(……)「告発しない」という自分の姿勢について、石原がいちばんまとまった形で語っているのは、講演「沈黙するための言葉」のなかで、おそらくは会場からの質問に答えた部分である(司会者からの質問かもしれない)。そこで石原はこう語っている。
告発しないという決意によって、詩に近づいたということですが、これも、今いった詩を選んだ動機に、ある意味ではつながると思います。〔シベリア抑留の〕八年の間見てきたもの、感じとったものを要約して私が得たものは、政治というものに対する徹底的な不信です。政治には非常に関心がありますけれど、それははっきりした反政治的な姿勢からです。人間が告発する場合には、政治の場でしか告発できないと考えるから、告発を拒否するわけです。それともう一つ、集団を信じないという立場があります。集団にはつねに告発があるが、単独な人間には告発はありえないと私は考えます。人間は告発することによって、自分の立場を最終的に救うことはできないというのが私の一貫した考え方です。人間が単独者として真剣に自立するためには告発しないという決意をもたなければならないと私は思っています。
(Ⅱ、七四―七五)ここでは、告発の拒否が、そもそも石原が詩に向かった動機とすら語られている。これはやはりかなりあとづけの理屈、しかもあの山本太郎の評言を踏まえたうえでの理屈だろう。そのうえで、政治への不信、集団への不信が告発の拒否の根拠とされている。そして、「単独者として真剣に自立するため」には、告発しない決意をもつ必要があると主張されている。とはいえ、「告発しない」と語ることは、自分に告発する権利がつねに留保されていることを前提にしている。結局のところ石原は、一貫して自分をいつでも告発の立場に立ちうる被害者[﹅17]という位置に置いていることになる。実際に告発した場合、その告発は無視されるかもしれないし、思わぬ反論にさらされるかもしれない(石原と親族の関係がまさしくそういうものだった)。告発しないと語ること[﹅10]は、そういう対決の場面を回避しつつ、自分のなかに告発の権利を無傷なものとして絶えず確保しておくことである。ここにはやはり錯誤がふくまれているのではないか。
(細見和之『石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』中央公論新社、二〇一五年、269~271)*
このエッセイ[「確認されない死のなかで」]には『日常への強制』収録版までは、「よしんば名前があったにしろ/名前があったというだけが/抹殺された理由ではない。」というエピグラムが添えられていたが、『望郷と海』に収録されたとき、「百人の死は悲劇だが/百万人の死は統計だ。/アイヒマン」に置き換えられる。アイヒマンとは、「アイヒマン裁判」のアイヒマンである。石原が新たにエピグラムに置いているのは、一般にアイヒマンの語録として知られるものの一つである。アイヒマンの姿に石原は独特の向き合いかたをした。エルサレムでのアイヒマン裁判の報に接して、「アイヒマンの孤独」と書きつけたのは、世界中でおそらく石原吉郎ただひとりではなかったかと思われる。
アドルフ・アイヒマンは、ヒトラーのもとで行なわれたホロコーストの責任者のひとりだった。彼はゲスタポのユダヤ人課の課長として、ユダヤ人を絶滅収容所へ移送する作戦計画の指揮者だった。アイヒマンは戦後アルゼンチンに逃亡していたが、イスラエルの秘密警察が一九六〇年に彼を拘束する。アイヒマンはイスラエルに連行され、一九六一年四月一一日からエルサレムで彼を裁く公開裁判が開始された。石原は一九六一年四月一八日付けの「ノート」にこう書きつけている。ふたりの男が経験しなければならなかった深い孤独の世界について、新聞は報じている。一つは、人類史上はじめて打ち上げられた人工衛星の中で、〈英雄〉ガガーリン少佐がただひとり経験した、重力圏外の沈黙と孤独の世界であり、他の一つは、人間の堕落の責任者、人類史上最大の犯罪者として、イスラエルの法廷のまっただなかに立たされている親衛隊中佐アイヒマンが、全世界の抗議の目の壁のなかで経験しているおそるべき絶望と孤独の世界である。
(Ⅱ、一四五 - 一四六)ソ連の開発したボストーク一号でユーリイ・ガガーリンが世界初の有人宇宙飛行に成功したのは、一九六一年四月一二日、まさしくアイヒマン裁判開始の翌日であって、石原はこの二つの事件に不思議な類縁を見たのだった。しかも、同じ日付のノートのなかで、宇宙空間における孤独とエルサレムの法廷における孤独について考察しながら、「僕がはげしい関心をもつのは、第二のアイヒマンの孤独である」(Ⅱ、一四六)と記している。
(271~273)
八時に仕掛けていたアラームで目論見通り起床することに成功した。ベッドから降りるとコンピューターを点けてTwitterを覗き、それから部屋を出て上階に上がった。母親に挨拶し、洗面所に入ると顔を洗って、さらに整髪ウォーターを髪に振り掛けてドライヤーで寝癖を整えた。食事は米がないのでパンだと言う。それで冷蔵庫から食パンを取り出してトースターに入れ、焼いているあいだは卓に就いて前夜の味噌汁を飲んだ。パンが焼けるとバターを乗せてさらにハムを二枚上に置き、皿に取り出すとともにもう一枚を続けてトースターに入れて焼きはじめた。卓に移って新聞を読みながらパンを齧り、食べ終わるともう一枚を取ってきてそれも食した。その他牛蒡サラダなども食べて、皿を洗っていると父親が階段を上がってきた。父親は昨夜、三時かそのくらいまで起きて酒を飲んでいたようで、朝から疲れたような様子で、よいしょ、よいしょ、と言いながらゆっくりと階段を上がってきた。風呂をもう洗えるのかと母親に訊くと、まだ洗濯をするとのことだったので、こちらは下階に下りた。Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』を流しながら「短歌」記事を更新し、それからSさんのブログを読んだ。一〇分間で五記事を読めるこのコンパクトさ。九時に至るとLINEでT田から昨夜のやりとりの返信が届いたので、また言葉を交わしながら日記を書きはじめた。最初は音楽もBorodin Quartetを続けていたのだが、途中からyoutubeにアクセスして中村佳穂のスタジオライブ音源を流し、これがやはりなかなか素晴らしいので、LINEを通じてTにも聞くんだと勧めておいた。ここまで記すと九時四二分である。
それから、「加速主義と日本的身体 —柄谷行人から出発して」(https://daisippai.hatenablog.com/entry/2019/06/14/200000)を読んだ。youtubeに上がっていたSIRUPのミックス音源や、Suchmos『THE ASHTRAY』を流して一〇時半まで掛けて読了し、それから便所に行って糞を垂れた。そのついでに上階に上がって風呂を洗い、戻ると完成させた前日のブログを投稿し、そのあと、SIRUP "Synapse"の流れるなか服を着替えた。UNITED ARROWS green label relaxingで買った濃青の麻のシャツに、下はガンクラブ・チェックのパンツである。そうすると既に出発の時刻だったので、クラッチバッグに小荷物を入れて上へ上がった。仏間でカバー・ソックスを履き、ハンカチを取って出発した。
林にミンミンゼミの鳴き声が復活していたが、しかし勿論、もうその勢いはかなり乏しい。空気は軽く涼しくて、空は白く覆われて隈がないが、見上げれば眩しさの感触が淡く瞳に触れた。坂道に入り、木屑が散乱しているなかを上っていくあいだ、ここには蟬の声がもうなくなって、沢の音と虫の音のみだった。着実に夏が終わりつつあるようだ。
最寄り駅に着くとホームの先の方に歩いていき、まもなくやって来た電車に乗り込んだ。青梅に着くと乗換え、移る先の東京行きはすぐの発車だったので、降りたあと移動せずにすぐ向かいから乗り込み、車両を移っていった。先頭車両まで来ると七人掛けの端に就き、まず携帯電話を取り出してここまでのことを短くメモに取ったと思う。それから手のものを手帳に持ち替えて、書かれている情報を復習した。
立川で少々停まっているあいだのことだったと思うが、電車内に坊主頭の――と言うかむしろ禿頭の――大男が現れた。床の上にボストンバッグをバッグを投げ出し、両手を大きく上げて吊り革を掴み、大仰な咳払いをたびたび漏らすその挙動が何だか少し奇妙だった。彼はそのうちに車両内を移動して座席の前に人が立っているのもお構いなしに網棚の上に手を伸ばしていたのだが、戻ってきた男の手にはペットボトルが握られていたので、どうも誰かが忘れていったそれを自分のものとしたらしい。しかし、良く見ていなかったので詳細はわからないが、自分のものとしたはずのそれを彼はまた、車外に投げ捨てていたようにも見えた。そのようにちょっと妙な行動を取りつつ、周囲を威嚇するような咳払いを放っていた彼だが、国分寺で停まった際に降りていった。入れ替わりに今度はまだだいぶ小さな子供、座っているこちらの頭の位置よりも背の低い男児がこちらの座席付近にやって来た。白いポロシャツにローファーを履いており、身なりの良い子供だったが、最初は扉際で外の景色を眺めていたものの、そのうちに彼はすわりたい、と母親に訴えはじめた。替わってあげても良かったのだが、どうせいくらも経たないうちに三鷹で降りるのだ、というわけでこちらは座席に留まり、子供はその後、母親に抱き上げられて大人しくしていた。
三鷹で降りると向かいの快速だったか各駅停車だったかに乗り換え、扉際で手帳を読んでいるとHMさんから電話が掛かってきた。今三鷹です、あと一駅ですと受けると、吉祥寺に着いたら公園口から出て、そこで電話をくれと言う。了承して切り、吉祥寺に着くまで手帳を読み続け、降車すると大挙して階段口へ向かう群衆のなかの一つの泡と化し、改札に向かった。公園口あるいは南口改札を抜けたところできょろきょろとあたりを見回したが、HMさんの姿は見当たらなかった。それで、駅舎外に続く階段の上で電話を掛けると、すぐ出たところにいると言い、見れば階段を下りた先に携帯を耳に当てている彼の姿があったので、ああ、いたと口にして通話を切り、階段を下りた。お久しぶりですと挨拶すると、「MORE」というジャズ喫茶に行こうと彼は言ったので了承し、歩き出した。駅のコンコース内を北側に抜けるあいだ、HMさんは、何か作家っぽくなったね、格好がもう作家だなというようなことを言ったので、そうですかと笑った。――やっぱり、今学んでいることとか、打ち込んでいることとか、そこから得たものって雰囲気に出るよなあ。
HMさんは前回会った時もそうだったと思うが、髪を後ろで縛ってやや引っ詰めたような髪型にしていた。服装は白いTシャツにベージュっぽい色の短パンで、のちに行った「SOMETIME」ではその上にあれはフランネルのものだろうか、シャツを身に着けたり脱いだりを忙しなく繰り返していたが、この時も既にそれを羽織っていたかもしれない。ズボンにはチェーンや鍵がついており、歩くのに合わせてそれがしゃらしゃらと鳴るのだった。道中に交わした会話は覚えていないし、吉祥寺に土地勘がないので道順も記憶していない。サンロードの前を左に折れたのだったような気がする。「MORE」に着くと幅の狭い急な階段を上がって二階にある店の扉を開けたが、そうすると今満席だと言う。待つようだということで、僕は全然良いですよと言って一旦店外の、狭い階段の途中で待つことにしたが、それか「SOMETIME」の方に行く? とHMさんが言うので、それでも良いですねと賛成し、それでそちらに向かうことになった。HMさんはわざわざもう一度店のドアを開けて、なかの女性店員に、すいません、出ます、と伝えていた。「SOMETIME」までの道順も覚えていないのだが、吉祥寺はこの日祭りだったらしく、途中の道端に太鼓が台に乗せられてあって、その上に幼い女児が乗ってゆっくりとした間合いで叩き、音を響かせていたのを見かけたことは覚えている。また、地下に続く店の階段を下りる頃合いに、HGの話になっていたのは確かだ。HGとはベースを弾いていたこちらの高校の同級生で、大学時代にHMさんと組んでいたバンドに誘ってくれた当人である。――HGはもう数年前に結婚して、子供もいますよ。多分どこか都心の方に住んでて、そろそろ二人目でも作っているんじゃないですかね。
入店すると、あれは中二階と言うのだろうか、店の奥に階段をちょっと上がったロフトのような小さなフロアがあるのだが、そこの一角に座を占めた。そこから見下ろす位置、フロアの真ん中あたりにピアノが置かれ、我々のいる位置から見て奥の入口の方面にはカウンターや厨房があるのだが、カウンターの頭上には酒の瓶がずらりと並んでいるようで、それらが天井から降り注ぐ照明の光を受けてきらきらと輝いていた。こちらは無論、ジンジャーエールを注文し、HMさんは最初はビールを頼み、次にハイボールを二杯、それが薄いと言って最後にジンジャーハイボールを飲んでいた。HMさんはこの前にも知人と会う用事があって、おそらくそこで飯を食ってきたらしく、腹が減っていないと言った。こちらも食ったのは八時頃だったものの、そこまで空腹ではなかったので、何か摘むものでも頼もうということで、ソーセージの盛り合わせを途中で頼んだ。しかしその後、チーズの盛り合わせも注文され、さらに最後には結局ピザも頼むことになった。ピザを決める時に、メニューを見せられたこちらがソーセージ、と口にすると、HMさんはまたソーセージか、と笑い、それは女の子に嫌がられるよ、女の子は色んなもの食べたがるからね、と言うので、じゃあ茸のピザにしましょうかとこちらは意を変えたのだったが、でも男だたら一つに決めたらそれを貫き通すかとHMさんは言って、結局ソーセージのピザが注文された。
飲み物が届くとグラスを合わせて乾杯した。前に会ったのはあれはいつ頃? という話をして、二〇一五年か二〇一六年の年末でしたね、と答えたのだったが、そのやりとりをしたのは店に着く前、まだ歩いているあいだのことだったように思う。おそらく前に会ったのは、当時記した覚えのある日記の記述の感触、そのレベルからして二〇一五年のことだろうと思っていたのだが、今、過去の日記を調べてみると、やはり二〇一五年一二月二六日のことだった。電話が掛かってきて、福生のライブハウスで今夜ブルースのライブをやるから来ないかと誘われ、二つ返事で了承して出向いたのだった。折角なので、これでまた一気に記事が長くなるが、その日の日記を引用しておこう。この頃と今だとやはり書き方がちょっと違っているように思う。
(……)店の場所は駅のすぐ近くだったので、どこかそのあたりにあるだろうと裏通りに入った。暗く静かな住宅地で夜の店の明かりなどなさそうに見えたが、一つ目の角を右に向くと、それらしきものが見えた。近づいていくと小さな建物だったが、たしかに目的の場所だとわかった。マスクをつけている男が誰かを待っているように店の前に立っていた。その脇から扉をあけてなかに入り、二つ目の扉もあけると、すぐ目の前の薄暗闇のなかに人が立っていた。奥のステージでは演奏がされていた、知人がいないかと見回したが、知った顔はなかった。カウンターの向こうの店主らしい初老の女性と目が合ったので、顔を近づけて、何か頼むようですよねと言った。彼女はチャージが一五〇〇円でドリンクが五〇〇円だから二〇〇〇円になります、とややしわがれたような声で言い、メニューを持ってきたので、ジンジャーエールの辛いものを頼んだ。釣りと緑色の瓶を受けとってフロアの奥に進み、L字を横に反転させた形の大きな木のテーブルに着いた。演奏中のバンドは実に素人くさく、リードギターはメロディを何の抑揚もつけずに危なげに弾き、初心者丸出しだった。そのバンドの演奏がまもなく終わると、次にスリーピースバンドが出てきた。ありきたりのギターポップという感じだった。演奏がはじまる前の準備中、ステージの端に立ってマイクを取った店主は、こう見えてはちゃめちゃなギターを弾くのだ、と二八歳のギターボーカルを紹介したが、はちゃめちゃさなど感じられなかった。といって、ギターを構えた格好や、プレイ中の目つきを固くした表情や、熱の籠った歌いぶりなどはそれなりに様になっていたのだが、MC中の挙動や言動を見ていると、「変人」に憧れる人間が変人と見られたいために一生懸命がんばっているというような印象を受けた。彼は、故郷に変える金がないんです、と早口で言って、一枚一〇〇〇円のCDを買ってくれるように繰りかえし懇願し、演奏のあと、酔っぱらいのあいだに何人かの客を得たようだった。知人は、そのバンドが演じている途中に入ってきた。見回した顔に手をあげて、近づいてきた彼と握手をした。いま何歳、と聞かれたので二五と答え、そちらはと返すと、四一だと言った。顔を見て、若いですよと言った。いやでももう四一、そっちも会ったのは二〇のときだったけど、二五ってなるともういい大人だもんな。いい大人の実感またくないですけどね、と返した。スリーピースの次が、その知人が参加しているブルースバンドだった。そんなに難しいことやらないから見ててと言うのに、でもやる気はまったくないんですけどね、来てはみたものの、とあらかじめ断りを入れた。ステージの前面には、髪を立てて狼のような印象のギターボーカルと、ハンチング帽をかぶってジャケットを着たテナーサックスに、禿頭で水色のスカジャンを羽織ったバリトンサックスの三人が並んだ。"Everyday I Have The Blues"からはじまったので、いい気分になって演奏とともに歌声を出した。リーダーらしいボーカルは、ギターを身体にぴったりとつけるように縦に近い角度で構え、柔らかい手つきで弾きながら、鼻にかかった歌い声を出していた。それまでの二つのバンドに比べればよほど安定した演奏だったが、曲の入りのタイミングや、ソロ回しの意思疎通などが整っておらず、サックスのソロの途中でボーカルが割りこんで歌いだすような場面が見られた。それで、帰りの車のなかでワンマンなんですかと尋ねると、そういうわけではないが、リーダーの彼の気分ですべて回っているようなもんだから、合わせるのが難しいという答えがあった。次のバンドはフロントのギターボーカルが髪に灰色が混じった中年で、いかにもおやじバンドという風情だったが、演奏自体は安定しており、曲調もカントリーめいたものから、架空の戦隊物のテーマ曲を想像的につくったもので五拍子を基調にしたインスト曲や、The Beatlesのカバーなど多彩だった。先ごろ、CDもつくったという話だった。戻ってきた知人と隣りあわせて眺めながら、終わったあとにどこかに飯に行かないかと話していたのだが、相手は翌日朝の五時半から用事がある上に、この場に最後までいなければならないという話だった。それで、帰り送っていってあげるから、ここで飯食べちゃわないと相手が言うのに了承し、ミートソースのスパゲッティをおごってもらった。それを食べながら、最後のバンドを眺めた。知人がいいバンドだと演奏の前に言っていた通り、この日見たなかでは、演奏にしてもMCやパフォーマンスにしてももっともこなれており、場を盛りあげるのに手馴れている感じだった。曲は骨太なロックンロールでブルースもやり、茶髪のフロントが白いレスポールでリズムを刻みながら熱唱し、右手にいるハンチング帽の五一歳が、上体をかがめながら感情的なソロを取った。左手に立ったブルースハープ奏者は卓越した腕前で、酒が入っていい気分になりながら、シャツの裾をズボンからはみださせ、魂を吹きこむかのように顔を真っ赤にして、高速で飛翔するような熱情的なソロを吹いた。ボーカルは彼を指差しながら、今年一番調子に乗っていると叫び、"Honey Bee"というあだ名で紹介した。そのバンドの演奏が終わったのは、一一時ごろだった。挨拶回りをしている知人を待っていると、バンドのリーダーに紹介すると言われたので、席を立った。革のジャンパーを着たギターボーカルは、目の周りにやや化粧を施しているようだった。彼とバリトンサックスの禿頭が並んでいる前で、会釈をし、ボーカルと握手をした。作家になるんだって、と聞かれて、いや多分ならないですけどねと返した。どんな本が好きなのと言われて小説、と返し、どんな作家なのと続いた質問には昔のやつが多いですねと曖昧にぼかし、禿頭の人が芥川龍之介とかと言ったのに合わせて、芥川など実際のところ一冊も読んだことがなかったが、ああそういうやつです、と返した。すると森鴎外とか太宰治とかの名前が挙がって、昔読んだんだけど全然わからなかった、とか、酔っ払ったボーカルとバリトンサックスのあいだで話が盛りあがりはじめたので、知人のほうを向いてそろそろ行きましょうか、と言った。もう一度相手と握手をして別れ、知人がほかの人にも挨拶を終えたあとに、一緒に店を出た。駐車場に停まっている車はベンツだった。右側に位置する助手席に入り、シートベルトをつけて、どのバンドがどうだったというような話をした。ナビソフトをひらいたままのスマートフォンが時折り声をあげた。知人はそれを右手に持ったまま左手でハンドルを操りつつ、道があまりわからないと言っていたが、裏通りを抜けて街道に出たあとはまっすぐ進むだけだった。前にもうしろにもほかの車がほとんどいないなか、街灯が両側を転々と縁取っている道路を走った。知人はここのところ、人生について考えているらしかった。ドラムは一つ、続けていくものとして定まっているとして、制作会社のほうもそれなりにうまくいっているが、ほかに何か熱を持てるものを探しているようだった。こちらの書き物について聞いてきたので、日記のような生活の記録をつけていると言い、ブログに発表していると明かした。読ませてくれと言いかけた相手の先手を打って、誰にも読ませませんよと笑った。もう三年やっていると言うと、自分がうまくなっているのがわかる、と聞いたので、それはもう明らかにわかる、一年前の比べると段違いだと答えた。相手は歌詞を書いてみたいと唐突に言った。それでいまからはじめて、三年やればうまく書けるようになるよね。きっかけがあってはじめれば、あとは毎日やるだけですよ、楽器でも何でもそうですけど。あたりが見知った光景になってきたころ、好きな作家とかいるのと聞かれたので、海外の昔のやつが多いと返した。例えばと続いたのに、ローベルト・ヴァルザーなどと言っても仕方がないしなと考えて、カフカとか、と名前を出すと、村上春樹、と返された。ああ、そうじゃなくて、村上春樹が『海辺のカフカ』ってやつを書いていて、それの元になったフランツ・カフカって人がいるんですよ、あとは『失われた時を求めて』っていうすごく長い小説があるんですけど、そのプルーストって人とか。それはいつくらいの人なのと聞かれたので、両方とも一九二〇年代にはもう死んでますねと答えると、相手は唐突に古着が好きだという話をはじめた。この靴も、と足を持ちあげて指差して、七〇年代くらいのアディダスで、そういうのがあるとお、ってなるのね、三〇年以上時を越えてきたのか、って、でもいま一九二〇年代って聞いて、想像が追いつかないわ、八〇年とかあるもんね、それを越えられるんだもんね。市民会館正面の坂をのぼっているとき、今日のバンドはどうだった、ああいう大人たちを見てどう思った、と相手は尋ねた。少し考えてから、特にどうも、と答えたあと、甚だ曖昧な物言いになったが、まあでも僕としては、もっと音楽そのものに近づこうとしているっていうか、そういう音楽が聞きたいですね、と言った。街道から裏通りに入って木々のあいだの坂道をおりていき、自宅のすぐ近く、小さくて何もない、他人の敷地の駐車場に停まった。星を見ていい、言う相手と一緒に外に出た。首をうしろに傾けると、頭上遥かに満月が照っていたが、空の色はくすんだようで青みがなかったので、昨日か一昨日あたりはすごく明るかったんですけどねと口にした。深夜零時前、冬の冷たい夜気のなかで、また少し話をした。きっと君の書くものは何かしら世に出たり、賞を取ったりするよ、というようなことを言われて、相手の顔を見ながら黙っていると、知人は笑みをこぼして、自分では実感ない、と尋ねた。というか、と考えながら口をひらき、自分ではもう自分のことを作家だと思っているのだと告げた。それは作品をつくっているとか、本を出版しているとか、誰かに読まれているとかそういうことではない、自分の言う作家であるということは、書きつづけているということで、もし作家という言葉が違うならば、ただ書く人間と言ってもいいが、自分はもうそういう人間になってしまったし、これからもそのままだろうと確信を述べた。最後に握手をして互いに礼を言うと、数歩下がって車が発進するのを待った。低い排気音を響かせながら去っていく車に向けて、道路に出ながら手をあげた。車中の黒い影の右手が一度あがったあと、左手が窓の外に突きだされて斜めに伸びた。それに向けてまた手をあげてから、自宅に歩いていき、なかに入った。(……)
実に懐かしい。HMさんも、もしこれを読んでくれれば、ああこんなことがあったなあと懐かしく思い返されるのではないだろうか。それにしても、自分はもう既に作家であるなどと、たかだか日記を毎日書いているだけの分際に過ぎないくせに、それもまだ三年も続けていなかったくせに、随分と偉そうなことを言っているものだ。ところでこれも歩いているあいだに話したことだが、HMさんはこの時加わっていたブルースのバンドは今はもう辞めたのだった。やっていても正直あまり面白くなかったのだと言うが、その際に、まあそれは俺の手数とかの問題なんだけど、と他人のせいにしないのが彼の謙虚なところである。しかし多分、上の記事にも記されているように、わりとギターボーカルの人が主役となってその人の気分で演奏を決めるようなバンドだったから、あまり掛け合いとかがなく、ずっと同じようなパターンを刻んでいなければならないのが退屈だった、というようなことなのではないか。HMさんは今日も朝の七時半からスタジオに入って練習していたと言った。八月中にドラムマガジンの演奏課題を仕上げて送ろうと思っていたのだが、それには間に合わなかった、しかし来月か再来月あたりで動画をyoutubeに上げて勝負を掛けるつもりだと言う。それで、ドラムマガジンの課題曲に合わせて他人が演奏している動画というものを、スマートフォンで見せてもらった。茶髪の綺麗な女性が細腕で演じており、曲は日本語のヒップホップで、女性ドラマーはジョン・ボーナムばりに細かいキックの連打などを披露していた。
――俺、彼女が久しぶりに出来たのよ。二九歳で、Fくんと同級生。――あ、そうなんですか。結構離れてますね。――そうそう。でも、まあFくんが比べてどうとか言うわけじゃないけど、人生経験が豊富だから、多分三四、五くらいには見えると思うのね。で、俺が今四五だけど多少若く見られるでしょ、だからそんなに歳の差は感じられないと思う。――どうやって知り合ったんですか? ――渋谷に「H」っていう居酒屋があるんだけど、そこで――多分仕事相手と言っていたと思うが――知り合いと飲んでいたら、近くにいたわけ。俺は「人の話に入るプロ」って呼んでいるんだけど、話がとにかく上手いのよ。一八から居酒屋で働いていて、色んな人と喋ってきてるから。今はアパレル店に勤めていて、月に一回くらい中国に行ってる。で、喋ってたら話に入ってきたわけ、それ知ってます、みたいな感じで。俺はさあ……そういう風にぐいぐい来る女は好きじゃなかったの。だから、知り合いが一緒に飲もうよって言ってそういう感じになったんだけど、その時は何とも思わなかったのね。ただ宮古島が大好きだって言って、俺も宮古島が大好きなのよ、だからそこだけは一致してるなって思ってたんだけど、その二日後にまた同じ店で飲んでた時に、来てみたら、って呼んで。それで話してみたら趣味とか価値観が合うのよ。ものの考え方が似てる。
僕は相変わらずの女日照りですよ、とこちらは笑う。この四年くらい――つまりHMさんと前回会ったあとの期間――はどうだったのかと問われるので、何もないですよと払い、何しろまだ純潔を保っていますからねとふたたび笑った。――性欲が……去年一年間、鬱病みたいになっちゃって。それで今も抗鬱薬を飲んでるんですけど、そうすると性欲が低下するんですよ。――鬱病ってどんな感じ? ――うーん……本も読めなかったし、書き物は当然出来なかった。だから家事をやって、寝て、みたいな感じですよね。なるべく毎日飯を作るようにはしてましたけど。――それは、自分でもわかっているんだけど、どうにもならないっていう……辛いね。……ある日、ひらける日が来るもの? ――……僕の場合は、日記をまた書きはじめたのが大きかったかもしれないですね。図書館で、西村賢太っていう芥川賞作家の日記を見たんですよ。――あの風俗が大好きな。――そうそう。で、それは僕のとは全然違って、一日が短いんですよね。簡素で、いかにも日記らしい日記で。このくらいでもいいんじゃないかなって思ったんですよね。それでまた始めてみたら、最初のうちはやっぱり少しだけだったんですけど、段々書けるようになって。まあそれで持ち直したってところはあるかもしれないですね。
HMさんの会社にも一人、鬱病ではないかもしれないが、精神疾患めいた人がいるのだと言った。その人はある日突然勤務に来なくなり、心配して連絡しても繋がらない。どうも家に帰っていなかったらしい。何とか捕まえてどうしたのかと訊いても、自分でもわからないと言う。電車に乗っている最中に、「シャットダウンしてしまって」――と話しながらHMさんは、顔の前にひらいた両手を掲げて下ろすような仕草をした――、夢遊病のような状態になった。それで街を彷徨い、へとへとに疲れ切って何とか帰ってきたのだと言う。その人は仕事が出来なくなってしまったので休みを取り、今アルバイトから復帰しはじめているところだとのことだった。
――そもそも、僕らが会った時――もう九年も前のことだ――、ラジオの仕事をしてらっしゃったじゃないですか。放送作家のような? ――どちらかと言えばディレクターだね。――今もそれは変わらないんですか? ――AbemaTVって知ってるでしょ、そこの番組を五、六個作ったりしてるね。番組構成みたいな感じ。名前は(……)というのだと言って、HMさんはスマートフォンでホームページを見せてくれた。――NICO Touches the Wallsっているでしょ、あれの曲にあってさ、ボーカルにつけてもらった。――懐かしいですね。やりましたよね。――やったっけ? ――"葵"でしたっけ、何かしっとりしてるやつやりましたよ。会社自体は二〇〇九年だかに立ち上げて――ということは、我々が出会う前ではないか?――小規模ではあるが着実に大きくなっていき、今はバイトを入れて六人ほどの体制でやっていると言う。
HMさんとやっていたバンドはカバーを練習する感じで、いずれライブをやりたいと勿論言っていたのだったが、そこまでは至らずに終わってしまった。メンバーはこちらとHMさん、HGのほかにMRさんという、当時二五かそのくらいだったと思うけれど、群馬だったか栃木だったかから出てきていた人がいて、彼はちょっと変わり者と言うか、Guns N' Rosesに憧れて河原で一人歌を練習していたら、近所の人々から頭が狂ったのではないかと思われたというエピソードの持ち主で、スタジオ練習の時には毎度バナナを買ってきて食っていたのをよく覚えている。そのMRさんは志半ばにして地元に帰ってしまい、HMさんももう連絡はつかないのだけれど、数年前に彼の本名で検索してみたところ、何か公民館だか音楽教室だか、そんな風なところで親父連中に混ざってギターを弾き語りしている彼の映像が出てきたと言うので、元気にやってはいるらしい。当時バンドでやっていたのはOasisとか、Red Hot Chili Peppersとかだ。――"Can't Stop"とか聞くとさあ、今でもちょっと、俺たちの曲だって思うね。――あと、"By The Way"とか。――ああ、"By The Way"ね。やったなあ。――最近は何を聞いているんですか? ――まあ日によって変わるんだけど……昨日はそれこそ、Oasisやっぱすげえな、ってなったり。あとはフレンチレゲエだね。ニューヨークに行ってた際に――HMさんは、この夏、確か七月中と言っていたと思うが、一七日間の長期休暇を取ってニューヨークに滞在していた――何とかいう知り合いのDJがいるのだが、その人がミックスした音源を車のなかで聞いていたところで、そのフレンチレゲエの曲が突然身に迫ってきたのだと言う。――何かその一曲だけある時急に来る、ってことあるじゃん。――ありますね。レゲエで言ったら、僕は今年に入ってからはFISHMANSを聞いてますよ。――ああ、FISHMANS。いいよね。――『Oh! Mountain』っていうライブ盤があって、それが良くて五月くらいから毎日一日の初めに流すっていう。だからもう一五〇回くらいは流してますね。――『Oh! Mountain』ね。メモしておくわ。そう言ってHMさんはスマートフォンで検索していた。
先ほど書いたように、HMさんは七月――と言っていたと思うのだが――にニューヨークに滞在していた。その生活のなかで撮った写真なども見せてもらった。ゲストハウスに泊まり、タイムズスクエアの近くにあるスタジオで朝からドラムを練習し、セントラルパークを走る、というような生活をしていたらしい。ほかにはライブハウスやクラブの類に足を運んで昼間から酒を飲みながら音楽を観ていたり、船上パーティーに誘われて繰り出したりと、大変充実した時間を送っていたようだ。――そのパーティーでさ、凄い場面を見ちゃって。そういうところだから、普通にマリファナが回ってくるのよ。あ、俺はいいですって言って。それはいいんだけど、近くにいた若い男の子がさ、こうやって手にマリファナを乗せて、一気にこうやって鼻で吸うみたいな。あんなの映画でしか見たことがないよ、とHMさんは笑った。sniffというやつだろう。Oasisの"Supersonic"にもその単語が歌詞として出てきていたはずだ。
HMさんの会社には一人、二四歳と言っていたと思うが若い女性がいて、その人がこちらに合うのではないかと思っていたのだと言う。非常に真面目な女性で、それを物語るエピソードが一つあるとHMさんは話した。番組制作の現場で仕事をしている際、HMさんが離れたところにいて様子を確認したり指示を出したり出来ない場面があった。そこで、知り合いのPAの人に彼女を任せることにした。HMさんは彼女に、君の今日の仕事の一つは、演者の人が捌けてきた時に水を渡すことだからね、と言い含めておき、HMさんは別の場所で仕事をしていたのだが、PAの人から聞いた話によると、演者が今は絶対に捌けてこないというタイミングで、ちょっと運んでほしいものがあるからこっちに来てと言われても、彼女は、いえ、HMさんから言われているので、持ち場を離れられませんと自分の仕事を固く守っていたのだと言う。――忠犬ハチ公かよ、みたいな、とHMさんは笑った。――それでその子が、Fくんに合うんじゃないかと思って、会わせたかったんだけど、沖縄出身で、もうすぐ沖縄に帰っちゃうのね。だからFくんのことを話しても、それだと失礼なので会えませんって言ってさ、またそこに真面目な性格が出てると思うんだけど、とのことだった。
こちらの日記周りの話もした。二〇一五年末に会った際に、こちらのブログのURLを教えていたのだが、二〇一五年というとまだ前のブログにいた頃だから、その後こちらがURLを変えてしまってHMさんは閲覧できなくなってしまったのだろう、もう一度教えてくれと言うので、「雨のよく降るこの星で」と検索すれば出てくると言い、その場でブックマークに登録してもらった。――これは小沢健二の曲から取ったんですよ。――あ、そうなの。素敵だね。――"天気読み"っていう曲のなかに、「雨のよく降るこの星では」って歌詞があって。そこからパクりました。――いいところから取るね。……もう何年書いてる? ――始めたのが二〇一三年の一月なんで六年半くらい、まあ去年は一年間休んでいたので、実質五年半ですか。――いや、凄いな……今日は面倒臭いなっていう日はない? ――いや、勿論ありますよ。――でも書くわけだ。――そうですね。――でも、何もない日があるわけじゃない? ――いや……何もない日ってのは、ないですよ。――うわ、それはちょっと、一つのキーワードかもね。何もない日がない、という。――書くことがまったくない日ってのはないですよ。何かのささやかな……出来事って言うんですか、それは必ずありますね。――まったく同じ一日ってないもんなあ。
HMさんは現状やはりなかなか忙しいらしく、ドラムの練習時間も朝からになってしまうような様子で、そうするとどうしても、どうでも良い類の人と付き合わなければならないのが時間が勿体ないと思ってしまう、と言うので、こちらはむしろその逆で、最近はやたら色々な人々と交流していると話した。こちらも数年前はもっと尖っていたと言うか、とにかく毎日書く、そして毎日読めるだけのものを読む、そのほかのことはまるでどうでも良い、という感じで、自分の本意でないことに時間を使うのが本当に勿体ないと思っていたし、例えば職場の飲み会などは無論、完全に時間の無駄だと考えていた。ところがそれに比して、最近の、Twitterなどを介した社交ぶりである。ほかにも職場周りでは、自ら後輩を誘って飯に行ったりするようにもなった。自分も随分丸くなったものだ。Twitter周りの方はともかくとしても、職場の後輩との交流など、ではそれが何か有益な時間か、こちらにとって凄く楽しい時間かと言うと、特段にそういうわけでもないのだが、もはや有益/無駄という価値観の軸でもって自分は時間というものを測っていないような気がする。加えて、以前と比べると他人と時間を共にすることを格段に好むようになった。それなので最近も積極的にLINE上でT田やTにメッセージを送ったり、Skypeの通話に参加したり、Twitterで話し相手を募集したりしてみているわけだが、他者というものはやはり何だかんだ言って面白いのだ。ジェイムズ・ジョイスが、「私にとって面白くない人間というものはいない」みたいなことを言って、教養のない人々との付き合いを止めなかったということを、以前Mさんのブログで読んでこちらは知ったのだが、端的に言ってこちらもそういう風になりたい。ここでMさんのブログを検索して件の記述を発見したので――佐々木中の講演録か何かからの引用だった――以下に写しておく。
佐々木 ブランショでもフーコーでもベケットでもドゥルーズでも、もう誰もが言っていることですが……ということは、まさに誰が語っていてもいいことですが――書くということは、名を失い、顔を失い、来歴を失い、誰でもない誰かになる、ということだと思う。キルケゴールは、「信仰の騎士」について、ありふれていて、どこにでもいる小市民と何も変わらない、と言っている。そういう誰かになろうと試みること。それが書くということです。とくに小説を書くということはそうなのではないか。ジョイスはウェイターや果物屋など、無名である人びとと付き合うのをやめなかった。時間の浪費だと忠告する者には、「私は一度も退屈な人間に会ったことがない」と答えたそうです。伝記作家リチャード・エルマンは、「他の作家がそう言えば、ただ感傷的に聞こえるだけだろう」と語る。なぜなら、「平凡とはどういうことか、ジョイスが書いて初めて人はそれを知った」からだと。ヘンリー・ジェームズは、「小説家とは、彼にとっては何も無駄にならない誰かのことである」と言っています。これはビュトールが引用していますね。小説にはそういう力がある。誰でもない誰かになろうとし、誰でもない誰かになる者、なおかつ誰でもない誰かをも、何でもない何かをも、それらすべてを決して無駄にはしない者。
(佐々木中『この熾烈なる無力を』より「小説を書くことは、誰でもない誰かになる冒険だ」)
「私は一度も退屈な人間に会ったことがない」。幾分気取りが含まれているようにも感じられるが、しかし素晴らしいではないか。「平凡とはどういうことか、ジョイスが書いて初めて人はそれを知った」というのは的確な評言だ。『ダブリナーズ』、あれほど「平凡」な、地味な小説もそうそうないのではないか? ヘンリー・ジェイムズの「小説家とは、彼にとっては何も無駄にならない誰かのことである」も素晴らしい。端的に言って、こちらはこの境地を目指している。つまり、先日の日記にも書いたことだが、すべてが書く対象になるということだ。そのような彼にとっては、「有益/無駄」の二項対立は破壊され、この世界にその対概念は存在しなくなる。
そういうわけでこちらは勿体ないの亡霊から解放され、時間的検閲の魔が相当に緩くなったのだが、それで最近は色々な人々と交流していると言うと、HMさんはそれの繰り返しなのかもしれないね、と言った。――つまり、人と付き合って、でもそうするとやっぱり自分の時間が欲しくなって、でもまた今度は人と交流したくなって、っていう。それはそうかもしれない。しかし、HMさんはまた、多様な付き合いを持つ人の方が「艶っぽさ」がその身、立ち居振る舞いから滲み出るものだ、というようなことを言った。――ドラムなんてのはさ、かなりオタク趣味じゃん、だからめっちゃ一人で練習して、打ち込んで、凄く上手くなった人ってのがいるんだけど、でも技術的に上手い人よりも、それよりも技術的にはちょっと劣っているけど、何だか魅力的な人ってのがいるもんなんだよね。「艶っぽさ」があるっていうか。――人生経験とかがその人自身から香り立つみたいなことですよね。――そうそう。――それで言ったら、文学だってそうですよ。相当なオタク趣味ですからね。で、やっぱり、まあ……こう言うとあれですけど、文学好きっていわゆる文学青年みたいな、まあ何だかぱっとしないような感じの人が多いんじゃないですかやっぱり。しかし、これは短絡的な、曖昧に矮小化されたイメージだろうか? ともかく、何でも広い方が良いのだ、色々な物事に触れ、それらを最大限取り込んだ方が良いのだとこちらは単純な主張を掲げ、これもずっと昔に――と言うのはおそらく、「きのう生まれたわけじゃない」の時代のことだが――Mさんのブログで読んで知ったものだが、ゲーテ御大の例の必殺の言葉、「深く掘るためには広く掘らなければならない」を紹介しようとしたところで、HMさんの携帯に着信が掛かってきた。やりとりを聞いている限り、クレジットカードの会社のようだった。何かの代金の引き落としが出来なかった、という連絡だったようで、確かニューヨークに向かう空港でと言っていたような気がするが、HMさんはカードを一度紛失したのだった。と思っていたところがそのカードは別の財布のなかに発見されたらしいのだが、その時の手続き関連で多分何やらあったのだろうと思う。そういうわけでこちらはゲーテ御大の言葉を紹介する機会を逸してしまった。
何かの拍子にテレビ番組の話にもなった。結局、芸能人を見るよりも、普通の人をそのまま映すのが面白いんですよ、とこちらは主張した。つまり、バラエティなどよりもドキュメンタリーの方が面白いということで、例として、以前から折に触れてこの日記内で言及していると思うが、NHKの『ドキュメント72時間』を挙げた。ああ、あの定点の、とHMさんは受ける。そう、七二時間のあいだ同じ場所を定点観測して、そこに来た様々な人々に自分の人生の物語を少々語ってもらうという番組だ。色々な人間模様、人生の様相が断片的に――と言うのが重要な点だと思われるのだが――語られるのがなかなか面白くて、映る人々もテレビドラマなどのわざとらしく作られたような顔貌に比べて遥かに良い顔をしているような気がして、なかなか良い番組だと思う。――芸人が雛壇に集まって喋ってるのよりも、そういう方が面白いって僕は思っちゃうんですよね。――それはそうかもしれない、とHMさんは受け、自分はテレビ業界の人間ではあるのだけれど、『アメトーク!』が放送開始当初から好きではないと言った。面白さがわからないのだと言う。――あれって結局、知識や経験をコンパクトな話にまとめて披露しているだけじゃん、とHMさんは言うのだが、こちらは『アメトーク!』を見たことがないので判断は出来ない。――でもあれが評価されてるんだよね、どうしてそういう風になるのかな。こちらはここで、Mさんがよくブログのなかで言及している『さんまのお笑い向上委員会』のことを思い出し、これもこちらはほとんど見たことがないのでわからないが、この番組は、Mさんの記述によると、編集をあまり入れず即興感のようなものを大事にしているプログラムだったはずなので、そこには敢えて整理されないライブ感の面白さのようなものがあるのではないかと思ったが、記憶が不確かだったのでそれには言及せず、――やっぱりわかりやすさが必要なんですよ、広く受け入れられるためには。わかりやすさっていうのは要するに「型」なんですよね。皆その「型」の繰り返しを求める。つまり、既に知っていることの反復を求めるわけです。だけど僕はそうではなくて、やっぱり本を読んでいて面白いのって、それまで知らなかったことに触れるとか、こういう考えがあるんだとかってそういうところじゃないですか。だから、違うものに触れていく。違うものを自分のなかに取り入れることで人は成長するはずなんで、僕はそっちの方が大事じゃないかと思うんですけどね。
この言自体も、この日記内で頻出するテーマ、差異を取り込むことで生成変化するということを繰り返しているに過ぎないものであり、そもそもそれまでとは違うものに触れたと思った際に、その「違う」と思っている事柄が本当に「違う」ものなのか、実際に違うとしてどれだけ違っているのか、そもそも人は完全に「違う」ものに触れてそれを受け入れることなど出来るのかというような疑問もあるのだが、それは一旦措いておこう。HMさんは、それはその通りだと思う、いや、俺はうまく言葉が出てこないけど、でもそれは本当にそうだなと思うねと受けた。その流れではなかったはずだが、彼に向かって、今度インタビューをさせてほしいと頼んだ時があった。――岸政彦っていう社会学者の人がいるんですけど、その人は「聞き書き」っていうことをやってるんですね。つまり、ある人にインタビューをして、数時間、その人の人生について喋ってもらって、それをそのまま本に載せる、っていう。――それは面白いね。――面白いですよね。だから僕もそれをやりたいと思っていて。インタビューを録音して、それをそのまま書き起こしてまったく編集せずにブログに載せるっていう。全然いいよ、是非やろう、との返答だった。ありがたいことである。しかしこれを実行するためには、ICレコーダーの類を購入しなければならない。
人の話を聞くって面白いよね、とHMさんは言った。――俺も昨日、ちょうど親父と飯食ったんだけど、話がやっぱり面白くて、興味深いのね。HM家のルーツがどこにあるかって聞いたりしてさ。石川県から、今だったら新幹線で一時間半のところを、電車と船を乗り継いで六時間掛けて来たとか。HMさんの父君は今七五歳で、「全然悲しい話ではないんだけれど」、前立腺癌を患っているとのことだった。その治療のために、月に二一回も病院に通わなければならないと言う。大変なことだ。
覚えている会話の内容は大体そんなところである。あとは最初、席に座った途端に姿勢が良いねと言われたのだが、姿勢が良いってよく言われるんですよ、とこちらは笑って受けた。二時から演奏が始まる予定だったので、どうせだから観て行こうということになっていた。この日の演者は早坂紗知(ss, as)、RIO(bs)、永田利樹(b)、その三者にプラスして田中信正(p)だった。あとで聞いたところによると、リーダーらしきサックスの早坂氏と永田氏は夫婦、その息子がバリトンサックスのRIO氏で、家族でTReSというグループを組んでいるとのことだった。そこにピアノがゲストとして加わった形らしい。曲目は全五曲、冒頭が永田氏オリジナルの、題名がよく聞き取れなかったのだが、"パタゴの伝説"、みたいな感じで聞こえた。それでパタゴニア? と思ったのだが、多分こちらの聞き違いだろう。二曲目は"Seventh Heaven"、これは早坂氏のオリジナルで、家の猫が亡くなった時に作った曲だと言う。三、四曲目はスタンダード、とは言っても演目は、Dollar Brand――現在ではAbdullah Ibrahimという名前になっている――の"Water From An Ancient Well"と、Thelonious Monkの"In Walked Bud"だったので、あまりよく知られた、いわゆるスタンダードという感じの曲でもなく、わりと通好みな感じの選曲になっていたのではないか。Dollar Brandは南アフリカ出身のピアニストで、今来日しているところらしい。こちらの手もとには『African Piano』と、Abdullah Ibrahim名義の『Senzo』が音楽プレイヤーのライブラリに入っているけれど、それで偶然知っていただけで、ジャズファンのあいだでもそこまで有名な名前とは思えない。しかし三曲目の彼の曲は、非常に牧歌的な色合いの濃い佳曲だった。"In Walked Bud"が演奏されはじめた時は、こちらは溜まった尿意に耐えかねて演者の横を通ってトイレに行っていた時だったのだが、演奏が始まってすぐにMonkの曲だなと判別はついたものの、曲名までは同定出来なかった。Monkの曲はメロディの作り方が独特でわかりやすいのだが、反面、いやこれはこちらの聞き込みが足りないだけなのだろうけれど、どの曲も似通った風に聞こえてしまい、この旋律はこの名前、と区別して覚えづらいのだった。じょぼじょぼと便器に向かって放尿しながらMonkのメロディを聞き、手を洗って出てくると演奏中の演者の横を通るのに気が引けたので席には戻らず、入口付近の階段の途中で立ち止まって、壁に寄り掛かりながら演奏を聞いた。そうして席に戻って五曲目はRIO氏のオリジナル、"羅列と衝動"と言っていたと思うのだが、この曲が一番難しく、譜割りがどのようになっているのか最後まで判別出来なかった。二〇小節でひとまとまりになっているような気はしたのだが、定かではない。全体としては結構熱の入ったジャズで、早坂氏は当然だけれどJohn Coltraneなんかも消化しているのだなという感じで激しくうねる飛翔を見せたり、時には、フリーとまでは行かないけれど、Eric Dolphyばりのフリーキーな高音を発したりもしていた。RIO氏は、Gerry Mulliganと言うよりは、Pepper Adams方面と言うか、速いフレーズや嘶きめいた長音の叫びも織り混ぜて豪放に吹く、という感じ。過去のジャズプレイヤーの名前を引き合いに出してしか語れなくて申し訳ないのだが、ピアノはMcCoy Tynerを何となく連想させるような気がした。しかしこれはあまり定かな印象ではない。チャージ料僅か一〇〇〇円でこれだけのものが観られれば充分満足だな、という質だった。
ところで、演奏のあいだに若い女性が一人、階段を上がって我々のいる中二階に踏み入って来た。我々のいた席から一つ小さな丸テーブルを挟んで隣のフロアの隅には、中年の夫婦と思しき男女が座っていたのだったが、夫婦の娘らしき彼女はその席に合流した。この女性が、鼻筋が高くすっと通っており、やたら綺麗な顔立ちだった。偉そうな言い分になってしまうが、こちらがわざわざ日記に取り上げて書くほどに美しい顔貌を持っている人間というのは珍しい。
後半のセットは観ず、今日吉祥寺は祭りをやっており、近くの神社に出店も出ているのでそこに行こうということになった。それで席を立ち、会計に行ったのだが、こちらは財布を出していたものの、HMさんが先に外に出ていてと言って会計を受け持ってしまったので、その言葉に従って退店し、狭く急な階段を上って店の入口で待った。しばらくして上ってきたHMさんに、まったく払わないのは申し訳ないので、チャージ料と飲み物代くらいはと言って二〇〇〇円を渡した。それで道を歩き出した。道中、HMさんに途中で我々の横の席にやって来た女性を見たかと訊くと、彼も目に留めていた。――めっちゃ可愛くなかったですか(とこちらは軽薄ぶる)。――凄く綺麗だったね。――娘さんみたいでしたね。――俺のなかでは、途中から、サックスのあの若い子の彼女だって設定が出来てたよ。何歳くらいだったかな? ――二十……。――二〇代? 三〇代じゃないか。――多分僕より若いんじゃないですか。――でも土曜なのにあとから来たから、昨日の金曜の仕事が終わってなくて、午前中にそれをやってから来たとかね。――めっちゃ想像しますね。
いくらも歩かずに、武蔵野八幡宮に着いた。それほど広くはない参道の両側に屋台店がずらりと狭苦しく並んでおり、そのあいだを人波が埋め尽くしていた。どうせだからお参りして行こうよ、と誘われて、本殿の方に向かった。並んでいる人々の後ろに着くとHMさんは、会社の近くにも小さな神社があって、そこにほとんど毎日参っているのだと言った。何を拝むんですかと訊くと、まずはありがとうということだよね、それから今日一日、仕事を恙無く終えられますようにってことと、あとはその時思いつく限りの人たち全員の健康かな、とのことだった。座禅なんかも通ってみたいと言うので、こちらは座禅ではないが、瞑想を長くやっていましたよと話した。――どれくらいやるの。――一回一〇分から二〇分くらいですかね。朝起きたあとと、夜眠る前と、あと日中に一回くらい。……変性意識って言うんですけどね、瞑想をしていると、ちょっと違う意識の状態に入れる……入れた、わけです。ただ、病気になって以来それに入れなくなって、やめちゃったんですけど。――どんな感じなの、そのあいだは? ――繭に包まれているような心地良い感じですね。だから多分、アルファ波だか何だか知りませんけど、そういう脳波が出てたんじゃないですか。――それを出せるようになったわけだ。――前は出来ましたけどね。今はもう出来ないです。
我々の前に立っていた女性も青年も、随分と長く、しっかりと祈っていた。ここにも、見えないけれどそれぞれの物語が秘められているわけだ。それで番が来て、HMさんはこちらに先を譲ってくれたので、階段を上って踏み出し、財布から取り出しておいた五円玉を賽銭箱に入れ、作法など良くも知らないが二礼二拍手一礼で良いのだろうと適当にやった。拍手は弱々しい音になった。手を合わせて拝んでいるあいだは、金と時間と才能をくれと三回ぞんざいに心のなかで唱え、そうしてその場を退去した。
人間たちでごった返している参道の、熱の籠った空気のなかを引き返しながら、HMさんに何か食べますかと訊いたが、もう腹はいっぱいだとのことだった。こちらも同様だったので折角来たけれど何も買わずに神社の外に出て、特に目的地も決めないでぶらぶらと歩き出した。道中、HMさんは中学時代の同級生だという人のことを話した。その人も本の虫らしく、三〇歳くらいで仕事を辞めてそれから一五年ほど、たまにアルバイトをするくらいでずっと本を読み続けていると言う。父親が結構な資産を持っている人か何からしく、マンションを買ってもらって家はあると言うが、金には困っているようで、今日の午前にHMさんが会った人が彼だったのだが、金の無心をされたと言う。以前にも一度金を貸してくれと頼まれたことはあって、その時にHMさんは、本も良いけれど、まだ身体も元気で体力もあるんだから、警備員の仕事でも何でも働けるだろうと説諭したと言うが、その彼自身はどこ吹く風といった様子なのだと言う。その人が、最近、異世界転生物というジャンルが流行っているけれど、そのルーツを発見したと自分で言っていると言う。それが何と近松門左衛門だと言うので、こちらはマジですか、と笑い、近松門左衛門はなかなか読まないですよと受けて、どうも相当なコアな読書の趣味の持ち主らしいなと推し量った。
そんな話をしているうちに、古本屋に行ってみようかということになった。「よみた屋」という、HMさんの好きな店があると言う。こちらは勿論二つ返事で了承し、HMさんについて歩いていくあいだ、駅付近に来てガード下に掛かったあたりだったと思うが、こうやって歩いているあいだのことを書くのが難しいんですよね、と漏らした。――それも書く対象なわけだ。――そうです。――あれなの、その日にあったこと全部を書くの? ――なるべくすべてですね。――どういう言葉を使うのかな、例えばさあ、今日久しぶりに行った「SOMETIME」は変わっていた、みたいなことを書く時に……比喩っていうか……。――うーん。なかなか上手い比喩なんて思いつかないですけどね。ただ、やっぱり具体性ですよね。物事の質感とか様相とかを、具体的に書く。……あとは、あまり紋切型にならないようには気をつけるかもしれないですね。それで言うと今の例、久しぶりに行った「SOMETIME」は変わっていた、というのはもうそれ自体で紋切型なんですよ。――そうなんだ。――ところが、久しぶりに行った「SOMETIME」は全然変わっていなかった、と、これも紋切型なんですよ。――そのあたりに来るとこっちにはもうわからない話だなあ。――よく長いあいだ会っていなかった人に久しぶりに再開した時に、変わったな、とか変わってないなとか言うじゃないですか。でも結局あれって、どちらでも同じことで、ああいう言葉っていうのは結局、我々のあいだに長い時間が流れてしまいましたねっていう感情を共有するためのものなんですよね。だからどちらを言ってもその言葉の機能としては同じだって言うか。
――と、そのようなことを話しながら「よみた屋」に向かったのだが、この最後の変わった/変わらない発言の問題に関しては、高校の同級生であるWの結婚式で会った際に、HGから言われて上記のようなことを思ったのだった。折角なので、今その日の日記を検索して、当該部分をここに引いておこう。二〇一六年の七月三〇日のことである。小池百合子が当選した都知事選の前日の、暑い一日で、熱射のなかを黒い礼服の上着まで着込んで東京駅に出向いたのだった。その夜の帰り道のことである。「駅まで行く道中でカフェ店員が、先ほどの純情じみた女子の前を行く背を示しながら、皆変わっただろ、とか訊いてくるのに、そうか、と疑問符付きの留保を返した。以前にも記した通り、こうした場における変わった変わらないの言葉は、一次的な意味合いにおいては非常に粗雑で人間の複雑さを矮小化するものなのだが、この発語の眼目はそこにはない――そのどちらが口にされるにせよこれらの語の事実上の機能は、過去とのあいだにひらいた時の積み重なりに対する曖昧な感傷の共有を図るというもので、その点においては両者の差はなく、そうした大雑把な感情の共有には自分は端的に興味がない」と冷淡にその日のこちらは書き記している。
そうして「よみた屋」に到着した。吉祥寺駅南口からちょっと東に行ったところの位置だった。店の前に出ている一〇〇円の棚を見ると、筑摩書房の世界文學大系のカフカの巻、それにセルバンテスの巻が、『ドン・キホーテ』を前後篇に分けて二つ置かれていた。ちなみにクローデルとヴァレリーの巻もあったのだが、それは措いておくとして、カフカは『城』など、やはり手もとに持っておきたいものだった。つい先般亡くなった池内紀の訳が白水Uブックスで簡便に手に入るのだが、彼の訳はやはり毀誉褒貶が激しいと言うか、平易ではあるのだろうけれど、結構省略などが多いような印象があるので、昔の翻訳も読んでみたいところだったのだ。『ドン・キホーテ』にも興味はあるが、水声社の新訳だと前後篇で多分一五〇〇〇円かそのくらいはするだろうし、岩波文庫の方は全六巻だったはずだ。如何せん古いものなので訳の出来はわからないが、それが二冊で、僅か二〇〇円で読めるというのは素晴らしいではないかというわけで、この三巻を早速買うことにして、手に抱えて入店すると、こちらの姿を見たHMさんは、入る前で既に、と言って笑った。「よみた屋」はなかなか良い品揃えの店だった。ただ、価格帯は水中書店やささま書店に比べると幾分高いかという感じで、興味深い本はいくらもあったが、手もとの籠に入れるには躊躇うものが多かった。それでもその後、哲学思想あたりの店を中心に回って、J. ヒリス・ミラー/伊藤誓・大島由紀夫訳『読むことの倫理』、エドワード・W. サイード/山形和美訳『世界・テキスト・批評家』を籠に加えた。前者は一一〇〇円、ポール・ド・マンなどとともに活躍したいわゆる脱構築批評の旗手で、興味のある名前だった。サイードに関しては説明の必要はないと思うが、こちらはパレスチナ問題を中心に彼の言説に興味があるのでその著作は結構集めている。『世界・テキスト・批評家』も前々からちょっと欲しかったもので、普通に新刊書店で買うと確か六〇〇〇円くらいするはずのものが、三分の一の一九〇〇円で買えるということなので購入に踏み切った。ちなみにこの二冊はどちらも、法政大学出版局叢書ウニベルシタスの著作である。ほか、『現代詩手帖 一九八五年一二月臨時増刊 ロラン・バルト』も買うことにしたが、これは見かけた時点で、確か以前に水中書店かどこかで買ったのではなかったかという気がしていた。それでも目次をめくってみるとあまり見覚えがなかったので一応購入しておくことにしたのだったが、帰ってきてから蔵書を調べてみるとやはり同じものが水中書店の袋のなかにあった。目次に並べられた論考やその筆者の名前に見覚えがなかったのは、袋のなかに入れっぱなしにしておいてめくることがなかったからだろう。そういうわけで二重に買ってしまったわけだが、まあ五〇〇円なので大した損害ではない。誰かにあげれば良いだろう。二一日にHIさんとKJさんと読書会を行うので、その時にでも持っていけば良いかと考えている。
それでそれからナチス関連の歴史書の棚を見ていると、HMさんがやって来て、そろそろ行かないといけないと言った。彼は渋谷に戻って、土曜日にもかかわらず仕事をする予定だったのだ。それで了承し、まだ見ていくかと言われたが、いや、これ以上いても増えるだけなのでと笑って会計に向かった。まだ文芸の区画など見ていなかったのだが、そこを見ていれば確実にもう何冊かは足すことになって、金も飛び荷物も増えて重くなっていただろうから、見分を断ち切ってくれたHMさんに感謝するべきだろう。それで六冊で三八〇〇円を支払い、店をあとにした。HMさんは二重のビニール袋に入れられた戦利品を見て、こんなに買ってる人初めて見た、と笑い、いや、でも深いところにタッチしているなあとまるで羨ましがるような調子で言った。
それで吉祥寺駅南口に戻り、駅舎に入って、中央線の改札の前で別れた。日記、普通に楽しみにしてるよと言われたので、何しろ長いので、断片的に読んでくれれば充分だと思っておりますよと返し、向かい合って握手をしたあと、次はTony's PizzaだねとHMさんは言った。吉祥寺にその名を冠したピザの美味い店があるのでいずれ行こうという話になっていたのだ。「よみた屋」の向かいあたりにあるということだった。あと何だっけ……とHMさんが漏らすので、何かありましたっけ……とこちらも考えてちょっと間が挟まったあと、ああ、インタビューね、とHMさんが思い出し、是非やろうよということになったので、ありがとうございますと礼を言った。それで別れ、こちらは中央線の改札に入り、ホームに出て端の方まで移動すると、やって来た電車に乗り込んだ。扉際を取ることが出来た。そこでTに、用事が終わったのだが今から行っていいかとメールを送った。今日は元々、「G」のメンバーでT宅に集まってギターのアレンジなどを固めるという予定だったのだが、こちらは行っても大してやることがないだろうからとHMさんとの会合を優先しており、それに今から合流しようというのだった。このあたりも、以前の自分だったらさっさと帰って日記を書く時間を確保しなければという思いに駆られて、あとから別の用事にわざわざ合流するなどということは決してなかったと思うのだが、今は自分一人の孤独な時間ではなく、他人と共有する時間の方に重きを置くようになっているのだった。それで携帯を取り出し、かちかちとこの日のことをメモしながら電車に揺られ、国分寺で青梅行きに乗り換えた。そうして立川を過ぎたあたりだったかと思うが、Tからの返信がなかったので電話を掛けてみると、まだ集まってやっているよとのことだったので、じゃあ行くわ、と告げた。それで拝島までまた携帯を操作しながら待ち、降りるとホームを辿って階段を上り、改札を抜けて西武線へ向かう。改札をふたたびくぐってホームに下りると各駅停車の西武新宿駅が発車間近だったので乗り、足もとに書物の入ったビニール袋を置いて扉際に就き、僅か一駅のあいだもメモを取った。西武立川駅に着いて改札を抜け、駅舎も出るとすぐそこのコンビニで水と、何かチョコレートの類でも買っていくことにした。それで、壁際の飲み物の棚に寄って新潟かどこかの天然水六〇〇ミリリットルと、チョコレートの区画から「紗々」を手に取り、レジに行った。三一八円を支払って退店し、そうして同じようなデザインの住宅がいくつも並んでいるなかを通ってTの家に向かった。家の前に着くと、防音室はインターフォンが聞こえないので電話してくれと言われていたので、発信した。そうすると、開けま~す、と一言応答があったので、はい、と受けて切り、戸口の前に立って、庭に生えている紅白のオシロイバナを見下ろしたり、空を見上げていくらか橙の風味の混ざりはじめた千切れ雲を見たりしているうちに、Tがやって来て扉をひらいてくれた。かたじけない、と時代掛かった言い方をしてなかに入ると、Tはこちらのもったビニール袋を見て、随分荷物があるねと言ったので、また本が……と漏らし、自己増殖してしまったよと嘆息めいて口にした。椅子を持っていくから先に上がっていてと言うので、Tを階下に残して階段を上がり、音楽室に入って皆に挨拶をした。なかに集まっているのは、T田、T谷、Kくんの三人だった。それにこちらとTを合わせて全部で五人である。当然、そう広くもない防音室は満杯といった感じだったが、Tが白い椅子を持ってきてくれたので、こちらはそれに腰掛けて水を飲んだ。そして、チョコレートを買ってきたぞと言って袋から「紗々」を出すと、Tは明快な笑顔を撒き散らして大変喜んだ。そう言えばこの集まりのあいだ、結局こちらは自分が買ってきたこのチョコレートを一つも口にしなかったが、まあ皆が味わい喜んでくれたならそれで良い。多分帰宅の時間になっても全部食い終わってはいなかったはずなので、今頃Tが一人で食べているのではないか。
それで今日集まったのは先にも記したように、ギターのレコーディングのためである。T谷がそれで新調したという例のギター、Dragonforceのハーマン・リ・モデルの品を持ってきていたので、ちょっと触らせてもらった。ネックや指板が非常に滑らかですべすべとした感触だった。音入れは終盤に差し掛かっていた。多少の話し合いをしながらT谷がその場でギターを弾いて大まかな録音をしていくのだが、トーンはともかくとしても、アレンジや弾き方が全体的に優しげな感じになっていた。この日扱った楽曲、"C"のギターは左右に分かれ、またアディショナルとして三本目の音も時に入っているのだが、基盤となるであろう左のバッキングは妙に控えめだったので、もっとがつがつと弾いても良いのではないかとこちらは思った。また、右ギターのフレーズも練られておらずいくらか単調なように思われたので、動いているわりに遊びが少ないのではないかと言ってT谷にその点問いただすと、これはまあ型だね、ここからもっと動きを入れていくことは充分あり得るとの返答があった。あくまで今回の音入れは簡易的な雛形ということになるのだろう。最後、帰る間際に音源を通して聞いた際にもT谷は、もっと自信を持って動いて弾いて良さそうだなと言っていたので、これからもっと詰められていくはずである。
これはまだギターに触りはじめる前、室に入ってすぐの頃合いだったと思うが、コンピューター前に就いていたT田がそこを離れてこちらの隣にやって来て床にしゃがみこみ、朝に交わしたLINEでの会話の続きを話しはじめた。「抱いた情感はその人独自のものであって他人とも共通とは限らないから、自分の抱いた情感が伝わるように書くというのが物書きとしての能力ということになるのかな」という疑問に対し、「伝わるように、と言うか、明晰な文章で表せるかどうか、ということになるのではないか」、「ただし、明晰だからと言って簡単かと言うと多分それは違うし、必ずしも伝わりやすいとも限らない。明晰な難解さというものもあるだろう」とこちらは返答していた。「明晰な難解さ」というのは、確かムージルの「合一」の二作を訳した岩波文庫の訳者解説で古井由吉が用いていた言葉だと思う。そのこちらの発言に対してT田が何とか言ったあと、何か訊いてきたのだが、それが正確にどんな質問だったか思い出せない。文学における文章の要諦は何か、というようなものだったような気がするが、それに対してこちらは、上にも書いたように、まず基本となるのはとにかく具体性だろうと受けた。物事の質感や様相を具体的に書く、それが出来て初めてそこから発展して、抽象的な観念を扱えたり、詩的な表現を織り混ぜたりすることが活きてくる、というようなことを言うと、T田は、ああ、じゃあ多分考えていること同じだわ、と言った。彼が言うところの「伝わるように書く」というのも、それと似たようなことらしかった。具体的な基盤がなくてふわふわとした感情ばかりが乗っている文章というのは、それは要するにJ-POPなのだとこちらは主張した。まあJ-POPと言っても広いのだけれど、つまり愛してる愛してるとまさしく馬鹿の一つ覚えのように繰り返す、最も最大公約数的な大衆歌と何の変わりもないということだ。風景も事物も具体的な場所も何もなく、曖昧模糊で、のっぺりと襞のない、矮小化された情念だけがふわふわと浮遊している、というのがここで言うところの「J-POP」の特徴だ。あまりこちらは人に何かメッセージのようなものを伝える書き方というのはよくわからないが、伝える伝えないの話で言えば、ただ単に「愛している」と言ったところで、他人にその気持ちが円滑に伝わるはずがない、ということだ。と言うか、意味内容としては伝わっても、情念そのものとしては伝達されないと言うべきかもしれない。「愛している」という言葉の内実を伝えたいのならば、敢えて迂回的に別の言葉を用いて表現するという方向もあるだろうし、あるいはこの単純な一言のみを用いるとしても、声のトーン、言い方、表情、またそれを口にするシチュエーションなどのまさしく具体的な要素が伝達には多大に影響してくるのであって、文章で言えばそれらの諸要素を揃えて背景や文脈や装飾を作り上げるのが描写の役割であるわけだ。ところがある種のポップスの歌詞というものは、メッセージや感情だけが剝き身のままぽんと投げ出されていて、それが乗る舞台設定もないし、何らかの事物も出てこない。つまり一言で言って、そこには時空がないということになるのだが、ところが、とこちらは苦笑した。そうした抽象的な歌というのがこの世の中では大いに流通するわけだよ――何故かと言えば、まさにその抽象性の故に、だ。そう言うとT田もこちらの言わんとすることをわかって、つまり、受け手が自分の状況に合わせてどのようにも想像出来るという……と漏らすので、その通りだ、とこちらは受け、しかしそれは非常に曖昧な、ふわふわとした感情の共同体なんだとこちらは言い、俺はそれには反対するね、と笑った。
T谷の録音などが進む背景で、こちらはギターを借りて――Tの家にはアコギとエレクトリックの二本があり、今日もどちらも弄らせてもらった――、例によってブルースめいたフレーズを適当に弾いて遊んでいた。Kくんも同じようにギターを弄っていたので、時折り適当にAのキーなどでブルース進行を奏でて簡易セッションを行った。
Tの部屋には小さな足置きみたいなものがあって、Kくんがその上にFujigenのエレクトリック・ギターを乗せて重心を調整すると、何故かギターはぴたりと静止して立ち、手を離しても倒れずに静かに佇んでいるのだった。そうしたことを出来るとKくんが発見し、それを面白がってT田はスマートフォンで動画に撮っていたのだが、二人から、この現象を何と描写する、と言われてこちらは困った。まず、ギターの乗った台となっている足置きのようなものを何という言葉で言い表せば良いのか、そこからして困り物であり、そもそもあの台が一体何なのか、どういう用途のものなのかもよくわからない。ちょうど椅子に座った時に足を置いて休めそうな高さなので、今は便宜的に足置きと言い表しているが、Tは途中でその上にすっくと立ち上がって背筋を伸ばしたりもしていた。まあともかくそういうことがあって、日記にどのように書かれるのかT田が楽しみにしていたようだったので、ここに手短ではあるが記しておく。
ギターが一通り完成すると、次にコーラスの検討に入るところだったのだが、もう七時を過ぎていたので、その前に食事を取ろうということになった。Tがチキンカレーを作ってくれたのだった。彼女がそれを温めに下階に行っているあいだ、各々楽器を弄っていたのだが、こちらがDeep Purpleの"Smoke On The Water"を弾き出すと、じきにKくんもT谷も乗っかって来たのでセッションが始まった。T田はキーボードを担当した。それで適当にソロを奏でたりして何周もして終わったあと、こちらはアコギを借りて、ジャズベースの真似をしてFブルースをフォービートで奏でていたのだが、そうしているうちにカレーが室外の廊下に運ばれてきて、食卓が整えられつつあった。テーブルを室内に入れる余地がないので、階段の上の踊り場のような場所で食べるのだった。Fブルースをやっていると、Fさん、食べるよ~というTの声が聞こえたので、ギターを置いて防音室を出た。白いテーブルを囲んだ一角に就き、座布団に尻を乗せる。こちらはHMさんとの会合で色々食っていてあまり腹が減っていなかったので、チキンカレーはちょっとで良いと頼んでいたのだが、食べる頃には意外と腹の感じが軽くなっていたのでこれだったらもっと貰っても良かったなと思った。しかし注文はつけず、少量のチキンカレーとサラダをあっという間に平らげた。サラダに掛けるドレッシングはキューピーのチョレギサラダのもので、これはちょうど今我が家で使っているものと同じだった。
中村佳穂を聞いたかとTに訊くと、皆で聞いたと言う。あれは素晴らしいと言うと、T谷などは、とにかく糞上手かったなと漏らしていた。ジャズ感があるよね、とこちらは言った。それはテンションコードを使っているとか、ジャズの風味が混ざっているとかということではなくて――無論、そうした面でのジャズ要素も多少は入っていると思うが――即興感があると言うか、spontaneousな感覚が濃いというような意味合いで言ったのだった。
食後、皆が食器を運びに下階に行ったあいだ、こちらは今日の戦利品である六巻の本をテーブル上に取り出して、中身を見分していた。皆が戻ってくるとそれに目を付けて、世界文学全集など多分皆に取っては結構珍しいものだろうから、興味深げに見ていた。これは一〇〇円なのだと言うと、T谷などは、一〇〇円でこれだけのものが買えるなら普通に欲しいわと言うので、古い文学全集などはわりと一〇〇円で叩き売られていることが多いと応じた。Kくんが中身をひらいて、三段組になっているのを見て、これはなかなかだね、二段はわりとあるけど、と漏らしていた。Tはサイードの『世界・テキスト・批評家』をめくったり、その帯文を口に出して読んだりして、何が書いてあるのか全然わからない……と呟いたので、まあ俺もわかんねえよとこちらは笑った。
それでそのうちにTの母親が梨を切って持ってきてくれた。これはT田が持ってきたもので、彼の住んでいる稲城市は梨が名産なのだ。評判が高いだけあって、梨は非常に瑞々しく、甘味も豊かなもので、かなり美味かった。それを食ったあと、食器はTが下階に運んでいき、残ったT田やKくんがテーブルを畳んで、その場に立て掛けた。それが滑って倒れないようにこちらの書物をその前に置いて支えにしておき、それで音楽室内に戻った。
確か食事のあと、音楽室に戻ってからのことだったと思うが、TとKくんの婚姻届の証人欄にT田とT谷が署名をするという一幕があった。今の婚姻届というものは結構洒落ていて、きらきらとしたような青い絵柄とともに、「Happy Wedding」の文字が筆記体で記され、装飾されたものだった。T田もT谷も、いきなりそれに記入して失敗してはまずいというので、コピーした練習用の紙をまず記入していた。その途中で、T田が借りていたTのボールペンが壊れたようだったので、こちらがズボンのポケットに入れていたボールペンを貸してやった。本籍地の最後の欄が番地なのか番なのかよくわからんな、というような問題もあったのだが、最終的には恙無く署名は済んだ。こちらは署名をする二人の横に立ち、腰に手を当てて見守っていたのだが、そうしていると、塾の授業感ある、などと言ってTは笑っていた。T谷が書いた文字に関しても、先生、どうですか、などと問われるので、「6」の字に勢いがないね、などと適当なことを言ったのだが、正式な用紙に書かれたT谷の「6」は、丸の部分が潰れ気味になって練習の時よりもさらに勢いがなくなっていた。
その後、Tがコーラスを大まかに加えた"C"の音源を皆で聞いて、ここはこれで良いんじゃないか、ここはいらないんじゃないか、などと話し合い、添削していった。それが終わりきらないうち、一〇時になる前だったかと思うが、T谷は帰っていった。皆は下階まで見送りに行ったが、こちらは何故か防音室に一人残って、アコギを鳴らしてOasisの"Married With Children"を弾き語っていると、TとKくんが先に戻ってきて、歌っているこちらを見て笑っていた。こちらはそのまま最後まで歌ったが、終盤、Tがこちらにスマートフォンを向けて動画を撮影していたようだった。それからT田も戻ってきて、またコーラスの検討に入った。こちらは2Bの部分にコーラスが欲しいと主張し、要検討ということになったが、その音決めをしているうちに時間が過ぎて、終わった頃には一〇時半前になっていたのではなかったか。さすがにそろそろ帰ろうというわけで、防音室をあとにし、荷物を持って皆で下階に下りた。下りながらT田がこちらに日記の話をして、一〇日の記事を読むと、本当にこいつ理解力と記憶力が素晴らしいなって思うよと言ってくれたので、お褒めに預かり光栄だ、と返しながら階段を踏んだ。マジで議事録になってるよ、とT田は続けた。下階に着くとTの母君がリビングから出てきて顔を見せてくれたので、ありがとうございましたと礼を言い、靴を履きながらこちらはT田に、一〇日って何の日だっけ、と訊くと、電話をした日だと言うので、ああ、猥談をした日だなと笑いながら外に出た。あの日はT田が物語/小説の対立構図についていくらかのこだわりを見せ、そのあたりはこちらの彼がどのような点にこだわっているのかよく理解できなかったのだが、T田本人からしても自分のそのこだわりの内実を上手く説明できなかったという実感があったと言い、そうした部分はやっぱり伝わっていないんだなとわかった、それに対して、自分が比較的良く伝えられたと思う部分の内容は、誤解なく記述されており、良くまとまっているとの評価を彼は下してくれた。
満月が家屋根に近いところにぽっかりと浮かんでいた。宮沢賢治の表現を借用するならば、スプーンで掬って飲めそうな明るい黄金色の、中秋の名月だった。西武立川駅までの道のりのあいだ、ふたたびT田と物語/小説構図についての話をしたが、あまり整理された話し合いではなかったし、どんな会話だったか定かには覚えていない。駅に着いて改札に掛かると、もう電車が二、三分で出るところだったため、Tは改札の横に立って止まらず行ってくれと言うので、三人で改札を抜けて、ありがとうと手を挙げながらホームに向かった。ホームへの階段、あるいはエスカレーターだったかもしれないが、そちらに向かって折れる際に振り向き、ふたたび手を挙げてTに別れを告げた。そうして下りたホームで、横のT田に、今日もうちに来るかと誘うと、じゃあ行こうかと一度は軽く受けた彼だったが、しばらくしてから、でも届け物があるんだよなと言い出した。同人誌を頼んでおり、それが翌日の午前中に届く予定になっているらしい。それでひとまずその話は措いておいてやって来た電車に乗り、座席に三人並んで腰掛け、電車が発車してちょっとするとKくんが、Fさんは増税前に何か買うものあるのと尋ねてきた。向かいの壁に設置された増税前セールか何かの広告を見ての問いらしかった。こちらは、いやあ、本ぐらいしかないなあ、とすぐに答え、それにKくんは何とか答えてまたしばらく会話は途切れたのだが、その次にKくんは、今日の一日を俳句で表すとすると、という問いを投げかけてきた。その答えとなる句を考えながら車両から降り、拝島駅のエスカレーターだか階段だかを上りながら、最初は名月や、にしようと思うとKくんに言った。そうして改札を抜け、JR線の方の改札に移ってなかに入り、ホームに下りたところで、しかしあとが続かないので、こちらは目を閉じ、両眉を上げてすっとぼけたような顔をしながら首を振ると、出た、その顔、と二人は笑った。ここでT田にもう一度誘いを掛けたのだが、どこかに電話をしていたT田は、明日は母親も午前中家にいないようなので、今日は大人しく帰るわと言った。それを了承し、まもなくそれぞれの番線の電車がほとんど同時にやって来たので、いつものごとくKくんと握手を交わし、じゃあな、じゃあな、と言い合って別れた。こちらは青梅行きに乗り、携帯を取り出してかちかちとこの日のことをメモに取った。
青梅に着くと、奥多摩行きは確かもう来ていたのではなかったか? ちょうどすぐに発車だったような気がする。最寄り駅に至り、自販機でコーラを買って飲んだような気がするのだが、よく思い出せない。いや、確かに飲んだのだ。と言うのは、ベンチに就いて携帯を操作しながらコーラを飲んでいるあいだに、回送電車がやって来たのだが、その際に昼間に聞かれるのと同じ女性の声で、黄色い線の内側までお下がりください、というアナウンスが掛かったのに、自分以外には駅に人っ子一人いないこのような時間にも変わらずアナウンスが掛かるのだ、ということは、無人の駅に誰にも聞かれることなくこのアナウンスが響いている時もあるのだろうなと、そのことが何やら不思議と印象付けられたのを覚えているからだ。自分の存在しない場所で、自分の存在しない時にも世界が確かに着々と動いているということの確かな証拠を得たような気分になったのだった。その後、駅を抜け、涼しい夜道を辿って家に帰った。
帰り着いたのは一一時半頃だったはずだ。下階に戻り、服を脱いでコンピューターに向かい、インターネットを回ったと思う。そのあいだに階上の父親が、また酒を飲んだらしくテレビを見ながら何やら大きな声を出しているのに、うるせえなと思った記憶がある。その後風呂に行って戻ってくると、疲労した状態で長くなることが必定である日記に取り掛かるのが嫌だったので、Twitterで話し相手を募集したのだが、この夜は誰も引っ掛からなかったはずだ。それで待っているあいだに短歌を作って夜を更かした。
月の夜に胸いっぱいの愛を撒く君の乳房に呑まれるほどに
手のなかに小さな青の風招き我は散りなむ刹那の空へ
一粒の雨を絵筆に閉じ込めて都の君に秋を送ろう
黄身のない卵のように明け透けなあなたの笑顔忘れぬように
逝く人を悲しむならばこの声を緋色の空に灯して泣こう
哭くほどに澄んだ空から垂れる死を零さず拾えそれが人生
緑風が宇宙[そら]の果てから吹く夜に君の吐息の冷たさを知る
酔い疲れ人の儚さ悟る朝公衆便所の落書きを見て
君の夜に私はいるの? 夜明けには歌に吸われて消えていきたい
魂が高層ビルから身投げして千々に砕けて詩華を描く
日を綴る愚者の昨日が砂と化し零れ行くのが許せないから
鉄の靴で堕ちた太陽踏みつけて夜の果てまで火を届けよう
四畳半に涙を落として夜もすがらジンジャーエールの味もわからず
その後二時四〇分に至ってからベッドに移って牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』を読みはじめ、この日は意識を失うことなく三〇分少々読んだが、そこでさすがに目や肉体が疲労してきたのでここまでとして、明かりを消して床に就いた。
・作文
9:16 - 9:42 = 26分
・読書
8:47 - 8:57 = 10分
9:52 - 10:31 = 39分
26:42 - 27:17 = 35分
計: 1時間24分
- 「at-oyr」: 2019-07-16「骨と肌と目」; 2019-07-17「まあええか」; 2019-07-18「ツボる」; 2019-07-19「スタンダード・ナンバー」; 2019-07-20「観能」
- 「加速主義と日本的身体 —柄谷行人から出発して」(https://daisippai.hatenablog.com/entry/2019/06/14/200000)
- 牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』: 234 - 248
・睡眠
3:15 - 8:00 = 4時間45分
・音楽
- Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』
- Suchmos『THE ASHTRAY』
- SIRUP『SIRUP EP』