早い時間、六時台のあたりから目覚めていた。夢を見ていた。詳しくはもはや覚えていないが、恋愛を主題にした幸福な雰囲気のものだったはずで、その続きを見たいが故に二度寝を遂行したものの、直接的な続篇は見ることが出来なかった。その後も細かく、薄い夢のなかに入ってはすぐに覚めるということを繰り返して結局一一時四五分までだらだらと床に留まった。夢の大半は学校を舞台にしたものだったと思う。最後の方に見た夢を少しだけ覚えている。女性教師の授業を受けていたのだが、それが、名詞に対してそれぞれ適切な語尾を考えて一人一つずつ発表していくというような趣旨のもので、阿呆か、という話で、こんなくだらない授業に参加してなどいられないと授業中にも関わらず教室を出て行ってしまったのだった。こちらの現実の学校生活でそのような「不良行為」をしたことは一度もなかったはずだ。それで仲間らと階段を上って最上階の、立入禁止になっている無人のスペースに行こうとしたのだが、その途中で廊下の向こうから教師がやって来て見咎められる。その教師というのが、小池百合子として認識されていた。それで急いで階段を下りて逃げ、こちらは一人、途中の階で折れて廊下を行くのだが、その途中にも教師が立っている。しかし、こちらはいつの間にか「優等生証明書」というような書類を持っており、これに印鑑なりサインなりをしてくれる教師を探しているという体裁でうろついていることを咎められずに乗り切れると考えていたようだった。そうして廊下の反対側、校舎の端の階段を下りて一階に出ると、小池百合子にふたたび遭遇する。しかし彼女はこちらに目を向けずに、職員室とはちょっと違うが、職員の集まって作業をしているガラス扉の向こうの室に入っていってしまったので、咎められずに済むかと思って通り過ぎようとしたところが、その扉の向こうから呼び止められる。その呼ばれ方が、Aくんの弟さん、というような呼ばれ方だった。それで仕方なくそちらの方に行き、室に入って、カウンターか何かの向こうにいる小池百合子――と言ってもそれは認識上だけのことであって、顔は実際の小池とは違っていたようだが――とやり取りを交わす。Aくんはロシアから帰ってきたんだっけというようなことを訊かれるので、えーっと、と考え、先日……あれはいつだったかな、一度帰ってきました、今はまたロシアに行っています、などと答える。
それで一一時四五分に起きて上階へ。両親はどこにだか知らないが出かけていた。台所に入るとフライパンに炒飯――筍と牛肉が混ざっていた――が、鍋にうどんが用意されていたので、それぞれ焜炉で加熱して皿と椀によそり、卓に就いた。新聞をめくって、カリフォルニアはサンディエゴ郊外で起きたシナゴーグ襲撃事件の報を読んでいると――憎悪犯罪が蔓延する、不幸で嫌な時代だ――、両親が帰ってきた。母親が居間に入ってきて、ジェラートを食べに行ってきたと報告した。それからスリランカのテロの続報も読んでいると、母親が冷蔵庫に肉があると言う。それで席を立って、冷蔵庫から筍と牛肉の炒め物を取り出し、電子レンジで一分半温めて取り出すと、うどんにちょっとくれと母親が言うので、こちらは椀を持ったまま、母親が箸で炒め物を掴んで鍋に入れるに任せた。そうして卓に戻って食っていると、肉だけでなく野菜も食べなと小学生のようなことを言われて母親がサラダを用意してくれたのでそれもぽん酢を掛けて頂き、その頃には父親も室内に入ってきた。ただいまと言うので、おかえりと返す。そうしてこちらは薬を服用し、両親が並んで食事を始めるなか、台所に移って食器を洗い、そのまま浴室に行って風呂も洗った。出てくるとコーラの缶を一つ冷蔵庫から取って持ち、そうして自室に帰った。
Twitterを見ていると、何かしら小沢健二 "ラブリー"のことを連想させる文言を目にしたので、今日はFISHMANS『Oh! Mountain』ではなくて小沢健二『Life』を久しぶりに最初に流すことにした。それでTwitterにもその旨呟いて、感想をちょっと書いていると、M.Dさんという変な名前(失礼!)の方がリプライを送ってきてくれたので――この方とは以前も何度かやり取りしたことがある。確かジャズのベースを弾いていた人だったと思う――返事を返す。ほとんど同時にYさんからもダイレクト・メッセージが届いたのでやり取りを交わしつつ、『Life』の音楽を聞いて時折り歌を口ずさむ。音楽に気を取られて日記を書きはじめることが出来ず、しばらくそのようにして過ごしたのち、一時一七分から次の音楽に小沢健二『球体の奏でる音楽』を繋げて、ようやく文章を綴りはじめた。まずこの日の分をここまで綴ると、既に二時が目前になっている。
それからFISHMANS『Oh! Mountain』をこの日も掛けて、前日の日記をひたすら綴る。四時過ぎになって一旦中断。昨日買ったUNITED ARROWS green label relaxingの袋のなかに入れられていたカタログ――なかを覗いてみたが、着こなしの軽いテクニックのようなものが紹介されているだけのもので、普通にいらない――を持って上階に行き、これをあげると母親に差し出すと、当然のことだが別にいらないと言われる。それで父親の方に、これ見て勉強しなとカタログを向けると受け取った彼は、はにかみながら中年向けのなんてないだろうと言った。父親だってそこそこの店で似合うものを見繕えばきっとそれなりの見栄えにはなるだろう。それから、アイロン掛けをした。チェック柄のブルゾンがあって欲しかったのだが高いので諦めたのだ、などと背後の母親に話しながら、シャツを二枚にハンカチを一枚処理しておき、それから下階に一旦戻って、昨日買った二つのパンツを持ってきて母親にお披露目した。ジャージを脱いで両方とも履いてみせると、母親の評価はなかなか好評だったようだ。そうして二つのズボンのタグを外しておいてから下階に戻り、収納のなかの服掛けにハンガーを使って掛けておき、それで四時半、ふたたび日記を書きはじめた。時折り、右の後頭部に刺すような鋭い頭痛が生じていた。まさか脳出血ではないだろうなと反射的に考えてしまう自分の性向を、「何か右の後頭部がずきずきと痛いのだが、こういう時、不安障害だった過去の名残で、反射的に、脳出血ではないか、このまま自分は死ぬのではないかなどと考えてしまう。もうそういう連想に繋がるように脳の回路が出来上がっているのだ」としてTwitterに呟いておいた。脳出血だったらおそらく吐き気が生じてくるはずだから――くも膜下出血で倒れた祖母も意識が曖昧になったあとに嘔吐していた――嘔吐感のないうちは大丈夫だろうと判断して日記を綴っていると五時一五分になって母親が呼ぶので音楽を止めて――Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 2)を流していた――部屋を抜けた。上階に行くと、天麩羅をやると言う。筍をまたもや貰ったためである。その前に米を磨がなくてはならなかった。三合を用意してきて洗い桶のなかで磨いた。流し台を片付けて釜に入れておき、それからモヤシを茹で、さらに菜っ葉も同様に茹でる。そのあいだ、母親は居間の方でフローリング敷きの床に座って洗濯物を畳んでいた。それから台所の片隅に転がっていた筍に包丁を入れて二つに切断し、皮を剝いで中身を取り出し、根元のほうにあるぶつぶつとした、少々グロテスクな紫色の粒を包丁で削ぎ落とす。そうしてフライパンに油を用意し、梅干しを二つ入れて焜炉の火を点けた。これで古い油を消毒するのだ。梅干しが加熱されて泡を出しているあいだに、ボウルに天麩羅粉と水を用意して練り、エノキダケから揚げはじめたのだが、第一投目は全然固まらず、茸はふにゃふにゃのままだった。衣が緩すぎたのだろうと母親が言って粉を足し、二投目を投入してみると、確かに今度は比較的固まる。ただ全体を通して見てみると、それでも序盤のうちはあまりうまく揚げられず、後半になってくるにつれて天麩羅が狐色に染まってからりと揚がるようになったのだが、これはおそらく最初、揚げはじめる前に油の温度を充分に上げず、低いままで始めてしまったことが原因だったのではないか。ともかくエノキダケと筍を揚げていき、途中で手帳を持ってきてそれを眺めながら揚がるのを待ち、良い色と固い感触になってくると隣の焜炉の上に置いた皿の上に上げていった。そうして六時半前になると多量の筍をすべて揚げ終わり、仕事は終了、書き忘れていたが背後にはBGMとしてFISHMANS『ORANGE』をラジカセで流しており、天麩羅を揚げながら"感謝(驚)"などに合わせて身体を揺らしていた。そうして自室に帰るとふたたび早速日記を書き出し、Antonio Sanchez『Three Times Three』を共連れて進めて、七時四四分に前日の記事をようやく記し終えた。引用も含めて二万三〇〇〇字ほど、四時間半程度掛かったが、今日はだれることもなく、面倒臭さや嫌気が滲むこともなく、なかなかスムーズに記せたように思う。気力が充実していたのだろうか?
頭痛は天麩羅を揚げているうちになくなっていた。ガルシア=マルケスの小説の感想を長々とTwitterに投稿し、それからブログにも記事を投稿、さらにnoteにも投稿した。そうしてTwitterに投稿通知を流しておく。最近はURLとともに、その一日の目立った出来事なりを短文で付け加えて紹介しているのだが、二八日の分は「長文。四時間半を掛けて二万三〇〇〇字を作成。高校の同級生Nとららぽーと立川立飛に出かける。立川LUMINEも見て回ってズボンを二着購入。二万円ほど。「散財癖のあるニート」の面目躍如」と記した。
あと書き忘れていたこととしては、Twitter上でM.Dさんと結構長いあいだやり取りをしていた。Yさんともまたダイレクト・メッセージでやり取りをしていて、彼がSkypeかLINEで話せないかと言うものだから、今は日記を書いているので通話は難しいが、今度時間を決めてSkypeで話しましょうかと返し、彼のアカウントにコンタクトを送っておいた。また、昨日の記事に書いたパニック障害の説明――一生涯で最も緊張した時の緊張・不安の度合いが四六時中続くという部分――もTwitterに流しておいたのだが、それについてHさんという、やはり精神疾患を体験しているらしき方からリプライが送られてきたので、それにも返信をしておいた。そうして八時頃になって上階へ。先に風呂に入ることにした。マルケスの「エレンディラ」のことを考えながら入浴し、出てくると食事、白米に天麩羅にモヤシやトマトや菜っ葉のサラダ。テレビは『スカッとJAPAN』。この番組は端的に嫌いである。実にくだらない番組だ。しかしそれを少々眺めながらものを食い、食べ終わる頃には父親が洗い物をしていて自分の分を洗い終えた彼が居間にやって来て、それも、と言って母親の分の食器とこちらの分の皿を洗ってくれるらしかったので礼を言って渡し、薬を飲んだ。そうしてコーラを一缶持って下階に戻り、Art Blakey Quintet『A Night At Birdland』を流しはじめて、タングトリルでLou DonaldsonやCliffored BrownやHorace Silverのソロの旋律を追ったあと、九時を回って日記を書きはじめた。ここまで綴って一〇時前。今日はもう五時間半も文章を綴っている。
夜にも関わらずcero "Yellow Magus (Obscure)"を流して、しかしさすがに遅い時間なので声はやや潜め気味にして歌った。それから隣室に入り、VOXの小型アンプのスイッチを点け、一弦の切れてフィンガ―・ボードの醜く汚れたギターを手に取り、椅子に座ると、Eマイナー・ペンタトニック・スケールに合わせて適当にフレーズを奏でた。三〇分少々、遊んでいただろうか。そうして自室に戻り、ガブリエル・ガルシア=マルケス/鼓直・木村榮一訳『族長の秋 他六篇』をベッドの上で読みはじめた。あっという間に二時間と三〇分弱が立って、一時二〇分を迎えると、「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」を読み終えた。
序盤においてエレンディラの心理ははっきりと明快には描かれず、掴みがたい。陥った不運を悲しむでもなく、彼女を身売りの境遇に陥れた祖母を恨みに思うでもなく、売春に嫌悪を抱くでもない。ほとんど無感情で、「はい、お祖母ちゃん」と呟きながら祖母の言うことに唯々諾々と従う機械のような印象を受ける。そんな彼女が初めて明確な感情を表すのが六六頁で、午後から夜中までぶっ続けで男たちの相手をしたことによって疲労困憊し、「怯えたけもののように、わっと泣きだ」すのだ。それに続けて、祖母の観察するところ、エレンディラは「不安の限界を越えている」ようだと述べられるのだが、しかしこの感情描写の乏しさ、控えめさは何だろう。語りは感情の上に止まらず、詳らかな描写を重ねずに、遅滞せずまさしく無情に通り過ぎていく。従って、ガルシア=マルケスの小説はおそらく、いわゆる「感情移入」を求めて読むには適していないだろう。もしそうしたいのならば、読者は他の小説にも増して想像を働かせ、書かれてあることから書かれていないことを自ら積極的に補わなければならない。マルケスの語りは感情を置き去りにして速やかに流れていく。細部に拘泥せず大河の水のように過ぎ去っていくこの「速さ」と距離感は、おそらく民話のそれに近いのではないだろうか。そこでは人間の感情などというものは、ふっと一瞬大気を揺らがせる微風のような、ささやかな一自然現象のようなものに過ぎない。大いなる「運命」の流れの前では、少女の涙など何の影響も与えないただの一滴でしかないのだ。語りが持っているそのような「距離」の感覚によって、この小説ではエレンディラの「悲惨さ」の無慈悲な即物性が際立っているのではないだろうか。
八〇頁では、誘拐された修道院から偽の結婚式によって連れ出されたエレンディラは、「お祖母ちゃんといっしょよ」と口にして、自らの意志でふたたび祖母と共に暮らすことを選択する。祖母はエレンディラをその「悲惨」、身売りの境遇に突き落とした張本人のはずである。またその後も彼女を拘束し、金儲けの道具として使っており、のちには(九五~九六頁のことだ)エレンディラは「犬用の鎖」を足首につけられて、ベッドの枠に繋がれるという屈辱的な仕打ちを受けていることまでが明かされる。それにも関わらず、八〇頁の時点では彼女には祖母を恨む様子も憎む様子も見受けられない。エレンディラの祖母への「憎しみ」が最初に直接的に言及されるのは、もう物語も終盤に差し掛かった一〇五頁のことだ(「エレンディラは深い憎しみをこめた目で(……)眠っている祖母の姿を眺めつづけた」)。
彼女も一度は祖母のもとを離れ、誘拐された修道院の生活のなかで、「わたし仕合わせだわ」などと感慨を漏らしており、また、偽の結婚式の途中までは院に留まれるのではないかという「一縷の望み」を抱いている。ところが式が終わって祖母を含む人々の前に立つと、何と「妖しい力に呪縛され」、先の「お祖母ちゃんといっしょよ」という言葉を「きっぱりと」宣言することになるのだ。やはり彼女は大きな「運命」から逃れることはできないのだろうか? もしそうだとすれば、その「運命」とは、この小説においてはまさしく祖母そのもの、彼女の祖母の姿として形象化されているのではないだろうか? 八六頁では「お祖母ちゃんの許しがなくちゃ、誰もどこへも行けないのよ」と彼女は明言しているが、その細かな理由はわからない。そこには無条件の確信があるのみで、何か不可思議な、大いなる力が働いているかのようだ。実際、祖母は生きているあいだはエレンディラの桎梏となり続け、彼女は――実際に殺人を実行したのは彼女の恋人であるウリセスだが――祖母を肉包丁で刺し殺すところまで突き進むことになる。祖母が死んだその時になって初めてエレンディラは自由を得るのだが、そこから先の彼女の消息は知れず、途端に物語は終幕を迎えてしまうのだ。
恋人のウリセスは最初のうちは、エレンディラを「笑わせる」男として登場する。疲労困憊していたエレンディラは初めてウリセスに会った時、その冗談に「声を立てて笑」い、「まじめな顔で冗談をいうところが、わたし好きよ」と漏らして、邪気のない小娘の笑みを浮かべている。二度目に会った時にもウリセスはフクロウの鳴き真似でエレンディラを笑わせ、二人は会話のなかで男の勘違いに思わず「吹きだした」りもしている。彼といると彼女は快活で幸福そうなのだが、それもいつまでは続かず、物語の後半でウリセスが祖母の殺害に失敗した際には、「ぞっとするような冷たい目」で彼を見つめることになる。その時に彼女の口から漏れるのは、「あんたは満足に人も殺せないのね」という、むしろそれこそがまさに「ぞっとするような冷たい」、手厳しい非難の言葉である。男女間の幸福の脆さを如実に示すこの急速な感情の冷却、その転変は印象的だが、それが「殺人の失敗」によって引き起こされているという点が、エレンディラの冷酷さを表しているように思われる――実際、彼女は殺人の場面を「恐るべき冷静さで」見つめるのだし、祖母が息絶えたあとには狡猾にも、祖母の身につけていた「金の延べ棒のチョッキ」を奪って、恋人を捨てて一人で逃げ出すのだった。
九二頁では気の良い脇役である写真屋がライフル銃に撃たれて死ぬことになるのだが、死の記述はほとんど一文のみで、その様子は実にあっさりとしていて無慈悲である。これもほとんど自然の現象のような即物性でさらりと書かれており、『平家物語』の那須与一の挿話中の一武士を思い出させるものだ。そこでは、与一の弓の腕前の素晴らしさに感激した平家方の武士が一人、船の上で舞を踊りはじめるのだが、与一は命令を受けて冷酷にもその武士をも射殺してしまうのだ。物語中に現れたかと思えば途端に、僅か一行の記述でもって退場させられる武士の死の、その呆気なさがここでは思い起こされるのだった。
九三頁では、それまで三人称の記述が続いていた地の文に、突如として「わたし」の語が登場し、この物語はその「わたし」が伝え聞いて「おもしろい話」として書いたものだということが明らかにされている。ここで話者が透明な無身分の語り手ではなく、具体的な素性を備えてエレンディラたちと物語世界を共有している存在だと判明するのだが、何故マルケスはこの物語を最初から最後まで三人称で描ききるのではなく、こうした一人称で自らを指し示す語り手を登場させたのか、それは少々不可解である。その九三頁では、「わたし」がエレンディラのことを知るのは、アルバロ・セペダ=サムディオという友人に連れられてのことだと記されており、このセペダ=サムディオという男は実在のコロンビアの作家であるらしいので、もしかするとマルケスは知人である彼に目配せを送って、彼を言わば物語中に「友情出演」させるために一人称を導入したのかもしれない。
エレンディラの物語を読み終えたあと、早速上記の感想を綴って、そうすると二時を四分の一ほど越えることになった。眠気がやって来なかった。それで久しぶりに深い夜更かしをすることにして、空腹にもなってきたので夜食にカップ麺でも食べるかというわけで、忍び足で上階に行き、オレンジ色の食卓灯を点けると、玄関の戸棚から「赤いきつね」を取り出して、ポットから湯を注いだ。真っ黒でつるつるとした箸とそれを持って、忍び足で階段を下りて自室に戻り、コンピューターを前にしながらカップうどんを啜った。つゆもすべて飲み干し、ふたたび上階に行くのが面倒だし物音を立てるのも憚られたので、空になった容器は自室のゴミ箱に捨てておき、それからもしばらくだらだらと過ごした。そうして三時半を目前にして寝床に移り、ふたたび読書を始めた。「この世でいちばん美しい水死人」を読み終え、「愛の彼方の変わることなき死」に入ったところで――この篇を読み終えれば、ついに『族長の秋』に突入することになる――三〇分が経過しており、良い具合に眠れそうな感覚が漂いはじめたので、就床することにした。四時になるところだった。
・作文
13:17 - 16:06 = 2時間49分
16:29 - 17:15 = 46分
18:33 - 19:44 = 1時間11分
21:05 - 21:49 = 44分
25:20 - 26:17 = 57分
計: 6時間27分
・読書
22:57 - 25:20 = 2時間23分
27:28 - 27:58 = 30分
計: 2時間53分
- ガブリエル・ガルシア=マルケス/鼓直・木村榮一訳『族長の秋 他六篇』: 68 - 126
・睡眠
2:45 - 11:45 = 9時間
・音楽
- 小沢健二『Life』
- 小沢健二『球体の奏でる音楽』
- FISHMANS『Oh! Mountain』
- Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 2)
- Antonio Sanchez『Three Times Three』
- Art Blakey Quintet『A Night At Birdland』
- Cal Tjader Quartet『Jazz At The Blackhawk』