的な生の哲学(二九四頁以下参照)がはっきりと見てとれる。だが、動物的な生ではなく、まさに人間的生に固有の「善さ」が真に認められるのは、ポリスが誕生した後であ(end302)る。「それ〔ポリス〕は、人びとが生きる[﹅3]ために生じたのであるが、彼らが善く生きる[﹅5]ために存在する」(Pol. Ⅰ. 2. 1252b29-30)。人間は、ポリスの中で育まれ、他の動物にはない固有な善(徳)に向かうよう、生まれついている。「人間は自然によってポリス的[﹅10]動物である」(1253a2-3)というよく知られた命題には、その意味が込められている。
 (302~303; 金子善彦「アリストテレス」)